mellow night / daydream
mellow night / daydream 夏川沙月
night and day.
夜のストーリーから始まり
昼のストーリーへ循環していきます。
真昼はやがて黄昏に終りを迎えます。
夜の帳を抜けて朝へと時は流れます。
二つは、やがて交わり紡いでいきます。過去から未来へ。
新しいストーリーの朝の始まりです。
mellow night / daydream (一) 十六夜
今夜は、中秋の名月から一日過ぎた十六夜だ。
夜の始まりの頃、東の夜空に満月に少し翳りを見せた大きく赤い月が姿を見せる。その月は、時間をかけてゆっくりと昇っていく。
十六夜の月は、東側の天空の辺りで柔らかな白い月光を輝かせている。
夜の街の目抜き通りを、ブルーのスポーツカーが走ってきた。
2シーターのフルオープンの流線形が美しい。
今は、黒い幌が閉まっている。
ブルーのスポーツカーは、ハイウェイに上がる入り口に進入して行く。
ゲートを潜ると、這い上がるように加速した。
合流分岐点で、タイミングよく流れに乗って加速する。加速する時の吠えるような排気音が心地よい。
2シーターの運転席に若い男性が乗っていた。
助手席には若い女性が乗っている。
車が加速していく車体に映る道路灯の光が流れていく。
彼女は、繁華街のBARで働いている。
今夜は、早い時間に仕事を切り上げた。
彼は迎えに来て、彼女を道路脇から助手席に乗せて車を発進させたところだ。
*
慣れた道を飛ばす車の流れに身を任せる。若い男性は、白いブロードのドレスシャツを七分丈までロールアップしている。袖から覗く日焼けした肌の腕をしなやかに伸ばしハンドルに軽く手を添えて前方を見ている。
回転計を4000辺りまで上げてギアを上げて加速していく。
軽い振動が心地よい。
吠える様な排気音。
暗い車内をさまざまな光が交差しては流れる。
夜の暗闇に、道路のオレンジ色の照明灯が後方へ流れるように飛んでいく。
引き寄せられては後方へ吹っ飛んでいく明かりの灯る大きなビル群。
ビル群の間を縫う様に夜のハイウェイは長く続く。
回転計が2500辺りで落ち着くと速度をキープした。
少し隙間の空いた窓から風が入り込んでくる。
彼女のボタンを二つ外したシースルーの黒いシャツブラウスの袖が風に音を立て肌に張り付く。
中に着た黒い光沢のあるキャミソールドレスのストラップが透けて見えるほど薄い生地だ。
視線を更に下に辿っていくとキャミソールドレスのすそから綺麗に伸びた曲線の脹脛の素肌が見える。
その終着点は、細いヒールと黒いレザーストラップのサンダルだ。
膝の上に小さいバンブーハンドルのハンドバッグを乗せている。
夜の時間の華やかなドレスのスタイルだ。
後方へ吹っ飛んでいく為にある様な聳え立つビル群の間から、赤い東京タワーがこっちに引き寄せられる様に近づいて来た。
「あっ、見て。東京タワーが見えてきたわ」
助手席の彼女が囁くように言った。
「あぁ、東京タワーを見ると、東京に居る実感が湧くね」
「東京タワー見るたびにユーミンの詩を思い出すの」
「何故か曲のメロディがフト出てくるよね」
「そう」
彼女は、愉快そうにクスクス笑った。
それから、ユーミンの東京タワーを鼻歌交じりで口ずさんだ。
彼は、静かに彼女の歌を聴いた。
彼女は、完璧に歌い終わると彼の顔を見て微笑した。
「けど、私。スカイツリーの方がクールで好き」
「フーン。相変わらずクール系が好きなんだな」
「そうよ。悪い」
「いつも、クールな人に冷たくされて泣きついてくるのは誰だった」
「何よ。こんないい雰囲気の時にそんなこと言わなくてもいいじゃない。酷い」
彼は、クスクスと笑った。
「笑わないでよ」
彼女が真顔で言った。
