革迷

片山 大地

第一部 革命の男

第一章 入学

 桜舞い、うららかな春の陽気に包まれ、新しい環境に対する期待と不安の入り混じった人々が行き交う。その中に一際背が高く、弱冠十八歳にしては成熟していて凛々しい顔をした青年がいた。彼の名は東條聡(とうじょう さとし)という。彼は、自分と同じ新入生達の人混みを掻き分けながら、新入生ガイダンスが行われる教室へ足を進めていた。東條は苛烈な受験戦争を終え(もっとも、東條にとっては大した苦行でもなく、普通の勉強の延長の結果、入るべきところに入ったという感覚のようだが)、晴れてこの春、東響(とうきょう)大学の文科一類に合格した。なお、東響大学は、文系、理系でそれぞれ三つの類に分かれており、文系の最高峰は無論一類である。政財界の要人を多数排出しており、彼の父もまた東大のOBで、卒業後は経済産業省に入省し、事務次官にまで登りつめた後、この三月に定年退職を迎えた。彼の父は官僚のお堅いイメージとは全く異なっていたそうで、口が上手く、人たらしな部分もあり、要領よく物事を進めるタイプであった。四十三歳の時に、当時二十七歳で演技派女優として名を馳せていた女と結婚したが、それまではそれなりに遊んでいたという話も聞く。東條聡はこの二人の間に生まれた一人っ子だった。父親にとっては晩婚かつ、一人息子であったため、東條は幼い頃より両親から多分な愛情と手厚い教育を受けて育った。彼はピアノ、水泳、体操など他にも多数の習い事を経験したし、その他の時間はもっぱら読書に励み、中学卒業までには世界の有名な小説や学術書はほとんど読破した。その甲斐あってか、学校生活において東條は抜きん出た才覚を表した。いわゆる「いいとこの子」が集まるエスカレーター式の学校の中でも彼の学業成績は群を抜いており、またスポーツも、走れば校内一位、大して経験もないにも関わらず何のスポーツをやらせても他の生徒を圧倒する程に運動神経に恵まれていた。しかし、最も周囲を驚かせていたのは、何よりも父親譲りの彼の弁舌の上手さであった。彼は幼い頃より、自分の意見を持っている知識と織り合わせ論理的に表現することに長けていた。また、これは母親譲りのものか、聞き手の心を掴むような演技力やカリスマ性についても彼には生まれつき備わっていた。模擬討論の授業では、同世代の生徒達の未熟な論理などまるで歯が立たず、いつの間にか、助け舟を出した教師と東條の一対一の討論に発展しているのが常だった。教師達は、子どもに対するごまかしが東條相手には通用しないことを敏感に察知し、彼と議論する際は、まるで熟練した弁護士や経営コンサルタントと会話をするような緊張感に苛まれた。しかし、彼は自身の才能や能力を誇示しようとする性格ではなかった。教師と議論になる際も東條が積極的にそれを望んだわけではなく、むしろ教師の側が子供に負かされる訳にはいかないというプライドから議論を激しくしてしまうというのがいつもの傾向であった。もっとも、一度東條と論戦を交えた教師は、東條の子供らしからぬ知識量と完璧な論理性の前に自身の無力さを自覚し、同時に彼の特別性を認識するのだった。こんな調子であったため、東條はどんなコミュニティに所属しても必ずリーダーになった。彼は皆がついていきたくなるような包容力のある雰囲気も備えていた。集団が形成されれば必ず彼がリーダーになる、そんな空気を生まれながらに持っていたのが東條聡という男であった。
 そんな東條がこの春から大学生となる。自分と同じ科の新入生の波に押されながら、東條は説明会が行われるという教室に入った。既に入学前の段階にSNSで仲良くなった新入生達も多く、並び座ってどこの出身かとかサークルはどうするかといった雑談に花を咲かせていた。東條はそんな集団のいる島を避けて、一人中央右端の席を選び座った。二座席ほど開ければ同じように一人で座っている新入生がポツポツいるので、ここなら集団と距離も取れるし、かといって周囲から浮くこともないと考えたのである。そこへ、唐突に一人の男が前の座席に座り東條に話しかけた。
「なあ、お前どこ出身?」
東條の目の前には、明るい茶髪にベタベタのハードワックスをつけて、限界まで重力に抵抗して髪を立てらせた男がいた。額は下りてきたワックスの油でテカリを見せている。東條は教室に向かう人混みの中でいた時から、前の男からつけすぎたシトラス系のワックスのにおいを感じていた。こいつだったのか、と彼は思った。
「東京です。」
「なんで敬語やねん。タメやろ?」
男はいかにも意識してとってつけたようなエセ関西弁で返した。彼は今のキャラを無理して作っているように見えた。
「名前は?」
まず自分が名乗ってからだろ、と少し苛立ちながらも東條は答えた。
「東條聡。」
「東條ね。かっこいい名前やな〜。羨ましいわ。あ、俺上本ね。平凡極まりない上本や。」
それから、上本は東條に、高校の部活は何だったのか、サークルは何に入るか、高校時代かわいい子は多かったかなど途切れることなく質問した。東條は上本と話している内に、第一印象とは反してこいつのことが嫌いではないなと思えてきた。上本は、言葉遣いや態度こそ軽薄に見えるが、相手の嫌がるような言葉は絶対に避けている感じがして、こいつはこいつなりに今、新しい環境に来て人間関係を構築しようとして頑張っているんだろうな、と彼は思った。いかんせん、上本は東條にとって大学でできた初めての友人になった。

