忘却のコイン

忘却のコイン

侍従総長の書状

侍従総長の書状

 私はアルドランド国王・六十九世に仕える侍従総長アランであります。ここにピュアン殿下とユリアーヌ王女が婚姻に至った経緯の一切を書き送ります。貴官の前任者、ドラド公文書館長官は、部下の公文書管理官たちと共に熱心に公務を果たしました。その功績を称え、亡くなったドラド長官と部下たちの冥福を祈ります。遺族たちには格別の配慮をするよう要請します。私も齢五十であり、いつ天の星々に迎え上げられるか分かりません。

 初めてピュアン殿下――ピュアン少年――の存在を知ったのは去年の春でした。首都から辺境のファミューン村に転任した駐屯兵長が、着任早々、村に「コイン」を持つと自称する家があると報告してきたのです。その家の名はブランドンでした。ピュアン少年はブランドン家の長男でした。ブランドン家は村で最も勤勉な一家、そして一番貧しい家であり、「コイン」を代々持っている家族として、村では昔から知られていたというのです。
 こんな話を村で聞いては、若い駐屯兵長が田舎村での王家の威信を心配して、王宮まで馬を飛ばしてくるのも当然でした。
 ご存じのようにコインは貨幣状の青銅の二枚組で、片方には美しい女性が、もう片方には凛々しい男性が描かれています。コインは太古から、王家の象徴として全土の王立施設の門に埋め込まれております。
 王族と上級の廷臣だけが知ることですが、王宮内の、王と妃の館のコインだけは青銅ではありません。純金のものに女性が、純銀のものに男性が刻まれていました。ただし、それらの由来や意味を知る者は誰もおりませんでした。

