知らない人との喧嘩
下を向くと、鯛の刺身。
こんなご馳走にありつけるのは何ヶ月ぶりか、と、揚げ鳥の入ったレジ袋を隣に落とし、目線を上げないまま、僕は箸を握った。
戸田さんはにっこり笑って、刺身に手をつけようとする僕を見ていた。
…と沈黙が少し続いて、僕は箸を握ったまま、初めて戸田さんに目を向けた。
「この鯛、どこで手に入れたんですか?」
「今日スーパーで安かったから買ってきた」
安かった、というのが少し引っかかって、僕は箸を置く。
それから少しして、揚げ鳥の入った袋を台の上に置き、苦々しく、言った。
「今日これを食べませんか?」
場が凍りつくという状況を作り出す才能を僕は持っていて、これには絶対に揺るがない自信がある。
戸田さんは今まで見たことがないくらい悲しい顔をして、僕を見た。
「なにそれは、鯛が苦手ってこと?」
いや、そういう訳でもない、と言って、徐に揚げ鳥の紙袋を破って、一口齧る。
「嫌がらせ?」
「いや、今日、死にかけた鯛を助けたんだよ」
戸田さんはひとしきり笑って、面白い冗談、と小声で言った。
あの死にかけた鯛の写真を、携帯で撮っておけば良かったとこの時少し後悔した。
証拠も無しに言っては、虚言そのもの、お前の出した鯛料理など食えるか、とナチュラルに言っているようなものだと一人腑に落ちた。
そう言えば昔、腐った鯛料理を客に振舞って殿様に怒られた戦国武将がいた気がする。
明智光秀だったような…
その時、戸田さんの姿が持ち上げられたテーブルの後ろに隠れて、そそり立った壁みたいなテーブルが刺身と小皿に注がれた醤油を辺りに撒き散らしながら、僕の方にすっ飛んできた。
「馬鹿にしてんのかお前は」
テーブルの奥から聞こえる戸田さんの声は、血が激っているというか、とにかく、この世の終わりみたいな声だった。
僕は、頭にツマがのった状態で、すっくと立ち上がる。
「可哀想、じゃないですか」
涙目になっているのを、鼻の筋を伸ばして誤魔化す。
余計なお世話だと言わんばかりに暴れた鯛が記憶に蘇って、それがまた切なく、嗚咽が少し漏れる。
「可哀想だと思ってんなら全部食えよ!拾って全部食え!食べ物粗末にしやがって」
「スーパーにそもそも鯛が普通に置いてますか?特売日でもないのに」
だったら何なんだよ、食えよ、と刺身を一切れ摘み上げ、戸田さんはそれを僕の口にねじ込んだ。
こんな事があるのか。世間狭すぎるだろ、と刺身を無理矢理咀嚼しながら、エラをパタパタさせていた鯛を思い出して、たまらなくなってきて、僕は泣いた。
どっと、タガが外れたみたいに、ぼろぼろ涙が溢れてきて、ひとしきり泣いて、後ろの柱にもたれかかって、さっき買ったブラックデビルを吸い、煙を吐くと、もう誰も居なくなっていた。
申し訳程度に手を合わせ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、ご馳走様でした、と呟いた。
知らない人との喧嘩