昭和の旧車名車とともに 第一部
人は誰しもさまざまな思い出をもって生きていきます。
その思い出は、人であったり、物であったり、自分とは違う何かと一緒に心に残ってまいります。
私の青春の中に車がありました。お金が無かったことと新車に興味が無かったため、新車を買ったことは一度もありません。すべて中古ですがそれでも購入した車は30台近くになりますか。それにまつわる話を書いておこうと思います。今では旧車、名車の類ですが私は普通に日常の足として乗っていましたし、今も何台か持っています。
車のことは少ないですが、これがきっかけになりあなたの記憶から呼び出す元になれば幸いです。昭和の思い出と思い読んでください。
第一部
お隣のマツダ R360 クーペ
ダイハツ フェローSSで小豆島へ
ホンダ S600 と SF
カローラ スプリンター と美術教師
三菱 ミニカ スキッパー 15パズル
トヨタ 2000GTと修学旅行
お隣のマツダ R360 クーペ
マツダの軽四 R360クーペは独特でした。あれで一応四人乗りでしょ?無謀ですよね、大人二人と子供一人がせいぜいでしょう。軽量化のためプラスティック素材を多用し、形も独特で、V型2気筒が収まったリヤゲートについているナンバー灯は今見ても摘まんで回したくなります。1960年製造販売だそうですから、それをリアルで知っているだけで歳が分かるってもんですね。
私は始めて車に興味を持ち、それが記憶に残ったのは昭和35年頃、私が2B弾で遊んでいる時代の話です。当時高知県南国市御免の駅の官舎で暮らしていました。2軒の真ん中に一つある共同五右衛門風呂を交互に沸かすという、いかにもALWAYSに出てくるような話です。裸電球が一個ついた暗い浴室で親が喧嘩して兄弟で真っ暗いそこへ避難したこともありました。官舎の前は線路に面し狭い道で今は車も通ることが出来ず、官舎は取り壊され時計塔になっています。官舎の板塀の角に松ノ木が一本植わってまして、それが風に揺れてザワザワいうのが波の音に聞こえ、ここは海もないのに潮騒が聞こえる不思議な場所だなんて勘違いもありました。
当時そこの駅長をしていた父、お隣は当然その部下でしたが、我が家は近所でも一番何も無い家でした。冷蔵庫も炊飯器も駅職員の中では一番遅かったのではないでしょうか。でもその部下のところにこのR360クーペが納車されてきたではありませんか。
少し坂になった玄関先に光る白いクーペ。
「いいなあ・・・隣、車やって」と幼心にうらやましく眺め回したものです。車が自宅にあるといえば医者か商売をしているか、タクシーかの頃ですからそりゃ驚きもしたし羨ましかったです。
幼心になんでこんなに違うだろうと、疑問が沸くわけです。それが分かるのにそう時間は掛かりませんでした。こんな車の記憶ははっきりとあるのに、とにかく父親が家にいた記憶は全くありません。当然遊んでもらう、何か買ってもらう、学校参観なんてとんでもない話。顔すら見たことないほど飲み歩いていましたから。
そりゃ外面はいいもんです「駅長、駅長」といわれてね。うちの中は最悪でした・・・・
その父と一度だけタクシーに乗った。車は20系のブルーバード、タクシー仕様だったと思うな、確か隣は母親で夜、街から帰っている時だったかな。母が天津甘栗を紙袋から一個栗を出してくれて「食べる」と聞くので「うん」と答え一個貰い皮をむきます。実は口の中へぽんと放り込み味わいましたが、皮が残ります。夜間です・・・外へ放っちゃえと左の窓へ投げるとカチンと音がして跳ね返ってきました。さすがまだ窓を開ける知恵までは付いていませんでした。
当時タクシーといえばブルーバードとコロナのBC戦争ですか!?
家の前の狭い道へ突っ込んで来たタクシー、線路際ですから坂になっています私が降りて車を出るのを待っていると泥と砂利の坂ですからザザッと滑り落ちました。運悪くタクシーはバックして左足甲を敷かれました。ありゃ痛かった!!
