美考



 それは視覚情報に起因する直観的判断であり、瞬発力に優れている。あるいは偏向的な好みからの影響を少なからず受けながら脳内で行われる情報の高速処理だともいえる。
 ゆえに本来なら一般性とは無縁の個々それぞれの判断としてそれを自由に行えるはずだが、社会的動物としての生活を送る必要から求められる法などのルールの設定及びその実践を通じて又は日常における種々様々な情報の交換によって個々人の趣味趣向の均しが行われ、判断内容の一般性が結果として得られる。それを論理的に語れもする。
 しかしながらその均しの過程には偶然の要素が多分に含まれているから、その全容を客観的な事実として具に追うのが難しく、どこかで創作めいた力点を用いるしかない。そうして形になる主義主張には、だから疑義の目が向けられる。それは当然のことといえる。
 では、と経験事実に基づく帰納法的アプローチを講じれば特定の立場からの主張内容としてその勢いが削がれていき、波打ち際の語らいが生むロマンスに負けてしまう。傾けてもらえる意思や耳に出会えなくなる。当初に掲げた普及の意図が実現しない結果となる。
 だったら、と今度は感性に基づく面を重視してそれは体感に近しいものであり、言葉を必要としないものなのだと捉えてみる。「そう感じる」という事実だけを意思主体間で確認し合い、その構造や成立過程あるいは内容面を問題にしない。意見交換はそれを望む者同士で好きに行うに止める。
 打算的で、しかし実際的な付き合い方を重視するこの立場は穏当だと筆者は考える。だが事実に即し過ぎている、受け手側の視点に寄り過ぎていて妥当でないとも判断する。それは表現する側が頼りにするものであり、制作を通じて形にしてきたものだから、その詳細に至るまでの完全一致が果たされなくとも、完成した作品を前にする鑑賞者との関係性を育む想像的な土壌として機能する。なればこそ、それは言葉を借りて語ることが望まれるのだ。真相に届かないことが永久に約束されていても、人為の力でそれを動かし続ける必要があると筆者が考える根拠がここにある。




 時間の矢印に従って進む(と認識する)私たちの現実の中から任意に切り取った「瞬間」としてでなく、認識すらできなかった向こう側の出来事として一人の人物が佇む姿などのモチーフをミヒャエル・ボレマンスは描く。袖口が繋がって腕を外に出すことが叶わない白シャツの異形ぶりや、ピエロのようにケラケラと笑い、と同時にしくしくと泣いているマスクを被った人物の匿名性といった不穏な要素は小さなキャンバスにぴたりと収まり、その在り方が決められている。しかしながら画面の隅々を観察しても不穏さと相性が良いと思われる胸を抉る様な痛みや、騒がしさを想像させる音の要素がない。この「ない」によって画面上に生じる、こちらの干渉を意に介さない完結は意味の変容といった触発を鑑賞者の内側に引き起こす機会を奪う。ただただ陶器のようにそこに存在し、もう動きはしないあちら側との境界線ないし接触面はこうして維持される。交わせるものがミヒャエル・ボレマンスの絵画表現との間に生まれないから展示空間がより静かに、穏やかになっていく。
 だから氏の表現は「美しい」。
 瞬発力に優れた直観的判断能力としてのそれとは程遠い、時間的な順序を守った絵画表現は決して動きやしない画面上の境界線ないしは接触面で実行される鑑賞行為という名の解凍作業をから回しにして、無数の火花を撒き散らせる。それらを見つめる鑑賞者はこちら側の生に身を委ね、死の間際に再度鑑賞してもきっと何ひとつ変わらないであろうキャンバス上の世界を羨む。
 その永遠の命に憧れて、ではない。
 構成要素の全てに加えられた表現者の意図と技術を終ぞ知ることがないその無垢なる硬直に向けて、眠る意識に引っ張られて運命を共にせざるを得ない、ある感性の恨み言としてそれを「羨む」のだ。これをこそ氏の表現に表れる「美しさ」の代名詞になるのだと信じて。


 

 その不気味さは、いわゆるポップアートの括りの中で鑑賞者の心を捉えるだろう。
 可愛らしい赤ちゃんの人形や美しいビジュアルを誇る女性を覆う、得体の知れないスライム状のものが友沢こたおの絵画表現の主役である。対象の全身を覆えばその綺麗なシルエットを際立たせる一方で、スライム状のものの表面に現れる滑っとした光沢の気持ち悪さが反対側でニヤッと笑っている。
 あるいは意思のない人形だから表現できず又は意思を持つ存在として選択しなかった拒絶の表現がそれぞれの一部分に接触するスライム状のものと行うコラボレートとなり、その結果として表れる、屈折した世界の「美しさ」。透明度が高いから接触する対象の色合いが表に現れる、けれどスライム状のものが保有する水分量も潤沢だから光の届き方が素直にならない。屈折という字面の印象をたっぷりと含ませてスライム状のものの表面から窺える内部「世界」は、しかし美しい。具象と抽象のどっち付かずで表現された夢のようでいて、またスライム状のものに侵食される対象のスタイリッシュなポージングによって妙な骨格を与えられたりして画面上に居座る第三の存在としてその手足を動かす。
 技術的な革新は偉大なる先人たちによってやり尽くされ、放り出された答えなき荒野に響き渡る新規性や奇抜さ、あるいは民主的な面白さを求める不特定又は多数人の声を耳にしながら、自分自身と向き合うことを強いられる現代アートの世界においておざなりにされるかもしれない「美しさ」を嘘偽りなく見つめようとしている。PARCO MUSEUMU TOKYOで開催中の個展、『SPIRALE』で拝見できた友沢こたおの絵画から受けた印象は今も熱を持ち、筆者の関心を維持している。その理由を論理的に記せば、その表現手法は狙い通りであると同時に当初の思惑を外れる、なぜならモチーフとなるスライム状の存在に由来する計算外の要素が画面に入り込むから。かかる計算外の悪戯は表現する側と表現を観る側の双方に及びうる。あるいはそのモチーフの定型性のなさによって表現のバリエーションは豊富になるのだろうし、ユニコーンというモチーフと出会う前と以後で表現の躍動感を大きく変えた東山魁夷のように、将来において画家がスライム状のものに託す事柄の得体の知れ無さが別の形象を獲得してその表現ぶりをガラリと変えたりすることもあるだろうと思うから。
 他方でただの直観として思う所を記せば、インパクトのある絵画表現の素地として画家が「美しさ」を軽んじていない。鑑賞する側が両腕を前に出して構える如何にもなガードをぶち壊し又はすり抜ける技法として有効活用している。それが極めて妥当だと、筆者の内心で結論されている。その真偽を確かめる術を「ああだ、こうだ」と考える、そういう楽しみ方を既に始めている。その刺激を与えてくれるものとして、友沢こたおの絵画表現があるのだ。



 「美しさ」を巡る分不相応な哲学的議論を回避するための詭弁だと自覚して記す、筆者のこれらの言葉。二人の画家を例に取って積み上げてみた、脆くも崩れやすいこの足場の不安定さを失くす理論的な試みを視界に端に収めつつ、この身を離れ過ぎない表現をもって重ねる面白さを忘れないでいたい。

美考

美考

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-22

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