 東響大学の入学式は四月の二週目と遅く、その前に各種オリエンテーションのようなイベントが開かれる。また、この期間はキャンパスを歩けば至る所でサークルや部活の勧誘をしていたが、東條はさしてどこにも興味が湧かなかった。一方の上本は勧誘を受けたサークルの新入生歓迎会に片っ端から参加し、次々と顔見知りを増やしていた。東條が一緒に歩いていても、上本は一分おきには知り合いに会って軽く会話を弾ませていた。東條も頻繁に会う上本の知り合いとは顔見知りになっていたが、上本が少しその場を離れると気まずい空気感が漂い、それは東條にとってあまり好きな状況ではなかった。
入学から二ヶ月が経ち、ゴールデンウィークを挟んで東條は少しずつ大学生活にも慣れてきた。上本は散々悩み抜いた末に、ダンスサークルとテニスサークルを掛け持ちすることにした。彼曰く、かわいい先輩が多いという理由からこの二つに絞ったらしい。当初は掛け持ちと言う選択肢は考えていなかったようだが、どうしても最終候補に絞ったこの二つから一つを選びきれなかったとのことである。一方の東條は、元々あまり興味もなかったのだが、上本や彼の知り合いに誘われて二つの新入生歓迎会に顔を出したものの、結局はどこのサークルにも入らなかった。
ある日の政治学の講義中、上本は東條に問いかけた。
「お前、大学来てから何が楽しいの?」
 答えるのが億劫だったので、東條は問い返した。
「上本はどうなんだよ?」
「俺は女遊びだな。俺は男子校出身だ。休み時間になれば数学の問題の話か昨日見たアニメの話しかしないような気持ちの悪い人種に囲まれて、本来甘い青春であるべき高校時代を受験と共に終えたんだ。今になって思うよ、なんで俺は高校を決める時に共学を選ばなかったんだろうってな。当時の俺を殴ってやりたいぜ。それがあの頃は、全ての欲を絶って、ぼんやりイメージした幸せな未来のために懸命に勉強することが正しいと思い込んでたんだよなぁ。全くどうかしてたぜ。だが、今は違う。俺達は東大生という最強のステータスを手に入れたんだ。これを生かさない手はないぜ。女とヤリまくるぞ。お前だって東大に入ったってことはガリ勉やってきたんだろ? 合格したからにはこの武器使って遊びまくりたいと思わねえの?」
 上本はこうして息巻いていたが、東條から見れば、やはり高校時代まで何とかというタイトルのアイドルアニメ(上本曰くこの神作品は自分の人生を革命的に変えたとのこと)に傾倒していたようなイケてなかった人間が急激に変わるはずもなく、七分丈のパンツにしわしわのTシャツ、限界まで重力に逆らった髪、毛虫のような眉毛をした姿は客観的に見てモテそうな奴には見えなかった(もちろん、上本自身はこれがイカしてると思っていたようだが……)。また、上本は男子校出身ということと、元来の陽気で三枚目な性格のためか男子からの人気は高かったが、東條は同じゼミの女子が上本のことを、ラインがしつこくて空気が読めてない奴と散々悪口を言っていたのも知っていた。しかし、東條はそんな上本がやはり嫌いではなかった。上本は確かに女にモテようとして少々痛い部分もあったが、根がいいやつであり、決して自分の評判のために人を蹴落とすなんてことはなく、一方で、そういった優しいところが、いまいち上本がイケてる奴になりきれない部分であるとも東條は思っていた。
「俺は、あんまりそういうの興味ない。」
 東條は上本の問いに返した。本当のことだった。東條は大学入学以降、いや、もっと前から何事にも全く情熱が湧かないでいた。そもそも、上本はなぜ性格も方向性も全く異なる自分と一緒にいようと思うのか、と東條は不思議に思っていた。彼らはただ、新入生のガイダンスで偶然出会っただけで、上本はそれなりに学内でも顔の広い存在になっていて有名だったが、それでも上本はよく東條と行動を共にしていた。
「お前は本当に女っ気がないよな。顔は悪くないし、モテないわけではないのに。まさか、お前俺に惚れてるんじゃなかろうな?」
「馬鹿。」
 無論、上本は冗談で言っていたのだが、東條はこの手の質問は、実を言うともう数えきれないほど受けたことがある。東條自身、決して男性が好きというわけではなく、恋愛対象は間違いなく女性のみである。中学、高校時代には普通に彼女もいたが、どちらも卒業を機にフェードアウトしていった。東條には関係を維持させたり新しい女を作ったりする意欲が無かったのだ。東條は上本を間近で見ていて、自分はそういう面に関してこいつとは根本的に違うと思っていた。
「見ろよ。あの最前列の奴らを。噂じゃ大学の単位オール優を狙ってるらしいぜ。これまで死ぬほど勉強してきただろうに大学に入ってもまだ勉強しようってわけだ。ドMにも程があるぜ。だがな、俺はもう自分の才能を見限った。俺はどう頑張っても元がいいやつらには絶対に勝てない。俺は残されたモラトリアムを有意義に過ごすぜ。」
「才能、か。」
 東條は呟いた。
「なんだよ。そうさ、才能さ。この世の中、何をするにもまず才能がなければスタート地点にも立てねえ。」 
「上本は大学を卒業したらどうするんだ?」
「普通にサラリーマンさ。東大に入った時点でどっかの有名企業に入れることはほぼ確定してるんだ。取り立ててこれから努力するようなこともないさ。」
「夢ないな。」
 東條はため息交じりに言った。
「じゃあ、お前はどうなんだよ。東大生と言えど、所詮俺達は何の力もないただの学生だ。東大には毎年三千人もの新入生が入って、それに押し出された三千人が世の中に出る。一年で三千人だぞ。別に俺達は東大に入ったからといって何ら特別なんかじゃない。大体、この衰退の一途を辿る日本という国で夢を持とうなんて、そりゃ無理があるぜ、兄さん。」
先程までは冷めた立ち位置で余裕のあった上本だが、彼は東條の言葉に少しムッとしていたようだった。
「漫画みたいな出来事が現実にもあれば、少しは人生楽しめるのにな。」
「例えばある日、忍び込んだ研究所で特殊な蜘蛛に噛まれて超人的な力を得るとか?」
 上本は半笑いで返した。こいつは今、自分のことを馬鹿にしていると東條は思った。
「いや、そういうのじゃなくて、もっと実利的で現実的な……。そう、例えば若者の力で革命を起こして今の日本を変えるとか。」
「革命? それこそ無理だろ。周りの大学生達を見てみろよ。今時そんな国士みたいな奴がいるか? 俺含めみんな、考えていることは、次回の合コンのことだったり、もっと割のいいバイトはないかだったり、そういうことだ。今時お前の言うような崇高な志を持っている奴なんてこの東大を探してもそう見つからないだろうさ。俺達は普通に大学を卒業して、どっかの企業のリーマンになって、そのうち結婚して幸せな家庭を築くんだ。現実的に見えて、結構お前も夢見がちなんだな。」
 上本ごときに散々正論を吐かれ、東條は自分が言ったことを後悔した。東條とて、そんなことは百も承知である。その上で、上本ならどのような回答をするのか少し探る目的でも疑問を問いかけてみた。わかったことは、東條の想像以上に上本は堅実な奴だったということだけだった。東條は、上本に夢見がちな人間だとラベリングされたことが少し悔しかった。
 
