私の中の君へ

 私の中ではわがままで自由奔放な頃で止まっている彼女が、静かに白いドレスを纏って佇み、私が知らない男と愛を誓って口付けをしていた。鐘の音がうるさく鳴り響き、頭を殴りつけられるようだった。
 誓いの言葉が呪詛のように私の体を締め付ける。
 ブーケトスで盛り上がる彼女やその夫となった男の親類を尻目に、私はトイレに向かう振りをして離れ、親から借りた煙草臭い車に乗り込んだ。このまま帰りたいところだが、そういうわけにもいかない。
 煙草を一本吸って気を落ち着かせると、車を降りた。いつのまにか幸せになっていた、十年以上も会っていない幼馴染の元へと戻るために。

 鐘の音が、鳴っている。
その音は何故だか私に、似ても似つかぬヒグラシの鳴き声を思い出させた。彼女と一緒に廃墟を探検したのは……あれは小学校六年生の夏休みの終わりだった。宿題を終わらせようとしていた私は無理やり連れ出されたのだ。彼女は「小学校最後の夏休みなんだからいつもと同じことをやってもつまらない」と言っていたが、「○○最後の〜」といった言い回しには全く心を動かされない。来年も再来年も、日々は等速で繰り返す。中学生になろうが、元号が変わろうが、訪れる時間そのものに変わりはない。しかし、好奇心で美しく輝いた彼女の瞳と、彼女に握られて熱を帯びた右手が、私にその年の宿題を放り出させたのは事実だった。
 彼女とは中学で話すことはなかった。思春期によって男女の溝は深まり、学校全体の雰囲気として男子は男子と、女子は女子と話すような空気が邪魔をしたのだった。もともと内気で大人しかった私には友人も少なく、男子とすらあまり話していなかったような男が、そのような空気を無視して女子に話しかける勇気など持ち合わせてはいなかったのである。中学校は二クラスあり、私と彼女はクラスが違った。三年間クラス替えを行わないため同じクラスになることはなく、二人の距離は更に遠くなり、会話をするどころか見かけることもほとんどなくなった。そういうこともあり、私は中学を卒業するまで彼女を取り巻く最悪な環境に気付けなかった。
 彼女は中学三年生のとき、ずっとクラスメイトに無視されていたのだった。どうやら外国人の血が混ざっているとか、そんな理由らしいということを後に母から聞いた。彼女の母方の祖母がイタリア人らしい。子供達は理由をよく知らないまま、ただ大人達が彼女の家族を迫害しているという空気を察して無視していたらしい。人間は空気に動かされる。感情は空気に左右される。昭和後期にもなってそのような旧時代的な差別が発生する限界集落が、私達の住む小さな町であった。
 そして中学卒業前、彼女の父親が交通事故で他界し、それを追うように母親が不整脈によって他界したため、彼女は他県にある親戚の家へと引っ越して行った。どちらにせよ彼女が入学する高校はそちらの方にあったため、彼女がこの町を出ることは必然だった。
 私と彼女は別れを告げることもなく別れた。
 彼女の家の場所もわからず、電話番号なども知らないため連絡手段もなく、これ以降、私達が出会うことはもう無いと思っていた。だがその予感に反して、私の中の彼女はその存在を増していった。