 さて、ファミューン村の駐屯兵長は、ブランドン家の先祖がどこかの王立施設からコインを剥がして盗んで家宝にしていたのだろう、と考えました。一家の勤勉さも、その罪悪感の裏返しなのだと考えました。それで、王家の威信を正すため、ブランドン家を投獄する許可を得ようと、王立軍長官に会いに王宮に来たのです。王立軍長官は私の意見を打診しました。
 さて、その頃の私はずっと、必死に王の一人娘ユリアーヌ王女の婿にふさわしい人物を探していました。国の事態は真に切迫していました。南方からガスバーン帝国軍が迫り、国王自ら出撃しなければならない日が近付いていました。代々、アルドランド王国では国王が突撃騎兵連隊長を務めました。一人娘ユリアーヌ王女には、一刻も早く心から愛せて身と心を託せる相手が必要でした。その上、王族に属する御三家からは先々代から男子が生まれず、王位継承者がおりません。
 今上陛下アルド王六十九世は、ユリアーヌ王女の婿を新たな国王とする、と公布しておられました。そしてユリアーヌ王女は幼少から早熟で、異性の好みが明瞭でした。私の任務は非常に困難かつ急ぐべきものでした。
 一方、コインの問題も解決せねばなりません。私は一度、駐屯兵長を村に帰らせ、ブランドン家から、コインを借りる名目で取ってくるよう命じました。勤勉で知られる農家、しかも貧しい農家を投獄する必要はありません。いつまでも返さず、没収を悟らせれば刑罰には充分です。それは大きな苦痛でしょう。
 三日後、駐屯兵長は早馬で戻りました。
 駐屯兵長は私の筋書き通りにしました。ブランドン家に、そのコインを王立博物館で研究させて欲しい、すぐに必ずお返しする、と告げて取ってきたのです。最後まで抵抗したのはピュアン少年で、命を取られるような表情で、彼の寝台の下に隠された小さな箱からコインを出し、駐屯兵長に託したそうです。駐屯兵長から聞いたピュアン少年の風貌と顔立ち、言動は、ユリアーヌ王女が間違いなく愛するであろう人物でした。ピュアン少年が罪人の子孫であることは残念でした。ユリアーヌ王女は相手の身分や貧しさなど気にしないでしょうが、王家の象徴に手を出した一族の者を愛することはないでしょう。それに臣民たちが納得するはずもありません。
 駐屯兵長が持ち帰ったのは、男性像が刻まれたコインでした。それは黒色にくすんでおり、錆とは違うように見えました。日々の重責で心が折れそうだった私は、気晴らしに、本当にこのコインを王立博物館長官に託して研究させることにしました。すると博物館長官は驚く答えを出しました。汚れを丁寧に落とすと、銀色に輝く精緻な男性像が現れ、王と妃の館のコインと全く一致したというのです。私は混乱しました。王家にだけ伝わるコインが片田舎で、貧しい農家の少年の寝床の下にあった、という事実は私を悩ませました。
 私は、ドラド公文書館長官に命じ、徹底的に国の公文書を調べさせることにしました。王家のコインが盗まれたのであれば、何世代前の出来事であろうとも、必ず真相を明らかにしなければなりません。そうして私は、王国の何百年分もの公文書を全て調べるという国家的事業を始めさせたのです。
 国中には、辺境の村の貧しい民家に兵士が押し入って家宝を取り上げた、という噂が広がってしまいました。国の民は、すでに戦争の恐怖で農民も職人も仕事が手につかず、市場での取引は止まり、牛馬や羊の世話は疎かになっていました。これ以上に人心の不安が続けば、必ずや各家庭は貧困に陥り、兵士は充分に戦えず、国は滅亡するでしょう。ガスバーン帝国軍は征服や属国の獲得が目的ではありません。殺戮と徹底的な破壊だけが目的でした。そうでなければ、とうに使者を出し和平交渉をしておりました。今は何としても民が団結し、ガスバーン帝国軍の残虐な遊戯から、アルドランド王国を守らねばならない時でした。
