愛された者

第一章

 その日もいつものように、美咲(みさき)は父親の「愛」を享受していた。
 六畳の部屋には煙草の臭いと体を殴打する音が充満し、灰色のカーペットには血が滲んでいる。煙草の吸殻はほとんど吸殻入れに収まることはなく、丸テーブルの表面を黒く焦がしていた。しかし煙草が焦がしたのはここだけではない。美咲の腹や背中、太ももなど、服を着れば容易に隠れてしまう部分に、その焼印はしっかりと刻まれていた。
「美咲、お前は良い子だ」
 父親の優しい声音と行動は乖離している。美咲は黙って唇と幸福を噛み締め、「愛」を受け止めていた。


第一章 偽愛


 御戸神(ごとがみ)美咲は父親に虐待を受けて育った。幼い頃から、それこそ物心つく前からずっと父親に叩かれ、殴られ、蹴飛ばされる毎日だった。しかし父親が美咲を罵ることはなかった。美咲の父親は、美咲に痛みを与えることは愛情表現であると教えていたからである。口では優しくしながら痛みを与えることで、まるで虐待が愛情であるかのように錯覚させていた。まさに洗脳だった。美咲の脳内では「痛み=愛」という図式が既に出来上がっており、父親以外の人間と接することがほとんどなかった美咲にとっては父親の教えてくれたことが世界の全てであったため、この教えを疑いもしなかった。
 美咲の父親は勘が鋭いのか運がいいのか、パチンコや競馬でそこそこの生活ができるほどの金を得ていた。所謂パチプロのようなもので、これは公的には職業ではないため実質無職である。また、美咲が壊れない程度の暴力を心得ており、こちらも同様に勘の鋭さが働いていたのかもしれない。そのためほとんどの時間を家で過ごしており、その一部を美咲への暴力の時間で埋めていた。
 二〇一二年、美咲は小学校に入学した。保育園や幼稚園に通っていなかった美咲にとって、小学校は初めての社会であった。父親は無職でパチンコ通いの割には体裁を気にするらしく、美咲には七着の服を用意して毎日着回させることにしていた。洗濯は週に二回、水曜日と日曜日にまとめて父親が行なっていた。この男は堕落した生活を送りつつも、最低限の家事は自身でこなしていたのである。また愛と称して痛みを与えていることは、相手が嫉妬してしまうから人に話してはいけないと美咲に教えており、同様の理由で体の傷なども絶対に人に見せないように言いつけていたため、虐待が明らかになることはなかった。美咲自身父親を親として大事に思い、その教えを疑いもしていなかったので、彼に歯向かうような真似は一切しなかったし、父親が間違っているという発想が現れることすらなかった。

 二〇一四年の春、美咲は小学校三年生になった。暗くて無口なため、この二年間で友達は一人も出来ず、教室ではせいぜい事務的な会話ぐらいしか交わしていなかった。学校が終われば無言で帰宅する毎日で、誰かが声をかける間もない上に、声をかけ辛い雰囲気が自然と醸し出されていた。
 彼女自身、友達が欲しいとはあまり考えていなかったのである。要らないわけではない。だが自分から動いてまで友達を得ようとは思わない。一般的なこの歳の子供ならば友達作りに奔走し、「友達百人出来るかな」なんて歌詞もあるように友達を作ることは学校生活の中でも重きを置かれるものであるが、美咲の場合はそうではなかった。
 だが三年生の春、そんな彼女を気にかける女子生徒がいた。
「美咲ちゃん、何見てるの?」
 昼休み。喧騒に包まれた教室で、給食を食べながら曇天の空を見上げていた美咲は、久しぶりに父親と教員以外から話しかけられたことに驚き戸惑い、数秒後に「そら」とぶっきらぼうな返事をした。
「空に何かあるの?」
 通常ならば今の美咲のように適当な返事をして会話が終わってしまうような者からはすぐに離れるものだが、彼女は諦めず質問を続けた。彼女の快活なポニーテールが風で可愛げに揺れている。最低限の手入れしかしていない枝毛だらけで短い美咲の髪は微かに震えていた。
「別に」
 またも返事とも言えないほどの雑な返事をした美咲に、彼女は躊躇うこともなく自己紹介を始める。
「私は同じクラスの千寿(せんじゅ)真理亜(まりあ)。美咲ちゃんと仲良くなりたいの!」
 返答に躊躇ったのは美咲の方だった。乗せる音に迷った口が呆けたように小さく開いている。椅子がほんの少し後ろに下がり、甲高い摩擦音が教室に響いた。今まで自分と仲良くしたいなどという物好きはおらず、業務的な用事で声をかけることすら嫌がられていたことを、美咲自身も知っていた。自らがそういう「話しかけづらいキャラ」であることは、言葉として彼女の頭にあるわけではないが薄々と概念的に心得ていた。その上で、誰かと深く関わるつもりがなかったために自分を変える気もなかった。
 美咲は少しだけ胸が温かくなる感覚を知った。曇天の無機質な空が雲間からの強い陽の光で輝き始める。薄かった美咲の影が濃くなっていき、床との境界が明確になりつつあった。

 それから毎日美咲と真理亜は昼食を共に食べ、昼休みに言葉を交わすようになった。真理亜が一方的に話しかけ、美咲は簡単な返事をしたり相槌を打ったりする程度であったが、そこにはしっかりと「会話」が存在した。
 六月の初週、家庭科の授業として調理実習が行われることになった。毎年数回は調理実習が実施されるのだが、美咲が入るグループはいつも美咲の存在によってコミュニケーションが上手くいかず、空気も悪くなる一方でまともな料理ができた試しはなかった。しかし今回は、美咲と比較的仲が良いと言える真理亜が同じグループになったので例年とは違う。五十音順で美咲は「ご」、真理亜は「せ」なので、一班六名のメンバーでギリギリ一つの班に収まったのだ。「御戸神美咲」「佐伯(さえき)(まこと)」「佐藤颯太(さとうそうた)」「新川(しんかわ)未来(みく)」「春原(すのはら)七海(ななみ)」「千寿真理亜」の六名で一班だった。真理亜が美咲と他の班員との間を取り持つことで、何とかコミュニケーションは取れていた。また、美咲が人嫌いではなく無口なだけであるということを真理亜の口から伝えられ、少しだけ美咲に対するクラスの印象が柔らかくなったかのように思われる。美咲にとって、真理亜は架け橋だった。
 今回作るのは小松菜と卵の中華炒めだ。
「美咲ちゃんは私と小松菜を切ろうね。誠くんと颯太くんは食器を洗ってくれない? 未来ちゃんと七海ちゃんは卵を溶いてフライパンでスクランブルエッグみたいにしてほしい」
 班員同士の話し合いで真理亜が班長に選ばれたので、彼女がそれぞれに指示を出す。彼女はクラスでも委員長をやっていたので、満場一致で決まった。美咲は特に何も意見を示さなかったので、正確に言うと満場一致ではないのだが。
 調理が始まると、早速事件が起こった。家庭科室に真理亜の声が響き渡る。
「美咲ちゃん、大丈夫⁉」
 美咲の左手の人差し指の背が少し切れたのだ。家では父親が弁当などを買ってくるし、これまでの調理実習では周囲から浮いて爪弾きにされていたため、まともに包丁を使ったことがなかったのである。初めて包丁を持った美咲は、その使い方を教科書や授業で見聞きしてはいたものの、動きがおぼつかず、小松菜を押さえる位置にあった指へ刃を当ててしまった。
 慌てる真理亜や他の生徒達とは裏腹に、美咲は静かに切れた部分を見つめていた。綺麗で見慣れた赤黒い血が滲み出てくる。美咲はその指を咥えた。途端に舌を包み込む美しい鉄の味と、指先に走る稲妻を感じた。
 包丁の愛だ。
 父親の洗脳教育のおかげで美咲はその痛みを錯覚し、包丁とそれを操った自分自身に愛された幸せに震えていた。俯いた美咲が狂気じみた邪悪な笑みを浮かべていることには誰も気付かない。周りの子供達は美咲が痛みに震えていると勘違いし、真理亜が先生に伝えて美咲を保健室に連れて行くことになった。
「別に、私、大丈夫だよ」
 真理亜に手を取られ保健室に向かう美咲は、何食わぬ顔で呟いた。薄茶色の廊下にポタポタと血が滴り、まるでヘンゼルとグレーテルが撒いた道標のように二人の歩いた道を示していた。
「何言ってるの! ちゃんと絆創膏貼らなきゃ!」
 つんと鼻をつくにおいが充満した保健室に入ると、真理亜が先生に説明して絆創膏を受け取り、美咲の指を蒸留水で洗ってその傷を覆うように絆創膏を貼った。
「料理、続きやらなきゃ」
 美咲がうわごとのように口にしたその言葉に、真理亜は「もう他の人がやってくれてるから大丈夫だよ」と答えた。自分の役目を放棄しても構わないと告げられたことに、美咲は違和感を持った。父親は、美咲が自分の言いつけを守らないときや役目を果たせないときは強く叱りつけ、その度に水を張った洗面台に沈められたからだ。そして数分後には「叱ってごめんな」と言いながら美咲に「愛」を与えた。美咲にとって痛みは愛であるが、苦しみは罰だった。
「今週の土曜、用事がないならうちに遊びにおいでよ。一緒に料理の練習をしよう」
 指の傷が脈打っている。突然の提案に驚いたが、反射のように美咲は頷いた。

