キミを纏う
I feel very adventurous. There are so many doors to be opened, and I’m not afraid to look behind them.
私はとても冒険好き。
開けられるドアはたくさんある、そしてドアの向こう側に何があるか恐れることはない。
Dame Elizabeth Rosemond Taylor
(February 27, 1932 – March 23, 2011)
此れ、受け取ってくれねぇか。
弥生三月。
暖かな春風が庭の草花を揺らし、春の陽射しが教会の白壁を照らし出す中、何の飾り気も無い言葉と共に手渡された物。
其れは黒曜の住むマンションの部屋の合鍵だった。
悪くないかもな、お前と家族になるのも。
突然の出来事に面喰らい乍らも、フッと笑みを浮かべたモクレンは、黒曜のお陰で手入れの良く行き届いた右手をスッと伸ばし、合鍵を受け取ると、合鍵を黒曜が購入してくれた玄色のジーンズの右ポケットへと突っ込み乍らら、面喰らった表情を晒した序でだ、蕎麦でも喰いに行こう、と先程迄合鍵が握りしめられていた黒曜の左手をギュッと握った。
上手いこと言うじゃねえか、思いつきの洒落にしちゃ。
黒曜がニヤリと微笑った。
誰かさんの癖が移ったんだ。
朱に染まれば赤くなる、か。
そんな風な会話を交わしつゝ、歩き慣れた歩道を歩いていると、一軒の蕎麦屋に辿り着いた。
紺色に白字で「ほととぎす」と印刷された暖簾をひょいと潜ると、歳の頃なら二十歳そこそこであろう黒のエプロン姿の若いアルバイトの男が、いらっしゃいまし、と入って来たばかりの二人に挨拶の言葉を述べ、御好きな席へどうぞ、と言った。
丁度がら空きになった時に来たらしく、もう一人の若いアルバイトの男がついさっき迄別なお客が蕎麦を啜っていた場所の黒柿色のテーブルの上をゴツゴツとした手で綺麗に拭き取っていた。
備え付けのスピーカーからデヴィッド・ティー・ウォーカーの『フィーリング・フィーリング』の音色が聴こえて来る中、座敷席へと腰掛けると、先程二人に挨拶の言葉を述べて来た若い男がカツカツと下駄の音を響かせ乍ら現れ、海老色のお盆に載せた水の入ったグラスをテーブルの上へ静かに且つゆっくりと載せ乍ら、注文がお決まり次第、ベルを鳴らしていただければ、と言ったのち、空になったお盆を抱えて再び下駄の音を響かせ乍ら厨房の方へと戻っていった。
今の気分は?。
今しがた口をつけて半分程水の減ったグラス片手に黒曜が言った。
シンプルに笊だな。
モクレンがテーブル脇に置かれたお品書きに視線を向け乍らそう言うと黒曜は、じゃあ俺も笊で、と言ってベルを鳴らし、笊蕎麦を二つ、と注文した。
何時から考えていたんだ、合鍵の件。
モクレンが言った。
そうさな、実行に移す事を決めたのは先月のお前の誕生日の時だが、思い付いたのは今年の元旦の初詣をしに出掛けた時だな。
書いてあったのかね、御神籤〈おみくじ〉にでも。
初詣の帰り道に立ち寄ったコンビニで、黒曜がモクレンの為に買った十二月に発売されたばかりのプリンの味が美味かった事を思い出し乍ら、モクレンが言った。
まさか。
御手洗いへ行って手を洗っている際に今年はいよいよ結婚するだのなんだのって会話をしていたのが隣に居てな、早い話が其れに感化されちまった。
そろそろかなって。
ただ其れだけの事よ。
妙な所で妙な啓示があったモンだ。
モクレンが呆れ気味に言ってのけると、古典の教科書に載る様な美談みてぇには上手くいかねぇモノよ、と淡々とした口調で黒曜は呟いた。
