幻想悲曲 第二幕二場

奥本深雪

 ひとしきり大泣きしてしまうと、エノイッサは突如として頭を擡げ、立ち上がって手紙を胸の中に抱きしめたのだった。これは激しく泣いた後の人にはよく見られることだが―彼女の胸底には新たに、気概のようなものが噴出し始めたのである。マリアのことはもう致し方の無いことかもしれなかった。そう、それは考えたってどうしようもないこと…… だが、エノイッサは、是が非でもこの手紙をヴェロニカへと届けなければいけないと思ったのである。皮肉なことにも、マリアによってもたらされたこの手紙が、ほんのひと時にせよ、捕まってしまったマリアに対する憂慮乃至は悲しみといったものから、彼女の心を引き離したのである。もしこれが教会の意に背くことだとしたって、マリアの最後の頼みを捨て去ることなど、エノイッサにはもはや出来そうもないのであった。それに、こうやってあれこれ考えてはいても、誰にも見つからないようにして手紙を届けることは、実はそれほど難しいことでもないのかもしれない…… それは、そもそも心配の必要が無いのかもしれない。やがて彼女は、手紙を懐の中にしまうと機会をじっと伺い始めたのであった。もしこの機会を逃してしまえば、時と共に摩滅してゆくに違いないこの熱情は、胸にしまい込めるほど小さくなる。それは必ずそうなる、エノイッサには分かるのだった。そうすれば自分はまたいつもの、卑怯者である尼僧に戻ってしまうに違いない。(だけど…… それでいいんじゃないだろうか? 私は卑怯者で…… でも、卑怯者でなくたっていいはずだわ! …… そうよ、だってマリアのためですもの…… ええ、これはマリアのためなのよ…… そして、ヴェロニカの……)この熱情は甚だ刹那なものではあるが、しかしそれがために、より脅迫的なのだった。
 そして、太陽が西に傾き初めてしばらくの夕暮れ時―これはエノイッサが最も自由を手にする時間―機会はやってきたのだった。彼女は、まるで逃げ出すように、悟られないようにこっそりと修道院を抜け出して、夕暮れ時の街に足を踏み込んでいったのである。誰にも見咎められたりはしなかった。ついに自分は機会を捉えたのだと言う歓び、それから、これまでの出来事に対する暗い気持ちや、手紙を届けることに対する緊張、そして、ユニウスの愛娘ヴェロニカに対する彼女自身の憐れみといった雑多な感情によって、背後から鞭で打ち付けられるように、エノイッサは自然とその足取りを速めたのであった。(私は、いったいどんな顔をしてヴェロニカに会えば良いのだろう? …… ああ、私を見て、あの人はいったいなんと言うかしら! ひとでなし、悪魔、けだもの…… いいわ、なんとでもおっしゃい、気の済むまで……)通りに出たところでエノイッサは自嘲気味に思った。街は、おそらくいつもと変わらないのであろう。夕焼けに燃え立つ煉瓦、埃っぽい香り、人、馬車、露天、高い建物……(ああ、あなたたちには関係のないことだわ!)エノイッサは胸中でそうひとりごちると、忌々しそうに今見ていたものたちから顔を背けた。(だけど、私はどうあってもこれをあの人に渡さなければいけない…… これはマリアの願いなのよ…… ああ、こわい…… ヴェロニカの顔を見るのがこわい! それじゃあどうして、私はこれを届けるんだろう? …… いや、だけど私はそうするんだ、マリアが言ったから…… ええ、そうよ。だって私は…… ああ、どうか怒らないでね、怒らないで頂戴)
 ユニウスの邸は、それは街の郊外にあったが、外側に塀の巡った石造りの二階建てであった。エノイッサは立派な建物の外観を見て、ユニウスが元市役人であったことを思い出したのだった。陽はすでに暮れかかっていた。橙の光線が、近くにある川から反射して、屋敷の壁を染めていた。まぶしいと感じた人は両手をかざして光を遮ろうとする、ちょうどそうしたように、生け垣が、塀が、屋根が、建物の回りにそそり立ち、その顔にさまざまな影を落としていた。時折厳かなふうに風が吹き、敷地内にある緑をざわめかせていた。そんな外界の営みとは違い、屋敷の中からは、なんらの気配すらをも感じることができなかった。静まり返った建物の様子を見たエノイッサは、この静けさが自分のしたことによってもたらされてしまったものであると、それとなく感じたものである。
 入ったものか、入らぬものか、とエノイッサは少しばかり愚にもつかぬ思案をしながら、門のあたりをうろうろしていた。屋敷の門番、もしくは使用人がいないものかどうか―また、いればいいのにと願って―それらしき人物を探してみたが、おあいにくさまだった。(誰もいないし、入ってしまおうかしら…… 仕方ない。ええ、これは仕方のないことなのよ……)と、胸中でひとりごち、ためらいながらも、おずおずおと、門の取手に指を触れたのであった。つかえるものだと思って、ゆっくりとそれを押したが、予想に反して、扉は簡単に開いた。人のいない屋敷の常として、門はしっかり施錠されているものと思い込んでいたエノイッサは、多少なりとも面食らったようである。しかし、「ひょっとすると中に誰かいるのではないか」という期待が、この時彼女の胸の中にさっと芽生えたのだった。尼僧はもう少しだけ門を押して、僅かばかりの隙間を作り出すと、屋敷の庭へと踏み込んだ。整然とした前庭を突っ切り、玄関の階段まで登ったが、しかしここに至っても期待していた事柄、つまり、何らの気配をも屋敷の中に認められることができなかったので、彼女は妙な胸騒ぎを感じ始めるのだった。(ひょっとすると、ここにはもう誰もいないのかもしれない…… そして、それが誰のせいかっていうと…… 一体誰のせいだろう! …… だけどこんなことはもう、考えないようにすることね…… でないと私、ヴェロニカに、ユニウスの娘に会ったりなんてことができるだろうか? そうよ、それだったら、この手紙だって、渡すなんてことができるだろうか? …… でも、もしこの扉を叩いて返事が返ってきたりなんかしたらどうしよう? 逆にもし、返ってこなかったとしたら)このように、エノイッサはある種恐れのようなものを感じながら、扉を叩いた。果たして、返事はなかった。もうすこし大きな音にして再び叩いたが、同じことだった。そこで、彼女はそっと扉に身を寄せて、その中ほどに耳を押し当ててみたのである。するとほどなくして捉えられたのは、何やら異様な音の、反響によって建物の内側をすべり行きながら、尼僧が今まさにぴたりと身を寄せているこの扉をもその余力によって押さんとしている、そのようなさまである。いったいこの音はなんだろう? 高かったり、低かったり、人の声のようにも聞こえる、ひょっとするとこれは、亡霊かなにかの仕業なのかもしれない…… 尼僧は寄りかかっていた扉から身を離すと、じっとそこを見つめ始めた。それにしても、たとえ扉の向こうに何が、誰があったって、自分の心に動揺をもたらさないものであるはずがない…… エノイッサはしばらくじっとして、何かしら考えあぐねていたに違いない。だが意を決したらしく、彼女はさっと扉の取手に指を触れた。どうやら、鍵はかかっていないようである。扉を開けて屋敷の中に入った。するとそこは、大広間であった。実は、エノイッサがこの屋敷を訪れたのはこれが初めてではない。ヨハンネス・ユニウスを連行しにやってきたのは、実はこの場所だったから。その時の、この広間の印象というものをエノイッサはよく覚えていた。なぜならそれは、彼女の感じる呵責というものの、その一端をなしていたからである。それはあの日…… 太陽が今と同じように傾いていた夕暮れ時のことだった。エノイッサと大勢の宗教家はどたどたと姦しい足音を発ててこの屋敷の敷居をまたいだのだった。
―奴はいるのか? ヨハンネス・ユニウスだ! ここへ連れてくるのだ。
司祭がそう言うと、二階から男の声がした。
―私はここにいる。逃げも隠れもしない。いったいどうしたというのだ。
 怯えたように、少女が向こうにある扉から顔を覗かせていた。エノイッサたちをじろじろと見やりながら、これから起こることをそれとなく想起しえてか、病的に震えるその眼差しを、こちらから反らそうとはしないのであった。エノイッサは知っていた。ここでこれから何が行われるのか、ヨハンネス・ユニウスと荒々しく呼びつけられた男がこれからどうなってしまうのか…… ああ! 彼女は、たくさんの調度品に埋め尽くされた屋敷の広間を見てこう感じたのだった―(ああ、なんてきれいなお屋敷…… ここで暮らす人はきっととても幸せなのだろう! それで私は、その幸福をぶち壊しに来たんだ)
時として、明るい印象は、暗い印象よりも恐ろしい憂鬱を精神にもたらすことがある。たとえばこの場合のように、その明るい印象の原因となっているものがまさに今、取り上げられてしまうということが分かった場合である。それからというもの、広間の贅沢な印象は、エノイッサの心の隅に宿り木として留まることによって、彼女の精神の安寧を吸い上げることとなったのであった。そして事実、彼女が「幸せ」とあこがれたものは取り上げられたのだった。あの時エノイッサは、まさしく、人の幸福をぶち壊しに来たのだった。
―ヨハンネス・ユニウス、お前には魔女の嫌疑がかけられている。
―そんなまさか…… 何かの冗談でしょう。