 その週の土曜日、美咲は真理亜の家に遊びに行くことになった。行っていいのかわからないと言う美咲のために、わざわざ当日に真理亜が美咲の家を訪れ、一緒に父親に相談すると、容易に許可が下りたのである。美咲の父親は、普段は外出など許さないのだが、今回は友達の目の前で娘の約束を許可しないことにより悪い噂が流れてしまわないかと危惧したのだろう。外面は良く繕っているので、真理亜と対峙している時は常に爽やかな笑顔を見せており、真理亜は「とてもいいお父さんじゃない」と絶賛していた。
 それから美咲は真理亜と共に彼女の家へと向かった。初めて通学路以外の道を歩く。今まで見たことのない風景に心躍らせていたことを、美咲は自覚できていなかった。
 美咲の住む家は集合住宅の端にあり、同じ作りの家が九軒並んでいる。家のすぐ南側には線路が敷かれており、電車が十五分に一本ほどの頻度で通っている。片側一車線の道を挟んで北側の向かいには工場跡地があり、今は管理されておらずほぼ無法地帯と化しているため、夜はときどき不良などが出入りしているようだ。この挟まれた道をしばらく東に進むと、隣町や商店街、小学校へと続く国道に出る。西に進むと真理亜の家を含むマンションが立ち並び、パチンコ店やレンタルビデオ店などの娯楽施設が固まっている。家を出て東の方にしか行ったことがない美咲にとって、西側は未知の領域であった。とはいえ、娯楽からも縁遠い人生を送ってきた美咲には、それらの建物がどういう場所なのかは理解できていない。
 真理亜の家には徒歩十分ほどで到着した。五階建てマンションの三階、西から二番目の部屋が真理亜の家だった。
「お、お邪魔、します」
 初めて上がる他人の家に緊張しながら美咲は靴を脱ぎ、綺麗に揃えた。これは普段靴を揃えないと父親に叱られるため、習慣付いたものである。美咲の父親は、自分が散らかしたものは気にしないが、美咲が散らかすことには酷く敏感だった。美咲は叱られないために整理整頓を覚え、身につけていた。
「あなたが美咲ちゃんね? 真里亜から話は聞いているよ。ゆっくりしていきな」
 真理亜の母親が美咲に優しく微笑むと、緊張で早くなっていた美咲の鼓動は更に速度を増した。美咲は自分の母親という存在を知らない。美咲の母親は、夫の暴力と、外面だけの良さとのギャップに耐えられず、美咲を生んで退院した直後に勝手に夫の印鑑を盗んで離婚届を提出し、美咲を置き去りにして逃げたのだ。そのような経緯もあり、母親と呼ばれる存在に微笑んでもらった、という経験したことのない温かな事実が、美咲に初めて「父親の愛」以外の大人からの幸福をもたらした。
「美咲ちゃん早くおいでよ! 台所はこっちだよ」
 真理亜に呼ばれ、美咲は慌てて台所の方へと向かう。今日二人で作るのはバナナのパウンドケーキだ。真理亜が甘いものを好み、果物では特にバナナが好きだということと、六月現在の旬であることが決め手だった。
 美咲はボウルにバナナを入れて潰していく。その間に真理亜がホットケーキミックスや卵などの材料を必要な分だけ用意し、美咲がバナナを潰し終わるとボウルへ加えて混ぜ合わせた。混ぜ終わると型に流し入れてオーブンで焼く。こうして二人で作ったパウンドケーキは上手く焼き上がり、部屋中に甘い香りが広がった。
「美味しいね、美咲ちゃん」
「……うん」
 初めて友達の家に行き、初めて母という存在に優しくされ、初めて一緒にお菓子作りをした。美咲はこれまで出会ったことのなかった幸せに喜びを感じたが、美咲自身はこのことを自覚できていなかった。
 なんとなく、心がぽかぽかする。
 美咲にはその程度の認識でしかない。だがこの心地良さには気付いていて、無意識のうちに温かくなった胸を優しく押さえていた。
「そういえば、来週の日曜って父の日だよね? 美咲ちゃん、お父さんにこれ作ってあげたらどうかな! きっと喜ぶと思うよ」
 いつになく嬉しそうな表情をする美咲を見て、真理亜はそう提案した。日本では六月の第三日曜日が父の日とされており、今年はその日が一週間後の六月十五日だ。真理亜は美咲の父親の思惑通り彼を優しい男だと捉えており、男手一人で美咲を育ててくれた良い父親だと思っているため、美咲にこのように言ったのだった。
 そして美咲自身、父親に暴力を振るわれていることを愛されていることだと信じているため、父親への愛着は人並み、またはそれ以上にあり、大好きな父親が喜ぶことならやりたいと受け入れた。

 それから一週間が経過した。
 父の日、美咲の父親は朝から金を稼ぎにパチンコ屋に出向いていて、美咲は家で一人だった。先週真理亜の家で作ったパウンドケーキを父親に内緒で作るには絶好のチャンスだ。美咲は初めて自宅の台所に立ち、真理亜の家で作った手順を思い出しながら調理を進めていった。
「ただいま」
 夕方十七時頃、美咲の父親は帰ってくると玄関に甘い匂いが立ち込めていることに気付いた。
「美咲? 勝手に何をしているんだ?」
 彼は美咲に勝手に台所や風呂場を利用するなと伝えてある。無駄に水道代やガス代を増やさないようにするためだった。
今まで外出中に言いつけを破ることはなかったというのに、突然娘が変わってしまった。
彼は先週美咲を友達の家に遊びに行かせたことが原因だと考え、ほとんど顔も覚えていない真理亜のことを密かに憎んだ。
「お父さん」
 怒りを沸々と滾らせながらリビングに突入した父親を待っていたのは、クリームやバナナの粘りが付着したワンピースを纏い、丸テーブルに細長いパウンドケーキを置いておやつの準備をする美咲だった。丸テーブルの上にはパウンドケーキの他に、小さな取り皿とフォーク、カップに注がれたコーヒーと、ケーキを切り分けるためのブレッドナイフが置いてある。
「今日、父の日なんだって」
 美咲の下手くそな笑顔を見ると、父親の先ほどまでの怒りは静まっていった。自分のためを思って言いつけを破った美咲を叱ることはできなかったのである。
 実はこの男、酷い暴力を振るってはいるものの、美咲のことは自分の娘として愛していた。ただ、彼の愛情表現が酷く歪んでしまっていたのだ。
この原因は彼の実家の神社、御戸神神社の住職である父親にあった。美咲の祖父にあたるこの男は、あまりにも厳格な父親で、美咲の父親を、神社を継ぐに相応しい「正しい人間」にするため、幼い頃から暴力による矯正を繰り返した。父は我が子を愛するがゆえに自分を傷付けるのだ、きっとそうに違いない。美咲の父親はそのように信じることで暴力に耐え続けていた。その結果父親の狙いとは裏腹に、歪んだ人間に育ってしまったのだった。
 美咲の父親は、父親の自分に対する暴力は愛情表現であったのだと自分自身に言い聞かせるために、美咲に対する愛情表現として暴力を振るい続けていた。もちろん、そのような原因があったとしても彼が最低な加害者であるということに変わりはない。
「美咲、お前は良い子だね」
 このとき、父親は初めて美咲の頭を優しく撫でた。生まれて初めて撫でられた美咲は、胸の内に微かな熱を感じ、もっとこの感覚を得たいという感情が芽生えたことに気付いた。
 そのとき、美咲は先日の調理実習の際に強く感じた「愛」を思い出した。もうほとんど傷跡も残っていない指が、震えるように脈打った。目の前の丸テーブルの上にはブレッドナイフがある。
 もっとお父さんを愛したら、きっとまた撫でてくれるはず。
 そう考えた美咲はブレッドナイフを手に取ると、ソファに腰を下ろしている父親の胸元に飛び込んだ。嬉しい時や優しくされた時に温かくなる、一番愛を感じる場所である胸の中央に刃先を突き立て、そのまま推進力と体重を利用して奥まで押し込んだ。父親の体がソファに沈み込み、美咲も共に倒れた。
 甘い香りの漂う部屋に父親の呻き声が響き、ソファにゆっくりと熱い血潮が広がっていく。血液は愛情の証のはずだった。刃渡り二十一センチのブレッドナイフは三分の一ほどが体の中に吸い込まれている。父親が最期の力を振り絞って美咲を振りほどき、包丁を抜くと、胸から大量の血が溢れ出た。カラン、と包丁が床に捨てられる。
「み……さ……」
 立ち上がろうとしてソファの背もたれに置いた右腕は突如力を失い、だらんと座面に崩れ落ちると、それきり動くことはなかった。
「お父さん、どうしたの」
 美咲は父親の体を揺さぶる。胸元から絶え間なく流れる血が父親の白いシャツを侵食していき、もはや胸より下には元の色はほとんど見えない。段々と甘い部屋の香りが鉄の臭いに負け始めていた。
「お父さん、愛してるよ」
 もう一度撫でてくれると思っていたその腕はピクリとも動かない。美咲は仕方なく父親の腕を持ち上げて自分の頭に置いてみるが、再び胸が温まることはなく、父親の腕は枝毛だらけの髪を巻き込み千切りながら落ちていった。
 美咲は父親の右隣に座り、その右腕を左後方から前に持ってきて抱き締めた。次第に冷たくなっていくその腕を、外が暗くなり、そして夜が明けるまで抱き締めたまま美咲は眠った。

第二章

 当時わずか八歳の御戸神美咲が実の父親である御戸神優一を殺害した事件は、彼女が洗脳的な教育を受けていた点も含めて世間を大いに騒がせた。マスコミやメディアによる報道、議論が激化し、翌年には刑法や児童虐待防止法が一部改正されるなど、社会に大きな影響を与えたのである。
 美咲は児童相談所に保護されたのち家庭裁判所へ送致され、観護措置の判断が下されると、少年鑑別所に一時収容。最終的に児童自立支援施設へと送致されることになった。ここに至るまでに、美咲が父親を殺害してから約四ヶ月もの月日が流れていた。




第二章 悲哀




 美咲の児童自立支援施設での生活が始まって五ヶ月が経過し、美咲は四年生となった。施設内の寮で暮らし、同じ施設内にある教室で授業を受けるという、ごく一般的な同年代の子供の生活とほとんど変わらないものである。施設には家庭的な問題を抱える子供や素行不良の子供が計五十人ほど収容されていた。
「おはよう、ゴミサキちゃん」
 寮から教室まで向かう途中、美咲と同じ小学四年生の男子達が、美咲にすれ違いざま声をかける。美咲の反応がないことも男子達は織り込み済みで、彼らは返答を待つことなく笑いながら教室に入っていった。美咲も後を追うように、無言のまま教室に入って自分の席に着く。賑やかだった教室がより一層賑やかになった。美咲はそんな喧騒に耳も貸さず、静かに鞄から児童文学の本を取り出して読み始めた。
 数分後、ある女子が入ってくるとそれまでいくつかのグループで騒がしく話していた子供達がそちらを向いて口々に挨拶を始めた。
「おはよう美沙希(みさき)ちゃん!」
 声をかけられた少女、美沙希は朗らかな笑顔でおはようとクラスメイトに返した。
 この小学四年生のクラスには現在十五人の児童が在籍しており、その中に「みさき」は二人いた。御戸神美咲と上郷(かみさと)美沙希である。昨年美咲が父親を殺害し入寮するより以前から美沙希は入寮していて、その快活な性格と可愛らしい外見から児童達の人気者であり施設の人間達にも気に入られていた。そこにやってきたのが殺人を犯し常に陰鬱とした表情で口数も少ない美咲で、彼女が煙たがられるのは火を見るよりも明らかだった。
 「ごとがみみさき」だから苗字の最初の文字である「ご」を名前の頭に付けて「ゴミサキ」。これがこの施設の小学四年生クラス内での美咲の渾名だ。児童達は教員や施設の人間の前では口には出さないものの、いつしかこの呼び方が共通了解のようになっていた。
「はい、みんな静かにして。朝の会を始めるよ」
 児童達の声に負けじと声を張り、手を叩きながら教室に入ってきたのは、このクラスの担任である菖蒲(あやめ)(あかね)だ。ぞろぞろと会話を中断した児童が椅子に座り、美咲の一日が始まった。

