真珠貝の唄
◇ ◇
「さぁ、話はあとにして上がろう。サメがやって来てもいけない」
いつものように舷側にたらした縄梯子にザーフェルが手をかける。
いや、彼が船上にあがる前に決着をつけなければ。
考える間もなかった。
体ごと叩きつけるように、すべてを信じきったその背中にぶち当たって渾身の力で抉る。
少し悶えた彼が振り向いた時、目にはすでに驚愕も非難もなかった。
「……同族だぞ。神は……お許しにならないだろう」
遠い潮騒を聞くような哀しげな響きだった。
◇ ◇
ほの暗いうねりの底から伸び上がるように、引き綱をつかんだ腕が海面に見え、そ
の下の網篭のわきにザーフェルの頭が見える。
満面の笑みで、息継ぎに途切れがちな声も弾んでいる。
「見てくれ、ウサァーマ、ついに取ったぞ。アニヴァナフサーシ(すみれ色)だ」
「え……」
彼はちょっとためらったものの、次の瞬間には水しぶきを上げて海に飛び込んでい
た。
「ウソでしょ。見せてっ。ウソに決まってるっ」
ザーフェルの手には博物館以外ではほとんど見たこともないような、巨大な真珠貝が
握られている。
貝の口は半ばこじ開けられていて、その隙間からバロックと呼ばれるやや変形の紫真
珠が、真昼間の太陽に照らされて虹色の光彩を放っていた。
「ああ、親指の爪くらいある。夢みたいだ。これをインドのムンバイ商人に売ったら
どんな値段で買い取られるんだろう?」
「あはは、これは売らないよ。約束だろ? これはマリアムにささげるんだ。これが
手に入ったのもアッラーの思し召しだ。おれは彼女を第1夫人に迎える。残念だが、
ウサァーマ。君はあきらめてくれ」
ガクククッと体が震えたのがわかった。
海水のせいでないのは確かだ。
従兄弟で3つ年上のザーフェル・ビン・イブラーヒム(イブラーヒムの息子ザーフ
ェル)は族長の直系で、このころからあまり使われなくなった『ビン』を冠せられ
る身分だ。
父のイブラーヒムはなかなか商才のある男で、当時、盛んになりつつあった、西洋
競馬に出すためのアラブ種繁殖牡馬を複数持ち、同時にドバイの財政の半分を占め
る真珠産業にも手を染めている。
従兄弟とはいえ、真珠取り特有の「魔の仕業(窒素酔い)」で父を失ったウサァー
マは、地位や財産ではとうてい太刀打ちできない。
「でも、彼女はボクの幼馴染だよ。ちっちゃい時からマリアムとの将来を誓ってき
た。みんな公認だったじゃないか」
この期に及んで、と自分で思いながらも未練にすがってしまう。
「もちろん、昔はね。でも、事情は変わったんだ。ええと、その、つまり、彼女も
大人になったということだよ」
言葉を濁すザーフェルの気遣いが憎い。
マリアムの心が彼に移ってしまっていることは、ウサァーマにも薄々わかっていた。
それもシャクなことに、身分や財力を超えたザーフェル自身の人間的魅力せいだ。
1930年、極東の神秘と詠われた日本が養殖真珠を市場にのせるわずか10年前
のこのころ、真珠取りは男の中の男の仕事とされていた。
イブラーヒムは100人乗りの大型真珠採取船を数隻所有し、一族の多くの男たち
はそれに雇われて6~10月の夏の間だけ、稼げる真珠取りに従事する。
本業の漁業の収入は微々たるものだったからだ。
素もぐり(スキンダイビング)で、20~30メートルの海底を物色して真珠貝を
採取する仕事は様々な危険をともない、1日50回を越える潜水は体力的にも負担
が大きい。
