祈り

まことの道にかないなば祈らずとても神や守らず

祈り
                               
「お尋ねしたいです。先生はどちらへ?」
中年の男性がお土産の紙袋を持って立っていた。
「今は祭殿の方に上がってます」
おれは竹箒を動かす手を止めて、答えてやった面倒ではあったが社務所の方に案内する。
「どうぞ。お茶でも飲んでお待ちください。」
「いいえ。待ってます。」
客の半分は境内にあるベンチに座って、ひたすら待っている。
ここは山の中の小さな神社だ。
観光案内の地図にすら記載されていない時もある。
よく神社てのは地名がそのままついている。が、そんなふうでもない。
ここでお尋ねといえば、ご神託で
先生といえば、仁井田宮司のことで
客といえば、彼の信者のことでだ。
この神社では、客の大半は県外からというから驚きだ。
そして、おれは誰だと来客からは思われているかもしれない。
神社に修行に来ている若者か
宮司の知り合いの息子か
そうではない。
おれは旅人だった。


世間ではおれのような奴を愚者と呼ぶ。
会社の上司に仕事を辞めることを伝えると、精神科を受診するように勧められた。
精神科医はおれに聞いた。
「睡眠はよくとれてますか。食事はどうですか」
おれはよく寝ているし、食事もきちんと食べていると答えた。
「最近、何かありましたか」
おれは母が亡くなったことを、告げた。
「そうですか、お薬を出しておきますね」
「何の薬ですか」
「薬は嫌いでしたか」
「何で」
「分かりました。また何かあったら、来てください」
医師はおれの疑問には答えずに、おれとの会話を断ち切った。
上司に受診したことを伝えると、上司はおれに聞いた。
「先生はなんて」
おれは答えられなかった。
しばらくして、おれは会社を辞めた。
友達はおれを非難した。
「仕事辞めてどうするんだよ」
「次の仕事考えているのか」
おれは何も考える事が出来なかった。
体がだるい、とても眠い、やる気が出ない。
おれは食事をすることも忘れて、ひたすら、寝てばかりいた。
たくさんの夢を見た気がする。
そして、おれは家を出て、仁井田宮司と出会った。
おれは彼に聞いたことがある。
「こんな時代に仕事を辞めてしまうなんて、馬鹿ですよね」
「仕事は決まっとる」
「はあ」
おれの次の仕事は決まってなかった。宮司の言葉は凡人には難解だ。
「仕事は決まっとるから、心配せんでいい」
「どういう意味ですか」
「心配せんでも、仕事は来る」
「それはご神託ですか」
「神様が言わなくても、そうなっとるから」
「でも」
「大丈夫、大丈夫」
おれはしかめっ顔を保ちきれなくて、苦笑した。


仁井田宮司の長男亘は大きな口を開けて笑った。
食卓にはおれ手製のおでんと鯛の煮物が並べてある。
お祝い事が続くと社務所の冷蔵庫は鯛で埋まる。
いつも夕食は社務所で仁井田宮司夫妻と一緒に食べているが、その時に亘が連絡もなくふらりと現れることもある。
今夜は婚約者の佐和子も連れて遊びに来ていた。
亘が上目使いでおれに聞いた。
「どこからきた」
「埼玉」
「どうやって」
「バイク」
おれは学生時代の友人宅を訪ねて無料で泊まらせてもらたりした。
「腕相撲やろう」
何が可笑しいのか、亘はよく笑う。そして、よく飲む。
亘のグラスが空になったので佐和子がグラスに氷を入れようとするのを、手でやめさせる。
グラスに焼酎をそのまま注いだ。
「ありがとう、さっちゃん」
彼女がにこにこしながら亘の世話をしているのを見ると、何故か目頭が熱くなった。
いつ見ても幸せそうなカップルだ。
おれも酔っているのかもしれない。
「おれのには氷いれてくれよ」
勝手に焼酎を注ごうとする亘を睨んだ。
誰もどうしておれがここにいるのかを聞かない。
彼らは慣れているのだろう。
以前にも、おれのような奴がいたという話を耳にする。
いずれおれも前にこんな奴がいてさ、と話のタネにされるに違いない。
今はこの奇跡のような時間に感謝の気持ちでいっぱいだ。

おれのバイクが故障して神社の駐車場に停めてもらったのが、始まりだった。
「すいません。バイクが故障してしまって、近くに修理に出せるようなところがありませんか」
おれは社務所でお茶を飲んでいた仁井田宮司に声をかけた。
宮司は黒の鳥帽子をかぶり、水色の袴に紫の狩衣を着ていた。
宮司はすぐに電話をかけて、業者を呼んでくれた。
「どうする」
「はい」
「上がっていくか」
宮司の言っている意味が分からなかった。
けれど、おれは宮司について行った。
社務所の隣には渡り廊下があって、拝殿につながっていた。
おれたちは履物を脱いで、拝殿の奥にある祭殿へ進む。
「入って」
おれが祭殿にかけてある階段を登ることに躊躇していることに気がついて声をかけてくれた。
階段の幅が狭くて俺の足が乗らない。
その時、空気が変わった。
宮司が祭殿の扉を開けた。
戸を開けた瞬間に何かが聞こえた。
それは、溜息か、ささやき声か。
何本もの蝋燭の灯りが薄暗い室内でゆらめいていた。
祭壇には大きな鏡を取り囲むようにご神体が安置されてある。
宮司はおれに背を向けて呪文を唱え始めた。
お祓いと祝詞をあげてもらう。
おれは宮司の声を聞いていると涙が出てきた。
気がつくと、宮司はおれと向かい合っていて、座っていた。
「どうしました」
「母が亡くなりました」
「そうですか、それは大変でしたね」
「はい」
「今日は泊まっていかんですか」
それからおれは神社に住み込みで働くことになった。
宿泊場所は社務所と拝殿の間にある部屋でいつもは雅樂の練習場になっている。

