アネモネ少女

昔、少女小説の賞に応募し落選したものです。絶賛片想い中なので自分で星空文庫のフォントで読みたいので載せます。

 まっしろなアネモネ、この花、小粒のはなびらは円みを帯びて、つつましげにやや反りかえり、愛らしく、楚々たる優美な花である。
 けれどもこの、かわいらしい花には、どこかさみしげな、果敢ないふんいきがあって、背後には澄みきったかげがあるようで、恋にやぶれ砂浜に打ちあげられた、亡き少女の遺す透きとおった愛情、投げ棄てられた海辺の悲恋、そんなものが、この純白の花から、ふっと風に薫ることがあるのである。

 少女の名は佳子といって、金平糖がなにより好きであり、日に五粒はきちんと食べる、それが砂糖の星々との約束、その一番の親友は、家庭の事情に悩みくるしんでいて、佳子はたびたびかのじょの相談にのり、自分の身のようにくるしく聴いて、家に帰ると、しばしばベッドへたおれこみ、親友を想い、涙するのであった。
 泣きじゃくる澄子の話を聴いているとき、佳子はよく、かのじょの頭をよしよしとなでた。澄子のほそくやわっこい、さらさらの髪は、ゆびさきにからまず、すっとすべるようで、佳子の、親友をたいせつに想う心情に反し、そっけないほど、指から抜けていくのである。
 そんなとき佳子は、人間のさみしさというものをかんがえた。どんなにひとをたいせつに想っても、なにかしてあげたくても、理解したくても、ひとの心と心はぜったいに不連続であって、けっして融けあい解りあうことはないのだという、そんな深いさみしさに駆られるのだった。
 佳子が、澄子の話を聴くのは勿論くるしく、しかも悩んでいるのはだれよりもたいせつな澄子であって、むきだしの神経が無防備に傷ついていき、だんだんすりへっていくような、そんな苦痛を終始感じていた。
 …澄子の話が終わった。佳子はバッグから、だいすきな金平糖を取りだした、そして友人に中身が見えないように、三つ、指でそっとつまんで、澄子へ手渡した。
「だいじょうぶ?」
 泣きはらした目で、澄子は訊く。
「五つ残ってる? 佳子、毎日五つ食べるのが、金平糖との約束なんでしょう」
「ちょうど五つだけ残ってるよ」
 と佳子はこたえた。
 そうして、頬をねじるようにして、笑ってみせた。それは寂しい、はらはらとした音を立てて、いまにもくずれ落ちるかのような、そんな、こわれやすい笑みであった。
「そっか」
 澄子も、ちからなくほほ笑む。
「今日はありがとう。帰ろう」
 佳子のしろく、ちいさな掌をにぎる。ようやく佳子は、ほんのちょっとだけ、嬉しい気持になる。ひとの体温、それは、とってもいいものだ。
 小川は、澄んだ砂が掌からこぼれて往くような、そっけない、さらさらとした水音を立てていた。夕暮、畔はすでにほの暗い、紅いひかりが射し、路のわきの花々だけが、燃ゆるように照りかがやく、そんな情景のなかを、セーラー服を着た少女がふたり、手を繋いであるいている。さみしい後ろ姿、双の黒髪が、艶をうつろわせながら、名残おしそうに揺れている。
 そんな秋の風景画に、佳子はひとつだけ、かなしい嘘を隠していた。

 私だって、甘えてみたい。
 家に帰り、部屋へ入る、着替えもせずにベッドへ倒れこんで、もの憂い眼をして白い花瓶をみつめる、花は先週枯れたのだ、そうして、ふと、そのように思ったのだった。
 生きている、それがなんだか、痛かった。しかしほかのひとから見たら幸福で、環境にも恵まれているはず、まわりの支えもあって、進学校にも無事受かった、佳子はそれらの恩恵をきちんと受けとめ、感謝もしていた。私は幸福な顔をしなければいけない、いや、まちがいなく幸福なんだ。しかし日々が痛い、くるしい、どこが痛いかといって、おそらく神経が、それが、裂かれるように痛い。
 甘える相手、くるしいときに泣きつくことのできるひと、佳子には、そんなひとがいなかった。確かに親に、生活費は出してもらっていた、バイトもしなくて好かった、住む家もあった、甘えているといえるかもしれなかった。勉学に励むこと、それが佳子の役割であるかもしれなかった。
 甘えたい、はや高校二年生になった私にとって、それは果たして、ワガママなのだろうか。
 佳子は、横たわらせた身を、ややひねって起こし、とおくを見すえるような眼をして、ただひとりのことを想い起こした。

