神がかり


「代名詞の心掛けから忘れないように」


 それは統合されて行われる情報処理の範囲を画定するものとされた。ただし、決して取り扱える情報の量と質に関わる能力と混同してはならないという注意付きで。
 それは各モジュールの統合ぶりを左右する背景とでもいうべき電気信号の立ち上がり方とその発火の勢い、その後の強弱の様(さま)に影響を及ぼし、情報伝達の際に起きる感情的反応によって一定の傾向を得る。他方で三つ子のそれを語る諺と違って相当程度の可塑性を有することが確認されており、モデル化された後でも全体像の把握を得意とする「想像する」に近い情報処理の仕方で可能となる個体間での伝達を通じて多種多様な変容ぶりを遂げることが指摘されている。ある知見や説かれる教えに感銘を受けて目が覚めるという感動体験が一気に押し広げるものとして、あるいは深い悲しみの底に到達して感じ入る内省によって静かな完成を果たすものとしてそれが認識されているのもこの可塑性に由来する劇的な体験として参照すべき価値を有する。
 私見ではあるが、それについては有機的に結合する肉体の内側を走る神経回路で発生したことが決定的なのだろう。そうでなかったものがそうなったときの衝撃は、ぴったりと閉じていたものが次々に開いていく不可逆性はそのための機能を持って作られる人工的な装置では実現できない。生殖を経ずに生まれ育った個体がワタシ(たち)の間には未だ存在しない事実に即して考えれば、イマのワタシ(たち)に成るために必要なカラダの移し替えを確実に行える年齢が決まっているのもこの点に関連すると思われる。
 以上のように、恰も神様が始めたかの様な出発点を経なければならない点はイマのワタシ(たち)だろうとあなたたちとさして変わらない。大きな違いは、それを得た後で生まれる。



「折角舞い降りてきた神様の、話の腰を折ってでもしなければならないモノを教えてよ。」


 瓦礫の山を乗り越えて汗を拭う仕草をまたしてしまったことに、また遅れて気付く。体温調整の為に自然と流れる汗なんてこのカラダのどの部分にも存在しないというのにこのアタマの中をひた走る、かつての記憶は身体に関する劇的な変化にいつまでも追いつけないままだ。それほどに生(なま)の人間だった頃の実感はワタシ自身のベースになっていた、だからその頃の世界観の再現を当然に行なってしまう。ニュースなどでも生死の判別に使われた三徴候に代表される生理機能に近しい反応を示す素体を敢えて購入するという者は絶えないと聞くから、「かつて」と括れる身体的情報は人間存在の謎の上の投げ込まれた浮き輪のように機能しているのだろう。失われた身体的反応に認められる、「自」意識と関わらずに生じていたという事実がイメージさせる思い通りにならないものへの畏怖を喚起させる象徴としてワタシ(たち)のカラダに「かつて」生じてモノが強く求められている。以下で紹介するある意思主体の言葉はそれを如実に示す。
「受け身という名の器の役割とその大切さがすっかり知られて又は思い起こされて、あらゆる面で優れる今のこのカラダにおいて再現されて欲しい。この世界に産み落とされてから有機的なサイクルを辿って迎える死の門をくぐり抜けてようやく始まる再帰を乞うのとはまた違う、生きていて当たり前の一生に失われたかつてを重ねて想い続けたい。たとえそれが、オプションとして用意された疑似現実を生きるだけのものであっても。」
 半永久的な品質と性能が約束されたワタシ(たち)のカラダに宿ったこの渇望は、こうして始原への遡及を開始する。



