殺した


誰がそんなことをしたの



 ある日、夢を見た。何の変哲も無い部屋に閉じ込められる夢だ。
 真っ白な壁に真っ黒な床。椅子に座った私の正面には、うららかに晴れ渡った空を映す鏡がある。窓ではないところに、閉塞感を抱いた。
 私と鏡の間には、いつも何かが転がっている。
 今日は花だ。名前も知らない綺麗な黄色い花が、丁寧に包装されている。

「その花は、悪い花なの」

 いつも誰かが私に物語を語る。一方的に、どこかから声が響いてくる。
 抑揚が無くて、退屈そうに語るのだけど、声ははきはきと喋り続けた。

「その花の匂いがわたしを苦しめるの。嗅いでみて、とっても甘ったるくて、胸のうちがむかむかするでしょう?」

 試しに立ち上がって、花を摘まみ上げる。一枚の花弁が零れて、鼻腔に微かな香りが漂った。
 でも、それが甘いかどうかは解らない。ミントのような清涼感が無いことは確かだけど。

「その花を潰して。早く潰して」

 言われるがまま、足元に花を落として、裸足で踏んだ。踵でぐりぐりと擦り潰し、何度も踏みつけた。
 整った花弁はひしゃげて、芳香が消えていく。きっと今は私の足が甘ったるい匂いを放っていることだろう。

「今度はこれ」

 声に促されて、背後に振り返る。いつの間にか猫のぬいぐるみが置いてあった。
 随分と精巧に作られたぬいぐるみで、今にも息遣いが聞こえてきそうだ。
 試しに両手に抱えてみると、仄かに温かさまで感じる。今の技術って凄いんだな。

「それは悪い猫なの。にゃあにゃあ五月蠅くて、そのくせ臆病で、自分の手は汚さずにいる」

 手を汚すも何も、これはただのぬいぐるみだ。何もできはしない。
 反論したかったけど、私は一言を発することすら許されない。声はまだ喋り続けていた。

「悪い猫の中身を全て出してしまいましょ。からっぽにしてあげれば、鳴けもしないし、近付く気すら起きなくなる筈だから」

 気付くと私の右手には鋭い包丁が握られていた。刃の部分に花の模様がプリントされた、可愛い包丁だった。
 しゃがんで、猫のぬいぐるみに包丁を突き立てる。腹の真ん中に刃を立てて、ぐっと下へ移動させると、ぬいぐるみがガタガタと震え出した。頭を叩いて、震えを止める。

「最後まで五月蠅い奴だね。誰かが助けに来てくれるって思っているのかな」

 それは有り得ない。だって、これは私の夢だから。いくらここで何が起ころうと、それは私の記憶の継ぎ接ぎに過ぎない。
 でも、声は何だか満足そうだった。いつもの退屈そうな声音を保とうとしていたけど、何かに興奮しているのが解る。
 それくらい、私はこの声に支配される夢を何度も見ている。

「今度は、そこ。悪い楽器よ」

 右側の宙にギターらしき物がぶら下がっている。いや、これはベース? 解らない。
 楽器の見分けもつかない程に愚かな私だが、平等に壊すことはできる。
 にしても、悪い楽器って何だろう。望んだ音が出ないとか?

「その楽器を使って、何度も練習したでしょ。だけど、ちっとも上達できなかった。周りの人からも、お前は才能が無いんだよって言われた。酷いよね」

 そうだっけ、覚えていない。その程度の記憶なのに、壊すのもちょっと可哀相な気がする。
 ギターは天井からトラロープで吊るされていた。さっき使った包丁で切ろうにも、ロープの頑丈さにビクともしない。
 仕方なく、座っていた椅子を持ち上げ、ぶつけた。椅子もギターもボロボロになるけど、壊すためだ。
 ばきん、ばごんと鈍い音を立てて、どっちも壊れていく。いったい私は何をしているのだろう。

