薔薇の一季節

18の時書いたのが発見されたので載せます。当時はいまとちがい耽美が好きでしたが、淋しさの質と量は30前のいまも変わらないのが悲しいですね。

 1
 もの憂げに、重々しく頭を垂れ、さながらに夜の闇の如き黒髪をすべらせ、憂鬱なるさまに眼を伏せ、避暑にきていた春子は、ホテルのほの暗い一室で、モオツァルトの鎮魂歌に耳をかたむけていると、ふいに、
「あ」
 と云う、かよわいこえを上げた。
 その囁くようなこえは、鎮魂歌の、憂いに充ちた音楽の液にひたされた部屋の空気にすいこまれ、春子は、いまのはいったいなんだったのかしらと訝ったが、またふたたび、深遠な憂愁の世界に気をとられるのだった。
 元来、春子にはこのような違和感をおぼえることがよくあった。然しその違和感は、普段感じている違和感とは逆の違和感で、それと云うのは、さきほどの違和感は、なにか、自らの血と世界が合致したような、ある種ふつうの感覚であったのだったのだが、ふだんの違和感は、これとは逆なのである。世界と自分が乖離したような、微妙なずれ、そのような孤独な違和感を、ふだん感じることが多いのである。
 いったい、この違和感とはなんなのだろうと、しばしば思われる。春子は思索し、そうして、すべては自分の我が侭で、自分は世界にたいする注文がひとよりも可也多く、それが充たされないことによる苛立ちが、それの正体なのではないか、という些か厳しい結論に辿りついた。然しそれは間違っているのだ、春子にもじつはそれがよく解っている。春子のように美しく、聡明な少女の感ずるそれが、そのようなものである筈がない。だいいち、その説明が違和感を誘っているとしても、すべてを説明することができない。春子の様に頭のいい人間が、それに気づかぬ筈はないのである。
春子は、オーディオの電源をおろし、ベッドに這入ると、旅のつかれと、ふだん感じている違和感の疲弊が、ほそい糸のように春子を眠りの世界へ引き入れ、春子も、その心地好い感覚に身をまかせ、すぐに床に就いた。不眠症の気のある彼女にとって、ひさびさの快眠であった。…

 朝、父とふたりきりで、ホテルのレストランで朝食をとっていると、父は心配したようすで春子に話し掛けた。
「春子、なんだか顔色が悪いね」
「そうかしら?」
「ああ、せっかく疲れていると思って避暑に来たのに、そんな暗いかおをされちゃあ心配だね」
「だいじょうぶよ。私、この顔がデフォルトだわ」
 そんな春子の自虐めいた発言に、織部社長の沈痛はより深くなる。
 春子は暗い子どもだった。父の秀れた教育の甲斐あり、ひと見知りをせず、利発で、だれとでも気兼ねなく話すことのできる、社交的な子に育った。どんなパーティに連れだしても、織部社長はなんら恥ずかしまない。だが、この十五歳の少女のかおは、ひとと話していないときはしばしば翳り、伏し目がちになり、病んだ様な憂いをみせるのである。そんな暗い性質が、春子の華やかな美貌と相俟って、多くの少年たちの琴線にふれる様で、求愛されたことは数知れないのであるが。
「今日、テニスをしないか」
「いいわ。でもお父さま、私、強くってよ」
「構いはしないさ。私だって中学時代、全国大会に出場したことがあるんだ。小娘なんかに負ける筈がないさ」

