物理的手法
ある二人の話
「息子は引きこもりなんです。
中学2年生になってから、ある時学校に行きたくないと言い出し始めまして・・・。」
母親はやつれたような顔で語る。
男は偶然知ったこの女性の話が始まると少しホッとした。
出来れば片手にコーヒーでも携えたい所だ。
「息子はいじめにあっていたのでしょう。
その時までは元気に学校に向かっていたのに急に様子が変わってしまって・・・。
いえ、それらしいサインはもっと前からあったのかもしれません。
自分の鈍感さが嫌になりますよ。」
苦笑いをする女性の顔は、自分のそういう抜けた所はもう諦めてしまったように見えた。
男はその女性にどう声をかけていいか逡巡する。
「大きな摩擦が働いたのでしょう。
物体は・・・、運動しているときには永久にその運動を続けようとします。
刺激を求める人の心も同様です。
友人と遊ぼうとしたり、何か美味しいものを食べたりと・・・。
活力がある限りどんなに小さかろうが大きかろうが何かを求めるものです。
ですが、一度静止してしまうと外から力が作用しない限りやはり静止の状態を続けようとするのです。
息子さんの心はいじめという摩擦によって静止してしまったのでしょう。」
我ながら解説しかできない言葉に呆れてしまう。
他にフォローする言葉はあっただろうに。
けれども女性は私の話を聞いてくれていた。
「あの状態の息子は梃子でも動かなかったです。
きっと部屋から出ようにも自分では動けなかったのでしょう。
いえ、そもそも部屋から出る選択肢は頭になかったんでしょうね。
外からの力というのは、私が息子を部屋から引っ張り出そうとしたのもそれに入りますか?」
母親は男の目をまっすぐに見て質問した。
そこに自分が求める答えがあるのか確認するように。
「もちろんそれも外からの力に入ります。
けれども用心してください。
外からの力に対してきっと息子さんの心はより内側に引っ張られるかもしれません。
それも無理やりであればなおさら・・・です。
心が左右から強く引っ張られればどのような形になってしまうのか、分かりますか?」
母親は得心を得た顔をした。
「息子は癇癪を起し、より部屋から出なくなりました。
あなたの言う通り、息子の心は歪な形になってしまったのかもしれません。
そのあとの私は息子とどう接していいのか分からなくなりました。
一度だけ声を掛けましたが、何も返事がない時に何かが終わってしまったように感じたんです。
・・・そこからは私の中で長い時間でした。
人って同じような日々が続くと、脳が飽きてしまうのかあっという間に時間が過ぎたように感じるはずですよね?
けれども私にとって、息子がずっと部屋にいる日々はとてもとても長く感じました。
いつこの日々は終わるのだろうかと何度も何度も思いました。」
男はそこで話を終えてほしくないと願う。
少しばかり棘があるかもしれないが、質問せざるを得ない。
「その・・・転校とか考えは出ませんでしたか?
静止したものを動かすには、やはり外からの力に頼らざるを得ないでしょう。
学校を変えれば、人も変わり、環境も変わります。
その環境が息子さんを動かす力になったのではないでしょうか?」
母親は少し微笑んだ。
「ここまで話を聞いてくださりありがとうございます。
ごめんなさい、内容が内容だけに辛い思いをさせたでしょう?」
男は気が焦る。
「いえ、そんなことはありません。
所帯を持たない身ですが、この年になると母親に苦労をかけたもんだと思うこともあります。
あなたの話を聞いてそういった母の気持ちをより実感することができます。」
母親はキョトンとしたがすぐにまた微笑んだ。
「あなたの母親は立派な息子さんを育てましたね。
・・・・・・転校したんですよ。
それであなたの言う通りに環境の変化が息子の生き方を変えました。
遊んでくれる友人が出来たんですよ。」
男は心臓の鼓動が徐々に治まっていくのを感じた。
「お母さんの選択は正しかったのですね。
良い友人が現れ、今まで辛いことを味わった分、楽しい思いが人並み以上に出来たことと思います。
ただし、人の心は小説のハッピーエンドのお話のようにきれいな話一色ではないでしょう。