 美咲が施設にやってきてしばらくの間は、ほとんどの児童が彼女を恐怖し相手に出来なかった。気に入らないことはあっても直接彼女に申し出ることはなかったのである。彼女の犯した罪が殺人であり、児童達は彼女の怒りを買って殺されることがあるのではないかと考えていたからだ。しかし、施設の児童の一人が彼女にぶつかってしまったとき、美咲が報復どころか口を開くこともなく歩き去ったのを見て、児童達は「彼女は脅威たりえない」と気付き、現状に繋がっている。
 美咲は大して気にも留めていない。かつて得たはずの「胸が温かくなる感覚」は、もう彼女の中には残っていなかった。
 いじめられる美咲といじめる児童達の構図は、皮肉にも施設内の児童達の精神を安定させていた。誰もが自分よりカーストが下の人間となった美咲を馬鹿にすることで自尊心を保ち、過去に問題行動を起こした児童や親の虐待を受けた児童が「美咲をいじめる」以外の問題行動をほとんど起こさなくなったのである。これは職員達から見れば突然多くの児童の問題行動がなくなったということであり、皆不審に思っていた。
 そんな中で美咲自身の問題行動として見られたのは、カッターナイフで手首を切りつける、所謂リストカットであった。人が自傷行為をする理由には、例えば精神的問題を肉体的問題に置き換えることによる不快感情の軽減であったり、自己評価の低い子供の自己懲罰であったり、何かの八つ当たりの対象として自分自身を選んだものであったりと様々なものがあるのだが、美咲の場合は、痛覚を愛ではなく痛みであると自覚するための行動であった。
「これは『痛い』だよ。愛じゃないんだよ」
 施設内の女子トイレの個室で、スカートをたくし上げず下着も脱がないまま蓋を閉めた便座に座る美咲は、左手首をカッターナイフで切りつけて自分に言い聞かせていた。傷口からは美しい紅色の血液が流れ、手首の左右を伝って美咲の膝にこぼれ落ちる。天使の羽のように純白のワンピースにも数滴の血が滴り落ち、水玉模様を作り出していく。
「美咲ちゃん、どこにいるの?」
 担任である茜の声が廊下から響いてくる。美咲は煩わしさに顔をしかめながら、扉を開けて個室から出た。
「先生、私、いるよ」
 美咲は傷だらけの手首を隠しもせず、トイレの床に血を落としながら歩く。入口のドアを開けると廊下に茜が立っていて、「見つけた」と、美咲に微笑んだ。茜の後ろの窓から西日が差し込んできて、美咲は目を細めた。
「美咲ちゃんは、どうして腕に傷を付けるの?」
 痛々しいリストカットの跡を見て一瞬動揺したが、茜は優しく問いかける。自傷行為をする児童にやめなさいと強く当たっても逆効果だ。大きな声をあげたり叱ろうとしたりしないように心を沈めながら、ポケットティッシュを取り出して美咲の手首を拭き、絆創膏を貼って包帯を巻く。
「愛じゃないって言われたから」
 美咲は小さく呟く。声量のなさは後ろめたさからではなく、単純に声を出すことに慣れていないからである。
 茜は担任になることに決まった一ヶ月前から美咲を含む子供達の情報を収集し、時間を見つけては観察していた。だから、美咲が痛みのことを愛と誤認させられていたことも、美咲が手首を切る理由も知っている。しかし、本人と話をすることが重要だった。
 茜は美咲と目線を合わせるために屈み込む。
「美咲ちゃんが今まで愛情を感じた時って、どんな時だった?」
 美咲は俯いて少し考える。
「うーんとね、お父さんにたたかれたときとか、お父さんにけられたときとか、あと……」
 茜は美咲の表情が微かに変化したのを見逃さなかった。
「初めてお父さんに頭をなでられたとき」
 美咲は父を殺害する直前の、生まれて初めて優しく撫でられた瞬間を思い出していた。
 本来このような子に殺害当時の状況を思い出させるのはパニック等を招いてしまう恐れがあるため、避けるべきである。しかし、美咲が初めて父親に撫でられたのが殺害直前であることを知らない茜は、そのまま彼女に当時の状況を回想させる質問を投げかけてしまった。
「叩かれたり蹴られたりした時の愛情と、撫でられた時の愛情の感じ方に、何か違いはなかったかな?」
 美咲はまた少し考えるように俯く。上靴の爪先の赤を見つめているようだった。数秒すると顔を上げた。
「叩かれたりしたときは、そこがじーんってなるけど、撫でられたときは、胸がぽかぽか……して……」
 話しているうちに徐々に美咲の目線は下がっていき、終盤では完全に沈んでいた。もはやその目には、茜は映っていない。
 胸というワードで、美咲の中には自らの胸が熱を帯びた瞬間と、父親の胸にブレッドナイフがずぶずぶと沈み込む光景が浮かんでしまったのだ。大好きだったはずの父親を殺してしまった記憶がフラッシュバックする。
 糸がプツンと切れたように、美咲が泣き叫び始めた。
「美咲ちゃん⁉ どうしたの⁉ 美咲ちゃん!」
 目を見開き、突如胸を押さえて錯乱した美咲の肩を揺り動かしながら、茜は必死に呼びかける。茜は美咲が手を当てている胸と美咲の父親の胸部に残っていた傷痕を重ね合わせ、自らの悪手を察した。
 大声を聞いた他の職員や児童達が教室から顔を出し、こちらを訝しげに見ていた。
 殺害当時の美咲は痛みを愛だと信じて父親に痛みを与えたので、本人の中では父親へ愛を伝えたつもりだった。しかし現在は、痛みが愛ではないことを知ってしまっており、父親へ与えたはずの「愛」がそのまま彼の死に繋がり、自らの手で帰らぬ姿にした事実を知ってしまっていた。
「ごめんね、美咲ちゃん、ごめんね」
 咆哮するように泣き喚く美咲を強く抱き締めて、茜は必死に謝りながらその背中をさすった。美咲の涙が茜のワイシャツの肩を濡らしていく。しばらくそうしていると、美咲は落ち着いて静かになった。
「ごめんなさい、先生、大丈夫だよ、だからおこらないで」
 先ほどまでの叫びが嘘のように、その声はか細い。茜は美咲の胸の痛みが自分にも伝染したように錯覚した。涙を堪えながら、美咲の頬に手を当て、ゆっくりと沿わせて後頭部に持ってくると、優しく撫でた。
「先生は怒らないよ、大丈夫だよ」
 このとき、自らの胸がかつて味わったものと同じ熱を再び取り戻したことを、美咲は感じた。が、美咲から茜を抱き締め返すことはなく、だらんと手を下ろして茜に体を預けていた。
「どうして先生が泣いているの?」
 茜は上手く返事をすることができず、なんでもないよ、と繰り返しながらしばらく美咲を抱き締め、その頭を撫でていた。

 美咲は熱心に勉強をする子だった。中でも国語には特に熱心で、テストはいつも高得点を獲得していた。そのような点でも他の子供達とは乖離していて、それがまた疎まれる原因となっていることに美咲は気付いていない。
 自分の中で確立していたはずの「愛」を失った今、他人との接し方が昔以上にわからなくなっており、無意識のうちに創作物や勉強に逃げ込むようにして現実を離れようとしていた。
 だが、先日茜に抱きしめられてからは違った。
 以前よりは自分から茜に話しかけるようになり、クラスメイトの皮肉染みた挨拶にも時折返事をするようになったのだ。いじめそのものには意思を示すこともなく、まるでそれらを平凡な挨拶であったかのように受け止めて返すようになり、周囲の児童は彼女の変化を訝しく思っていた。また、リストカットは見られなくなっていた。
 翌日から夏季休業に入る、一般の学校で言う終業式の日の朝、美咲がいつものように自分の席に着いて児童文学を読んでいたら、もう一人の「みさき」こと上郷美沙希が彼女に声をかけた。
「御戸神美咲ちゃん、おはよう」
「おはよう」
 美咲が本を机に寝かせて相手の顔を見てそう返すと、美沙希は「何の本を読んでいるの?」と尋ねた。
「お父さんがくれた本」
 美咲はところどころ破れた表紙を見せる。『銀の馬車』。長年自分を嫌っていると思っていた親の愛情に気付く、隠れた名作童話だ。美咲の父親が昔から持っていた本で、美咲が小学校に上がる頃に興味を持ち、父親から貰ったのだ。後にも先にもこの本以外に父親から美咲へのプレゼントはなく、美咲はずっと大事にしていた。
「大切なものなんだね」
 美沙希は他の児童に向けるものと同じ笑顔を美咲に向ける。その笑顔に、美咲は小学三年生の時によく話しかけてくれていた千寿真理亜の笑顔を重ね、胸に微かな熱を感じた。
 突如美咲は立ち上がり、美沙希に抱きついた。
 周囲の児童達は驚き、さまざまな声を発した。それはどの言葉も美咲を非難するものであるが、美咲の耳には届かない。先日茜から受けた抱擁の際に得た感情を確かめるために、美沙希が抱き返してくるのを待っていた。しかし。
「いきなり何するの!」
 美沙希は叫び、美咲を突き飛ばした。美咲はその勢いで椅子に座り込み、椅子が少し傾いてその向こうに立っていた女子の背中にぶつかり、倒れる前に止まった。何が起こっているのかわからないという顔で美咲が見上げると、嫌悪の目でこちらを見つめる美沙希とその取り巻きのような女子達の憤りが強襲してきた。
「突然抱きつくとか信じられない!」
 これを契機に、次々と美咲への罵詈雑言が教室内に飛び交う。ほとんどの児童にとっては美咲が美沙希に抱きついたことなどどうでもよく、ただ美咲を叩く機会を得たことを喜んでいるようだった。それに加え、クラスの人気者である美沙希の味方をしなければならない、クラスの忌子である美咲の味方をしてはならないという同調圧力も働いている。
 狭い教室で孤立した美咲は、微かに拒絶の痛みを味わった。
 以前までの美咲は、父親の洗脳で培われた感覚を真実によって壊されたことで、自分も含めて人間の感情というものに一層疎くなっていた。自分は愛されていると思っていたのに、実はそうではなかったのだと告げられたからだ。実際には、美咲の父親は傷つけられて育った自分の思い込みを守るために美咲を傷つけることを愛情表現としていたため、美咲が父親から愛されていたこと自体は事実なのだが、その本意を美咲の父親以外の人間が理解することは永遠にないだろう。
 美咲は生きる上での支えを失っていた。虐待を受けて育った子供は、その多くが自分の親に対して憎しみを覚えることができないとされている。虐待されるのは自分に非があるからで親は悪くないんだ、と思い込む傾向にあり、美咲も同様だった。
 美咲の父親の行為は絶対に許されるものではないが、それでも美咲の中で彼の存在は大黒柱を担っていた。それを自らの手で破壊してしまい、更には真実という爆弾で信じていたものを土台から吹き飛ばされ、美咲は更地にされた家のようなものだった。
 だが、茜に抱きしめられたあの日から美咲の中では何かが変わっていた。自分の気持ちに少しだけ気付くことができるようになった。他人からの好意のようなものを欲するようになり、言葉を返す程度にはクラスメイトに接し始めたのだが、他人の気持ちには鈍感なままだったのでそれらの行動は空回りし続けていた。
「何をしているの!」
 美咲を取り囲んで責め立てる子供達に、廊下からの怒号が降りかかった。担任の茜がやってきたのだ。
 子供達は巣の中で餌をねだる幼い小鳥達のように口々に「突然抱きついた美咲が悪い」といった文言を茜に告げるのだが、茜はそれだけを信じるわけにはいかなかった。
「美咲ちゃん、本当なの?」
 美咲の元にしゃがみ込み、茜が問うと、美咲はこくりと頷いた。ほらね、言った通りでしょ、と周囲から激しい非難が湧き上がるが、茜は「みんなは静かにして」と一喝し、美咲に語りかける。
「人に突然抱きついたらびっくりするから、気を付けないといけないよ」
 クラスメイトからの拒絶よりも大きな痛みが、美咲の胸元で脈打った。
「……ごめんなさい」
「それは私じゃなくて、美沙希ちゃんに言わないとね」
 茜は美沙希を近くに呼び寄せ、二人の「みさき」の背中に手を置く。
「ごめんなさい」
 美咲の、あまり心がこもっているとは言えない謝罪の言葉に一瞬むっとした美沙希だが、美咲が心のこもった言葉を吐くことができない子であることを知っていたし、優しい人間を演じるためにも、別にいいよ、と許しを与えた。
「みんな、びっくりさせてごめんね。私は大丈夫だから気にしないでね」
 そして美沙希は周囲を見回しながら、クラスメイト達にも怒る必要がないことを伝えた。自分が教室内の空気を支配していることを知っているからだ。今ここで自分がそう言うことで、教員が横入りしてきたこの場を収めることができると分かっていた。
「美沙希ちゃんも、許してあげられてえらいね」
 茜は美沙希のそのカリスマ性を純粋に尊敬した。そして同時に、クラス全員が彼女の一言で挙動を変える独裁にも似た様子に恐怖すら覚えた。
「美咲ちゃんが突然抱きついたことはよくないことかもしれないけど、だからといってみんなが寄ってたかって一人を追い詰めてはいけません。数の暴力で一方的に押さえつけるのではなく、ちゃんと話し合って解決しなきゃいけないんだよ」
 子供達に、偉そうに多数による攻撃の悪辣さを説きつつも、その対応は正しかったのかと自問自答しながら茜は教壇に立った。十年にも及ぶ教員生活は、いつも自分の行動の是非を自らに問い質してばかりだ。
 クラス全体で美咲を虐めているという構図を諫めたことは絶対に正しいと信じているが、美咲に謝らせ、美沙希に許させる空気を作るという、半ば強引にも見える仲直りのさせ方については、もっといいやり方があったのかもしれないと心に棘を残していた。