 織部家は、室町時代からつづく武士の家系である。戦後、織部家はGHQにより総ての土地を喪ったが、織部社長の祖父にあたる、織部慶介は、あふれる才智に依って事業を展開し、現在まで至る、広大な織部グループを構築した。織部社長もやり手であり、三十八の若さでグループ内の複数の大会社の経営を任されている。兄弟のなかでももっとも卓抜な人物として噂され、次期会長候補としても名高い。
 春子には、母親が居ない。春子の母親は、父が二十二歳のときに十七歳で結婚したが、春子が生まれてすぐに発狂し、ひとりで織部家の財産を一部持ち去って、姿をくらましたのである。気高い精神をもつ織部一族たちは、はじめから春子の母親に対する卑しさに感づいていて、ずっと結婚に反対していたので、それ見たことかという心持ちであった。
 織部社長は、高校から大学時代にかけて不良のようなものをやっていて、十七歳の貧乏な家の出の少女と恋に落ちたのであるが、いまでは、それも若気の至りだったと猛省している。然し、まだ嬰児であった春子をひとり残されたことで、父親として、そして織部一族としての自覚をもつようになり、現在の輝かしい経歴に至るのだから、それも無駄ではなかったのかもしれない。兄弟のなかでただひとり名門大学を出ていないのに、そのなかで抜きんでた実績を示したことは、彼の誇りである。
 さて、春子と父親は、ホテルの敷地内にあるテニス場へと向かった。高校時代から喫煙の癖がある織部社長は、すぐに体力を消耗させ、息を切らしながらベンチに座り込んだ。
「だらしないわね」
 春子の勝ち誇った笑顔が、夏の烈しい日差しを浴びて、きらめいている。清々しい汗が流れる紅潮した頬は、燃ゆるように煌々としている。小鳥らは歌い、青空はふれればきんと美しい音楽を奏でそうなくらいに澄んでいて、森は鮮やかな緑いろを示している。涼やかな風により、テニス場の砂が立ち、そのたびに燦爛としている。その、陽光によって煌めきたつ景色全体が、強烈な幸福の眩暈のように、織部社長にはおもわれた。
 こんな美しい娘も、いつかは恋をして、結婚し、自分のもとから離れていくのだと考えると、感慨深いものが織部社長の脳裏に走る。彼は、十五歳の少女がはしゃいでいる姿を、じっと見つめていた。


そう云った幸福な場に、ひとりの青年が現れたのだ。その刹那、春子は遠目にしかその青年をみることができなかったが、なにかしら鋭い、甘美なものと痛みとが春子の内部を駆け巡った。それは彼の引き締まった、薫り高い躰つきゆえだろうか? それとも、なにか野蛮な、あたかも大型の獣物のような、屹然たる雰囲気ゆえであろうか? 春子にはそれが判らなかった、のみならず、この甘美さと痛みの正体さえも判らなかった。
「こんにちは」
ぴんと張りつめた日輪の旗を連想させる、はきはきと明瞭な、それでいて鋭いこえである。
「ああ、好かった。やっぱり誰かいたんだ。それがこんなに美しいお嬢さんだとは、期待していなかったのだけれど」
「なにかしら?」
春子のこえは、溢れる激情に震えていた。彼の、どぎつい屈強な印象が、彼女の胸を烈しく打った。「お父さまですか?」
青年は、織部社長に話し掛けた。社長には、この快活な青年に好印象を持ちながらも、なにかいやな予感がしていた。
「いや、僕は高校三年生の、中道徹と云うんですが、お嬢さんとお手合わせ願えませんか? 部活が引けて、ひとりで旅行に来たんですが、如何せん、テニスをするにも相手がいなくて」
「いいですよ」
急ぐように春子は言った。この逞しい青年を、絶対に逃すことがないように、というような焦燥が感じられた。
「勿論だ」
社長も、先ほどの予感はすぐに引け、明瞭としたこえでいった。
「僕、強いですよ」
「あら、テニス部だったのかしら?」
「陸上部です」
ふたりは手合わせをしたが、青年の腕前の凄いことで、中学のころに県大会出場をした春子の手によっても彼には太刀打ちできず、春子の青年への憧れはいっそう深まった。
きらめく砂の立つなかで、明るい日差しの下、美しく若い男女がスポーツをして清冽な汗を流し、お互いの仲を深めている。織部社長の眼にも、それはいいしれぬ爽やかな印象で映った。
「疲れたでしょう?」
「あら、そんなことなくってよ」
「強がっちゃって。休憩しましょう」
「ええ」
ふたりは父の横に座り込み、愉しそうに談義しだした。春子は高校一年生で、お嬢さまばかりが通う、東京にある名門の女子高に通っているのであるが、そんな春子にとって、地方の公立高校に通う、庶民の彼と話すことは新鮮であり、談話は非常におもしろかった。そんな若きふたりを、些かの嫉妬と憧憬をもって、この中年の社長はみている。
「そうか、春子さんはお嬢さまだったのか。どうりで美しく、上品なわけだ」
「やめてくださる? 私、そんなんじゃなくってよ」
徹は話がおもしろく、会話は次々と興味深い話題へとうつり、しばしば彼の明快な冗談がそれを色付け、春子はその愉しさに恍惚となった。あまやかな感傷が、彼女の心を駆け抜ける。
「お父さま、私たち、ちょっとふたりで散歩してくるわ」
「ああ、わかった」
寂寥の感が、織部社長の内部に走ったが、それほど嫌な気持ちはしない。
ふたりは森のなかを歩いた。森の澄んだ空気は心地好くふたりの間を流れ、会話は途切れることがない。然し彼女は、じっと、徹の横顔をみつめていた。愚直なまでにまっすぐに伸びる秀でた鼻、野蛮なひかりで輝く、戦士のように猛々しい眼つき、強い意志で閉じられたような薄い唇。この豪然たる躰に包まれ、この野蛮な美しいかおが近づき、薄い唇が自分の口元に押しつけられたら、どんなに幸福だろうと春子は想像した。
春子は見出した、彼の強靭な筋肉におおわれた背中に、木々の枝さきが、巨大な翼を形成しているのを。それは美しく整い、いくつかの精緻な陰をつくっていて、山脈のように雄大な翼であった。それが、彼の筋力によってはばたけば、どんなに遠くの場所へでも、彼の肉体をはこぶだろうと春子には思われた。

