君のとなりに

 人間は何のために生まれてきたのだろう。「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」という文豪の言葉は有名だが、だとすれば恋も革命も行わない人間は何のために生まれたのか。すべての人間に共通の生まれた理由があるとは思わないが、そもそも全ての人間に生まれてきた意味などないのかもしれない。
「香山くん、聞いてる?」
 隣に座っている先輩が僕の袖を引いた。半透明の防塵マスク越しに、くぐもった声が現実を連れてくる。
「あっ、すみません、何の話でしたっけ」
「別に大したことじゃないからもういいよ」
 偽物の西日が照らす車両。冷房が少し寒いくらいに感じる閉鎖された空間で、僕と先輩は琥珀色に染まった床に長い影を伸ばしていた。
 この車両には、僕達二人しかいない。僕らの声以外で耳に届くのは、車両の接続部で起こる甲高い鳴き声、レールとの摩擦音、そして時折車内に流れる合成音声のアナウンスくらいだ。そしてこの車両のみならず、現在連結している四車両全てにおいて、生命を宿す人間は二人だけだろう。
「もう慣れたと思っていたけど、なんだか寂しいね」
 先輩が辺りを見渡して呟いた。
「そうですね」
 僕が生まれる以前から、AIがあらゆる乗り物を自在に乗りこなしている。全ての線路は地下に整備され、踏切などを鉄道記念館の外では見たことがなく、人身事故も耳にしたことがない。公共交通機関は常に定刻通りで進むものである、というのが僕らにとって常識であった。
 そしてその常識は、人類の八割が失われた現在でもほとんど変わることはなかった。
 四年前、アメリカのイエローストーン国立公園で地球史上最大規模と言われる破局噴火が発生した。付近は大量の溶岩に沈み、半径千キロメートル以上の地は火山灰に埋もれ、飛散した火山灰が数日後にはヨーロッパにまで降り撒かれたという。アメリカ本土の七十五パーセントの地形が歪に変形し、付近のほとんどの生命が死に絶えた。そしてその日から、世界中で噴火や地震が相次いで起こり始めた。
 日本では数十年前から危惧され続けていた南海トラフ巨大地震が発生し、隣り合うプレートにも震動が飛び火して震度六を超える地震が多発、その影響で多くの活火山が次々に噴火した。特に、日本の象徴たる富士山の大噴火で日本は大打撃を受けた。富士山周辺は完全に火砕流に飲まれ、一週間後には東京都が灰に染められる事態となり、日本の中枢が機能しなくなった。政府は富士山の大噴火に備えて以前から対策を練っていたものの、日本中、そして世界中でのほぼ同時多発的な大規模自然災害に同時に対応する能力を持ち合わせていなかったのである。今や日本は、生きている人間よりもロボットやAIの数の方が多いのではなかろうか。
 大小様々の五つの火山の噴火で北海道が、草津白根山の噴火で中部地方から東北地方南部にかけての地域が、富士山の噴火で関東地方や中部地方が、三瓶山の噴火で中国地方が、薩摩硫黄島の噴火で九州地方が、それぞれ滅亡に近い状況に瀕している。
 しかしそのような状況でも、電車はプログラムに従い運行を続けていた。プログラムを書き換える人間がいないからだ。たとえ線路などが多少破壊されていても、路線自動修復機によって即座にそれらは修理され、人の手を介さずとも運行が再開されていた。まるで自然の脅威と人工物との戦争のようだ。
 そんな電車に揺られて、僕らは熊本県に向かっていた。日本中の火山がいつ噴火してもおかしくない現在、火山のある地域に向かうことは自殺行為にも等しいのだが、僕と先輩は阿蘇山に訪れようとしていた。通常ならそのような危険な場所は通行禁止になるはずだが、それを決定する政府や県職員が根こそぎいないのだから、誰も止めやしない。
「先輩は本当にいいんですか? 死ぬかもしれませんけど」
 先輩に何度目かの質問を繰り返す。この危険な旅行は僕の提案だった。二ヶ月前、地震で僕らの学校は破壊され、両親は仕事先で建物に押し潰され、自宅も潰れ、避難先である地下シェルターでの暮らしを強いられていた。僕と先輩は陸上部に所属しており、地震の際にグラウンドの中央にいたため、建物の崩壊に巻き込まれず生き残ってしまった。だが、その後の噴火で付近は灰に覆われ、地震で生き残った人間のほとんどは亡くなった。悪運が強く、火山灰が致死量までは積もらなかった隣町にいた僕と先輩は、またもや生き残っていた。
「もう、何回聞くの。いいから一緒に来てるんだってば」
 先輩は煩わしそうに答えながら、一般的に触角と呼ばれる長い横髪を耳にかけた。
「私達は、幸せに死ぬために生き残ったんだから」

