唯一の証
――――テセウスの船、というものがある。ギリシャ神話において、テセウスがアテネの若者と共に乗った船を、アテネの人々が朽ちた木材を少しずつ新たな木材に変えて保存したが、すべて新しい木材に変わってしまったとき、その船は元の船と同じであるのか。そういう哲学的問題のことだ。
現代では、人間のすべての部位を手術によって移植できるようになり、また臓器だけを生きたままの状態で保存することまで可能となった。
その結果、体の悪い部分だけを人と取り替えることで健康な体を手に入れる人は増えた。もちろん、全てにおいて健常な人間を切り刻んで取り替えるなんてことはなく、移植を行うのはドナー本人に移植の意思がある場合、もしくは本人の意思で身体提供バンクに加入していた者が何らかの疾患や後遺症により昏睡状態にあり、意識の回復が極めて難しい場合だけである。
骨髄バンクや臓器バンクの全身版である身体提供バンクは、それに加入した者が脳死・植物状態などになったりした場合に体の一部を他人へと移植したりすることが問題なく可能になる。また身体提供バンクに加入するとさまざまな店や施設で割引が効くなどの特典が付いていたため、加入者は多かった。臓器移植法は身体機能移植法に改定された。当初は批判も相次いだが、人の命を救うことに直接繋がるということもあり、次第に移植を否定する者は少数派となった。
また、同じように身体の必要な部分を、細胞を増殖させることで複製することも可能となった。こちらはまだ完璧ではなく、生きた人間から移植する方が主流であった。
しかし、自らの肉体の大半が他人のものや人工物となったときに精神を病む者も現れたことから、術後のケアが重要となってきた。
そして、僕も精神を病んだ患者の一人だった。
先月、僕は交通事故に遭った。トラックに轢かれて首が吹き飛び、頭部表面は見る影もなく無残な血だるまとなり、体もただの血と肉片になってしまったらしいが、不幸中の幸いと言うべきか大きな病院の近くだったため、迅速に脳を冷凍保存することができ、何とか生き長らえさせることができたそうだ。その状態を「生きている」と言えるかどうかは意見が分かれるだろうが。
そのまま一ヶ月を過ごし、ようやく脳死だが五体満足のドナーが見つかったことで移植手術が行われたらしい。しかし、脳は一ヶ月の冷凍保存により大部分に凍傷を受けて完全な再生は難しかったため、その可能性を考えて先に別のところに保存していた記憶を、脳細胞の一部を増殖させることによって作られた脳に移し、その人工脳が移植された。脳の移植手術はほとんど前例がなく、また人工脳であったために、病院側も失敗のリスクは相応にあると判断してすぐには行わなかったそうだが、ドナー・患者双方の親も強く希望していたことにより手術に踏み切ったのだという。
そして術後二週間。僕は意識を取り戻すと、全くの別人へと変わっていたのである。脳以外すべて他人のものであり、唯一その人のものではない脳はつくられた人工脳だ。つまり、僕であった部位など存在しない。あるのは僕の記憶と意識だけだ。新しい目で初めて見た病室の天井は仄暗く、靄が渦巻いているような気がした。
僕の名は明石(あかし)唯(ゆい)。高校一年生だった。そしてこの体は船木(ふなき)一(はじめ)という同じ年齢の男性のものらしい。筋肉は落ちて不健康そうに痩せてはいるものの、元の僕よりずっとイケメンで、鏡を見るたびに少しイラッとするのと同時にこんな容姿を奪ってしまったことに申し訳なく思った。
一は二年ほど前に全脳死と診断されており、回復の見込みはなかった。彼の脳機能は既に停止しており、記憶も破損していることから、僕のように人工の脳に意識を植え付けることもできなかったらしい。それでも親が諦めきれず、延命措置を続けていたそうだ。僕の脳(厳密に言うと僕の意識と記憶がインプットされた人工の脳)の移植の話を聞いて、逡巡の後に中身が別人とはいえ息子が動く姿をまた見られるならと受け入れたという。
また僕の親も、たとえ外見が他人だろうが中身が僕であれば、と手術を受諾したそうだ。
僕は今日、意識を取り戻して初めて僕の両親に会う。僕の両親もどうやら意識を取り戻す前の僕を見る気はなかったようで、見舞いには一度も来ていなかったらしい。無理もない。意識のない僕なんて、ただの寝ている他人なのだから。
コンコン、と病室の扉がノックされた。返事をすると、僕の口からは異質な声が聞こえた。意識を取り戻して四日目だが、やはりこの声にはまだ慣れない。扉の外では両親の「本当にここであってるのかな……?」「体が別の人間なんだから声だって違うだろう。ここに名前が書いてあるんだから間違いない」という問答が繰り広げられている。
