むしのね
鈴虫が鳴く音が想像よりずっと大きくて立ち止まってしまった。左右から聞こえるやさしい音は儚いというには力強くて煩いというには切なかった、午後六時の北東の紺色に似合う、などと思いながら横断歩道を渡る、もしこのモノクロの飛び石が空想小説のクローゼットのように別世界への入口になっているとしたら、もし白い部分だけ上手く踏めたらごほうびにきらきら光る素敵な石をもらえるかもしれない、なんてあまたの夢物語と繋いでいた手を離して、現実みたいな名前がついたバスに乗ってうちに帰ろう。
窓越しにムクドリの群れを見た、連なって南へ飛ぶカラスを見た、人間の都合で邪険にされるけものたちの夢を集めたら一体何色の雲になるだろう。おやこのクマの目を見てはならないよと教えてくれたあのひとは家具売場の隣の水槽を覗いたことがあっただろうか、感電のような一瞬で吹き飛んだ疑問のかけらを踏んで歩いたらちゃんと、赤い色が見えた。
だけど赤いだけの証明では足りなかった、賛同を示せと要請されなくとも確かにある、追従せよ容認せよ、虫やけものとは異なる生き物として、あなたたちに先行して〈わたしたち〉を築き上げろ!と迫る音、いつかすべてを塗り潰す音、背後から姑息に忍び寄る音。
耳を塞いでも良い、それからささやき、叫ぶよりも歌いたい、鈴虫の音が、眠る間際のからだの中にまだ残っている。
むしのね