「随分遅かったな」
既にホテルのなかで待っていた父親は、心配そうにそう言った。
「ごめんなさい。会話が弾んじゃって」
あの誠実そうな青年に限って、そんなことはあるまいとみずからにいいきかせていたが、やはり父親として、悩ましいものがある。
「じゃあ、私、部屋に戻るわね」
「ああ」
ひとりきりの部屋に戻ると、重々しい、しかし甘い懊悩に襲われ、烈しい激情が春子の内部をふたたび駆け巡り、豪奢なベッドに横たわった。
「私は恋をしてしまったんだわ」
だれにいうでもなく、春子はそう呟いた。
「あの青年に。中道徹という、悲劇的な運命が字面の隅々にまでゆきわたっているような名前をもつ、あの男らしい青年に」
春子はそれを経験するまで、初恋とは、うまれたての純白をくちにふくんだような心もちにさせるような、なにか甘い薫りを放つもやのように想っていたが、それは実に鋭利な形状をしていて、春子の繊細な心臓を貫き、春子は強烈な痛みに身を折った。甘さと痛みとが、交互に春子の胸を尖った刃物で刺すように去来する。
窓からみえる、黄昏の景色は、健康な夏の景色を、紅みがかって映しだし、景色全体が、なにか茫然とした、病んだようないろに彩られ、春子は、その破滅的な雰囲気に、慄然とした。
「この恋は、私をどんな場所へと連れて行くのだろう」
春子はそう訝り、徹のあの、獣のような強さを有した雰囲気を想像した。その霞のようにぼやけた夢想のなかで、徹の印象は、不思議に明瞭としていた。あの、謎めいたところの一切ない、つぶさに想起させられる、確固とした印象が、春子のような少女には奇妙だった。彼が欲しい。彼に愛されたい。彼のあの鋭いこえで愛の言葉をきき、あの逞しい躰で抱擁を受けたい。彼になりたい。そうだ、春子は彼になりたかった。これは奇妙な願望であろうか? 愛する男のようになりたいという欲求が、いったい、他の少女たちの恋と、なにか違うだろうか?


