風を

 配膳室の鍵を閉めるためにしゃがみこんだ先輩の背中が遠い。いつまでも小さくなっていってしまいそうに思えて、先輩、と声をかける。はっと跳ねる先輩の肩、腕ががさごそ動いて、ガチャ、と音が聞こえる。誤魔化すみたいな鍵の閉め方だった。先輩は何事もなかったかのように立ち上がる。先輩のスリッパはあおくて、俺のスリッパはみどり。先輩のくるぶしが目に入って、なんとなく目を逸らした。俺らの中学校では、くるぶしを見せてはいけないことになっている。
「いやー、これでもう終わりかと思うと、鍵を丁寧に回さなきゃなあ、と思っちゃって」
「鍵を丁寧に回すってなんですかね」
 あはは、と先輩が笑う。なんだろうねえ、と顔を崩す。
 先輩は給食委員長で、俺は副委員長。二年生の俺が副委員長になったのは、三年の先輩が誰も立候補しなかったからだった。二年生の子でもいいから、誰かやってくれないかな、そうやって眉を下げて笑みを浮かべる先輩の言葉と共に、前にいる、同じ学年の他のクラスの奴らが俺をぐるん、と仰ぎ見た。お前やれよ、と、無言の圧が言っていた。
「ふ」
変なタイミングで笑い出した俺を、先輩がきょとん、と振り返る。あおいろを、みどりいろが追いかけている。窓がぱーぱーに開いている、冷えた渡り廊下を走って抜ける。秋のはじめに切った、 肩にも届かない先輩の黒髪が、ふんわり靡く。シャンプーの匂いなんかはしないけれど、先輩からはいつも、柔軟剤の匂いが香っている。みどりいろがあおいろを抜かす。俺の一歩は、先輩よりも大きい。
「どうした」
「いや、先輩にはじめて話しかけられたときのこと思い出した」
「そんな面白いこと言ってたかな」
「又三郎」
 あー、と先輩が呻く。あおいろとみどりいろが、並んでいる。
 小学五年生の学芸会。俺らの学年は風の又三郎を演ることになった。本当は、ナレーターがやりたかった。上下体操服に青いビニールマントをつけ、あほみたいにステージ上を駆ける又三郎なんかよりも、小さなスーツ、みたいに白いシャツと黒いズボンと蝶ネクタイをつけた、物静かにですます言葉を使うナレーターのほうがかっこいい、と思っていた。それでもやっぱり俺は、クラスの奴らが俺をぐるん、と仰ぎ見たことによって、風の又三郎になった。けれど、又三郎が主人公とはいえ各場面ごとに又三郎役は変わる。確か八人くらいいただろうか。そんなのよく覚えてましたね、と言ったら、太一くんの目を見たら思い出したんだよ、と言われた。目か、とふと鏡に自分が写ると考える。けれどいくら考えたって、俺の目は平凡だった。一重瞼、と言ってしまうほか、特徴がまるでない。いつか先輩に好きな俳優は誰なんですか、と聞いたら吉沢亮、 と元気よく即答されたから、一重が好きなわけでは無いのだと思う。いつも誰かに吉沢亮に似てるね、と言われるのを期待しているが、未だお世辞ですら言ってくれる人はいない。俺が、俺の平凡な目を鏡や写真で見るたび、吉沢亮をテレビや街中のポスターで見るたび、 先輩を思い出す、それが永遠に限りなく近いところまで続いたらいいのに、 と、 おもう。
「夏になったら、たくさん風、ふかせてね」
「むりですよ」
「いけるよ、だって太一くん、 又三郎でしょ。 風 呼んでよ」
「小五の俺に言ってください」
「あ、言っとくけど、 梅雨特有のぬる~いやつはダメだからね? 涼しくてひんやりした、 冷たい風にしてね」
「そんな無茶な」
 昼休みのチャイムがなる。 男子の雄叫び、我先にと階段を駆け降りる慌ただしい足音。俺も給食委員じゃなかったら、きっとその音の一部になっていた。太一、先行ってるぜ、と、みどり色の何人かが俺に声をかける。
 外へ出る男子たちの波が終わると、先輩は今まで呼吸をしていなかったみたいに呼吸をして、気まずさから逃れるみたいに一段飛ばしで階段を駆け上がる。た、た、た、リズミカルな音が響く。踊り場に設置された窓ガラスからもれる、太陽の光は熱くて眩しくて、俺は目を細める。発光して見えない先輩を追おうと必死だった。
「空飛びたい」
 踊り場の中央にのぼりたった先輩が、くるりと背中を反転、仁王立ちする。先輩の表情は、強い光に遮られている。なんとなく、本当になんとなく、その言葉が深刻な響きを帯びている気がして、胸がざわめく。どきっとする。光に遮られている先輩の顔が、醜く歪んで今にも泣き出しそうに唇を噛んでいる、そんな先輩を頭に浮かべている。先輩はその顔のままふ、と笑う。俺に背を向ける。手すりに足を乗っけて、窓のふちに身体を乗せる。俺と先輩の目が合って、俺が瞬く、その一瞬目掛けて風が吹く。どっと音が鳴る。その風音を受けて、先輩が窓を飛び出す。青くて、安っぽいビニールマンが激しくゆらめいている。けれど、先輩は又三郎ではなかったから、先輩の身体はゆっくりそのまま、急降下していく。落ちる。
「受験勉強、つらいですか」
 そこまで考えて、やめた。そもそも窓を飛び出してもまだベランダがある。先輩はなんだかんだ、大丈夫になる人だ。
「もう、つらいよ。めっちゃつらい。太一くん、 頭良いでしょ? だったら尚更つらいよ」
 覚悟しとけよ又三郎、先輩が満面の笑みでわらった。にしし、という効果音が聞こえてきそうだった。俺はなんて言えばいいのか分からなくて、俯いてゆっくり足を進めた。踊り場まであと二歩、顔を上げればさらに強く俺の目を刺激する光、を追い越して、そんな光なんかよりもずっと現実に立つ先輩が近くなる。先輩、 いま俺の目を見ていますか。ずっと、今も、これからも、俺の目を思い出してくれますか。俺が先輩の記憶の中で輝いていた青い又三郎のように、俺の目は今でもあなたにとって特別ですか。先輩のヒーローになりたくて、口を開く。

