雨の音を鳴らす

 シンナーと石油の臭いで満たされたアトリエで、黙々とカンバスにペインティングナイフを擦っている。こぼれ落ちた絵具で鮮やかに彩られた床では、薄ぼけた僕の腕の影が忙しなく動いている。
 僕には絵の才能があるらしい。だから母さんは、画家で稼ぐ夢を諦められないまま死んでしまった父さんの代わりとして、僕に愛情と時間を注いでくれた。「あなたは必ず素晴らしい画家になれる」という呪いが、常に僕を縛り付けていた。
 だけど、僕は僕の描きたい絵がわからない。

「ルカ。今日の分の絵の練習、ちゃんとしておきなさいよ」
 母さんが扉を開けると、巨大な雨音が耳を塞いだ。母さんの声はもうほとんど届かないが、ずっと何かを言っているような気がした。だが僕がそれを理解するのを待たずして、母さんは傘を差して雨霧の先に消える。扉が閉まっても、雨音は消えなかった。
 しばらくは母さんの言うように、絵を描き続けた。練習とは、有名な画家の作品を模倣するだけの作業だ。ひたすらに贋作を作っているだけの日々である。しかしどれだけ精巧に模倣でき、それらの絵画に使われている技術が身についたとて、その技術と表現に込められた意図を真に理解することができないままでは、自分の作品などを描き始められるわけもなかった。
 気がつくと、アトリエに僕の鼻歌が広がっていた。
 その歌は、幼い頃から大好きだった日本のバンドの曲だ。バンド名はWeather-beaten。ほとんどの曲の歌詞が日本語なので、翻訳なしでは僕にはあまり理解できないのだが、それでも何故だかメロディと語感が心に染み渡る。もちろん歌詞の意味を理解すれば、心から素晴らしいと思えた。そのバンドのおかげで、苦しい日々を受け入れて今日まで生きていられていると言っても過言ではない。
 そして今日は、パリでそのバンドのライブが行われる日だ。フランスに彼らが音楽活動の一環として訪れたことは今まで一度もなかったので、彼らの歌を生で聴ける機会を逃すわけにはいかないと、今日だけは母さんの言いつけを破って外に出る計画を立てていた。ライブチケットは、数日前に気分転換と称して外を出歩いた時に、僕と母さんがそのバンドを好きだと知っている近所の者が偶然譲ってくれたのだ。僕はそのことを母さんには伝えなかった。母さんが絵の練習をせずにライブに行くことを許してくれるわけがないと考えたからだ。譲ってくれた人には、サプライズにしたいから母さんには伝えないようにと念を押していた。
 母さんは昼過ぎに家を出て仕事に行き、夜遅くに帰ってくる。何の仕事をしているのかは知らない。知るつもりもない。そして母さんも、そんなことを気にする暇があるなら絵を描きなさいと言うはずだ。
 幼い頃は母さんと色んな話をしていたはずなのに、最近は絵を描くこと以外の話をした記憶がなかった。僕は才能のない母さんの絵筆に過ぎないのだ。
 だが今日は、今日だけは違う。まるで人間証明書を発行する過程のようにも思える外出の準備を済ませると、親の顔より見慣れたアトリエの電気を消す。玄関のランプが一層明るく見えて、僕の悪魔じみた漆黒の影が仄暗い闇に揺れ、カンバスを覆うように伸びていった。
 玄関の扉を開けると、小石を散らすような音がそこら中から鳴っていた。家に傘は一本しかなく、その一本を母さんが使っているため、僕は濡れることを覚悟して軒下から飛び出した。案の定、すぐさま川に飛び込んだ鼠の毛のように髪が流れ、絵具塗れの服は全身に張り付いた。
 水たまりを踏みつけながら川沿いのアベニューを走り抜けると、目的のライブハウス「ESPACE B」の目印であるワインレッドの軒先テントが見えた。雨粒が叩きつけられる音に混じって重低音が響いている。入口の小さなテラス席では、降雨のために椅子をひっくり返してテーブルの上に置かれていた。
 ライブは既に始まっている。入場列に長時間並んでいると僕を知る誰かに見つかる確率も高くなるので、わざとライブが始まってから会場に到着するよう、時間を計算していた。
 受付でびしょ濡れのチケットを見せてドリンクバッジを受け取り、奥のカウンターでコーラ一本と交換すると、僕は耳の楽園へと足を踏み入れる。
 そこでは聴き慣れた楽曲が爆音で演奏されていた。静かに聴き入る人、腕を振って歓声を発し熱狂する人、体を揺らしてリズムを取る人。さまざまな聴衆が同じ場所で同じ曲に酔いしれている。自分と同じものを好きな人間がこんなにもいるのかと、感動にも近い思いが胸に広がった。通常のライブとは違って、観客が場所を変えたり、他人を押し除けたり、走り回ったり、人の上を転がったりはしていない。
 このバンドの持つ空気感がそうさせていた。彼らの曲は文学的な歌詞で情緒ある音楽を奏でているものが多いため、そういった騒ぐような行為は場違いなのだ。
 最後列に行き、壁に背をつける。足元から伸びる放射状の薄い影を視界の下部に滑らせて、煌びやかなステージに目を向けた。背中を通じて反響した願いが、世界を拡張するように鼓動を速める。夢にまで見たバンドが今同じ空間で息をし、曲を紡いでいる。いつもCDで聴いている音楽とは別物のようにも思えるそれらの旋律は、僕の感情を高みに押し上げてくれた。
 自分の意志で絵を描きたいと、これまでずっと隠れていた創作意欲が初めて顔を出してきた。今まで描きたくても浮かばなかった構図が湯水のように湧き出てくる。この熱量を永遠のものにしたい。
 最高だ、とても良い、幸せだ。そんな月並みな感想しか思い浮かばないほど僕の語彙力は感動に奪われていたが、言葉を選出するために熟慮するほどの余裕がない、空に浮き上がるような高揚が心地良かった。
 二時間あったとは思えないほどに体感時間は一瞬のライブが終幕を迎え、騒々しい会場の入り口で現実を迎える。来た時よりも激しい雨が人々を待ち構えており、現実の非情さを再び思い知らされるような天候に多くの観客達は難色を示していた。夢と現の温度差で風邪を引きそうだ。
 道に鉄と布で作られた花が色とりどりに咲き乱れ、僕らの夢の世界から離れていった。僕も来た時と同様に覚悟を決め、豪雨に踏み出す。たちまち生乾きの服達がぐっしょりと水を帯び、全身に張り付く。だが不快感はなかった。この雨が今は恵みの雨だ。僕は大好きなバンド名のように、雨風に曝されている自分に酔っていた。
 異常なほどの降雨量によってほとんど水路と化したアベニューを、マラソン終盤で独走状態の走者のように気持ちよく駆け抜けていると、突如足元の石畳が消えた。
「えっ?」
 間抜けな声が漏れ出た。踏み外した左足が激流に取られて、右の側頭部を浅い水に覆われた石畳の角に打ち付ける。幼い頃の、父さんと母さんと手を繋いで、歌いながら長靴で水溜りをリズム良く踏みつけている光景が、水面に明るく投影される。走馬灯というものだろうか。
 水中の壁に一瞬映った自分自身の影が手招きしているように見えた。