翌日の朝、春子はいつもよりも憂う表情をしていて、それは彼女の幼い清楚な印象と相俟って、一種なまめかしくみえ、レストランで朝食をとっているときも、若い男たちは、その熱い視線を十五歳の少女へとそそいでいる。織部社長だけが、純粋に気がかりな面持ちである。春子は恋をしたんだ。父はそう悟った。あの青年への些かの憎悪と、あの明らかな好印象とが交差し、複雑な心もちへと社長を駆った。
この小説的な出逢いは、春子の心を耽溺にもにつかわしい感傷にみちびいていて、また彼女のように些か夢みがちなところのある少女には、彼に会えない時間がより恋を燃え上がらせる助けを果たすのだった。少女の夢想のなかで、青年の観念は緻密に磨かれ、磨かれるほどに真鍮の如く高貴な輝きを放つようになり、その観念はより美しさを所有するようになるのである。すべては春子の夢想に委ねられているのだ。然しこのような恋愛は、余人のそれと、程度の差こそあれ、なんらたがうところはない筈である。
「徹さんは、このホテルに泊まっているのかしら?」
「そうだろう。この辺にはここしか泊まる場所はない筈だ。尤も、部屋はビジネスクラスだろうがね」
このような皮肉をいわざるを得ない父の感情を、春子は汲みとることができなかったが、彼女のほうもいちいちそれに怒るような下品な女ではない。地方の中流階級出身の、十七歳のスポーツマン。この、普通ならなんら憐みの目をむけられる必要のない彼の身分に、上流階級の春子は、なにか悲哀のようなものがともなった感情をむけることを禁じえなかった。この一種の尊大さは、春子の性格の悪さを説明するわけではない。しかたがないのだ、お嬢さまの夢想は、あの庶民の出の美しい青年を、なにか悲劇的な役に立たせてしまうのだから。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
仰ぐと、中道徹が太陽さながらの笑みを浮べ、春子をみている。硝子の壁から朝日が差し、彼のかおを明るくかがやかせている。その、優しげにほそめられているが、あたかも肉食獣のような鋭い眼差しに、春子は恍惚となる。
「ええ、勿論よ」
織部社長も、沈痛な面持ちであったが、断る理由がみつからず、重々しく頷く。
「ありがとうございます。いや、ひとり旅って初めてだけど、一寸寂しいものですね。春子さんとお父さまに会えて、本当に好かった」
私はおまえのお父さんではない。そんなことばが喉まで出かかったが、咀嚼したビーフステーキと伴にのみ込んだ。徹はずうずうしくも春子の横にすわり、勝手に話しだした。
「いや、部活を引退して、単発のバイト代を貯めて来たんですけどね、こういう長閑な場所はいいですね。心が洗われる」
「ご自分で稼いでらしたの? 偉いわね」
お嬢さまのこのことばは決してお世辞などではなく、本当の感嘆と、憐みの情が込められていた。
「そういえば、大学受験はしないのかしら? いま、大事な時期だとおもわれるけれど」
「もう推薦で決まっているんですよ。早稲田大学に、むこうから声をかけられていて」
「まあ、すごいわ」
庶民の家の出の青年が、みずからの体力によって、いわゆる、好い大学に入学が決まっているという。このけなげな努力を、春子はこころから敬った。
「と云うことは、可也陸上競技で実績をのこしたのかしら?」
「一応、四百メートルでは全国大会で決勝にはのこりました。百メートルでは、予選で落ちちゃいましたけどね」
「本当にすごいわ」
織部社長は、春子のとけたような甘い表情と、徹の自信満々の顔つきを交互にみていた。
「春子さん、きょうは海にいきませんか?」
「勿論いいわ。お父さま、よろしいわよね?」
「ああ」
結局、父は終始険しい顔つきであった。

真夏の海岸は、ひとつの光源さながらに輝かしい。砂浜は広大無辺にひろびろとしていて、強烈な日差しに煌めいている。南国を連想させるヤシの木が風に揺れ、砂がひかりながら立つ。空々漠々にどこまでもつづく海は深い藍いろで、ほうぼうに昼にかがやく無数の星がまたたき、赫っている。太陽は頭上に燦々とひかりかがやいている。空は青く、雲ひとつない。なかでも、汗ばんだ彼の精悍な顔つきがなんにもまして絢爛としてみえ、春子はその美しい横顔をじっとみつめていた。こんな真夏の海で、悲劇的な恋をしているという自分の運命が、なにかいじらしくもおもわれた。
「綺麗ですね」
「ええ」
「むこうの巌のところに行ってみましょう。あそこで、海を眺めたい」
野性でそだったようなかおをして、なんて浪漫的なことをかんがえるのだろう。春子はその好ましいへだたりに、いっそう徹が好きになった。
「危ないから気をつけて」
青年の、日に焼けたおおきな手が春子のほうへとのばされる。その熱い手のひらを、春子はぎゅっとにぎった。心臓が早鐘を打つ。巌の集合はすきまがほとんどなく、転んでもそれほど危険はなかったが、春子にはその気遣いと、徹の手に触れられることがうれしかった。
…巌のさきにふたりでたつ。たたずんだふたりは、さながらに海を守護する彫刻のようである。ふたりはいまだ手をにぎりあったままである。青年が春子のほうへと躰をむけた。春子も青年のほうへ脚をくみかえる。然し青年には、春子の右の頬しかみえない。その幸福に浮きだったかおをみせることが恥ずかしいのである。青年は手をはずし、そっと両手で春子の頬にふれた。熱を放つ、春子のういういしい、燃ゆる頬。青年はやさしく少女のかおをみずからのほうへむけさせた。春子は伏し目でそっぽをむいている。波が立った。巌に砕け、白い飛沫があがる。ふたりの姿がみえなくなった。飛沫が引けた。ふたりの青年と少女は、おたがいの美しいかおを接近してみつめあっている。波の音と、絵画のようにかがやかしい夏の海の光景。青年の背景で、灼熱の空気が巨大な翼を象っている。
春子は、みずからの唇にのこるやわらかな感触に、なににも代えがたい、幸福のしるしをみた。