 どっと風が吹いた。
 黄ばんだカーテンが靡いた。そのカーテンに、木の葉が舞い落ちる影が映った。前の女の子が、わ、と声を上げた。私の髪の毛がゆれた。まとわりついて、視界を遮った。生徒たちが広げる参考書が次々とめくれた。隣に座る男子が窓の外をちら、と見た。誰かの受験票が机の右上からこぼれおちた。そのまま床を滑った。止まった。私は自分の机の上を見た。消しゴムでおさえられた私の受験票は、大丈夫だった。
 一瞬の風が止んで、思わず、わっと泣き出しそうになって困った。太一くん。太一くんだ。笑いたくなるほど平凡な太一くん、という響きに唇を噛みしめて、手を絡めて、ぎゅっと握る。白くなる。吹いた風が撫でた身体の表面を、太一くんにつつまれている気がする。左の手首につけた腕時計の秒針を食い入るように見つめる。入試用に、とはじめて買ってもらった紺色の腕時計。かちかち、と、耳に腕時計を近付ければきっと、秒針の音がする、それを想像する。そのテンポをはるかに追い越して、心臓がすごい速さで音を立てる。喉が、まるで何かに怒って泣いているときみたいに、ひりついて、熱くなる。
 
――まぁ、どうしても空を飛びたくなっちゃったら。
――俺の強い風で、宇宙まで飛ばしてってあげます。

 数ヶ月前を思い出す。
 太一くんが手を挙げる。やらされた、という表現が正しいはずなのに、太一くんの手はぴんと、りん、 と、それはもう優秀に伸ばされていて、それで、そのときに風が吹いた。私はその風に少し目線をずらして、風の行方を辿った。もう一度太一くんを見たら、太一くんはまだ、ずっと、私を見ていた。まっすぐ。その黒い目に、私の視界は急速に小学校の体育館へ引き戻され、お尻にやわらかいクッションを敷いて三角座りをしていた。体育館の緑色のカーテンはすべて閉められ、 真っ暗闇にいる。五年生以外の私たちの視界は小さなステージだけを映す、そのど真ん中に太一くんはいた。又三郎がいた。  
 青いビニールのマント、ひるがえる。ぶらんと両腕をひっさげて仁王立ちしている。はっとするほど存在感のない又三郎は、それなのに、周りの、太一くんを見る目がきらきらとひかり 支持することによって、光と闇、といった風に際立った。太一くんの目は、きっとダークマターだった。みんなが太一くんを愛し信じるなか、太一くんだけが自分自身を愛さないし信じない。闇は、周りの光によって、ヒーローになっていた。人工的なスポットライトにひかるステージに立つ太一くんのハイライトのない黒い目が、私にとってはヒーローになっていた。三角座りを固定する両手は、ぎゅっと握っていたはずで、今みたいに白くなっていたはずだった。輝かしいステージで安っぽいマントをひるがえす太一くんも、教室でびん、と右手を伸ばす太一くんも、自分のことは信じていないくせにそれ以外の世界すべては信じている、みたいな太一くんが、 私にとってはほんとうにヒーローだった。

風を

風を

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-10-03

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