 ドラド公文書館長官と部下の管理官たちはよく働きました。王宮の公文書本館と、各地方の分館の両方で、途方もない作業が始まりました。連日連夜、休みなく、重い石板の山を前に、羊皮紙と羽根のペンを手にして、彼らは何百年分ものあらゆる公文書を調べ続けました。連日の過労がたたり、管理官たちは次々に倒れていきました。しかし残った管理官たちは一層熱心に調査を続けました。何百年も閉ざされていた地下室の埃とカビは肺を蝕み、ついには下級の管理官の全員が倒れました。ドラド長官は軍に協力を要請し、兵士の中から学のある者を選び、残っている上級の管理官の補佐にあたらせて調査事業を続けました。文官ではない屈強な兵士たちにも、空気の悪い地下での、膨大な量の重い石板の移動はきついものでした。上級の管理官たちは、ランプの灯を頼りに、膨大な石板を一枚一枚読み続ける途方もない作業に、次々に精神を病んで、倒れていきました。しかし、彼らの貴重な働きと引き換えに、夏の初めが訪れる前までに、「コイン」に関する忘れられた沢山の知識が集積されました。それは、アルドランド王国の歴史の物語でした。
 そしてある日、手がかりが見つかりました。ファミューン村のブランドン家は、旧王族であったのです。ドラド長官は直ちに緘口令を敷き、直にそれを確かめ、私を呼びました。私も直に石板から読みました。これがブランドン家が代々コインを伝え持っていた理由でしょう。コインが紛失や盗難に遭ったという記録は見つかりませんでした。この日、貴官の前任たるドラド長官も肺病に倒れました。 
 私は王立軍長官に頼み、村の駐屯兵長がブランドン家に丁重にコインを返すよう手配させ、私がファミューン村に直に出向くまで、密かに一家とピュアン少年、そして家屋の警護に気を配るよう命じました。今やピュアン少年は、王女の有力な婿候補なのです。
 私は考え抜き、謀を国王陛下と妃殿下に話して許可を頂きました。そしてユリアーヌ王女に私の謀と願いを申し上げました。聡明かつ情熱的なユリアーヌ王女は、すぐに要点を理解なさいました。
 私は侍従次官を呼び、王宮での職務を託し、全ての準備を整えると、朝早く、夜明け前にユリアーヌ王女と共にファミューン地方に旅立ちました。私と王女と兵士を乗せた馬車を先頭に、従者たちと財宝を携えた馬車四台の大車列です。馬を通常の三倍にして、交換用の車輪や心棒を充分備え、街道を世にも恐ろしい速さで丸一日走り、陽が沈む直前にファミューン村に着きました。まず村の駐屯兵の館を訪ね、北のスウィッチランド国からの行商人であると告げ、王室発行の許可状を見せました。村民の記憶の中ではこの村に外国商人が来るのは初めてのことで、村は騒ぎになりました。村で唯一、真の事情を知る駐屯兵長が騒ぎをそっと収束させ、我々スウィッチランドからの豪壮な外国商人の一行――正体は国王の侍従総長とユリアーヌ王女と従者たち――が村の古い古城に泊まる手配をしました。それはもう何百年以上も使われていない石造りの館でした。村役場は大急ぎで村人を編成し、ランプと月明かりを頼りに、とりあえずの大掃除を一晩中してくれました。しかし館はあまりに古く、王女のための浴室も壊れていました。

