自分の非行は罪の味

 この世界には、偶然生まれがよかっただけで綺麗に生きる道が残されている人間と、そうでない人間がいて、後者である俺は盗みをはたらき他人を騙し必死にその日を生き延びることしかできない。本当の親の顔を知らず、生まれた場所を知らず、そして生きる意味も知らないが、ただ死にたくないという一心で罪を犯し生きていた。スラム街の子供達はそのほとんどが同じような境遇にあり、彼女もまた、そんなスラムに生まれた子供の一人だった。
 リュコスは、飢餓と貧困と暴力が渦巻くこの地域には不釣り合いなほど清廉潔白な少女で、荒野に咲く一輪の花のように明るく美しくあろうとした子だった。いつか俺が店から盗んだ裁縫道具箱を、人から譲って貰ったのだと嘘をついてプレゼントした時の太陽のような笑顔を今でも覚えている。窃盗で生きる者が多いこの路地に住んでいるにも関わらず、絶対に犯罪には手を付けない子で、その愛嬌を振りまいて毎日を生き抜いていた。汚い人々に埋もれた天使など普通なら虐められるか汚されるのが関の山だろうが、彼女の場合はスラムの良心としてここの人々にも愛されており、良好な関係を築いていた。
 ある日、お綺麗な貴族の方がリュコスを訪ねてきた。平生、彼らのような上流階級の者がこんな汚いスラムの路地裏に近付くことなどあり得ない。その貴族はリュコスを自分の子だと言い始め、強引に連れて行こうとした。俺達はスラムの仲間であるリュコスを守ろうとしたが、劣悪な環境で育ち体の作りが貧弱な子供と、裕福な家庭で育ちたくましい体を持つ大人とでは争いにもならない。為す術もなくリュコスは連れて行かれ、後には空虚と照らされない闇だけが残った。
 俺の心にはあの時リュコスを守れなかったことへの後悔が募っていたが、リュコスは裕福な家庭で幸せに暮らしているはずだと言い聞かせながら日常を過ごしていた。

 リュコスが連れて行かれてから既に八年が経っている。俺達スラムの子は、未だに金品を強奪したり時折警察とやり合ったり、ゴミを漁って廃棄物を盗んだりしながら、汚く姑息に日々を生き抜いていた。
 その日、テントの隙間から漏れて落ちてきた水滴に鼻を打たれ、俺はボロ布を重ねただけのベッドで目を覚ました。雨で一層冷え込んだ空気が、満足に物を買えない俺達にとっては特に厳しい冬の始まりを告げていた。冷たくなった鼻をくすりと鳴らして、悪友と窃盗をはたらきに市場へ向かう算段を立てながら、砂や炭で作った簡易的な濾過装置を用いて濾過した川の水を、欠けたマグカップで飲む。
「アウト、今日の収穫はどっちが多いか賭けようぜ」
 ヘルマは落ちていた金属の輪のようなものを拾い、指先で回していた。彼は俺のテントの隣に住んでいて、よく一緒に窃盗をはたらいている。アウトというのは俺のことで、スラム街の外に捨てられていたからそう名付けられたらしい。無法者の俺にはぴったりの名前だ。
「雨が降ってるからな、いつもより多く盗めるかもしれないぞ」
 俺はにやりと笑みを浮かべた。
 雨の日は傘やレインコートで顔や手元を隠しやすいし、傘の場合それに注意を向けさせることもできる。また、雨宿りのために人が密集している箇所が多く、スリにはもってこいの天候なのだ。
 心が痛まないわけじゃない。自分が悪であることも認識しているし、心が痛むからといって自らの悪事を正当化できるなどとも思っていない。だが生きるために仕方のないことだと、必死に割り切ろうとしていた。生まれながらにして人間の上下が決まっている世界が悪いのだ。だから仕方ない。俺やみんなの悪事は仕方のないことなのだ。
 戸籍も住所もない俺達には合法的に働く術がない。小汚い服や貧相な体では誰も雇ってくれない。唯一雇ってくれるとすれば、人間を馬車馬のようにはたらかす、労働者の扱いが奴隷と大差ない闇の職くらいだろう。だから少しでもマシな暮らしをするには犯罪に手を染める以外の道はなかった。そういうことにして考えるのを辞めた。