そして空になったグラスへ銀色に光る水差しに入った新しい水をドクドクと注ぎ乍ら、チョイと気が早い気がするが、引越しは来年の今頃にでもするかね、とモクレンに言った。
そうだな、お互いに忙しい身、後回しに出来る事は後回しにした方がいい。
事実、来月には新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘となった『箱館戦争』即ち『五稜郭〈ごりょうかく〉の戦い』を原典にしたチームCとチームWの対決公演が行われる事が事前に決定しており、チームCは新政府軍側、チームWは旧幕府軍側、と言う風な演目になっていて、モクレンは新政府軍側の海陸軍参謀を務めた長州藩出身の山田顕義〈あきよし〉の役を、黒曜は幕末期の京都に於いては『鬼の副長』と怖れられ、『五稜郭の戦い』では文字通り獅子奮迅の活躍ぶりを魅せた上で侍として散っていった土方歳三の役を演ずると言う運びになっていた。
又は「お楽しみは最後に取っておく」と言う言い方も出来る。
どちらが好きかは人それぞれの価値観の問題だろうがな。
笊蕎麦が運ばれて来たのは、黒曜がそう言ったのち、モクレンのグラスへと水を注ぎ終える粗同時のタイミングだった。
黒曜は左手でグラスをモクレンの方へと動かし乍ら、空いた右手で箸の入った朱色の箱の中からモクレンが蕎麦を食す際に使う割り箸を一本取って、ほれ、と手渡した。
モクレンはひと言、どうも、と言い乍ら割り箸を受け取ると、鼻腔を仄かに擽る蕎麦と割り箸の香りに浸り乍ら、ぱちり、と割り箸を綺麗に割った。
好いたお前と
啜りし蕎麦は
惚れた弱味が
隠し味、か。
純白の壁に飾られた月岡芳年の『僧兵・武蔵坊弁慶と九郎判官義經』のレプリカへとじっと視線を向け乍ら、自身の割り箸を割ったばかりの黒曜が言った。
惚れた弱味が隠し味。
フッ、私達の場合はそうかもな。
では頭の体操に前句付の遊びを。
さめないうちに
サッとおあがり
どんなモンかな。
戀の蕎麦
惚れた腫れたが
薬味なり
御粗末。
今日はやけに頭の回転が早いな。
蕎麦を啜り乍ら、モクレンが言った。
舞台と同じだ、こう言うのは阿吽の呼吸でなくちゃな。
黒曜はそう言って蕎麦つゆに浸けた蕎麦をズズズッと啜った。
其れから十五分間、黙々と食事と音楽を楽しんだ二人は、支払いを済ませたのち、今一度手を繋ぐと、知り合ってから今日に至る迄にもう幾度となく二人して歩いたであろう黒曜のマンション迄の道を歩いた。
そういや、冷蔵庫の中にシュークリームがあるんだが、今から喰うか。
靴音を響かせ乍らエレベーター・ホールに辿り着くなり、黒曜は思い出したかの様にそう述べると、無機質なエレベーターのボタンを押した。
何時買ったんだ?。
道中、口の中をさっぱりさせる為に噛んでいて、マンションに辿り着く頃にはすっかり味の薄れたミント味のガムを銀色の包み紙の中へと吐き出し乍らモクレンが言った。
買ったんじゃない、貰い物だ。
へぇ。
随分と軽い口調でモクレンはそう返事をすると、吐き捨てたガムを丸め込んだ包み紙を包み紙同様、射し込む陽射しを浴びて銀色に鈍く光る塵箱の中へと放り込んだ。
くれた相手曰く、モクレンさんと一緒にどうぞ、だとよ。
シュークリームも溶けてしまいそうなお熱い御言葉で。
ポン、と言う機械音と共にエレベーターの扉が開いた。
広過ぎず狭過ぎずな広さの箱には赤褐色のカーペットが床に敷き詰めてあり、柳鼠色の壁はエレベーターに乗る者の気持ちを落ち着かせるに充分だった。
良い様に捉えるんならな。
黒曜は右手でグイッと扉を押さえると、モクレンを先に箱の中へと入れてから自分も箱の中へと入って、十階へと向かうボタンを押した。
敢えて悪い様に捉えるのであれば、茶化されたって所だな、茶菓子だけに。