 翌日から夏季休業に入り、授業は約一ヶ月間休みとなった。施設の約半分の児童は親元に帰る機会を得て、残りの約半分の児童は普段から住んでいる寮でそのまま過ごす。親のいない美咲は、夏季休業中も施設での生活を続けていた。
「美咲ちゃんはここに来て初めての夏休みだね」
 奉仕活動の一環として、施設に残った児童達とともに草むしりをしながら、茜は一人で黙々と雑草を千切っている美咲に声をかけた。ほかの児童は美咲から距離を取って話しながら働いているため、美咲は孤立していた。
 親や児童自身の問題行動に原因があり、自宅に帰ることができず施設に残った児童達は、普段通りの規則正しい生活を送りつつ、授業の代わりにさまざまな奉仕活動を強いられる。施設の清掃や環境整備が主だった内容だ。夏季休業中であり、家に帰った児童との格差が大きいと問題になるので、通常の授業に比べればその時間は格段に短い。
「うん」
 美咲は泥で汚れた手で額の汗を拭う。そして小さく微笑んで茜の瞳を見つめた。
「先生は、わたしのこと、好き?」
 美咲が少しずつ変わり始めていることには茜も気付いていた。以前までの彼女だったらこんな質問をすることはないだろう。美咲は自分から話を膨らまそうとするような子ではなかった。
「もちろん、好きだよ。施設の子供達みんなね」
 教員として美咲一人を特別扱いするわけにはいかないため、茜は付け加える。他の児童と並列に扱われたことに対して美咲はどう思うだろうかと少し恐れたが、美咲の表情は晴れやかで、満足そうに微笑んで仕事を再開した。おそらく他人との差はどうでもよくて、ただ自分への好意が確認できればそれでよかったようだ。茜は安堵して胸を撫で下ろした。
「先生最近ゴ……美咲ばっかり構いすぎじゃね?」
 遠くで草を集めていた藤堂(とうどう)(たけし)が近付いてきて、笑いながら茜に話しかけてきた。武は毎朝美咲に蔑称で挨拶をして笑う男子の一人である。
茜としてはそんなことはないと言いたいところだが、確かに最近は美咲と話している時間や美咲への対応を考える時間が多いことに気付き、強く否定することはできなかった。それでも茜が施設の子供達みんなのことを同様に想っていることは事実だ。
 茜が上手い返答を考えていると、武の友達がわざと武に聞こえる程度に囁いた。
「せんせー、武も構ってほしいんだって」
 そんな彼の背中をバシバシと叩いて、恥ずかしそうに顔を赤くした武は大きな声で否定する。
「バカ! そんなんじゃねえし!」
 美咲はその様子をじっと見つめていたが、武の目にはもう美咲など映ってはいないようだった。
「もう、叩いちゃ駄目だよ。じゃあ今から武くんのところで草むしりしようかな」
 茜は腰を上げると、別に来なくていいと言い張る武の元へと歩いていく。美咲は離れていくその背中を目で追い、遠くで児童達の相手をする茜の姿を、羨望を含む眼差しで眺めていた。

 夏休みが始まってから十日ほどが過ぎた、ある猛暑の日。美咲のクラスメイトで施設に残っている羽柴(はしば)陽菜(ひな)が、お気に入りのヘアピンを紛失したと寮の部屋で騒いでいた。この施設の寮は同学年の同性が最大四人一部屋で共同生活を送る形になっているため、陽菜や美咲ら、四年生の女子七人は、二部屋に分かれてそれぞれ同室で生活している。現在はそのうち三人が親元へと帰っているため、実質のところ二人一部屋になっていた。
 ヘアピンを紛失したと騒ぐ陽菜は美咲と同室であり、陽菜は同室であること以外の根拠がないまま美咲が盗んだのではないかと疑っていて、茜にもそう強く訴えていた。茜は美咲が普段あまり物に頓着しない少女であることを知っているため、美咲が盗んだとは考えづらいと思い、陽菜にはもっとよく探すように伝えていた。
「美咲が盗んだんでしょ!」
 寮の部屋で、陽菜は美咲を突き飛ばした。二段ベッドの一段目に倒れ込んだ美咲は、二段目の影の下で小さな声を発した。
「私、知らない」
 美咲は正直に答えているのだが陽菜はそれを信用しておらず、「美咲しかいない」「美咲が盗んだ」の一点張りである。知らないこと、盗んでいないことの証明は難しい。所謂悪魔の証明というもので、美咲は為す術なく黙ってしまう。それが更に陽菜の怒りを加速させた。
「あんたが盗ってないならどうしてなくなるの?」
 あまりに理不尽な言い分であるため美咲は知らないとしか言いようがなく、それが陽菜を更に怒らせるという悪循環に陥ってしまっていた。
 何故か美咲を責め続けている陽菜が泣き出しそうになってきた頃、部屋の扉がノックされて茜が入ってきた。茜は陽菜の話を聞き、仕事を切りのいいところまで済ませて駆けつけたところだった。
「今から先生も一緒に探すから、一旦落ち着こうか」
 今にも大粒の涙が溢れそうな陽菜の背中をさすりながら、茜は優しく声をかける。責められているはずの美咲の方は傷付いた様子もなく、陽菜を宥める茜を見つめていた。
「陽菜ちゃんは今日起きてからどこに行った?」
 陽菜がだいぶ落ち着いてくると、茜はヘアピンを探す場所を特定するべく、陽菜の今日の動きを把握しようとした。陽菜は失くしたことに気付く前はトイレ以外どこにも行っていないと言うので、もう一度部屋からトイレまでの廊下を探してみるように促す。この部屋からトイレまでは、廊下を五部屋分直進して角を曲がり、三部屋進んだ先にある。
「先生と美咲ちゃんでもう一度部屋の中を探してみるね」
 陽菜は一度部屋の中を探しているはずなので、もし部屋のどこかにヘアピンが落ちているのであれば、陽菜以外の人間の目で再び探し直してみることで発見できるのではないかと考えたからだ。探し物というのは、往々にして、探していない時や他人が同じ場所を探した時にあっさり見つかったりするものである。
 陽菜がしぶしぶ部屋を出ていくと、茜は美咲に「疑ってはいないけど、本当に知らないんだよね?」と尋ねた。
「知らないよ」
 美咲は嘘を吐くほど器用ではない。茜もそのことを知っていた。
「じゃあ悪いけど、一緒に部屋を探してくれる?」
 美咲がうんと首を縦に振り、二人の捜索は始まった。部屋に二つある二段ベッドの上段は、片方は空いており、もう片方は現在帰宅している児童の寝床になっているため、どちらの二段目にもあるはずはないのだが、念のため二人で手分けして探してみる。やはりそこにはなく、二人で一段目も調べるが見つからなかった。次に、窓際の四つの机をそれぞれ探し始めた。茜は陽菜の机の下を、美咲は自分の机の下を探る。茜が机と床の間の狭い隙間に紙を差し込んで手前に引いてみると、奥から埃塗れのヘアピンが滑り出てきた。
「あっ! たぶんこれだよね?」
 茜は美咲に確認を取ろうと声をかけるが、聞かれた美咲は他人の物など意識して見ないので記憶になく、わからないとしか答えられなかった。