 次の日から私は、村の古城の修復の監督やユリアーヌ王女の世話をしながら、毎日ピュアン少年を観察しました。村での評判も調べました。どのような人物か、急いで見極める必要がありました。ピュアンは立派な少年でした。学校が終わり、親友ホスとジュリアと別れると、走って家路を急ぎました。家に帰れば牛や羊の世話、畑仕事を手伝い、井戸からたくさんの水を汲み上げました。アルドランド国の母なるリヴァー河は、今や上流をガスバーン帝国軍によって堰き止められていました。ファミューン村に達する支流の水はわずかであり、濁っていました。ピュアン少年は、両親と幼い妹と四人での仲睦まじい夕食を終えると妹を寝かしつけ、ロウソク一本分が燃え尽きるまで勉強をする孤高の少年でした。

アルドランド貨幣

アルドランド貨幣

 このあたりで、忘れられていた「コイン」の意味と我が国の歴史について、お伝えする必要があります。 
 遠い千年前、建国の父アルド一世は、この盆地がまだ名のない未開の時代、勇敢な五十人の戦士と共に馬に乗って来られました。盆地に巣食う盗賊や狼藉者を一掃し、虐げられていた農民たちを解放しました。生き残った者は皆、アルド王の忠臣となりました。これが、アルドランド王国の始まりであります。しばらくの間アルドランドは小国のままでしたが、やがてアルドランドの盆地を囲む山々に金と銀が発見されました。時の王アルド十二世は賢く、金と銀はやがて尽きることを知っていました。アルド王十二世は王家に必要な量を取り分けると、残りの全てを「貨幣」に鋳造して、麦や牛馬を取引に用いる古代の商いを、今日の貨幣制度に変えたのです。当時、「貨幣」は最新の概念でした。貨幣を作るに際しては、北方のスウィッチン人の砦――今の中立工業都市スウィッチランド――から、腕の立つ彫金師と鋳造師を呼びました。金貨には女神フローラを、銀貨には男神ゴノードスを刻印させました。今日は誰もが忘れてしまった、アルドランドの守護神です。そして貨幣を「コイン」と命名しました。アルド王十二世の統治のもと、国は急成長しました。
 精巧で美麗なアルドランド貨幣――コイン――は商業と農業の発展を支え、他国との交易を支えたのです。コインの精緻さは、他国同士が交易に使うほどのものでありました。アルドランド国はしばらくの間、豪華絢爛の栄光を極めました。
 しかしその三百年後、今から五百年前のアルドランド国を忌まわしい死神――飢饉と疫病――が襲いました。人も家畜もほとんどが死に絶えました。時の王アルド二十六世は、王家の資産を全て使って、外国から大勢の石工を破格の報酬で呼び、国内の全地方に救護の拠点のための丈夫な城を建造させました。そして民と家畜の治療、食糧の配給に専念されたのです。国内の市場は消滅したので、兵士に命じて国中のコインを全て回収して、他国へ売りました。代金として沢山の麦や油、牛馬と羊、大勢の医者を求めました。国々は膨大なコインの代価として、次々に優秀な医者と薬草を送って寄こしました。良質の麦や油が充分に届き、なんとか疫病が終息すると、健康な牛馬や羊が次々に送られてきました。こうして国はなんとか滅亡を免れましたが、富は失いました。アルド王二十六世は、母なるリヴァー河の水量が変わらず、豊かに流れているのを確かめると、石貨を作らせました。かつての金貨と銀貨――コイン――にくらべ、はるかに見劣りする石貨を前に、生き残った人々は国の崩壊を身に染みて感じました。アルド王二十六世は、王家に残しておいた僅かなコインを生き残った家々に配り、御触れを出されたのです。
「皆へ下賜したコインは、女神フローラと男神ゴノードスの加護を願う聖品である。家々は王家と共に、コインを大災厄の苦難の記憶と合わせ、代々子孫に伝え続けるように」
 民は王の御触れを守りつつも、暮らしには全く覇気が出ませんでした。民の世代交代が続き、時代が下がり、アルド王三十九世の治世になっても、いまだアルドランド国は貧しいままでした。
 国の行く末を深く憂いたブランドン家は、王族からの離籍を願い出ました。国の財政は、四ある王族の品格を保つのに全く不十分でした。他国から使節がアルドランド国を訪れても、充分なもてなしも出来ず、迎える兵士の儀礼服も整わない有様でした。ブランドン家は自活して税を納めることにして、少しでも国に富が戻るよう、神々に祈りました。ブランドン家は、王宮から遠く離れたファミューン地方を選び、平民として住居を設けました。アルドランドの全国民はこの出来事を知るやいなや、王家とブランドン家に多大な敬意を表し、無気力に呆ける日常を一転させ、昔の熱心な気質を取り戻しました。新たな田畑が開墾され、町々や村々は徐々に再建されました。
 しかし、出自が高貴なるブランドン家には苦難しか訪れませんでした。当時のファミューン地方は痩せた土地であり、農民は昼は熊に、夜は毒蛇に襲われる有様でした。ブランドン家の人々は衰弱し、毎月のように死者を埋葬しました。周囲の農家も心配はしましたが、当時のファミューン地方は本当に貧しく、どの家もブランドン家を助けることはできませんでした。ブランドン家は王室との交流を一切断ち、王族からの離籍以後、代々にわたり、子孫にも周囲にも出自を話すことはなかったのです。
 一方、国の民は次々にコインを手放すようになりました。再びアルドランド国を訪れるようになった外国商人が、家々に下賜されていたコインのことを知り、高く買っていったのです。ファミューン村の人々も例外ではありません。実際、コインを売ることで家々は貧困を脱し、国が再び繁栄する力を得ることになりました。そして国内を流通する石貨が青銅貨に交換され、数百年が経ち、今に至ります。
 しかし、正統なるコインと神々の記憶が民から失われるとともに、ブランドン家が王統の出自だという事実を知る者も完全に絶えました。
 そうです、私が多くの官吏たちの命を犠牲にしてピュアン殿下――ピュアン少年――を発掘するまでは。