物体と同様に、心も静止から動き出し始める時がもっとも摩擦の力が働くものです。
部屋から出る時がお二人の最大の戦いだったかと・・・。
そこを過ぎれば下降しますが、それでもやはり運動しながらでも摩擦は働きます。
健康体であっても何かをするのに摩擦が働いてる実感があるものですから。
まぁ・・・、今の私のように仕事を面倒くさがったりだとか。
その間にお母さんも苦労されたと思います。
立ち上がった息子さんときっかけを作った友人、それに一緒に過ごしたお母さんも立派な行いをしましたね。
」
「確かに辛い気持ちはありました。
けれど、以前の時間が長く感じられた時に比べれば、あまり大したことはないように感じました。
だって、息子が笑顔で学校から帰ってくるんですもの。」
男はもう大丈夫だと思い質問した。
「それで、今も息子さんは幸せでしょうか?」
空気が少し変わったと、男は思った。
質問を間違えたと直感した。
何かを言う前に母親が喋り出す。
「あれから10年以上が経ちました。
息子は勤め先の子と結婚をしました。
彼女は私に対しても親密に接してくれたんですよ。
私も彼女を本当の娘のようにかわいがりました。
息子が私たちを見て、『おしどり嫁姑』なんて言ったんですよ。
何を馬鹿なことを・・・と言いつつも悪い気はしませんでした。
この子らの子供を・・・孫を見るのが二人を見ることと並ぶぐらいに楽しみになっていました。
けれども、幸せの日というのは長くは続きませんね。
先日、2人が旅行先で事故に会い亡くなったという連絡を受けました。
どうにも・・・うまくはいきませんね。」
男の中で歯車が噛み合う音がした。
母親にゆっくり近づく。
「お二人のことは・・・、すみません。
私なんかがどう言葉にしてもいいのかわかりません。
けれども、息子さんは誰かを愛するほどに心の余裕を持つことができました。
きっかけは、なにも環境や友人だけではありません。
お母さんが果たした役割が大きいからです。
胸を張るべきことです。
立派なことなんです。
ですから・・・、どうか・・・。
手すりから離れてくれないでしょうか・・・。」
2人はビルの屋上にいた。
男は仕事の目途が立ったために休憩がてら煙草を吸いに来たのだが、屋上のドアを開けると目の前の女性に会った。
息子夫婦を失い、生きる目的を失った彼女は身を投げようとしていたのだ。
女性は少し困った表情をした。
「ごめんなさい。話をしすぎました。
あなたには情がでたかもしれません。
私が行動をすることであなたを傷つけるかもしれない・・・。
本当にごめんなさい。」
男は彼女を死なせたくなかった。
やはり情があったのだ。
しかし彼女の言葉とは少しズレがあった。
その情は、ずっと前より存在していたからだ。
「お母さん。
このビルで息子さんが働いていたんですよね?
私もそうなんです。
息子さんとは部署が違ったために、顔を合わせることはなかったですが。
先日の事故でウチの会社の人が亡くなったと聞いて、名前を聞いたんです。
すぐにピンときました。なにせ十年以上前とはいえ、転校初日に声をかけてから中学卒業までずっと遊んだ友人でしたから。
」
母親は驚いた顔をしている。
「そう・・・。あなたがそうだったの・・・。
息子は本当に楽しそうにあなたのことを話していたのよ?
明日は釣りに行くんだ、とか。テストの点数を競って負けちゃった、とか。」
男の方が泣きそうな顔をしてしまう。
「私にとっても・・・彼と過ごした日々はかけがえのない思い出となっています。
どうかその思い出をきれいなままでいさせて下さい。
どうか・・・あなたからもっと息子さんの話を聞かせてください。」
母親は目に涙を浮かべる。
「あなたの重荷にならないかしら・・・。
最初のあなたの話によると、私も静止しているのよね?
その状態を動かそうとするのは大変だと思うわ。」
「安心してください!
今のあなたは立ち上がろうとしています。
角ばった心は今や丸みを帯びています。
私の少しの力であなたは運動を始めるはずです。
摩擦にきっと負けない運動を始めるはずです。
なにせ、ころがり摩擦は運動の摩擦力に比べて十分の一程度しかないのですから。」
男は胸を張って答えた。
物理的手法