暗闇の住人
我々は生まれる前から不自由を身に纏っていた。
「絶対に屋敷の外に出てはいけないよ」
両親から毎日のように言い聞かされていたその言葉は、私が十三歳を迎えるほどにもなると鼓膜にこびり付いている。兄などはもう十五年間聞き続けている訳であり、私以上にうんざりしているに違いない。
「じゃあ今からお父さんとお母さんは仕事してくるけど、絶対に外に出ないようにね」
そして今日もまた、いつもと同じ言葉をかけられた。両親は夜勤で金を稼いでいる。夜になるとこの家を出て職場に向かい、日が昇るまで働き、日が昇ると職場で次の夜まで過ごし、日が暮れると帰ってくる。つまり一日おきに仕事に向かうのである。
「わかってるって、いーっつも聞いてるし。なあ守(まもる)?」
兄の進(すすむ)は食傷気味に眉をひそめて私に語りかける。兄にはこれ以上言っても無駄だと判断した母は、私の方へにっこりと笑顔を向けるともう一度同じ台詞を吐いた。
「外には出ないようにね、守」
私も兄同様に飽き飽きしているのは確かであるが、そのような顔をするとまた面倒だと思い、従順に頷いた。
「もう二人ともちゃんとわかっているさ。そろそろ行こう」
父が扉を開けながら母に声をかける。そうね、と母も外の方に向き直って、揃って出て行った。
今夜は新月で、戸の外にはこの屋敷と同じ暗闇が広がっていた。
屋敷に取り付けられた窓はすべてシャッター商店街のごとく閉ざされており、一筋たりとも日光が屋内に侵入するすべはない。
更に屋敷の中には電灯や放射光量の多い電化製品の類がほとんどなかった。そのため屋敷内はほぼ完全に暗室となっているが、私達の家族はほんの微弱な光でも物が見えるので問題はない。問題があるとすれば、外部の人間が入ってくる場合である。普通の人間にはこの屋敷の中は真っ暗で何も見えないので、薄暗い懐中電灯を点けてもらうことになっている。それでも彼らには暗いのだろうが、我々の生死に関わるというので我慢してもらうしかなかった。
私の家系の者はみな光に弱いらしく、陽の光を浴びると身体が砂になって消えてしまうと言われている。調べてみると光線過敏症と呼ばれる病気があり、日光を浴びると異常な皮膚症状を起こしたり癌を誘発しやすくなったりするらしいのだが、この病気の重度の症状ではないかとされているようだ。だとしても人間の肉体が粉微塵になるなど俄かには信じ難いので、砂になるというのは流石に誇張ではないかと私は睨んでいる。兄などは親の言葉そのものをあまり信用しておらず、外に出る機会を伺っていた。
ともかくそのような理由から私も兄も外に出ることは許されず、この屋敷の中で十余年を過ごしている。幸いにも屋敷は広く、書庫には眼を見張るほどの蔵書があったので退屈はしなかったし、両親や家庭教師に勉強を教えてもらえたのでこの国の一般的な子供と同等かそれ以上の教養は身につけられていたはずである。
私達の体質は指定難病とされているため、研究への肉体提供による報酬と国からの支援によって広い屋敷の費用はほとんど賄われているという話だ。両親が働きに出るのは、我々二人に屋敷の中から出られなくても一般の子供と同じぐらいの学習や運動の経験を積ませてあげたいという想いからだと以前家庭教師に聞かされていた。おかげで我々は屋敷内で走り回ったり勉強を教わったりすることができ、体力も知識も、健常な子供と並ぶほどには手に入れているはずである。
しかし、知識を得れば得るほど外への好奇心は募るばかりであった。
「今夜外に出よう」
服や書籍、菓子の包装などが散らばる兄の部屋に赴いた私の体を、興奮気味の兄が揺さぶった。両親は働きに出ていて不在、新月なので屋敷には来訪者もいない。この屋敷は山奥にあるらしく、夜は月明かりがないと普通の人間には危険なので、新月の夜には誰も訪れないのだ。現在この屋敷には私と兄の二人きりで、兄はこれを外に出る好機だと考えたのである。
「本当に出るの?」
心配症の私は日光に晒されて本当に死んでしまうことも怖かったが、何より両親の言いつけを破ってしまうことに抵抗を感じていた。
「一回くらいバレないって。お前も外の世界が気になるだろう?」
好奇心に語りかけてくるあたり、兄は私のことをよく理解していたと思う。理性と好奇心が秤にかけられたとき、さまざまな要因が絡み合って好奇心が勝ってしまうことは人間の心理上よくあることだ。今まで一度もこの目で見たことのない外界を、自由を手に入れたいという渇望は、私の中で膨れ上がり、やがて理性を上回った。
「……わかったよ」
あくまでしぶしぶ兄に付き合ったのだという両親への言い訳を想定し、わざと間を空けて兄に答える。
「万が一のために全身を覆う服を着ていこう」