 それから十年が過ぎ、突然彼女が連絡をよこしてきた。母が出たのだが、彼女は彼女であることを知られれば切られるのかもしれないと思ったのか、配達員の振りをして私を呼び出した。子供の頃にやったスパイごっこを思い出す。周りの人に内容や相手を悟られないように応対するというものだ。秘密基地を作って遊んだり虫を捕まえたり、スパイごっこといい、彼女はおおよそ女児らしいとは言えない、どちらかというと男児的な遊びを好んだ。
彼女はクッキーが好きで、よく秘密基地に持ち込んでは食べていたのだが、そうやって好きなものを食べる彼女の顔は、女性らしい可愛さと同時に親のお菓子を隠し持ってきてこっそり食べるという背徳に満ちた笑みが混在し、まるで道端に咲くスミレの花のような可憐さを醸し出していた。
「君は、クッキーは好き?」
 何となく恥ずかしさを覚えた私は、別に、と素っ気ない返事をすることしかできなかった。あの記憶は今でも鮮明に私の脳裏にぶら下がり、ふとした時に思い出しては後悔を繰り返していた。
 母から電話を代わると、その声から一瞬で彼女であることに気付いた。多少声は変わっているものの、話し方やその雰囲気で察することができた。そして配達員の振りをした理由も。私は昔を思い出しながら、彼女の結婚式のことや場所、現在のこと、連絡先などを聞き、はい、わかりました、と他人行儀な受け答えをしながら、自然と笑みを浮かべていた。事情を知らない者から見たらただの配達員と口角を上げて電話するという何とも気味が悪い絵面であり、スパイなどとは程遠い状況だったが、それでも真顔を保つことはできなかった。
 電話を切ると、彼女の「結婚する」という言葉が重くのしかかってきて、私は床に座り込んだ。ギィ……と床がしなる音がする。さっきまでの楽しさとは打って変わって、押しつぶされそうになりながらしばらくうなだれていた。深くため息を吐いた。何年も関わりを失くしていたというのに、どうしてこんなに体が壊れていくのだろう。だらりとぶら下がった電話線を、蟻が這っているのが見える。
 中学を卒業した日から――――あるいはもっと前から、希望なんてなかったはずなのに。

 結婚式に出席した数年後の春、私は彼女が住んでいるという家の近くに仕事の用事があり、そのついでに彼女の家を見に行った。彼女に会うつもりもなく、すぐに帰るつもりだったので何も伝えてはいない。
 そこは彼女の夫の実家らしく、大きな古式の家で広い庭があった。庭には小さい砂場があり、子供用の赤いプラスチックのスコップと、青いバケツが放置されていた。
「お母さん見て〜」
 彼女の面影を残す小さな女の子が、泥団子を持って、縁側に座る彼女に駆け寄っていくのが見えた。心なしか、彼女のお腹は膨らんでいるように思えた。
 彼女の後ろには畳の部屋が広がり、泥団子を持つ女の子の身長にはまだ随分と高い机が置いてあった。その横には、傷ひとつない真っ赤なランドセルが掛けられている。
 老婆が――――彼女から見て義理の母が、湯気の出る茶を丸いお盆に乗せて持ってきた。仲が良いようで、二人はしばらく話を続けていた。
 幸せそうに子供や義母に笑いかける彼女を見て、私はもう彼女のことを忘れ、自分から関わることをやめようと誓った。