「竜二君。ゆで卵持ってきたの」佐和子がにこにこして社務所に入ってくる。
彼女は婚約者の亘より仁井田宮司の方が好きなんじゃないかと思うほど、宮司を訪ねてやってくる。
「宮司さん、ゆで卵好きなんだよ」
彼女がにこにこしていると、おれも笑顔になってくる。
「ありがとうございます」
佐和子は冷蔵庫にゆで卵を入れながら、おれに聞いた。
「竜二君は宮司さんにお尋ねした」
「はい。おれ、母を亡くして、癌だったんです」
「そう、私が宮司さんと出会った時はまだ看護師だったの。もっと上手に患者さんの苦痛を取り除けないかと思ったわ。痛みを無知覚にするのではなくて、肉体から離れて魂がゆっくりと休めるような時間を病室でも持てたないいな。それから、出来る事なら、彼らをここに連れて来たかった」
おれは母の死に目に会えなかった。
病院から知らせがあって二日で死ぬとは思わなかった。
誰もが予想しなかったことだ。
病院から電話をもらって、カレンダーで確認したことを今でもはっきり覚えている。
水曜の午後に携帯電話に呼び出し音が鳴った。
おれは仕事があるから土曜の午後には着くようにすると病院側に伝えた。
病院側は医師の説明があるから受付でおれが来たことを知らせるように言われた。
母が死んだのは金曜の夜だ。
誰も悪くない。
おれは自分を責めてもいない。
だだもう一度会って、お別れの挨拶くらいさせてほしいとささやかに願った。

おれは亘と一緒に山の草刈りをしていた。
亘は神主の勉強を大学で一年間学び、神社では宮司の下の位である禰宜という役職にある。
亘は宮司に同行して仕事をすることもあるが山に居る方が好きだという。
おれ達は草刈りが終わると、山小屋で休憩することにした。
「佐和子さん看護師なんですね」
「お前と一緒」
亘はひと差し指をおれに向ける。
「何が」
「佐和子も離れに住んでた。看護師でいるのには優しすぎたんだろうな」
亘は遠くを見て悲しそうに笑った。
「あの」
「何だ」
「仁井田宮司には神通力みたいな不思議な力があるそうですね。亘さんも」
「おれにはないよ」
「おれには出来ない」
亘はもう一度きっぱりと言った。
「自分のことも分からないのに人のことは分からないだろ」
それでも、毎日毎日お尋ねに来る信者は後を断たない。
皆が不確かなものを、確かなものに
知らないことを知るために
知らないものは信じられない
確かなものだけ手に入れたい
それが可能性であることを忘れて
神様へ尋ねにくるのだ。

昔は身を委ねるのが怖かった。
母子家庭だったからかもしれない。
母の手を煩わせることが厭で、早く自立したかった。
高校に入学すると同時に寮に入った。
寂しいようなほっとしたような妙な気分だった。
そのおれがここに来てから頭を下げたのだ。
「もう少しここに居てもいいですか」
「いいよ」
宮司は即答した。
「でも、おれ」
何を言って欲しかったのか
宮司は返事も早いし、行動も早いし、時々何も考えていないんじゃないかと思う。
「おれ、親孝行出来なくて、それで」
「大丈夫、大丈夫」
「でも、おれ」
まだ、話の途中なのに宮司は立ち上がった。
「祈っとくから」
宮司は社務所の外に出た。
ちゃんとおれの話を聞いてくれよ、と声に出しては言えなかった。
宮司は何も考えていないだけじゃなく、人の話も聞いてくれない。
どうして宮司はおれを神社で働かせてくれるのだろう。
最初は、こんな山の中で暮らしていて、人恋しいのかとも思った。
しかし、この神社には全国からたくさんの信者が訪れる。
おれを雇わなくとも、きちんと教育を受けたスタッフを雇うこともできるはずだ。
何度も、おれが聞くと、人手不足だったから、と宮司は答えた。


「気功ってなんですか」
「いいから、いいから」
佐和子の勢いに押されて、おれは神社の離れで気功を習うことになった。
おれ達の他には夫婦と女性二人組が一緒に参加していた。
気功師は白い道着を着て、腕を上下に振っていた。
挨拶とか説明は一切なしだ。
「ここは良い気が出てますからね。感じやすいはずですよ」
「ゆっくりがいいんです」
おれ達は気功師と向かい合ってゆっくりと腕を振った。
「あ」
手の平がピリピリとしてくる。
今まで感じたことのない感覚だ。
これが気なのか。
「気を感じる人は踊りだす人もいるんですよ。さあ、円を作ってください」
気功師は胸の前でボールを持つような姿をとる。
「わ」
おれはバランスを崩して、足首をひねった。
「大丈夫ですか。それではこの円をゴムのように伸ばします」
気功師はおれになんか構ってられないとばかりに先に進む。
「いてて」
「竜二君、じっとしててね」
佐和子はおれが痛めた方の足首に手を当てる。
手当した部分がじんわりとあたたかい。
佐和子が何をしてくれているのか言わなくても分かった。
気を送ってくれているのだ。
「ありがとう」
佐和子の優しさが彼女の手を通して伝わってくる。
「効いてる」
「痛くない」
おれは足首を動かしてみた。佐和子は凄いな。
「良かった。自分では分からないの。先生があなたはもう出来る人なのに逃げてるって。本気で気功の勉強したのは仕事を辞めた後だったの。仕事しながら出来たら良かったけど、私は看護師には向いていない」
「そんなこと」
おれは彼女の悲痛な顔を見ると何も言えなくなった。