青年と別れ、春子は部屋へもどった。手でふれると、まだ、頬が燃えている。
青年と口づけした刹那、春子はなにか自分と徹が一体化したような錯覚をおぼえていて、これは春子にとって、非常に喜ばしいことであった。
「あの青年は、あの巨大な純白の翼でもって、私をめくるめく素晴らしい世界へと連れていってくれる」
春子はそう思わずにはいられなかった。
「そうすれば、私のこの違和感も消え、幸福がむこうから舞い降りてくるに違いない」
少女はベッドに横たわり、枕にかおをぎゅっと圧しつけ、そうして、なぜかみずからの意思と関係なく流れる涙を、顔をふるふると揺らして、その白い布でぬいた。
「どうして涙が流れるのだろう?」
そう春子は訝った。
「幸福な筈なのに。あの青年は、私を愛している筈なのに」
刹那、烈しい感情が肉体の底から湧きあがり、みるみるうちに溢れ、春子はその強烈な痛みに身を折り、嗚咽を漏らして咽び泣いた。彼はきっと自分をうけいれてくれない。自分は彼にはなれない。あの野蛮でまっすぐな観念に、自分は拒絶されている。拒まれているのだ。それは、これまで感じていた違和感となんら違わない。それが、この幼い少女には、初めからわかっていたのだ。
あの、純白の美しい翼。天使がもっているように繊細で、雄大な翼。あの翼は、きっと青年を幸福へとみちびくだろう。どんなに遠い場所へでも、たとえ巴里へだって、月へだって彼を連れていくだろう。然し、自分はその横にはいない。自分は、彼のとなりで飛ぶことができない。美貌、財産、才能、すべてをほしいままにしていた筈の春子には、一番手にいれたいものが手にはいらないのだ。自分は、彼には、絶対になれないのだ。

「きっと手紙を書いてね?」
「勿論だよ」
「私、東京に住んでいるから、あなたが上京したら、またいっしょに旅行に行きましょうね? お買い物もしましょうね? 私が東京を案内するわ。たくさんの時間を、一緒に過ごしましょうね?」
「わかったよ」
「それで、また今年中にも会いましょう? 今度は、秋なんかどうかしら? ふたりで紅葉をみるの。素敵だと思わない?」
「そうだね」
春子のこえはふるえていた。自分が、青年から愛されていないのが解っていたから。
「きっとよ? 絶対に手紙を書いて。私の住所を書いた紙、もっているわよね?」
「もってるさ」
青年は、やさしい、それゆえに奥にある感情を読みとれない顔つきで、答えていた。
「じゃあ、電車が来た。また会おう」
悲劇の美青年、徹が、電車にはいった。席にすわり、春子に手をふる。辛そうな表情はいっさいない。春子には、その意味がわかっている。いけないとおもいつつも、涙が勝手にこぼれる。
「きっとよ! きっと手紙を書いてねー!」
青年は、にこにこしながら手をふっている。この悲劇のヒロインは泣いているのに、呑気なものだった。
「さようならー! 絶対にまた会いましょうねー!」
青年の姿が完全にみえなくなった。これでもう彼には会えないことが本能ではわかっていた、然し希望をもたざるを得なかった。