モクレンが態と意地の悪い顔を浮かべてみせると、黒曜はひと言、違いねぇや、と微笑った。
そうこうしているうちに、エレベーターが十階へと辿り着いた。
扉が開くと同時に手入れの行き届いた二人の両頬と髪を春の風がサッと撫でる中、並んだ状態で廊下を右に曲がり突き当たりの部屋の扉の前迄やって来ると、開けてみろよ、鍵やったんだからよ、と黒曜はモクレンに自分で鍵を開ける様、促した。
モクレンはジーンズの右ポケットの中に手を突っ込み鍵を取り出すと、其の言葉の通り扉の鍵を鍵口へと差し込み、ガチャリ、と回した。
鍵が無事開いた事を確認すると、鍵を右手に握ったまゝ左手をドアノブに添えて、ゆっくりと開けた。
扉を開ける迄の時間は僅か三十秒足らず。
が、モクレンの中で此の行為は途轍も無く長い時間の中の出来事の様に思えてならなかった。
おかえり。
黒曜が優しい聲色で呟いた。
あゝ、ただいま。
お互い、ゆったりとした手つきで靴を脱いでのけ、チャールズ・ヴィダー監督作品『ギルダ』、ハワード・ホークス監督作品『三つ数えろ』、ジョン・ヒューストン監督作品『アスファルト・ジャングル』、アンリ=ジョルズ・クルーゾー監督作品『恐怖の報酬』と言ったフィルム・ノワールのポスターが其々黄褐色の額に入れられて鈍色の壁に飾られたリビング迄の廊下を互いの手を繋いでツタツタと歩いていくと、純白のカーテンと壁に黒色のスピーカー、レコード・プレイヤー、ざっと百枚程の数のレコード盤を収めているらしい棚、そして知り合いの家具屋でタダ同然で譲り受けたのだと言う嵯峨鼠色の色彩が美しいアンティーク調の戸棚、黒柿色の椅子、紺青色のテーブルクロスの敷かれたガラステーブル、フィンセント・ファン・ゴッホの絵が印刷されたランチョン・マット、白切立〈しろきったて〉の灰皿と燐寸、と言うモクレンにとっては見慣れ過ぎたと言っても良い物達が静かに「鎮座」していた。
飲み物は何を御所望?。
黒曜が冷蔵庫の中の飲み物達を覗き込み乍ら言った。
モクレンはレコード盤の収められた棚の前に立ち、レコード盤に印刷されたタイトルに視線を向けたまゝ、珈琲牛乳が飲みたい、とひと言呟いた。
其の申し出を耳にした黒曜は、しまった、と言わんばかりに頭に右手をやり乍ら、珈琲牛乳か、生憎と昨日切れたんだよな、来て貰って悪いんだが、下のコンビニ迄ちょっくら行って来るからいい子で待っていてくれねぇかな、と返答した。
パパの電話を待ちながら、ならぬ、彼の帰りを待ちながら、か。
しょうがないな、と言う様な表情を浮かべたモクレンは、高校三年の夏、読書感想文を綴る為、家から僅か五分の場所にある図書館に足を運んだ際、当時夏季休暇限定の臨時のアルバイトとして、図書館のフロアに設置されていた「真夏の海外文學特集」と称されたコーナーの整理整頓をしていた黒曜と初めて出逢った事、其の黒曜の口から、面白いと思うから是非、と今思えばだいぶ強引にコーナーに並べられた小説作品達・・・マーク・トウェインの『トムソーヤーの冒険』、『007』シリーズで御馴染みのイアン・フレミングが生前唯一手掛けた児童文學作品『チキチキバンバン』、ロアルト・ダールの『チョコレート工場の秘密』、スティーヴン・キングの中篇小説『スタンド・バイ・ミー』(原題は『死体』)・・・の事を思い出し乍ら、伊太利亜出身の作家であるジャンニ・ロダーニの小説の作品名を誦〈そら〉んじてのけた。
尚、『パパの電話を待ちながら』は、モクレンの口から、何か適当に見繕ってくれないだろうか、と言う大変にざっくりとした依頼を引き受けた黒曜が、前述のコーナーの諸作品の中から、時間にして僅か一分の時間で、此れなら他の連中が読むモノと毛色が違って面白えんじゃねぇか、と選出をした一冊で、モクレンが初めてちゃんと終い迄読み終えた海外文學作品でもあった。