 人の声とほとんど区別のつかない合成音声が、目的地の最寄り駅の名を告げる。僕と先輩はなんとか一泊できる程度に最低限の荷物を詰めたリュックを背負い、車両のドアをくぐった。突然土と草のにおいが鼻を刺激する。避難していた地下シェルターから、ここに至るまでに五時間ほど電車に揺られていたが、一度も人間に会うことはなかった。
 改札を抜けて地上に出ると夜の帳が降りており、非等間隔で揺れる街灯だけが目に見える光だった。空は大量の火山灰で覆われて毎日が曇天なので、たとえ人工の光が少なくても星はほとんど見えない。スマートフォンの明かりを点けると、もぬけの殻の住宅が点々と照らし出される。アスファルトの表面を砕いて大小様々の雑草が伸び、人類の営みに植物達が浸食して自然の強さを誇示している様子を目の当たりにした。
「今夜はどうします?」
 死に場所を探すための旅行だからとあまり真剣に準備をしていなかったのが不味かった。今夜を過ごす場所がない。人が全くいないとまでは考えていなかったからである。少し考えてみれば、生き残った人間が危険な火山地帯から撤退するのは至極当然のことだろうに。
 先輩は可能な限り遠くの建物を見ようと点灯したスマートフォンを掲げるが、やがてがくりと腕を下ろしてこちらを振り返る。
「とりあえず一晩過ごせそうな建物を探してみよっか」
 ケホケホと可愛らしく咳き込んだ後、先輩は楽しそうにはにかんだ。泊まる場所もなく、人もおらず、荒廃した町が闇に広がるこの状況でも笑っている彼女が何だかおかしくて、僕も笑った。

 小一時間もすると、僕らは比較的綺麗な状態を残した三階建てのホテルを発見し、その一階の一部屋を拝借した。掃除用具がそのまま残っていたため、自分達で軽く掃除をして、部屋は泊まることのできる清潔さを取り戻した。僕は部屋を別にしたほうがいいんじゃないかと先輩に言ったのだが、掃除するのが面倒だし、君も問題ないでしょう? と返された。
「今この瞬間巨大地震が起きたら、たぶん私達は建物の下敷きだね」
 クイーンベッドの左半分に飛び込み、うつ伏せに寝転んで顔だけこちらに向けると、先輩はふふっと笑った。薄橙色の電池式照明がチカチカと明滅する。
「笑い事じゃないですよ。そんな死に方は望んでません」
 埃を払った床に荷物を下ろし、防塵マスクを顎の位置に下げる。ベッドの右半分に横たわって肘をついた僕は、呆れながら先輩に目を向ける。正確には、その後ろのひび割れた壁を見つめていた。
「私はさ、地球の怒りなんだと思う」
 どこか遠くを見つめるように、先輩は目を細めた。
「人間は地球で好き勝手しすぎたんだよ。だからこれから絶滅するんだ」
 壁のひびからパラパラと粉のような欠片が零れる。
「それは少し傲慢な気がします」
 僕は反論した。
「たまたま大量絶滅のサイクルが回ってきただけなんだと思いますよ。……人の営みも、地球全体の営みの中の一部に過ぎないんです。だから地球は、この世界は、人間だけを特別扱いして罰を与えたりはしないと思います」
 太古の昔から、地球では数度の大量絶滅が発生している。その原因には地球の環境変動や隕石の落下、そして現在のような火山の噴火という説も唱えられている。それらの絶滅を免れた生物が、次の地球を席巻する世代に進化していくのが地球の歴史らしい。だとすれば今回は人類が絶滅する番で、次に地球を席巻する生物は噴火や地震に耐えることができた生物なのだろう。破壊と創造はいつも隣り合わせなんだ。
 先輩は僕の意見を静かに聞いて、少し考えるように難しい顔をしながら顎を手の甲に乗せていた。
「確かに、そうなのかもしれないね。人間って傲慢な生き物なんだもん。そうじゃなきゃこんなに繁栄しなかっただろうし」
 まあ、別にどうでもいいんだけどね、と告げると、先輩は考えることを放棄したように仰向けに寝返って大の字になった。どうせ僕らはもうすぐ死んでしまうのだから、理由や意味なんてどうでもよかったのだ。この会話も少し頭を過ぎった考えを誰かに聞いてもらいたかっただけで、本気で考察しているわけではない。
 今の僕と先輩にとって重要なことはただ一つ、やりたいことをやって死ぬことだった。