軟弱な男では勤まらないのだが、ザーフェルは生まれつき、それに恵まれた才能を
持っていた。
息が異様に長く続くのだ。
たいていの者がせいぜい3~4分なのに、彼は5分以上、最大で7分もったことも
ある。
その分、長く深くもぐれるために、持ち帰る貝は年を経た大型のもので、良質な真
珠を抱き込んでいることが多かった。
当時はダイヤモンドより高く取引されたために、真珠商人たちはこぞって彼と直接
交渉をしたがり、港に船が見えるや、世辞たらたらで群がるのが常だった。
ザーフェルはその利潤で基金のようなものを作り、潜水事故で片輪になったり亡く
なったりした者の救済に当てていた。
家長を失ったウサァーマの家族もその恩恵で食いつなぐことが出来ていたのだ。
さらに彼はウサァーマにシーブ(パートナー)として命綱をあずけてくれ、2人はそ
う遠くない沖合いの海溝まで船を出して日暮れには戻ってきた。
真珠貝に真珠が隠されている確立は非常に低いから、船が貝殻でいっぱいになるまで
数週間も港に戻れない他の真珠船と違って、この操業は天候などによる安全性も高く、海を恐れるようになったウサァーマの母を大いに安心させていた。
ザーフェルの同族に寛大で親切な気質は一族の信頼を集め、マリアムに限らず正常な神経を持った女性なら彼の申し出を拒めないだろう。
頭でわかってはいる。
それでも嫉妬を含んだ恨みがましい気持ちは消しようがなかった。
◇ ◇
「ウサァーマ。聞いてくれ。おれの気持ちも本物なんだ。マリアムの、彼女の瞳を間近で覗き込んだことがあるかい? 黒くて美しいだけじゃない、誠実で優しくて貞淑だ。おそらく海の女神すら嫉妬するだろう。彼女のことをこうして話しているだけで苦しくなる。彼女が望むなら、おれは他の女を娶らない。これは誓ってもいい」
イスラームでは妻帯は4人まで許されている。
これは砂漠性の厳しい気候の中で父系の血族を絶やさない意味もある伝統の規律で、あえてそれを破ることも辞さない決意には並々ならないものが感じられた。
断ち切れない想いに悩み苦しむウサァーマの心を、思いやり深いザーフェルはちゃんと察知している。
それでも譲れない気持ちを繰り返し訴えてくるのは、お互いに、人を恋うる心は理屈で抑えることが出来ないからだ。
「水掛け論だよ。ボクの気持ちだって、もう、変えようがないんだ」
何度繰り返した言葉だろう。
マリアムが2人を気遣って態度を保留している以上、このままでは1人の女を争って、互いを傷つけあうことにもなりかねない。
それだけは避けたかった。
「ね、ザーフェル、思い出したんだけど、亡くなった父が言ってた話にアニヴァナフサーシ(すみれ色)の真珠が採れる海があるそうだ。ラス・アル・ハイマってとこでドバイからそんなに遠くない」
「うん、聞いたことはある。でも、滅多に採れないって話だ」
「だから意義があるんだ。もし、採れたら、それこそ神の啓示だよ。きみはそれをマリアムに捧げる。それを見てボクは彼女をあきらめる。それくらいはっきりした事実を見せ付けられない限り、ボクは永遠に彼女を求め続けるだろう」
「そうだね。きみの気持ちはきっと変わらないな。見つかる確立は低いのだから」
ザーフェルは想定内といった感じで苦笑する。
「だが、おれにとって希少な真珠はロマンだ。好きな女への愛の証に体を張る。見つからなくても男としてやるだけのことはやったという自負が残るのはいいね」
結局、2人はラス・アル・ハイマに向かって小船を出していた。