おれ達は神様が描いた大きな大きな絵の一部でしかない。
例えば、おれは日本にいて立っているが日本全体が見えるわけじゃない。
おれは離れにふとんを敷いて寝ていた。
電気スタンドなんてないから真っ暗だ。
「お母さん」
闇の中に吸い込まれていくおれの声が聞こえた。
どうしておれが病院に行くまで待ってくれなかった。
病状の説明をします。
おれが病院に着いて、最初に医師が言った言葉だ。
もう死んでる奴の説明なんか聞きたくない。
おれはまだ母に何もしてやれてない。
普通はこんなに早く亡くなることは非常に珍しいことです。
知らなかった。
知らなかった。
母がいなくなるなんて思わないじゃないか。
仁井田宮司。
あんたなら死者の声を聞けるんじゃないか。
声を聞かせてくれ。
母はどんな思いで亡くなったのか。
おれは目を閉じて耳を澄ませた。
「大丈夫。大丈夫」
聞こえたのは仁井田宮司の言葉。
「祈っておくから」
祈りなんて何の慰めにもならない。
けれど、母の為に祈ってほしい。
「大丈夫。大丈夫」
うるさいくらいに何度も繰り返し、宮司の声が暗闇に響く。
いつの間にかおれは寝てしまっていた。

おれは朝五時に起きて境内の掃除を始める。
トイレ掃除、社務所、拝殿、参道や駐車場のごみ拾いを二時間かけてやる。
早朝から観光客が来ると札所を開けて、お守りを売ることもある。
掃除が終わると朝食を作って食べる。
八時になると仁井田宮司が出社してくる。
おれは宮司にお茶を入れて、しばらく雑談する。
その内、信者達がやって来て、宮司は祭殿の方へ上がっていく。
おれは昼食の準備をする。
来客は11時過ぎから忙しくなり、食事中にも現れる。
常識のない奴がいるものだ。
時に宮司は昼食が食べられないこともある。
神様は食事をしないと思っているのだろうか。
三時過ぎると客足が途絶え、お茶と共にお菓子を頂く。
この神社には全国の銘菓が集まってくる。
その後、夕食の準備を済ますと、もう一度、参道や駐車場を見回る。
夕方、誰も来なければ宮司の家族と食事に出かけることもある。
この仕事の給料は宮司と相談して決めた。
最初は断ったんだ。
おれは仕事としてやってるんじゃない。
けれど、聞き入れてもらえなかった。
いつか帰らないといけないことはわかってる。
おれは住んでいたアパートを引き払い、母が住んでいた一軒家に、おれの荷物を詰め込んで、必要最低限の荷物をバイクに乗せた。
仕事もない。
家族もない。
恋人もいない。
おれに残ったのは家くらいだ。
ここにずっといるわけにはいかないんだ。

体がバラバラになるかと思った。
決して比喩なんかじゃない。
思考と現実があまりにもかけ離れていると、身動きがとれなくなる。
おれのからだの半分は神社にいながら、もう半分は母を求めて彷徨っていた。
「どこから来たの」
信者からよく受ける質問だ。
彼らは社務所で宮司を待つ間の暇つぶしにおれに質問する。
一時間前から、中年男性は煙草を吹かしていた。
社務所の換気は悪い。
せまい社務所が白い煙で満たされていた。
美由紀は煙草が嫌いなのよ、と言った。
アンタが煙草吸ったら別れるからとも、言われた。
煙草好きは自由に吸えるけど、煙草が嫌いな人には拒否権がない。
煙草好きの吸ってもいいですかは確認じゃなくて、宣言なのよ。
宮司は中年男性が帰ると、社務所のドアを全開にした。
「煙草の煙が凄いな」
「困りますよね」
「そうだね」
「自宅ならまだしも」
「煙草好きはね」
「はい」
「治らんだろう」
宮司はどんな人でも受け入れてしまう。
「うちは換気扇が一つしかないから」
「はい」
「ドアを開けておくしかないね」
相手を受け入れては、流してしまう。
宮司は人を拒むことはない。その代わり、気に止めることもない。
おれ達は我慢するか、相手を言葉で説き伏せようとしてしまう。
けれど、人は変わらない。
いいや、変わらなくていい。
どんなにひどい体験でも、受け入れて、流してしまえばいい。
この神社にはどうしてこんなに人が集まるのか、分かる気がする。
人々は様々な想いを抱いて、神社の鳥居をくぐるだろう。
しばらくの間、宮司と共に神社で過ごす。
そして、あるがままの姿で帰って行く。

