喫茶フランネル

今日はなんだか海があんまり透き通って光るので

今日はなんだか海があんまり透き通って光るので、私はそのまま半刻もさめざめ泣いていたのです。




 今日は海があんまり透き通って光るので、私は、なんだか、どうしようも、自分がいたたまれなく、
どうしたらいいのかが分からなくなってしまったのでした。
それでいつまでも泣きっぱなしなのでした。

悲しいこともないのに、不意に海がどんなに大きく、どんなに自分の手に余るのかを思い出して、俯きもせずに泣いていました。今腰掛けているごつごつした固いコンクリートの方が、私にとってはよほど、確実で信頼できるものに思えました。

泣いているうちに身体がぽかぽかしだし、つるつるした黒い髪の毛も日の光であたたまって、陽だまりの具現化みたいになりました。その髪を撫ぜているうち幾らか落ち着いて、ようやく私は泣くのをやめました。
立ち上がるのと同時に顔にむず痒さを感じ、反射的に指ではじくように払ったら、指の腹にペン先くらいの小さな羽虫がくっついてきました。虫の体は油性ボールペンのインクのような柔らかさで、ねっとりと指にこびりついています。
潰れて、死んでいました。

虫なんか、デコピンひとつで死んでしまうのです。

たぶん、海にとってのデコピン程度の力で私も簡単に死ぬのでしょう。
どちらにも、悪気はないのです。悪気がないのが、かえって罪深いようでした。





今日はなんだか海があんまり透き通って光るので、普段なら起こりそうにないことも、起きてしまうような気がします。美しいハプニングならいいのですけれど。
歩きだしはしましたが、行く(あて)はありませんでした。
もとより子どもですから、行けるところは限られています。級友たちは今ごろ何をしているだろうと、柄にもないことを考えました。私は、自分が子どもであることが時おり酷くもどかしく、絶望的ですらあるように感じます。

夜更けに、家を抜け出してきました。

きちんと布団をたたみ、ひとりで着替えて夜明け前の街を歩いてきたのです。リュックに水とソーダガムと(家出するならソーダガムと決めていたのです)、お財布もきちんと入れてきました。夜明けごろまでは万能感に満ち満ちて、どこまでも行けそうな気がしていたのに、明るくなって、行列を作って連なり歩くランドセルの集団を見かけた途端、一気に気持ちが萎えてしまったのでした。ここはよその街ですから、知らない小学校の知らない小学生でしたが、それでも恐ろしくなって、しばらく公園の木によじ登って、その葉影にじっと隠れていたのでした。

小学生の登校のピークも過ぎ去って、再び歩いた先に突然現れたのが、きらきらと透き通る海だったのです。建物に遮られて、ぜんぜん直前まで海があるだなんて、気が付かなかったのでした。
この海は、いつか見たことがあったかしら。多分あったのでしょう。だからこそ、「今日は透き通っているな」と思ったのでしょう。





海の、有り余る力にも、圧倒されるような美しさにも、結局私は傷つくのです。海とは真反対の方角の、狭い路地の坂道をとぼとぼと登りきる前に途中で疲れて、私はリュックから水筒を取り出しました。狭い路地の、その端っこの、出っ張った小さな花壇のへりに腰かけて水分補給をしていましたら、不意に水筒の蓋のコップに波紋がひとつふたつ、生じました。

──ああ、ほらね。

ハプニングはやはり、起こってしまったのです。
控えめな雨粒は水筒をリュックに仕舞うころにはきらめくスコールになっていて、私はすっかり濡れねずみでした。空は明るく青いままなのに、狂ったシャワーのような雨があっという間に襲い来て、止んでもいない雨のさなか、綺麗な虹が端から端までかかっているのが見えました。