 翌日の学校。
 佳子は教室の喧騒がにがて、席につくと、それだけでぐったりしてしまう。
「おはよう」
「おはよう」
 友達からの挨拶、控えめな微笑みと返事。
 扉がひらいた。
 縦にやたら大きいかれは、背をまるめるようにして、なんだか忍び寄るように、教室へはいってきた。席に着くまで、誰にも話しかけない、座り込むと、しずかに教科書を、引出しに収納しはじめる。
 ほとんど日に焼けていない、毛ぶかい指の、不器用なうごきのひとつひとつが、佳子の心臓を、甘いいたみを曳きながら打つ、かれのうごきは、いつもじれったい。もっとスムーズにできないものか、そんなふうに思うことだってある。けれどもその、たどたどしいうごきが愛しくて、でもやっぱりじれったくて、私がするよ、なんてお節介をいいたくなって、そんなこといえるはずもなくて、だって私たち、友達でもなんでもない、だからずっと、かれのことを盗み見ていたいと思う。私、毛ぶかいひとを好きになるなんて、思わなかった。
 鈴木宏之。
 それが、かれの名前だった。
 宏之くん。
 こっそりそう呟いてみると、群青いろの夜空に照る、遥かな星々が、くちのなかで弾け煌めくような、そんな夢みる気持になる。「幾星霜」、これは年月を指す言葉だけれど、私たちの距離、そして私の憧れをも含む、水晶のように燦めく透明な詩なのだ、くちのなかで砕ける言葉、とおい星々、いわばかれは、私の六つめの金平糖。
 けれども、かれの名を呟くと、そんな甘美で、せつない感情のなかに、ちょっぴり後ろめたい気持も交じるのである、大人に隠れて悪戯をする、ちいさいこどものそれのような。
 かれは、隣にいる、積極性のある女の子に話しかけられていた。ちょっと困ったように、眉毛を下げている。なんて愛らしい表情をするんだろう、星のように無数にある、どこまでも、どこまでも見つかるようにおもわれる、かれの好きなところのひとつである、なぜってそれは、盗み見るたびふえつづけるから。
 私にもいつか、その顔を向けてほしい、そして、ワガママだけれど、私もいっぱい、あなたを困らせてみたい。そうして、ふたりきりの空間で、私の目の前で、だんだん、別の表情へとうつりかわらせて。プラネタリウムさながらに、私の瞳、それだけに、あなたの星空を照り映えさせて。みんなの知らないあなたの顔、それを、私にだけ見せてほしいのだ。
 すこし内気な感じのする喋り方で、かのじょと話しはじめていた。
 かれはバスケ部のエースで、長身で切れ長の眼をもつ、顎はがっしり、そんな、やや威圧感のある印象に反して、温和で、ほわっと柔らかい性格をしており、そのギャップもあるのか、けっこう、モテるのだ。
 次好きになるひとは、ぜったいにモテないひとを選ぼう、そう佳子は、決意していた。だって、片想いの相手がモテるのは、なんだか、胸がくるしい。
 けれども佳子は、宏之が、この女の子のことを好きじゃないことを知っている。宏之くんの好きなひと、ほら、またあの子をちらと見た。バレバレなのだ。
 澄子が、佳子の、複雑な感情を秘めた視線の存在に気がついて、それでも、その深刻な瞳の正体に気づかない様子、満面の笑みで、佳子へ手を振る。澄子はいつも、仕草・表情がかわいい。
 こんな無邪気な、屈託のない、甘えん坊っぽいところを、かれは好きなのだろうか。あなたのタイプ、どうやら私と、真逆のようですね。佳子は、幾たびも胸に浮かんだこのかんがえに、ちょっぴり、落ち込んだ。

