直面
一
相対主義に基けば、ある主張の「正しさ」が強く問われる。かかる主張が前提とする価値観にまで遡及して、他の価値観との両立可能性は勿論、具体的場面に起きる排他的事態の妥当性まで懇切丁寧に論じることが求められる。
なぜなら様々な価値観によって成り立つ各人の世界観を認め合い、その間に生じる矛盾をこそまず受けいれ合うことを相対主義は核心とする。ならばそれが成立する背景ないし文脈を含めて主張内容の検討を行い、その限界点を適切に把握する努力を尽くすべきと考えるのが筋である。
そのために相対主義の元で行う主張内容の検討には相当な時間を要し、その当否の判断が明瞭になり難い場合も少なくないだろうと想像できる。ゆえにこの観点から見れば、ときに天から降臨してきたかのように堂々と主張される理想に対して懐疑の目を抱き又は嘲笑を誘う皮肉が向けられるのも、かかる理想の足元こそを見よという婉曲的表現として理解できなくもない。
二
表現作品はこう見るべき!という正解を主張する表現者がいないことはないのだろうが、一方で鑑賞者それぞれが思うままに見て欲しいという考えを基本に持つ表現者も少なくないだろうと筆者は思う。なぜなら制作に用いる道具や材料又は技法の有用性を根拠づける理論が認められるとしても内心のイメージを形にしたのが表現作品であり、それゆえに、どれだけ緻密にモチーフを表現し切ったとしてもフィクショナルな要素がその内部に取り込まれる。
かかる虚構という名の取り壊し可能な部分に関しては制作者という立場からの答えの押し付けが上手く働かない。表現作品を構成する要素が形作る多種多様な情報群を紐解ける仕掛けとして生まれるフィクション性については製作者が意識的に持ち込んだのなら当然に又は意識せずに作品内部に引き込んだ場合であっても、完成というピリオドを打った作品を前にして制作者はまずは観る側に立つしかないという必然的な弱みを抱える以上、目の前の作品に内包されたフィクショナルな面を引き受けざるを得ない。そしてかかるフィクショナルな側面から紐解かれていく表現作品の変貌ぶりに直面する面白さを、様々な表現を前に体験したことがある作成者でもあるだろう。ならば制作者ないし表現者として絶対的な鑑賞方法というものを声高に主張するつまらなさを忌避することが十分に想定できる。
しかしながら「綺麗だ」や「凄い」といった感嘆詞に満ちた感想があれば表現者は満足する、と簡単に片付ける訳にもいかない。
公にするというプロセスを辿る表現行為に一所懸命に取り組む主体だからこそ、一人でも奥の人の目に作品が触れて欲しいと願って然るべきだ。表現者の矜持をこう理解するとき、ここに生まれる欲はある。
つまりは五官の作用で知覚できる情報の塊の内奥にもっと踏み込んで欲しい。なぜならもっと面白いもの、興味深いものがそこに待っているから。目がまわる様な体験を約束するジェットコースター等のアトラクションの入り口で帰って欲しくはないと設計者の誰もが願うのと同じく、表現者はその先の道を示唆して作品のクライマックスを味わいに行くことを勧めている。純粋な娯楽としてのテーマパークの乗り物に表現作品を例えるのは不適切かもしれないが、人の目に晒されることを予定する表現行為に取り組む者がエンターテイメント性に溢れる心情を一切抱かないと考えるのにも無理があると筆者は思う。
作品の近くにいた者として抱く、その願い。しかしこれを鑑賞方法の「正解」として主張すると、誰もが思うままに感想を抱けるという民主的な平原を前提にする限りで前記した相対主義の只中で行う主張と似たような構図に捉われてしまう。また何より表現活動も社会において行われるという事実に鑑みれば表現する側から提示する唯一の鑑賞方法はかえって鑑賞する側の意欲を削ぎ、ひいては表現に関するあらゆるものの流れを縮小させるように感じて止まない。
ではどうすれば?という問いを立てればその答えが求められ、いつしか導かれ、その当否がまた問われる。表現する側と観る側の双方がここで足踏みすることは、生まれ得たかもしれない出会いの機会をそれぞれが損なう事態にもなりかねないと危惧してしまう。
三
Blum&Poeで開催中の個展(正式名称は『TOPICA PICTUS Revisited:Forty Red,White,And Blue,Shoestrings And A Thousand Telephones』)で展示されている作品は岡崎乾二郎が2021年10月頃に脳梗塞で倒れ、6ヶ月以上のリハビリを経て驚異的な回復により再び絵筆を取れるようになってから描かれたものである(この経緯については現在発売中の文學界、2022年10月号で非常に興味深い特集が組まれているので興味があれば是非一読して欲しい)。