言いながら兄は机の横にあるカラーボックスに手を伸ばす。机の上に置いてあったスナック菓子の袋に手が当たって中身がバラバラと床に落ちるが、気にも留めない様子が私には理解できない。ボックスを漁った兄は黒い革手袋と黒くて厚みのある布、黒い靴下、そして黒いツナギをそれぞれ二枚ずつ取り出した。
「今からこれを縫い合わせよう。手袋を袖に、靴下を裾に、布を襟元に頭が入るように縫い付けて、もし光が差しても体に当たらないようにするんだ」
大雑把で行き当たりばったりな兄がいつになく周到に準備していて、私は兄が外に出ようと言い出したことよりも驚いた。
「いつから外に出ようだなんて計画立ててたの?」
衣類一式を受け取りながら尋ねると、兄はずっとだよ、と呟いて裁縫を始めた。私も自分の部屋に戻り、縫合に取りかかる。やはり自分の部屋の方が落ち着く。服はタンスに、ごみはゴミ箱に、本は本棚に。きちんと整頓している部屋は、兄の部屋と同じ間取りだとは思えないほど広く感じる。少し涼しいのも、決して思い込みではないはずだ。針に漆黒の糸を通し、布を重ね合わせて隙間ができない本返し縫を繰り返していく。布のこすれる音がひんやりとした部屋に充満して、ぬくもりを与えている。
このとき兄の分も一緒に縫合するべきだったと後悔するのはこれから約六時間後のことであるが、このときの私は自由に対する胸の高鳴りと自分自身のことで頭がいっぱいで、そこまでは考えが及ばなかった。
それから一時間後、縫合を終えて全身を覆った兄と玄関で合流した。顔の布に穴はないが、我々の瞳はほんの微弱な光を捉えて像を映すことができるため支障はない。ポケットから懐中時計を取り出して確認すると時刻は零時を回り、世界には私達以外に生きているものはいないのではないかと思わせる静寂に、耳鳴りが戦慄いた。
「じゃあ、開けるぞ」
兄はなぜだか小声で合図をして、ゆっくりと扉を押す。ギギ、と鈍い音を奏でながら扉は開き、外界の暗闇と眩い光を放つ星々が二人の視界を染め上げた。一歩、二歩と足を踏み出すと、身を刺すほどに冷たいはずの風がやわらかく身体を包んだ。足の裏に、靴下越しに冷たい土の感触が伝わってくる。周囲の木々がざわめき、姿の見えない虫と共に歓迎の歌を口ずさむ。屋敷の中の暗黒とは似ても似つかない美しい暗闇は、ここが君達の住む世界だと示してくれている。
間違いなく、私達はこの世界の住人なのだ。
私の生涯でこの瞬間以上の感動はおそらくないだろう。普段は騒がしく喜ぶ兄も、言葉を失って歓喜に打ち震えていた。
「兄ちゃん、すごいね」
私の口を衝いて出た言葉が夜に吸い込まれ、ひときわ大きな風が吹き抜ける。兄がゆっくりと足を上げて前進を始めた。五メートルほど離れたところで自分の身体の動かし方を思い出し、私もあわてて付いていく。
「日が昇る前に行けるところまで行こう!」
徐々に調子を取り戻して走り出した兄の背中は、いつもより大きく躍動している。私達は舗装されていない車一台分の幅の道を走り抜け、砂利を撥ねる感触を味わいながら空気を大きく吸い込んだ。
しばらく走っていると、突然、兄の身体が視界から消えた。
一体何が起こったのか理解できず、思考が停止する。ゆっくりと、兄の叫び声が脳裏を掠めて消えていく。数秒後、兄が崖から転落したことを悟った。
「兄ちゃん!」
即座に崖の下をのぞき込んで叫ぶと、遠くから大丈夫だという兄の声が聞こえた。ひとまず無事が分かって安心したが、目の良い私達でも相手の姿を確認できないほど兄のいる場所までは距離があり、もちろん手の届くような高さではなかった。別の道を探して合流するしかないようだ。私がいるところから道に沿って山を下っていけば必ず同じ高さになるはずなので、兄に向かう方向を伝えてお互いに合流を目指して動き始めた。
生まれて初めての外の世界を、一人で歩くのは心細かった。一刻も早く兄と合流したくて夢中で走った。つい数時間前までは沸き立っていた心も焦りと怖れに支配され、けたたましく鳴る不気味な葉音や虫の鳴き声がより一層恐怖を煽ってくる。やわらかく身体を包んでいたはずの風が牙を剥き、全身を突き刺している。途中で見つけた洞穴の闇に吸い込まれそうで、その場から早く立ち去ろうとして加速すると白い息が漏れて血の味がした。靴下越しに伝わる地面の無機質な凹凸が私の足を絡めとろうとするが、恐怖と共に振り払うように強く踏みこんで駆けた。
転落から二時間後、時刻はもうすぐ三時になる頃、ようやく兄との再会が叶った。私は兄に駆け寄って抱き付き、そんな涙目の私の頭を兄は優しく撫でた。
「心配かけてごめんな」