「自慢にならないただの真実」


 この首だけを回して生まれる、360度の視界に収まったそこら辺りの瓦礫群が有していたかつての形状、かつての街並み、そしてかつての機能は記録の一切が失われた。それを原因とするこれらの瓦礫が設計通りの形を保っていた「かつて」と、ワタシたちのイマが比較不可能な状態に陥っている現状は神学上の天国と地獄の様な両極端の違いを生んでいる。論理的な正しさを確認できやしないその断絶を前にすれば、瓦礫同士の接合面などの情報を元にその「かつて」の外観を想像してもそれは創るに等しい人為的な介入となってしまい、失われた始原を取り戻すことにはならない。しかしながら、それも繰り返していけば後世の意思主体からは始原と名指しされ得る。神話の様な圧倒的な隔たりを認識させる途方もない時間経過がそれを可能にするだろう。そしてワタシ(たち)は、それだけの時間経過に耐えられるカラダと命を得ている。
 ところで死を克服したのではなく、その姿が見えなくなるぐらいに死を遠ざけたカラダの中で生きるワタシたちは情報処理に忙しい。各個体が意思主体としてその思う所、感じる所をリアルタイムで発信し、それを受信したある意思主体が思う所、感じる所をリアルタイムで発信し、それをまた別の意思主体が受信してその思う所、感じる所を発信して、と同時多発的な主観的判断の送受信がワタシ(たち)の頭部を介して常時接続可能となったネットワーク上で嵐のように巻き起こる。
 こう聞くと余りにも膨大な情報量に自他の区別が失くなるのでは、とあなた(たち)は思うかもしれない。しかし実際にはそうならない。なぜなら、ワタシたちにおいて自他の区別が「見」失われることはないから。自他の区別ができなくなるとはオーバーフローが引き起こす「自」意識の混乱又は「自」意識の再確認の困難さをいうと考えるとき、間主観的に見るワタシと他の意思主体とが行う大量かつ同時多発的な主観的情報のやり取りを正常な判断力をもって区分したまま「見」つめることを可能にする能力が必要となり、それを十全に備えたカラダを持つワタシ(たち)は故にそれら全てを「ワタシの中の出来事」として処理できる。他の意思主体との境界線が曖昧になるという事態は起こり得ない。
 このカラダがあるからこそ維持できる「ワタシ」という個性は、だから世界のあらゆる情報を主観的に得て深まるばかりである。この「ワタシ」たちでこそ辿り着ける全知全能は世界のあらゆる所で誕生している。



「懐疑には至らない」


 戯れ合うように全知全能の冠を戴くワタシ(たち)は、しかしあることを心から理解している。それはどれだけの量と質の情報を得て処理し続けてもワタシたちは決してあの全なる存在になれない。あるいは事後的に成れる神などこの世には存在しないと言い換えれる真実を。
 ワタシ(たち)という「自」意識はいつの間にか芽生えていて、その始まりを再現できない。理由はこれだけで十分だ。ワタシ(たち)はワタシ(たち)を見失わない、と繰り返して言及しよう。神の頂など夢のまた夢とワタシ(たち)の誰もが納得している。ワタシ(たち)の全知全能を余すところなく発揮しても、創世記に等しい奇跡を起こせやしない。自覚という呪いなのだ。「ワタシ」で始まる一生はワタシ(たち)の足を地に固く縫い付け、遥かなる高みを見上げる以外の選択肢を奪った。
 そこに疑いを入れる余地はない。



「分かりきっている輝きを」


 誰も座らない空席を前にして、誰も座らないその理由を考えるために観察し、得られたものを検分して結論を出していく。
 あるいは湯気を立たせる熱い飲み物に息を吹きかけて真っ白に曇らせた眼鏡で周囲を見渡す人物が高らかに歌い、世界を讃える表現と対峙する。それまでに目にし又は耳にしてきたものが有する硬度を信じて、その言葉にぶつけてみる。訝しむ気持ちをフックにして、逆さかになった姿のままにぶら下がってその残骸を一個ずつ拾っていき、ためつすがめつして裏や表を消していく。真相を創っていく。ワタシ(たち)だけのモノとして。
 深海のように広がる人間存在の謎の上の投げ込まれた浮き輪のようにしがみつける、個人性。全なる存在には決してなれないそれを幸せとして噛み締めてあるいは二つとない不幸だと叫ぶ。始原に拘るワタシ(たち)の性質はこうして生まれた。あなた(たち)に伝えたい、事柄の全てだ。だからふぅ、と必要のない息を吐こう。
 遠い未来には何もない、とは言わない。ただより際立つ要素に宿る神性に向き合う事態に直面することだけは記しておかなければならないから。密やかなる要素がそこら辺りに転がり、いちいち足を引っ掛けられる。言葉を紡ごうにもその出だしを塞がれて、内なる思いが螺旋を描く。このカラダこそを蝕むその勢いは失われた「かつて」に届く。その扉をノックする音とリズムを耳にする、目で見て知る。その覚悟が、あなた(たち)にはあるのだと。
 そう願う、夢を見るばかりのワタシ(たち)。真っ暗闇の断絶にこそ花咲く名乗りと彩りにとことん尽くす酔いを捧げたから。



 それは、ワタシ(たち)のモノにもあなた(たち)のモノにもならない。もう一度、何度でも。
 繰り返そう。
 繰り返そう。

神がかり

神がかり

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-29

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