 大勢の人間の足踏みによって濛々と埃の立った大広間で、エノイッサは呆けたように黙って突っ立っていた。彼女がしていたことはただそれだけであった。いや、逆に言えば、彼女は何もしていなかった。そしてその目の前でユニウスは魔女として連行され、そして…… それから彼は一体どうなったであろう? だがそれは、分かり過ぎるほど分かっている…… 時が進み、今エノイッサが目にするものたちが、ここに暗喩をもたらしていた。彼女が初めて来た時、幸せそうなどと思った広間のあの贅沢さは、ここが同じ場所であるにも関わらず、それはまるで様変わりしていた。広間の中では、存在という存在がその姿を消し、文字通りそこは伽藍堂と化していたのである。広間一面を覆っていた、葡萄酒のような赤っぽさに緑で縁取られた絨毯、向かいの壁にかかっていた、何かの寓話を表したような天使の絵画、かつて片隅に控えめに佇んでいた椅子たちも無ければ、そのそばに置かれていた丸机―花を挿した小瓶を載せた、紫檀に光るあのこじんまりとした丸机、陶器を入れた棚…… なにもかもが、その姿を消していた。その時さっと、ものすごい速さで、エノイッサの脇を、平らな光の帯が通り抜けたのである。彼女はどきりとした。背後で、玄関の隣にある四角い窓から、黄昏どきの淡い光が、その時まで薄暗がりの宙に隠れ潜んでいた埃たちを焼き払い踊らせながら、まさにその時入り込んできたのである。窓より入り込んで来た夕陽は、どこということなく、絨毯がなくなって剥き出しとなった床の一点を指し示したようにも感じられたが、そのところには、陶器や何かしらの家財道具のかけらとも思われるものが所々散らばっているみたいである。尼僧は、そうして陽光に焼かれるかけらたちが元々何に属していたものかは知るところではない。しかし、それらが、元の個体のものであるものからばらばらとこぼれ落ちるさまが自然と発想せられると、不安定な感情によって心を脅かされたのである。部屋から入ってすぐこうしたものたちに見入られてしまい、エノイッサはいましがた空けて入ってきた玄関の扉をうっちゃったままにして立ちすくんでいた。しかし、その首やら瞳やらはきょろきょろと、その意識を宙に旋回させているようでもあり、自身では、もっと何かを見ようとしているみたいなのだった。それは、自分のしたことの顛末を脳裡に焼き付けておこうとする、あの自虐的な欲求によるものなのかもしれなかった。
ほどなくして、エノイッサの視線は、彼女の右脇をさっと通る夕陽の帯、それに隔てられた向こう側の広間の暗がりの片隅より、じっとこちらを見つめている存在に気が付いたのだった。尼僧は最初それを置物か何かのように感じたが、しかしすぐに、存在は確かにこちらを見つめているのだと知った。びっくりして飛び上がらんばかりだった。その視線はそれ自身の如何なる意志によるものなのであろうか、病的に震える目をしてこちらを睨んでいた。ヴェロニカがそこにいた。暗がりから、エノイッサから数歩先のところから、じっとこちらを見つめているのであった。隅の所に小さく座り込んで、しかし、首をまっすぐに立てて。暗がりの中で水平に並んだ、きらきらと光る彼女の二つの目は若干攻撃的な色合いを帯びているかにも見えた。まっすぐにこちらを見上げているヴェロニカの唇は、固くぎゅっと結ばれていた。エノイッサはその口元を目にして、気が付いたのであった。音は止んだ。虚ろな響笛のように建物の内側を舐め回していたあの音は、この唇が閉ざされることによって、その口蓋の闇の底に、どうやら姿を消してしまったようなのである。
「ああ、あなただったの…… あの時の」
 ヴェロニカは、幾分か投げやりな、面倒くさそうな調子で、一言をこちらに放ってきたのだった。落ち着いた言葉とは裏腹に、その表情は燃え盛るような憤怒によって脅かされていた。彼女―ヴェロニカ―は、おそらくこちらと同様にして、自身で捉え切ることの出来ない未知の存在が自らの領域に近づくのを感じていたに違いない。誰かが扉を開いた音、そしてさっと現れた影の中に、エノイッサの、誰のものか分からない挙動を見出して、どうやらヴェロニカは体を強ばらせていたらしい。しかし、入って来たその影に、自分のよく見知った(とは行っても、二人はヨハンネス・ユニウス連行の際に一度会ったきりだったけれど)凡庸な尼僧の姿がぴったりと重なったならば、いくぶんか興ざめな、安堵を覚えたらしいのである。それは、それまで彼女がいからせていた肩からすっと力を抜くのを見てわかるのであった。いざ自分の探し求めていた相手が、通常の前触れをもって現れなかった場合、つまり、部屋の隅にこつ然と現れたヴェロニカの視線を今まで気付かずに浴びていたと知ったことによって、エノイッサは他の多くの人がそうなると同様に、短い忘我状態に陥ってしまったのである。ヴェロニカは、いくぶんか緊張の抜けた、もっといえば間の抜けた様子で、しかしこちらをじっと見つめ続けたままなのであった。
「どうしたの?」
 彼女は言った、
「もう、ここには何もないのよ」
 エノイッサは、言われて我ともなしに広間の伽藍堂を見渡した。
「ああ、なるほど…… あなたはあたしを連れにきたのね」
 ヴェロニカの言葉はよどみなく、それがさも自然であるかというふうだったので、エノイッサを少しどきりとさせたくらいだった。それで彼女ははっと、ヴェロニカの方を向いた。(連れていくって、どこへ? あたしがこの人を連れてどこへ行こうっていうの…… ああ、この人、私のことをそんな目で見ているの?)しかしヴェロニカがどれほどの敵意を持った瞳でもってエノイッサを見たとして、それは当然のことと言えばそうなのであった。
「いいえ、違います」
 エノイッサは、相手をちらちらと遠慮がちに見やりながら、
「私は、ただ…… ここにあなたがいないものかと思って」
と、返したのだった。
「あたしが、いないかだって?」
「ええ」
 二人ともそれからしばらく黙った。エノイッサはなんだかもじもじして、視線を落としたままただそこに突っ立っていた。ヴェロニカは彼女にとって恐ろしい尼僧がこんなところに来て立ったまま動かないでいる理由を本気で考えているらしく、疑念に満ちた眼差しでもってでこちらの体を撫で回すのであった。しかしその時、ヴェロニカの表情がさっと変わったかに見えた。彼女は間もなくすっと立ち上がって、足の裏をすりながらこちらに寄って来た。窓から差し込む夕陽の、二人を隔てていたその河を渡ると、彼女はエノイッサのすぐ目の前に立ったのである。ヴェロニカは、自身のまっすぐな鼻先をこちらに突き付け、下から(と、いうのは、彼女は尼僧よりも若干背が低かったので)じろじろと、こちらの表情を伺ってくるのだった。エノイッサは驚きとまどい、だがそれと同時に、相手がどうしてそんなことをするのか、その真意を推し測ろうと努めて、こちらも相手の顔をじっと覗き込むのだった。
「分かった…… 分かった!」
と、ヴェロニカは突然呟いた。それは、大きくこそなかったが、怒りと歓びとの区別のつかなくなったあの声音―たとえば、苦心の末に恨み仇を見付け出して、今からそいつを絞め殺そうとする者の発するような、火花の煌めくようなあの声音―歓喜と憤怒と、それから、それらがかち合うことによって生み出される苦痛とに、持ち主が苛まれていることをはっきりと示すあの声音であった。
「あなた…… あたしを笑いに来たんでしょう? そう、そうね…… そうに違いないわね!」
 それは刺々しい、というよりむしろ、直線の鋭利な刃物のようなもので、こちらをまっすぐにぶすりとやってくるのである。ヴェロニカは一寸の間、相手の返答を待つかのように黙った。しかし尼僧がじっと突っ立ったままで何も言わないでいるのを見て取ると、
「ええ、そうなんだわ…… 分かるわよ、私には! あなたがそうやってさっきから小刻みにぶるぶると震えているのを観ると…… ええ、隠そうったってそうはいかない! 分かっているんだから! 私、ずっと見ていたわよ! あなたがそうやってずっと笑いをこらえているのを…… ずっと、ずっと、見ていた!」
 言葉の途中から、ヴェロニカはその頬をひくひくとさせ、唇をぶるぶると震わせているのだった。それで、彼女は、もうこれ以上耐え切れなかったにちがいない、突然、エノイッサにつかみかかったのである。
「母も、父も、家も、ぜんぶ! もうこれ以上横取りするものが無いと分かったら、今度は私を笑いにきた、だって……」
 二人は取っ組み合いとなり、彼女たちが足を踏みならす音が伽藍堂の中に響き始めた。太鼓のようなその音が発つ度に、埃が舞った。
「身ぐるみはがされたこの私を! あわれなこの私を! そうよ、あなたらみんな盗賊だわ! 罪も無い人間を、身ぐるみはがす盗賊! 出て行きやがれ、盗賊!」
 エノイッサは必死で相手を振りほどこうと努めながら、何やら言葉にしたいように半開きとなった唇からこぼしていたのだった。しかしそれにしたって、ヴェロニカの耳には何も入らぬようなのである。哀れな少女の腕の持つ力は強まり続ける一方なのであった。そして、ヴェロニカの指の爪が尼僧の手の甲に食い込もうとしたその時、エノイッサは瞬間的にその痛みを想像してぞっとした。彼女は、さっと身を翻すようにして、ヴェロニカのこちらをやりこめようとするその力を宙に放り出すと、それによって相手を床に叩き付けたのだった。これはほとんど無意識にやってのけたことである。ヴェロニカは大きな音を発てて床にはりつけとなった。それで、その大きな音によって、それまで上気して理性の居場所など殆どないに等しかったエノイッサの頭の中に、それが再び戻って来たのである。彼女は肩で息をしながら、絶望的に青ざめた表情をして、床にはいつくばりながらたまらない呼吸にあえいでいる相手を見下ろしたのであった。それで、後ずさりをした。彼女は何か言いたげだったのだが、言葉にならないようであった。瞳をきょろきょろとさせて、そのまましばらく時が過ぎた。尼僧はまた、さっと顔を上げて、広間の伽藍堂に目をやった。何かしら思念の逃げ場を求めているようなのが、自身でも感じられるのであった。すると、先ほどエノイッサのものとなり戻って来た理性が、その時目にした広間の印象、そしてヴェロニカの激昂した言葉より、自然とひとつの想念を組み上げたなら、彼女の耳にそれをふっとささやきかけたのである。エノイッサは舌から唇へと、その想念を言葉として象った。
「ああ…… そう。あなたのお父上は死んだのね」