「あぁ、ごめん」
それでもなお彼は笑っている。
「もう知らない」
彼女は、拗ねた様にフロントグラスの向こう側に広がる夜の街の灯りを見た。
「リナ、僕が悪かった」
しばらく沈黙していた彼女は、彼に振り向いてわざとらしく微笑した。
「けど、貴方のそんなところが好きよ」
彼は、前を向いたまま何も応えず微笑した。
速度と共に、光の交差が二人の暗い車内を彩る。
心地よいスピード感に身を委ね。二人は夜のハイウェイを楽しんでいる。ドライヴィングアワーズは始まったばかりだ。
「ねぇ、コオ。せっかくだし東京タワーに行ってみない」
「えっ?帰るんじゃないのか」
「もう、意地悪ね。いいじゃないこのままデートしてもいいでしょ」
「どうしようか」
「今日は、仕事が早く終わったからいいじゃない。まだ時間も遅くないし。ねぇ、お願い」
ほろ酔い気分の彼女は彼をみて微笑した。
*
東京タワーのエレベーターの中に二人はいる。
二人を乗せたエレベーターが上昇していく。
二人とも上方向を見ている。
「ねぇ。いま気がついたんだけど。みんなエレベーター乗る時は上を向くよね」
「そうだね」
「不思議よね。あれは本能なのかしら」
「いや、たぶん自分の降りる階をチェックしているんだよ」
「そうなの?」
「そう」
「へぇ、そうなの」
「うん」
彼は、適当に断定口調で言った。
こうした言い方は、曖昧な事を人に納得させる魔法のようなやり方だ。
展望台の階にエレベーターが上昇して停止した。
ゆっくりとドアが開く。
二人は、人も疎な薄暗いフロアへ出た。
「あぁ。凄い」
彼女は、展望台のテレスコープの場所まで小走りに走った。その後を彼は追って歩いた。
ガラスの手前で立ち止まって東京の夜景を彼女は見た。
「ねぇ。見て見て綺麗…」
やっと彼は彼女の側まで来た。
彼は彼女に背後から近づいて、後ろからゆっくりと彼女を抱いた。
「あっ。ちょっと駄目よ。何のするの?」
彼女が驚いた様に声をあげた。
彼は構わず両腕を彼女のウエストのくびれ辺りへ回して前で交差して引き寄せるように抱きしめた。
彼女は、慌てたように諭した。
「みんな見てるわ」
彼女の呼吸が乱れる。
「暗いからわからないよ」
「駄目だよ。恥ずかしいから」
「いいさ。このまま抱いていよう」
彼は、強引に更に強く抱きしめた。
「馬鹿なんだから」
彼女は、抵抗するのを諦めて彼に身を委ねた。
彼は、彼女のウェーブのかかった柔らかい髪に頬を寄せた。彼女の甘い香りが心地よい。
彼女の体温が伝わってくる。
ガラスの向こう側は、夜の東京の夜景が広がっている。街の灯りが、宝石を散りばめた様に夜の闇に輝き遠く彼方まで広がりを魅せる。手を伸ばせば届きそうな美しさだ。
今走ってきたハイウェイも、聳え立つビル群も。
遠くに見える港やブリッジも輝いて見える。
「あっ、ねぇ。飛行機」
彼女が指を差した。
彼も彼女の指先を見た。
「最終便かな」
「あの辺りが羽田なの?」
「うん」
十六夜の月の輝く夜空に、飛行機が旋回した後
滑走路に下降していくのが見えた。
二人は、しばらく東京の夜景の時間を楽しんだ。
*
東京タワーを降りた後、彼がよく行く郊外の雰囲気の良いビストロへ行き二人は遅い夕食を食べた。
ライトダウンされた薄暗い店内に、各テーブルの真ん中にキャンドルの火が灯り揺らいでいる。
テーブルの位置は、少しライトアップされている。
カウンター席もキャンドルが均等に配置され火が灯る。
全席の半分ほど客が座っていた。店内は静かだった。
音楽も邪魔にならない程度に最小限の音で流されている。今は、ジャズピアノのソロ演奏が流れている。
ライトダウンされた店内の隅のテーブル席に、二人は座ってメニューを見ていた。
「素敵なお店ね」