「これでその悪い楽器も弾けなくなったね。どう、すっきりした?」

 すっきりしたのは、あなたでしょう。私は言う通りにしているだけで、個人的な感情なんて一切持てないでいる。

「それから、次はこれ」

 足元に何か落ちている。見ると、可愛いピンク色のブランケットが落ちていた。
 今までと違い、これは無性に腹が立ってきて、謂れを聞く前に包丁で刺した。何度も刺して、両手で引き裂いた。上手く裂けないけど、一生懸命やった。
 じゃぎじゃぎと汚い音を立てて、ブランケットは布きれに変わった。

「その布は悪い布。わたしを暖めてくれたけど、本当は違うひとを暖めたかったの。わたしの物になってくれないの、だったら無くてもいいよね」

 ブランケットに意思が宿るとは、初耳だ。私は笑いそうになるのを堪えて、足元の布きれを足で追いやった。

 もうそろそろ壊す物が無くなってくる筈。次々と物が出てきて、どんどん壊して、或る程度の時間が経つと、急に部屋が暗転する。それがお決まりのパターン。
 鏡に何も映らなくなった。白い壁に黒い液体が染み出している。床が抜けているのではないかと思えるほど、真っ黒な空間が足元に広がった。

「みんな、わたしを傷付けた。わたしのものになってくれなかった。だから、要らない。自分で始末しようと思ったのよ」

 何もわざわざ刺したり裂いたりしなくても、ゴミの日に出せば済む話だ。まとめて袋に入れて、ゴミ捨て場に置いて、それで終わりの筈だ。
 なのに、どうしてこの声はわたしに手間暇を掛けさせる真似をする? 私はいったい何のために、この声に従っている?
 何度も考えたけど、どうせ夢だから意味は無い。夢に意味を求めても、何にもならない。

「思い出して。あなたが受けた傷を」

 私が受けた傷とは何か。抽象的で、どうにも解りにくい。
 声は苛立たし気に言いつのる。

「どうして忘れようとするの。あなたはあんなにも怒っていたし、泣いていたのに。見ていられなくて、わたしがこうして手伝うことにしたのに、それも忘れてしまったっていうの?」

 姿も見せないくせに、どうしてそんなに偉そうなんだ。
 またしても反論したくなったが、相変わらず声が出ない。どんなふうに声を出していたか、忘れてしまったかのようだ。

「花を贈った人は、笑ってくれた。でも、次の日に捨てられているのを見つけた。今時こんな物を贈るとか、どれだけ時代遅れなんだよって嗤っていた」

 花を贈った、誰に? どうしてだっけ?

「仲良くなった猫は、他の人間の方が餌をくれるって解ったら、あっさりそっちに行った。可愛がられて、いい気になって、にゃあにゃあと鳴いてご機嫌取りに忙しい奴だった」

 猫を、どうしていたんだっけ。飼っていたんだっけ。それとも野良だったっけ。

「あの人がくれたギターだった。頑張って練習して、いつか一緒に弾こうねって言ってくれた。なのに、それは叶わなかった。あの人はギターよりも、もっと良いモノを手に入れて、自分が何をできたかを忘れてしまったの」

 ギターの持ち主は、本当に音楽が好きだったっけ。ただカッコイイから弾けるようになりたかっただけじゃない?

「これはあの子がくれた贈り物。あの子らしくない贈り物だなって、それでも嬉しかったけど、違う人と一緒に見ていたんだよね。あいつにこんなん絶対に似合わないし、逆に面白いよねって、ヘラヘラしてさ」

 何で贈り物なんて貰ったんだっけ。何かあったっけ、記念日? 気紛れ?

「そうやって、あなたは傷付いた。何度も傷付いて、どこが傷付いてしまったかも解らなくなった。だから、こうやって夢の中で思い出すことにしたんだよ」

 声は私の周りをぐるぐると回りながら言う。私の脳裡に何かが浮かんでいる。

 思い出したくないこと、辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、それらを抱えたまま現実を生きるのは、とても億劫だった。できるわけがないと思った。
 だから、夢に全て持っていった。夢の中で処理すれば、現実を生きていけると信じていた。

「あなたは何度も傷付いている。思い出せない、どうしてって言いながら、心はずっと反応している。辛くて、苦しくて、悲しくて、どうしようもないものを、やりきれないものを、ここでも抱えている。何度忘れても思い出してしまうし、思い出さないように鍵を掛けてしまっておいても、すぐに出てくる」

 記憶とはそういうものだ、と言われた。私が生きている限り、忘れたと思わせておいて、絶対に憶えていること。
 でも、思い出したくない。夢の中だからこそ、あやふやなままでいい。ここでもハッキリと見えてしまったら、私の逃げ場が無くなってしまう。

 しかし、声は私の逃避を許さないのだろう。
 私は何度も思い出して、その度に忘れて夢から醒めるけれど、眠れば声が再び思い出させようとする。その繰り返しを今までずっと行ってきた。何のために?