お宮参りに来た参拝客が社務所に入って来た。
「ありがとうございました」
着飾った母親の両腕に毛が生え揃っていない子供がしっかりと抱きかかえられていた。
子供はとても幸せそうだ。
どんな時でも、子供は幸せそうにしている。
おれが子供だった時に持っていた幸せはどこにいったのか。
分からなくなってしまった。
美由紀は自分自身を責めるのはやめて、と言った。
その頃のおれの口癖はこうだった。
どうしてなんだ。
何故なんだ。
自分自身に何度も何度も問いかけた。
おれは責めてなんかいないと言い返した。
ただ、疑問に思っただけなんだ。
頭の中で途切れることなく、疑問が浮かんでは消える。
子供の魅力は、瞬間瞬間を生きていることだ。
おれは宮司にこんな質問をした。
「いろいろ考えてしまうのを止めるにはどうしたらいいですか」
「瞑想をするといい」
「どうやってするんですか」
おれは座禅を思い浮かべた。
「イメージをする。丸い輪の中に自分の体を放り込む」
「輪の中に」
「皿でもいいし、絵をかいてもいい」
「最初は目を閉じない方がいいな。そして、じーとそれを見て集中する。やがて、輪の中に入ることができる」
「はい」
「考えるのをやめろとは言わない。考えて答えを導き出そうと思うのは悪いことではない」
おれは考えれば、考えるほど、気持ちが落ち込んできた。
それでも、考えてしまう。
「今という瞬間を駆け抜けなくていい。今をとらえた瞬間にすとんと未来が落ちてくる」
「腑に落ちるってこと」
「変わろうとするから、変わらないことに気づく。何も考えず飛び込んでみるといい」
宮司は何も考えてないと思ったけれど、おれに行動で示してくれたのか。
宮司には敵わないな。

週末になると観光地のように多くの人が神社に訪れる。
「観光地か」
おれの言葉に亘がにやりと笑った。
亘は鳥帽子をかぶり、白衣に水色の袴をはいていた。
忙しい時は、亘も社務所にいて接客する。
「皆、光るものが好きだから、観にくるのかもな」
「光るものって」
「祭壇を見たな」
「はい」
「何があった」
「鏡とご神体と蝋燭」
「鏡には何が映る」
「何って自分の顔」
「祭壇に祭ってあるのは自分自身でもあるってこと」
「自分自身」
「本当は祭壇に祭るほど尊いものだと思いだすことが出来る」
「それなら、ご利益がなくなりますね」
「ご利益だって。神様がご利益をくれたことがあったか」
「お守りを売ってるじゃないか」
「まが目、もが守るでお守りという意味なの。目を離さずに見る。自分自身を見詰めてみなさいと言ってるわけよ。わかった」
「本当ですか」
おれは疑いの目で亘を見た。
今日は神衣を着ているが、いつもはタオルを首にまいて、ジャージを着ている。
エセ神官だ。
「本当、本当」
亘は冗談を言うみたいに軽く言った。
「自分が神様みたいに尊いものだと思ったら、悪いこと出来ないだろう。
「そうかな」
「自分が尊いものだと人々に扱われたら、その期待を裏切るまいとするだろう」
「でも、有名人でもなければ、誰がそんな」
「他人に見てもらわなくても、自分で確認出来ればそれでいいのさ」
「でも、それは」
いくら自分で思っていても、他人の評価は避けられない。
「自分には価値がないと思っているだろう」
亘の言う通りだった。おれにはそんな価値がない。
「でも、最後には自分自身が評価するものなんだ。今は他人の評価が気になるかもしれない」
「今は無意味に思えることでも価値があり、例え誰にも評価されなくても、素晴らしい経験をさせてもらっているってこと」
おれは亘の中に宮司と同じ資質を見た。

もう全てを失っていいと思いながらも、チャンスがあれば取り戻したいと思う事が、とてもつらかった。
病院から電話がかかってきた時にすぐに家を出れば、最後に母に会えたかもしれない。
何も考えず、仕事に集中していたら、仕事を辞めなくて良かったかもしれない。
もっと強く美由紀を引き止めれば、そばにいてくれたかもしれない。
「これから頑張れば、いいのよ」
美由紀はおれを勇気づけてくれた。
しかし、これからなんてあるのだろうか。
もう二度とないような気がする。
「おれ、どうなるのかな」
宮司が目の前にいるのを忘れて、つぶやいた。
「これから、忙しくなる」
宮司の言葉はおれの思考を一時停止させる。
また例のご神託だ。
今日は平日で雨が降っている為、珍しく来客が一人もいない。
社務所でおれと仁井田宮司だけで話をしていた。
おれは宮司にお茶を入れる。
「元気がないものに仕事を与えようとするものはいない。元気のない者が元気になると忙しくなるぞと言ってやる。すると、忙しくなる」
「でも」
今のおれの状態は何も変わることがない。
「準備期間だと思えばいい」
「準備期間」
「体を動かし、知識を深め、英気を養う。自分の弱さに気づかなければ、人は自分自身に目を向けるのを忘れてしまう」
そんなもの見たくない。
認めたくない。
「どうぞ」
宮司に湯飲みを渡す。
「ありがとう」
雨は人を憂鬱にさせる。社務所の外は薄暗く、雨が激しく降っていた。
誰もが、成功したいと思うのは悪いことだろうか。
運命は天気のように気まぐれで、努力しても報われないことが多い。
「宮司は成功されてあるから、弱さを見せることで、好ましく感じられるでしょうね」
「人に弱さを見せなくていい。問いかければ、答えは返ってくる。弱さを知らないものは問いかけることを忘れてしまう」
おれは自分自身に問いかけてみても、返ってくるのは、こだまだけだ。
どうしてなんだ。
何故なんだ。
繰り返し問いかけたが、答えは出ない。
「問いかけこそが答えだと信じることだ」
「宮司、おれは」
「信じてみてほしい」
おれは信じることが出来なかった。
ふと、社務所の窓から外を見る。雨は降っていなかった。
今は信じられない。
必ず雨が止むことしか信じられなかった。


