望遠郷

望遠郷

2022年作品

天蓋の外は猛吹雪だった。

ここ火星の都市はほとんど地底に存在している。この惑星の表層部分は雪と砂に覆われており、それはまだ古アルドノア文明の力を持ってしても地球のように変えることはできなかった。定期的に火星の自転と偏西風によってもたらされる砂嵐と吹雪は火星の名物だった。人々はそれらがある故に、遥か昔に分かれた地球を懐かしみ、またその記憶ゆえに懐かしい地球を手に入れたがった。
スレインが不時着したのはその火星の中心部分にあるダエダリア高原の下層部に作られたヴァース帝国の宇宙基地だった。この高原の中ほどに、彼が後に操縦する機体のタルシスの名の由来になるタルシス山地がある。三つの巨大な高山が連なるこの山地の近くに、彼の乗った宇宙船は墜落した。父トロイヤード博士の跡を追って、というのは彼の言であったが、その実彼は地球から送り込まれた偵察隊の一人であった。スパイというほどの者ではない。それだけの働きは幼少の彼にはできるはずがなかった。しかし火星内部の物事をその瞳で観察し、地球までその記録を送り届けることを期待された。
もちろん彼スレイン本人はそのことはわかっていなかった。彼は自分の瞳が、あの後の貝塚伊奈帆の左目のような仕組みを帯びているとはまったく知っていなかった。その手術は彼が薬剤で眠っている内に秘密裡に行われた。彼は父がいなかったので、自分ひとりで物事に対処しなければならなかった。相談できる母親は最初からいなかった。従って彼の後見人の人々や父の知り合いだった科学者たちの後押しで、父を探すために火星に行くということを、彼は疑いはしなかった。父との思い出は彼の大切な宝物だった。その父を助けるためなのだから、スレインは喜んでその身を捧げることにしたのである。
スレインは運がよかった。彼の乗る宇宙船は宇宙基地施設の中庭に突き刺さって停止した。停止した時爆発しなかったのは幸いだった。そしてたまたまそこを通りかかったのがあのアセイラム皇女だった。アセイラム姫は中庭が水浸しになっている中をスレインの方にまで歩いてきた。スレインが胴着の固定ベルトでコクピットから動けず、ただ死を待つばかりだったのを、彼女は水をすくってスレインに口移しで飲ませてくれたのである。
「だって倒れて餓死しそうな人には水を飲ませなさい、って家庭教師のくれた聖人の本に書いてあったのだもの。それでね、手で水をすくって飲ませようとしたんだけど、スレインは口を開かなかったからそれで口移しにしたのね。ほら、プールで口に入ってきた水が邪魔で吐き出すでしょ。その理屈で、その逆ならいいんじゃなかって思って。」
と、幼いアセイラムは後にスレインにあっけらかんと言った。
この時のスレインはもちろんいったん皇女さまからは引き離された。不時着した彼は、すぐに父親の元に送り届けられた。父親はもちろん彼の無事を喜び、遠路はるばるやって来た息子を決して粗略には扱わなかったが、すぐに放置し研究に戻るようになった。なにしろ博士は火星ではひっぱりだこの研究者だった。彼は博学な地球人だったからだ。ヴァース帝国は地球を侵略することを秘密裡に計画していたから、博士の地球での知識は必要だったのである。自然、息子との時間は少なくなった。
その頃ヴァース帝国内で少し感冒が流行った。トロイヤード博士は地球での知識でそれを治療して回った。古アルドノア文明により高度な科学は存在したが、実はその大半はブラックボックスだった。従って火星上で人類は、片翼の状態でその文明を使用していた。火星人が居住空間を、いわゆる前近代的な装飾で満たしたりしていたのは、そのためであった。病の原因は人類に即したものであり、古代異星人の残した科学知識では解明できなかった。そしてその患者の一人があのザルツバーム卿で、危険な熱病の淵をさまよった彼は、トロイヤード博士を命の恩人と呼ぶようになったのである。彼の同僚であったクルーテオ卿も博士には感謝し、博士たちは彼らの邸宅に招かれたりするようになった。その歓談の席で、初めてスレインは皇女であるアセイラム姫と再会した。しかしもちろんその場では話しかけたりできるものではなかった。彼は末席に座らされて、大人たちが自分にはわからない政治上の話をするのをただ黙って聞いているだけだった。
やがて宴が終わり、スレインが邸宅のテラスで宴に火照った顔を夜風に当てて冷やしていた時、彼は後ろから声をかけられた。
「あなたあの時の子供でしょ。そうよね。元気だった?私、アセイラムって言うの。あなたにこれあげるわね。」
と、その子は言い、スレインの手にそっとキャンディーの包みを握らせた。スレインはどきまぎした。しかし彼方から少女を呼ぶ声がして、アセイラムは小走りに邸宅の中に駆けて行ってしまった。