「傷付いたのだと、あなたが認めなくては、傷は癒えないの。逃げないで」

 鏡に私が映っている。幼い姿、真摯な眼差し、それらは過ぎ去って久しい私の在るべき姿だ。

「あなたは何度も傷付いた。血を流して、涙を零して、何度も何度も殺された」

 殺されてはいない。私は生きている。大袈裟な物言いだなぁ。

「違う、あなたは逃げているだけ。自分が傷付いたことからも、悲しんだことからも逃げているだけ。自分の死体が散らばっていても、自分じゃないって言い聞かせている」

 背後からたくさんの手が伸びてくる。白い壁を染めた黒い液体から、たくさんの私が手を伸ばしていた。どいつも皆、同じ表情をしている。

「認めてよ、あなたが悲しんでいるということを。たくさん怖い思いをして、悔しい思いをして、どうしてまだ認めようとしないの? あなたを何度も殺した奴らを、忘れられるわけがないのに」

 誰が殺した? 私を、誰が、殺したんだ?
 たくさんの私が問い掛けに答えて、人差し指で私を示す。お前が殺したんだ、と口々に囁く。

「あなたを殺した奴が居る。そいつは未だあなたを蝕み続けている。逃げるために、あなたはわたし達を殺した。何度も傷付けて、夢の中でまで茶番をさせて殺すことで、自分を保とうとしている」

 花だの、ぬいぐるみだの、楽器だの、そんなもので誤魔化せるわけがない。
 いや、誤魔化さないといけない。そうしないと、私が壊れてしまう。

「あなたはもう壊れてしまった。殺されて、捨てられて、そのままだよ。辛うじてできたことが、自分に嘘を吐くことなの。でも、そんなことで心が救われるわけないでしょ。あなたの痛みはあなたにしか解らないのだから」

 痛みを認めると、全て思い出してしまう。私が私でなくなってしまう。
 そう思ったから、きっと私は夢を見た。夢の中でたくさんの物を壊して、自分が壊れるのを防ごうとした。そうだ。

 でも、それの何が悪い。夢の中では生きていけない。
 目が醒めれば、理不尽な現実に立ち向かわなくちゃならない。怖いことでも、辛いことでも、役目を全うしなければならない。そういうふうに作られたのが、私だ。
 現実での役割が果たせるなら、嘘を吐こうが誤魔化そうが何だっていいじゃないか。

「良くないよ。あなたが認めることから、あなたの救済は始まるの。誰も救ってくれない、守ってくれない。だったら、自分で自分を救わなきゃ。そのためには、先ずは認めて。あなたの傷を。あなたが殺されたことを」

 誰が殺した、誰が私を殺したんだ。
 鏡に向かって叫んでいるのに、やっぱり声が出ない。これもまた、私が自分を誤魔化すために嘘を吐いているのだろうか。

「痛かったよね、辛かったよね。あなたをそこまで追い詰めて、殺して、なのに謝りもしない人が居る。そいつのために、あなたはこれまでどれほどのものを犠牲にしてきたか、解らない。あなた自身だって、それを数えるのが嫌になるくらい」

 私はそんな優しい人間じゃない。犠牲にしたつもりもない。
 どこかで報われると信じていたから、犠牲になるなんて思いもしなかった。

「あなたを殺した奴が居る。今も平然とした顔をして生きている。わたしは赦せない。絶対に赦さない。あなたを、わたしを殺した奴に必ず報いを受けさせる。何度殺しても足りない。呪って片が付くなら、結果が出るまで何度でも呪う。殺す。殺してやる」

 激しい憎悪の言葉に、静まり返った心。ちぐはぐなその台詞と表情に、私は鏡を凝視する。

 幼い私も、やはり壊れていた。殺意を口にして、目を爛々と輝かせる様は悪鬼のようだと感じるけど、どこか悲しい。
 私が誤魔化して、認めずに逃げ回った結果、殺されたのは幼い私自身だというのか。私が私を殺した?