王女と少年

王女と少年

 やっと慎み深いピュアン少年が館の敷地を訪れたのは、夏の盛りの夕方でした。裕福な異国の行商人の身なりをした私は、館の玄関で、二名の兵士を伴ってピュアン少年を止めました。ピュアン少年は背が高く、顔立ちが整った健康な若者でした。
「これ以上館に近付いてはならん。見たところ、君は客ではなさそうだ。この館と敷地は、アルド王からお借りしている。後ろの兵士が見えるな? 警護のためにアルド王が遣わしてくださったのだ」
「分かりました。では、すぐに帰ります。私はただ、長い間無人だったこの館に、また明かりが灯って嬉しかったのです」
「ほう。なぜ嬉しいのかね」
「ここはもともと、伝説の大災厄の時に、ファミューン村のため、アルド王二十六世が建ててくださった救護の館なんです。あなたは異国の方ですが、王宮の兵士が、この館に駐屯するのは幾百年ぶりか分かりません」
 国中から失われていた知識を、ブランドン家は代々伝えて保っていたのです。私はピュアン少年にコインの話を出しました。
「聞くところによると、君の家には銀のコインがあるそうだね? それは貴重なものだ。一度、そのコインを見せて欲しいのだが。君の家はお世辞にも豊かではない。そのコインを売れば、家の暮らしは楽になるだろう」
「……コインですか……ええ、貴重なものです。では、失礼します」
 ピュアン少年は大切なコインを、私が演じる欲深い外国の行商人から守ろうとしたのでしょう。顔色を変えて向きを変えました。私は呼び止めました。
「待ちなさい。少し中に入ってよい。何百年も鍵がかかっていた館なのだから、中も見ていったらどうかね。館の修復も進んでいる」
「……ありがとうございます。でも……」
 その時、ユリアーヌ王女が上階の窓から顔を出しました。
「あれは私の孫のスターシャだ。君の名は何と言うのだね」
「ピュアンと申します」
「お客様なの? 早くお入りください」
 ピュアン少年の顔が赤くなり、緊張しているのが分かりました。十六歳のユリアーヌ王女は輝く瞳の健康な娘です。私は兵士に門を守らせ、ピュアン少年と館の中に入りました。
「スターシャ、ピュアン君は買い物をしに来たのではない。色々話してみたらどうかね」
「はじめまして。ピュアンと申します」
「素敵な名前だわ! ずっとこの村なの?」
「はい。……行商の生活は楽しいでしょうね」
「そうね、楽しいわ。アルドランドは素晴らしい国だし、この村もとても素敵。……でも、旅の生活だから『学校』に行けないのは残念ね。あなたは『学校』に行けるんでしょう?」
「ええ、王立学校の最高学年です」
 残念ながらピュアン殿下はまだ十四でした。平民の暮らしをしながらも、王族の持つ高貴さは少しも失われていませんでした。
「ピュアン君。君のお父上は、この先の一番貧しい農家であったかな? すると、私の扱う高価な品々にはやはり縁が無さそうだ」
 私は嫌味な商人を演じました。
「おじい様、そんなことどうでもいいでしょ。ねえ、銀のコインをお持ちなんですって? 私もコインの複製品を持っているの。見て、出来栄えを評価して欲しいわ」
 ユリアーヌ王女は、王家の壁から掘り出し、磨き上げた本物のコインを出しました。純金の女神フローラと、純銀の男神ゴノードスです。ピュアン少年は驚いた表情でした。
「うわあ……これほど本物そっくりに複製する技術がスウィッチランドにはあるんですね。素晴らしいです。金の物までそっくりに……」
「すごい! 家に金のコインもあるの?」
 私も驚きました。「ブランドン家のコイン」は銀のコインだけではなかったのです。恐らく、ファミューン村の人々は、新任の駐屯兵長に余計な事を言わなかったのでしょう。駐屯兵長は王家に忠実に職務を果たしたのですが、大昔からの住人たちは、ブランドン家を困らせた責任を感じたのかもしれません。
 ピュアン少年は沈黙しました。金のコインの存在を知られてはならなかったでしょう。
「あら、難しい顔をなさったわ。私、変なことを言ったのね。ごめんなさい」