 彼女が病気で亡くなったと聞いたのは、それから一年ほど経った夏であった。彼女の夫が、彼女の部屋にあった私の家の電話番号が書かれたメモを見つけて電話してきたのだった。聞いた話によると、彼女の両親の死因と同じく不整脈であったとのことだ。遺伝性のものであったのかもしれないし、ただの偶然であったのかもしれないが、その真偽は私には分からない。
 彼女の葬式に招待されたので、私は出席することにした。関わらないとは誓ったものの、最期の姿くらいは見届けたいものだ。幼馴染として、それくらいはやるのが筋だろう。などと自分に言い聞かせるように呟いた。
 私は香典として、家からくすねてきた二升の米と些細な現金を持って葬式に赴いた。葬儀は彼女の夫の家で行われた。去年の春に覗きに行ったあの家だ。葬式はほとんどが彼女とその夫の親類で、葬式の規模から考えておそらく遺族の血縁者ではない者は私だけか、他に居たとしても数人だと思われる。
 読経が始まり、私は襖を取り払った大きな座敷部屋の最後列で正座をした。前から遺族とその血縁者が座っていき、血縁が遠い者ほど後ろに座るのが通常の葬儀の様式である。血縁ですらない私は最後列に座る他ない。無論、彼女の棺を見に行く余裕は物理的にも精神的にもなかった。祭壇の片隅に置かれた作り物の鹿の瞳がこちらを睨みつけて光っており、分を弁えず棺に近付けばその艶やかな角でひと思いに突かれそうで身震いした。
 遺族の血縁者から見れば私は余所者であるため、歓迎はされていないのだろうと勝手に思いこんでおり、少し居心地悪く感じていたのだが、忌諱の視線を感じないことや陰口のようなものが聞こえないこと、周囲の雰囲気から鑑みるに、どうやら当の遺族らは全くそう思っていないらしい。都会の者と田舎の者の考え方の相違かもしれない。そもそもこのような偏見的な思想が彼女とその家族を村八分にし、彼女を傷付けたそういう思想を私も忌み嫌ったはずだったのに、田舎で育った私もそういった思想に汚染されていることに気付いて自らのことを気持ち悪く感じた。彼女の優しさの、欠片でもいい、ほんの少しでいいから私の心にも芽生えてほしい。目の前に正座する人の喪服の背中に、吸い込まれそうな闇を感じていた。そこにかつて私自身を憎んだ私の顔が浮かんできて、私に死ねと言う。正座した足に血液がたまり、痺れを帯び始めた頃、読経が終わったらしく皆が立ち上がり始めた。震える足に精一杯の力を入れて立ち上がると、正常に血が通い始めて痺れが引いていくのが分かる。それでも足は静かに震えていた。
 彼女の遺体を火葬するため、山の中腹にある火葬場まで、遺族は大型バスで、私のような親類ではない者は自分の車で向かう。火葬場までは行かないという者もいて、車は私のものとバスと霊柩車の三台であった。霊柩車とバスの後をつけて細い山道を登っていき、対向車に遭遇することもなく火葬場に到着した。火葬場までの距離は実際には十五キロメートルほどあったのだが、体感ではもっと長かったようで短くも感じていた。もうすぐ彼女の肉体は完全にこの世から消え去るという哀惜の思いがそう感じさせたのだろう。
 彼女の火葬が始まった。遺体は巨大なオーブンのような火葬炉に入れられて火をつけられた。参列者たちは完全に燃え尽きるのを待つあいだ、広い座敷に集められて時間を潰していた。私は話し相手もおらず、最初は一人座敷の端の方で天井を見つめていたのだが、彼女の子供らしき娘と親類の少年が走り回っていたのでどうしてもそちらに目を向けてしまう。彼女にどことなく雰囲気が似ている活発な少女と、ひ弱そうな体で陰気な少年を見て、いつのまにか私自身の子供時代を重ねていた。私と彼女も、昔はあんな風に山の中や田畑の中、畦道、森などを走り回っていた。彼女の方が私の前を走り、私はいつも追いかける方だった。
 今回だってそうなってしまった。
 娘が床の間にある花瓶を蹴り飛ばし、父親に叱られてから静かになった。花瓶が倒れて水がこぼれた場所が黒い染みになっている。むくれた顔で娘は胡座をかいた父親の足に座っていた。叱られはしたものの、自分が悪いことを知っているのだろう。顔とは裏腹に嬉しそうな足の動きから、父親のことは大好きなのだろうとも感じ取れる。自分がその男の立場にいたとしたら、などとは考えることができなかった。
 一時間半ほどで火葬は終わった。報告を受けた遺族達がぞろぞろと部屋を後にし、私は最後に部屋の電気を消して出た。火葬炉から取り出された棺の中には大量の灰と人間の骨がある。彼女の面影の欠片も残っていない黙りこくった骨との対面に、悲しみとも怒りとも解りえない感情が渦巻いていた。係の人の指示に従って棺の前に集まり、人々は遺骨を囲む。喪主(彼女の夫)が骨壷を持って頭の方に立ち、幼い娘を抱いた老婆、先ほど走り回っていた娘と続き、故人と親等が近いものが順々に並んでいった。もちろん故人とは血の繋がりもない私は列の最後尾、遺骨の足元に立たされた。私の隣には、座敷で彼女の娘と一緒に走り回っていた少年が無表情で立っていた。
 そして、お骨上げが始まった。喪主と母が棺を挟んで立ち、二人で足の指の骨を左右非対称の箸で拾い上げ、骨壷に入れる。次の親族の人が腕の骨を、腰の骨を、というように二人一組で次々に拾い上げていくと、私と隣に立っていた少年が残った。面識もなかったのだが、残った二人だからということで我々が一緒に肋骨を拾うことになった。互いに一本の肋骨の端と端を箸で摘み、持ち上げた。
 すると、力の入り具合が悪かったのか、息が合っていなかったのか、肋骨は中腹ほどで割れ、断片が私の方へと飛んできた。もともと火葬後の骨は脆くなっていて崩れやすいのだが、持ち上げたところで割れるなどとは誰が予想しただろうか。私の胸に当たって床に落下した骨は、そこで砕けた。
「すみません! すぐ拾います!」
 ざわつく遺族達に咄嗟に謝罪をして、私は急いで床にしゃがみ込んだ。ほとんど粉々になっている骨を手に集めようとして、ふと魔が差した。最も大きく形が残っている骨片を、こっそり自らの胸ポケットにしまったのだ。そして小さな骨片や粉を手に乗せて棺の中にばらまいた。申し訳ありませんでした、ともう一度謝罪して、再び骨を拾い、今度は落とさずに骨壷に収めた。その後お骨上げは喪主からもう一周していたが、私の番まで回って来ることなく収骨は終わった。