他人との共通点があると喜しくなり、他人と比較して自分はまだマシだと思って安心する。
どちらも一時的な感情だ。
それでも聞かずにはいられない。
「佐和子さんは仕事を辞めた後はどう思いました」
「つらっかたよ。自分の価値がなくなると思ったの」
「おれもそう思いました」
「でも、失うものなんてなかった」
「それは看護師だから」
看護師は国家資格で身分が保障されている。
「そんなことないよ。家族がいて、仕事があっても、自分の居場所が私にはなかったの」
「もし竜二君が高校生の夏休みに神社で寝泊まりすると、って考えたらどう思う」
「楽しそうですね」
「今は」
「今はつらいです」
「竜二君が高校という居場所に所属しているからよね」
「今は許されないですよ。この歳で働いていないなんて」
「でも、凄く役に立っているわよ」
「誰でも出来る事です」
「宮司さんもよく働いてくれるって言っていたわ。自分に出来ることって苦労しなくていいの。苦労しなくても、他の人が出来ないようなことをしてくれているの」
「今でも、後悔するから」
おれは今までに起こった出来事を佐和子に話した。
「そうなんだ」
佐和子は何度もうなずいて、真剣に聞いてくれた。
「お母さんは竜二君に苦しんでいる自分の姿を見せたくなかったの。だから、竜二君が病院に着く前に亡くなったのよ」
「母さんが」
そんなの気休めだと思いながらも、そうであったらいいなと願う。
「美由紀さんも竜二君の為にお別れしたんだよ」
「それは分かってる」
「分かっているから、情けない」
目に涙が浮かんできた。
「分かっているから、情けないんだ」
「大丈夫だよ。何でもいいの。これから、出来ることをやろうよ」
「はい」
「宮司さんがいつも言ってくれているでしょう」
「もう聞き飽きたよ」
おれは憎まれ口をたたく。
「繰り返し、言い続けてくれる人が私達には必要なのよ」
大丈夫、大丈夫。
おれは心の中でつぶやいた。

三時を過ぎると、一息つく時間がある。
おれが境内のベンチに座っていると、亘がおれの隣に座った。
亘は神衣から普段着に着替えていた。
ジャージ姿の男と座っていると、地元の青年にしか見えないだろう。
おれ達の目の前には大きな杉が二本立っている。
異様な大きさの木々が境内を薄暗くしていた。
地面には木漏れ日が差して、その部分だけが光っていた。
今では神社はスピリチュアルスポットとして人気だ。
「皆、癒されたいからきているのかな」
「神社に来ると癒される、とか」
おれは女の声真似をして言った。すると、亘が吹き出した。
「本当に癒しが必要なら神社に来るか」
「どうして」
「誤解を恐れずに言うなら」
亘はおれの顔を横眼でちらりと見た。
「何も求めず、ただ癒されたいと思うなら、身分が低い方へ行くだろう」
「マッサージ、占い師、水商売。何をして生計を立てているのか分からないような場所に、もっと綺麗で立派な店に入れるサラリーマンが下町の方が好きだと言っては訪れる」
「それは他に行くところがないから」
「わざわざ汚い店に入るか」
亘の言う通りかもしれない。
「神社には後押ししてほしかったり、力を借りたい時に訪れる人が多くないか。受験前の合格祈願みたいなものだな」
「そうだね」
「浄化と穢れが統合して癒しになる」
「穢れを払うのが神道じゃないのか」
「神道は随神の道。神の性質という意味だ。万葉集でもあるだろう。葦原の瑞穂の国は随神言挙せぬ国。神の御心のままで人為を加えないこと。神様は良いとか悪いとか言わないのさ」
「でも、おれのように逃げてきた奴はどうする」
「裁かないことだ。自分では逃げていると思っても、後になって考えたら違うかもしれない。人を裁かないことが神へ近付くことが出来る道だ」
「おれにはよく分からない」
おれは何か欠点があれば改善したいと思ってる。どうしたら、逃げずに現実と向き合えるのかを知りたかった。
それとも、自分に欠点があると思うことが、自分自身を裁いていることになるのだろうか。
「分からなくていい。自分も他人も裁かないだけでいい」
亘はいつも持っているバックから横笛を取り出した。
この横笛は鳥のさえずりのような優しい音色がする。
「吹こうか」
「聞きたい」
おれは目を閉じて、亘の演奏に耳を傾けた。
横笛の名は竜笛という。