 このユニウスの死という想念は、ヴェロニカの言葉の断片と、広間の伽藍堂―なぜなら、魔女として死した人間の財産は没収されることになっているので―とより、彼女がそれとなく想起しえたものなのである。しかしそれにしてもエノイッサは今の今までそうしたことを考えてみようなどとは思い及ばなかった。ヨハンネス・ユニウスは死んだのであろうか…… そして何より、それは、いったい誰のせいだろうか? 忽然に、さっと現れてやがては確信に変わるとも思われたユニウスの死に対する考えは、エノイッサが口にしてからすぐに、ヴェロニカが突然こちらを見上げて睨みつけて来たことによって、いよいよ現実のものとなっていくのであった。エノイッサはぎょっとなった。(私のせい? 私のせいなんだろうか?)ヴェロニカは強ばった表情をして上体をおこすと、じっと床を見つめて、
「構わないわ……! あなたらがどう思おうが、そんなこと別に……」
と、呟いた。その後の静けさの中で、エノイッサの心臓は常ならぬ感情によって、彼女の胸を内側より乱れ打った。(どうなるだろう……! 今、この人にあの手紙を渡して、それで…… それで、読ませてしまったら、いったいどんなことになってしまうだろう!)ヴェロニカは床に手をついたその姿勢のまま微動だにしなくなった。だが、どうやら彼女は泣き始めたようなのである。この哀れな女の喉よりもれだす声とともに、ぼたぼたと床に落ちては弾けるような水玉の音を耳にして、エノイッサはぐっと緊張に体を強ばらせたのであった。
「どうして出て行かないの? なぜ、そんなところに立っているの?」
 ヴェロニカは言った。しかしエノイッサはそのまま、じっと突っ立ったままで、相手の泣く声に耳を傾けていた。エノイッサは、どうしたものかとしばらくの間考えあぐねていたに違いないが、やがて相手の隣にかがみ込むと、ちょっとの間その顔を覗き込もうとするかのようにしていた。
「これ、ここに置いておくわね」
と、突然彼女は相手に囁きかけるように言い、懐よりあの手紙を取り出して、泣く女の、その涙のかからない所の床に、音を発てないようこっそりとそれを置いたのだった。エノイッサの一連の行為に、ヴェロニカが気付いたかどうかは定かではない。彼女はこちらを全然顧みようとはせず、震えながらなおも泣き続けていたので。エノイッサはちょっとの間、相手がなんらかの反応を示すのを待っていたかに見える。しかしやがて素早く立ち上がった彼女は、ヴェロニカのことをうっちゃって、開け放したままにしていた玄関から外へと飛び出すように駆けていった。なぜかこの時エノイッサは、きちんと扉を閉めることを忘れなかった。足早に前庭をつっきり屋敷の外へと出ると、せわしげな足取りで河に沿って歩きながら、街の方へと元来た道を辿って行くのであった。どこまで行っても、歩みは止まらなかった。それを止めたならば、またあの泣き声が背中からやってきて、捕まってしまいそうだったから。既に太陽は、街を遠巻きに囲む稜線の向こうへと落ちたようである。ふと空を見上げたなら、西の薔薇色を、東の紺が、追いやろうとしていた。

 しばらく経ってエノイッサは、暗くなりかけた街中をふらふらとさまよい歩いていた。どのような商売をしているやら分からない小さな店々の並ぶ小道を行ったり来たり―彼女の歩いた足取りを辿ってみると、外延の川沿いから街の中心へと、大小さまざまな路地を蛇行し、それは蜘蛛の巣のかけらを表しているようなのだった。V通りから広場を抜けると、街は夜の顔を表そうかというまさにその時であった。飲食店の窓からはちらほらと卓の上にかがやくろうそくの灯が見え隠れし、それによってその店の景気を判断するようなこともできた。ランタンは高価なものであるので、その輝きを目にすることは、たとえ大いに栄えるこの街にしたって稀なのである。しかしそれであっても、僅かばかりの数が、街の光彩を飾っているのがちらほらと目に入った。歓楽街は明るい。陽の高いうちから飲んだくれているような罰当たりな連中が、家に帰るのか、それともまた新しい飲み屋を探しに行くのか、けたたましい笑い声と足音を響かせながら、通りをうろちょろしていた。通りに足を踏み入れたその時より、エノイッサは肉の焼けるうまそうな香りにやられて、自分が腹を空かしていると感じ、唾液を催した。しかしそれは、ほとんど気にかからなかった。彼女にとってはこの際、そんなことはどうでもよかったのである―そろそろ修道院に帰らなければいけないだなんて、そんなことがあるものだろうか?(私は、どうしてこんなところを歩いているんだろう!? 私はどうして、あの人をうっちゃったままにしてこれたのかしら…… それに…… ひどいことをしたわ、私! そうよ、あれはひどいことに違いない……  それに、あの人が なんでもすればいいと、自分を殴ればよいと…… あそこに行く前、そんなことすら考えていたのではないだろうか、私ったら。それがいったいどうして! ああ、でももう考えないようにするのね……)しかしそれはできないのだった。思考を中断しようとすればその都度、彼女の腹の底に何かがすっと現れて、(卑怯者!)と、叫ぶやいなや、消えて行くのだった。(だって…… いったい私にどうしろっていうの? こんなただの、でくのぼうのような私に…… 私に、いったい何ができるっていうんだろう!? そうだ、何も出来ない…… でも…… 卑怯かしら、私は卑怯なのかしら? また…… また逃げ出したっていうね! 私ったら! あっは!)それと同時に、彼女は突然声を発てて笑った。(でも私、手紙はちゃんと置いて来たわよ……)
 それで、手紙から連想されて、今はどんな苦悶にあるか知れない友人のことに思いが及ぼうとしたその時、エノイッサは反射的に顔をさっと上げた。すると、いやらしい街の情景に、彼女は五感を一気に刺激されたのだった。それまで自己の考えに没頭していた尼僧は、歓楽街に特有の、あのいやらしい、ぎとぎとした輝きを放つ笑い顔を視界のところどころに認めた。それと同時に、行き交う人々のまき散らす騒音たちが、風を感じそうなくらいどっと鼓膜に押し寄せてきたのだった。それは、自分の今立っているこの場所がどこなのであるか、はっきりとこちら知らせてくるのである。(まただ!)道ばたにぼんやりと浮かんだ自身の影は、その肉体のありかを示していた。彼女は、考え事に特有の、あの精神の遊離状態から戻って来たのである。それは、奇妙な倒錯を催しながらであった。ぼんやりとした頭をもたげながら、エノイッサはきょろきょろと辺りを見回した。(またこの街だ…… 私は、どうしてこんなところを歩いているんだろう? いったい、いつの間に迷い込んだのかしら……)当然のことながら、この街にとってひどく場違いである彼女は、暇を持て余しながら通りをぶらぶらとしている連中からしてみれば、それはひどく面白い見せ物なのである。彼らは立ち止まりこそしないが、また例の物色するような好奇の視線をちらちらとこちらに投げかけてくるのだった。(あなたら、いつもこんな所を歩いているのか…… ええ、そうに違いない! それ、とっても流暢な足取りだこと! いつもここで飲んだくれて…… あなたも、あなたも!)そのような視線に対して、尼僧はぶしつけな睥睨でもって応えたのである。幾人かなどは、あからさまに無遠慮な眼差しを流してくるのだった。今しがた沈んだ陽の光が、今度は地の底からきらきらと地表を照らし上げてでもいるかのような歓楽街の光の河。多くの欲や色目の行き交う河を渡された視線の、航跡を辿ってみれば、その向こう、通りを隔てた向こう側で若者の男が手を上げているのが目に入った。(何……? ああ、呼んでいるのか、私を…… それでいったい私に、なんの用があるっていうの?)遠目にも分かったが、それは酔いによって赤く上気した色白の肌だった。緑色の小綺麗な服は、退廃の光により褐色に染められていて、彼が手をふるう度に、その指に嵌められた宝石がきらきらと瞬くようである。(宝石だわ!)尼僧はそれの持つ輝きに一瞬目を奪われてしまったのだった。(なんてきれいなんだろう!)しかしすぐに、その持ち主の表情に目をやると、それは、酒の力によってほとんど醜悪と言ってよい程に醜く歪んでいるような気がした。それで、エノイッサは彼を自分とはまったく別の世界の生き物のように、つまり、しらふの世界から旅立とうしていてはいるが、なんの未練があるのかは知らないが、そこで必死に現世にしがみついている死にかけの亡霊かなにかのように感じたのである。彼女はぞっとした、(ああ、呼んでいる…… あいつ、私を呼んでいるんだ!) すると、何やらむらむらとした憎しみが湧いてくるのだった。(どうして私があなたなんかに呼ばれなければならないのか!? うっちゃっといてちょうだい!)焼け付くような毒物を喉に流し込み、魂を肉体に縛りつけている理性の縄を解いたのなら、酩酊の世界へ浮遊していこうとする、それは、他ならぬ自身の意志によって―彼女は表情筋を強ばらせることで、そうしたものに対する露骨な嫌悪を示し、軽蔑の火花の散る嘲笑を口の辺に浮かべて、唇の片側を吊り上げてにやりと笑ったならば、
「たいへん! あいつ、こっちへやって来ようとしている! 逃げよう、逃げなきゃ、ここから…… ああ、汚らわしい、汚らわしい!」
と、呟いた。男から瞳を反らすと、着物を翻しながら足早にそこを通り過ぎた。ふと、近くの安酒場より、ジプシーの奏でる手琴に乗せて、何やら湿っぽい調べが聞こえて来た。

 月が窓辺に寄り添うと 今日も来ぬかと待ちわびる
 まだ聞こえない足音を この耳で辿りながら
 ああ 急いでおいで恋人よ
 朝日の登る その前に

 エノイッサは歩みを少し遅くして歌に聞き入った。それは、短調のアンダンテなのだった。尼僧は、ほんの少しだけ、その歌が欲しいと思った。俗な調べであっても、それは一時の鎮静作用を精神にもたらしてくれるかもしれなかったので。しかし、けたたましい哄笑やら悪趣味な合いの手が、それを覆い隠そうとするのだった。俗な調べに、ちょっとは心を奪われかけたエノイッサだったけれども、自分に歌を聞かせてくれない、驚愕と不快感によってこちらの心を一層騒がしくしようとする悪趣味な享楽人たちの発する音に対して、忌々しさを抱いたのである。彼女の頭の中には、また先ほどの重苦しい想念がよみがえってきて、それがぐるぐると渦を巻いていくのだった。少し行くと、以前この街を通った時に、若者が酒を呷っていたあの店を見つけた。それは通りに卓を出して商売をしている酒場である。見ると、あの時彼女に声をかけたのとは違う男がその席に座っていた。しかし、エノイッサは、全然別なその男に、まさしくあの若者の面影を見た気がするのだった。(ああ、今日も飲んだくれて…… ほら、またどうせ、立ち上がって、私に声かけようとするんじゃないかしらね。あっは! 好色な顔をして…… その、焼け付く獣のような吐息で! こう言うんだ……)