第二章 李先生

 大学の講義も東條から見れば退屈なものだった。幼い頃より読書に励んできた彼にとっては、一年生で習う一般教養などほとんど既に知っていた。こうして、充実感の伴わない大学生活を送っていたが、東條は唯一ゼミの時間は好きだった。東大では主体的な学習と論文執筆の作法を学ぶことを目的として一年時からゼミ活動が行われ、生徒達は学びたい分野を選び、その担当教授に師事するのである。東條の入ったゼミは男子七人、女子五人というメンバーで、担当教授は国際政治学を専門としている中国人の李という男だった。東條は始めて彼と会った時、確かに少し面影はあるが、顔の彫りが深くてあまり中国人っぽくないなと感じた。様々な部族が混じる中国のため、李はどこかの部族との混血なのではないかと東條は推測していた。
 李は変わった人間の巣窟と言える東大の中でも、特に変人で名が通っている教授であった。彼の趣味は、いわゆるコスプレであり、しかも、その対象は世界中の国の民族衣装だった。ゼミの初めての授業の際に、李はスライドショーに写して自宅のコレクションの写真を生徒達に見せた。二十畳程の部屋一帯に掛けられた衣装の数々は圧巻だった。李はその中から毎日違う衣装を選んで大学に着てくるのだ。キャンパス内で彼を見つけるのは間違いなく他の誰よりも容易だった。そんな李であるが、元々は中国の農村で生まれ育ち、二十九歳の時に日本にやってきた。彼は一度、授業の最中に自身の壮絶な生い立ちについて話したことがあった。彼は一九七五年生まれ。その時代の中国というのは、毛沢東の実権が幕を下ろし、鄧小平の指導の元、新たに改革解放経済が打ち出されている頃であった。毛沢東の時代にあった人民公社 は解体され、農村部では人民公社時代に禁止、制限されていた農村交易や個人による商業、サービス業などの経営が政府によって認可された。李は物心ついたころより両親がおらず、幼い頃よりそういった郷鎮企業 に雇われて生活に必要な賃金を稼いでいた。そのため、彼は日々の労働に追われ、まともな教育を受けることができなかったのである。しかし、彼は時折、比類なき突出した頭脳を見せて周囲の人間を驚かせていた。ある日の作業中、大人達が企業の融資の件で、利息がどれほどに膨らむかということについて、紙とペンを持ち頭を悩ませていたことがあった。そこに通りかかった彼は、誰にも教わってないにも関わらず、複利計算 を暗算で行って即答したのである。その話を伝え聞いた企業の雇い主である趙寧(ちょう ねい)は、その件から彼に眠るダイヤモンドの才能を見抜いた。その翌日から、趙は李を毎日事務所に呼んで、仕事を与えるという体裁で、彼に読み書き、算数、社会知識等の勉強を教えた。そして彼が帰る頃には一日分の賃金を手渡すのだった。彼が行うはずだった実際の仕事はというと、趙は李に勉強を教える傍ら、もしくは、彼が帰ってから一人夜遅くに行うのだった。李はそうした趙の行動には当然気付いていたので、ある時、趙がいつものように李に一日分の賃金を手渡すのを拒んだ。そして彼は、趙に申し訳ないからこういうことはもう終わりにしてほしいと申し出た。すると趙は、彼の目線まで屈み、彼の目をしっかり見てこう言った。
「君が勉強することはお金を払う価値があることなんだ。今の君は世の中を知らないからそれに気付かない。君がもし、そこらにいる農村の子供達と同じならば、私は君を一日中土地に追いやって朝から晩まで仕事をさせるさ。しかし、君は違うんだ。」
その言葉は李の中で現在に至るまで心に深く残り続けており、それが後に彼を学者の道に進ませるきっかけとなった。李にとって新しい知識を得るのは大変面白く、就寝時以外は食事中も、トイレでも、常に趙から借りた本を片手に持ち(寝ながら開いた状態の本を持っていたこともしばしばあった)、知識の習得に励んだ。李は数学や物理学において、特に非凡な才能を見せていた。しかし、彼自身は世界史や地理の勉強をするのが一番好きだった。生まれてこの方、農村とそこに住む人々しか知らない彼にとって、西洋の美しい建造物や遺跡、それに世界中の様々な文化を背景とした食べ物や民族衣装の写真を見ることは何より心をおどらせた。彼は、今すぐにでも農村を離れ世界中を旅してみたい、そう思った。ある時、いつものように趙の授業を受けている際、彼はそのことをポロッと口にしてしまった。丹念に指導している趙としてはいい気分はしないだろう、と彼は言った後で自分の発言を後悔した。しかし、趙は意外にも怒ったり苛立ったりしている様子はなく、無言のまま考え込んでいた。そして、しばらくして趙は口を開いた。
「君なら……そうだな、海外の大学の特別推薦枠を取れるかもしれない。今、君が海外に渡ったところで職はないし生活をしていくことはできないが、授業料、その他を全面的にカバーしてくれる奨学金制度を設けているような大学もある。そこでしっかり学んで、自分の力で金を稼げるようになれば、君の言うように色々な国を回ることも可能だろう。」
彼は趙の言葉に対する興奮を隠しきれていなかったが、それでも謙虚に反論した。
「趙さん、僕は小学校にも行ったことがないんですよ。いきなり大学だなんて……。」
 すると趙は表情を変えずに再反論した。
「今更、君がそういう教育を受けたって時間の無駄だよ。いや、大抵の大学だって君にとっては何の得にもならないかもね。とは言え、君の生い立ちを理解してくれるような教育機関はきっとそう多くはない。才能のある人間を受け入れる柔軟性があるところ……。どうせなら、より高いレベルがいい。そう、マサチューセッツ大学とか。」
 彼は頬を赤らめた。趙は普段彼のことを滅多に褒めなかった。それは、周りの人間のレベルを知らない彼を慢心させたくない、という趙の計らいであった。しかし、内心では誰よりも李のことを高く評価していたのである。実は趙もかつては海外の大学へ留学し、博士課程まで進んだ人物であった。しかし、文化大革命 の影響で強制的に帰国せざるを得なくなり、国の行く末と自らに降りかかるかもしれない危険を鑑みた彼は学問の世界から遠ざかることとなった。そういう過去もあって、彼は多くのことを知り、それを李に教えることができたのだ。趙は学生時代の知り合いを伝って、マサチューセッツ大学に、「見てもらいたい少年がいる」という旨の手紙を出した。趙の頼みともあり、李は特別に実力を計る試験を取り計らってもらえるようになった。その後、彼は寝食の時間を惜しみ一日二十時間にも及ぶ猛烈な努力の末、僅か十五歳にして見事、同大学の特別推薦枠を手に入れた。大学では、今でこそ馴染みがあるが、当時はまだ草分け状態であった人工知能の先駆けとも言える研究をし、一定の成果を挙げた。誰もが李を天才と称賛した。そんな、将来を嘱望された彼だったが、二十代後半に差し掛かり転機が訪れた。それは、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロに起因するイラク戦争 などの勃発であった。当時アメリカにいた彼は、自分の住む国が様々な過程を経て凄惨な戦争へと向かう姿を見て、それを防ぐためにはどうすれば良いのかを思索し、国際政治学という分野に興味を抱いた。同時に、彼は、小さな頃、自分は様々な国のことについて勉強することが好きだったことを思い出した。その後、李は今までに築き上げた経歴を捨て、社会学について一から勉強し始めた。誰もが、彼が工学の世界から姿を消したことを惜しんだ。しかし、李の意志は固かった。彼は、以前より住んでみたいと思っていた日本を留学先に選び、再び勉強に励んだ。そして、博士課程を経て、同大学の教授職に着任した。
 こうして、李は東大教授として現在、東條の目の前に立っている。李は東條が人生で出会った人間の中でも、比類なく賢く優秀な人物であったが、それを鼻にかけているような感じは一切なく、ゼミの時間が余れば、生徒全員を大富豪大会に巻き込み、勝敗に本気で一喜一憂するような砕けた部分もあった。とは言え、講義の際は、彼は真剣そのものであった。東條は彼の視点や話の面白さに、他の教授にはない魅力を感じ、毎回惹かれていた。この日の授業は、ウイグル人差別について話し合う授業だった。新疆ウイグル自治区は中国北西部に位置し、ウイグル人と呼ばれる民族が居住している。ウイグル人はトルコ系の民族で、主にイスラム教を信仰する。中国は人口の九割が漢民族であるが、残り一割はウイグル人のような少数民族であり、独立運動などが発生するのを阻止するため、これらの地域で民族弾圧がされているのではないかという疑惑があった。
「ひどい。なんでそんな理不尽がまかり通っているんですか?」
 李の話を聞いて、ゼミの一人の女子生徒が声を上げた。他のメンバーも今日の話は深刻で、神妙な面持ちになっていた。李は答えた。
「国を持たないからです。主権 をもたない、これ以上に酷いことはそうそうありません。人間は集団において常に弱者の存在を求めていますからね。だから、昔から人間は戦争をしてでも命懸けで祖国を守ろうとするのです。」
李はこの後もウイグル人差別について自身の知見を熱弁した。この日は特に、彼の情熱のこもった授業だった。