ザーフェルはとにかくひと夏だけ、心行くまでアニヴァナフサーシ(すみれ色)を探してみたいという結論を出し、ウサァーマはシーブ(パートナー)として協力を申し出たのだ。
海の形状はドバイとよく似ていて、浅い大陸棚が沖合いまで続き、その先は帯状の狭い海溝に落ち込んでいる。
ザーフェルは情報収集のために、真っ先に古老を訪ねた。
他にもたくさん操業している真珠船に食べ物や日用品を売る商人で、若い時には真珠取りにも従事したことがあるという。
「アニヴァナフサーシ(すみれ色)かね? 懐かしいな。このところ、とんと話は聞かないが、いることはいるだろう。海溝の落ち込み口あたりで、大きなウニのいる近所を探すといい。水深は40~50メートル越えだから、日光浴のためか口を開けていることがあるそうだ。その時に中の真珠が見えると言うよ。ま、行ければの話だがね」
かなり具体的な話だ。
「おお、そうそう。このあたりまではペルシャ湾をさかのぼってサメが来ることがあるから、大き目のナイフを背に挟んでおくことだね。いざとなったらそれでエラを突く。エラは柔らかいので撃退できる」
危険なサメを追い払えるという話に、2人は大喜びでナタのように大きくて頑丈なナイフを買い、港に帰らず船上で過ごすための生活必需品を積み込んだ。
◇ ◇
当時の真珠採りは2本の綱といっしょにもぐっていく。
1本は命綱でこれを腰に巻き、もう1本には錘(ウエイト)がついている。
錘は効率よく海底に至るためのもので、着くと同時に巻き上げられ、船上のシーブは命綱のみをつかんで引き上げの合図を待つのだ。
「どうだい、ウサァーマ。水深30メートルあたりにもけっこうでかいウニがいるよ。きみももぐってみたら?」
ザーフェルの親切な言葉に弾んだ返事を返す。
「えっ? いいの?」
「もちろん。きみにもチャンスがなくちゃ不公平だよ」
海水は澄んで見通しがよく、命綱を預かるザーフェルからもウサァーマの動向がよく解る。
綱をたるませないよう慎重に操作しながら、時々、サメのひれが見えないかと海面を見渡す。
遠く近くに真珠船の影を散らした海はおだやかで、さしあたり危険はないようだった。
30メートルの海底周辺は真夏の太陽と海流の弱い湾内の影響で水温は暖かく、体への負担が少ないから息が長く続く。
ウサァーマは欲を出してしょっぱなから、より深い海溝のふちを目指していく。
やがて海の女神の歌う甲高いアリアが聞こえ、目先がチカチカと点滅する。
これは水圧による幻聴・幻視で、彼にとってこれ以上の水深は危険なのだ。
(引き返そう)
理性がささやいたその時、視界の隅になにかが見えた。
手の平大の真珠貝で、帆立貝のようなジェット噴射で踊るように海溝のふちを降りていく。
よく見ると殻を開いて推進するたびに紫の虹彩を振りまいている。
(見つけたっ)
無我夢中だった。
息継ぎも忘れて追う。
(もう少し、もう少しだ)
だが、貝は巧みに指先を逃れて、海溝の深みに沈んでいく。
(限界だ、もどらなきゃ)
危険を感じ、海面に身を翻すつもりで1度だけ振り返った。
(えっ? お父さん?)
懐かしい父親が真珠貝を掴み取り、笑顔で彼に差し出しながら泳いでくる。
だが、その後ろに迫る巨大な蒼ざめた灰色の影。
「父さん、ダメだっ、サメっ」
無意識に大声を出してしまい、ガバッと水を飲んでいた。
猛烈に苦しくなって視界がグルグルと回転し、海面を見失った。
サメにさらわれたのだろうか?