 家に帰ると、喪服の上だけを脱いでハンガーにかけ、すぐに寝ていた。翌日目を覚ましたのは昼の十二時を回っており、両親とも仕事に出かけてしまっていた。両親は出勤しているが、私は今日の仕事が休みなのでしばらくベッドに寝転がって、染みの広がる古い天井を見つめていた。
 十四時頃になって漸く重い腰を上げた私はジャージ姿に着替えると、喪服の胸ポケットの骨片を持って台所へと向かった。ボウルに溶かしたバターを入れて混ぜ、砂糖を加える。小麦粉をまぶし、混ぜ合わせた後に、傍に置いていた骨片を綺麗に洗った金槌で粉々に砕いて混ぜ込んだ。
 オーブンで十五分ほど焼き、クッキーが完成した。私は机の引き出しに入れていた、二十年程前に彼女からもらったクッキー缶を取り出して洗い、水気を拭き取ると、そこに作ったクッキーを並べた。そしてそれを持って、家を出た。
 彼女と共に歩いていた道を、彼女の骨壷のようなクッキー缶を持ってしばらく歩いた。まるで一人だけの葬列だった。一人だけだったら列などとは呼べないので、これは一体何だろう。彼女の死出の旅路を踏みしめながら、過去へと時間を遡る。私の少し前を少女が走っていく幻覚を見た。そう、これは幻覚だ。幻覚と知っていても、私は彼女を追いかけて走った。
 汗まみれで荒々しく肩で息をしながら、いつか二人で作った秘密基地の跡地に着いた。ただの粗大ゴミの不法投棄現場なのだが、あの頃の我々にとっては宝箱だった。破れたソファを引きずって、トタンを立てたり被せたりして作った簡易的な基地の中に設置していた。横に倒した汚いドラム缶に毛布を敷き詰めて布団のようにしていた。それらはもうすっかり雨風で朽ち果てていて、土を被ったただの汚い粗大ゴミでしかない。私は元秘密基地の方を向いて、少し大きな石の上に腰を下ろした。冷んやりとした硬さが、運動して熱を帯びた体にちょうどいい。
 持ってきたクッキー缶を開ける。ここまで走ってきたので、中のクッキーは少し欠けたり列が乱れたりしていた。それを一つつまみ、口に放り込んだ。
「好きだった」
 そう一言呟いて、静かに自らの咀嚼音を聞いていた。

私の中の君へ

私の中の君へ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-18

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