「よう、尼さんが、こんな場所にいったい何の用があるっていうんだい?」
 エノイッサは、あの時若者が自分にかけた言葉を、まったくその通りに繰り返した。途端に彼女はおかしくなって、
「あっは! 私ったら、どうしてこんな場所を歩いているんだろう!」
と、その場で声を発てて笑い始めたのである。突然のこの振る舞いに、卓のその席に座っていた男は唖然として、何やら怪しげな笑いを発てているこちらを見やった。馬鹿にされていると感じたのか、彼は訝しげに。もちろん、彼はそのような馬鹿げた言葉を口にしなかったし、もとよりそれまでエノイッサの歩くことなど気にも留めていなかったのである。それで、この男のみならずその場に居たどの人物さえ、狂人のような尼僧の振る舞いを、気持ち悪がっているかにみえた。それが何より、エノイッサにとってはたまらなく面白かった。エノイッサは顔を上げて、通りを見渡した。(ああ、良い所なんだ、ここは。良いところだから、みんなこうして集まってくるに違いない…… そうだ、楽しいんだ! 楽しいのよ、ここは……)目に入ってくる様々な金属たち―例えば食器、粗末な燭台、享楽人たちの装身具などがぎらぎらと照り返す輝き。視線の先で、そうした光にまみれながら、果実酒を呷っては哄笑する、人物たちの立ち姿。酒により涙が混ざって、それ自体がぎらぎらと光っているような瞳は、この世のすべての歓びを体現している、そうした気がした。彼女は夜空に輝く月を見上げた、(ああ、どうして、どうして…… なんてうれしそうに輝くんだろう!)視線の先では先ほどとは別の若者が、今まさにちょうど一杯呷ったところである。彼はきれいにひげを剃った鼻の下で、いかにもうまそうに舌を這わせている。そうした後で、手のひらをさっと、酒によって照り輝く口回りに走らせた。すると、みるみるうちにその表情が緩んでゆくのである。眼は一層輝きを持ち始め、口の端は釣り上がって、甘いような焼け付くような吐息が目に見えるみたいだった。(ああ…… いいわねえ!)エノイッサは自分の胃液が沸騰するみたいに、ざわざわと這い上がっているのを感じた。この渇えにも似た感覚が四肢へと伝わり、今の彼女を動かそうとするのだった。エノイッサは大変な欲求を感じていた。唾液がこれでもかと出てくるのだった。何の考えもなしに、そちらの方へと歩いていこうとした。彼女の凝視する瞳はぎらぎらと、気狂いじみた熱を帯びていて、その若者をぎょっとさせたのだった。彼の表情を見た尼僧は、(私ったら、一体何をしているんだろう!? ああ、この人をこんなに驚かせて…… ひょっとして、責められるとでも思ったんだろうか? …… ああ、そうかこの服! この服がいけないのね! 大丈夫、私は、「悔い改めよ!」なんて言わないわ)と、素早くつま先の向きを転じると、こちらを驚いた目で見つめたままでいる青年の横を通り過ぎたのであった。(なんて間抜けなんだろう! 私ったら!)彼女はそのまま進んで、なんと酒場の中に入っていこうとするのだった。
「別に、私がここに入ったって……  構わないわね? あなたはそれで私を責めるようなことをなさらないわよね? 私にしたって、あなたがここで酒を呷っていたって…… そんなこと、別にかまやしないからさ」
肩越しにちらりと見やり、今しがた酒を煽った青年にそう呟いたのだった。聞かれた青年どうやら呆気に取られたようである…… 再び前方を向き、酒場の中に首を突っ込んだエノイッサの唇には、不敵な笑みが迸るように咲いていた。
陽が落ちて間もないというのに、店内には飲んだくれている連中たちが、それは大勢いた。エノイッサが入ったとき、扉の軋む音がしたせいか、酔っぱらいどものうち数人はこちらをちらと見やろうと顔を向けてきた。しかし彼らはそのまま、突然酒場に入って来たこの場違いな人物の示す輪郭に、釘付けとなったようである。衆人のそうした視線はひとつ、またひとつと増えていったが、尼僧はそれを肌で感じて、忌々しくも快く思った。彼女は、給仕の立ち働いているその場所へと歩いていった。飲んだくれの持つ様々な種類の視線たち―好奇だったり、卑猥だったり、しかし驚いているということには変わりないその視線たちが、その後をじっと尾けていくのである。給仕は、近づいてくる尼僧を見て、衆人たちのそれとは違い、「面倒毎はごめんですよ」とでもいったような、冷たく皺のある表情を作った。彼は、男だったが、立ち止まって眼を血走らせているこちらを、怪訝に曇った表情によって眺め回すと、仕事の邪魔をするなと、腹立たしげにぽんと乱暴に放り投げるような調子で言った、
「尼さんを呼んだ覚えはありませんね…… だけど、みんなに見られながら、歓んで懺悔をしたがる馬鹿者どもも、ひょっとすると中にはいるかもしれませんね」
 彼はいかにもといったふうに。その皮肉を口にする自らの機知に絶対の自信があって、こちらを見下しているかのような、遣い者に特有のあの俗っぽさを添えて。誰かの笑う声がした。しかしエノイッサはおかまいなしで、相手をじっと睨みつけてはっきりとした口調で言った、
「私にもください」
 途端に、酒場の中は幾分かのざわめきを失った。何に驚いたのか分からないが、給仕は立ったまま自分のいましがた聞いた言葉の意味するところを、頭の中で考えているみたいだった。それを腹立たしく思ったエノイッサは、荒い息づかいで、懐より銅貨を数枚取り出すと、傍らの卓にそれを叩き付けるようにして置いた。断っておくと、これは彼女の持ち金のすべてである。
「あとどれだけいりますか?」
と、エノイッサが聞いた。給仕はどきりとした。どうやらそれは、何よりもこちらのその乱暴な様子に、である。
「いいや…… 十分ですよ。安いやつなら…… 注ぎますよ」
「じゃあ、それ…… それをちょうだい…… それと、何か食べ物を…… ああ、言っておきますけどね、早くよ、早く持ってくるの!」
 希望通り、すぐに葡萄酒が注がれた。エノイッサには掌大の杯が手渡された。それをひったくるようにして手早く受け取った彼女は、傍らの席に乱暴に座ると、あれほど急かして持ってこさせたにも関わらず、葡萄酒の杯のことはもううっちゃっといて、そのまま何やら物思いにふけり始めたようである。自分の奇怪な振る舞いによって衆人の関心を集め続けている…… それは、はっきりと感じられる。忌々しい視線たち! エノイッサは心の中でほくそ笑んだ。その俗物根性にまみれた視線によって、もっともっと自分を見るがいいと、彼女は席に座ってからも、その不機嫌で挑発的な様子をやめようとはしなかった。(やってしまった! 買ってしまった! ……)エノイッサは葡萄酒の強い香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。すると、もうそれだけで意識が朦朧としそうなのだった。(あっは、なんて良い香りなのかしら! ああ、うっとうしい…… 素晴らしい香り! こんなの…… まともな人間の嗅げたものじゃない! でも、どうして私はこんな時にこんなものを飲もうだなんて思ったんだろう? 不思議ね、ほんとに不思議。そうよ、だってこれは、とても罪なことなんだ…… こんなにのうのうと、ここに座って酒を飲もうとしている…… ええ、だって、まともじゃないんだもの! そうでしょ! 私は今…… まともじゃないんだもの! なんの罪も無い人たちを陥れて、それに、マリアは今……  ああ、マリア!)エノイッサは、そこで小さな、熱っぽいため息を漏らした。(ええ、私が今、まともな神経でいられると思うかしら? こんな時にまともでいられる方が、まともじゃないわ…… ちぇ、私はいったい何を考えて……)彼女は頭を抱え込んだ。何やらにやりと笑い、(…… でも、よくよく考えてみれば、たとえ私がしゃんとしていたとして、どうしてこれを飲んじゃいけないっていうんだろう。戒律? 魔女裁判がどうしたっていうの? 友人が痛めつけられて…… あっは! どうして、私がそんなことに気を揉まなければいけないというんだろうか……! 平気よ、みんな平気なことなの! ここでこうやって欲望のままに葡萄酒を飲もうたって、いいじゃない。そんなの私の勝手。いけないことなの? これは…… いけないことなの!? ええ、でも、これがいけないことだというならそれはそれで別に構わないし! それなら、一思いに飲んでしまうことね!)と、しばらく杯を満たした紅の湖面を見つめていた彼女は、突然、素早い動作によって、金属でできたその岸辺を唇にあてがったのだった。ぐっと身を反らし、杯を干し始めた。酒場の中はまた一段と静かになったようだった。客たちはじっとこちらを見ているのかもしれない。天井を仰いでいる尼僧は、そうしたことを確かめたい欲求に駆られた。だがこの珍事に気付かない人間に教える声も聞こえたならば、彼女は自分が見られているということに確信を持ち、またそれによって満足を得たのだった。(ああ、あなたたち、ようく見ておきなさいよ……! 考えられないほど下品で乱暴な飲み方をしてやるわ! ええ、俗物たちめ! どいつもこいつも…… 飲んだくれやがって!)エノイッサは葡萄酒を干すその速度を、喉が鳴るほど急速に早め―紅い雫がいくつか、おとがいを伝って服に滴り落ちた―その一杯をほとんど一息にして干してみせたのだった。杯を卓の上に置くと、気の抜けたような声の伴うあの吐息をする。干上がった杯の底を見つめ落とした。唇の端を吊り上げたその表情にはみるみるうちに、きらめく火花のような歓びが宿っていった、
「ああ…… なんていいんだろう!」