それから暫くしてマツダはロータリーエンジン搭載のコスモスポーツを出しましたが、幼い頃の記憶がありすぎたのか、コスモを見るとR360クーペが思い出されてしまいます。
今でも好きな車の一台に入ります。
ダイハツ フェローSS で小豆島
昭和45年、1970年といえば世中大きな動きがあった年でね、大阪万博、よど号ハイジャック、大阪ガス爆発、アポロ13号奇跡の生還。また「黒猫のタンゴ」が大ブレークしビートルズが解散したという年でもあります。今この写真を見ると未だ「オーモーレツ」と加藤ローザのCMが浮かんできますが、時は「モウレツからビューティフルへ」に移り変わろうとしていました。
その頃の話
ダイハツの軽四輪、マッチ箱を二つ重ねたようなフェローSSは兄の車で、これで高知県中村市(現四万十市)からはるばる夫婦二人で香川県までやってきました。簡単に言いますが山道を250kmですよ。未だと耐久かラリーのようです。
兄はそれ以前昔々のコロナに乗っていました。通勤で四万十川沿いの未舗装の道を夜走っていると何かの音と同時に車は制御不能となり、ガードレールも無い道から四万十川へまっさかさま。しかし木々が彼を助け、命からがら帰ったそうでその時母の顔が浮かんだといいますから母親というのは偉大なものだと感じます。後で調べるとマフラーが折れ、それが地面に掛かって車が右へ向いたらしい。それで車を廃車にし購入したのがダイハツフェローSSの中古でした。
まだ中学生だった私はこの車の四角さが好きでしたね。SSとあるバッチもばっちり決まって、白のボディーに黒のグリル、横には赤のストライプ。内装はプリンススカイラインのそれを思い出さす三連の丸型メーターに細身のナルディー風ディッシュハンドルとスポーティーでかっこいい!ホンダがNでパワー競争に火をつけダイハツが受けてたった2ストローク2気筒は軽の中ではパワーがありました。当時は・・・ですよ!
その兄がせっかく来たのだから小豆島へ行こうと言い出します。高松の沖にある小豆島、二十四の瞳の舞台です。兄夫婦と母、私の4人+ポメラニアン1匹があの小さい車に乗り込むと恐ろしく狭いです。
独立懸架でしたから駐車している後ろ姿は逆ハの字、四人乗るとネガキャン効いてハの字になる、そんな小さな車でも自家用車で移動は楽しい時代です。まずは高松へ、どの車も同じようなものですから特に迷惑かけること無く高松には着きます。そうしてフェリーで土庄へ。さてフェリーを降りて向かうは小豆島の山にあり、秋になると見事な紅葉が見られる有名な景勝地『寒霞渓』です。そこは瀬戸大橋が着くまでは小学校の修学旅行がよく訪れていた場所でした。
少し話がそれますが山岳サイクリングが好きな私は高校になった時、今は無き友人とバイトで買った自転車で日帰りサイクリングでこの寒霞渓に行きました。
毎日10数キロを自転車で新聞配達やっていたので太ももは競輪選手のよう、凄い坂でも平気で登り、下り坂を車と競うかのようにいい気になって下ると曲がり切れずガードレールに激突!!自転車ロードレースをテレビで見ると同じようなシーンが出てきます。フロントリムが変形しましてね。一回はずし路面にリムをダンダンと叩きつけとりあえず直、し振れるリムで帰った思い出があります。往復100kmはありましたか、若いから平気でしたし、怖いもの知らずでしたね。
その凄く急な上り坂にこの四人乗りのフェローが差し掛かりますと、いくら軽四最高馬力でもローでようやく登る程度、回転を上げてセカンドに入れるとパワーダウンで登りません。たまりかねた兄が義姉に「お前降りて後ろから押せ」と半分本気モードで言います。当然後ろには白い煙がもうもうと上がっております。正直私が降りて押そうかと思いましたよ。
あえぎあえぎ止りそうなスピードで坂を登り、ようやくお猿のいる銚子渓へ、母が抱いていたポメラニアンに猿がおびえるという理由で犬は車内へ置き、観光。その後寒霞渓へ行きました。
数年前近くで開かれているイベントでパレードをするというのでそのコースになっている龍河洞の近くの道で待っていましたらいつになってもやって来ません。これはコースが変わったのだと思い後で聞いてみますと「あの坂をこの車が登るのはきつい、登っても今度はブレーキが心配なので取りやめた」との回答です。
車が若かりし頃でも、きつい坂は厳しかった、懸命な判断かもなと思ったものです。それでもうちの360は平気で走りますけどね。
秋の寒霞渓は紅葉が美しくドライブには最高ですが、渋滞はどうなのかは知りません。
一度秋にオープンで行ってみたいと思う場所のひとつです。
フェローSSも好きですが、当時のダイハツのプロトタイプP5、P7にとても興味がありますね。
ホンダ S600 と SF
ホンダから発売された2人乗りオープンカーS500はS600を経てS800となり最終形の800Mまで続きました。今でもそのファンが多いことはご存知の通り、気持ちよく回るエンジンと軽い排気音、開発者の考えが見えてくるエンジンと、どれをとってもすばらしい。私もそのファンの末席のひとりとして今でも所有しているわけです。このライトスポーツ、乗ってもいじっても楽しいからファンが多いのはうなずけます。