 ヘアピンを見つけた美咲と茜がトイレの方に向かっていると、廊下を直進した先、曲がってすぐの廊下の隅を調べている陽菜を発見した。
「陽菜ちゃん、ヘアピン見つかったよ!」
 茜が陽菜に少し埃が残ったままのヘアピンを見せて確認すると、陽菜は確かにこれだと喜んでトイレの水道に洗いに行った。
「見つかってよかったね」
「うん」
 話しかけた茜に対して美咲は相槌を打つのみで、会話はそれ以上続かない。しかし二人の間に気まずさはなく、この空間は夏の暑さとはまた異なる熱を帯びていた。建物の外から焦燥を感じさせるようなアブラゼミの鳴き声が響いてくる。
 数分後、ヘアピンをハンドタオルで拭きながらトイレから戻ってきた陽菜は、あろうことか美咲に対して礼ではなく疑いの言葉をかけた。
「もしかして、盗んだのに自分が見つけた振りなんかしてないよね?」
 陽菜はプライドが高く、自分が失くしたという事実をどうしても認めたくない上に、美咲への疑いを自分の間違いだったと覆したくもなかったのだ。
 予想だにしない台詞に茜は驚き、どう声をかければいいのか分からず思考を巡らせていた。
「私、盗ってないし、見つけたのは先生だよ」
 美咲は静かに真実を伝える。だが、動揺した様子を欠片も見せず淡々としている美咲に更に腹を立てた陽菜は、美咲だけでなく茜をも疑い始めた。
「先生って最近美咲をひいきしてるでしょ? 先生も美咲の味方してるんじゃないの」
「そんなことしない! 本当に私が見つけたんだよ、陽菜ちゃんの机の下で!」
 飛び火してあらぬ疑いをかけられ、焦ったように茜は声を荒らげた。この誤解はまずい。先日武にも美咲に構いすぎじゃないかと言われたことを思い出した。ここ数ヶ月茜が美咲を気にかけているのは、彼女が児童達の中でも特殊な状況下にあり、更にリストカットなどの問題行動やクラスでの孤立がよく見られるからである。もちろん他の児童のことも同じように気にかけていたつもりだったが、子供達にとってはそうは見えなかったらしい。そのことにようやく気付き、茜は配慮が行き届いていなかったことを悔やんだ。
「何騒いでんの?」
 不意に茜と美咲の背後から男児の声が飛んできて、茜は我に返った。声の主は、この先のトイレに向かっていた武だった。
「聞いてよ、美咲が私のヘアピン盗ったくせに認めないんだよ! 先生も美咲の味方してるの!」
 何も知らない武に自らの妄想を説明する陽菜。茜が否定しようと口を開きかけたが、武の予想外の擁護がそれを阻んだ。
「馬鹿じゃねーの? こいつ嘘吐ける奴じゃないし、盗むほど人の物に興味ないっしょ」
 まさか武が美咲側につくとは思っていなかった陽菜は、口をわなわなと震わせ戸惑いを隠せない。蝉時雨に埋もれてしまう程度の小さな音を立てて、陽菜の手からヘアピンが床に落下した。
「あ、あんた、美咲の味方するの?」
 陽菜は武を指差して半歩後ずさる。
「いや、別に美咲の味方ってわけじゃないけど、俺は……そう、真実の味方なんだよ!」
 武は美咲の味方でも、ましてや真実の味方をしている訳でもなく、正確には茜の味方をしていた。更に言えば、明らかに虚偽の説明をしていると感じた陽菜を庇ってあげたいとは思わなかったのである。
「真実の味方とか何それ、漫画の影響受けすぎじゃん、ダッサ!」
 武に向かって悪態をつく陽菜は今にも泣き出しそうなほど涙ぐんでいた。
「陽菜ちゃん、大丈夫……?」
 茜が陽菜の肩に手を伸ばそうとすると、陽菜はその手を強く払った。
「もういい! 私が悪かったって言えばいいんでしょ!」
 陽菜は居直り強盗のように叫び、身を翻してトイレの中に逃げ込んでしまった。茜が追いかけてトイレに入ると、個室の中から嗚咽が聞こえていた。
「陽菜ちゃん。本当に私が見つけたんだよ。先生ここで待ってるから、落ち着いたら出てきて、一緒に美咲ちゃんに謝ろうね」
 散々責め立てた茜からも優しい言葉をかけられ、陽菜の先ほどまでの強い敵対心はプライドと共にへし折れていた。
 扉のきしむ音を立てて美咲もトイレに入り、静かに茜の隣に立つ。壁一枚隔てた向こうですすり泣いている陽菜が落ち着くのを、茜と美咲は個室の外で三十分ほど待っていた。

 更に約一か月が経過して夏休みも終わり、親元に帰っていた児童達が再び施設に戻ってきて、九月一日に授業が再開した。ヘアピン事件以降、陽菜が美咲を敵視することはなくなった。それどころか美咲と良好な関係を築いている。泣きながら謝る陽菜を美咲がいとも簡単に許したからである。美咲は怒りという感情が欠落しており、陽菜を許さないという選択肢がそもそもなかったというのが現実だったが、陽菜にとってはあれだけ悪意をぶつけた自分を許してくれた聖人のようなものであったし、容易に許してくれた美咲を目の敵にできるほど美咲を嫌う理由はなかった。そのうえ美咲が思ったことを正直に言い、他人への悪意を持たない純粋な子であると共同生活を通して気付き、むしろ好感を持ち始めるに至ったのだ。
 外部から施設に戻ってきた児童達の中には、夏休みのうちに大逆転した陽菜と美咲の仲に驚く者も多かった。陽菜はその理由を詳しく語ろうとはしない。ただ、美咲は案外いい子だということだけ会話の随所に散りばめていた。
 夏休みのヘアピン事件以降、美咲へのいじめはぱったりと途絶えている。その理由には陽菜が仲良くなっていたことも含まれるのかもしれないが、多くの児童のストレスが夏休みを経て解消されていたことや、長期休暇を挟んだことで美咲をいじめの対象にする呪いとでも言うべき感情が児童達から霧散していたことが大部分を占めている。いじめとは些細なきっかけで始まり、些細なきっかけで消滅するものだった。
「おはよう、美咲」
 ひんやりとした夏の朝の日差しに目を覚まし、陽菜は向かいのベッドに寝転んでいる美咲に挨拶する。
「おはよう、陽菜ちゃん」
 まだ上手く覚醒しておらず朦朧とした意識のまま、美咲は挨拶を返す。
 美咲達の一日が、今日も始まろうとしていた。

幕間 慈愛

 クマゼミの鳴き声が降り続ける中、児童自立支援施設で美咲の担任を務める菖蒲茜は、美咲の父親の実家である御戸神神社の鳥居をくぐり抜けた。田舎の森の中にぽつんと建っている御戸神神社は、その本殿に至るまでに階段が五段しかなく、ほぼ低地に位置している。茜はハンカチで汗を拭いながら短い石畳の参道の端を進み、境内の奥にある社務所兼住宅のインターホンを押し込んだ。社務所の外壁は最近塗り替えたようで、古い建築様式と鮮明な壁の色がアンバランスに感じた。
玄関の網戸の向こうには高級そうな壺が妖しく光っている。しばらくすると、浅黄色の袴を履いた老夫が奥から現れた。彼がこの神社の神主にして、御戸神美咲の祖父である。加齢による顔の皺よりも一層深い皺を眉間に寄せ、今にも怒り出しそうな表情で茜を見下ろしている。網戸を開けて茜を玄関に招き入れるつもりはないようだった。仕方なく、その場で茜は深々と頭を下げる。
「お忙しい中お時間いただき申し訳ありません。先日お電話させていただきました、御戸神美咲ちゃんの担任をしております菖蒲茜と申します」
「あの殺人犯は引き取りませんよ」
 老夫が食い気味に吐き捨てた。茜がここを訪れた用件は、美咲が児童自立支援施設を卒業したときに、彼女の引き取り手になってもらえないか頼み込むことだった。既に一度電話で断られていたのだが、相談するためにこうして直接足を運んだ次第である。
 美咲を殺人犯と呼ぶ、その男の言い草に苛立ちを覚えるが、怒りを無理やり押し込めて、茜は礼儀正しくあろうと心がける。
「しかし美咲ちゃんの母親は行方が掴めず、彼女の血縁で頼れるのはもうこちらしかないんです」
 網戸に顔を擦り付けるほどに近付いて縋る茜を睨めつけて、男は腕を組む。
「勝手に家を飛び出したあの馬鹿など、とうに勘当しておりましたわ。その上、殺人犯を神聖な神社に迎えるなどあってはならんことですよ」
 そんな言い方はあんまりでしょうと怒りのままに叫びたい気持ちを抑え、茜は低姿勢で頼み込み続ける。
「そこを何とか……」
「無理です。人殺しなぞ、それも自分の父親を殺した娘だぞ」
 老夫は父親を殺したことを殊更に強調している。彼は、尊属殺人は通常の殺人よりも罪が重いという価値観を持ったまま生きているようだった。尊属殺人とは祖父母や両親などの血族を殺害することであり、かつては刑法によって通常の殺人罪よりも重い罰則を与えられていた。そのような尊属加重規定は一九七三年に違憲とされ、一九九五年には正式に刑法から削除されているのだが、二〇一七年現在でもなお彼の中には古い価値観がそのまま残されているらしい。
 また前科者が神職についてはならないという規則や、神社の敷地に入ってはならないという決まりなどはないはずだ。つまり彼は、単に美咲のことを受け入れたくない一心で御託を並べているだけに過ぎない。
「美咲ちゃんの気持ちも考えてあげてください。あの子はずっと一人で耐えてきたんですよ。……あなたの息子さんの虐待に」
 頑なに受け入れようとせず、更には美咲を罵るような男の言い草に、つい茜は強く言い返してしまう。だが、涼しい顔をする老夫の意見は依然として変わらない。
「その娘は確かに哀れな子だが、私は引き取れん」
 自分の孫に当たる子のことであり、更には実の息子の虐待を受けていた子であるというのに、終始他人行儀で時には美咲を殺人犯と罵りつつ、口先だけ美咲を哀れむような男の態度に怒りすら覚え、茜は深く思考する前に感情のまま吐露した。
「では、私が美咲ちゃんを引き取ります」
 老夫の口角がぴくりと動いた。対照的に、それを見逃さなかった茜の眉が揺れる。
「そうしてくださると助かります。では手続きはまた後ほど」
 ようやく終わったとでも言わんばかりに話を切り上げ、老夫は床をミシミシ鳴らしながら廊下の奥に消えていった。
 何なのあのじじいは! と怒りのままに叫び出したい衝動を抑え、茜は社務所を後にした。しかし、あのような者に美咲を任せる方が美咲にとって良くないだろうし、今回彼と言葉を交わすことができて良かったのだとポジティブに考えることにした。
 折角神社に来たのだから帰る前に拝んでおこうと思い、手水舎に寄って柄杓で水をすくい、右手、左手と水をかける。プリーツスカートのポケットからハンカチを取り出して両手を拭くと、本殿の前で拝礼の一連の動作を済ませ、再び鳥居をくぐった。
 施設の人達にはどう説明しようか。手続きはどうしようか。教員が自らの教え子の里親になるのは大丈夫なのだろうか。様々な不安が茜の脳内を駆け巡る。
 茜色の空に、ひぐらしの鳴き声が響き渡っていた。

最終章

 二〇二一年三月の義務教育終了と同時に児童自立支援施設を卒業した御戸神美咲は、施設での担任であった菖蒲茜と普通養子縁組を結んだことによって親子の関係となったため、現在は彼女の夫と共に三人暮らしをしている。
 児童自立支援施設では美咲の周囲で様々な問題が発生したものの、大事になることはなく収束し、施設を卒業するまでには美咲にも数人の友人ができた。入寮時はほとんど取っていなかった他者とのコミュニケーションも比較的取れるようになったことが報告されている。初期に頻発していた自傷行為などの問題行動は数ヶ月で見られなくなり、二年後には社会復帰は可能であると判断されていたが、復帰する家庭がなかったため義務教育終了後まで施設に残っていた。
 美咲の勉強の成績は施設内で上位に入るほどであり、施設卒業後は本人が高校進学を希望したため、施設出身の生徒も受け入れる一般の高等学校を受験し、無事合格した。
 そして、美咲が二〇一四年六月十五日に父親を殺害してから六年と十ヶ月が経過し、彼女は普通科の高等学校に通い始めていた。