知りたいと思うことは自分自身への問いかけでもある。
今はどんな悩みにも睡眠薬、向精神薬、抗うつ剤が使用される。
医師は精神的な症状が落ち着いてからこれからのことを考えましょうと言う。
確かに薬物で、この状態から抜け出せるかもしれない。
けれど、おれは良くなりたいと思ったことはない。
むしろ、これは祈りなんだ。
何かを強く獲得したいと思う時に人は神に祈りを捧げる。
ある者にとっては、病気平癒かもしれないし、学問成就かもしれない。
美由紀はおれを抱きしめて、言った。
「もう考えなくていいから」
おれは自分なりの答えがほしいと思った。
誰だって、嫌なことには目を背ける。
精神科に病名を決めてもらって、与えられた薬物を内服すれば、誰もが病人になれる。
最近は小学生がいじめられても、薬物を処方する医師もいると聞く。
子供はスクールカウンセリングをつけて、保健室で勉強をする。その為、独りで内証する時間が与えられなくなってしまった。
宮司はおれの話に眉をしかめた。
「今、なかったことにしても、後から出てくる」
「そうですね」
おれは何度も何度も苦しんだ。でも、全て出してしまうことが必要だったのかもしれない。
終わりのない苦しい時間を、自分から切り離すことは出来なかった。
宮司はおれの顔をじっと見て、慰めるように言った。普段、宮司はそんな口調で、話しかけることはない。
どんな時も穏やかで、独特のテンポで話が展開される。
「心配しなくとも、仕事は見つかる。人から見れば難しいことでも、自分では簡単に出来てしまうようなことが仕事なんだよ。いつかそういう仕事が見つかるだろう」
そんな仕事があるのだろうか。
宮司は特別な能力があるから仕事としてやっていける。
だから、全国から仁井田宮司を尋ねて、この神社に訪れる。
霊能力者。
ご神託。
どんなに派手な口コミが出回ろうとも、宮司は変わらない。
いつも丁寧に話を聞いてくれる。
それは同時に病的な者を惹きつける原因でもある。
夜中でも神社の電話が鳴りやまないことがあった。
おれは社務所から聞こえてくる音に辟易した。
宮司は電話の電源を切るように、おれに指示してくれたことがあった。
こんな精神科医がいてくれたらいいのに、と思う。
精神を病んだ時の耐えがたい真夜中の時間に電話をかけたくなるのは、分からないでもない。
宮司は神社の電話、自分の携帯、ファクス番号を信者に公開していた。
この覚悟があの医師にはあるだろうか。
この覚悟に比べれば、特別な能力があったからと言って、何になるというのだろう。

耳を澄ませば、おれにも神の声が聞こえてくるだろうか。
ポタ、ポタ、ポタ。
おれの寝床になっている神楽の練習場所の外では雨が降っていた。
ある日、おれが家に帰ってくると、母がリビングのテーブルに座って、静かに泣いていた。
嫌な予感がした。
両親が離婚したのは、新築の一軒家を購入してから三年目のことだった。
突然、自分の環境が変わってしまったことに、おれは戸惑った。
自分の両親、自分の家、自分の部屋。
全て、自分のものだと思っていたものは、自分のものではなかった。
おれ達は必要最低限の荷物を持って、せまいアパートに引っ越した。
おれは子供だから出来ないことはたくさんあるけど、望めば手に入るものばかりだと思っていた。
ちょっとした学校の規則を守り、親の注意を我慢して聞いていれば、後は何をしても自由だった。
なのに、父がいないというだけでおれ達は経済的に苦しくなり、住環境も悪くなった。
そんな時、おれ達の味方になってくれたのは、父方の祖父だった。
「心配しなくていい。竜二が成人するまでおれが面倒みるから」
正直、祖父がうっとうしいと思ったこともある。
おれはこの時も知らなかった。
祖父は心臓を患い、数年前から余命二年と医師から宣告され闘病生活を送っていた。
「最初は命があるだけで、生きられると思った。命があるだけでいいとね。でも、それだけではこの苦しみを乗り越えることは出来なかった」
祖父の目に涙が浮かんでいた。
「おれの夢は竜二の成人式に出席することだ。その為なら、おれはどんなに苦しくとも生きてられる。」
「苦しい、苦しい、と言ってもな、自分の体なんだよ。切り離すことは出来ない」
祖父はおれの学費を銀行に振り込みに行く途中で倒れた。
祖父のカバンにはおれの大学入学を祝う手紙も入っていた。
そうだ、結局、祖父の夢は叶えられなかった。
「竜二。どんなことでもいいから、夢を持って生きろ。夢なんか持ったって生活出来ないじゃないかと思うかもしれない。でも、いつか分かるだろう」
「夢とか目標とか希望がなければ、命という灯を燃え上がらせることが出来ないということを」
でも、祖父の命の灯は消えてしまった。
そして、おれの灯も消えそうになっている。