「都内のフレンチにしてはリーズナブルで美味しい。たまに一人で来る」
「一人で?嘘でしょ。綺麗な女性と来るんでしょ」
「いや、この店にはいつも本当に一人でくる」
「何故、一人なの?」
「綺麗な女性だと料理が主役にならない」
「まあ、美人は主役だからね」
「そういう意味ではなく、女性と同伴で食事をすると会話が主役になる。料理に集中できない」
「それもそうね。料理に集中していると、女は自分に興味が無いのかしらなんて思うのね」
「まあ、そういう事だろう」
「私とならいいの?」
「君は、女性でも男性でもないから」
「どうせ、私はニューハーフですよ」
「他人が見たら、完璧な美女と思うだろう。それくらい君は魅力的で綺麗だ。声色も女性そのものだ」
「あら、やだ。今から私を口説くのね?」
「君は自然体で、いつも綺麗だよ」
「貴方にそんなふうに言われたらその気になるの」
「僕は、君を見たままの事実を述べているだけだ」
「これでも大変なのよ」
「そうなのか?」
「外見だって色々お金かかるのよ。それに、身体の内側も」
「見事な女性的な曲線だ」
「私、先端恐怖症なのよ。定期的に注射しなきゃいけないのが苦痛なのよ」
「女性ホルモンの注射?」
「子供の頃から注射が嫌いなのよ」
「それは、大変だね」
「何よ。笑わないでよ。子供じゃあるまいして思ったでしょ」
「思ってないよ」
「嘘ばっかり」
「まあ、とにかく食事に集中しょうよ」
「酷いんだから」
彼女は、呆れた様な表情でそう言った。
そこに、品の良いソムリエ兼任のギャルソンがやってきた。
彼のお勧めの肉のコースを二人は選んだ。
主菜は牛のランプステーキの赤ワインソース。アミューズは無くカリフラワーのポタージュスープと野菜と生ハムのオードブルがついてくる。メインの後のチーズを選ぶ。デザートはタルトタタン。食事の終わりに飲み物が付く。二人はエスプレッソを選んだ。
出てきたコース料理は、どれも美味しく二人を満足させた。
彼は、ペリエを一本だけ飲み。彼女は、ソムリエの薦めるメルローの赤ワインのボトルを選んだ。
元々ほろ酔い気分だった彼女は、主菜が終わりチーズを食べる頃にはワインのボトルをほぼ開けてしまってすっかり出来上がってしまった。
彼女は更にワインのボトルを注文する勢いだったが彼が制した。
タルトタタンを食べ終えた頃
彼女は明らかに酔いが回り一人で立てなくなっていた。
彼はエスプレッソを諦めてレストランを後にした。
*
再び、二人はブルーのオープンスポーツカーに乗り夜のハイウェイを走った。
酔った彼女は、ぐったりとシートに身を委ねている。
彼は、前方が渋滞している警告の掲示板を見た。
彼は冷静に減速していく。
周囲の車の群れも、同じ様に減速している。先程のスピード感は消え失せてジリジリと歩く速度で走り出す。
二車線のハイウェイの彼方まで紅いテールランプが列を成して並んでいる。
「あー。もう。いいところだったのに」
酔っ払いが管を巻く様な口調で彼女が言った。
「仕方ないさ。この時間でもたまに渋滞が発生する」
彼は、時間を見てラジオのスイッチを入れた。FMを選択してチューニングした。
*
Welcome to Ocean Bay FM. Free music selection program. Please enjoy the fleeting time of the day.
Broadcast at Ocean Bay FM frequency 77.5
*
車内のスピーカーから
時報の後、夜のラジオ番組が流れてきた。
DJの女性は、番組のオープニングの曲と共に、端正な中に華やかさのある声で番組を始めた。
*
Welcome to the Midnight lounge. Ocean Bay FM.