 たくさんの私が、私の髪に、背中に、腕に触れる。引っ張ることもなく、引っ掻くこともなく、ぺたぺたと物珍しそうに触ってくるだけだ。
 私は好きに触らせたまま、鏡のわたしに向かって手を伸ばした。

 私が救わなければならないのは、私自身だ。でも、どうやればいいのか、どうしたら救いになるのか解らない。
 私を傷付けた連中をどうにかしたら、私の心は幾分か落ち着くのだろうか。もし、どうにかしても落ち着かなかったら、どうすればいいのか。
 指標も無い中で自分の行動を決めるのは、とても恐ろしいことだった。

「殺した、殺した、あいつらがわたしを殺した。痛かった。悲しかった。まだ笑っている。人を殺しておきながら、自分達は幸せになれると信じて笑顔で暮らしている。赦せない。赦せない。死んでよ。同じように死んでよ。違う、殺す。わたしが殺す。苦しんだまま殺す。辛いまま殺す。一番惨い目に遭わせて殺す。わたしを殺した回数だけ殺す。そうでもしなければ、釣り合わないじゃない。何でまだ笑っているの、何でまだ生きていけると思っているの。ねぇ、ねぇ、何でなの」

 そりゃあ、あの人達は自分らが悪いことしたなんて、微塵も思ってないから。
『自分にも悪いとこはあったよ、でも相手だって悪かったし、両成敗でしょ。お互い様ってことでさ』
 そんなふうに考えているんだって、目を見れば解るでしょうに。

 自分を肯定してくれる存在を得れば、いつまでも生きていける気がしていた。
 そんなものは居ないよ、と誰に諭されても納得できなかった。
 私がまだ手に入れていないだけで、世界に奇跡が無いような言い方を受け入れることができなかった。

 私は殺されたくなかった。傷付きたくなかった。
 なのに、殺された。傷付けられた。
辛くて苦しい牢獄に居るような日々の中、夢を見ることだけがほんの少しの休息になる。

「わたし、死にたくなかった。傷付きたくなかった。殺されたくなかった。捨てられたくなかった」

 鏡の中で幼いわたしが俯いている。私にまで捨てられて、寄る辺の無い心がわぁわぁと声を上げて泣き出した。
 声を出して泣けるなんて、羨ましい。私にはそんな方法すらも残されていない。夢を見て、声を失って、ただ戸惑うばかりだ。

「殺さないで、もう殺さないで。痛いのは嫌だ、怖いのも嫌だ」

 私も同じ気持ちだ。だけど、明日を生きるには自分を殺さなければならない。自分を殺さないと、思い出してしまう。悲しくなってしまう。

「嫌だ、死にたくない、痛いのも辛いのも嫌だ」

 鏡に向かって一歩ずつ近付く。背中に纏わりつく手が私を鏡へと押してくれる。
 わたしが死ねば、私は夢から醒められる。思い出さなくて済む。少なくとも、今日一日はきっと穏やかに過ごせるの。

「やめて、殺さないで。もう殺さないで」

 でも、あなたが死なないと、私が死んでしまうから。生きていけなくなるから。ごめんね。

 鏡に向かって包丁を突き立てた。包丁の先が欠けて、漫画のように上手く鏡を割れない。
 包丁の柄で鏡を叩く。罅が入って、幼いわたしが逃げ惑う。
 ごめんね、ごめんねと呪文のように口を動かしながら、私はばりばりと鏡を割った。

 ・・・・・・これでやっと起きられる。思い出さなくて済む。
 私はわたしを殺して、毎日を生きていく。立派な社会人として、彼らの上辺だけの友人として。
 なんて、くだらない。


 お前らか、私を殺したのは。そうだろう。解っていたよ。
 いつか、きっと、絶対に、私が、お前を、

殺した

殺した

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-06

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