夜明けが予想される五時過ぎまでは約二時間。登り道であることも考慮すると少々急がねばならない。道はほぼ一本で、微かに私の足跡が残っているため迷うことはなかった。二人で急いで屋敷の方へと向かう。先ほどまでは恐怖に塗れていた心も、兄と一緒に居ることで温かくほぐれていた。安心して兄の顔を見たその瞬間、小石を踏んで足首から鈍い音が聞こえた。突然の痛みにその場で崩れ落ちる。足を挫いたのだ。少し前を走っていた兄は私に気付き、大丈夫かと声をかけながら戻ってきた。私が痛みで立ち上がれないことを悟ると、兄は私の身体を背負った。
「おぶってやるから、早く帰ろう」
幼い頃の記憶が呼び覚まされ、兄の背中の温もりを思い出す。私はその首元に手を回し、ありがとうと呟いた。すると兄は前を向いたまま少し俯き、加速した。
「当たり前だろ、俺はお前の兄ちゃんなんだから」
ついに時刻は五時を回った。空は少しずつ白んできて、黒い布越しでも羞明を感じ始めた。視界の大部分が光に覆われて道は見えにくくなり、黒い影が浮遊し始める。脳の奥から危険信号が聞こえてきた。太陽の下で生きられない、暗闇の住人の遺伝子に刻まれた本能が告げているのかもしれない。早く日光の当たらない場所に、屋敷に戻らなければ。
突如として兄が盛大に転がり、背負われていた私は地面に投げ出された。
「兄ちゃん!? どうしたの」
全身の痛みを我慢しながら、腕で身体を支えて起き上がる。
「わからない、いきなりバランスが崩れ……」
兄は自らの足を確認したその瞬間、驚愕して言葉を失った。同様に私も金槌で頭を殴られたような衝撃に襲われた。
兄の右の裾が不自然な方向に曲がっており、後方の地表に微量の灰色の粉が散らばっていた。両親に頭がおかしくなるほど聞かされた言葉が蘇る。
「日光に当たると身体が粉微塵になるんだ」
はっとして兄の右足に這い寄り、その裾部分に触れた。足首が消え失せており、糸で裾と繋がった靴下の中に足先だけが包まれている。糸と布の間に隙間ができており、薄く細い光の筋が何本も衣服の中に入り込んでいた。
「うわああああああッ!!」
自らの身体に起こった変化をやっと正しく認識した兄が絶叫し、周囲の木々から鳥の飛び立つ音が聞こえた。不規則に動き遠くに消えゆくその影が日光の襲来を物語っていた。
「と、とにかくどこか光の当たらないところに行こう!」
私は泣き叫ぶ兄の腕を引き、木の影へと向かう。そのとき、転落した兄の元へと向かう時に見かけた洞穴が目に入った。目算でもここから百メートル近くはあるが、屋敷に向かうよりはずっと早く避難できるはずだ。足の痛みなど忘れて、必死に洞穴の方へ兄を引きずっていく。ビリビリという音が、兄の悲鳴が、鶏の鳴き声が、次々に鼓膜を揺るがし鼓動が早くなっていく。
すべて気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。
兄は無事なんだ。自分は洞穴に辿り着けるんだ。まだ朝は来ていないんだ。
自らに言い聞かせるように何度も呟きながら洞穴を目指した。腕が軽くなっていくのは暗示が効いたからだ。あり得るわけがないのに、頑なにそう信じて前だけを向き、歩き続けた。見たくないものから目を逸らしていることには薄々感付いていた。
本当は悲鳴が聞こえなくなったことにも気付いていた。
「兄ちゃん、洞穴に着いたよ。もう大丈夫だよ」
私は兄の右腕に語り掛けていた。
限りなく狭まった視界に映る薄色の現実が私に降りかかった。洞穴の外には破れた布切れが点々と落ちており、その付近に灰色の粉末がこぼれている。そして、かつて兄だった粉末は暖かい風に煽られて宙に消えていった。
兄の衣服が破れた原因は、いい加減な縫合による縫い目と転落時に枝などで引っ掻いてできた傷だろうと容易に推測できた。私が服を縫っていれば。走る兄を宥めて注意深く地面を見ながら歩いていれば。足を挫いたりしなければ。
外に出ようとする兄を止めていれば。
さまざまな仮定が脳裏を過ぎり、涙を連れてくる。冷たい地面に座り込み、兄の腕を抱きしめながら泣き続けた。こんな状況でも腹が鳴ることに腹が立つ。洞穴の奥から自分ではない水の滴る音が聞こえることに気付き、そこに溜まった水だけを口にして過ごした。
その日は一日中、嗚咽と水の滴下音が洞穴にこだましていた。
十年後、私は同じ体質の女性と結婚した。大人になった私は、全身を何かで覆っていれば昼間であろうと自由に外を歩けるようになっていた。成長と共に、僅かではあるが日光への耐性を得てくる個体もいることが、私の身体を用いた研究で新たに分かった。これまでに見たことのない症例らしく、なぜ私だけが耐性を得ているのか、そして他の個体も耐性を持たせることはできないのか、研究は進められている。しばらくして私達の間に娘が生まれた。その子には無事に大人になって空の下を歩けるようになってほしいという想いを込めて、「空乃(そらの)」と命名した。
暗闇の住人