車の感想は現在も色々な方がオーナーとなり、今なお元気で走らせていますのでそちらへお譲りするとして、やはり当時の思い出を書くことにしましょう。
私がこのホンダスポーツファンになったのは発売されて間もない昭和44年ごろでした。近所に白のS600に乗ったお兄さんがいて、時たま軽い排気音をたて家の前を通り過ぎているのを見て、かっこいい車だなと憧れたものです。当時大卒の初任給が26000円の時に50万以上した車ですよ、普通のものは買えるはずありません、スーパーカブでさえ高嶺の花でしたから。
しかし私の好みとは違い周りの友人は、「大きいことはいいことだ」で、スカイライン、ブルーバード、カローラ、サニーとハードトップやクーペに惹かれていました。特に「技術の日産、信頼のトヨタ」の2強の出す車は人気があり、ホンダ好きは変わり者といわれたほど、今となってその変わり者・・・私にとっては正しかったようです。
車が持てるなんて、夢のまた夢の中学生。
当時通っていた中学校の近くにHONDA SF がありました。Service factory の略なんですね。ホンダの販売網は自転車店からスタートし、バイク車となったので車のサービスが出来ない。そこで専用工場SFを立ち上げそこが一手に点検修理を受け持っていたと記憶しています。その頃人は大型で雨風の心配の無いパワーのある乗用車へ流れていましたので、すでに2人しか乗れないスポーツは人気が無かったのか、SFの道を挟んだ反対側空き地に数台置かれていました。今ドラえもんの「タイムマシーン」を貸してもらえるならあれを取ってきたいですが、机の引き出しから出せないでしょうか!?そうだ!スモールライトも貸してもらおう。
自転車を漕いでSFへ向かうと小学生から憧れのSが空き地に無造作に数台置かれています。幌は幌ではなくボロになった赤いSは鍵など掛かっておりません。興味津々の私は小さなドアを開けるとその運転席に無断で忍び込みました。コクピットといわれる通り狭い運転スペース、シートに座ると握りの細い3本スポークフラットハンドル、シフトレバーの短さ、カチャカチャとレバーを動かしては「ストロークみじか!!」と感動の声をあげ、低いフロントガラス越しに見える風景に自分が運転し流れる景色を妄想したものです。
社会人になって買えばよかったのですが、旧車は1600GTがいつまでも居座り続け、買いそびれてしまいます。何度かこれを売ってSをと考えましたが「これはこれで目立つ」と訳の分からない自己満足で持ち続け、事故で廃車すると旧車は卒業したので縁がありませんでした。
SFはその後国道11号線沿い移転をしました。そこのメカニックたちがうちのお店に良く来てくれていて、そのチーフは白いホンダ1300 99のオーナーでした。それは良く整備され程度もよく、直線は狂ったようにすっ飛んで行きましたね。釣り好きの彼は高知まで良く釣に行ってたようで「高知まで○○時間でいける」と豪語していました。いつもその車で来るのに暫く見ないから「近頃99見ないですね」というと「あれ売った」というではないですか、ショックでした。
あの丸型2灯にメッシュのグリル、カクカクとした格好、4連のキャブ、それにぴかぴかの程度のよさ。知っていれば購入したのに、残念至極。
それから数十年時は流れ、とっくに旧車は卒業したはずなのに、どうしてもホンダスポーツを忘れることが出来ず数年前これが最後と、憧れ続けたこの小さなスポーツカーを購入しました。それは長い間恋焦がれた恋人に会ったようですが、恋人も随分歳をとりました。
この恋人、暫くはお互い同じ時を重ね楽しませてくれることでしょう。
カローラ スプリンター と美術教師
カローラ スプリンター、今の車しか知らない人が聞くと「何だそれっ」て思うかもしれませんね。初代カローラはファミリーカーの為2ドア4ドアセダンで売り出されましたが、それのファーストバッククーペとして2ドアで出たのがカローラスプリンター。その後カローラ、スプリンターは姉妹車となり、カローラはレビン、スプリンターはトレノがスポーツバージンになりその名残は今の86として残っています。
中学校の玄関前「若い力」という名のモニュメントと職員室のある管理棟の間に白いカローラスプリンターが止まっていると、それはスポットライトでも当たっているかのように目立ちます。その持ち主は美術のK先生、一年の一学期は私の担任でしたが2学期から県へ派遣され別の先生が担任となる異常な人事異動。一年の担任を1学期で代えるな!ですよ。この先生は車と共に思い出が色々ありますがその一つは絵画と遠足です。
私たちはある年遠足で琴平へ行きました。瀬戸大橋と国道32号線の父、大久保諶之丞の銅像前で当時の政治家の心意気を習い、その後琴平宮のくねくねと曲がる裏参道沿い降りて行き宝物館へ集合しますと、この美術教師が全員を前にここにある高橋由一の「とうふ」について解説を行いました。今は琴平宮に「高橋由一館」が出来そこで見ることが出来ますが昔はそんな建物ありません。