 この旅行は、死ぬ前に火山を一目見てみたいと先輩が呟いたことから始まった。人類を滅亡させる可能性のある火山を直接見ることなく死ぬのは勿体ないと話していたので、勇気を出した僕が火山地帯への旅行を提案し、先輩も賛同してくれたので実現したのだ。
 僕も先輩も、一般的には「変わっている」人間なのだと思う。多くの人は少しでも長く生きるために危険を回避し、可能な限り安全な場所にいようとするだろう。だが、僕も先輩もその場しのぎの安寧に身を任せることをよしとしなかった。地下シェルターの中で怯えた鼠のように少しでも長く余生を貪るよりは、行きたいところに行ってやりたいことをして明日最期を迎えたいと望んだのだ。もちろん、生きようとする人々を貶すつもりはない。どんな状況に陥っても何とかして生きようとする人達は素晴らしいと思うし、生存本能は生物として当然だと思うが、おそらく僕と先輩はその生存本能にバグが発生していたのだろう。どうして最初にみんなと一緒に死ねなかったのか。ゲームの物欲センサーと同じように死にたい人ほど生き残ってしまうのは、世界からの皮肉のつもりかもしれない。憎まれっ子世に憚ると言うが、世を憎んでいる人も世に憚ってしまったみたいだ。
「おはよう、香山くん」
「おはようございます、先輩」
 翌朝、無事に僕らは目覚めた。持ってきていた水を少量使って顔を洗い、朝食の堅パンをバキッと噛み割って食べる。万力で石をすり潰すような二人の咀嚼音が小さな部屋に響き、小さくなった食物を嚥下すると、耳鳴りがするほどしんとした室内を取り戻した。
「じゃ、行きますか」
 先輩は一際大きな欠伸と背伸びをして、リュックを背負った。防塵マスクをつける。少し名残惜しそうに一晩過ごした部屋を眺めると、軋むドアを開けて廊下に出た。僕もそれを追って部屋を後にした。
 廊下の割れた窓からは何かの蔦が顔を出していて、僕らの建造物侵入の罪を密告しようとしているみたいだった。少し申し訳ないような気持ちにもなりつつも、その罪を裁く人間も僅かにしかいないこの世界では大した問題にはならない。人間の少ない今、僕らは自由に生きられるし自由に死ぬこともできる。
 冷たくフロアに響く二人の足音。植物の這う玄関を出ると、今日も灰の空がこちらを見下していた。日光はほとんど遮られ、不気味で薄暗く終末を漂わせる。
「香山くんは、どうしてこんな状況でも電車が動いているのか知ってる?」
 植物に覆われた足元を、長い木の枝で確かめながら歩く先輩が声をかけてきた。先輩の跡にぴったり続きながら、数秒考えて尋ね返す。
「どうしてですか?」
 先輩はいろんなことを知っていた。僕と違って、何にでも関心を持ち、すぐに調べるタイプの人間だ。ただ先輩の場合は、興味を持つのが早い分失うのも早いので、色々な話題の上澄みだけを削り取るように浅く広い知識を持っているようである。
「ここ数年って、地震とか噴火とか、自然災害が多いでしょ? 何年か前に、その度に電車が止まったら困る、なんていうクレームがたくさん来たからなんだって」
 なるほど人間らしい。
「そのせいでほとんど人が乗らない今でもロボット達は働かされてるんですね」
 まだ乗車する人々がいた頃に、何があっても動く電車が作られてプログラムが組まれていたから、こんな状況になっても命令通りに動き続ける機械達。同情すら覚える。とんだブラック企業だ。
「そういうこと。人間は自分勝手だよ。……まあ、そのおかげで私達は今こうやって危険区域にも簡単に入れるんだけどね」
 いつのまにか植物地帯を抜け、火山へと足を踏み入れていた。雑草がほとんど生えておらず、まるで神聖な領域に侵入したような感覚になる。雪のように積もる火山灰をザクザクと踏み荒らし、正面の大きな阿蘇山中岳までの斜面を進んでいく。火山灰の下には地割れの跡が残っていて、躓いたり落下したりしないよう注意しながら歩いている。たびたび現在の標高を示す標識があるのだが、倒れていたり、傾いて地面に突き刺さったりしていた。
「ここは危険区域なのに封鎖もされてませんよね」
 本来なら入山規制どころか半径数キロメートルの立ち入りが禁止される危険度のはずだが、誰かに止められることはおろか、看板すらも立ってはいない。もしかすると規制されていることを示すものがどこかにあったのかもしれないが、その場合地震や火山灰によって排除されたのだろう。
 きっと封鎖する人間ももういないんだよ、と先輩は笑った。
 社会はもうほとんど機能しておらず、偶然災害から命を刈り取られなかった人々が文明の残り火で何とか生き延びている状況である。他者の心配をする余裕の人間はそうそういないのだろう。禁止されるまでもなく、入山する人間はいないだろうということかもしれない。いるかどうかもわからない自殺者を止めようとするほど、生き残った人々は暇ではないのだ。