 ユリアーヌ王女が人に謝る言葉は久しく聞いたことがありません。愉快でしたが、私は何も表情を変えませんでした。
「いえ、すみません。最近は水が悪いせいもあり、夏の日差しで頭が熱くなり、時々変な事を口走ってしまうのです」
 ピュアン少年は微笑みました。ユリアーヌ王女の心臓が、ピュアン少年の笑顔ですっかり射貫かれたのが良く分かりました。
「そうなの? なんだか面白い方」
 ピュアン少年は機転をきかせました。
「金のコインは前に王立博物館で見たのです。銅のコインの女性も美しいけれど、金のコインの女性はもっと美しいと思います」
「そう? 私には違いが分からないわ。どちらも綺麗な女の人でしょ」
「金のコインの女性は女神フローラを表しているんです。銅の女性は美しいですが、冷たい感じがします。金のコインの女神像は、もっと、柔らかい、おおらかな印象があります」
「ピュアンは難しいことを言うのね。よく本を読んでいるんだわ。毎晩遅くまで勉強しているのでしょう。学校では優等生なのね」
「成績は、あまりよくありません。算数が苦手なんです。最高学年の算数には、高い文具が要ります。手作りで真似して作っても、皆のように正しい図形が書けません」
 ピュアン少年は忙しく、晩にロウソク一本分の勉強しかできません。それすらブランドン家には多大な出費です。昼夜苦労なく勉強できる他の生徒に勝つのは難しいでしょう。
「私は商人の娘だから計算は得意よ。でも本を読むのは苦手なの。あなたみたいに、思ったことをうまく表現できたらいいのに」
「それは……本を読まなくても、感じたままを言えばいいのです。スターシャさんの思ったままに、普段の言葉で」
「簡単に言うのね。難しいわ。じゃあ、この金色のほうの女の人……ええと、フローラ様?と、銅の女の人の違いはどんな感じ?」
 ピュアン少年は目を閉じました。
「……銅の女性は、高貴で貧しくないはずなのに、体も顔も、変に痩せ過ぎています。異国の高貴な女性には、そのような細い顔と体をわざと作る習慣があるそうです。……ですから、国中のコインは恐らく、大昔に異国で複製をされた品だと思います。伝説の大災厄で、コインを失った後の代の王様が、少しだけ買い入れたものではないかと思います」
 さすがピュアン少年です。国内のコインの由来については、王立博物館長から、先日、全く同じ研究報告を受けたばかりなのです。
「うーん、最初のほうの意味は分かったわ。でも、すぐに難しいことを言いだした。金の女神様を簡単に言うと、どんな感じなの?」
「そうですね……美しいが冷たさがなく……柔らかく可愛いらしい……瞳が輝いている……そう、ちょうどスターシャさんのような」
 ピュアン少年はユリアーヌ王女の容姿を形容したのですが、初対面で慣れ慣れしいことを言ったと恥じ、後悔したようでした。
「失礼を申し上げました。私はそろそろ帰らなければなりません。家の事をやり残して来てしまったので」
「それはいけないわ。外はもう暗くなってしまったかしら? ご両親を心配させては悪いわね。でも、明日もまた絶対来て。ね?」
 ユリアーヌ王女の目は潤んでおりました。ピュアン少年はその潤んだ瞳を見つめておりました。王女は妃殿下の美貌を受け継いでおられ、少し幼い顔立ちをした、健康な肉付きの娘でした。平民の服装をしているとはいえ、香り立つようなユリアーヌ王女を前に、ピュアン少年の顔は紅潮し、帰り際にユリアーヌ王女が手を握った時には、彼の胸の高鳴りは最高潮だったでありましょう。
 それでも彼は慎み深く、かつ冷静な態度を崩しませんでした。まさに、女神フローラと男神ゴノードスそのものでした。
 しかし、私はピュアン少年を試さねばなりませんでした。まだ、両手を挙げて王宮にお迎えするわけにはいきません。廷臣にはユリアーヌ王女の結婚に、外国の強力な貴族との政略婚を望む者が多かったのです。
 もし、ピュアン少年が弱い人物であるならば、それも神々が定めた運命に違いありません。人も国も、運命には抗えないのです。

