木曜日の話
残業をした木曜日の夜はずいぶん寒くて、すぐに自宅に帰りたかったのだけど、女に呼び出されていたので会社
残業をした木曜日の夜はずいぶん寒くて、すぐに自宅に帰りたかったのだけど、女に呼び出されていたので会社から2キロ先のファミレスまで歩かなければならなかった。なにも考える余裕がないほどにだるい足取りで歩いていたのだが、やわらかく頬をつつむ空気の他人のようなつめたさと、時折ふく風が孕んだ鋭さ、それにからかわれたような木々の葉がさざめく音をはっきりと感じた。ふいに思いつき、わざとらしく息を吐いた。ふわっと漂った白い二酸化炭素のかたまりを見ながら、夜なんかはもうすっかり冬だな、と思った。
8歳年上のその女は、タロットカードを引くのが日課で、色とりどりの小さな石が脈絡なくつながれたブレスレットをいくつも両腕に付けていた。星座占いにおける僕との相性が70パーセント以上の日には、2時間置きくらいに、いつ自分と結婚してくれるのかとたずねてきたし、70パーセント以下の日には、仕事中だろうが神も寝ていようが2時間置きくらいに浮気をしていないか確認の電話をしてきた。たとえば一緒にラーメン屋にいった時などは、割り箸がうまく割れないと「よくないことが起こる」と、今にも失神しそうな表情でとたんに黙りこくってしまう。こころここにあらずで目なんかはうつろになっているので、僕は一応「どうしたの」ときくのだけど、女は斜めに裂けた割り箸をもてあましている様子で指でいじっているばかりで、いっこうに返事がない。やがて、運ばれてきたラーメンのスープに、反射的に、おもむろに胡椒を振るのだけれど、無心で胡椒を振っているのかスープがみるみる胡椒でうまってしまい、さらには舞った胡椒があたりにとび散りはじめる。
となりの席のサラリーマンが不機嫌そうに頭を掻き、新聞を広げて咳払いをするのだけど、それにも気がつかずひたすらに胡椒を振りつづけるので、僕はサラリーマンに謝り、その女を制止するのが常だった。
深夜のファミレスは僕が感じた冬の気配とあいまって、どこか閑散としていた。店内に入ると、外との温度差にすこし咽た。人が少なく、照明だけが一生懸命はたらいている店の奥の喫煙席に女はいた。女がすでに注文していたのらしく、僕の席には冷めたコーヒーが置いてあった。女は僕が席に着くのを確認すると、自分のカップに入った紅茶にシロップとミルクを2個ずつ入れた。ティースプーンでカップの中を執拗に混ぜ、赤い口紅の乗った唇を、くゆりと歪ませると、女は唐突に「君は君の持ちうるすべてのエネルギーを私に注がなかったね」と僕を咎めた。それから、黒いエナメルバッグからよく見知ったブランドのポーチを取り出すと、右手の細い指で煙草を一本だけ器用に抜いた。同時に左手でジッポーをもち、ながれるような動作で煙草に火をつけながら「だから君は仕事も上手くいかないのだ」と吐き捨てた。女の口から白煙が漏れる。煙草のけむりはおなじように口から出るのに冬の呼気とはまったくちがうな、と思ったのがつかの間、そのけむりが僕の顔にまとわりつく。煙草のけむりが、スーツに、ネクタイに、かみの毛に、まとわりつくのを我慢していた。この女に全エネルギーを注いだとして、仕事に注ぐエネルギーはどこから捻出すればよいのかと頭の中が回ったけれど、それを覆うように、口を挟むと叱られることの面倒くささがよぎり、僕はただうなづいただけだった。
それから女は紅茶を飲み干してカップを逆さまに置いた。またいつもの紅茶占いをするのらしい。それからは10分ほどの沈黙だった。外気で冷えてしまった両手を、カップをつつむように添えていたために、コーヒーはすっかりぬるくなっていた。女の肩越しにうかがうことのできる店内には、おたがいが手元の携帯電話と見つめ合っている若い男女と、文庫本を片手に持ちながら寝ているのか起きているのかよくわからないおじさんと、僕と女だけだった。遠くから店員らしきひとの談笑が聞こえる。はさみの模様がでた、と女が言ったので、女のほうを向いた。上司に向けるような、よく慣れた、義務をふくんだ反射だった。
「ねえ、はさみ、ってどんなイメージ?」
「はさみは、切るためのものだ」
僕はあくまで常識を言った。 それからそのひとは見たことのない顔で微笑み、煙草の火を消した。
「ねえ、しってた?」
たずねる、というよりは諭すような口調だった。
「生命線」がない男は無理だというのが女のいい分で、僕は快く、3年付き合ったその女と別れた。
木曜日の話