其れから黒曜が玄関へと向かうのを、主人が部屋から出て行くのを寂しがる黒猫の様に追いかけると、ひと言、目移りは御法度、と言ってから、靴を履き終えたばかりの黒曜の頬に軽い口付けをした。
其れに対し黒曜は、お前こそ他のオトコの事なんか頭ン中に浮かべんなよ、と言い乍ら頭をポンポンと撫でてから、いってきます、と耳元で囁くと、薄暗い玄関先でも綺麗なカタチをしていると分かる左の耳たぶへ向け、唇をチュッと落とした。
いってらっしゃい。
モクレンは微笑を浮かべると、名残惜しそうに自身の身体をスルリと離した。
黒曜が出て行った部屋はまるで一人きりのホテルの部屋の様で何となく寂しい雰囲気だったのだが、センチメンタルな気分にばかり浸っていてもしょうがないと言わんばかりに再びリビングの方へと移動すると、閉まっていたカーテンを敢えて弾みをつける様にして開いた。
すると、きっと朝の時間帯に洗濯をしたのだろうと思われる黒曜が良く着ている黒色の服が、春風にゆらゆらと揺れているのが眼に入ったので、鍵をガチャリと開けると、偶には私がお前のモノを選んでやるよ、と去年の夏に百貨店の中の靴屋でモクレンが選んだ(其の際の支払いは勿論、黒曜)亜麻色のサンダルを突っかけて、同じチームCに所属をする玻璃の髪色に良く似た色彩のハンガーに掛けられた黒色の服をヒョイと取り込んだ。
すると其の瞬間、ほんの一瞬だが、風が吹いて痘痕一つないモクレンの顔に服がぬらりと掛かった。
ワッと聲を上げた途端、黒曜の纏っている物憂い雰囲気の香りが鼻腔を擽った。
其の瞬間、モクレンの中にある慾望が沸々と湧き上がった。
彼奴の香りを、そして此の服を、此の身に纏いたい、其れも今此処で、と。
半ば乱暴な手付きで鍵を閉め、早歩きでハンガーを元の場所に片付け、纏っていた服を脱ぎ、そして丁度二年前の春、黒曜がモクレンの為にと、マンションから徒歩十分の距離にある雑貨屋で購入をして来た錆利休色の立ち鏡の前に立ったモクレンは、此の部屋に泊まる際は、必ずと言って良い程、自身の身体を眺めた後、黒曜の服を「拝借」した。
うわっ、思ったよりデカいな。
モクレンは独りそう呟くと、立ち鏡の前で舞踏のポーズを取る真似をした。
此れは小さい頃からの癖で、新しい服或いは普段着慣れぬ服を纏った際、必ずと言って良い程、鏡の前で動き易いか否かを確認するのである。
其れ位、モクレンの頭の中は物心ついた頃からダンスの事で頭が一杯なのだが、黒曜は其の点を十二分に理解をした上でモクレンの事を愛しているのは又別の話。
そうこうしているうちに、立ち鏡の中に帰宅直後の黒曜の姿がチラリと浮かび上がったかと思うと、背後〈うしろ〉からガバッとモクレンは抱き付かれ、そしてお姫様抱っこをされるカタチとなった。
わっ。
突発的な出来事に思わず聲を上げると、黒曜は其のまゝモクレンを抱き抱えた状態でキングサイズのベッドが設置されている寝室へと入って行き、ベッドの上へ容赦なく投げ飛ばした。
黒曜ぁベッドの側のオーディオ・プレイヤーのリモコンのボタンを勢い良く押してプレイヤーを起動させると、スピーカーから流れて来たのはT・レックスの『ゲット・イット・オン』のイントロだった。
此れは予期せぬ出来事だったな・・・。
自身の身体の上へと跨り、獣染みた眼でしっかりと見据えてくる黒曜に向かってモクレンが言った。
突然炎のごとく、って言うだろ。
ならばハートに火をつけて。
分かったよ、お姫様。
そう返事をした黒曜は、モクレンの身体をギュッと抱きしめ乍ら、柔らかな肌触りのモクレンへの首筋へと熱い唇を落としたのだった。〈終〉
キミを纏う