最終章 真愛




「お……、行ってきます」
 菖蒲美咲は二人の養親に声をかけて、マンションの部屋の扉を静かに閉めた。養子縁組をして共同生活が始まってから約一ヵ月が経過したが、美咲はまだ新しい両親を「お父さん」「お母さん」と呼べずにいる。撫で肩で下がりかけた高校指定の鞄を右手で引き上げると、ファスナーに付けている手作りの御守りに付属した鈴がちりんと小さく鳴った。穏やかな春風に乗った桜吹雪が美咲の髪に触れ、冷たいコンクリートの廊下に落ちていく。履き慣れないローファーの先を度々床に擦りつけながら、廊下、階段を通り、マンションを出た。そこから徒歩五分で最寄りのバス停に到着する。
 美咲は高校までバス通学をしていた。国道をまっすぐ北へ進むバスで、菖蒲家のある町から隣町の端まで北上すると高校の最寄りのバス停が見えてくる。
 バスの車窓から通学路に面している巨大な工場跡地の錆びたフェンスを眺めながら、美咲は懐かしさを感じていた。美咲が通う高校はかつて彼女が住んでいた町にあり、茜とその夫と共に住んでいるマンションはこの町と隣接した町にある。家から高校まではバスを用いて四十分ほどかかるため、毎朝七時頃に家を出発している。
 定期券をタッチして高校の最寄りのバス停で降車すると、徒歩五分で校門にたどり着く。長い通学時間の約四分の三はバスに乗車しているため、車内で無事に座ることができれば肉体的疲労はほとんどない。
 同じ高校の生徒で賑わう校門前の道を一人静かに歩いていると、自転車に乗りながら会話する生徒達に追い抜かれた。景色みたいな生徒達の間を流れるように縫い歩き、美咲は昇降口で靴を脱いで教室へと向かう。高校に入学して一週間が経つが、美咲にはまだ友人ができていなかった。この高校は偏差値がさほど高くなく、地元の中学出身の生徒が多く在籍しているため、既に同じ中学出身の人間同士でグループができていた。対して美咲はクラスで唯一の児童自立支援施設出身者であり、更に美咲が内向的な性格であることから、友人を作るというハードルは下を潜れるほど高い位置にある。
 美咲は家を出て以来一言も口を開かないまま自分の席に着く。そして先週の図書室オリエンテーション終了後に早速高校の図書室で借りた小説を鞄から取り出し、続きを読み始めた。今日がここ一週間と異なる朝になるのは、この次の瞬間だった。
 美咲の机に勢いよく両手をつき、彼女に声をかける人物がいた。
「御戸神美咲ってあなた?」
 美咲を旧姓で呼んだこの女子生徒は、ブラウンの毛先にパーマをかけたショートヘアが印象的で、制服のリボンは付けずスカート丈を短くしており、その後ろに同じ着方をした女子生徒が二人立っている。彼女達も美咲と同じ一年生で、入学一週間で既に校則に違反する格好をして何度も注意を受けており、教員達に目を付けられている三人組だった。
「違う。今は菖蒲美咲」
 読みかけの本に栞を挟んで傍に寝かせ、美咲は淡々と姓の間違いを訂正する。周囲の生徒は、違反を繰り返す不良達に対しても素っ気ない美咲にヒヤヒヤしていたのだが、現実は彼らの憂慮する事態にはならなかった。
「ああ、ごめんね! 菖蒲美咲さん。私は二角(ふたかど)飛鳥(あすか)。こっちは新川未来と、春原七海。みんな一年生だよ。私達、美咲さんと友達になりたいんだ」
 飛鳥は美咲の姓を正しく呼び直し、可愛らしい女子高生を演じるように明るく自己紹介をする。後に紹介された二人の名前には一瞬聞き覚えがあるような気がしたが、美咲には思い出せなかった。
 こんな風に同級生に話しかけられるのは高校生活では初めてで、美咲は小学三年生の時に千寿真理亜が初めて話しかけてくれたことを重ねていた。
「二角さん、新川さん、春原さん、よろしくね」
 美咲は三人をそれぞれ苗字で呼ぶ。すると、未来が貼り付けたような笑顔で美咲に擦り寄った。
「私達も美咲って呼ぶし、三人とも名前でいいよ」
 笑顔の飛鳥と、未来に似た能面のような顔の七海も頷く。そして飛鳥は強引に美咲の手を取り、よろしくね、と握手した。
「美咲、今日の放課後一緒に帰ろうよ!」
 手を握ったまま、飛鳥が目を輝かせて言う。
「うん、いいよ」
 特に何も予定はないため、美咲も軽く承諾する。その時、教室の前方に付いているスピーカーから朝の会五分前を告げるチャイムが流れた。
「じゃあ、また後でね」
 飛鳥達は手を振って自分達の教室へと帰っていった。美咲は読書を再開したが、朝の会が始まるまでの五分間で読み進めることができたページは、いつも同じ時間で読み進めているページ数には及ばなかった。

 授業はまだ初めての科目も多く、イントロダクションで終わるものや中学校の復習ばかりである。施設からの退所後も現役教員である茜に勉強を教わっていた美咲にとっては、今日の授業は特段聞かなくても差し支えなかった。集中力があまり長く持たず、黒板や教科書から目が滑ってしまうため、諦めて窓から隣の保育園の運動場を眺めていたらいつのまにか時間が過ぎていく。小さな子供達のはしゃぐ声が美咲の脳の奥で反響していた。
 放課後になり、世界の終わりのように赤く染まった教室で帰る準備をしていた美咲の元に、朝の三人がやってきた。残っていた他の生徒が逃げるように教室を出ていく。教員に楯突くような違反者達とは関わり合いになりたくないらしい。
「みーさきちゃん、かーえーろーっ」
 美咲以外の生徒には目もくれず、小学生の誘い文句のように飛鳥が美咲を呼ぶ。三人は教室前方の入り口を塞ぐように立っていた。
「うん」
 美咲はそれだけ返事して、バッグを肩にかける。御守りの鈴が小さく揺れた。

