『李禹煥』展




 いわゆるもの派の表現を、意味ありげなものと評するのは決して間違いでないと考える。
 例えば「関係項(於いてある場所)Ⅱ」は木材を未加工の状態で床に寝かせて無造作に並べたり、または頂点で支え合う形で立体とし若しくはまばらな間隔を置いて展示室の壁に立て掛けたりしただけの作品である。これを表現といえるのかという問いを立てれば、展示室内で把握できる位置関係を表現者が作品として展示しているし、また見る側もそういう表現作品として鑑賞するために展示会場に足を向けている、だからそこにミニマルな表現が成立すると考えるのに無理はない。
 しかしながら、その表現に興味がない人が見ればどうだろうか。そういう表現だと受け入れる気が全くない人物が展示室内に足を踏み入れて、どう思うだろうか。それらは言語化し難い、意味ありげな様子を芸術として有り難がっている連中の間で行われているおままごとだ!と底意地悪い見方で冷笑することがないなどと胸を張って言えるだろうか。美術館という建物の意義をここに重ねると、なかなかどうして試みれる反論の構築に悩んでしまう。けれどそれは芸術一般の成立に関する悩みであって、(ご本人は否定されているようだけれども)もの派の代表といえる李禹煥氏の表現の良さを伝える障害にはなり得ない。



 この点について記すために前記した「関係項(於いてある場所)Ⅱ」が纏う「意味ありげ」というポイントを構成するのは何だろうと考えてみると、すぐに思い付くのは意味ありげな状態で展示室内に置かれた木材そのものでないか。何せ当該作品を成立させる材料そのものなのだからという答えであり、それで十分とも思える。
 しかしながら「関係項(於いてある場所)Ⅱ」を実際に鑑賞すると目立つものは寧ろその逆で、木材が置かれていない部分、つまり何も存在していない空間性であるのに気付く。そしてこれこそが本作品の肝なのだと直ちに了解する。なぜなら何も存在しない空間にこそ言葉は置けない、表現できない。けれど全体的に見て当該作品には何かしらの意味があるように思えて仕方ないし、一応の説明が可能な前記木材の状態が無内容の判断を頭っから押さえつけて許さない。そうしてうまく見出せなくなる境界面で腑分けできなくなったナンセンスの天秤を抱えて、鑑賞者は身悶える。その落ち着かなさを自覚してしまえば、作品に向けられたライティングの効果もナンセンスを意地悪く強調しているように思えるし、またすぐ隣に展示された「関係項(於いてある場所)Ⅰ」の、壁に立つように重ねられた鉄製の薄い板が床にスライドしていく途中で静止して「しまった」と想像させる様(さま)が「関係項(於いてある場所)Ⅱ」と呼応して奇妙な緊張感を生み、強張った意識の表面で意味と無意味の膨張具合が増す。煙に巻かれた様な「意味ありげな」状態がこうして発生する。
 喩えれば論理式の対偶関係を濫用したかのような空間認識の反転を執拗に繰り返させること、それがいわゆるもの派として括られる表現の真骨頂であると筆者は思う。作品を構成する材料の個数又は用いる材料に対して行う加工を必要最小限のものに止める表現技法は、だから決して足枷などでない。また有意味なもの同士の亀裂を広げるという点で、もの派の表現は詩的表現に通じるとも考える。これが正しいとすれば、センス以上にもの派の表現に求められるのはきっと忍耐強さだ。見えない空間を見えるもの又は手に取れるもので表し、呪いの如く鑑賞者の脳内世界から排除し難いものに仕立て上げるために「それ」を見つめる、切り詰める。これに何度も挑戦する。諦めず、妥協せずに。
 ここで「関係項(於いてある場所)Ⅱ」を構成する木材から敷衍すれば、意味認識に慣れ親しんでいる「日常」がもの派の表現にはきっと欠かせない。意味の網の目で固く捉える日々の事柄への信頼が大きければ大きい程にもの派の表現は鑑賞者を思わぬ形で有意味なもの同士の間にある、無内容の虚に陥らせることができると考えるからだ。そういう意味で、もの派として括られる表現スタイルが非日常の空間といえる展示会場内でその本領を発揮するのはかえって難しいといえるかもしれない。このことを実感できるのは『李禹煥』展の屋外展示の一つである「関係項ーアーチ」をおいて他にないだろう。
 2014年にヴェルサイユ宮殿で展示されたもののバリエーションである本作品が文字通りに融け込むのは、国立新美術館を取り囲む六本木という街を秩序立たせるビル群である。数学的根拠を持った建物としての機能を果たし、経済活動を始めとした都市部の生活の基盤となっているその様子が、石とステンレスから成る極めてシンプルな立体表現を支える表現構造の理屈と付合する。ここで効いてくるのがアーチの両端に置かれた石の巨大さとその色味で、美術館内で植生される緑の息吹とさきのビル群によって高く遠ざけられた空の青みと固く手を結び、日常を見事に軋ませる。鑑賞する意識と目が六本木という街並みの感覚を変えていく。私たちが認識していた「日常」はこんなにもフレキシブルで興味深いものだったのだと気付き、その感覚を二度と忘れられなくなる。ああ、これが李禹煥という表現者が信じるものなのかと腑に落ちる。
 考えれば、確かにその表現スタイルは文脈依存な側面があるといえるだろうし、物に溢れる時代においてこそシンプルを究める表現の良さが知れるだろうと思いもする。
 しかしながら言葉を覚え、それ以前に戻る事が決して叶わない私たちを捉えて離さない言葉=意味認識作用のある種の不気味さを思うとき、李禹煥氏が奮う表現技法はメスの如き鋭さをもって「日常」を切り開く。そこから噴き出るものの命名不可能性を認識して浮き足立つのが私たちであり、その両肩を掴んで揺さぶり起こすのが表現者による最低限の所作だ。その後の日常の再構築は私たち自身の手で行っていくしかない。ここにおいてクローズアップされる主体性は緊張感をもって行われていた展示室内の空間表現から屋外で繰り広げられる認識変容の過程を身体で覚えてしまい、無事生まれた。ここから始まる思考と想像の旅がある。その契機となる力が、李禹煥氏の表現には未だ存在していると筆者は思う。


 本展の後半、「関係項ーアーチ」を経て鑑賞できる李禹煥氏の絵画表現は模索する様な筆の痕から時間への関心が窺える。けれども、その関心がキャンバス上に段々と増えていく余白の表れによって空間に対するそれなのかと見間違うぐらいの不明確さを露わにしていき、それ自体がいくらでも反転可能な動きを見せて「絵画」という形を取った表現物と化していく。少なくとも筆者にはそう感じられた。その極め付けが「対話―ウォールペインティング」であり、囲われた展示室から拡張していくイメージによって展示会場全体が作品と成る。そのピリオドを観る側が打つ。意味ありげなものとして、または意味を「洗う」ものとして。
 規格化された商品にサインを入れて行う表現と比較するのもまた面白いかもしれない、とここで思い付くのは芸術領域への深い踏み込み方を実践する点でかの哲学的アプローチと共通しつつも、氏の表現が「美しい」と思う直観を決して見放してはいない。そのために守られている区分ないし壁面が表現という営為に厚みをもたせて活かしている、「関係項―星の影」をじっと眺めていて筆者はそう信じられた。この姿勢こそがどこかの未来に通じているのだろうな、とも。
 だからこそ画される一線がある。そう断言して『李禹煥』展をお勧めしたいと思う。

『李禹煥』展

『李禹煥』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-08

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