第三章 会合

(いつからだったか。)きっと同じ時期に「そういうこと」が重なったために、東條にとって人生は急激に色褪せたものとなったのだ。東條は生まれてこの方、挫折なんて知らなかった。勉強、スポーツ、何をやっても周りより上手くできたし、周囲もそんな彼を手放しで称賛した。彼のいる集団は常に彼を中心に回った。東條はそういう時も自身を謙虚に見せる術を心得ていたが、心の内では能力の優越性におごっていたことも今となっては彼自身認めることができる。彼は中学までこの世の中で自分にできないことは本当にないと思っていた。高校生になってからも、東條は二年生にして東大模試で一位を取った。それだけではない。身体能力の高い彼は中学入学時からバスケットボール部に所属していた。無論抜群に上手く、それだけ遅くに始めたにも関わらず、中学三年次には全国選抜、しかも主将に選ばれた。バスケットボールは彼が唯一、心から情熱を傾けることができるものだった。彼は誰にも言わなかったが、将来はNBAの舞台で活躍したいとも思っていた。しかし、高校二年の秋のある試合を契機に彼は変わった。アメリカと日本のハーフの、身長195㎝という留学生を相手に彼は全く歯が立たなかったのだ。それと同時期だった。自分より少し年齢が上の人間がNBAの舞台で活躍し始めたのは。映像を通して、その選手の動きを見た彼は、2mを超える長身はもちろん、瞬発力、しなやかさ、どれをとっても自分には備わっていないと感じた。それは、実力のある人間だからこそわかる、僅かだがとてつもなく大きな差であった。彼はこの時期から世の中の「埋められない壁」についてようやく理解し始めた。恐らくその頃から、彼のバスケへ抱いていた情熱は徐々に失せていった。どれだけ同世代の中で活躍していても、その分野に本当に選ばれたのはほんの数名で、自分はそれ以外なのだと彼は悟ったのである。それからというもの、彼は主将を務めているにも関わらず部活に顔を出さなくなり、結局そのまま幽霊部員として引退した。それ以来、彼は何をやっても張り合いが持てなかったが、とりあえず何か自分が興味を持てることを探すために大学に入ることに決め、受験勉強を経て東大に入学した。しかし、大学に入ってからは「そういうこと」はより頻繁に起きた。別に大多数の学生達と比べて劣等感を抱いていたわけではない。ただ、自分は平均以上なだけだということを彼は認識した。東大には実に多くの多分野における天才がいた。しかし、彼らとてその分野において一番かと言われればきっとそうではないことの方が多い。メディアなどで持て囃される人物、すなわちこの世の「主人公」になれる人物は、同時代の中で本当に選ばれたたった数人の人物だ。それ以外の人間は、いつかその分野において自分より上の存在を見つけ、ある人はひどく劣等感を感じ卑屈になり、またある人は自分はこの分野では勝てないからせめて他のことでと妥協する。東條は大学に入ってからはこれまでよりもより強く「そういうこと」を実感したのである。
東條とて心の底では新たに情熱をかけられることを欲していた。彼は大学で色々な人間を見た。官僚を目指す者、日本の将来性を身限り外資系ファンドを目指す者、はたまた、労働者を否定しビジネスを起こして資本家になろうとする者。だが、これらのものはどれも彼にとっては全く空虚なものに思えた。全て人間社会の大前提に無意識に制約されたものにすぎなく思えたのだ。だが、大学二年になり、周りがそれぞれの描く将来に動き出そうとしているのを見て、彼もいよいよ焦燥感に駆られた。自分も何か始めなければならないと思い、司法試験の勉強をしてみたり、企業インターンに行ってみたりもしたが、彼にとってはやはりどれも熱中できるものではなく、手応えはなかった。そうして彼は、自分でも何をしていいのかわからなく、焦りだけが増していく日々を送っていた。そんな時、東條は大学一年次のゼミの知り合いの佐藤にキャンパス内で声を掛けられた。佐藤はあまり大学に来る学生ではなく、一年次のゼミでも最低限の出席と課題の提出で何とか単位をとった(李の温情もかなりあったが)。久々に顔を合わせたこともあり、二人は学内のカフェに行き、お互いの近況報告で話が弾んだ。なんでも、彼は最近、人を集め様々な分野について講義するセミナーを開催する計画を立てているようだった。彼曰く、東大生という人脈を活かし、そのうち人気が出れば、テレビに出ているような大物も講師として招聘し、客足も増え、自分の人脈にとってもプラスだろうということである。将来業界人として幅を効かせることを目的に、現在テレビ局でアルバイトをする彼は、業界で「顔が効く」ということの重要性を痛いほど認識していた。
「今は時間があるからな。思いついたことは全部やってみるつもりさ。雇われの身で働くだけじゃなく、俺自身が主体となって何かをすることは俺にとって必ずプラスになると思うんだよ。」
思い立ったら即行動するのが彼の性格で、取っ掛かりとして一ヶ月後に日本の政治経済に関して講義を行うことに決め、新しく作ったフェイスブックやツイッターのアカウントで宣伝まで行ってしまったそうだが、思いの外内容をまとめるのが難しく、自分がしたテーマ選定に後悔しているとのことだった。
「そうだ、お前がやってくれないか? 一回目のセミナー講師。お前なら適任だと思うんだよ。話も上手いし知識だってある。それに、イケメンだ。みんな喜ぶ。」
 佐藤は人を煽てるのが上手かった。一年次もよくそういう言動をしていたし、それ故、女子からの人気も高かったことを東條は思い出した。
「佐藤が企画したんだろ。お前が講師をしなくてどうするんだよ。」
 東條は笑いながら言った。
「俺はどちらかというと運営に興味があるんだ。元々、セミナーが軌道に乗れば講師は他に任せて自分は運営だけをやるつもりだった。」
「それで、今どのくらい集まってるんだよ?」
「三人。な? 大したことないだろ? 別に金は取っちゃいないし、気楽にやってくれたらいいんだよ。とは言え、俺からお前にはちゃんと報酬払うぜ、もちろん。」
東條自身、政治にとりわけ興味があるわけでは無いが、父親が官僚で、幼少期より社会情勢について説かれていたこともあり、ある程度の知識はあった。しかし、相手が三人とは言え、教師のようなことなどやったことがないし、自分にメリットもなく思えたため、結局東條は断った。佐藤も残念そうに了承したが、二週間ほど経ったある日、今度は赤坂駅の地下鉄口で偶然にも二人は出会った。佐藤はちょうどテレビ局のバイトに行くところだった。東條があのセミナーはどうなったか聞くと、佐藤は現在も苦戦中とのことを伝えた。
「やっぱりやってみないか? お前ぐらいちゃんと知識があって、それを論理的に話せる奴は大人でもそういないよ。きっとみんな喜ぶと思うんだけど。なあ、お前にとってもいい経験になると思うよ。ほら、就活なんかでも話のネタになる。お前確か、ノンサーだったろ?」
 確かにそうだ、と東條は少し思ってしまった。彼は結局、大学のサークルや部活にはどこにも入らず、週二回の家庭教師のバイト(はじめは登録制のところから派遣されたが、生徒の親からの評判が良く、時給四千円で五軒の家庭と個人契約を結ぶことができた。東條は特に金に困っているというわけでもなかったので、彼にはこれで十分だった。)と学校の他には大方、読書をしているような生活をしていた。一方で、もう一年もすれば本格化する就職活動に向けて、自分は面接で話せることがあるのかという不安を抱いていたこともまた事実である。彼の心は揺らいだ。
「なあ、頼むよ。当日は昼飯、夕飯奢るぜ。」
 佐藤はもう一押しした。
「まあ、一回ぐらいはいいか。」
 東條は承諾した。まんざらきちんと準備すればやれないこともないと思ったし、正直、今の生活が退屈だったから、という理由もあった。
「本当か? オッケー! 詳細はまたラインするから。」
 佐藤は嬉しそうにそう言うと、そのままテレビ局のバイトに走って向かった。