と、彼女は呟いたのだった。口腔に充満する酒の匂いが、世界を底からべったりと塗り変えてゆくのである。胃袋に降り注ぐ焼けるような雨、その刺す異様な感覚に初め戸惑っていた腹の底は、頭にもその作用が行き渡ることによって、実はそれが心地よいものかもしれないと錯覚するのである。そうすれば、次第にそれを享受し始める。それで結局、本来は痛覚であるはずのそれは快楽となり、腹の底が、さっと別の人格に乗っ取られたかのようなのだった。燃え盛るようなその感覚は、本物とは掏り替えられた偽の精力であるに違いない。しかしそんなことはどうでもよい。なぜなら、快いから。快いものに身を任せないで、いったいなんになるだろう? だってエノイッサは今、こんなに楽しいのだから。
「ああ、楽しいんだわ…… みんな楽しいのね! 私もよ!」
 酒場の中にいる人物たちをざっと見渡してから呟いた。しかし彼女は、ここであることに気が付いた。こちらを眺めてくる衆人たち中に、彼女の期待していたような楽しそうな、酔っぱらいたちにはよく見られる、相手の快楽を共に面白がるような歓びに満ちた表情、というものは見られない。というよりむしろ、不安に近い、なにやらこちらを訝しむような…… 何やら、つぎはぎの、奇怪な動物でも見るかのような顔をしてこちらを見てくる……(…… そう、これがいけないことだっていうのね、あなたたちは。それともひょっとして、神に仕える尼僧様がこんなところで酒を呷ったりなんかするはずがないって思ったのかしら…… いいえごめんね、私ったらとても悪い奴だから、全然いけちゃうのよね!)衆人たちがそのような表情によってこちらを見つめてこようが、それはそれで、彼女にとってはおもしろいものなのだった。向こうの席にいる誰かと目があったように感じると、エノイッサはなんだかおかしくなり、吹き出して笑った。
 ふと自分の手元を見やると、杯は空である。惜しく思った。口元が焼けるようなそれをほしがった。もう一つ飲みたかった。それで、金はもう無いと分かっていたのに、彼女は懐を探ったのである。(ああ、やっぱりないわ……)アルコールの作用によって、熱っぽくなった体は、さらにそれを求めるようになってゆくのだった。(だけど、困った。それで私は…… これから一体どうすればいいっていうんだろう)彼女は何の考えもなしにこんな場所へ立ち入ってしまったことを、それとなく後悔した。しかしそのような後悔など、エノイッサにとって、今自分の享受している快楽と秤にかけてみればなんでもないものなのであり、そうした後悔を、すべて自らの愚かさのせいにして笑い飛ばしてしまう程度には、彼女の頭は酒によっておめでたくなってしまっていたのである。
 向こうの隅で男が立ち上がった。あれはいったい誰だろう、こちらへ向かって歩いてくる。それは、頭のはげ上がった、背の低い職人風の男である。彼がこちらから見て数歩先まで来た時、エノイッサは、こんなところに自らの意志で座ってしまったこの期に及んでまで、妙な警戒心が自己の内に湧き上がるのを感じた。男は酔っぱらっている…… その足取りを見ればはっきりと分かる―酩酊してふらふらとなりそうな足取り、だが、むしろしっかりとした重みによってそれが制御されることによる、重みのあるあの足取り。よく見たら、右手に酒瓶を携えている。そう、おそらく彼もああした手合いの一人に違いない。歩く時にもそれを手放さない、ろくでもない酔っぱらい…… もう分かった。彼はこちらにやってくる、自分に用があるのだ。にやにやと下品な笑みを浮かべながら…… それで彼は、こんなところで飲んだくれている尼僧に一体なんの用があるっていうのだろうか…… 職人風の男はエノイッサの隣に立った。かかずりあいにならない方が良い気がした彼女は、ふてくされたような態度を作り、そちらを見ようとしなかった。すると、
「あなた、これが欲しいんだな?」
と、男は言った。そして、エノイッサの返答を待たずに、ぶっきらぼうな動作によって、彼女の杯を取り上げると、酒を注ぎ始めたのだった。エノイッサは反射的にそちらを見やる。急な角度に傾けられた瓶から迸る紅の舌のような液体は、その小さな口から嘔吐される度、苦しそうな音を伴いながら。その時、急に、エノイッサの表情に何やら不安のようなものが走ったかにみえた。彼女はじっと、何やらにやにやとしながら葡萄酒を注いでいる相手の、妙に唇の厚い口元を見据えたのだった。そんな尼僧の不安な表情をちらっと睥睨して、彼は、
「いいや、俺には分かるよ…… ぜんぶ分かっているよ!」
と、言ったのである。はねた紅の泡沫、その数滴が、エノイッサの頬にさっと振りかかった。相手はちょうど、こちらの目の高さのところでそれを注いでいたからである。酒を注ぎ終わると彼は無言で、杯をこちらの目の前に突きつけたのだった。エノイッサは瞳をきょろっと上下さし、男の顔と杯とをちょっと見比べるようにした。相手の顔をまじまじと見つめ、なんだかうれしそうに微笑みながら、しかしその下に若干の不安げな曇りをちらつかせて、彼女は、
「いいのかしら?」
と、聞いた。
「いいのかしら? だって……? いったい何を心配しているんだ? あなたは……」
男が答えた、
「もちろんいいですとも……  え? どうしてこんなことをするかって? そりゃね、もちろん…… 決まってますよ…… ここで、あなたにこれを注いでやらないと……  私は、なんだか罰が当りそうな気がしたんでね。いや、あなたは疑っているかもしれないがね、本当にただそれだけの理由からなんですよ! これを注いだのは…… 決して、妙な下心なんて持ったりしちゃいませんよ…… でも、もし万が一、自分が下心を持ってたっていうようなことがあったとしても、許してくださいよ…… 俺は、迷惑な、ただの酔っぱらいなんだ…… ええ、俺はどうしてこんなことをしゃべっているんだ? へ、へ、とにかく、本当にそれだけなんだ…… 罰が当る気がしただけさ、なんたって、あなたは…… 尼さんなんだから!」
 この思いもかけない言葉に、エノイッサは目を大きく見開いたのだった。
「罰が、当る……」
と、そのまま繰り返した彼女は、それからすぐにけたけたと笑い始めたのである。
「ああ、おかしい…… この人、罰が当る、ですって! 私にこれを注いでやらないと、あっは! 罰が当るんですって! ねえ、それっていったいどうしてかしら?」
 エノイッサは、葡萄酒の入った杯を指差した。相手の男は、「へ、へ!」と、小さな笑いを上げていた。尼僧が何を面白がっているのか分からないが、面白そうに笑っているので、何か分からんがとりあえず面白いことがあるのだろう、というようなひきつった笑いであった。それは、少しだけ音量の大きなエノイッサの笑いに伴うようにして、段階的に後から少しずつ大きくなっていくのだった。エノイッサは笑いこけたまま、もらった杯に手を伸ばした。卓の上でそれを自分の胸のところに引き寄せると、吸い付き、音発てながら葡萄酒をいっぱいに啜っていくのだった。こらえることのできない笑いをこらえようとする、無益な、だが目の前にある酒をいただくには是非とも必要な努力。それによってもたらされた、笑いの間欠的なリズムは、下品な音を立てさせて、杯から舌から喉からと、酒を行ったりきたりさせた。エノイッサはそこで飲むのをやめた。苦しくなって、椅子にもたれかかり、じっと宙を見つめて、肩で息をしながら、それはどうやら呼吸を整えているみたいなのだった。咳払いをして、喉につっかえた酒を押し出したようである。すると彼女の口元からは、
「へ、へへ……」
と、またあの間欠的で下品な笑いがこぼれ始めるのだった。灯を受けてぎとぎととした光を放つ、葡萄酒でべったりと濡れた口元。自身にしてもその不快さは気にかかったらしく、エノイッサは頬のところに垂れている被り物でさっとそこを拭ったのだった。
「ああ、汚い…… それに、暑いし!」
 そう言うと、彼女は乱暴に被り物を頭から引きはがした。それまで隠されていた濡れたような黒色、それがさっと花開いたようにほどけて広がると、むせ返るような牝の臭いをふりまいたのである。エノイッサは脱いでしまったそれを手ぬぐいかなにかのように小さく折りたたんで、それで口の周りを丁寧に拭いた。最後にそれをぽいと卓の上に放った。それからまた杯にありついた。彼女に、あの間欠的な笑いはもう見られなかった。尼僧は、ほんの少しだけ、だが勢いよく葡萄酒をすすってから、杯を卓の上に乗っけた、いささか乱暴に音を発てて。そして、雫のついた口の辺にさっと人差し指を走らせてそれを拭き取ってしまうと、そのまま同じ指を、いつのまにか正面の席に座してしまった酔っぱらいの男につきつけて、
「それで、あなたは…… ほんとに、私にこれを注げば、罰が当らないって言うのね?」
と、言った。彼女の言葉は、酩酊の沼に片足取られた人間の発てるあの響き―ぎらついた感情の音、だが呂律が次第に曖昧になっていくことによって粘着性を持つようになり、べったりとした余韻がこちらの鼓膜を叩いて不快にさせる、あの響きを感じさせるようになっていた。相手の男は答えた、
「いや! 罰の当る当らないはともかくとして…… 俺の中の信心深さがね、ぜひともそうしなさいって言ってるんですよ! なぜかは知らんが…… いや、待てよ。そもそもどうして俺は尼さんなんかに酒を振る舞ってるんだ? ええ、そもそもあなた、尼さんみたいなのがどうしてこんなところに酒を飲みにきてるんだろう? 俺は幻かなにかを見ているのかね……」
「幻なんかじゃない…… 私は尼僧で、あなたは私にこれをくれた…… ぜんぶ本当のこと。ああ、でも! どこで何をしようったって、そんなの私の勝手でしょ……」
 すると酔っぱらいは、にやにやとした下品な笑いで彼女を見つめながら、
「いや、分かるよ! 俺には全部分かるよ!」
 と、言うのだった。
「あなた、とってもこれが好きなんだろうし! だから、こんなところに来て大好きな酒を飲もうが飲むまいが、そんなの、あなたの勝手ですぜ…… へ、へ! それで、じゃあ、こんなところにのこのこやってきた酒好きな〈神の遣い〉に、酒を振る舞った俺の行為に、いったい何の悪い…… 罰の当るようなことがあるっていうんですかね!」