その時はそれで終わったのだが、だがこの話にはまだ続きがあった。宴席でスレインを観察していた王室付の者たちが、スレインがアセイラムと同年齢と見て、ご学友として招くと言い出したのである。それにはもちろん、アセイラム本人からの強い申し出もあった。彼女は地球について並々ならぬ興味を抱いており、スレインが地球からの客人と知り、以前から会いたいと思っていたのである。キャンディーはそのお近づきの印のためのプレゼントだった。
スレインは後日その話を聞き、やっと寝床でもらった飴を取り出してなめた。そのような好意を受けたのは、火星に来て以来初めてだった。大半の者にとって地球人は異端の者で、スレインが通っていた学校でも壁があった。また王室に上がる噂でいじめも受けた。それでもスレインにはアセイラムとまた会えることがうれしかった。自分をあの時助けてくれた人だ。しかも彼女は見たところとても可愛い。飴をなめているスレインの目に自然と涙が浮かんだ。
スレインが招かれた王室の宮殿は、アセイラムの祖父レイガリヤ殿下の住むところからは少し離れた場所にあった。長い廊下を伝って行った先に小さな宮殿がついているような施設だった。スレインがお付きの者とおっかなびっくり歩いて行くと、急に眺めが開けるような広い部屋があり、足元の床には全天候スクリーンが設置されていて、そこに地球の青い星の姿が映し出されていた。スレインが足を浮かせて驚くと、お付きの男性は
「姫様のたっての願いだ。現在時刻の地球の姿が、監視衛星からの映像で映し出されている。」
と言った。
部屋の中のスクリーンの前にはあのアセイラムとそれよりやや幼い少女のレムリナが座っていた。スレインを見るなりアセイラムは歓声をあげて駆け寄り
「よく来たわね。お話聞かせてくれる?地球ってどんなところ?私知りたくて。」
とスレインの手を取って言った。スレインはしどろもどろになり答えた。
「あの、地球は火星よりももっと緑です。木が多く生えています。」
「知っているわ。木がたくさんある森があるのでしょ?森には動物たちがいるのよね?」
「はい、そうです。鳥もいますよ。鳥はとてもかわいいです。」
「そうそう。この写真よね。」
とアセイラムは手を動かし、空間に仮想パネルを表示させた。ある鳥の写真が映し出されたが、その音声は出なかった。王室に収蔵されているファイル画像らしかった。スレインは言った。
「鳥はさえずるんです。」
「さえずる?」
「いえ、動物たちのように鳴いているだけなんですが、その、美しい声なんですよ。そういう鳥がいます。」
「まあ。素敵ね、ぜひ聞いてみたいわ。」
そこでスレインは口をとがらせて言った。
「こんな感じですよ。僕の口笛で恐縮ですが。」
と言い、スレインは直立不動で赤くなりながら、少し口笛を吹いた。アセイラムは手をぱちんと合わせて叫んだ。
「素敵だわ!この鳥からそんな声が出てくるなんて!」
その時、かたわらで黙って座っていたレムリナが一言つぶやいた。
「バッカみたい。そんなのただの口笛でしょ。お姉さま何が面白いの?」
レムリナにアセイラムは答えた。
「あらだって。この鳥は人間ではないのですもの。それがそんな声をしているなんて・・・。」
「お姉さまの地球ごっこにはあきれるわ。おじい様にもこんなスクリーンまで作らせて。地球なんて野蛮なところよ。」
「でも、昔は火星人も地球に住んでいたのです。それを知ることは悪いことではないわ。」
「その子とこれからつきあう気なの?見たところさえない子供ね。地球人らしいわね。」
と言うと、レムリナは奥の部屋に行ってしまった。
アセイラムはスレインに言った。
「ごめんなさいね。妹のレムリナは地球があんまり好きじゃないの。でも私は、火星がいつもこんな風に吹雪や砂嵐ばかりで、それが悲しくて・・・・、地球はそうじゃないのよね。」
アセイラムの頭上の天蓋の小さな天窓からは、外の猛吹雪の様子が見えた。スレインはやさしく言った。
「地球にも吹雪や砂嵐はありますよ。火星ほどの規模ではありませんが・・・・・。僕は気にしていませんよ。火星では僕みたいな地球人の方が珍しいんです。」
「あなたとはお友達になれそうかしら・・・。スレインって言うのよね。」
「はい。僕の名前はスレイン・トロイヤードと言います。以後お見知りおきを。」
「こちらこそよろしくね。さっきの続きをやりましょう。」
とアセイラムは言い、また地球の映像の仮想パネルを手で動かした。その日はそうしてお付きの者の監視の下で、二時間ほどの歓談で終わり、何日か置きにスレインは呼び出されてアセイラムに地球の話をした。しばらくはそのような小春日和の日々が続いた。
転機はしばらくして訪れた。
スレインは父に連れられて、クルーテオ卿のカタフラクト基地に行くことになった。はじめて父とパイロット席に乗り込むことができたスレインは、操縦こそできないもののその座席で卿の説明を聞いた。そのあと、基地にあるシミュレーションブースで操縦の説明を受けた。トロイヤード博士は、息子にシューティングの腕が思ったよりもあることに驚いた。クルーテオは