扉がレールを転がる音を立てながら開けられ、両親が病室に入ってきた。
「唯……なの……?」
入室早々顔を見て驚く母親の声に首を縦に振って答えると、母親は涙を流しながら抱きついてきた。
「よかった……! 本当に唯なんだ! 首の振り方が同じ! こんなにイケメンになって……」
外見が異なっていてもどうやら所作に僕の面影を見出したようだった。
父もよかったよかったと目を擦っている。
「……うん」
僕はまだ慣れない声を発しながら母を抱きしめ返した。目の前の景色が滲む。こんな、外見は他人で脳は人工の僕を、明石唯であると認識してくれたことが嬉しかったのだ。
退院したらお祝いに旅行に行こう、好きなものを食べに連れて行ってやろう、などと話をして両親は病室から出て行った。
僕はこの体になって、食べ物の好みが微妙に変わった。以前は甘いものが好きだったのだが、現在は甘いものを食べるとすぐに気分が悪くなってくる。味覚も異なるような気がして、甘いものをそれほど多くは食べられなくなった。逆に以前は魚介類を嫌っていたが、この体になってから無性に食べたくなっている。病院食で一度鮭の塩焼きが出てきて、それを食べた時に魚の美味しさが分かったのだ。おそらく、一の味覚がそのまま発現してしまったのだろう。
両親に聞かせたらどんな反応を示すだろうか。次に来た時はこんな話もしてみようと思った。
翌日は一の両親が見舞いに来るそうだ。僕はこちらの方が特に憂鬱だった。僕にとっては全くの他人だからだ。
しかしこの体の持ち主にとっては大切な家族であり、ご両親は息子の回復を楽しみに待っていたはずだ。それに大切な息子の体を頂き、感謝の気持ちがあるのは事実である。だからできるだけいい対応をしようと考えていた。
だが。
「こんなの一じゃない!」
しばらく話していると、一の母親がそう叫んだのだ。
僕の意識は一ではない。一の性格や言動、交友関係、好みなど、僕は一のことを何も知らない。味覚が多少受け継がれているが、そんな情報は一のうちのほんのわずかな部分だ。一とは鏡越しでしか会ったことがなく、その中身は自分自身だ。一の真似もできないし一のように振る舞うことなど不可能である。
この母親もそれを知っていたはずだ。医師からしっかりと聞いてその上で手術してもらうよう言ったはずだった。だがそれでも、僕が自分の息子であることをどこかで望んでいたのだろう。きっとこの母親は息子が脳死だった時点で精神的に限界だったのだろうと思うことで、僕は胸の痛みを取り去ろうとした。
当たり前だが、僕は一ではないのだ。
一の父親が壊れた妻を無理やり連れて病室を出て行くと、僕は深くため息をついた。
僕はこの体のままで生きていてもいいのだろうか。
ベッドの横の小さな棚に置かれた、一の両親が置いていった見舞いのりんごが、赤黒く光っていた。
それから一週間が経った。この一週間のあいだに何度も僕の母親が病室を訪れた。母はやたらと僕の世話をしたがるので、最初は息子に再び会えたことが嬉しいのかと思っていたが、数日観察していると母親の僕を見る目が以前と違うことに気付いた。
「汗かいてるでしょ? 拭いてあげる」「りんご剥いてあげる」「病室で一人だと寂しいよね?」「来れるときは毎日来るからね」
そしてその異常さを知った。
────この女性は僕を息子としてではなく、一人の男性として見ていたのだ。
母は十七歳で僕を産んだため、他の同級生の母親と比べるとかなり若い方だ。その上遊び回っていたらしく浮気も何度もあった。父が優しすぎて未だに家庭が続いているが、普通ならとっくに離婚している。
だからなのか、母は僕(一)の容姿を見て惚れてしまったのかもしれない。一がかっこいいのは僕から見ても事実であり仕方ない。だが、中身は僕だ。息子なのに。
ついに母の好意が気持ち悪くなって、母が帰った後に何度も吐いた。リノリウムの床を吐瀉物が広がっていく。僕はこの体を手に入れるべきではなかった。生き延びるべきじゃなかった。
今の僕は脳以外すべて一のものであり、脳は人工のもの。まるでテセウスの船だ。この僕の体のどこにも僕であった部分は存在しない。
事故にあったときに完全に死んでおくべきだったのだ。そうすればこんな苦しみを味わうことなどなかったのに。
僕はナースコールを押したあと、吐瀉物をそのままにして病室を抜け出した。無機質な床の冷たさをスリッパ越しに足裏で感じながら廊下を歩いていく。新品のように磨かれた壁に反射する僕の容姿を見ると、それだけで嫌悪感が増した。一には申し訳ないが、僕は鏡の類をもう一生見たくない。
「ごめんな」