拝啓
きょう、私の家の庭にある花園に、おびただしい深紅の薔薇の花が咲きました。さながらに悲哀のようなものが感じられるくらいの紅さが、私の目に、胸に、観念のように、いつまでも残りました。その、こぼれおちる鮮血の如き紅いろは、私に、貴方との夏を想起させます。あの夏は、私をまばゆいばかりの初恋へ連れていき、そうして、その悲劇の英雄は、ほかでもない、貴方でした。
どうして手紙を書いてくれないのかしら、という我が侭な便りではないことをご理解ください。恋愛と云うものは、本来自分本位なもので、私は、貴方が欲しいと思っている、貴方になりたいと思っている、然しそのような希いは我が侭であり、貴方にそのおつもりがなければ、この便りを無視していただいても、それは仕方がないことで、私自身もそれでよいと解っているのです。
然るに、私はこれを書いている、どうしてと云うのは、愚かな問いでしょう、私は未だ、貴方を愛しているのです、唯、それだけなのです。
いったい、私には、世界にたいしてなにか違和感のような、自分と外界が乖離したような感覚を、ずっと持ち歩いていて、それがなにかは解らないのだけれども、それは、世界が私を拒絶しているという、孤独な苦しみに、私を導きました。私は、この苦しみに充ちた、黒々とした血液にぬかるんだ世界を歩くのが、怖いのです。どうしても、怖いのです。私は、強さがほしかった。どんな困難も破壊しつくし、壁を乗り越え、如何なるときも屹然として、ある種野蛮なまでの強さが、ほしかった。そうすれば、私はこの奇怪な世界を、歩くことができるだろうと思っていました。
そんなときに、貴方に出逢いました。貴方は、はじめから、その、明瞭な、不信なところの一切ない、確固とした印象をもっていて、それは別れるまで変わらず、私には、それが甚だしく羨ましかった。貴方ならば、どんなに幸福のない世界でも、きっと、強く、逞しく生きることができるだろう、そして、その貴方の背中にわだかまる、清潔な純白の、精緻にととのった、巨大な翼が、貴方をきっと幸福へと連れ込むだろう、そういう印象を持ちました。
徹さん。
私は、誘拐されたいのです。この、惨憺たる世の中から、この、誤った世界への認識、熱に折れ曲がった鉄さながらの歪んだ思考回路から、逃げ出したいのです。高貴と野蛮を混在させた、荒々しくも美しい観念に、ぶっきらぼうに、そして乱暴に、誘拐されたいのです。私は、貴方に誘拐されたいのです。
徹さん。
私は孤独です、暗い子どもです、それゆえに、私には友達がいません。外界を軽蔑している、そのくせ他者の評価ばかり気にしていて、自分が本当にやりたいことなんか絶対に表に出せない、本当の自分を出せない、でも、本当の自分ってなに? それは、単なる幼児の我が侭ではないかしら? でも、頭の悪い私には判らない。苦しい。生きるのが苦しい。この世界で、悠々と、なにも考えずに歩き続けられているひとが羨ましい、この鮮血でぬかるんだ路を、きっと前を見て歩いていて、そのぬかるみにすべって転んでも、その哀しい血液に気がつかず、けたたましい笑い声をあげて、また立ちあがって歩き続けられるひとが羨ましい、私には、かれらの笑いが、世界の上げる、断末魔の叫びの如く聞こえるのです。
徹さん。
私は、唯弱いのです。弱いということは、優しいということと云う言葉なんて、井戸の底の暗闇に落ちちゃえばいい、弱いということは、唯弱いということなのです。結局、私は、自分が弱いから、可哀想なものが好きなだけなのです。だから、世界の流す血液を凝視めてしまうだけなのです。そうすれば、自分が上になれるから。私のことを、優しい、聡明と言っていただける学友や、社交界で会う、地位の高い方々がいらっしゃいます。でもそんなわけはない私のように卑劣で、脆弱で、醜い子どもが、いったい、どこにいるのでしょうか?
徹さん。
私を、貴方のいる場所へと連れてってください。その筋肉に引き締まった逞しい腕で、私を乱暴に抱き、そうして、このように卑怯な私を、誘拐してください。私には、まだ幸福が、雨のように自動的に降ってくると信じられるのです。
徹さん。
白馬に乗った王子が、いつか迎えに来てくれるという、中学のころの少女たちの夢を、私は嗤っていたものだったけれど、じつは、私も同じなんです。自分が、一歩を踏み出すのが厭なんです。怖いんです。嗤われるのが、軽蔑されるのが、損をするのが、怖いんです。
徹さん。
貴方になりたいのです。貴方のように、美しく、猛々しく生きたいのです。その、決意に充ちた、強い気持ちのこもった眼差しで、世界を眺め、そして、そこではじめて私は、路を歩くことができるのです。
徹さん。
いまでも、貴方を想うと、私の頬は燃えるのです。あの夏の熱が、ふたたび蘇るのです。
徹さん。
私は、あなたを、まだ、愛しています。
                        敬具

春子は、この哀しい手紙を、どぎまぎしながらポストにいれた。無論、いつまで経っても、春子が高校二年生になっても、返事は来なかった。…

薔薇の一季節

薔薇の一季節

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-19

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