「宇宙船を操縦して単独火星まで来るような子供ですからな。カタフラクトもすぐに操縦できるようになるでしょう。」
と博士に言い、博士は眼鏡をずりあげて謙遜し
「いやいや。私の息子にはそのような戦闘機乗りにはなってほしくないものです。」
と言った。クルーテオは博士の言葉に
「それは残念ですな。私はそのような丹力のある子供を預かりたいぐらいですよ。パイロットはどこも不足しています。」
と言った。その後博士とクルーテオは政治向きの話を続けながら向こうに行き、スレインはまだカタフラクトの操縦席をいろいろ触って見学していた。スレインにはそれを許す感じがその場にはあった。それもこれも火星におけるトロイヤード博士の名声のおかげであった。
スレインは正直カタフラクトには夢中になってしまった。その大きくて頑丈な機体が格納庫で工員たちの手で動くのを見ているだけで、彼にはうれしかった。ましてやそれが意のままに動くとあれば、なおさらであった。
しかしその時博士は息子のパイロット熱については何も言わなかった。帰り道、スレインがやや興奮気味にカタフラクトの性能について話したりしても、博士はとがめずただ黙って聞いていた。
「そうか。おまえはあのロボットが好きなんだな。」
と一言だけ言った。スレインは意味もわからず、うんと答えた。それからしばらくしてスレインの通う学校で将来の夢という宿題が出された時、スレインは鉛筆で「僕の将来の夢はパイロットになることです。」と書いた。その頃はまだ揺篭の中にいるスレインだった。
それからひとつ火星の冬が過ぎて、春になった頃、スレインの父親は王宮にじきじきに呼び出された。いや、連行されたのである。名目は火星国家ヴァース帝国への反逆罪だった。スレインは突然父がいなくなったことに驚いた。父のいた小さな研究所は書類が散乱したまま閉鎖され、スレインはそののち数か月して、父が獄中死したことを知った。死因は聞かされなかった。
スレインは火星の露頭に迷うところを、クルーテオ卿が後見人になるということで引き取られた。要するに、カタフラクトのパイロットの素質を見込まれてだったが、まだ幼い頃は態のいい小間使いだった。クルーテオの屋敷内の清掃作業や炊事作業をやらされる毎日で、逆らった場合は容赦なく鞭でぶたれた。彼がパイロットらしい勉強をしてもいいようになったのは、普通の子供が中学にあがったぐらいからである。それからクルーテオのスパルタ式詰め込み教育がはじまり、スレインはそれに諾々と従った。クルーテオは二言目にはスレインを「野蛮な地球人の下郎」と言い、その差別ははっきりしたものであった。しかしそれでもスレインはやがて、クルーテオが一目置くだけのカタフラクト乗りになった。それまでの試練の日々については言うまでもなかった。
そんな日々を耐えるのに、スレインがあの短かったアセイラム姫との逢瀬を思うのを、誰が咎めることができるだろうか。それは今や彼の心の支えだった。あの姫だけが、彼が地球から来た客人であることを褒めたたえてくれたのだ。しかしその姿も今や公共放送で時折流れる皇室ニュースでかい間見るだけだった。姫は美しく成長していた。それはスレインにとって、遠い彼岸の岸に咲く花であった。
だからクルーテオ卿から、その姫が親善大使として地球圏に降りるのを、最終確認の時地球人として傍らで警護するように、と仰せつかった時は、天にも昇る気持ちだった。アセイラム姫はお付きのエデルリッゾに付き添われて、白いドレス姿で待機ルームに座っていた。スレインは彼女のことをよく覚えていたが、アセイラム姫はまったく気がついていないようであった。
「スレインと言うのですね。本日の警護ありがとうございます。」
と言うのを、スレインはおずおずとこう切り出した。
「地球圏では火星のことを非常に警戒しています。火星でもそうなのですが。それで、これは僕の父の形見なのですが、僕の大切なお守りなのです。僕は地球から火星に来た時、これを身につけていました。それで無事火星に不時着することができました。今これをあなた様に差し上げます。」
跪き(ひざまず)、父の思い出のペンダントを姫にそっと手渡した。
アセイラム姫は一瞬目を見張ったが、それを受け取り
「お父様の形見ということは、もう亡くなられておいでなのですね。お気持ち、いただいておきます。」
と素直にペンダントを懐にしまった。そして彼女はさりげなくスレインに問うた。
「地球には鳥がいますか?」
「え・・・・、おりますが。」
「私は地球で本当の鳥を見るのが、非常に楽しみなのです。ありがとうスレイン、これから先はエデルリッゾと二人で参ります。」
と頭を下げて言った。スレインこそ気づいていなかった。