街の灯りも消えて、星の輝きが満ちてくる時間です。
今日と明日が出逢う時間。
一日のエピローグ。
つかの間の真夜中の時間に、音楽を添えてお送りします。
皆さん、今晩わ。Midnight lounge DJ 葉月 夏緒です。
真夜中に素敵な音楽と話題をお届けします。
今宵も、midnight loungeのひと時をお楽しみ下さい。
さて、今夜はこの曲から。
Shakatak Night Birds。
*
夜のハイウェイによく似合うアップテンポのクロスオーバーサウンドが流れてくる。
*
彼はこの番組を気に入っている。
「ねえ、コオ。このまま海までドライブしょうよ」
彼女は上体を起こすと彼の方を向いて言った。
「君はもう酔っているよ。帰って休んだほうがいい」
「えー、嫌だ。ドライブしたいのに…」
彼女は、不満そうに応えた。
「仕方ないな」
「えっ。いいの?」
「東京ハイウェイを一周して終わり」
「湘南に行こうよ。朝の海が見たい。ねぇ。お願い」
「駄目だよ。リナ」
「ケチなんだから。もういい」
彼女の綺麗な表情が不機嫌そうに曇った。
「ほら、酔い覚ましに飲んで」
彼は、ホルダーに置いていたミネラルウォーターのペットボトルを指さした。
「はい、はい、はーい」
酔っ払いの彼女は、ミネラルウォーターの蓋を開けて半ばやけ気味にごくごくラッパ飲みをした。
ひとしきり飲んでミネラルウォーターを膝に置いて大きな溜息をついた。
*
車内のスピーカーから夜のFMラジオ番組が流れている。
二車線のハイウェイの彼方まで紅いテールランプが列を成して並んでいる。夜の時間の流れは、テールランプの動きを変化させていく。
彼は、運転を続けながらFMラジオを聴いた。
*
イギリス出身のフュージョンバンドShakatak。
当時、リリースと共に大ヒットしたこの曲。Night Birdsは全米ナンバー1ヒットしました。
アメリカのジャズを起源とするフュージョンとは異なり、アドリブ偏重ではなくメロディと編曲を重視した親しみやすいサウンドが特徴です。
ジャズファンクやフュージョンをベースに洗練されたメロディと都会的なエッセンスをフューチャーしたサウンドが印象的ですね。
1980年代のブリティッシュ・ジャズ・ファンク・シーンを盛り上げた人気バンドです。
*
中秋の名月を一日過ぎた十六夜ですね。
今夜は雲が多いようですけど、今はスタジオの窓から夜空の雲間に月が輝いて見えます。
みなさんはお月見団子食べましたか?
私はいつも中秋の名月の日を忘れていて。夜の売り切れのお団子コーナーの前で中秋の名月を知らされます。(笑)
*
お天気のほうは、関東地方は湿った空気の影響で雲が広がりやすいでしょう。日差しは時々出る程度となりそうです。ただ、天気の崩れはないでしょう。最高気温は28度から30度くらいの予想です。朝晩は秋の涼しさを感じられそうです。翌日も雲が広がりやすくすっきりしないでしょう。
*
波の音とともに一日が終わろうとしています。
静かな夜のしじまのひと時が穏やかに過ぎていきます。
それでは、今夜はこの辺で。
お相手は、葉月夏緒でした。
Also some night. good night.