 佳子がかれを好きになったのは、授業中、ふとかれの横顔が、眼にはいったときからだった。
 スポーツマンらしい、頬の肉のそぎおとされた、精悍な横顔、けれどもどこか、切ない、届かない光りをひたむきに見つめるような、そんな純情な眼をしていて、その透明な視線の先を追ってみると、そこにわが親友、澄子がいたのだった。
 いうなれば、佳子は、恋をした瞬間、失恋をしたのである。
 けれども佳子は、そんなものだと思っていた。男の子に好かれることはあった、告白もされたことがある。でも、好きなひとと結ばれたことはなかった、恋って、そんなものだと思っていた。
 かのじょはむかしから、横顔がキレイなひとが好きである。
 それは顔のつくりの話ではなかった。少女は、自分をうっとりと見つめる正面の顔よりも、自分じゃないものを見つめている、一途になにかに憧れ、そこに向かおうとしている、真剣な横顔を盗み見るのが好きなのだった。そんな横顔は、この世でもっとも可憐なものの一つだとおもっていた。しかしこのタイプは、もしかすると、佳子を幸せにはしないかもしれなかった。
 なにかをがんばっているひとが好きだった、そのひたむきな横顔がいとしかった。
 宏之が、ひとり残って、スリーポイントシュートの練習をしているのを見たことがある。ひっしだった。美しいとさえ、おもった。
 ふだん蒼白で、むしろ無気力に沈んでいるような印象さえある頬は、燃ゆるように上気し、汗ばんで、ボールをにぎるたび、かれの腕の筋肉はかたく引き締まる、学ランだとひょろっと見えるのに、タンクトップを着ると、あんなに武骨な腕をしているなんて知らなかった、ゴールをきっと睨みつけ、幾度も、幾度もボールをそこへ投げこむ。汗が散る、きらきらと、とおく光りを反映する。
 あんなに教室では、不器用なうごきをするのに、シュートしているときのかれは、まるで鷹が砂を立たせ、豪然と翔び立つかのような、そんな、流麗で力づよいモーションで、ボールを放ちつづけている。
 気づくと、泣いていた。なんの涙なのか、よく解らなかった。ただ、かれは美しく、そう、美しく存在していて、澄子やバスケットボールとちがい、自分はそれと、なんの関係もないのだと、そう実感していたのだった。いやだ、これは自己憐憫だろうか。
 手を伸ばしても届かない、きんと硬く燦く、遥かな群青いろの星空に、かれの姿を、そこで初めて重ね合わせた。だいすきな星空を、こんなに胸くるおしく想ったのは、初めてだった。
 佳子は、はや、かれを見ているだけで好いような気がした。結ばれなくても、好いような気がした。ただ、かれに、美しいままでいて欲しかった、それだけのワガママを、許してほしかった。宏之と澄子、そしてかれとゴールの間に、自分は、不必要であるように思った。これ以上を希むと、罰が与えられるような気さえした。

「私ね、」
 と澄子が話しはじめた。
 小川の畔。鳥が歌い、さらさらとした水音、日は暮れかけ、きょうもまたふたりきり、すこしでもゆびさきで空を掻けば、またたくまに裂かれてしまいそうな、そんな、ふたりだけの特別な時間が、がらす細工のように、周囲にそっとはりつめている。
 まっしろなアネモネ。
 いつのころからか、花壇には、そのみょうに寂しげにみえる、可憐な花が咲いていた。本来アネモネは、春に咲く花である、けれども最近、品種改良によって、秋咲きのものがふえてきたのだ。
「好きなひとできたよ」
 佳子は、にっこりと笑った。
 澄子のつらい日常が、すこしでも恋で彩られるなら、それでややでもくるしみが減るのなら、それはかのじょにも、喜ばしいことだった。
「だれ? 教えて」
「秘密にしてね? だいすきな佳子にしかいわないから」
「うんうん」
 澄子は、いつもこんなことを言って、佳子を喜ばせてくれる。甘えるのが、巧いのだとおもう。最近は、くるしんでいる様子のときがおおいけれど、本来の性格は、天真爛漫で、素直で、とにかく、大好きな親友なのである。こんなに愛らしい友達がいて、少女は、しばしば幸せを感じる。
 秘密の恋バナは、幾つになっても楽しいものだ、若干高校生にして、そんなことをかんがえる。だいすきな佳子にしかいわない、この特別な感じ、おもわず頬が、紅潮するくらいに嬉しい。
「あのね、」
「わあ、ドキドキ」
「実は…、」
 風が立った。花々がよそよそしく揺れた。水面がざわつくようにゆらめき、波紋が立つ。
「…鈴木くん。ちょっと地味だけど、そういうところも含めて、かっこいい」
 とつぜん、佳子の胸は、細い針で一突きされ、全身の調和が乱されたかのような、そんな不穏な感じをおぼえた。喉がざらつき、息がくるしくなった。
 真白のアネモネが、その愛らしい姿を、無防備に、めいっぱいさらしている。それへふりそそぐようにして、他人行儀な夕日が、赤々とした光りを射していた。