それから幾何(いくばく)か過ぎて。

スレインは今や火星にいる。彼はやや老いており、その傍らにはアセイラム姫が生涯の伴侶として寄り添っている。その経緯についてはここでは述べない。紆余曲折の末彼は幼い日の恋を成就させた。その幸せな日々の中で、彼の気がかりは亡くなった父のことだった。父はどうしてあの時連行されたのだろうか。晩年のスレインの調べものは主にそれだった。地球との戦争前で散逸している書類を調査していくと、父の嫌疑はどうやら軍の機密情報を漏らしたということだった。カタフラクトの軍事機密についてらしかった。当時地球軍の機体にそれが流用されているとの指摘があったのである。
その頃、地球軍にいる貝塚伊奈帆からパソコン通信での連絡が入った。
「君の興味を引きそうなファイルが見つかったよ。僕の左目の義眼の修復について調べている時、偶然に見つけた。目に情報レンズを仕込む技術のサンプルファイルの中に、『君のした録画ファイル』があったよ。見てくれるとうれしい。―――貝塚伊奈帆」
とあった。添付ファイルは動画ファイルらしかったが、膨大な感じの容量だった。スレインは晩にそれをパソコンで開けてみた。
いきなりレンズに女性、それも幼い金髪の女の子の顔が飛び込んできた。彼女が顔を近づけてこちらを覗き込んでいる。こちらは瞬きをして見ている。と、女の子の顔がいきなりもっと近づいた。それらの画像は鮮明ではないが、あることをはっきりとスレインに告げていた。
「これは、あの時のものだ・・・・!」
スレインはあわてて数か月先の画像を探した。あった。あの父に連れられてカタフラクトの操縦席に座った時のもの――クルーテオから説明を受けている音声も同時に録画されていた。スレインはその時思い出した。伊奈帆からの手紙ではこうも書かれていた―――。
「君のお父さんが死んだ頃に、このフィルムは途切れている。」
と。
彼は今やはっきりと思い出した。父がいなくなる前の日ぐらいの夜、自分はいつもよりも長く寝入っていたことを。ではあの時――父はこの呪われた目から録画機能の物体を取り出したのか?自分には何も告げず?私家手術で?
後日父の墓の前でスレインが花を再び手向けた時、アセイラムは言った。
「それはあなたに真実を告げたなら、幼いあなたはその真実の重みに耐えきれず、だれかに本当のことを話してしまったでしょう。そうしたらあなたの命もなかったかもしれない。あの時代、お父様はあなたの命を守られたのです。」
「だけど、僕に黙って・・・・・。」
「私は父の姿を知りません。だからスレイン、あなたのお父様のことを私はうらやましく思います。」
「僕ならそんなことは、とてもできない。」
首を振ってスレインは、父の墓にそっと青い薔薇の花束を横たえた。その瞳には涙が浮かんでいた。
「おとうさん・・・・。」
不可能という花言葉のその花は、火星の赤い夕暮れの中に蒼黒く沈んで、彼方の星のように青く輝いた。

END.

望遠郷

タイトルについての描写があまりなかったのですが、単純に望遠鏡で覗くみたいな感じでということで名づけました。スレアセですがパパスレみたいな話です。捏造過去話ですが、ヨーロッパの戦前みたいな感じで書いてみました。公式とはもちろん違います。蛇足説明をすると、スレインが単独飛行で火星まで行った点を不思議に思い、その理由づけから考えて導き出したお話です。

望遠郷

【完結作品】アルドノア・ゼロのスレアセの短編小説です。スレインが火星に不時着した頃の話を捏造しています。きわどい場面はいつものように、たぶん出てこないと思います。ちょっと昔のSF小説っぽいものを書いてみたくて、書いている作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-30

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work