おれが、社務所に入ると、スーツ姿の男性が仁井田宮司と話していた。
彼はおれの顔を見て、先生の息子さんですかと聞く。
「あれは住み込みで働いている者です」
仁井田宮司は亘に神社の後を継がせたいと思っているが、亘にはその気がないように見える。
おれは今まで宮司が怒っているのを見たことがない。
だけど、亘だけは宮司を怒らせることが出来る。
どんな難問も解決してきた宮司でも家族間の問題では手を焼いているようだ。
以前、御宮詣りの予約が入っていたので、亘にまかせようとしたら、亘は遅刻してきたので、独りでぶつぶつ言いながら宮司が準備をしていた。
亘は悪ふざけをする時もあるが、誠実に話を聞いてくれるし、聡明で何でもよく知っている。
おれから見ると、宮司と亘はよく似ていると思う。
彼らの違いは使命感を持って仕事をしている宮司に対して、亘は常にその場の流れを大切にしていることだろうか。
「違和感がある」
いつか絵馬掛けの裏で立ち話をしていた時に亘は言っていた。
亘は神社に来ても必要な時以外は神衣を着ないし、宮司と顔を合わせることもない。
「おれは人が死んだ時に凄く悲しむ人を見ると、そんなに悲しむなよ、と思う」
身内が生きてるからおれもどうなるか分かんないけどな、と亘は言った。
佐和子はおれの母の死を亘に伝えただろうか。
亘の言葉に胸がぎゅーと締め付けられた。
「いつでも起こることなのに、起こった後の方が重大な出来事だと思い込んで浸っているのはどうかと思う」
「例えば、災害なんかで家族全員が生き残ったことを喜ぶ人にも違和感がある。自分の家族だけが助かればいいのか。他人の命も同じくらい大事じゃないかって言いたくなる」
「家族は死んで悲しいと思うのは理屈じゃないだろう」
おれだって、何年も会ってない母が亡くなったからってこんなに落ち込むとは思わなかった。今まで見ないようにしていたものを、いつからか眼を背けることが出来なくなった。
「おれが言いたいのは特別な感情を持ち過ぎると他者とのつながりが感じ取れなくなるってこと」
あんまり落ち込んだ顔すんなよ、と亘はつぶやいた。
「ありがとう」
おれは照れ隠しに絵馬をいじりながら亘に言った。
「おれにはつながってるって感覚が分かるから得なんだ。昔、友達と夢で会ったと言ったら変な顔された。おれの夢が現実になることもあった」
「それって予知夢」
宮司や信者達は知っているのだろうか。おれの思考を読んだように亘は鼻で笑った。
「親父が困っている人を助けたいと思うのは立派だよ。でも、自分だけが得をしようと思って来てる人が多いのも事実だと思う」
「でも、おれは宮司に救われた」
「おれと親父の趣味って似てるかもな」
嫌だな、と亘は顔をしかめた。
 
おれと仁井田宮司はお守りを作っていた。
「先生。ご無沙汰してます」
「おお、どうした」
おれは男性の信者にお茶を入れるために立ち上がった。
宮司は男性に椅子を勧める。
「なんか景気のいい話はないね」
「なんできた」
「ここにくれば金が入って来ないかと思って」
おれは仕事しろよ、と心の中で突っ込みをいれる。
なんて正直な願望だろう。
「どこも変わらん」
「先生のところには人がたくさん来るだろう」
「ああ」
「なんでか、教えてもらえませんか」
「私でなくて、皆はお参りのために来てます」
いつもおれは思うんだ。
成功者は時に妬まれ、成功の秘訣を多くの人に聞かれる。
一方、敗者は過去の失敗を何度も持ち出され、さげずまれる。
どちらにもなりたくない。
「どうかすると、先生。おれは借金して従業員に払わないといけない」
「そうですか」
「雇う方は大変ですよ」
男性は経営者だが、裕福そうに見えなかった。
冴えない顔色、くたびれたスーツ、仕事でなくても会いたくないタイプだ。
生まれる環境はとても大切だと思う。
今までの歴史で貧乏人が救済者になったことがあるだろうか。
アッシジの聖フランチェスコは大富豪の息子だった。
アルベルト・シュバイツアーは二十歳で大学の教授だった。
すべてが満たされて、初めて人は人のために身を投げ出すことが出来るんじゃないか。
仁井田宮司は生まれる前から宮司になることが決まっていた。
誰もがなれるわけではない。
神通力。
カリスマ性。
人々の信仰。
幸運にも、おれは仁井田宮司の傍で彼を見ることが出来た。
宮司は相談料を取った事がない。
宮司は体調が悪くても休むことがない。
もし宮司が望めばあらゆるものが手に入る。
これは罠かもしれない。
お祓いと祝詞をあわせて、十分もかからず、時に数十万円もらえる。
普通に仕事をするのが馬鹿馬鹿しくなる。
宮司はその奉納金を自分の懐には入れずに、本部に送っている。

おれはようやく気がついた。
予言なんか当たらない方がいいし、いつまで待っても神の啓示なんて与えられないということに。
宮司は神のように崇められ、神の声が聞ける霊能力者だと世間の評判になり、全国から信者が訪れる。
その信者が持ち帰るのは、宮司との世間話とお守りくらいで、神秘体験をしたいという噂を聞いたことがない。
期待していたものは何だろう。
期待が裏切られたと思わないのは何故なんだ。
宮司の存在はおれ達の触媒であるということ。
自分自身に変化を促す作用があるってことに気がついた。
以前、社務所で佐和子が遊びに来た時にお茶を飲みながら、おれと宮司と三人で話をしていた。
「最近、癌の患者さんが増えてますね。それから、アトピーの患者さんも」
「ゴムのひもを引っ張れば、引っ張るほど反動が大きくなる」
「どういう意味」
「癌は免疫力の低下、一方、アトピーなどのアレルギー症状は免疫力が過剰なの。だから、アトピーの患者が癌になることはないと言われているわ」
「自分は地球だと思えばいい。地球の反動は自分の反動でもある」
仁井田宮司はおれの顔を見て、言った。
「この神社に来る前は体が軽かっただろう」
「軽いっていうか、ふらふらしてましたよ」
「地球には重力がある、体には重力となる基盤と地軸となる体幹の軸が必要だ」
「今はどう思う」
戸惑っているおれに宮司は聞いた。
「今は気持が落ち着いてきました」
「それは器となる体を養ってきたからだ」
「よく分かりません」
おれは宮司に正直に打ち明けた。
「癌になるのも、アトピーになるのも両方とも必要だということだ。神は日と水で神と呼ぶ。私が神の依代となって、お前を地球に送るから感謝感謝と言いながら帰ったらいい」
「皆、宮司さんに感謝してますよ」
佐和子は体を宮司の方へ乗り出し、必至になって訴えた。
「私達がなかなか変われないから、宮司さんは情けなく思われているかもしれませんが」
「変わったと思わないか」
「えっ」
佐和子はびっくりして宮司を見詰めた。
「変わったことに気づかないか」
「それは、うーん、前みたいにつらくはないです」
「自分では気づかないものか」
「・・・・・・」
宮司は満面の笑みを浮かべて、おれと佐和子の顔を見比べた。
「胸が空く思いだよ」