 目を覚ますと、だいぶ離れた川岸に打ち上げられように寝そべっていた。幸いこの道は知っているので、家に帰ろうと立ち上がる。母さんが絵筆としてではなく僕という一人の息子を心配してくれていたら嬉しいな、などと意味のない妄想を頭で繰り広げながら、ふらふらと家路を辿った。大きく水が跳ね、波紋が広がっていく。
 道行く人々がぎょっとした顔でこちらを凝視しているが、おそらく僕が大雨の中をずぶ濡れで傘も差さずに歩いているからだろう。かなりの距離を濁流に流されたはずだが、不思議と痛みや寒気は感じなかった。ライブの幸福感がそれらのネガティブな感情を排しているのかもしれない。
 家に近付くと、雨音に混じって母さんの声が聞こえてきた気がした。幻聴かと耳を疑ったが、どうやら本物の母さんらしい。道の中央を歩きながら大声を張り上げる母さんが目に映った。
「ルカ! どこにいるの! 返事をして!」
 母さんはずぶ濡れになりながら、アトリエから消えた僕を探してくれていたのだ。涙が頬を伝う感覚はよくわからなかったが、今この瞬間僕の頬を雨粒が流れていっただろうと、自然に思った。
「母さん」
 僕は母さんの元に駆け寄る。だが、母さんは僕に気付いてないようだった。
「ルカ! どこなの!」
 機械のように僕を探す言葉を繰り返している。僕はもうぶつかりそうなほど目の前にいるというのに。
「僕はここにいるよ」
 蚊の飛ぶようなか細い声を絞り出したが、どうやら母さんには届いていないようだった。少しずつ前進する母さんが僕に当たると感じて目を瞑ったが、僕の名前を叫びながら、ついに母さんは僕の体をすり抜けた。何が起こったのかわからなかった。
 ようやく僕は、自分が既に死んでいたことに気付いた。
 水浸しの地面を見ると、自分の足から小さな波が広がっているのがわかる。だが、生まれてから今までずっと連れ添ってきたはずの僕の影はそこになかった。自分がもうこの世の者ではないことを強烈に思い知らされるには十分な証拠だった。
 それでも、どうにかして母さんに自分の存在を伝えようと思考を巡らせる。すると川に落ちる直前に走馬灯で見た音楽を思い出した。幼い頃に水溜まりを踏み鳴らしていたあの曲だ。
 スローテンポではあるがキャッチーな曲調なので、この曲だということが分かりやすいはずである。母さんが幼い頃の僕に対する思い出をまだ持ってくれているのなら、気付いてくれる可能性はあった。
「鐘の音(ね)を鳴らす」
 冠水した石畳の上で滑稽なタップダンスを踊っているように、歌いながらリズムに合わせて足踏みした。もしもこれを人に見られていたら相当恥ずかしいのだろうが、死んでいる僕を見ることができる人間はおそらく今この場にいないので、恥ずかしくも何ともなかった。それ以上に、母さんに気付いてもらおうと必死だった。
「私は自由だよ、独立記念日さ、ようやく生まれ出たんだ」
 ずっと忘れていたはずの音楽や歌詞がすらすらと脳裏に浮上して、僕はそれを誰にも聞こえない声と誰にも見えない足で表現していく。母さんが驚いたようにこちらを眺めていた。数年ぶりに見据えたその顔はみるみる歪んでいき、瞳から大粒の涙が溢れ出した。涙が雨と混じり、すぐに区別はつかなくなる。
「ルカ……そこにいるのね?」
 ようやく、母さんが僕の存在に気付いてくれた。
「そうだよ、母さん」
 僕の声は届くはずがないと知っていながらも、母さんに呼びかける。抱きしめようとした腕はすり抜けた。僕は物には触れることができるが人には触れられないらしい。生物か否かがその境界かもしれないが、今はそんなことなどどうでもよかった。
「ルカ……ずっと絵を描くことばかり強要してごめんなさい。それが嫌で出て行ってしまったんでしょう?」
 母さんが俯きながら懺悔する。水面では一人の影が波に揺らめいて、同時に僕の足元の影のない二ヶ所から波紋が広がっていた。
 もういいんだ。
「私の期待があなたの負担になってしまっていることに、もっと早く気付けばよかった」
 もういいんだよ、母さん。泣き崩れる親にそう伝えたくても、僕の言葉はその耳に届かないし、小さくなった肩に手を置くことも出来なかった。
 無言で強く足踏みをしながら、僕は家の方向へと向かい始めた。見えない足から発せられる波紋の動きを見た母さんは、僕が家へ向かおうとしていることを把握した。
「そうだね、家に帰ろう」