「私も美咲と同じで、児童自立支援施設に入ってた時期があったんだよね」
 沈みゆく夕日によって赤橙色に照らされる国道沿いの歩道を歩きながら、飛鳥は美咲に語りかけた。未来と七海は黙って少し後ろをついていく。その表情は、前を歩く美咲からは見えない。
「私や一部の施設の子供にとってはさ、美咲ってヒーローみたいなもんなんだよ」
 行き交う車のエンジン音にも負けない飛鳥の冴え返る声は、美咲には理解できない言葉を紡いだ。
「どうして?」
 美咲にはそのように褒めたたえられるような心当たりが全くなかった。飛鳥はそんな美咲の耳元に顔を近付け、通行人に聞こえないよう小声で囁く。
「親を殺したからだよ」
 車のクラクションでゴミを漁るカラスが飛び立つ。
美咲は全身が凍えるような寒気を感じた。耳から入ってきた氷が瞬時にして頭蓋内を駆け巡り、頭皮に無数の針が突き刺さったようだった。美咲は長い年月や茜らのケアによって、六年前のようにパニックを起こしてしまうことがない程度には割り切りかけていたものの、その感触は未だに手に残っており、殺害の瞬間を思い出すと硬直や吐き気などの症状が現れる場合も頻繁にある。心的外傷は簡単に癒えることはないのである。美咲は悴むように震える口から、無理やり言葉を絞り出す。
「……どうして、それがヒーローになるの?」
 飛鳥は数歩早く歩いて美咲の正面に立ち塞がった。国道に寝そべる飛鳥の影を車が一瞬立ち上げては通り過ぎていく。
「だって、親って私達子供を縛り付ける存在でしょ? 酷い虐待をする親もいる。美咲はその支配を解いて、自由を勝ち取った子供なんだよ」
 夕焼けに染まる飛鳥の左半身と、対照的に影を濃くする右半身との明暗の差が、美咲には聖書の悪魔のように見えた。
「飛鳥は、親が嫌いなの?」
 美咲は尋ねる。すると飛鳥は当然だとでも言わんばかりに目を細めた。
「嫌いだよ。だから虐待されてるって嘘吐いてやったんだ」
 飛鳥は再び美咲に顔を近付け、耳打ちする。
「美咲のおかげで法律が変わって、子供の証言でも一旦親と子を引き離すことができるようになったんだよ。だから私は虐待されてるって児相に嘘教えてやったの。そしたら調査のために職員が来て近所は大騒ぎ。近所での親の立場なんてなくなってさ、面白かったよ」
 美咲から離れて、みんなあんたのおかげ、だからありがとね、と飛鳥は嘲笑った。
美咲の事件の影響で児童虐待防止法が一部改められることとなり、親の体罰は明確に禁止とされ、子供や学校、近隣住民からの些細な申告でも虐待の疑いがあると見なして、慎重に調査が行われるようになったのである。彼女は自身で述べた通り、三年前に児童相談所へ「両親から虐待を受けている」と虚偽の申告をし、調査のために一時保護を受けていた。調査の結果二週間後には虚偽であることが発覚したものの、飛鳥の両親が虐待をしていたという間違った噂は既に広まっており、引っ越しを余儀なくされた。そうして少し離れたこの町に越してきたという訳だが、飛鳥のこの行いは健全性を欠いており指導が必要であると判断され、数ヶ月の間、引っ越し前の地区を管轄している児童自立支援施設へと入寮していた。
「じゃあ、飛鳥の親は何も悪いことをしてないの?」
 その問いに、飛鳥は自分の年齢でも答えるようにあっさりと告げた。
「そうだよ? 門限とか友達付き合いへの介入がちょっとウザいだけの、善良な両親」
 美咲の血の繋がった父親こそ虐待を繰り返す非道な親であったが、新しい両親は二人とも美咲によくしてくれており、美咲は親の優しさというものを知っていた。更に美咲の場合、元々父親を嫌って殺害したわけではない。飛鳥の価値観とは全く異なっており、その思想は理解ができなかった。
「そんなの可哀想だよ」
 美咲からの非難を受けると、飛鳥の目は輝きを失い、闇を纏った。夕日は沈みかけ、町は飛鳥の瞳と同じように帳が下り始めていた。
「へえ、あんたも私を否定するんだ。わかってくれると思ったのに」
 飛鳥は失望したように吐き捨ててくるりと正面に向き直ると、前に進み始めた。美咲は呆然と立ち尽くしていたが、数秒後に後ろから未来と七海に「進みなよ」と唆され、押されるがまま飛鳥の後を追った。
 通学途中のバス停を三つほど過ぎた辺りで、朝もバスの車窓から見えた工場跡地が鎮座している。この工場跡地の国道沿いに、一人で歩く飛鳥、その数歩後ろに美咲、そして二人並びこそこそと会話する未来と七海という謎の集団が形成されていた。国道から少し細い人通りの少ない道へと曲がった先で、自分はどうしてここにいるのだろうと疑問に感じていた美咲に話しかけたのは、飛鳥でも、未来でも、七海でもなかった。
「あれ、もしかして美咲? てか後ろには未来と七海もいるじゃん。何、同窓会でもやってんの?」
 声をかけてきた作業服の男性の顔には全く見覚えがなく、美咲は首を傾げた。自分だけでなく、未来や七海まで知っているこの男性は何者だろうと考える。彼は同窓会、と言ったが、自分と未来と七海を同窓と表現したことも、美咲には分からなかった。
「美咲、私達のことも覚えてないし、颯太のことも覚えてないと思うよ」
 何も答えられない美咲の代わりに、未来が親しげに名前を呼び、彼に教えた。
「知らないで一緒にいたのかよ、ウケるね」
 颯太は笑ってポケットからスマートフォンを取り出す。
「覚えてないだろうけど、俺は小三の時同じクラスだった佐藤颯太。折角だし一緒に写真撮ってよ。美咲って俺らの世代じゃ結構有名人なんだぜ」
 颯太はスッと美咲との距離を詰め、スマートフォンの内カメラで撮影した。状況に着いていけない美咲の呆けたような顔が切り取られ、写真に収められる。その間も、美咲は彼の言葉を元に小学三年生の時のことを思い出そうと記憶を遡っていた。しかし当時のクラスメイトは、千寿真理亜以外に一人として思い出せない。颯太、未来、七海がクラスメイトだったことを知ってもなお当時の三人が浮かばない。
「じゃあ俺用事あるから、また会う機会があったらよろしく」
 颯太が手を振って去ろうとすると、未来と七海が颯太に手を振り返した。結局美咲は彼のことも、未来や七海のことも思い出せないままである。美咲は、自分が小学生の時本当に他人に興味がなかったんだな、と改めて感じた。
 数秒後、未来と七海のポケットから同時に通知音が鳴った。しかし二人がスマートフォンを確認しようとする動作は、飛鳥の催促によってキャンセルされる。
「ねぇ、早く行こうよ」
 美咲と同じく話に混ざれなかった飛鳥が、待ちわびたように足先でパタパタと地面を叩いている。話の中心にいたのに何も話せなかった美咲とは違い、飛鳥はそもそも彼らの話の登場人物ですらなく、退屈していたであろう。最も、未来と七海からは彼女達の過去の繋がりを既に聞いていたので、話そのものは理解できていたのだが。
「どこに行くつもりなの?」
 疑問に思いながらも律儀に付いていく美咲がようやく尋ねる。すると飛鳥は足を止めて「ここ」と工場跡地の門を指差した。
「私達の秘密の場所に行くんだよ」
 工場跡地は、言うまでもなく立ち入り禁止の場所である。門には南京錠がかかけられているのだが、そもそも南京錠を受ける輪が破損しているため、錠を開けることなく門を開くことが可能となっていた。美咲以外の三人が門を人一人通れる程度に開けると、飛鳥、七海、未来の順に一列になって中に入っていく。
「ここ、勝手に入ったらいけないところだよ」
 当然分かっている三人に「そんなことも知らないの?」とでも言っているように聞こえる、神経を逆撫でする美咲の発言を受け、未来が感情を爆発させて「んなことは知ってんだよ!」と叫び、美咲を門の内側に引き摺り込んだ。錆び付いた門の角に美咲の鞄の御守りが引っかかり、紐が千切れて地面に落ちた。
「人殺しの癖に今更いい子振って! あんたのせいで私達は……真理亜は……!」
「真理亜? 真理亜ちゃんがどうしたの?」
 涙目の未来が口にしたかつての友人の名前に美咲が反応すると、未来の前を歩いていた七海が歩きながら振り返り、睨み付ける。
「あんたはいいよね、何も知らなくて」
 美咲には、彼女達が言っていることが何一つ分からなかった。それもそのはずで、未来と七海が言っているのは美咲が小学校を去ってからの話なのだから、既にそこにいなかった美咲が知る術もないのである。そして七海の台詞は、これまでの美咲の苦しみを知らない未来と七海にも言えることだった。
「あんたが父親を殺してから、私達クラスメイトはトラウマ抱えたりしたんだよ。真理亜なんか、あんたが父親を殺したのは自分のせいかもしれないって塞ぎ込んで学校来れなくなって、来れるようになっても元気ないし、ショックで人が変わったみたいだった」
 先日まで同じ教室で生活していた美咲が父親を殺害し、送致されたという噂や、虐待を受けていたという報道を聞いたクラスメイトのうち数人は、強い心的外傷を受けた。特に、美咲と最も近かった真理亜、殺害前の調理実習で同じ班だった未来と七海、そしてクラスメイトの保護者や第三者からのバッシングを受け続けた学級担任はその影響が顕著だった。児童達はしばらく学校に通えなくなり、数週間後に通えるようになってもカウンセリングの毎日で、中でも真理亜は嘔吐や自傷行為が度々見られたという。学級担任は鬱になってしまって教師を辞め、何年も精神病棟に入院している。
 七海に真実を告げられ、自分のせいで真理亜や他の人が傷付いていたことを知った美咲は、痛んだ胸を左手で押さえ、制服をクシャクシャに握り締めた。美咲とて、他人を傷付けようとは、ましてや父親を殺そうとすら思ってもいなかった不幸な事件であったので、責められてもどうしようもなかった。
「ごめんなさい」
 美咲は何も言えず、ただ謝ることしかできない。だがその「とりあえず謝った」というような態度が、更に二人の怒りを加速させる。飛鳥はそれを楽しそうに鼻歌交じりで聞いていた。
 未来に引き摺られるがまま美咲は工場の奥に連れて行かれ、コンクリートの壁に背中を打ち付けられた。その勢いで、肺から空気が放出されたような呻きが、美咲から一瞬漏れた。美咲は背中を壁に当てたまま、ズリズリと座り込んだ。飛鳥がスマートフォンのライトを点灯して美咲を照らした。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 うわごとのように謝罪を吐き続ける美咲を囲むように三人が立つ。
 美咲の正面の飛鳥は、しゃがみ込むと美咲の頬を撫でた。
「ごめんね、友達になりたいって言うのは嘘。……いや、私は半分本当だったんだけどね、でも美咲は私を否定したからもう友達にはなれないや」
 そして未来と七海をそれぞれ見上げながら、美咲にとって残酷な言葉を爽やかに放った。
「この二人は美咲のこと恨んでるみたいだからさ、まあ付き合ってあげてよ」
 飛鳥は笑って立ち上がると、少し後ろの地面に転がっている座りやすい高さの廃材に腰を下ろした。廃材の傍に置いてあるバケツに足が当たり、カタンと音がする。飛鳥は自分が手を出すつもりはないが、他の三人のやり取りを見て楽しもうという魂胆だった。
 工場の天窓から覗く月が流れる雲に隠される。捨てられたお菓子のゴミや酒の缶、煙草の吸殻で汚らしく荒らされた地面が闇に覆い隠され、飛鳥の持つ光に照らされたごく一部だけが飛鳥の目に映っているが、照らされる側の美咲はただただ眩しいだけで何も見えない。
「私達はあんたのせいで酷い目にあったのに、あんたは私達のことも覚えてなくて、呑気に高校通ってきてさあ、イライラするの、分かる?」
 未来が大きな音を立てて鞄を下ろし、美咲に怒鳴りつける。美咲は一瞬大きく震えて体を縮こめた。
「ごめんなさい……」
「謝ればいいと思ってんの?」
 謝罪しかしない美咲に更に腹を立て、未来がその頭を蹴り付けた。勢いで美咲は倒れ込み、冷たい地面に頬と側頭部をぶつける。そんな美咲の髪を七海が引っ張り上げ、頬に平手打ちして地面に叩きつけた。
「どうせ感情のない人形みたいなあんたには分からないんだろうけど、私達はこうでもしないと気が済まないの」
 七海は再び髪を掴んで平手打ちする。何度も。何度も。何度も。平手打ちを繰り返した。
 次第に美咲は、これは愛なんじゃないかと逃避し始めた。この痛みは愛情だ。幼い頃のように、痛みを痛みだと感じないようになればこの苦しみから逃れられる。地面に散らばる煙草の吸殻を見つめながら、かつての自宅に転がっていたそれに重ねようと試みる。
 だが、美咲は真の愛情を受けた時の感覚を知っていて、そして痛みは痛み以外の何物でもないことを知ってしまっており、もう昔のようには戻れなかった。それは幸せなことであり、今この状況においては不幸なことでもあった。
 痛い。
 美咲は叩かれるたびに思った。
 痛い。
 美咲は頬以外にも痛みを感じた。
 痛い。
 美咲は痛みを痛みだときちんと感じられていることを自覚して、笑った。

 美咲が痛めつけられ始めて数分が経過した頃、月明かりの差し込んだ工場跡地に響く殴打音と息切れと青息吐息の他に、何者かの声が挟み込まれた。複数人で会話しているようで、それらがこちらに近付いていることに気付いた飛鳥が二人に小さく知らせた。
「しっ、誰か来る」
 数秒後、ライトを消して息を潜めていた飛鳥達を、暗がりに蠢く集団が見つけたようだった。その集団が持つ白い小さな光に照らされ、三人と一人は眩しさに目を細めた。
「あれ、誰かいるし。ここ誰も来ないんじゃなかったの」
 女性の間の抜けた大きな声が広い工場に響き渡る。
「いつもはいないんだけどな」
 次いで男性の声が反響し、それらは不思議な輪唱のように飛鳥達の耳に襲い来る。
 その顔を視認できる程度に彼らが近付くと、やって来た集団は柄の悪そうな若い男三人と女二人であることが分かり、飛鳥達は恐れをなした。美咲は降りかかる暴力が一旦止まったことに安堵し、痛みで強張っていた体の緊張を解いた。
「なんだ、高校生じゃん。しかも一人いじめられてるよ、カワイソー」
 今しがた聞こえた声の主とは別の女性が、痛めつけられて地に伏している美咲を見つけて口元に手を添える。その女性の憐憫の目を美咲は見たことがあった気がした。
「弱い者いじめはよくないな。正義の味方がちょっと懲らしめてやるか」
 憐れむ女性の隣に立つガタイのいい男性が指の関節をポキポキと鳴らし始めると、つい先程まで抵抗しない美咲を延々と叩き続けていた七海の口からヒッという恐怖が漏れ出た。彼らに最も近かったはずの飛鳥もいつの間にか未来や七海の元まで後退している。
 男性がゆっくりとこちらに迫り来て、恐れ慄き後退する三人は遂に壁に退路を断たれた。「あんまりやりすぎないようにねー」と呑気そうに飛鳥が座っていた廃材に腰かけて、女性の一人が笑っている。
 直後、まずは男から見て左端にいた未来が右ストレートに腹を撃ち抜かれ、呻きながらその場にうずくまった。次に男に目を向けられた飛鳥は、未来と同じように腹を殴られるのを阻止しようと両腕で腹部を隠し、腰を低く下げる。すると男は右の手のひらを広げて、飛鳥の左頬を力強く叩いた。声にならないような叫びを上げた飛鳥が、その勢いでうずくまっている未来の上に覆い被さって共に倒れた。男は飛鳥を叩いて左下にある右手を強く振り戻して、怯える七海の右頬を握り締めた右手の甲で殴る。二人とは反対方向に倒れ込んだ七海を見て「これに懲りたら弱い者いじめなんてやめろよな」と嘲笑しながら男は吐き捨て、廃材に仲良く座る仲間の元へと戻っていった。
「うへえ、痛そ。でも自分達もその子に同じようなことやってるから仕方ないよね」
「因果応報ってやつだよな」
「おいおい、難しい言葉使いたがんなよ馬鹿のくせに」
 男の仲間達は笑いながら煙草を取り出し、ライターを回しながら口に咥えて火をつけた。端に座った男は自分の煙草に火をつけた後、傍に置いてあるバケツに入っていた長く太い蝋燭にも炎を灯す。悶絶している三人の泣き声をバックグラウンドミュージックのようにして、五人が楽しそうに談笑し始めた。青白い月光の下、五つの微かな光とバケツから上昇する温かな熱が淡く広がり、舞い上がる煙草の煙に乱反射する。キャンプファイヤーのような哀愁の漂う空間で、低俗で愚かしい会話が繰り広げられている。地に伏した女子高生には、その会話を理解する余裕などなかった。

