結婚前夜のこと
「まずいっ!」
父のとうとつな胴間声に、洗いものをしている母、テレビを観ている兄、そして自分の湯飲み茶碗にお茶をそそいでいるわたしは、いっせいに漫画みたいに飛びあがった。しんと静まり返っていた夜の空気さえ、父の声にぶるぶると身をふるわせた。
「まずいっ、非常にまずすぎるっ! なんだ、この濃い、節度のない茶はっ!」
つばきが口角から飛び散る。父は茶托に湯飲みを叩きつけるように置き、わたしの顔を一瞥し、そして乱暴にゴマ塩の髪の毛をかきむしった。現役の大工である父の指は骨張っていて、なめらかな線がどこにも見当たらない。わたしはその指を見つめながら、
「茶?」
とようやく声をもらした。
「……わたしの淹れたお茶が、まずかったの?」
「ああ、ひどいものだ」
「だって、いつもと変わらないわよ」
「じゃあ、飲んでみろ」
わたしはお茶をひと口飲んだ。
「べつに出涸らしでもないし、そんなに濃いわけでもないわ」
「いいや、まずい……」
父はため息とともに腕を組み、
「勘当だ」
と言い放った。
「は?」
「おまえなんか、この家のもんじゃない。きょうかぎりで、勘当するっ!」
はあ? と、ふたたびわたしは呆れ気味の声をもらす。勘当? お茶がまずかっただけで? いきなり、なんなの、このひと。
わたしが胸のうちで憤慨していると、父は兄や母に目配せした。すると、兄がおもむろに「おれも、もう、おまえとは口をきかないから」と言いだし、母は母で、「じゃあ、わたしもそうするわ」なんて、どこか間の抜けた感じで言いはじめた。だれひとりわたしの味方にまわってくれるひとはいない。ていうか、お茶の淹れ方ひとつで非難されなければならないなんて、どうかしてる。わたしは涙をこらえきれず、二階の自室に走って逃げた。
なんなのよ、もうっ!
ドアの鍵を閉め、できるだけ喧しい音楽を選んでかけた。
ベッドに突っ伏してたっぷり泣くといくぶん頭がすっきりしてきたので、あしたのためにせっせと荷造りに取りかかった(わたしは落ち込みも早ければ、立ち直りも早いほうなのだ。それに、目の前にやるべきことがあれば、それに神経を奪われる現実的なたちでもある)。あしたは挙式の前にいったん彼と新居へ行き、必要なものだけ置いておく予定だ。わたしはあした嫁ぐのだった。
そして、なぜあんなにも父が怒りだし、しかも勘当とまで言い放ち、それにともなって――あたかも事前に打ちあわせていたかのように――兄も母も無理に騒ぎだしたのか、わたしはなんとなくわかりはじめていた。
やがて目からは大粒の涙があふれでてきた。不器用な家族。わたしはひっそりとつぶやく。どうせいまごろ、台所ではしんみりとしていることだろう。いま、いきなりわたしが脅かしにいったら、どんな反応をするだろうか。父さん、また下手な芝居にでるのかな。ふふっ、それは見ものだ。
わたしは目をこすり、洟をすすりあげて、そろりそろりと階段を下りていった。
淋しいんだったら淋しいって、ちゃんと言いなさいよ、まったく子どもじゃないんだから――父も兄も母も、そしてわたしも。
結婚前夜のこと