その時には父の姿はもう、なかった。
「お父さんっ」
激しく身震いして目覚めた。
心痛で額に深いしわを刻んだザーフェルが覗きこんでいた。
間一髪だった。
ウサァーマの異変に気づき、命綱を手繰って引き上げたのだ。
「魔の仕業(窒素酔い)だ。あぶなかったよ」
「父さんを……父の姿を見た。ボクにアニヴァナフサーシ(すみれ色)を差し出しながら笑ってた……。ボク、貝をつかんでなかった?」
「いや」
彼は気の毒そうに首を振る。
「魔は心の弱いところを突く。幻覚だ」
「……そう」
「ウサァーマ。きみは海の深みにもぐるのは無理だと思う。体質だよ。きみは35メートル程度で魔の仕業(窒素酔い)を見た。1度そうなると、今度はもっと浅いところでも見るようになる。危険だ。でも、もぐれなくてもいいじゃないか。きみはおれのシーブとして命綱を握ってくれる。それも充分、男らしい立派な仕事だ。おれはきみを全面的に信頼してるんだから」
瞬間、頭がはじけた気がした。
「えっ? 勝手に決めないでよっ。潜水は男の中の男の仕事だっ。今までだってボクはちゃんと真珠を採ってきたんだ。そりゃ、父さんが亡くなってからはずっときみのシーブでいたさ。でも、それは海が怖いといっている母の希望で、ボクの意思じゃないっ」
「わかってる。わかってるよ。でも、おれには一族の男たちを守る義務がある。魔の仕業(窒素酔い)を甘く見てはいけない。現にきみはそれで親父さんを失ってるじゃないか」
ウサァーマは一瞬だけ黙った。
今年19歳の従兄弟の言葉に、間違いを見出せなかったからだ。
だが、そのせいで彼の意固地な部分が噴出する結果になった。
「威張るなよっ。仕切りたがるなっ。まだ、族長でもないくせにっ。ザーフェルはボクのアニヴァナフサーシ(すみれ色)を隠してるんじゃないの? ボクが父からもらったボクの貝だっ」
完全な言いがかりなのに、ウサァーマは言いながら自分のその言葉が真実のような気がしている。
今度はザーフェルが絶句した。
驚愕に似たその表情に、哀れみとほんの少しの軽賤が混じる。
「じゃ、おれは下帯を外そうか? 船も隅々まで探すがいい。だが、見出せなかった場合、おれはおまえを殺しても許されるのだぞ。おまえは罪もない同族を疑い、その名誉と誇りを傷つけたからだっ」
男同士の一触即発の場面だった。
◇ ◇
夏の日はそのまま空しく過ぎて行き、2人ともアニヴァナフサーシ(すみれ色)を見つけることが出来ないでいた。
ザーフェルはウサァーマに、自分と同じように午前中3回・午後2回の潜水を許可したが、彼がもぐる時は船を浅瀬に移動して用心していた。
ウサァーマにも平等にチャンスを与えたのは、彼が真珠採りに思った以上に誇りを持っていたことと、真珠貝は本来は温暖な海域を好むので、薄暗い深海のふちに住む年を経たものも、天気のいい日中は浅瀬にあがって来る可能性を考えたからだ。
「そろそろ秋だ。海が荒れだすころだな」
こんな話をした翌日だった。
2人は嫌な横揺れで目を覚ました。
風は全く凪いでいるのにうねりが高い。
船は不安定なローリングを繰り返し、海に慣れた彼らでさえ船酔いになりそうだった。
よどんで重い空気感は天候が変わる予兆だった。
やがて、いきなり風向きが変わると黒雲とともに嵐がやって来た。
みるみる白波が吹き散らされて激しいしぶきに変わり、うねりが巻き波に変わって三角形に立ち上がる。
張り綱の端が船釘のように真横になびいて、そんなものを見たのは初めてだ。
2人は投げ出されないよう、手早く索(ハーネス)を腰に巻く。
「碇をあげろ。港に帰るぞ」
ザーフェルが叫びながら帆に飛びつき半分ほどに折りたたんだ。
瞬間、突風が襲い、船は異様にきしみながら帆柱の先端で高波を打っていた。
「転覆するっ。帆は全部たたんで帆柱は倒さなきゃっ」
ウサァーマの助言にも彼は動じない。
「だめだ。推進力がなければ横波の餌食だ。いっしょに舵を取るんだ。いいか、今、左斜め後ろから風を受けてる。小刻みに舵を切って、できるだけこの姿勢で波をやりすごす。正面から受けず、斜めに往(い)なすんだっ」
「え? そっそんなの誰に聞いたの?」
「本で読んだっ」
「ええええ~っ、読んだだけぇ?」
ラス・アル・ハイマの港は進路の南に広がっている。