 レインコートを着て市場に出ると、少しだけ雨脚が強くなったように感じた。まずは傘を差して新聞を読む、太ったおじさんの尻ポケットから財布を抜いた。こういう両手が塞がっている人間や背中側に財布をしまっている人間は、窃盗犯にとって格好の獲物だ。
 次のカモを探して市場を物色していると、俺より少し歳上くらいの小綺麗な女性が高そうな傘を差してキョロキョロと辺りを見回しているのが目に入った。口の開いたハンドバッグを肩から下げており、長財布と思わしき物の角が覗いている。人でも探しているのか、バッグの方まで注意が向いていない様子だったので、今日の二人目の相手は彼女にしようと決めた。
 後ろから足音を立てずに近付き、バッグに手を伸ばす。その口からはみ出した物を掴み取ると、韋駄天の如く颯爽と走り去る。背後で女性の驚く声が聞こえた。
「どうしたんだ、リュコス!」
 離れたところにいたらしい連れの中年男性の声を聞いて、足を止めた。男性が、今し方俺が財布を奪った女性のことをリュコスと呼んだからだ。彼女の驚いた顔を見ると、化粧をしていて大人びてはいるものの、確かにリュコスの面影があるようにも思えた。
 本当に俺達の仲間だったあのリュコスなのか?
 それを確かめたいという思いもあったのだが、今の俺はただの卑劣なコソ泥であることに気付き、反射的に足元へと視線を落とした。その足は降りしきる雨に濡れ、水しぶきと土、そして罪に汚れていた。彼女に合わせる顔など、面の皮を何枚剥がしたところで有りはしない。そのまま体を反転し、彼女を再び一瞥することもなく、人混みを縫うようにして走り去った。

 リュコスから盗んだ物は財布ではなく、裁縫道具箱だったことに、傷だらけの箱を開く前から気付いていた。それは昔俺がプレゼントした窃盗品だったからだ。幼い彼女の喜んだ顔が脳裏に浮かび、それに先程の驚いた顔が重なる。奥深くに押し込めていたはずの罪悪感が募り始め、俺の脳内を支配した。全身の血液が脈打ち、重力が増していく。
「なんだよアウト、あんなに息巻いてたのにそれだけかよ」
 見知らぬ財布を八個ほどテーブルに並べたヘルマが、小馬鹿にしたように横腹を突いてくる。俺は無言でその指を払うと、テーブルの上の裁縫道具箱を見つめた。ヘルマは変な奴、と呟き、今日の戦利品の金額を数え始めた。
 次第に強くなる雨音が、二人の距離を広げていくように感じた。まだ夕方にもなっていないのに周囲は雨雲で薄暗く、元々陰鬱としているこの路地の闇が更に深まっていく。
「今日、リュコスに会ったんだ」
 しばらくして俺が口を開くと、朝のように金属輪を指で回していたヘルマはその手を止め、下ろした。遠心力と支えを失った金属輪がカランと乾いた音を立てて石畳に落下する。
「リュコスって、小さい頃一緒にいたあの?」
 ヘルマは面白いことを聞いたとでも言わんばかりに顔を綻ばせ、俺の前にある裁縫道具箱に目を向けて、それに見覚えがあることに気付き笑い出した。
「もしかしてそれ、リュコスから盗んだのか! 昔お前が渡したやつだよな!」
 奇しくも俺が渡した物を俺自身の手で盗み返すような構図になってしまい、おかしいのは分からなくもないが、悩んで頭を抱える俺を腹が捩れるほど笑うヘルマに嫌気がさし、うるせえと一喝する。それでも押し殺すように笑い続ける彼に対し、呟くように言葉を零した。
「もう盗みはやめようと思うんだ」
 ヘルマの笑い声が止まった。まるで怪奇現象か何か、不思議なものを発見したように目を丸くして、素っ頓狂な声をあげる。
「はあ? 本気で言ってんのか?」
「本気だ。もうしない」
 食い気味に返すと、ヘルマはじっと俺の瞳を見つめてきたので、俺も負けじとヘルマの瞳を見つめ返す。
「……はあ、そうか。お前が一度決めた意見は他人がどう言おうが変えないってことは知ってるから、止めやしない。けどな」
 ヘルマは後頭部を掻きながら問いかけてくる。
「これからどうやって生きるつもりだ?」
 そう。これまで盗むことで生きていた俺が、盗みを辞めた後どうやって生きるのか、まだ深くは考えていない。だが、この罪悪感と自己嫌悪から逃げたい一心で、言葉を捻り出す。
「自首するんだ。今まで盗んだ物も、返せる物は返そうと思っている」
「自首だって? 何年も刑務所から出られないんだぜ? 一日に何時間も働かされる。それに盗んだ物を返したところで自己満足でしかない」
 自己満足。その通りだった。今まで俺によって盗難の被害を受けてきた人々に刻まれた恐怖や傷、悲しみは、盗品を返却したり俺が自首して法的に罰を受けたところで無くなりはしない。結局俺の中で勝手に罪を償った気分になるだけで、他人から見ればいつまでも俺は盗人のままなのだ。
「じゃあどうすればいい? どうすれば俺は綺麗になれる?」
 馬鹿みたいに問う俺へ現実を突きつけるように、ヘルマは手のひらでテーブルを強く叩いた。衝撃でテーブルに乗っていた落ち葉や砂がパラパラと地面に落ちる。そして霧雨のように静かに告げた。
「このゴミ溜めで生まれ育って、ずっとコソ泥やってきた俺達が、今更綺麗に生きられるわけないだろ」
 俺達の汚れってのはもう魂にこびりついてるんだ、とヘルマは嘲った。たとえ窃盗から足を洗ったところで、その罪は一生拭うことはできない。そんなことは知っていた。初めて物を盗んだ時、罪悪感を心の奥に押し込めて忘れた振りをしたあの時から知っていた。仕方ないことだと自分に言い訳して、ずっと他人を傷付けてきてしまった俺には、今更真に綺麗になる資格も手段も存在しない。
「それでも、自分の心に対してだけは綺麗であろうと思いたいんだ」
 この薄汚く無秩序なスラムで美しくあろうとしたリュコスのように。好意だなんていう陳腐なものではなく、彼女にずっと憧れていたことにようやく気付いたのだ。
「そっか。……さっきも言ったが、別に止めはしない。アウトがそうしたいならすればいいさ」
 ヘルマは、今度は嘲笑ではなく、優しく温かく微笑んだ。こういうところが憎めないんだよな、と釣られて俺も笑った。