女性の相談で、一番いのが、恋愛や結婚相談だ。
おれは結婚について仁井田宮司に聞いたことがある。
おれは両親が離婚したこともあって、結婚願望がない。
同じ母子家庭の女友達はおれにこう言った。
「私は家族がほしいの。そして、あったかい家庭を作るのよ」
「そうなんだ」
おれは同意出来なかった。
女性は家族といる時間や家族間での祝い事を大切にするが、男性はそういうことを共有できない。
男性はまず仕事のことを考えてしまう。
家庭は男性にとってやすらぎの場ではあるが、家族と一緒に作り上げるものではない。
仁井田宮司は結婚した方がいいとおれに言った。
「人は一方向しか見てないことが多いから、二人いれば、何かあった時に別の方向も見えてくる」
「船の舵みたいに船の針路を変えてくれる」
おれは美由紀を思い出した。
彼女の決意が旅に出るようにおれを促した。
美由紀はおれに聞いた。
「私と一緒に暮らそう」
おれは美由紀がおれを背負う覚悟で言ったことが分かった。
おれも覚悟を決めた。
「おれは旅に出る。夢だったから」
そう、おれはバイクで日本中を旅するのが夢だった。
「竜二、アンタ、どこにそんな元気を隠し持っていたの」
美由紀は久しぶりに声を上げて、笑った。
おれは美由紀から笑い声を奪っていたことに気がついた。
「ごめん。美由紀」
確かに宮司の言う通りだ。
おれは美由紀がいなければ、決断することも出来なかった。
美由紀は船の舵みたいにおれの針路を変えてくれた。
「結婚はしたほうがいい」
仁井田宮司は何度も言った。
「いつか相手が決まったら、連れてくるといい」
「そうですね」
「この人が良いとか悪いとか分かりますか」
おれは意地悪な質問をした。
「良いとか悪いとかじゃない。この神社に来るものは皆が良い者だ」
「顔をみれば、分かるじゃろう」
美由紀の顔がおれの脳裏に浮かんだ。


おれは三カ月ぶりに携帯の電源を入れた。
着信履歴がかなり溜まっていた。
職場の先輩、友人、美由紀からも。
おれは母が亡くなってから半年で引きこもりになってしまった。
おれが引きこもりなんてまさか、という感じ。
その頃、体がだるくて、十三時間くらい寝ていた。
正式に会社を辞めて、アパートの契約更新がせまっていた。
このまま、更新してしまえば一生アパートから出られないと思った。
「わ」
突然、電話が鳴った。
「竜二」
「美由紀」
奇跡のようなタイミングだった。
携帯の電源が入ってないため、電話してくる奴がいるとは思わなかった。
「良かった。つながって」
「ごめん。美由紀」
反射的に誤ってしまう。美由紀は怒っていない。
「どこにいるの。お墓参りいこう。一週間で帰ってきて」
「ああ」
母の一周忌だった。
「今まで通じなかったのに、夢みたい」
もしかしたら。
「竜二のお母さんが力を貸してくれたんだわ」
美由紀はおれと同じことを考えていた。
美由紀の嬉しそうな声を聞くのは久しぶりだった。
母が死んだ時は一緒に泣いて、うつ病になった時はそばにいてくれた。
「あんた、仕事はどうするの」
「料理人とか」
おれは今まで料理をしたことがなったが、この神社の賄いを始めて料理の腕に自信を持つようになった。
電話越しに鼻で笑う美由紀の気配がする。
「お前、おれの料理、食べたことないだろう」
「私と結婚したら」
おれは驚いて声も出なかった。
「あんた、家族いないし、婿養子になって、うちの家業を継いでほしいの」
「家業って、酒蔵の」
「私も仕事やめるし、親も年だし」
「おれ達、ずっと会ってないよ」
「どこにいるの」
おれは少し考えて笑い出したくなる。
「お酒の神様の近く」
「どういう意味なの」
「結婚式は神社でいいのか」
「どこでもいいわよ。だから、どこいるのよ」
「一週間で帰る」
「うん、待ってるから」
美由紀はかすれた声でささやいた。

祈り

大丈夫、大丈夫。
あなたには無限の可能性があります。
僕はあなたを信じています。
あなたは愛です。
あなたは光です。
あなたと僕はつながっています。

祈り

傷ついた心を抱えて彷徨う男女の再生の軌跡を追った物語である

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-04-26

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