一回目の会合は渋谷のレンタルルームを借りて行われた。教室に集まったのは当初の予定から二人増えて五人だった。
「東條と言います。東響大学の二年生です。よろしくお願いします。えっと……どうすればいいのかな?」
 セミナーに集まった者達はお互いの様子を探り合いしているようだった。どうやら皆顔見知りというわけではないらしかった。
「今日は初めてだから、政治経済についてみんなが疑問に思っていることを質問してもらって、それに東條が答えればいいんじゃないかな?」
 右端の一番前の席に座っていた佐藤は東條に助け舟を出した。すると、高校生ぐらいに見える坊主頭の男の子が挙手をした。
「えっと、じゃあ君。」
 東條は男の子を指した。男の子は勢いよく立ち上がって喋り始めた。
「自分は小岩雄二(こいわ ゆうじ)と言います。たまたまツイッターを検索していたところ、こちらのセミナーを見つけて千葉の稲毛から電車を乗り継いでここまで来たんです。今日は東大生の東條先生にいろいろなことを聞きたいと思っています。どうぞよろしくお願致します。自分は国に対してとても疑問を持っています。どうして国は何もやってくれないんでしょうか? 今も困っている人間は大勢いるのに。」
 真面目そう、というか堅物そうと東條は思った。きれいに刈られた坊主頭のように小岩はまだ何色にも染まっていない純粋さと清廉さを感じさせた。(ええと、彼はなんと質問したっけ? ああ、なぜ国は怠惰なのか、か。国とて何もやっていないわけでは当然ない。だが、この少年が思うほど社会は人間が完璧にコントロールすることのできるものではないということだ。この子はこれからそういうことを理解していくのだろうか……。とはいえ、今この子にそういうことを上から言い、諭すのはこの場では妥当でない。)東條は小岩の質問に対する落とし所としての最適解を探った。
「国も何もやってないわけでは当然ありません。しかし、君が今、そういう風に感じているのは、きっと利益分配が上手くいっていないからでしょう。誰かが利益を得ると不利益を被る人間は必ずいます。政治家は本来その利益分配の調整役として機能するべきなのですが、そうなっていないのが今の日本の現状です。」
「どうしてですか?」
 小岩は尋ねた。
「現状、利益を持っていてそれを手放したくない強い権力があるからです。彼らの影響力は大きく、政治家一人の進退など容易に左右することができます。だから、政治家達も彼らを無視することはできないんですね。」
「自分達の保身のためということですか? 政治家とは、自分を犠牲にしてまでも国民のために尽くす存在なのではないのですか?」
「本来、そうあるべきですが、それはあくまで理想の話です。こういった権力を持っている者がいなければ政治が動かないのもまた事実です。そして、その現実と向き合いつつも、うまく利害関係者との関係を調整して、自分のやりたい政策を推し進める政治家もいます。他方で、こういった権力者の甘い誘惑に乗り、ただの操り人形になっている政治家もいるのがこの国の現実だと私は思います。」
「じゃあ、自分達はどうすればいいんですか? そんな政治家に国のことを任せていて良いんですか?」
「君は何歳かな?」
「十八です。」
「なら、選挙に行けるね。日本国憲法は、国の在り方は国民が決めることと定めています。その方法が一人一票の選挙権です。そろそろ、参議院の任期満了が訪れるので、近く参議院選挙が開かれます。僕たちはそういった場で、本当に国民のことを考えてくれている政治家を選び、自分達の意思を表明するべきなんです。」
 東條は続けた。
「しかし、現状、日本では若者の投票率が低い傾向にあります。若い人はどうしても政治に関心を持ちにくいですからね。だから、政治家は投票率の高い高齢者層に寄り添う政策を掲げてしまうのです。やはり、選挙に勝って議員であり続けたいですからね。」
「では、若者の投票率を上げるにはどうしたらいいと思いますか?」
 小岩が尋ねた。
「今のご時世、若者はテレビは見ないけどネットはよく利用しています。SNSなんかを使ってもっと若者が興味を持てるように広報していけば変わると思いますよ。あとは投票のしやすさですね。わざわざ投票所に行かなくとも、スマホを使ってネットで楽に投票できるようになれば、若者の投票率は大幅に上がるでしょうね。」
 それからも、こうした問答形式でセミナーは進んでいった。小岩に端を発して、セミナーに参加した他の人間も東條に積極的に質問していった。東條はそれらの質問に一つ一つ真摯に正確な知識を元に答えていった。会合に参加したメンバーはいつしか、東條の完璧な受け答えに対し、多分な信頼を寄せるようになっていった。
 こうして、当初一時間半の予定だったセミナーは三十分の延長の末無事終わった。その後、一行はしばらく歓談や連絡先交換を行った後、皆部屋を去っていった。終了後、佐藤は東條を焼き肉に連れて行った。
「良かったよ。ありがとう。お前に頼んでやっぱり正解だった。お前は本当に話すのが得意だな。なあ、お前、右奥のおじいちゃん覚えてるか? なんだ、高校生しか印象に残ってないのか? まあ、あのおじいちゃん一言も発しなかったからな。あの人な、後で聞いたら高校の政治経済の教員なんだと。そんな人がお前のこと絶賛してたぞ。今すぐでも、うちの高校で教壇に立てるってな。あ、お前教職取ってなかったっけ? まあ、それはともかく、次も機会があったら頼むかもしれない。今日は本当にありがとな。これ報酬だ。」
 佐藤は東條に五万円を手渡した。
「こんなに? あのセミナーの諸経費だって全部お前持ちだろ? その上飯も奢ってもらってるし。そんなに稼いでるのか?」
「テレビ業界でバイトしてると色々あるのよ。今の俺にとっては大したことない出費さ。」
 佐藤はニヤッと笑って答えた。
「お前、政治家とか向いてるかもな。いや、やるにはちょっと情熱が足りないか。お前は自分のために生きてるからな。」
佐藤は別れ際に何気なく言った。東條は少しギクッとした。佐藤はこう見えて、東條の本質を見抜いていた。セミナーに熱心に誘っていたのも、決してそこに丁度良さそうな人材を見つけたからではない。東條だから、だったのだ。ゼミで一緒だったころはあまり気付かなかったが、こいつは飄々としつつも人が持つ性質をしっかりと見極めた上で、自分にとってメリットになるかどうかを厳密に判断しているんだろうなと東條は思った。もっとも、こういう能力もここ一年で少しずつ身につけたものなのかもしれないが……。周囲の人間がそうやって社会という波に揉まれ少しずつ成長しているような気がして、東條は少しばかり胸が痛んだ。
 
第四章 選挙

 小岩雄二という高校生は、政治や国の将来について真剣に考えている珍しい高校生だった。東條はあのセミナーの後、小岩に頼まれ連絡先を交換した。小岩は現在、千葉県の公立高校に通う三年生で、東條と同じ東大志望であることを明かした。また、小岩は、家が貧しく家庭環境においてハンデを抱えており、高校一年生からほぼ毎日コンビニでアルバイトをしていること、そして、そういった弱者に対する援助をしてくれない政治に強い憤りを抱いていることを東條に語った。小岩からのラインはほぼ毎日で(たまに電話もかかってきた)、前回のセミナーで聞けなかったことなど政治に関する疑問点を東條にぶつけてきた。東條自身、それに答えるのが面倒ということは全くなく、真摯な小岩にできる限り答えてあげようと思った。
「君は受験生だろ? こんなに政治のことばかり考えていて大丈夫なの?」
 東條は一度、苦笑しながら小岩に問うた。
「受験勉強ももちろん大事ですよ。起きてる時間はそれこそ朝から晩までやってます。でも、それと同じくらい今は政治について学ぶことにも情熱を注ぎたいと思うんです。現状の政治を変えられるのは今しかないじゃないですか? 大丈夫ですよ。情熱があれば時間がないなんて言い訳ですよ。東條さん、僕は必ず合格して見せます。そして、合格して東京に来たら東條さんのように仲間を集めて政治運動をやりますよ。待っててください。それまではこうやって気になることは東條さんに聞いてもいいですか? さすがに東京へは頻繁に行けませんから。」
 東條は小岩のやる気に満ち溢れた声を聞くと、あのセミナーは自分が積極的に集めたものでもないし、継続性のあるものでもない、ということを伝える気になれなかった。
「問題ないよ。待ってるね。」
 東條はそう返した。