東京国立近代美術館で展示されていた以来の岡崎乾二郎のTOPICA PICTUSを鑑賞して改めて感銘を受けたのはそれぞれの画面上で起きているリアルタイムな事象としての美しさと、絵画世界それ自体の確信度合いの強さだった。
画面を細かく分割して又は何度も重複することで異なる時間軸を重ねに重ねた一枚の画面として存在「している」TOPICA PICTUSはその詳細が不明でも何かしらの事態が進行中であること「だけ」を理解させ、小さなキャンバスに引かれるアクリル絵具の具象表現の形を借りて抽象的な色合いをあちこちに生み、二度は起きない複雑な境界線を形成して縦に横にと行き来する。その結果として表れている情報群を咀嚼する快感とでもいえばいいだろうか、不謹慎な言い方になると自覚するが、展示会場で撮影できた写真の中のTOPICA PICTUSは何度見返しても「死んでいる」と思ってしまうから、観る側がその場で働かせる脳内活動が必死に追わなければならない全体像の把握の困難さこそがTOPICA PICTUSの良さなのだろう。
勝手な見立てではあるが、恐らくTOPICA PICTUSは対象の時を停めてしまう情報化と相性が悪い。だから写真という記録行為によって作品の死が「生まれる」。それを見返して、実体験の記憶と写真記録との間を占める冷めた心地に不安を覚えてしまう。各作品に認められる動的な印象もここに一役買う。
だから鑑賞者が動かすその「世界」と評してもいいのだ。生きる者の身体機能に丸ごと乗っかって駆動する、優れたソフトウェアのようなイメージ群が形となったものとして。制作者たる表現者も巻き込みかねないその未完の時間は、作品を前に並び立つ関係から始まる出会いと別れになる。
四
他方でMAHO KUBOTA GALLERYで拝見できた武田鉄平の『近作展』で体験した不思議は一見して描いていると実感できない徹底した平面ぶりに表れる元の姿を再現できないことで傍証される、私たち人間の適当な「実際」の手触りだった。
作成した何十枚のドローイングの中から任意に選び取った一枚をデジタルデータとして読み込み、その質感をデータ上で最大化しつつその質感に対して慎重な検討を行い、情動に働きかけると判断できたものを出力、その跡を細密画を描くように細い筆で追っていき再現を試みる。
かかる制作方法によって画面上に立ち上がる平たい「現実」はぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのような肌色と衣服の原色が訴える不気味さがライトな矢印となり、モデルとなった人物の失われた表情を求めて懸命に漕ぐ想像のペダルで鑑賞者の気持ちを走らせ、気付きもしなかった心象風景の生誕地をマーキングする。
以上のことに注力した表現の限りに尽くせる感想は確かに一般人向けになり難いと筆者は思う。なぜなら果たされたその表現の抽象性は人間一般の身体機能に腰掛けつつもその内側で行われる情報群の消化の仕方に強い関心を示す。その過程では個々人の過去と密接に関係する多様な感情表現が巻き込まれるから、その消化具合は実に個人的でかつ個性的なものになってしまう。ゆえに誰にでも通じるものとしてその表現は語り難く、正解といえる鑑賞方法を突き立て難い。武田鉄平の手になる各作品の前では、表現する側と鑑賞する側が出会うべくして出会う「だけ」なのである。
五
そこから先の理解と共存に向けた折衝への覚悟と準備を促すことが出来ればいい。だから各人の「世界」観を左右するパースペクティブの限界が示されれば、事実としての相対主義の意義は十全に果たされる。
転じて物理的限界だけでない、表現できたものによって規定される作品としての限界が表現者の手によって誠実に示されていればいいと考えてみる。その限界に直面して、同じく「世界」観の限界を抱える鑑賞者は認識できたものを食みながら一歩、一歩とその先へ自分勝手に進み始めるのだろうし、興味を一切持たれずに立ち去られることがあるだろう。言ってしまえば限界点を前にして始まる、ここが表現者にとっての勝負所であり、そして鑑賞する側が決断すべき運命の分かれ道だ。貴重な機会を得るも失うも全てが人生に起きた出来事。そこから進めもし、戻ることもできる繋ぎ目と化す。
相対主義の轍を駆け抜ける、そういう力と術。その「理想」を追い求めて何度でも足踏みをしよう。
直面