高橋由一といっても美術に興味の無い方は「誰やそれ?」といわれるでしょうが、身をざっくり切られ吊るされた新巻鮭の絵はご存知あるかも知れません。その由一の絵がここにあるというわけです。「いいか、このとうふの表現、また帳面の紙の表現をよくみなさい」というわけですが、当時さほど絵画に興味の無い私は「とうふねえ・・・・」表現といわれても興味も無くよく見もしませんでした。しかしその話を聞いたのは心の奥底のほうに仕舞われ、それが呼起こされたのは最近になってのこと。三女が高校卒業間際に伊藤若冲とともに由一を見に行ったこともありますが、やはりこの遠足の影響が大きかったと思われますし今では好きな画家の一人となっています。
さてこの先生のカローラスプリンターが毎日駐車されているわけですよ。自転車、徒歩、バイクが主流で今のように車通勤なんて少なく珍しいですからね。「現代美術が得意なK先生らしい車だな」と訳の分からない理由付けで校舎2階の音楽室から眺めていました。そしたらその近くで白煙が上がるではないですか!なにごとかと思ったら化学のK先生が持っていた薬品を落としそれが反応して煙が上がった。そんな薬品持ってうろうろする危なかしい時代です。
その隣に初代ライフも止まっていましたが、このオーナーの社会のO先生は大嫌いでしたね。恐らく今会っても当時のままでしょうし、会いたくも無いですけど。嫌いだけに覚えているのも嫌なもの。
もう一台、初代カローラは高校の同級生の家にあり、卒業間近には昼間良く彼が乗っていましたので何度か運転させて貰ったのですが、軽い、エンジン音が力ない。まあ力ない車でしたが1100ですから仕方ないでしょう。近くの喫茶店で白のカローラを発見するとそれは彼。
一杯210円のコーヒーで暫く粘り、10円を公衆電話に入れアリスの「今はもう誰も」を有線にリクエスト、一箱150円のセブンスターを分けて吸っていました。
少林寺拳法部主将の彼、なかなかの硬派です。あるとき通学列車でのこと、通学中の同窓生が別の高校に通う生徒から「面子切ったの切らないの」と因縁をつけられ、私たちの最寄の駅まで数人でやってきていましたが、それを片つけたのは彼でした。今でも高校生でそういった話はあるのでしょうか。ボンタン履いた柄の悪そうな生徒が駅前に何人かいた光景は異様でしたよ。
初代カローラといえばこの二つは絶対に忘れることの無い思い出です。私は物がない時代だからこそこういった教師の乗っている車一つでも思いでとなり、それに引っ張られて奥深く眠っていた他の思いでもでてくるのですが、今の時代物が溢れそういった些細なことって残っていくのでしょうかね?物が思い出になるってそれ以上のものがないと残らないとすればある意味今の人たちは不幸なのかも知れません。
あいつ元気にしているのだろうか?
三菱 ミニカ スキッパー 15パズル
私が青春を送った時代は地球で例えるならカンブリア紀のようなもので、デザイナー、エンジニアが各々競い、様々な車がそれぞれ個性を持って生まれてきた一番いい時期だったのではないかと感じます。
三菱から1971年に発売されたミニカのスポーツバージョン、「ミニカ スキッパー」がありました。クーペのその車、同じ三菱ギャランGTOをガンとつぶしてダンと切ったようで、どこと無くそれを髣髴させる形。見ようによってはダイハツフェローMAXハードトップにも似ていて、特に黄色、オレンジがお似合いで黒のグリルに丸型4灯とマッチした可愛らしくかっこいい車でした。発売当時は2サイクル2気筒、後に4サイクル2気筒も出たそうで、軽四でもまだ三角窓がついていましたよ。
この車自体は時々見て「スキッパーだ」という程度。乗ったことも買った事もありませんが、どういうわけかスキッパーはパズルが思い出です。
今の人は15パズルとか15ゲームって知っているのでしょうか?4×4の16個の駒をばらばらにし、その番号が書かれた正方形の駒をトレーにランダムに入れ1番から15番までそろえるゲームで良く縁日とかで売っていました。
展示会でも行ったのか懸賞で当たったのかな?当時このイラストが描かれたノベルティーの「15パズル」を持っていました。
白いプラスティックケースに黄色いボディーのスキッパーが描かれ15パズルになっています。中学の同級生と車の話しになって「スキッパー知らんか?それじゃあそのイラスト持ってきてやるわ」と持って来たのでしょう。得意になってそれをやりながら、出来上がったイラストを見せ
「なっ、これがスキッパーや」
なんて話をしていましたら、運悪く「それはなにかな?」と担任が覗きこみます。
「えっ・・・ミニカ・・・スキ・・・パー」と尻すぼみ
「そんなもの学校へ持ってくるんじゃありません、没収です」と取り上げられました。
帰りに貰いに行けばいいのに、行けばまた小言を言われるに決まっている、そのまま時は経ち当然教師も忘れ卒業の儀。あのパズルは帰らぬ物となりました。
たかが小さなパズル・・・取り上げられる管理体制バリバリの中学校でした。
今なら旧車ファンも企業物コレクターも居ますからお宝になっているのではないでしょうか。
先生、僕のあのパズル、どうしたのでしょうね?