 まだ肌寒さを感じる中、新しい年度が始まった。東條は大学三年生になった。そろそろ、自分の進路を真剣に考えて具体的な行動に移さなければならない。民間の就職活動をするならば、インターンに行かなければならないし、公務員や士業 に就くならばそれに向けた準備も必要となる。勉強自体は苦手なことではないが、面接ウケするような大学時代に打ち込んだことがないという事実が、彼にとって就活を億劫なものにさせた。一方で、彼はあのセミナーのことも心の片隅に残っていた。結局、あの一回目のセミナー以来、佐藤とは疎遠になっており、あの時の連絡先を交換した参加者同士で集まることもなかった。先導者の佐藤の現在はというと、テレビ局のバイトでどんどん人脈を広げ、最近では芸能人の主催するパーティーにもよく顔を出しているという噂だった(東條はそれを一年次のゼミのメンバーから伝え聞いたのである)。なんでも、彼はいろいろなものを「調達」する能力に長けているという話であった。そういった生活により、忙しさを激しく増した佐藤は、同じ学部にも関わらず、東條が学内で見かけることは皆無と言ってよく、あのセミナーの話も佐藤の中では一時保留になっているようだった。
 小岩は、受験期にアルバイトをしていたにも関わらず、東條と同じ東大文科一類に現役で合格した(もちろん、彼の中で大変な努力があったことは想像に難くないだろう)。三月の上旬、小岩から東條に合格を知らせるメッセージが来た。晴れて、小岩はこの春から東條の後輩となったのである。小岩が三鷹寮に引っ越してきたのは三月の下旬で、二人は三鷹のカフェで再会した。
「それで、雄二は大学に入って何が楽しみなの?」
「僕は、本格的に政治活動をしていきたいです。受験期間もそのことばかり考えていました。」
 東條にとっては半ば予想していた答えだった。
「もっと大学生らしいことに興味はないの? サークルとか合コンとかさ。」
 何だか、入学したての頃の上本のようなことを言っているなと東條は感じた。上本は大学二年のクリスマス前に念願の彼女ができ、入学したての頃のようなガツガツとした雰囲気は陰を潜めていた。東大では一、二年生は皆、教養学部として学ぶが、三年次より専門の学部にそれぞれ分かれる。東條は法学部を選び、上本は経済学部に進んだため、大学三年次からは彼と授業が被ることがほぼなくなった。上本はこれからインターンなどの就職活動に積極的に参加していくつもりらしい。入学時には似合わない茶髪とヘアスタイルをしていたが、この二年で大分落ち着いて、今はすっきりとした黒髪の七三分けでスマートささえ感じる。実際、上本のことが気になっているという女子生徒の話も東條はたまに聞いていた。小岩もこれから都会の波に触れ変わっていくのだろうかと彼は思う。
「くだらないことですよ。そんなの。それより、現状の日本を変えないと。僕はもう合格発表のその日には動き始めているんです。今は仲間を集っているところですよ。東條さんも僕の活動に参加してくれますよね。もちろん。」
 小岩は目をキラキラさせて言った。しかし、
「ごめんな。俺はこれから就活なんだよ。何か雄二の助けになるようなことならできると思うけど。」
 東條は断った。
「そうか、就活か。それなら仕方ないですね。大変な時期ですもんね、たぶん。僕にはまだよくわかりませんが……。じゃあ、困ったら相談だけでもさせてくださいね。」
 小岩は残念そうにではあるが納得した。東條は実際のところ、進路の見通しやそれに向けて頑張るべきことも未だ定まっていなかった。それにも関わらず、小岩のお願いに対して、就活を言い訳に逃げている自分に嫌気がさした。

小岩雄二は有言実行の男だった。劣悪な家庭環境にも関わらず、高校一年時からコツコツ続けたアルバイトによって、既に大学四年分の入学金と授業料は自分で払えるほどに貯蓄があり、それでいて東大の文一に現役で合格した男である。並の精神力ではない。小岩は入学後、前期の間は様子を伺って情報収集に勤めていたようだが、夏休みから政治活動の仲間招集に本格的に動き始めた。小岩は集会の人員集めのため、都内はもちろんのこと、千葉、埼玉、神奈川、茨城にまでも出向き、大学を回って政治運動団体の勧誘を行った。彼は自分で「若者の未来を救う集会」と銘打ったビラを作りそれを配った。無論、ツイッターも大いに利用した。彼は、顔を公衆に晒して政治活動を行うことになんの躊躇いもなかった。東條は一度、そんなに派手に活動していたら小岩の将来に響くということを忠告した。しかし、彼の答えはこうだった。
「前も言いましたが、将来なんて、今を変えなければそもそも訪れないですよ。今本当に大切なことは何か。僕はそれのために自分の力の最大限を注ぎ込みたいんです。」
「そうは言ってもね。確率論として、選択肢は多い方がいいと思うんだよ。雄二にとって、今はこの活動のことしか見えないんだろうし、それは大変に素晴らしいことだと思うけど、来年、再来年に自分がどういう考えを持っていて、何を感じているかなんてわからないよ。若いと特にね。俺もそうだったから。」
 小岩はそれを聞いた時、唖然とした顔をしていた。
「東條さん、正直失望しましたよ。結局、東條さんは二年後の就職のことしか考えていないんですね。自分達が変えるんですよ。僕はこの日本において、この僕ほど将来の日本を憂慮して実際に行動に移している人間はいないと思っています。東條さんは政治に対してあれだけ自分の考えをもっていて、なんで行動に移さないんですか? あれは口だけのことだったんですか?」
 小岩はほとんど東條に対して怒鳴っていた。彼は頭に血が上りやすいタイプの人間だった。
「具体的な行動って? 仲間を集めた後はどうするの?」
 東條はそんな小岩に冷静に問いかけた。
「今考えているのは、選挙の時に渋谷駅前で宣伝活動をすることです。公示日から毎日同じ場所でやろうと思ってます。そうすれば、メディアなども取り上げてくれるかもしれないですからね。このままいけば、十月に衆議院議員の任期が切れて選挙が行われます。そこで、自分達の意見を世論に訴えて結果を変えてやるんですよ。僕は本気ですよ。」
 小岩は真剣な眼差しをしていた。
「君が変わろうとしても世の中を変えるのは難しいことだよ。なぜならみんな本当のところは変化を拒んでいるからね。それでも、君のような人間を俺は応援したいし、俺が出来ることがあったら何でもやるよ。」
 東條の冷静な態度に、小岩の束の間の怒りもやがて収まっていった。小岩は我の強い性格で、自分の思ったことは絶対に曲げず人には滅多に従わない男だった。それ故、高校までは学業で優秀だったにも関わらず、よく教師と衝突して問題児扱いされていた。そんな小岩も東條に対しては比較的従順だった。彼は出会って以来、東條のことをこの上なく尊敬していたし、それは今もなお変わっていなかった。
「どんなに困難が待ち受けていようとも、強く明確な意志さえあれば道は拓けます。僕の尊敬するゲバラ は常にそうしてきました。僕は自分の決めたことをやり遂げます。ご指導よろしくお願いします。」