 両想いに、なったんだ。
 胸がくるしかった。見ているだけで好いと、それだけで好いと、そう思っていたはずなのに、いざかれの想いが、知らずに澄子のそれと繋がっていることを知ると、はなはだしいショックで、頭を打たれたようなここちがした。
 私は最低なことをしてしまった。
 佳子は自分を責めたてた、なぜって、宏之が澄子を想っていることを、かのじょは親友に教えなかったのだった。澄子の幸福に繋がる、あわい繊細な糸を、ぴんと陰に引き寄せて、自分の都合のために、暗闇に隠してしまったのだった。
 あんなにも、澄子のくるしみが減ればと希っていたはずなのに、私は、いざ自分に都合の悪いことが起きると、卑怯にも、自己本位な選択肢をえらんでしまったのだ。自分が嫌で、嫌で、頭をぐしゃぐしゃとかきまわし、ベッドに倒れこんで、さめざめと泣きふす、けれども自分が、いったいどうしたいのか、いやそうじゃない、どうするべきなのか、どうしなければいけないのか、分からない、どうしよう、枕に抱き着き、ずっと思い悩んでいた。

「鈴木くんね、澄子のこと好きだよ」
 次の日、教室で、澄子にそう告げた。誰にも聞こえないような、ちいさな声で。
 つくり笑いをしていた、が、脚に、ちからが、はいらなかった。宏之と澄子に結ばれた糸の、秘められたその存在を、澄子に教えることで、自分はけっきょく、自分と宏之が恋人どうしになることを、心のどこかでは、期待していたことが分かったのだった。その可能性が、みずからによって踏みつぶされ、霧消して初めて生まれる苦しみを、知ったのだった。
「え、嘘」
「嘘じゃない。鈴木くん、いつも澄子のこと見てる」
「佳子が嘘をつく子じゃないことは、知ってるけど…」
 このまえの嘘。佳子はそれを、墓場まで持っていこうとおもった、澄子のいだく、私の正直さへの期待に、応えなければいけないから。
「いつから見てたの?」
「結構前だよ。五月くらいから」
 五月。かのじょが宏之に、恋しはじめた季節。
 日付まで、そのときの天気まではっきりとおぼえている自分が、ばかみたいに思えた。
「五月って、クラス替えしてすぐじゃん。私の内面とか、解ったうえで好きになったのかな」
 そんなことをいいながらも、澄子の頬は、わかりやすくゆるんでいる。ひじょうにかわいい。
 ふと、ここまで期待させといて、宏之が澄子を好きだということが、実は勘違いだったらどうしようと不安になった。
「いや、まだ解んなくて、私の主観なんだけど」
 いそいで補足する。そしてつづける。
「でも澄子は、表情や振る舞いに、天真爛漫で素直なところがもれでてるし、そういうので好きになったんじゃないかな。勿論、顔もかわいいけれど」
「えー、嬉しい。佳子からいわれると特に嬉しい!」
 満面の笑み。いまにも跳びあがりそうに喜んでいる。あ、実際にかるくジャンプしはじめた、次は、踊りはじめるんじゃないだろうか。
 なんとなく想っていることがあった。
 澄子は、素直すぎるのではないか。
 だから、ひとの好意的な言葉を、そのままに信じる、全身全霊で、歓喜をあらわす。佳子からすれば、そこが澄子の魅力であるのだけれど、その代わり、ひとの悪意を、真正面からうけとめてしまうところがあるようにおもう。外からの刺激に、無防備なのだ。
 その性格は、ぜんぜん澄子の悪いところでも、なんでもないと思う。愛らしいところだ。大好きなところだ。しかしその美点が、澄子をくるしめているようにも推測され、佳子を、どうしようもなくくるしい気持にさせる。