「〈神の遣い〉!」
 エノイッサは途端に、嘲笑的な響きを孕んだ大きな声音で叫んだ、
「へえ、そうなの! だから罰が当るなんて言ったのね、あなたは……! ええ、そうよ…… 見ての通り、私は〈神の遣い〉よ! だから私は、やろうと思えば、酒飲んでげらげらやってるあなたたちみたいな罰当たりな連中に、ひとつお見舞いしてやることだってできるんだからね! …… だけど、あなた、こういうことは考えなかったの? 私がこんななりで、驚かれるかも知れませんけどね、断っておくと……」
 尼僧の声は次第に低く静まってゆき、彼女は、刹那的に引き攣ったような笑みを浮かべて、嗜虐的な興奮による熱狂からか、小刻みに体を震わせて、
「私は〈神の遣い〉でもなんでもなくって、実は…… うふ! ひょっとしたら悪魔とか、そういった類の生き物なのかも知れないわよ」
と、言った。それとともに彼女は、酒場の中にいる、自らにいぶかしげな視線を送ってくる連中たちに、挑戦的なまなざしを投げつけた。
「悪魔! 悪魔だって?」
 驚いたふうに叫んだ酔っぱらいは、エノイッサをじいっと見つめて、
「え、こりゃおもしろい! 俺は今、悪魔と話しているのだとしたら……」
と、彼は、まるで独り言でも言っているみたいに呟いた。
「でも、確かに、聞いたことがありますよ。悪魔はそんな綺麗ななりをして現れてくるって…… 悪魔は、そうやって俺たちをたぶらかすそうですな!」
そう言って男は、一時大笑いした後、何やら考え深げにこちらの顔を覗きこみながら、
「でもそれだと、全部合点がいくぞ…… そんな神聖な服を着て、綺麗な尼僧になりすまして…… 俺たちを惑わしにきたんだな、こいつめ! まったく、ろくでもないですね、悪魔というやつは…… へ、へ! だけどね、尼さん(いや、悪魔さんと言った方が正しいかね?)、たとえあなたが自分で言うみたいに正真正銘の悪魔だったとしてですよ、それでもやはり俺はあなたにこれを注いでやると思うな! だって…… もし仮にあなたが悪魔だったとしたら、そりゃやはり、あなたは良い悪魔なんだろうからね!」
と、言い、男は自分の持っていた酒瓶をさっと持ち上げた。そうするやいなや、瓶を唇にあてがい、大きく逆さまにして、自身の体、おしゃべりなその顎関節にまるで潤滑油でも挿すみたいに、酒をちょっとずつ流し込んでゆくのである。エノイッサは驚いたのだった。こうした酒の飲み方―下劣な人物の振る舞いを、それまで目にしたことがなかったので、彼女は男が酒を飲んでいるということが一瞬分からなかったくらいである。酔っぱらいの男はさっと自分の唇をぬぐい、
「え、尼さん、あなたはもう飲まないのか。せっかく注いでやったのに」
と、言った。しかし、エノイッサは手元にある葡萄酒を全然顧みようとはせず、無言でじっと相手を見つめる、というよりは睨みつけるふうなのだった。
「どうしたんだ、え?」
 男はちょっとの間エノイッサの表情と、彼女がうっちゃったままにしている杯を見比べた後、
「ああ、そうだ! 俺が下品な振る舞いをしたからだろう。こんな酒の飲み方をするのが、悪いっていうんですね、あなたは! それで、こんなに酔っぱらっているのが…… でも、許しておくれよ、なんたって俺らは、どうしようもない連中なんだから。それに、あなたは知らないかもしれませんが、この飲み方は、とても気持ちがいいし…… だけど、優しいあなたなら許してくれますよね、へ、へ!」
と、言った。彼は自らの持つ酒瓶を、何かの汚れによって黒ずんだような、自身の太い指先によって叩いてみせた。エノイッサは答えた、
「そんなの、あなたの勝手だから、私、ぜんぜん気にしてないわ」
 すると、酔っぱらいはまた例の下品なにやにやとした笑いをたたえながら、
「え…… お嬢さん!」
と言い、嬉々としてこちらの表情を指差してみせたのである。
「そうだろう…… そんなの、俺の勝手だろう!? へ、へ! そうだ、これを飲むのは俺の勝手だ…… それで、ぐでんぐでんに酔っぱらおうがね…… ええ、だから俺は…… その気になれば、これをぜんぜん飲まないことだってできるんですよ! なぜこんなことを言うかって、それは俺に言わせてみると…… 今ここでこうやって、ぐでんぐでんに酔っぱらっているのは、きっと、とっても罪深いことに違いないからだ! あなただって思っている通りだ」
 エノイッサはつんとそっぽを向いて、
「私は別に!」
「いいや……! だからあなた…… それをうっちゃったままにしているんじゃないか? へ、へ! なぜならこれはとても、罪深いことだからだ!」
 彼はそう言って、また酒を呷った。
「ああ、もし、仮のこととしてですよ…… これを飲まなかったとしたら…… ええい、こんなもの……! ええ、尼さん。この酒を買う金で、いったい何が出来るだろう? 恵まれない下司野郎どもに、施しを与えることだってできますよね?」
「ええ、できますとも」
「そこらへんをうろちょろしている身寄りのない餓鬼どもに、菓子や着物だって買ってやれる……  ああ、そうだ、お嬢さん。こういうことに関しちゃ、靴を作っている俺なんかよりも、教会で働いているあなたらの方がずっと得意なはずだぜ…… へ、へ! いや、でも実際そうじゃありませんか?」
 エノイッサは言葉を聞いて、何かしら腹の底から湧き上がってくるような苛立を覚えたのだった。そうしてそれは、彼女の瞳からぎらついた輝きとなって外界に飛び出し、なにやら奇妙に顔を歪めて笑っている酔っぱらいの、ざらざらと毛穴の目立って醜い頬を、じっとなぶりつけるのだった。彼女は低い声で呟いた、
「…… だけどそれは、もうだめですね…… あなたの中に、入っちゃったんだもの」
「ああそうだ、だめだ! どいつもこいつもみんな、ここに入ってしまったんだからな!」
 そう言って、彼は、自らの腹に手を当てた。
「ああ、この金で、いったいどんなことが出来ただろうね……! ええい、だが、そんなことはどうだっていい! 不快だ! 考えるのも嫌だ!」
 不快と言いながらも彼は大笑いしつつ、また酒を呷った。ぴんと、食卓の上にある埃を、指ではじき飛ばしながら。そして汚い音がした、こぼれ落ちる飛沫とともに。
「だがそんなこと、俺の知ったことだろうか!? 貧乏人が道ばたで野たれ死のうが、身よりのない餓鬼どもが貧しさのあまり盗みでもしようが、そんなこと、どうだっていいことじゃないですか」
 すると、誰かが、「このろくでなしめ!」と、叫んで笑う声が聞こえた。「おまえもいつか野たれ死ぬんだよ!」
「あっは、ほっといてくれ! だって、とっても気持ちいいんですよ、これは。そりゃもう、あなたの想像もつかないくらいにね…… 他のことは、どうだっていいんです…… いや、まてよ、あなただって酒飲みなんだから、分かるはずさ。楽しいだろう? ええ、尼さん? え、楽しくないって? ああ、確かに。今あなたはそんな顔をしていますよ…… ちょっとあなた、気分でも悪いのかね?」
 そう言って彼は、こちらをちょっと指差した。事実、エノイッサは青ざめた表情をして、じっと下を見ていたのである。
「ええ……  少し、飲み過ぎたのかしらね!」
 尼僧はにやりと笑って答えてみせた。
「かわいそうな尼さん、だけどこれを飲んで楽しくないだなんて、きっと何かしら心配事があるんでしょうね、あなたには。へ、へ…… それは、なんだ? 貧困者が腹を空かして死ぬことか? 餓鬼が盗みをして指を切り落とされることか? 誰か大切なお友達が…… 苦しみの果てに命を落としてしまうことかね? それとも…… ああ、あなたの頭の中はきっと、他にも何か、心配事でいっぱいなんだろうね! いや、でも納得ですよ。だって、あなたは優しいんだから! ねえ、やさしい、やさしい悪魔さん……  あなたは、俺みたいな飲んだくれとは違う。いまこの瞬間かわいそうな人間がいるというのに、何かの足しにできるかもしれない有り金を、胃袋の中に納めて快楽を貪っているような連中とはね! こんなところで、のうのうと酒を呷ってね!」
 そう言うと、男は腹を抱えて、げらげらと笑い始めた。エノイッサは病的に青ざめた顔をして、その様子をじっと見つめていた。彼女は突然、素早い動作で立ち上がった。
「おや、お帰りか?」
 酔っぱらいが、見上げて聞いた。口の辺は、哄笑によって撒き散らされた―唾と葡萄酒のまざったような―によって、べったりとしていたが、彼は、なおも下品な笑みをやめようとはしなかった。
「お前さんが嫌なんだとよ! もっといい男のところへ行くのさ!」
 誰かがそう叫んで笑った。ありきたりな冗談に、酒場の中は一斉に哄笑の渦に巻き込まれた。エノイッサは何か恐ろしいものでも目の当たりにしているみたいに男を見つめたままで二、三歩後ずさりすると、振り返って即座に駆け出した。全然後ろを顧みないで、木を鼓つ大きな足音を発てて玄関扉をくぐった。

 再び通りに出た彼女は、頭がくらくらとするのを感じた。体の四肢が、葡萄酒の心地よい融解作用によって、次第に感覚を喪失していくのである、人型が崩れていくかのように。(やっちまった!)エノイッサは、怒りにも似た自責の念によって、毒々しく顔を歪めた。(くだらないことをしたもんだ、もうよそう、こんなことはよそう……)あれほど希望して飲んだものを、出来ることなら今すぐ、全部吐き出してしまいたいくらいだった。(ああ…… こうして、この街の連中は酒に精力をぜんぶあげてしまうってわけね!)にやりと笑った。こうしたつまらない考えも、今の彼女にはひどく面白いもののように思われ、また自身でも進んでそれを面白がったのである。意の底から立ち上る生命の炎、酒が腹でくすぶる快楽というものは、例えば性欲のような、人間に本来備わっている衝動と中々よく似ているのである。それなものだから、酒飲みたちはあれだけ活き活きとしているのだろうか…… 尼僧は腹に手を当てて考えた、(その点では、あいつらと私、同じってわけね!)