苦悩を少しでも和らげようと頭を抑えながら階段を登り、金属製の扉を開けると、身を焦がすような熱風が吹き抜ける屋上にたどり着いた。この暑さで屋上に出てきている人は誰もいない。日差しが強く、じりじりと肌を焼かれているような感覚を思い出した。落下防止のフェンスの方へと歩いていく。
真夏の日射で熱せられたフェンスに手をかけると、料理ができそうなほどの熱が手のひらを焼いてくる。だが僕はそのまま手を置き続けた。このまま醜く焼けただれてしまえ。
一には申し訳ないと思った。
ふと地面に目をやると、まるで蟻のような人々が行ったり来たりと歩き続けている。僕もあんな有象無象の一人で、いてもいなくても世界に影響を与えることなどないのだ。
僕がそのままフェンスを越えてしまおうかと思っていたとき、ガチャリ、と屋上の扉が開く音がした。振り返ると、そこに立っていたのは高校の友達である木(き)蔦(づた)広葉(こうよう)だった。
「よう、唯」
彼は僕の、高校で初めて出来た友達だ。同じ中学からの進学者が一人もいなくて、誰とも話すことなく本を読み続けていた僕に声をかけてくれたのが彼だった。
「なんでこの外見で僕だとわかったの?」
いつのまにかフェンスから手を離して体ごと広葉に向き合っていた。焼けた手のひらがじんじんと痛みを伝えてくる。
「お前の母さんから今の写真見せてもらったんだよ」
と頭をかきながら彼は続ける。
「それにしても、いくら外見がかっこいい別人になったからって、息子に特別な感情抱くなんてどうかしてるよな」
広葉は笑いながら、平気な顔で僕の母へ悪態を吐いた。昔から、彼は思ったことを正直に言うタイプだった。そして察しがよく、例えば今回母が僕をどう見ているのかを見抜いたように、いろいろなことによく気付く。思ったことを正直に言うとはいえ、相手が言われたくないと思っていることであれば、そのことに気付いて空気を読むこともできた。ただ、嘘を吐いて隠すことは絶対にしなかった。
「本当、勘弁してほしいよ」
僕は両手を広げてやれやれというポーズを取りそうになったが、手のひらの火傷を見せたくなかったので急いで手を握りしめた。わざとらしい微笑みを浮かべてしまう。
「……まあ、お前、あんまりいろいろ抱え込まないようにしろよ? 真面目だから何でも自分のせいにしたりするもんな」
広葉は僕の肩を軽く叩くと、そのまま僕の隣に移動してフェンスに手を置いた。
「うぁっつ⁉ これ熱すぎだろ……」
熱せられた鉄で焼けた手のひらに、口をすぼめて息を吹きかけながらこちらに向き直った広葉は、かっこわりーな、と呟いた。
僕は吹き出して、堪えきれず笑ってしまった。広葉も一緒に笑った。二人だけの屋上に、僕らの笑い声が響き渡った。
「僕さ、脳は細胞増殖で作られた人工のもので、それ以外はこの船木一って人のものなんだ」
ひとしきり笑ったところで、僕は悩みを吐き出し始めた。さっきまでとは打って変わって、広葉は真剣な表情でこちらを見つめている。
「だから、僕は本当に僕なのかなって。体のどこにも僕だった部分はないんだよ」
口に出した瞬間、心臓がきゅっと締め上げられるような不安に襲われた。こんなに暑いのに体は震え、全身の毛が逆立つような感覚を持った。雲一つない空が、まるで僕を押し潰そうとしているみたいだ。
「人ってさ、新陳代謝ってやつで細胞が入れ替わり続けているらしいけど、何年とか何十年経って全身の細胞が全部入れ替わったら、その人は別人か? ……そうは思わないだろ? お前が自分は明石唯だって思うのなら明石唯だよ」
しばらくすると広葉は優しくそう言った。確かにそんな話は聞いたことがある。全ての細胞が入れ替わるとは、それこそテセウスの船みたいだ。もちろん僕の現状と新陳代謝の例ではだいぶ異なるところはある。しかし、そんな違いは些細なことのように感じた。
なんとなく体が軽くなった気がした。僕が僕である証は僕の意識の中にちゃんとあったのだ。この意識が、記憶が、僕を僕たらしめている。
「ありがとう、広葉。少し楽になったよ」
僕がそう言うと、広葉は頬をかきながら照れ臭そうに笑った。
「そんなの別にいいよ。それより学校こい! お前絶対人気者だぞ」
みんな珍しいものを見たように面白がるだけだよ、という言葉は飲み込んだ。いつものように君と話せたらそれでいいし、他の人に話しかけてもらえるきっかけにはなるから。僕から話しかけるのは苦手だけど、相手から来てくれたら割と話せる方だと自分でも思っている。
開けた空はどこまでも続いていて、街を優しく包み込んでいるようだった。熱を溜め込んだ世界がぎらぎらと輝いている。
夏の強い日差しを浴びて、シャツは体にべったりと張り付いているが、不思議と不快感はない。火傷した両の手のひらが、静かに痛みを増していた。
唯一の証