 シンナーと石油の臭いで満たされたアトリエで、黙々とカンバスにペインティングナイフを擦っていた。こぼれ落ちた絵具で鮮やかに彩られた水浸しの床では、薄ぼけたナイフの影だけが忙しなく動いている。
 僕には絵の才能があるらしい。だから母さんは、画家で稼ぐ夢を諦められないまま死んでしまった父さんの想いを僕に託し、愛情と時間を注いでいた。「あなたは必ず素晴らしい画家になれる」という呪いが、常に僕を縛り付けていた。だが、僕はそんな呪いから肉体と共に解放され、刺激された創作意欲によって自ら絵を描くことを選択した。
 そして、僕は僕の描きたい絵を描いた。
 風雨に晒されながらも、純白の気球の中に吊り下げられた鐘を鳴らす少年少女の絵。少年はキャスケット帽を被り、白のTシャツにグリーンのオーバーオールを着ている。少女は髪を短く切りそろえ、黄色のTシャツに黒のジーンズを履いている。鐘の表面で雨が弾けて、魚のように跳ねる。雲間から微かに差し込む陽光が大きな鐘の一部を緑青色に照らしており、眼下にはターコイズブルーの海が広がっている。カンバス全体としては、中央部分が明るく縁に向かうに従って藍色に近付くように調整していた。
 拙いながらも初めて描いた絵に、僕は満足感を覚えていた。
 題名は、「sonné la pluie(雨の音(ね)を鳴らす)」。幼い頃に、そして先刻歌い踊った曲である「sonné la cloche(鐘の音(ね)を鳴らす)」から名付けたものだ。この絵が世間ではたとえ一ユーロ程の価値すらなかったとしても、僕はこの作品を描いたことを誇りに思う。
 この絵を描くために、今までずっと絵の練習をしてきたんだと確信したのだ。この作品が、僕の画家としての最初で最後の作品になった。
 いつのまにか窓の外では朝日が登っていて、椅子に座ったまま静かに眠っている母さんがスポットライトのように照らされている。壁に飾られている、今まで描いた絵画達が寂しそうに輝いていた。
 次の瞬間、支えを失ったペインティングナイフが乾いた音を立てて床に落ちた。

雨の音を鳴らす

雨の音を鳴らす

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-18

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