「あら、いけない!」
 少しばかり歩いて、エノイッサは声を上げた。被り物を酒場に置き去りにして来たことに気が付いたのである。彼女は振り返った。歓楽街の河を流されていく人々を見て、どうしてそのようなことを感じたのかは全然分からないけれども、彼女はなぜか、今来た道を引き返して再びあの酒場に戻ることが、それは全く不可能事のように、全然ありうべからざることとして―たとえ、それが自らの被り物を拾いに帰る場合であっても―感じられてしまったのである。
「まあ、いいわね、別に!」
と言って再び歩き出した。

 エノイッサはふらふらと、修道院とはまったく別の方向へと足を進めていった。V街からA通りへ、大きな河にかかるV橋の方へとどんどん近づいた。この辺りになると喧噪もない。今彼女の歩いている場所は川沿いの通り―建物に灯はなく、静かで陰気な、だが清潔でよく整った―というよりは、簡素な建物ばかりの並ぶ、もの寂しい―そんな町並みである。つまるところ、ここは場末なわけだが―こうした場所は、気のめいるような陰気さを持っていたにしても、初めて目にした人の多くを意外に思わせるくらいの小綺麗さを、たたえているものである。この相反したような二つの印象は、人の出入りが少ないという、一つの理由からそれぞれ生まれたものなので…… 酒場を出た時から孤独を欲してやまなかったエノイッサは、この場所がそうした印象を持っていることに、無意識のうちで感謝することとなったのである。橋に差し掛かって中程まで渡ると、立ち止まって、欄干に両肘をついた。手に顎をもたせてから、大きく息を吸って吐いた。焼け付くような吐息であった。体の芯が溶けながら、気体となってどこかへ霧散していくようで、文字通り彼女は酩酊していたのである。こうして快楽に身を預けている尼僧の表情はどこか幼げで、その目は何やら夢見がちに輝いているようにも見えた。事実、彼女は夢を見ていた。頭の中をどろどろに溶かすような快楽を、追いかけては捕まえ、それを弄んでいたのである。それは、形のない夢であり、終わりのないものだった。だが、そのように快楽を求める欲望は、すぐにその脚力を失ってしまった。酩酊した人間の中には、ある程度酔いが回ってしまった後になると、一息ついて再び活動的になった頭脳が余計な考えをちらつかせはじめる、そうしたことによって物思いの中に没頭してしまう、そうした連中が時には見受けられることがあるが、エノイッサはまさしくこうした手合いたちの一人だった。眼下に動く真っ黒な河なんて、そんなもの、ここに頬杖を突いた時から知ったこっちゃないけれど、ちょろちょろと、河岸をなでていくその音は、まさしくこちらの鼓膜をもそうしてくるのであって、故意に苛立たせようとして感覚を苛んでくるかのような不快なせせらぎに、彼女は次第に我慢ならなくなっていくのであった。エノイッサは声を上げて欄干の上に突っ伏した。ぶるぶると、小刻みに肩を震わせて。どうしてあれほど酒を欲しがったのか、また、なんの為に酒を飲んだのか、さっぱり分からなくなっていった。そして、また嫌な想念につきまとわれ始めたのだった。(酒を飲んだくれて朦朧としていれば、逃れられるとでも思っていたのか?)彼女は嗜虐的に自身を苛んだ。しかしそこには、胸中で囁かれる―というよりは殆ど叫び声にも等しい―声の中には、若干の諧謔じみた調子も混じっていたのである。(ああ、その通り、その通りよ! 私ったら、なんてばかなんだろう! こんなに飲んだくれて…… 悪党、ええ、悪党よ! 罪人もいいところだ! もし誰も私を裁く者がいないなら、自分でやってやればいいじゃない…… ああ、だけど言うわね…… 《汝、裁くことなかれ》ですって? ええ、でも神様だって、このくらい許してくれるわよ…… 慈悲深い神様のことだから、きっと許してくれるわね! だって私、こんなに罪深いんだもの! 酒を飲んで、こんな所でめそめそして…… いったいどうするつもりだったというの、おまえは? いくらそうしたって、結局……)急にからからと笑い出し、(ええ? 本当に、罪なんですって? これが、本当に罪なこととだっていうの…… だけど、本当に、本当に私には罪がないとでもいうのだろうか…… あれだけたくさんの人々を地獄に突き落として、私に罪がないって、本当? 私が潔白であるというあかしなんて、どこにもないじゃないか…… どこにも! それに、ヴェロニカのことが……)エノイッサの表情には何だか不安げな、どうやらそれを考えまいとしているかのような翳りが見えた。しかしそれは、笑って気をまぎらわすようなのでもあった。(おおげさ! 考えすぎよ。また、いつもの悪いくせじゃない…… ああ、マリア、そういえばあなた、なにかしら言ってたわね……)すると瞳には一瞬、感傷の輝きが迸ったかにも見えた。が、しかしそれはすぐに姿を消して、(…… 私はまさか、あんな戯れ言を本気にしたっていうんじゃないでしょうね? あんな馬鹿げたこと…… あんなに泣いて、やけに感動的だったじゃない、私ったら! 《他ならぬ、罪の自覚こそが罪を浄める》…… ええ、本当! 本当にそう! 私は罪を自覚して、それで…… 私は、罪を自覚し続けて……)彼女は身震いをしながら、
「いつまでも、いつまでも……」
と、呟いた。(あっは! これが《浄められる》ってことなのか? うふ、やっと分かったわよ! …… そう、そうね。ならいっそのこと自覚しなけりゃいいのよ。石のようになれば…… ほんと、私に罪なんてないのだから…… ええ、もし、誰かが私のことを見て罪人だっていうんなら、それはそれで別に構わないし!)にやりと不敵に笑って、(ええ、まさしくその通りだ! なるほど、私はやるべきことはしっかりとやった。魔女を連行して、火刑台へ送ってやったわ! もう何人も! 誰が見たって立派な尼僧。それで、私のこの行いによって不幸な人間が生まれたとして、それで私に一体なんの心配事があるっていうんだろう? でも…… ええ、きっとこれは、よくない考えごとだろうか…… いやいや、全然そんなことない。だって、ひょっとすると…… 自分が不幸にした人間に情けをかけるということの方が、よっぽどよくないことかもしれない……)彼女の表情は、またいらいらとした感情によって揺らぎ始めたのである。(…… 人を殺して、自らの所業に恐れ戦き、手にかけた人間のことを憐れんでおけば、たったそれだけのことが、自らが潔白な人間であると、心の美しい人間であるということの証だと思っているのだろうか…… おまえは? おまえの情けって、つまりはそういうことじゃないのか? おまえは、そうしてくよくよと悩んでいれば、自分の罪が少しは軽くなるとでも思っているのか!? どうせ、罪人としてこの世に生を受けたのなら、徹底的にやっておしまい! 残酷に…… いくら誰かを憐れんだところで、それによっておまえの行いが美しくなることはないのだから。ええ? エノイッサ…… むしろそれは、自分の行ったことから目を背けることじゃないか……? 虎を見るがいいわ、あいつらが、自分の食った肉のことを憐れんだことがあるだろうか……)エノイッサは、鼻でふんとせせら笑った。(私だって同じじゃないか! みんな踏みつければいいのよ、屍肉のように! …… あっは! そうだ、残酷でなければいけない! 余計なことなんて考えずに……)何かの悪寒にぶるぶると震える肩―彼女はそれをおさえるかのように両手で胸を抱いて、(じゃないと私、はたしてここで生きていかれるだろうか?)橋の欄干にもたれかかったエノイッサは、
「あっは! どう!? 私はとっても残酷よ! あなたたちなんかすぐに火刑台に送りつけてやるんだからね!」
と、叫んだ。しかし彼女はここで、ぴたりと動きを止めた。ちょっと、何かを考えていたかのような間を置いて、
「なんですって!? あなたいったい…… ええ? 私が虎だとでもいうの!?」
と、言い放ち、大きくかぶりを振って酒臭い息をあたりに撒き散らしながら、(だけど、私が罪の意識に苛まれることに、いったいなんのおかしなところがあるっていうんだろう? そう、それは当然、もっともなことだわ…… でもだからこそ、私の心にいつまでも、こいつは居続けるのよ…… いつまでも、いつまでも)彼女の瞳は次第に、ぎらぎらとした熱情的な輝きを始めたのだった。(だから、私はね…… ええ、罪の意識に苛まれることが罪を浄めるだなんてちっとも思わない! それは、ただ私が払拭できない、ただそのために心の中に持ち合わせているに過ぎないからよ…… だけど、どうしてだろう。この意識は、どこから生まれてきたんだろう? 私の心が、望んでいるからだろうか…… 私が、自分でこうなることを望んでいるとでもいうのだろうか? …… こんな感情、どこかへ行ってしまえば、どんなにかいいのに! ああ、だけど、そうすることができないっていうんなら、一生こうやって苦しみ続けることになるんじゃないかしらね、死ぬまで!)