 澄子にはすこしデリカシーに欠けるところもあって、中学時代、それを理由にいじめに合っていたらしく、手首に、幾すじか傷がある。佳子は内心、そのいじめっ子たちをにくんでいた。そういうところだって、愛らしいではないか。
 けれども佳子は、ひとの心の機微に鈍感な澄子のことを、ときおり、嫌におもってしまうことがある。たとえば、いらだっているとき。私はこんなに、ひとの気持にふりまわされてしまうのに、なんだか羨ましいなと、すこし、ひがんでしまうこともある。
 大事な親友のことを、そんなふうにおもってしまう自分が、佳子はだいきらいであった。繊細さをてらう、弱さを誇る、そして、その誇りのなかに閉じこもって、そうじゃないひとに逆恨みをする、そんなことはしたくなかった。自分の弱さ、それには抵抗していたかった。
「澄子、告白してみたら? いけると思うけどな」
「うーん」
 澄子はかんがえこむ。
「ほんとうに私のことが好きなら、向こうから告白してほしいなあ」
 それはそうかもしれない。佳子だって、好きなひとから告白されることに、憧れがある。
「なんで告白しないんだろう。自信ないのかな」
「あんなにかっこいいのに」
「わかる」
 私のほうが。
 私のほうが、きっと、宏之くんのかっこいいところを沢山知っている。だって私は、もう半年好きなんだから。
 そんな発想がうまれる自分が、嫌だった。
「だよね、かっこいいよね。教室ではちょっと気怠そうにしてるけど、バスケしてるときの一生懸命なギャップに惹かれて、気になりはじめたんだ。見た目はほっそりした熊さんみたいだけど、性格は小動物感があって、喋り方が優しくて、もう、とにかく、ほんとうに好き」
 知っている。
 あなたが知っている、かれのいいところは、全部、私も知っている。
 私はほかにも、机から落とした文房具を拾うときの、冬眠から覚めたばかりのようにのそのそしたうごき、それの妙な愛らしさ、教室では、表情筋のとぼしそうなぎこちない笑顔を見せるのに、他クラスのバスケ部の仲間といるときは、大口をあけて笑うところ、授業中、先生がジョークを飛ばしたとき、ひきつったかとおもわせる、一瞬のにやっとした笑い方、それがほんのり薫らせる大人っぽい色気、そんなところだって、私は知っているのだ。…
「澄子が宏之くんのこと好きって、噂をひろげたらどうかな」
「いいかも!」
 そこで怪訝な顔をする。
「え、なんで佳子、宏之くんって、下の名前で呼んだの? 仲良かったっけ」
「あ」
 冷汗がでた、とりつくろわなければ。
「ほら、綾ちゃんたちのグループあるじゃん。綾ちゃんたち、鈴木くんのこと、宏之くん宏之くんって、こっそり呼んでるんだよね。鈴木くん、澄子のことばかり見てるなあって気づいてから、別の意味で鈴木くんのことを意識するようになって、だから綾ちゃんたちがそう呼んでるのが耳に入るようになっちゃって、すこしうつっちゃったかも。話したことないよ、鈴木くんと」
 みょうに早口になった。
 綾ちゃんたちの話はほんとうで、いつも、その呼び方に嫉妬し、そして、そう呼びたくなる気持に、共感していたのだった。奪られたらどうしよう、そんな不安とともに、内心、「私たちは同胞だ」という連帯感をもっていた。
「そっか」
 安堵の笑みを浮かべている。佳子の口調の変化に、気づかない様子だった。
「よかったあ。佳子がライバルなんて、私嫌だからね」
「綾ちゃんたちがライバルかもしれないね」
「モテるらしいからなあ、鈴木くん」
 私のことを、正直だと思わせてごめんなさい、そう内心、謝っていた。
「私、」
 と佳子は言った。
「澄子が鈴木くんを好きって、噂ながしとくね」