だが、この位置からでは東南東に進むのが精一杯だ。
このままではペルシャ湾東岸の岩礁地帯にぶち当たる計算だが、2人の小さな木造船では推進力がなくなれば波にいいように翻弄され、やがて横波を食らって沈没する。
とにかく自力で動いてさえいれば舵が切れるのだ。
それでも舷側を噛み居住区に乗り上げる怒涛は、空気の泡を含んで海面を白っぽい青灰色に染め上げ、異様な破壊音とともに叩きつけてくる。
そのたびにあたり一面から湧き上がる耳を塞ぎたくなるような咆哮は、いつ果てるともなく脅しつけるように繰り返されて平常心を失わせ、祈りの言葉すらかき消すのだ。
昼間、しかも外洋ではなく深い湾内であるにもかかわらず、生きた心地がしなかった。
初めて体験する烈風の化け物じみた凶声、壁のように迫っては砕ける潮の轟き、板子一枚下に蠢く奈落。
荒波は操舵室をかねた居住区の板ガラスを叩き割ってあたり一面を水浸しにし、強い引き波は獲物をくわえ込んだサメのように、2人を海に引きずり出そうとする。
彼らの小船がまだ前に進み、浮いていることすら不思議だった。
やがて日暮れ近く嵐が忽然と去った時、2人は全身がこわばって、しばらく舵輪から手を離すことが出来なかった。
船は新造船のおかげで帆柱も帆桁も無事だったが、真珠貝を入れておいた船底の生簀(いけす)は流され、寝具も着替えも失われ、食糧のほとんどが無くなった台所にはコンロが1つ、申し訳のように引っかかっていた。
若い彼らはすっからかんになった収穫を嘆きはしなかったが、あらためて現在地を確認して仰天した。
『嵐の中で帆船を前に進めるのは、嵐を押し戻すより難しい』
昔の言い伝えのとおりだった。
あれほど帆走したにもかかわらず、船はうねりに押し戻され、今まで彼らがいた場所から大して離れていなかったからだ。
遥かにチラつくラス・アル・ハイマの町明かりがそれを示していた。
◇ ◇
無事に嵐をやり過ごしたにもかかわらず、ウサァーマの心は晴れなかった。
またひとつザーフェルの能力を見せ付けられた気がして我慢できなかったからだ。
たった3歳差なのに彼がやけに大人に見え、反面、自分がやけに卑小に感じられて、プライドをひどく傷つけられていた。
彼は自分の知らないことをすでに知っているだけでなく、それを実行する勇気と決断力を持ち、明晰で的確な判断は、こうと決めたら揺るがない。
ザーフェルは恵まれすぎているのだ。
地位も財力も、本人の資質も。
それでも本性や性格が悪ければ、責めようもある。
だが、一族を思う心はこれ以上を望めないほど深く寛大だ。
彼はこれからも真夏の太陽のように輝かしい未来を、人々の祝福と賞賛の下に歩んでいくに違いない。
そしてきっとマリアムを娶って……。
考えたくなかった。
「最後にもう1度だけ挑戦したい。それで帰ろう」
ザーフェルの提案にウサァーマは賛成したものの、自分ではもうもぐる気はなかった。
努力したってどうせムダ、ボクなんかに海の女神は頬笑まないんだ、そんなひねくれた自暴自棄に支配されていたからだ。
「ボクはいいや。嵐でへとへとだよ」
本心を隠した返事を、ザーフェルは素直に額面どおり受け取った。
そしてあらかた流された食料の中からナツメヤシの缶を見つけ出して茶を入れてくれた。
ウサァーマを気遣った彼らしい心遣いだったが、今はもう大きなお世話だ。
それでも変にこだわったザワつく気分を慎重に気取られないように抑える。
ウサァーマ自身、自分のこの気持ちは従兄弟に対する著しい裏切りだと気づいていたからだ。
いつものように命綱をあずかりながら、海を見渡す。
サメの特徴的な三角背びれが2,3、浅瀬あたりに見えたが遠い。
気まぐれにそのあたりの獲物を物色して、やがて去って行くに違いなかった。
そっとため息をつく。
ボクは大切な父を失い、今また最愛のマリアムも奪われてしまうのだろうか、だとしたら自分の人生とは一体なんなのだろう、そんな思いが出口を求めて渦巻く。
寂しさと切なさ、苛立ちと失望が入り混じって息苦しくなるほどだ。
1人ボッチの孤独感が容赦なく心をゆがめてくる。
ボクがザーフェルだったらどんなによかっただろう、そうすればすべては解決する、いや、いっそのこと彼がいなければ……?