見惚れていたら、すぐ背後で短い悲鳴とキッという耳障りな高音がしました。

「ねえ危ないから! 」

その声が私に向かって怒鳴っているのだと、理解するのにしばらくかかりました。

「こんな狭い道でぼーっと立ってたら危ないでしょ」

肌が黒くて、目が大きくて、口も大きめな女の人でした。自転車にまたがって、片足を地面につけて、手前のカゴにはビニール袋の荷物がどっさり積んでありました。急に降り出した雨に慌てて、スピードを上げて走っていたのでしょう。そこへきて突然私と出くわして、きっと驚いたのです。

女の人は怒鳴りはしたものの、私がすっかりびしょ濡れになっているのに気づいて「おいで」と私の手を掴み、もう一方の手で自転車を引いて力強く歩きだしました。

「とりあえず雨宿りしなよ」

言葉も出ませんでした。舌が上顎にひっついて私は(いや)とも(うん)とも言えず、あっという間の出来事でした。





“雨宿り”というものですから、てっきりどこか屋根のある場所に連れて行かれるだけだと思っていました。
ところが、着いたのは路地をひとつ入ったすぐの所にある、小さなお店やさんでした。女の人が躊躇なく「close」の札が掛かっている厚い木の扉を開けると、コロンコロンとくぐもったベルの音がしました。

「パパぁ! 」

女の人は甘えたような拗ねたような声で、店の奥に向かってそう叫びます。すっかり大人だと思っていた女の人がそんな声を出すので、私は驚いてしまいました。今日は驚くようなハプニングばかりです。

「ああ帰ったね。ちょうど降られたなぁ」

(なか)はなんだか薄暗くて目が慣れず、ぼんやりとした人影と声しか分かりませんでした。けれど聞こえたその声は、女の人が“パパ”と呼んだ通り、柔らかく低い男の人のものでした。そこで少し待っておいで、と言って影は奥に引っ込み、同時に私は女の人により扉の内側に引き込まれたのでした。
扉は、もう一度ベルの音を響かせて閉ざされました。


再び現れた男の人は私を見るとお、と言ってまたしても引っ込み、女の人は自分より先に、渡された白いタオルで私の頭から脚までを乱暴に拭ってくれました。幸い、靴の中にまで水は染みておらず、靴下も足首から下は無事でした。

「タオルくらいしかなくて悪いけど」

女の人はいつの間にかもうひとつ渡されたタオルで自分の身体を拭きながら、ふとぐしゃぐしゃの髪のままの私を見下ろして盛大に笑い出しました。
親切にしてくれたお礼を言うのも忘れて、私は不服顔のままむくれていました。





ここは、不思議な場所でした。こういうタイプのお店は、今まで入ったことがありません。子どもにはおおよそ縁のなさそうなお店です。
灯っている明かりは黄色く円く、テーブルと椅子しかない店内は薄暗いのですが陰気な感じはなく、床も壁も飴色で、こっくりと深いのです。男の人がいた左側の方などは、暗さと壁が溶けあってしまって形が分かりません。
ドアのある、狭い路地に面した壁にはちいさな窓が一つだけですが、反対側の壁には、大きめの窓が三つも続けて並んでいました。店に陰気さがないのはこのためなのです。
そうしてその窓から見えるのは、

ひたすらに海なのでした。

白雨(はくう)のさなかでもなお、いいえ、却って(きら)めいて。
烟っていながらも透き通って。
どこまでも続く海なのでした。
私は黙ってその海を見ていました。雨はまもなくおさまり、お日さまの輝きが増しました。

「服、外に出たらすぐ乾きそうだね」

ここがどこであるのかも忘れて、窓の外に見入っていた私は慌てて振り返りました。後ろ結びの茶色い髪は半乾きのままでしたが、ベージュのシャツに着替えて黒いエプロンを締めた女の人が、そこに立っていました。先ほどのTシャツ姿より、こちらがずっと恰好良く似合っています。