ええ、夏、学校の教室で
先生に取り上げられたスキッパーの15パズルですよ。
先生、あれは好きなパズルでしたよ
僕はあの時ずいぶん悔しかった
だけどいきなり先生がきたもんだから。
まるで西条八十の詩のようで
Mama,Do you remember the old straw hat you gave to me.
とジョニー山中が歌う人間の証明の歌が聞こえて来そうです。
トヨタ 2000GTと修学旅行
国内名車NO1といわれる、名車中の名車TOYOTA 2000GT。
趣味と希少価値の世界でいうと確かにそれが一番かも知れませんが、どうなんでしょう?
それはさておき1967年にトヨタから売り出されたこの2000GT、クラウンベースの6気筒エンジンにヤマハのツインカムが乗り、Jaguerを思わせるデザインにヤマハ楽器の手によるウォールナットピアノフィニッシュのダッシュボード。マニア垂涎の車は当時200万を越す高嶺の花、そのころうちの実家は親父の退職金で建てた親父が気張って総檜だといってたのが平屋が丁度200万だったと記憶しています。今の貨幣価値だと2000万くらいですからやはりスーパーカーといえましょうか。
田舎で暮らしていますとそんな車見ることはありません、あるのはカタログや立ち読みで見る自動車雑誌くらいなもの。一度映画で見たのは日本が舞台でボンドガールに浜三枝が出てたボンドカー仕様のオープンの2000GTくらいです。
車の興味のあった同級生M君は中学生でありながらディーラーめぐりをし、当時新車のカタログを貰いまくっていたそうで、ディーラーの営業も買えないの分かっててあげるから暖かい。そうして集めたカタログをコレクションしてる中に2000GTのものもあったそうで、今だとお宝だなと思いましたら実家を空けていた間に全部処分されたそうで本人ショックだったろうと思います。
そんな同級生と中学の修学旅行に九州へ参ります、いろいろな思い出を詰め込んで帰るわけですが、別府から松山までフェリー、そこからバスで香川まで結構ハードな旅程でした。今と違いますからバスは狭くおまけにバスのエアコンなどありませんので、窓を開けての走行です。高速などなく一般国道は信号も多く路面も悪い。
それだけならまだ我慢できますが、私の隣、補助いすに座るのは学校一嫌いな社会の教師M、これが股や肩が触れる隣で難しい顔して本を読んでいる。それが2時間ほど続きましたか、こちらは気が重くなります。丁度愛媛県川之江市くらいだったか信号が近付くとバスがブレーキを掛けスピードをおとすと前の生徒が「2000GTや」と叫ぶのです。
右の窓からショールームを見ると前期型の真っ白い2000GTが見られます。「へえこれがあのうわさの2000GTか」と眺めていると信号が変わりバスは動き出しました。
実際しげしげと見たのはバブルの頃参加していたミーティングでしょうか。それとて私はあまり興味なく「さすがディーラーのオーナーさんが持っているだけあって綺麗にしているな」くらいの感想ですか、それより2000GTといえば修学旅行の思い出が蘇るほうが印象深いから面白い。
当時から車は好きでしたがスーパーカーブームといってもさほど驚きもしないし、列を作って見たいとも思わず、当然欲しいとも思わず、まあ一度は乗ってみれば楽しいかなとは思う程度。やはり私はライトスポーツのほうが趣味に合っています。
トヨタと冠ありますがこの2000GTはほとんどヤマハ製、さすが商売上手のトヨタさんですね。
昭和の旧車名車とともに 第一部