 東條はその後、進路に関しては様々な選択肢を選べるようにしておくことに決めた。夏には二社の日系大手企業インターンに行き、東條は議論の上手さや論理的思考力によって高い評価を得た。また、時間の空いた時には公務員試験の勉強をした。東條は過去問を見てみて、法学部であったのと元々日々の読書により教養能力が高かったこともあり、あまり頑張って対策しなくとも十分合格できると感じた。こうして、彼は砂漠の中にいたような感覚だった進路決定に関して少しの手応えを感じ、不安も和らいできた。もっとも、これがしたい、といったものを彼は相変わらず見つけることができないでいたが……。
そうして時は流れていき、十月となった。小岩の言ったように衆議院は解散されないまま任期満了を迎え、総選挙が行われる運びとなった。小岩はこの日までに自分の政治団体として十五人のメンバーを集めていた。全員大学生だった。公示日以来、小岩は渋谷ハチ公口でメンバーと一緒に呼びかけ活動を行った。今回の小岩達の目標は、同じように弱者、若者の救済を掲げる新興政党から多く議席を出すことだった。彼らは積極的にこの政党の良さを訴えた。小岩の集めたメンバーは日によって来たり来なかったりだったが、首謀者の小岩自身は毎日欠かすことなく渋谷に来た。彼らは早朝五時から駅前を陣取って、皆プラカードを掲げたりビラを配ったりして「弱者や若者のことを考えた政治」をスローガンに呼びかけをしていった。しかし、大半の若者達は皆素通りしていくばかりだった。時折、立ち止まる者がいたとしても、それは嘲笑と共に彼らの動画を取るような連中だった。それでも、小岩はめげずに毎日渋谷で朝から晩まで自身の考えを訴え続けた。東條は自分が先陣を切ってその活動を進めるといるわけではなかったが、それでも一生懸命な小岩に対して、集団に対する訴え方やその内容について積極的に助言などしていった。するとある日、小岩の当初の思惑通り一つの報道番組が小岩達を取材し、その日の夕方、その姿がテレビで流された。それだけでなく、報道に合わせて一時はネットの中でも彼らの活動が話題となった。これには小岩も満足そうだった。
「確実に僕たちの活動が世論に影響は与えてますよ。投開票が待ち遠しいですね。東條さん。」
「そうだね。」
 東條はそう答えつつも、小岩が思い描くような結果にならないだろうことはわかっていた。今回の選挙は、総裁選後の消化試合である。世の中に改革の雰囲気はなく、大方、旧来の保守政党が議席の大半を占めるだろうと東條は考えていた。また、小岩の指示する新興政党は運悪くも有力者の集まる選挙区から出馬しており、小岩の活動程度では結果を変えることなどほとんどないだろうと東條は考えていた。そういった知識にはまだ疎い小岩は、これから出される結果に対してどのような反応をするのだろうか、と彼は心配した。  
そして、投開票の日が訪れた。結果は、東條の想像通り、旧来からの保守政党及び、それと連立政権を組む党が大多数となった。今回の選挙でにわかに話題を集めた小岩一推しの政党は、結局、票は伸びず、一議席すら獲得できずに終わった。選挙の総評として、順当に地盤、看板、カバン を持った議員が当選したという印象だった。開票が進み、結果がわかっていくにつれ、テレビの前でその様子を見ていた小岩の顔は険しさを増していった。この二週間余りの選挙活動で彼らが得られたものは何もなかったのである。
「東條さん、これが日本の現状なんですね。変わることを望まないと。今回身に染みました。東條さんの言っていたことが。」
 小岩は気丈に振る舞っていた。東條は黙っていた。こんなもんだ、か。次がある、か。東條は小岩に何と返せばいいのか悩んでいた。
「なんで。なんで。」
 小さな声がした。東條が隣を見ると、小岩は涙を浮かべながら、声にもならない声で呟いていた。無理もない、と東條は思った。どれだけ素通りされようが、どれだけ周りに嘲笑されようが、それによって、せっかく集めた仲間が根を上げて選挙中に脱会しようが、この若者は毎日朝から晩まで日本の将来のために自らの信念を信じて踏ん張って来たのだ。東條はこんな日が来ることもわかっていたし、その時には小岩に対し、ほら言っただろうと言ってやるつもりだった。しかし、今実際にその状況になってみて、この男にそんな言葉をかける気には到底なれなかった。小岩はこれ以上なく落胆した様子だった。通常ならば、小岩は悔しさを口にしたり恨み節を吐いたりする男だが、この時ばかりはショックのあまり口を開くことすらできないようだった。東條には、小岩が今まで目の前にあったはずなのに見えていなかったであろう「世間」という巨大な壁を、今初めて認識していることがわかった。それは、かつて自分も経験したことがあるため、東條には今の小岩の気持ちが嫌というほどわかった。

第五章 再結成

 あの選挙の日から一ヶ月が過ぎた。この間の小岩の生活はとても人に見せられるようなものではない酷いものだった。昼夜逆転し、十五時に起きると、布団で何か目的があるわけでもなくただ思いつくがままにスマホでネットサーフィンをする。そうこうしているうちに腹が減るので、スーパーで大量に買い込んでいたスナック類やカップ麺などを食べる。そして、再び布団をかぶり、ゲームをしたりネットを見たりして、眠くなったらそのまま眠る。風呂は三日に一回、買い出しは一週間に一回で、就寝時間はいつも朝の七時だった。それまで節制していた小岩だったが、自らの目標が消えてしまうと、もはや何をする気力も起こらなかった。小岩の姿は、今、何に耐えることもせず、ただ手軽に手に入れられる快楽を貪る愚者そのものであった。自身が忌み嫌っていた怠惰なフリーライダー がめっきり板についており、それに自己嫌悪を感じつつも、全くやる気が湧いてこない自分に、小岩は心底嫌気が差していた。

あの日以来、東條は小岩と会うことはなくなった。東條は東條でいよいよ本格的に進路について真剣に考えなければならなかったため、日常の忙しなさは日に日に増していった。大学四年の四月、東條は就職か進学かという二択について悩み抜いた末、結局、大学院進学をすることに決めた。インターンの早期選考で既に内定をもらっていた会社もあったが、彼はそこでの業務にもあまり関心が持てなかった。また、公務員や士業に関してもやはり同様だった。そこで、彼は再び学問の道に進むことに決めた。しかし、いかに内部進学とはいえ、院試はちゃんと対策を練って受けないと普通に落ちる。東條は過去の問題や教授の講義録を使って対策を始めた。一方で、いよいよ自分の進路を決定したにも関わらず、心の空虚感はどうしても埋まらなかった。大学院を卒業した後、自分はどうなるのだろうか。彼が行くのは公共政策大学院のため、卒業生は官僚になったりシンクタンク に就職したりする者が多い。しかし、そういった職に就いて国のために奉仕するということが、東條にとって魅力的だったかと言われればやはりそうではなかった。かといって、外資系金融機関やコンサルティングファームに入って、ガンガンお金を稼いでいこうという意欲もなかった。東條には、これから先の人生を生きる意欲というものが全く見いだせなかった。周りの学生はこの三年ほどで様々なことを経験し、成長してきているのに、自分は大学に入学した頃とちっとも変わっていない。道が見えないからとりあえず前に進む。才能の壁にぶつかった十七歳の秋、東條はそう自分に言い聞かせて受験勉強に取り掛かり、大学まで来た。その「とりあえず」はどうやら二十一歳の現在になっても健在らしかった。大学で自分は一体何をしたのだろうか? 院に進んでも結局同じことなんじゃないのか? 卒業後、自分はとりあえずどこかに就職するのだろうか? しかし、小岩の情熱に乗せられた形ではあったが、あの選挙の時の政治活動は東條なりに楽しさがあった。無論、ただの学生のお遊びに結果が伴わないこともよくわかっていた。だが、彼らのために動いたあの時は、明日起こる出来事にワクワクしていたのもまた事実だ。そんなことを考えながら、東條は院試の参考資料を借りに学内の図書館へ向かっていたが、途中で誰かが彼を呼び止めた。
「東條くん東條くん。」
教授の李だった。彼は東條の一年時のゼミの担当だった。李は穏やかに手を振りながら東條に近づいてきた。今日の李は、白の長袖のトップスに赤のパンツと丈長のベスト、頭にはつばのない小さな赤い帽子という出で立ちで、博識な東條でも、それがどこの民族衣装かは見当がつかなかった。思えば、李と話すのは大学一年時以来だなと東條は思った。その間も、彼は学内で奇抜な格好をして闊歩する李の姿はよく見たし、突飛な噂も耳にしたのだが。
「先生。お久しぶりです。」
「やあやあ。元気にしてた?」
 李は、日本語は完全にセカンドラングエージのはずなのに、その流暢さも、言葉のチョイスもほとんどネイティブのそれだった。
「はい。元気です。先生も相変わらずお元気そうで。」
「そうでもないですよ。今日は私にとって超最悪の日ですね。せっかく時間をかけて作ったお弁当を、自分の分を持ってくるのを忘れたことにさっき気付きましてね。冷蔵庫にも入れてないのでこのままだと腐ってしまうんです。それで昼に仕事から帰る奥さんに連絡しようと思ったら、今度はスマホも忘れていることに気付いたんですよ。そうだ、東條くん、ちょっと電話するだけなのでスマホを貸してくれませんか? あぁ……ありがとう。朝の占いで双子座は最下位でした。やっぱりねと思いましたよ。だから、今ちょうどそこのスーパーでラッキーアイテムの赤いハンカチを買ってきたんですよ。これで午後からは運気上昇間違いなしです。」
 李は東條から受け取ったスマホに左手で電話番号を入力しながら語った。同時に彼は右手でポケットから赤いハンカチを取り出して、それを東條に見せた。
「あはは、そうなんですね。」
「東條くん。冗談じゃないですよ。今日は私の人生最悪の日を七年ぶりに更新した記念すべき日です。運命とは本当に数奇なものですね。今日のこの瞬間が人生を、いや世の中を大きく変えることだってあるんです。」
「いやあ、そうなんですかねぇ?」
 東條は何と答えれば良いかわからず何とも微妙な受け答えでお茶を濁した。しかし、李は全く気にしていないようだった。そうこうしているうちに李のかけた電話は奥さんに繋がり、李は無事お弁当の件を伝えることができた。李は買ったばかりの赤いハンカチでスマホの表面を丁寧に拭いていた。
「ところで、東條くんももう大学四年生ですよね。将来はどうするつもりですか?」
「自分は、院に行こうと思っています。先生の専門の国際政治学ではないですが、公共政策大学院なので、また授業を取らせていただくこともあると思いますよ。」
「そうですか。一年の時に君はやりたいことが見つからないと嘆いていましたが、卒業後はまだ学問に励むのですね。君は優秀だしこれから先、何をやっても成功を収めるでしょう。私は君のことをとても買っているんです。君とまた会えるのが嬉しいですよ。」
 李は朗らかに東條に笑いかけた。その時、東條は大学に入って唯一の恩師といってもよい李に対して、今、自分が思っていることを相談したい気持ちになった。彼とて誰かにすがりたい気持ちになることはあった。しかし、彼には心を割って話せるような知り合いはあまりいなかった。
「でも、先生。僕はまだわからないんです。自分のやりたいこと、やるべきことが。僕には何をやってもどうしても情熱が湧かないんです。僕の周りの人間は違います。みんな夢や目標があって、それに向かって日々努力して、苦しんで、もがいて、そうやって成長しているのに、僕だけが、昔とちっとも変わっていないんです。僕が大学で得たものなんて、毎日の読書による教養ぐらいです。だからといって作家になろうとも思いませんし。僕は自分を懸けられるものがあるみんなが凄く羨ましいんです。」
 東條は思わず自分の悩みを吐露した。目は少し潤んでいた。いつぶりか思い出せないほどの涙だった。それだけでなく、彼は自分が本音を語ったのもいつぶりだろうかと思った。普段クールで落ち着いた東條が、李の前では将来に悩む一人の青い若者になっていた。李は落ち着いた様子で東條に語りかけた。
「東條くん、君は今自分を変えようとしているじゃありませんか? 自分を周りと比較して不満足を感じている。そして、その現状を変えようと必死にもがいている。本をたくさん読むのだって、先人から何かヒントを見出そうとしたんじゃありませんか? 東條くん、人間は革命のために生きるのです。革命は常に私たちの心の中にあるのですよ。君の革命は必ず成し遂げられます。なぜなら、君は今、問題に真摯に向き合って苦悩しているからです。」
 李はそういうとまた優しく微笑んだ。
「東條くん、お返しします。助かりました。ありがとう。今度また、二人で大富豪でもやりましょうね。」
 李は丁寧に拭き上げたスマホを東條に返した。そして、サッと向き直り東條の元を去っていった。東條はその姿を眺めていた。突如、東條の背後から強烈な春風が吹いた。