「もうお昼になるよ。食べていきなよ」

女の人は無造作に、近くのテーブルに持っていたお皿をどんと置きます。私は目をまるくしました。

「ここ、ごはん屋さんですか」
「ごはん屋さんっていうか、喫茶店。でもちょっとしたごはんも食べられる」

喫茶店。“コーヒーとかを飲むところ”というぼんやりとした認識はあっても、実際どういうところなのか、よく分かってはいませんでした。
女の人に促されてテーブルに着きます。飴色のテーブルに、海色のオーバル皿、その上に乗せられた、ふたつにカットされた白いサンドイッチ。
真ん中に優しい色の卵がたっぷり挟まっていました。楚々としたその佇まいは、なんだかひとつの作品みたいでした。

「このたまごサンドね、うちの看板メニュー。超おすすめ」

当然のように私の向かい側に座った女の人は(めくばせ)をして、芝居じみた口調で「召し上がれ」と言いました。

「……いただきます」

恐る恐る手に取ったら、ずっしりとした重さとパンの薄さに驚きました。たまごサンドといえば、中身もパンもふんわりとしたイメージしかなかったのに、これはぜんぜん違います。私の小さな口で、精一杯大きくかぶりつきました。
しっとり甘めの薄切りパンが中身にぴったりと寄り添って一体化しているようなサンドイッチでした。ひとくち齧ると、丁寧に練られたおうごんいろのたまごが、あふれて、あふれて。
気がつくと、私はコンクリートに座って海を眺めていたあの時のように、再びさめざめと泣いていたのです。どう頑張っても涙は止まらなかったので、泣きながら黙々と頬張りました。海を黄金色に輝かせるお日さまのような色が優しくて、守られているようでした。
女の人は、そんな私を頬杖をついて、真正面からじっと見ています。それでも気にせず食べました。夢中でした。
食べ終わったときに、あとからバターの香りがふわっと残りました。

目も開けていられないほどの幸福が、そのとき確かに目の前にあったのです。



「泣くほど美味いのよ、それ。って冗談だけど」

泣きながら食べたのはあんたが初めて、と女の人は面白そうに言いました。鼻水をかんで涙を拭いたら、なんだか落ち着きました。

「あんたって呼び方よくないね。名前なんていうの」
真凜(まりん)です」
「あはは。海の子だ。ぴったりだね」
確かに、海を見て泣いてしまう私は、海の子なのかも知れません。海と比べてしまえば私はぜんぜんちっぽけな子どもではあるのですけれど。私は右の窓一面に望む海をもう一度眺めました。
海だけが見えます。他に遮るものがないのは、ここが切り立った岬だからでしょう。

「なんか()なことでもあったの」
「え? 」
「そう見えたから」
そうなのかも知れません。でも、自分でもその正体が分からず、だから言葉で説明できないのでした。
「あ、不登校とか?」
「ちがいますけど」
思わずむっとしました。
「ちがいます」
「ごめんってば」
なんかあたしと似てるなって思ってさ、と女の人は弁明しました。
「ひょろっとした頼りない子がひとりで大雨のなかで立ってて、ちょっと異質だったから。不登校なのは、あたしの方なんだ」
私はまじまじと女の人を見つめました。すっかり大人だと思っていたこの人は、本当は学校に通うような年齢だったという驚きと、大人にしてはちょっと子どもっぽい言動が一致しました。

「ここはパパの店で、あたしは学校に行かないでここを手伝ってる。あたしはほら、こんな見た目だから学校では特に異質に見られるから」

異質。
確かに、外国のアニメに出てくるような華やかな顔立ちです。お肌も、お顔も、立ち姿も、コントラストがはっきりしていて存在感があります。大人みたいに見えたのはそのせいかも知れません。異質。違和感。異国。