 自首する前に今までの盗品を返そうと思ったのだが、自分の住処に戻るとその劣悪な環境によってほとんどが劣化していることに気付き、到底返せるような品質ではないことを悟った。金もない今、新しく同じ物を買うなどの対処もできないため、盗品を返すというのは諦めた。いつか出所してから個人への償いは考えようと思った。
 劣化していない盗品を探して住処をひっくり返しているとき、編みかけの赤いマフラーを発見した。このマフラーは幼い頃、俺が渡した裁縫道具箱の中に入っている鉤針を使ってリュコスが編んでいた物だった。製作途中で貴族に連れていかれてしまい、ずっと編みかけのまま放置されていた。俺はこのマフラーを完成させて、盗んだ裁縫道具と共にリュコスに返そうと思い至った。確かリュコスはコーヒー缶の口に釘を均等に取り付け、そこに毛糸を通して編んでいたはずだ。途中まで編まれていたマフラーを少し解いて、毛糸の通り方を確認する。針と糸でチクチク縫っていくような裁縫だったら難しそうだと思っていたが、これなら俺にもできそうだ。裁縫道具箱の中には毛糸も入っていたので、もし途中でなくなってしまっても追加することができる。早速缶と釘を探して拾い集めてくると、俺はマフラー編みに取りかかった。
 釘の外側と内側に交互に毛糸を通しながら進み、二周したところで下の毛糸を引き上げて釘に引っ掛ける。この繰り返しだ。幼い頃はリュコスが会話をしながらこれを進めていたことに驚いていたが、実際にやってみると単純な作業であるため、慣れてくると考え事をする余裕も生まれてくることに気付いた。皮肉なことにスリで鍛えられた手先の器用さによって、毛糸を通すスピードはぐんぐん上がっていき、缶の中に伸びていくマフラーのように複雑な感情が全身に重くのしかかる。これが終われば俺は自首するんだ。マフラーを缶から外し、最後に玉房状のポンポンを作ってその両端に縫い付けると、薔薇のように赤く美しいマフラーが完成した。

 ヘルマに頼んでリュコスを探してもらい、その家を突き止めてもらっていた。あとは彼女が家を出る時間を見計らって、玄関にマフラーと裁縫道具箱、そして不審物ではなく俺が置いた物だと知らせるための手紙を置くだけだった。リュコスが現在出入りしている家は大通りに面したテラスハウスで、おそらく貴族の別荘なのだろうということは想像に難くない。俺は通りを挟んで向かいの壁の隙間に身を隠し、その機会を伺っていた。
 あまり長い時間潜伏することもなく、リュコスはあの時と同じハンドバッグを肩にかけて家を出た。違うのは、ハンドバッグを体の前にかけ、その口を腕で押さえていた点だ。あの時俺が盗んでしまったから、外に出るときは警戒するようにしたのだろうとすぐに察した。俺みたいな人間のせいで、普通に生きている人々は余計な注意を払わないといけなくなってしまう。自分は裁かれるべき人間なのだと改めて悔恨の念に駆られた。
 俺は怪しまれないよう静かにゆっくり大通りを突っ切ってリュコスの家の前に向かい、懐から贈り物を取り出す。土などで汚れないように新聞紙を敷き、その上に帳面に折り畳んだマフラーと手紙を添え、風で飛ばないように裁縫道具箱を重石代わりにして上に置いた。彼女が帰ってきてこれを発見すればもう俺に心残りはなくなる。リュコスと顔を合わせる気はなかったので、彼女がちゃんと拾ってくれたのか確認するのはヘルマに頼んだ。万が一別の人間が先に気付いたりしてリュコスの手に渡りそうになかった場合、直接渡してもらうためだった。
 これから俺のやるべきことは、警察へと赴いて今までの罪を自白することだけだ。いつもより重い足を引きずって、俺は警察署の方へと向かった。

自分の非行は罪の味

自分の非行は罪の味

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-18

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