 佳子はそれを、実行した。
 その行為のモチベーションに、自分のほんとうの感情は、見つからなかった。澄子を傷つけないため、傷ついたかのじょをどうしても見たくないため、そして、「親友のために行動できる人間になりたい」、そんな、やや潔癖な理想の実現のため、そんなモチベージョンで、それを行っているような気がしていた。
 佳子は、道徳に、厳密すぎるところがあった。「こうでなくちゃいけない」、それを、やぶることができなかった。ひとの痛みを想像しすぎてしまうから、そして、悪いことをする自分に耐えられないから、ひとを傷つけたり、蹴落としたり、そんなことができないのだった。しばしば、自分をおしころしていた。はや、自分の性格に、心が轢かれてしまいそうだった。

 付き合わないで。
 私の恋人になるのが不可能なら、私があなたに届かないのなら、せめて、誰の恋人にもならないで。
 誰のものでもない、美しい宏之くんのままでいて。とおくとおく耀く、青と銀にまたたく硬い星空のままでいて。
 私の、こんな気持を許して。

 澄子と宏之は、交際をはじめた。宏之が、ようやく告白したのだった、かれは、ほんとうにじれったい。澄子は、きゅうに幸せそうな顔でいることが増えた。恋ってすごいんだな、と佳子はおもった。
「家庭はどう?」
 と訊くと、
「変わらずかな」
 あっけらかんとする。
「家に帰ったら一気にテンション下がるけど、学校に来たら、宏之がいるから。家にいても、宏之からライン来たら一気に元気になる。返信来なかったら下がっちゃうかなー」
 宏之。
 私は独り言でだって、そう呼べたことない。
 宏之は、澄子のことを大切にしてくれているようで、それは澄子の話からも想像できるのだけれど、だから、佳子は、ふたつの意味で安心していたのだった。澄子がしあわせであること、そして、宏之の美しさへの信頼をもちつづけられたこと。宏之がじつは酷い人間なんだとしたら、佳子は、それに耐えられないかもしれない。
 しかし、佳子のこころには、なんだかぽっかりと、穴が空いているような気がしていた。それはもしかすると、けっこうまえから、どうしようもない空白として、存在していたかもしれなかった。

 放課後、佳子はベランダに出て、じっと、空を眺めていた。
 果てのないくらい青かった、がらすのように澄んでいた。ゆびさきで、まるで鍵盤にするようにそっと叩いてみると、きんと硬質な音を、世界いっぱいに響かせそうなくらいに。佳子にはその硬さがさみしかった、この空のなかに落ちて往き、反引力に従って、ぐんぐん天へ吸い込まれ、そうして、空と身一点に融けこみたかった。そうすれば、私のさみしさなんて霧消してしまうとまでおもった。
「…鈴木くん!」
 気づくと、宏之が隣にいた、佳子の心臓は跳びあがった。
「あの、澄子と付き合ってるんだよね、おめでとう」
「ありがとう」
 照れたように微笑み、その精悍な顔は、きゅうにクマさんのようにやさしくなる。この表情を、澄子に、ほかのだれよりもみせているのだろうとおもった。ちょっと妬いた。
「なんか、俺が澄子のこと好きだって、周囲にバレていたらしくって、そんな素振り見せてないつもりなのに、おかしいな」
 そう言って、はにかんでいる。
 このひとはなにを言っているのだろう、と佳子はおもった。バレバレではないか。男のひとのこういうところ、可愛らしいなとおもった。
「いま幸せ?」
 と、佳子は訊いた。
「幸せだよ」
 宏之は、満面の笑みになった。満点の星空を想い起こした。
 流れながれる天の川で、ふたりを番わせたささやかな小舟、七夕はもうとっくにすぎたけれど、自分は、そんな存在になれただろうか。
「そっか」
 喉でひしめく感情を秘めて、佳子は、せいいっぱい笑ってみせた。
「澄子はだいすきな友達なんだからね。大事にしてね。お幸せに」
 佳子は、いま自分が、複雑な感情ながらも、彼らの幸せを喜べる人間であることを、生きづらいながらも、その心の余裕をもてることを、周囲、とくに、たくさんの幸福をくれたふたり、宏之と澄子に、こころから感謝した。すると、心の穴が、ほんのすこし埋まったような気もしたのだった。
 アネモネさながら可憐な少女の、もうすこしワガママになってもいい、慎ましい女生徒の、手摺をつかむゆびさきは、まだ、ふるえていたけれど。

アネモネ少女

アネモネ少女

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-28

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