そうだ、そうなればマリアムの心はきっと、昔のようにボクのところに戻ってくれる……はずだ。
ウサァーマはビクッと体を縮めて頭を振った。
なんという罰当たりな考えだろう。
神は天上からすべてをご覧になっている。
魔物に魂を売り渡してはいけなかった。
だが、陰鬱で弱い心は一旦悪心を抱くと、容易にそれを捨て去れない。
背にいつも手挟んでいるサメよけのナイフが意識の中で次第に存在感を増してくる。
だめだ、それを使ったらすべてが終わってしまう、そう思える理性がこの時点ではまだ彼の中にあったのだ。
その思いをなぜウサァーマは保ち続けることが出来なかったのだろう?
◇ ◇
ザーフェルが苦痛に歯を食いしばるのが見えた。
ウサァーマは続いて彼がとった行動を説明することが出来ない。
ザーフェルはほとんど意識を失いかけながら手をまさぐり、アニヴァナフサーシ(すみれ色)を差し出してウサァーマに握らせたのだ。
まさに魔の仕業(窒素酔い)で見た父親の姿そのものだった。
ただ違うのは父が笑顔だったのに対し、彼の顔には絶望に似た深い悲しみが刻まれていた。
「……同族だぞ。神は……お許しにならないだろう」
そう言って彼は事切れたのだ。
息を吐ききった体はまっしぐらに海溝に向かって沈んで行き、ウサァーマは反射的にそれを追った。
今はもう、ザーフェルの手にあるアニヴァナフサーシ(すみれ色)を見たときの驚愕も怒りも憎悪も消え去り、彼の背にナイフを突き立てたときの勝ち誇った気持ちも跡形もなかった。
ボクはなにをしたのか、これが本当に望んだことだったのだろうか、今更ながらわきあがる疑念に当惑する。
いや、本当になにを求めてこんなことをしたのだろう、なんの解決にもならない非道な行いにためらいもなく手を染めた自分にはもう、マリアムに愛を語る資格すらないではないか。
今こそ解る気がする。
このボクこそ、ほの暗い深海が故郷ででもあるかのように、すべてをゆだねて消えて行ったザーフェルに代わって海溝に沈むべき者だったのだ。
神はすべてをご覧になっている、人や世間をどのように騙し言いくるめたとしても、神は欺くことが出来ない。
そして僭越ながら神を自分に置き換えるなら、自分こそすべてを知る者であり、すべてを裁く者であり、すべての罰を受ける者であるはずだ。
大きな蒼ざめた灰色の影が円を描きながら近づいていた。
「ほら、おまえの居場所に帰るがいい」
アニヴァナフサーシ(すみれ色)を海溝に投げてやり、30メートルの海底から海面を見上げる。
そこにはいつものようにまばゆい天上の輝きを写して、海色の光を投げかけるアクア(水)の連なりがあった。
その中を音もなく迫りながら、瞼を持たない魚類の目がほとんど無表情で彼を見てくる。
自分の息の尽きるのが速いか、サメの一撃が早いか。
どちらも必然であると同時に、どうでもいいことのように思えていた。
魔の仕業(窒素酔い)のせいだろう、まだ幼い彼の傍らにあどけないマリアムがいて、無垢な笑顔を向けてくる。
過ぎ去った日々の蓄積の果てに人は大人になるのなら、失うものは何もないはずだ。
だがその実、時を失い、自分本来の目的を見失い、多かれ少なかれ愛を夢を望みを捨てていく。
生きるとはなんなのだろう?
ウサァーマの片頬に軽い笑みが浮かんでそれが見る見る自嘲の嗤いに変わる。
人生の終焉に臨んでも人はなお、迷い戸惑い思い悩む皮肉。
静かに凪いだ海原に無人の小船が浮かんでいた。
舷側に縄梯子がいつまでも垂れたままの不審な様子は他の真珠採りの関心を引き、人々が漕ぎ寄せて来る。
あたりにはもうサメの姿はなく、なんの痕跡もない海は気だるい陽の反射を浮かべて、眠たげにすら見える。
やがてやって来る秋に向けて色を変えつつある大空を海鳥の影がいくつも掠め、白く浮かぶ町の尖塔あたりに舞い降りて行く。
人々の午後の祈りの声が海原を越えて届いてきた。
真珠貝の唄