*
FMラジオ番組の途中から渋滞は解消された。
少しずつ夜のハイウェイにスピード感が戻ってくる。
彼は、酔っ払いの彼女に付き合って東京の夜のハイウェイを疾走した。
先程の渋滞が解消した後は、順調にナイトクルーズを楽しんだ。
夜のハイウェイを降りてきたのは深夜をかなり過ぎた時間だった。
ハイウェイを降りて直ぐ手前の交差点の信号が、赤になりオープンスポーツカーは静かに停止した。
先程から、彼女は機嫌が悪い。
酔い覚めが来る頃はいつもこうだ。
口を尖らせ不機嫌そうに彼を見た。
「私のこと女の子として見てないでしよ」
彼女は、不機嫌そうに彼に問いただした。
「君は、酔い覚めの頃はいつもそうだ。君はいろいろ考えすぎなんだよ」
「だって、もともとは男だもの」
「僕にとってそんな事どうでもいい事なんだよ。
「あーもう、どうして女に生まれてこなかったんだろう。心はどうしょうもなく女なんだけどな」
「別に気にしなくていいじゃないか」
「この間だって、隣りのマンションの人なんか挨拶してるのに無視するのよ。嫌な感じだった」
「そんな人もいるのさ。この世の中の偏見は人が存在する限り無くならないのさ。人目をいちいち気にしてもしょうがない事だよ。人生を台無しにしかねない」
彼女はうつ向いて黙って聞いていた。
「僕は君が男か女かどうでもいい事なんだよ。麻生リナというこの世でひとりしかいない存在が好きなんだよ」
「えっ。そう?そうなの?」
彼女は少し機嫌を直して問いただした。
「君はとても素敵だと思うけどな」
「ありがとう」
彼女は彼を見て微笑した。
その時、後ろの車のホーンが鳴った。
気がついて振り向くと、後方にタクシーが一台停まっている。運転席を見ると、ムッとした表情で中年のタクシードライバーがホーンを叩く様に鳴らしている。
彼は、前方の青の信号を確認した。冷静にギアをクラッチで繋ぐと緩やかに発進した。
*
リナは、誰が見ても女性にしか見えない。
華やかなメークは、端正な顔立ちを引き立て明らかに美人だ。
毛穴も見えない様なきめ細やかな素肌は透き通るほど白い。
艶のあるブラウンの長い髪は、少しウェーブがかかっていて魅力的だ。
女性の様な緩やかな曲線のしなやかな身体は、柔らかで華奢だ。今はタイトで光沢のあるシックな黒のキャミソールドレスにシースルーの黒いシャツブラウスに身を包んでいる。同じ色のハイヒールが更に魅力を追加する。
声も女性そのものだ。
とても、元男性だったとは誰も思わない様な美女だ。
自分も女性ホルモンを接種したのなら、この様な美女に変身できるのだろうか?
そう考えると好奇心が無くもない。
しかし、リナの様に女性的生活習慣が身につくとは思えない。
彼女は、元々女性に産まれるつもりだったんだ。何かの間違いで男性として生まれてきてしまった。
幼い頃から女性になりたくて女性的生活習慣を身につけてきたのだ。本能てヤツだ。
彼女の心は産まれた時から女性なのだ。
表向きだけ女性になっても、立ち振る舞いが男そのものだとどうしようもない。産まれた時から男性的生活習慣が染みついている自分では、リナと同じ様にはいかない。
自分が女性になった姿を想像する。とても陳腐な自分がいる。少しおかしくて笑ってしまう。
要するに女性は、魅力的に女を演じる能力が本能的に身に付いている。まあ、そうした本能を早々と切り捨てる人もいるのだろうけどね。
そう考えると、プライベートではあぐらなんかかいて男性的生活習慣で過ごし、人前では女性的に立ち振る舞いを演じる美女もいるかもしれない。
プライベートまで女性らしく振る舞っているのが、普通だろうと考えてしまうのは男性の妄想的なエゴなのかもしれない。
女性が女を演じるのは本能なのだ。
リナが女を演じるのもその本能と同じ質のものなのだ。
極論してしまえば女性は誰しも女優なんだ。
このまえ見かけた、ドラッグストアを闊歩するぴちぴちのレディースサイズの服で女装したビール腹のおじさんとはワケが違う。