「ああ!」
 エノイッサは叫んだのだった。まるで自分の中に異なった人間が立っているようでもあり、眼下に広がる真っ黒い川に目を落とすと、そこにはやはり自分の影が映っているのだが、それがなんだか別の人間のもののように感じられてきたのである。河面に浮かぶ自身の影を睨みつけて、(お前は誰の心の中にでもいるはずだ…… 何も私だけってわけじゃない。別にこんなこと、大したことない、そう、大したことないのよ。だから、私も他の多くの人たちと同様に、聞こえないふりをすればいいんだ…… ああ、そんなことができれば、どんなにかいいだろうに! 一旦聞こえると気付いてしまえば、それは嫌になるくらい耳障りな、お前の声を! ああ、湿っぽくて、気取っていて、夜も眠れないくらい不快な響き! ため息! お前をなんと形容してやろうかしら……? 大した罪も犯していないのに罪に感じる……  あ、そうだ! 私たちの流儀に従って言えば、それはぴたりと当てはまる名前があるわ!)エノイッサは、はっとした。それは突如としてひらめかれたのだった―彼女は、それを口にした、
「原罪……」
 その途端、彼女の瞳は、河に映る自身の影―とは言っても、先程から繰り返しているように、それは全然自分のものではないような気がしていたのであったが―に、ぐっと吸い寄せられ、そいつの表情を間近で見た気がしたのだった。それは、目と鼻の先で見る表情―まるでその表情筋の作り出す起伏まで認めることができるかのように、はっきりとした表情であった。影は不敵に唇の端を吊り上げて、頬の筋肉を山のように盛り上げながら、本来丸みを帯びているはずの瞳を三日月形に侵す、そんな残忍な笑みでもって表情を歪ませ、こちらを見つめ返していたのである! そいつはエノイッサの鼻先で、こう言った、
「ね、私にしては、中々気の利いた名付け方でない?」
 おそらく読者の多くは、ここで彼女が《原罪》などという、大それた言葉を持ち出したことに対して、奇妙な印象を持たれたのかもしれない。またそれを、《気の利いた》などと形容してみせたことに対しても。実際、この考えは奇妙なのだろう。もっと言えば、それは荒唐無稽なのもしれない…… しかし、尼僧エノイッサが、このような浅はかな考えを刹那的にもっともらしく感じられたとして、それは無理からぬことなのである。というのも、大酒を飲んで酩酊した理性というのは、このような突拍子もない答えを有り難がるものであるし、また仮に彼女が酒を飲んでいなかったにしても、若い、勢いを持った活動的な精神というのは、それくらいの短絡さを持ち合わせるほどには、独りよがりで、熱狂的なのであるから。(だけど、変なの! 《原罪》だなんて…… でも、ひょっとすると、これは案外当を得ているかもしれないわ…… そうね、ぴったりの言葉かもしれないじゃない。罪の意識だなんて…… 私だけでなくって、みんなが躍起になってあなたを心から追い出そうとしているもの…… でもどうやって? どうやってあなたを追い払うのかしら…… ああ、一つだけ、一つだけあるわ! 分かり切っているじゃない。でも、私はその方法を必死で考えまいとしている気がする…… 怖い? 怖いっていうんだろうか、私は…… それなら、自分にそんなこと出来るはずがないものね……  ええ、たとえ出来たにしても、結局のところ、あなたが私の中から姿を消すかどうか、分かったもんじゃない……  でも、そうよ、それは一つよ。一つしかないわ。おそらく…… それは、あの娘のように…… そう、あの娘のように……)そうして、エノイッサの考えに、ちらとマリアのことが浮かんだのである。その途端、彼女はぞっとした。今自分が睨みつけているこの相手が、実はマリアの中にも潜んでいて、今自分を苛んでいるのと殆ど同じような力を及ぼし、彼女を破滅的な行為へと駆り立てたのかもしれないと、それとなく直感したからである。エノイッサはぶるっと大きな身震いを起こした。そしてしばらくは、自身のこの、一見突拍子もないと思われる考えに対して自ら驚いてでもみたかように固まっていた。だが次第に表情を歪ませてゆき、間欠的なせせら笑いをいくつかした後で、エノイッサはついに哄笑を爆発させたのであった。
「そう、あなただったの! ええ、あなただったのね……」
 彼女は欄干の上で、笑い転げた。しかし突如として、そこから身を乗り出したなら、河面に映る自身の影をじっと睨みつけて、
「畜生! お前なんか殺してやる!」
と、腕を振り上げて騒ぎ立て始めたのである。
「返しなさいよ! ええ、あなた!? マリアを返しなさい!」
 この時、橋にたもとに差し掛かった幾人かの男たちが、その気狂いじみた振る舞いを見、仰天して集まって来た。
「何をしているんだ、あなた……? や、こいつは酒の臭いがするぞ!」
 一人が言って、笑い始めた。
「尼さんなのに! 飲んだくれてやがったな、こいつめ!」
「うるさいわね! 私が酒を飲もうったって、別にいいじゃないか!」
「ひとまず、そこから降りなさい。危ないよ、あなた、落ちて死んでしまうよ」
 すると、別の紳士が、なにか面白いものでも見ているかのような口調で、
「殺してやる、とかなんとか言ってたな。ひょっとして、その、殺すって…… 自分自身をかね?」
と、言った。言葉に、エノイッサははっと驚いたようにして後ろを振り返った。自分では気の利いた洒落を言ったつもりで笑っている紳士。彼女は彼を、思い切り睨みつけた。やがて気が付いたのは、、そこには結構な人だかりが出来ていることだった。
「自分で降りるから! うっちゃっといて!」
 男たちが自分の体に手をかけようとしたのを見て、エノイッサはしっしと手で払いのけるようにしながら叫んだ。それからすぐに、彼女はすとんと、橋の上に足をついた。
「いったい、何が気に食わないのかね?」
 一人の紳士が、彼女にこう言った。
「ええ……? 気に食わない、ですって?」
 エノイッサはじろりと彼を睨みつけてから、鼻先を突きつけてから言った、
「…… 別にあたしの気に食わないことなんて、ないんじゃないかしら?」 
 彼女は男たちの間を早足で割って抜けた。背後で、なにやら、おお、とか、そうした類いのどよもしが起こっているのを感じて、またその中には戻るようにと自分を呼んでいる声も聞こえた気がした。しかし彼女は、気恥ずかしさ(あんな行いをしておいて、気恥ずかしい、とははなはだおかしなことである)と、苛立とによって引き起こされた胸の熱っぽさによって脚を急かされていたから、立ち止まったりするなどということはしなかった。彼女はまた、薄暗い路地の方へと入り込んだ。
「何も…… ええ、何も!」
 エノイッサは歩きながら呟いた。
「気に食わないこと…… いったいなんだろう? 素敵な街! 気に食わないことなんて、あるわけないじゃない。…… 気に食わないこと? 私に? …… あっは! 素敵よ、みんな素敵……」
 やがてエノイッサの目の前には、太陽のようなまばゆさをたたえた大きな絵画のような光景が、両側に立つ建物の額縁に縁取られて現れていたのである。彼女はまた帰ってきたのだった。歓楽街のその絵画のような彩りを成す光線たちは、はみ出した絵の具のように、暗い回廊の石壁へと放射状にしみ出していた。エノイッサは、ちょっとの間ためらうかのように佇んでいた。(ふん…… だけど、私はなんだってまた、こんなところにのこのことやって来たんだろう?)やがて尼僧は、雑踏の響きが沸き立つ絵画の中に、吸い込まれるようにして潜った。
 そこは相も変わらず姦しいものではあるけれども、以前と同じようには彼女の心を騒がしくはさせなかった。というのは、尼僧は酩酊していたので、それはそうした人によくあることだが、感覚や直観―特に時間に関する―がその力の及ぶ範囲を狭め、普段なら大河のようなうなりを上げて緩やかに流れ行くこの情景も急流のようにして意識の中に入ってはくるが、しかしどのような印象の欠片たちもこぼれ落とそうとはせずに流れの中に抱きかかえたままでただ通り過ぎてゆくだけなのであった。(ああ、何もない……)尼僧の顔には絶望的な、しかし不敵な笑みが宿っていた。雑踏の響きの急流に、彼女はその想念を流れるままにさせておいた。(ああそうだ、ここには何もない! そしていつもと変わらない…… だけどこれって、どんなに素敵なことだろう! だから言ったでしょ…… 素敵だって)エノイッサは頭をもたげてから辺りを見回すと、(ああ、一体誰が、この中で誰が自分の手についた返り血を顧みているというのか? どこかのおばかさんみたいに!)と、立ち止まって自らの両手を見た。それはうっすらと、見えるようである。加えて、全身をすっぽりと覆う衣服が、誰かの血液によってべっとりと塗れ、その重みを増しているようにも感じられた。だが、こんなものは幻想に違いない。(私はおかしいのだろうか? それともあいつらが、おかしいのだろうか? 私、やっぱり…… いいや、そんなことないはずよ…… いや、でもおかしいんだわ! …… こんなもの幻想だって? そうかもしれない…… だけど…… ああ、みんな、これが分からないの?)彼女には確かに聞こえる気がするのであった―変わらない都会の一角なのに、人々の行き交う絵画の背景からは恐ろしい、惨たらしい叫び声がにじみでてくる。それは焼かれる人間たちの叫び声のようだった。瞳を凝らせばまさしく油彩画の下に描かれていた線描のように、街の明るい宴によって上から塗りつぶされたような見るに耐えない真っ黒なものたちが、うっすらと喧噪の底から滲み上がってくるみたいだった。(これがいったい幻想だろうか? …… ええ、どうしてあなたたちには分からないのか? こんなに大きな叫び…… ああ、でも、なんて刹那的な響きだろう! どこかへ消えていっているのだろうか…… ああそれで、ひょっとすると、私にだってこの叫び声を上げることがくるのかもしれない…… それはきっとそうなるに違いない! …… いや、ひょっとしたら、もう…… それに、私だけじゃない……)歓楽街の光は焔のようだった。ここで幻想された地獄のような光景のすべてについて、エノイッサは、自分に責任があるかのように感じられていたのである。そして無意識のうちに、他人にもその所在を求めようとしていたのかもしれない…… まるで熱にうかされたみたいに、彼女は行き交う通行人たちにその妄執的な眼差しを投げかけた。彼らは、訝しげな面持ちをしている。彼らはいったいなぜ、そんな顔をしてこちらを見つめているのか。尼僧がこんな夜に、こんなところで狂気の宿ったような瞳をあたりにばらまいて行くのが…… 自分の見知ったこの街に、こんなおかしな情景が見られることが、たまらなく不思議というのか?(どうしてそんな顔…… 平気な顔をしていられるの、あなたたち…… 現に今だって、こうして…… たまらない声をあげているじゃないか!)行き交う人々の発てる雑多な響きを目の当たりにして、エノイッサはそら恐ろしくなってくるのだった。
「もうこんなの、ごめんだわ!」
 エノイッサはすぐに後ろを向くと、再び路地裏の、暗闇の回廊の中へぴょんと身を滑り込ませたのだった。絵画から飛び散るぎらぎらとした絵の具たち、まるで火花のようなそれらが身にふりかからないように、彼女は影のところへぺたんと座り込んだのだった。(…… ああ、なんだか怖い! だけど、私は一体何を恐れているというんだろう?)彼女の頬のすぐそばには、わずかな間をおいて、細長い光の指、その途絶えるところがあった。こちらを焼こうとまるで壁を這って食指を伸ばすかのようなそれを横目でじっと見つめながら、(どうするの…… それで私はいったいどうするの?)と、尼僧は自身に対して脅迫的な問いを繰り返していた。(どうする、ですって? あっは! なんだってこんなばかげたこと…… おおげさじみたこと! だって、いったい私に何ができるというんだろう…… それは果たしてあの子のように…… だけど…… あっは! 私にあんな真似ができるものか!)エノイッサは突然身を起こして、けたけたと笑い始めた。尼僧は刺すような光を体全体に浴びて、その奇怪な影を、石でできた壁にじりじりと焼き付けた。幸いにも誰も彼女を目にする者はいなかったらしいので、それは心の赴くままに笑っているようにも見えた。だが断っておくと、彼女自身、もし誰かがこの奇怪な笑いを目にしていると気付いたならば、それはもっと大きな声を上げていたに違いないのである。(ああおかしい! 私ったら、何を考えていたのだろう! このでくのぼう! あなたなんかには、なんにも出来やしないわよ……)エノイッサの顔には、何やら毒を含ませたような赤みの鮮やかさが、ぱっと弾けたような感じに咲いていた。ひとしきり笑ったあと、その余韻を間歇的にひきずりながら、涙を拭った尼僧はまたふらふら歩き始めた。そして、そのまま路地裏の暗闇の中へと消えてしまった。

幻想悲曲 第二幕二場

幻想悲曲 第二幕二場

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-29

Copyrighted
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