 かくして僕らは中岳に登頂した。火口から轟々と煙が噴き上がっている様は地獄を思わせる。赤黒く熱い煙のせいで火口近くに寄ることはできないが、轟音と地鳴りが噴火の前触れを明示しているかのようで、そこにマグマ溜まりがあることを暗に推し測らせていた。
「これが火山かあ」
 先輩はここまでの疲れも吹き飛ぶような、明るい感想を漏らした。心臓が激しく鼓動を打ち続けている。火口付近に来れば火山ガスで即死する可能性も考えられたが、今僕らが無事に生きているということは、ガスが出ていないということだろうか。
 以前受講した火山環境学では、爆発的噴火が起こる前には火口からの火山ガス放出の停止、あるいは放出量が著しく少なくなる現象がしばしば目撃されるという話もあった。
 毒虫が背筋を這うような寒気と共に、皮膚が日に焼ける熱気を久し振りに感じていた。現在、本来なら季節は夏に当たるのだが、火山灰によって陽光は遮断され、秋の終わりのような肌寒さが世界を包んでいる。しかしこの場所だけは、暑さで全身が溶けてしまいそうなくらい、本来の夏以上の夏を押し付けていた。長袖のシャツの腕をまくり上げ、額の汗を拭う。
 人類を滅ぼす要因となるかもしれない火山の火口を実際にこの目で見ることができた今、ここに来た目的は果たされてしまった。
「これからどうしましょうか」
 先輩に声をかけた瞬間、返事が聞こえるよりも早く巨大な地響きが僕らを襲った。僕の声はかき消され、二人ともバランスを失い転倒する。
「もしかして火山が噴火するんじゃ…!」
 汗で湿った腕や顔に砂利と火山灰が付着した先輩は、地面に転げたまま美しく嘲笑していた。僕は起き上がると先輩の手を引いて起こし、その隣に座った。
「こんなところで死を迎えるのは私と香山くんだけだよ」
 僕も先輩も恐怖する段階は疾うに過ぎていて、ただただ笑いがこみ上げてきていた。側から見れば、麻薬でもやっているのかと思われるだろう。
「僕たち、狂ってますよね」
 地鳴りに負けないように大声を張り上げると、先輩も大声で返してくる。繋いでいた手の力がぐっと強くなった。
「こんな世界で、狂わずに生きていられるわけがないでしょう」
 世界の方が先に狂っているのだから僕達はそれに適応して狂っただけだと気付き、ある意味腑に落ちた。
 狂っていない人間の方が、この終末の世界では狂っているんだ。自らの狂気を自覚したついでに、最期に伝えたいことを伝えてしまおうと先輩の耳に顔を近付けた。
「こんなこと今言うのも変かもしれませんけど、先輩のこと好きです」
 突然の告白にさほど驚いた様子もなく、先輩は僕の頬に触れて顔の向きを変え、耳元に口を当てる。
「うん、知ってた」
 死を意識して速まっていた鼓動が、この瞬間その原因を書き換えられた。繋いでいた互いの手がじわりと動き、相手の指の間に自分の指を挟み込んで組む恋人繋ぎに変化していった。
「このまま死ぬまでこうしていてください」
 あと数分か、下手したら数秒の命だと思う。ここに来ても来なくても、生きられる時間にそれほど差はなかっただろう。ならば、最期の時間をこうして先輩と共に過ごすことができて僕は幸せだ。
 人間は何のために生まれてきたのか。正しい答えはきっと誰にも分からないが、これだけは言える。僕は今、この瞬間のために生まれてきたんだ。
「私も好きだよ、香山……ううん、シンジくん」
 初めて先輩の口から発せられた自分の名前は、耳から摂取する精神安定剤だ。大麻やシンナーを使ったことはないが、脳内が浮遊して目前の死に対する一切の恐怖を排除された感覚は、正に麻薬を用いているかのようだった。
 これまでで最も大きな地震と雷鳴のような鈍い音が腹の底に響いた。周囲の地面が砕ける。いよいよ大噴火の時が近いことを察すると、僕は最期の一言を伝えるため口を開いた。
「あなたのとなりに、居させてください」
 火口が爆発する轟音で狂った聴覚では、自分の言葉を音にすることで精一杯だった。僕の声が聞こえているのかどうかも、そして僕と同時に口を開いた先輩が何を伝えていたのかもわからない。僕の最期の言葉と重なった彼女の言葉を耳にする機会は、もう永遠になかった。

君のとなりに

君のとなりに

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-18

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