 それから毎日、ピュアン少年は館を訪れました。二人は様々な話題を交わしました。二人の会話は私にとって美しい音楽でした。
「あなたのご両親は、私たち一家のことをどう思ってるかしら? きっと、異国の行商人が村に居座っていて、目障りでしょうね」
「いえ、両親はそのようなことを言う人間ではありません。というよりも、毎日の生活に集中するために、余分なことは話題に致しません。特に今は妹が小さいですから」
 村人の間では、ピュアン少年が夏休みの間、外国の行商人の下働きをして家計を助けているのだ、という話になっていました。毎日、館から帰るピュアン少年が、道中ぼんやりしていることも、館で相当の重労働をさせられているのだろう、と村人は解釈していました。
 恋に落ちたピュアン少年とユリアーヌ王女は今や愛し合っており、老年の私が慎重に見極めても二人の相性はぴったりでした。しかしピュアン少年は、あまりに若いのです。

 夏の終わりのある日、試験は始まりました。
「はっきり言うわ。私はピュアンが好き。私はあなたを心から愛してしまったわ」
「私もです、スターシャさん。あなたを好きです。毎日胸が痛くて痛くてたまりません」
 ユリアーヌ王女は恐ろしい顔をしました。
「嘘よ! この館にある財宝を見たから、それ目当てで、今までここに来てたのよね?」
「どうして……そんなことを言うのですか」
「あなたには村に許婚の娘がいるじゃない」
「……ジュリアのことでしょうか。ジュリアは幼馴染ですが、許嫁ではありません」
「嘘! ジュリアもあなたの両親も許嫁だと思ってる! ジュリアは毎日あなたの家に手伝いに来ている。何の目的もなく他人の家の手伝いをして、赤ん坊の世話までする、お人好しの娘がいるとでも思う?」
 突然に態度を変えたユリアーヌ王女の試練に、ピュアン少年はどう応じるでしょうか。
「……」
「そうよね、あなたもジュリアに好意を持ってきた。村の人達も、いずれあなたとジュリアは結婚すると思っている。あなたが工芸品を見る目は鋭い。つまり、あなたは美しいものが好き。あの娘は村で一番の美少女。私よりも綺麗。あの艶のある長い黒髪は素敵ね」
「もし、スターシャさんに出会うことが無ければ、ジュリアと結婚していたのかもしれません。……でも運命は、私をスターシャさんへ導きました。私の心はあなたのものです」
「嘘! じゃあジュリアはどうなるの? あの純情な娘に、一生あなたを想ったまま、一生恨んだまま暮らさせるの? あんな優しい娘に、そんな残酷な仕打ちできるわけない」
「ジュリアは、ホスとも大の仲良しです。ホスは昔からジュリアと結婚したがって……」
「黙りなさい! 女をなめないでよ! 私はあなたを愛したけど、あなたは私を騙した。隙を見て、宝石でも持ちだして、こっそりジュリアにあげるつもりだったんだわ!」
「違います。そんな謀が私にあれば、神々が私を撃ち、殺しています。……スターシャさんを愛した代償は理解しています。人は、生きるために、他人を傷つける運命にあるのです。私はスターシャさんを愛しているのです」
「……本当? 一生、私の傍に居てくれる?」
 その言葉を聞いたピュアン少年は椅子から降りるとひざまずき、ユリアーヌ王女の手の甲にキスをしました。
 今度は私が試さねばなりません。
「しかし、君は家族を捨てるというのか? スターシャはスウィッチランドに帰るのだ。結婚するのなら君は我が家の養子となる。青銅貨一枚たりとも勝手に使えんのだぞ」
「分かっています。私はスターシャさんと一緒に居たいのです。この願いのためには、私は両親と妹を捨てる罪も背負えます。ですが、せめて何年かに一度、手紙と贈り物を持った使者をここアルドランドへ遣わしてくださいますように。私は家の長男なのです」
「……あなたの言った言葉は、真実なの?」
「その通りです。何を仰ろうと、本当です」
「なら、コイン、それを私に渡せる? あなたの家が何百年も守ってきた誇りを、精神の支柱を、私にささげることが出来る?」
 ここまでの代償は予期しなかったはずです。ピュアン少年はしばらく沈黙し、眼を閉じました。そして言いました。
「分かりました。私は祖国と神々も捨てましょう。その大罪は一生私を苦しめるでしょう。しかし私には、貴女以外に何も要りません」
 すぐにピュアン少年は家から小箱を持ってくると、コインを取り出し、ユリアーヌ王女に渡しました。初めて二人は抱き合いました。
 私は翌日また来るようピュアン少年に告げ、姿が見えなくなったのを確かめると、急いで全館の財宝を馬車に積ませ、未明までに全員の従者を村から発たせました。この館には国の兵士だけが残ったように装いました。
 翌日、館を訪れたピュアン少年には、門に残しておいた兵士から、「商人一行は昨晩に荷物をまとめて異国への帰路に就いた」と聞かせました。
 その言葉を聞いたピュアン少年は、スターシャ――正体はユリアーヌ王女――が何の伝言も残さなかったのを何度も確めました。そして、懐からナイフを取り出し、刃を胸に押し当てて眼を閉じました。ピュアン少年は、異国の女に騙されてコインを渡してしまった責任を命で償おうと思ったのです。もう試験は十分です。少年は未来の王にふさわしい人格を備えていました。
 私と王女は慌てて物陰から飛び出し、私が企てた全ての謀とその意味を、今まさに自決せんとするピュアン少年に知らせました。 
 ひたすらに謝り続けるユリアーヌ王女を、ピュアン少年は大粒の涙をこぼしながら抱き締めました。ユリアーヌ王女もピュアン少年を固く抱き締めて離しませんでした。

 二人の頭上には小鳥が舞い、太陽の光が強く照らしていました。

 空を雲と太陽が移動し、相当の時刻が経過してもなお、二人は動きませんでした。見かねて私が馬車に促さなければ、永遠に二人はそうしていたでしょう。

(了)

忘却のコイン

続編を予定しています

忘却のコイン

辺境の村で勤勉に働く少年の前に突然現れた年上の王女。少年は許嫁の幼馴染と、謎の王女のどちらを選ぶのか⁉

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-25

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  1. 侍従総長の書状
  2. アルドランド貨幣
  3. 王女と少年