「ハーフなのねあたし」

訊こうと思っていたことを、先に言われてしまいました。

「ママが日本人じゃない」

立て続けに言って、そう言ったのは自分なのに「なんでこんなこと喋ってんだろ」と女の人──お姉さん──は両手で顔をくしゃくしゃにしました。

「──私、大人になりたいのかもしれない」

ふっと出てきたその言葉に、自分でも驚きました。大人のような、子どものようなこの人を見ていたら、自然と自分の心が浮かび上がってがきたのです。
さっきも私は、自分があまりにちっぽけで、非力で、誰かや何かの力でどうにでもできる存在なのが悲しくて、それで泣いていたのではないでしょうか。そうではないと証明するために家出した先で、却って自分が子どもだということが余計にはっきりしたのがショックだったのではないでしょうか。
なになに、と身を乗り出してきたお姉さんに、私は単語と単語をつなぎ合わせるみたいな、辿々しい話し方で説明しました。朝早くに家出してきたこと、登校する小学生を見て惨めになったこと、海を見てもっと惨めになって、無意識に羽虫をデコピンで殺して、それが自分のようで悲しくなったこと。お姉さんは吸い込まれるような真っ黒い目を逸らしもせずに、聴いてくれました。

「デコピンかあ」

マリンって何歳なの、と問われるまま、十一です、と答えました。そりゃあ無力だ、と笑われました。私はまたもやむっとしました。

「無力で許される年齢だよ」

社会の仕組みがさ、その歳でひとりで生きていけるように作られていないもん、お姉さんは続けます。

「社会だってデコピンするよ、親に守られなかったら。保護者がいなかったら容赦ないからね」
「ちゃんとした大人みたいなこと、言わないでください」

自分だって大人じゃないくせに、とは流石に口に出しませんでしたが、私の不満はありありと顔に現れていました。お姉さんは再び頬杖をついて、にやにやと私を見つめます。

「気骨あるわ、あんた」

「あんた」の直後に、マリン、と言い直しました。

「きこつって? 」
「センスあんねってこと」

本当にその(やく)で合っているのか甚だ疑問です。でも、お姉さんに気に入られたことは分かりました。私の方も知らずに、この三十分足らずでお姉さんの優しさにずいぶん甘えさせてもらっているな、と気がつきました。身体を拭いてもらって、食べさせてもらって、泣いたり、気持ちを聴いてもらったり、むくれたりしても叱られませんでした。
包まれているように心地よかったのです。



外の陽にあたらなくとも、服はすっかり乾いていました。

「またおいで」

遠いかも知れないけどまたおいで、干してもらっていたリュックを受け取ったとき、お姉さんはそう声を掛けました。私は強く頷きました。

「サンドイッチ、いくらですか」

私はリュックの中のお財布を取り出して、パチンとスナップを外しました。500円玉が六つ。お小遣いを全部集めて入れてきて、三千円ありました。お姉さんは一瞬何か言いたそうにして、(とど)まりました。

「680円です」

初めて、家族の誰も伴わずひとりで食べた外食でした。大人の値段に胸が鳴りました。

今日は海があんまり透き通って光るので、私はここに来れたのかも知れません。今日だったから良かったのだと思いました。私はもう一度、窓越しの海を目に焼き付けました。
奥でずっと私たちを見守っていた男の人が、帰る段になって近づいてきて、ドアを開けてくれました。
ちょっとだけ送ってく、というお姉さんと一緒に外へ出ると、不意の光に目が眩みました。空は何事もなかったように快晴で、雲ひとつありません。
そのとき初めて、お店の看板を目にしました。

──喫茶フランネル。

ちょっと張り出した青いひさし屋根の上に掲げられています。

「きっさ、フラン、ネル……」
「フランネルね。続けて発音するの。イントネーションは“知らんけど”と同じね」
「喫茶知らんけど」
「フランネルだってば」




こうして十一歳の私の逃避行は幕を閉じたのでした。
帰りの道すがら水筒を開けると、水の代わりに良い香りの紅茶が入っていました。

これが私、南澤真凜(みなみさわまりん)と『喫茶フランネル』との出会いです。

喫茶フランネル

喫茶フランネル

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-15

Copyrighted
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