魅力的に魅せるには多少なりとも努力が必要なのだが…。リナの様に努力しなくてもすんなり手に納めてしまう人もいる。世の中は、完璧に平等には出来ていないものだ。やれやれ…。考えれば考えるほど訳がわからなくなる。陳腐な世の中なのだ。
この世の中は複雑で理解できない事に溢れている。
*
郊外にある彼女のマンションまで、三十分以上かかった。
彼女のマンションの駐車スペースに入るとオープンスポーツカーは徐行して停止した。
「相沢くん。送ってくれてありがとう。」
彼女は酔いが醒めてくると、彼を呼ぶのに名前から名字に変わる。ある意味、わかりやすい。
彼は、クスクス笑った。
「どうしたの。何がおかしいの?」
「君は、酔っている時は、僕を名前で呼ぶけれど。シラフの時は名字に変化する」
「あら?そうかしら」
「そうだよ。さっきはコオて言ってた」
「嘘。ほんとに?気がつかなかった」
「無意識なんだ」
「どっちがいいの?」
「相沢くんも悪くないな。でもコオの方が親密だね」
「どっちなの」
「じゃあ。コオでいいよ」
「意識すると照れ臭いわ」
「無意識でいいよ」
「そう言われても…」
「呼んでみて」
「いま言うの?」
「うん」
彼女は恥ずかしいのか躊躇する。
「ほら、呼んで」
「もう、意地悪ね」
「いいから、はやく」
「コ…コオ」
彼女は、恥ずかしそうに聞き取れない様な小さい声で言った。
「えっ?聞こえないよ」
「もう、意地悪なんだから」
彼は、愉快に笑った。
「たまには、BAR saudadeのマスター…」
「駄目よ。彼女の前で言っちゃうと機嫌が悪くなるからね」
「あっ。いやママに会いたいね。鈴木さんだっけ」
「鈴木薫。美人でしょう。若いのに銀座でママやってた人なのよ。口説きたいでしょう」
「ふーん。それで」
「せっかくママになったのに、二か月後にバーテンダーになりたいて辞めちゃったのよ」
「ふーん。それでBARを始めた訳だ」
興味深々に聞く彼をみて慌てて彼女は諭すように言った。
「駄目。絶対に口説かないでね」
「大丈夫だよ。お酒を飲むだけだから」
「本当に?」
「あぁ。お酒を飲みたいだけだから」
「わかったわ。薫に伝えるね」
彼女は、シートベルトを外しながら彼を見た。
彼も、彼女を見た。
一瞬、二人の視線が重なった。
彼女は、身を乗り出して彼の顔に近づけた。彼は、彼女を受け止めた。ギアに手をかけた彼の手の上に片手を重ねて長い口づけを交わした。気が済むまでお互いを確かめ合ってから顔を離した。
彼女の甘い残り香が漂う。
「ねえ、部屋でコーヒーでも飲んでいかない」
彼女は、乱れた呼吸でそう言った。
「今夜はもう帰るよ」
「わかったわ。いつか海へ連れて行って」
「誘うよ」
「それじゃ。おやすみなさい」
「おやすみ」
二人は、見つめ合い微笑した。
彼女が、車から降りると彼は駐車スペースを徐行してUターンした。
マンションの入り口で、彼女は振り向いて手を振っていた。
彼は運転席から軽く手を挙げた。
相沢幸樹の乗るオープンスポーツカーは、マンションの駐車スペースを出て、夜の幹線道路を加速して走り去った。
*
夜の海に面して複雑な地形を縫う様にカーブした道路の勾配をしばらく走ると平坦な海岸線に出る。
緩やかにカーブした海岸に沿って道路が伸びていく。
均等に並んだ道路脇のオレンジ灯の光が照らす。夜の闇と道路の黒いアスファルトをオレンジに染める。
しばらく走っていくと道路脇に沿って駐車スペースがあった。そのスペースに一台のオープンスポーツカーが停止していた。
幌を畳んでオープンにしている。運転席のシートを倒して、相澤幸樹がひとり夜空を眺めている。両手を頭の辺りに添えてぼんやり夜空に輝く十六夜の月を見ている。
月を飽きる事なくしばらく眺めた後、一度だけ溜息をついた。
彼は、静かに目を閉じる。
ゆっくりと深呼吸する。
緩やかに吹いてくる南風は、心地よく耳元に風の音と共に潮の香りをおいて去っていく。
穏やかな潮騒が、夜の闇の向こう側に聞こえた。
mellow night / daydream