 美咲は、男によって暴行を受けた飛鳥達に対して可哀想だと感じた。多くの人間は自分をいじめた相手や不快にさせた相手が酷い目に遭うとスカッとするのだろうが、美咲は自分を痛めつけたはずの彼女達を憐み、そして不憫に思っていた。
「キリスト教では、『汝の隣人を愛せよ』って言葉があるんだよ」
 言葉が天から降りてきたように、茜の優しい声が美咲の耳元で囁く。まだ美咲が施設にいた頃の会話だった。
「自分を愛するように他人を愛しなさいという教えなんだけどね。そのためにはまず、自分の愛し方を知らなければいけないと思うんだ」
 煙草の煙のように淡い記憶で、茜が美咲に笑いかける。月光が記憶の中の木漏れ日のように、仄かに美咲を照り付けていた。
「だから美咲ちゃんには、まず自分のことを愛してほしい。そして他の人達を愛してあげられるようになると、先生は嬉しいな」
 茜の温かい手のひらが美咲の頭を優しく撫でる。当時の温もりを思い出して、美咲は自らの胸を押さえた。

 男達の煙草が燃え尽きて五本の煙草がそれぞれ足で踏み消され、彼らが次の煙草を咥えようとしたところで、パトカーのサイレンが聞こえた気がしてその手を止めた。工場がしんと静まり返る。飛鳥達は泣き止んでおり、体育座りで壁に背を当て、ただひたすら息を殺して恐怖していた。いくつものサイレンの音はだんだんと近付いてきて、大音量で動きを止めた。まるで、工場のすぐ傍で停車したように。
「え? 警察?」
「まさかこっちに来るわけじゃないよな……?」
 男達が狼狽していると複数の足音が工場に響き渡り、数秒後には多方面から眩い光が彼らを照らした。
「ここで複数の男女が女子高生に暴行を加えていると通報があったぞ!」
 男性警官の一人が叫ぶ。隅で震える飛鳥達と倒れている美咲を発見すると無線で連絡を取り、幾ばくもせずして四人の女性警官が美咲達の元に駆け付け、抱きかかえたり手を引いたりした。彼女らは美咲達に優しい言葉をかけながらパトカーに連れていく。背後で悶着が生じていたが、美咲の耳には雑音にしか聞こえなかった。
 最も手前にあるパトカーの元には、美咲達の学校とは違う制服を身に纏った一人の女子高校生が立っていた。警官と会話していた彼女は、美咲が近くまで来たことに気付くと警官に一言伝え、美咲の方へと駆け出した。
「美咲ちゃん!」
 美咲はその声に聞き覚えがあった。父親を殺害する前、ずっと一人ぼっちで何事にも楽しみを見出せなかった自分を救い出してくれたその声を、忘れるはずはなかった。
「真理亜……ちゃん……?」
 千寿真理亜は、警官に抱きかかえられた美咲をそのまま抱き締める。警官は美咲を地面に下ろして立てるかどうか確認し、美咲が頷くと気を利かせて少し離れてくれた。真理亜は再び美咲を強く抱き締めた。
「助けが遅くなってごめんね、美咲ちゃん」
 美咲は真理亜を抱き締め返した。
「真理亜ちゃんは、どうしてここにいるの?」
 美咲に回していた腕を解くと、真理亜は自分がここに来た経緯を説明する。
「夕方、颯太が小学校のグループに美咲ちゃんとの写真を載せてきたんだよ。その写真を見たら未来と七海も後ろに少し映ってて、あの二人は美咲ちゃんのことをよく思ってなかったし、写真の場所もこの工場跡地の近くだから、もしかしたら……って思って急いで来たの」
 真理亜は胸ポケットを探り、中から紐の切れた御守りを取り出した。門に引っかかったからか、表面の布が破れかけている。
「工場の前まで来たら少し開いた門の下にこれが落ちてて、写真を確認したら美咲ちゃんの鞄に付いてたから、私も工場の中に入ったんだ。そしたら美咲ちゃんが二人に暴行を受けてたから、止めようとしたんだけど、悪そうな人達が入ってきたから出られなくて……。あの三人が殴られ始めたから急いで警察に通報したんだ」
 だから警察に説明したりしててここに留まってたの、と真理亜は言った。この御守りは、二〇一五年九月六日の美咲の誕生日に、茜が美咲に手作りでプレゼントしたものだった。茜は施設の児童全員に、初めての誕生日には御守りを渡すことにしていた。貰ってから五年以上になる現在でも、美咲は大切に鞄に付けていた。美咲は真理亜から御守りを受け取ると、数瞬見つめてから真理亜に向き直った。
「真理亜ちゃん、ありがとう。……それと、小学校の時はごめんなさい。私のせいで……その……」
 未来や七海に言われたことを思い出して美咲がしどろもどろしていると、真理亜は彼女の言葉を遮った。
「気にしなくていいんだよ。確かにその時は色々おかしくなっちゃったけど、もう大丈夫だから。私の方こそ、友達だったのに気付いてあげられなくてごめんなさい」
 真理亜は美咲への虐待に気付けなかったことを謝罪した。更に、頭のいい真理亜は、殺害の日付、ブレッドナイフで父親を刺したこと、現場には手作りのパウンドケーキがあったことなどを報道で知り、自分が美咲に父の日のお菓子作りを提案したから起こった事件なのではないかと推理していた。だからこそ、美咲の事件発覚後に自分のせいだと深く傷付いてしまったのだ。
「未来や七海に何言われたかは分からないけど、私は美咲ちゃんを恨んだことなんて一度もないよ」
 美咲には、真理亜が聖母に見えた。美咲の中では茜と真理亜は同じくらい大きく、それぞれがかつての心の柱であった父親を補って余りあるほどの存在で、この二人が今の美咲を作り上げたも同然であった。施設での生活を支え、愛を教え、教育を施した茜はもちろんだが、そもそも真理亜に出会わなければ今も父親の洗脳のままに虐待を受け続けていたかもしれない。美咲は殺人という(とが)がなければ、部屋でゴミのように転がっていた。だから、美咲の解放の始まりは真理亜との出会いだった。
「私は美咲ちゃんのこと、ずっと、今でも、友達だと思っているよ」
 真理亜の優しい言葉に、美咲は初めて胸と共に目頭が熱くなる感覚を知った。真理亜にはいつも新しいことを教えてもらうな、と美咲は思った。
「ありがとう、真理亜ちゃん。大好きだよ」
 美咲は生まれて初めて親愛を言葉で表現すると、今度は自分から抱き締めた。真理亜も天使のように微笑んで、美咲の背後に腕を回した。

 美咲達が保護されてから一時間ほどが過ぎ、警察で事情聴取を受けた後、四人は親が来るのを待っていた。四人の中では未来の父親と七海の母親が早く、それぞれの親は美咲の顔を見ると逃げるように帰っていった。おそらく小学生時代に自分の娘が美咲の影響で体調を壊したりしたからだろう。だがそれにしても、我が子が暴行を加えた相手を目の前にして謝罪もなしとは非常識にもほどがある。この親にしてこの子ありという訳だな、と、失礼ながら美咲と共にいた警官は冷めた目で見ていた。
 それから少しして、飛鳥の両親が駆け付けた。二人が息を切らしていることから、よほど急いで来たのだろうと容易に推測できた。
「飛鳥! 心配したじゃないか!」
 飛鳥の両親が叫んで娘の元に駆け寄る。
「どうしてあんなことした私を心配してくれるの……?」
 飛鳥は涙を流しながら尋ねた。
「そんなの決まってるでしょう? あなたが何をしたって、私達があなたの親だからよ」
 傍らで聞いていた美咲は、飛鳥の母親の言葉に衝撃を受けた。母親の言葉を受けた飛鳥は、ダムが決壊したように号泣しながら両親に抱きついた。
「今までごめんなさい、酷いことばっかりしてごめんなさい」
 小さな子供のように泣きじゃくる娘を抱き締め、その頭を優しく撫でる飛鳥の両親の姿を目に焼き付けるように眺めながら、美咲は羨ましく感じていた。
 しばらくして飛鳥が少し落ち着いてくると、「飛鳥、謝らなければならない相手が私達以外にもいるだろう?」と父親が低い声で飛鳥に語り掛けた。その優しい瞳は美咲に向いている。そして三人並んで美咲の元に近付き、まず両親が深々と頭を下げた。
「菖蒲美咲さん、うちの娘が酷いことをしたと聞きました。娘に代わってお詫び申し上げます」
 続いて飛鳥も「ごめんなさい」と呟き頭を下げる。その声は涙に濡れており、気丈に振舞っていた彼女とは似ても似つかぬ弱々しさであった。
「あ、えっと、気にしないでください。私は大丈夫なので」
 慌てて美咲は両手を振る。美咲はその言葉通り、痛めつけられたことをもう気にしていなかった。怒りや恨みといった感情が希薄だからだ。他人に対してどう怒ったらいいのか分からないし、怒りが希薄なので恨むという感覚も分からず、負の感情に関する執着がない。
「美咲ちゃんが優しい人でよかったな、飛鳥。こんなことは、もう絶対にしちゃ駄目だぞ」
 美咲のそんな性質は、謝る側からすれば慈悲深い人間だと思われる。施設で陽菜に好かれるようになったのもこれがきっかけであり、人間としては感情の欠落という欠陥ではあるのだが、対人においてはある意味美咲の長所とも言えた。
「美咲ちゃん、今日はもう遅いから、後日また御両親の元にお伺いします。本当に、娘がごめんなさい」
 飛鳥と両親が帰ると、美咲は警官と共に親を待った。警官も減り、静まり返る署内は美咲の心に影を落とす。
 美咲の現在の家は隣町なので距離的に時間がかかるのだろう。茜のことは信頼しているはずなのに、このまま来てくれなかったらどうしようという考えが頭を過る。美咲は血の繋がった母親に置き去りにされた経験があったからだ。母親の記憶は一切ないが、置き去りにされたという事実は美咲の中に残っており、決して頭から消えない。このことに限らず、過去の悪い出来事はことあるごとに思い出されて脳内を牛耳り、そのたび美咲を不安にさせた。きっとこれは一生続いていくのだろう。この先どんなに幸せになろうとも、過去の記憶は美咲を脅かす。それでも現状の幸せを噛み締めて美咲は生きていく。
「美咲!」
 茜と茜の夫が息を切らして警察署に駆け込んできた。疾うに時刻は十時を回っており、眠そうに船を漕いでいた警官がハッと意識を取り戻す。美咲は目を見開き、深く安堵した。二人が美咲の元に走り寄って抱き締めると、美咲も二人を強く抱き締め返した。
「お父さん、お母さん、愛してるよ」
 美咲は初めて養親に対してそう呼んだ。そのことに、もちろん二人も気付き、抱擁を更に強めた。
「私も美咲のことを愛してるよ」
「俺もだ、美咲」
 両親の言葉を何度も頭で反芻しながら、美咲は自分の胸と目頭と両親の温もりを感じ、静かに涙を流した。

愛された者

愛された者

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 第一章
  2. 第二章
  3. 幕間 慈愛
  4. 最終章