それから一か月後、小岩のスマホには久しぶりに東條からの通知があった。小岩はあの選挙戦以来、三ヶ月程は落ち込んでいたが、このままではダメだと生来の生真面目な性格の彼が囁き、その後徐々にやる気を取り戻していった。彼は大学に通いながら、次なる政治活動のプランを練っていた。そんな時に東條から小岩に電話が来た。東條の開口一番の一言に小岩は震えた。
「集会を再結成する。」
「東條さん、やっとやる気になったんですね。いや、僕一人でもやっていましたよ。やっていましたとも。でもやはり、東條さんがいるのといないのとでは雲泥の差だ。また選挙があります。今度はデモをやりますか?」
「いや、次はそんな生ぬるいことを言っていてはダメだ。これは革命だ。革命にはしばしば、犠牲がつきものだ。全てを投げ捨てて、考えられる手段を全て尽くす。そうやってやることでしか、恐らく社会を変えることなんてできない。」
 その後、二人は、東大のカフェで久しぶりに再会した。東條は手始めに選挙戦の時のメンバーに声をかけるよう小岩に指示を出した。小岩の呼び掛けに集まったのは三人だった。それもそのはず、皆、状況が変わっていた。しかし、東條は予想通りという感じだった。東條はこの三人に小岩を含めた合計五人のメンバーを、二年前のセミナーの時と同じ、渋谷のレンタルルームに集めた。この五人で始まった集会が、後に日本国全てを巻き込む組織になろうとは、この時東條以外は(あの小岩でさえ)誰も想像することができなかった。東條は四人を前にして語り始めた。
「この組織の目的は、若者のための改革を要求することだ。これより名前は、CRY(クライ)とする。俺達の嘆きを訴え、変えるぞこの国を。」

第二部 若者達の苦悩

第一章 朝比奈結

 朝比奈結(あさひな ゆい)は都内の有名私立大学に通うごく普通の女子大生だった。否、彼女にとっては普通であるが、世間的に見てそうではない点は二つある。一つは、彼女が飛び抜けて容姿に優れていることだった。幼少期より、彼女は自身のおとなしい性格にも関わらず、その見ためのせいで何かと注目の的となった。物心ついた頃には、寝ても食べても何をやっても周囲の人間が彼女の一挙手一投足を凝視しているのに気が付かないわけにはいかなかった。そしてそれは、彼女が成長していっても変わることはなかった。ただ、その視線は彼女にとってあまり気分の良いものではなく、なぜ、ただ普通に毎日を過ごしているだけなのに、周りの人間は自分を奇怪なもののように見るのだろうと悲しくなった。それも、彼女が自身の容姿の優越性を自覚したのが十五歳の頃と、世間一般のませた女の子達から比較すると遅かったためだ。しかし、その数年後には、彼女は自身に与えられた才能を最大限利用するようになる。二つ目の普通でないことは、彼女が都内のデリヘル店に勤務する風俗嬢だということであった。彼女が風俗で働き始めてもう二年にもなる。始めたきっかけは、大学でできた友人と新宿で遊んだ帰りに一人駅構内を歩いていたところ、スカウトを名乗る男に声を掛けられたことだった。実は彼女は、スカウトに勧誘されるよりも前から風俗業界に少し興味を抱いていた。彼女はその容姿とは裏腹に、大学入学まで交際経験が一度もなく、無論処女だった。彼女の初体験は、大学一年の夏休みの八月、十八歳の頃で、相手は初めて働いたアルバイト先であるイタリアレストランの三十二歳の社員だった。この日は普段の仕事を回している大学生のアルバイト達がこぞって帰省やサークル合宿などのために都合がつかず、特に人手の足りない一日だった。彼女は閉店時間後もホール内の清掃に加えて普段はやらないキッチンの掃除まで行い、それが終われば社員の男の事務仕事を手伝った。全て終わった頃には既に日を跨いでいた。もう終電がないので、ネットカフェにでも行って始発まで待とうと考えていたが、男はそんな彼女の状況を察してか、近くにあるという彼の自宅へ彼女を誘った。夏休み期間中で、翌日は特に用事がなかったため、彼女はその誘いを承諾した。家に入ると、男は冷蔵庫に置いてあった酒を持ち出し、彼女に飲むように勧め、酔いが回ってくると彼女に抱きついた。その日、彼女は処女を喪失した。こんな風に言うと、何か男の都合の良いようにヤられた風に聞こえるが、朝比奈自身、バイト先で二人きりになった段階で、もしかしたらこんなことになるのではないかと薄々感じていた。彼女は同僚の女の子から、この男が女性癖が悪いような話は聞いていたし、実際、彼がよくバイトの女の子に声を掛けていたのも知っていた。それでも、彼に誘われるのは彼女にとってまんざら嫌というわけでもなかった。その男はバイトの大学生が多い環境の中で数少ない社員で、かつ一回りも歳上ということもあり、大学に入学して間もない当時の朝比奈は多少なりとも魅力を感じていたのかもしれない。しかし、初体験を終えてみての感想は痛いでも気持ちいいでもなく、ただ「こんなもんか」だった。それは、セックスに対して多大な期待感を抱いていた彼女にとって、非常に残念なことであった。結局その日、彼女は男の家に泊まり、その後も付き合っているのか付き合っていないのかはっきりしない関係のまま、その男とは何度かセックスをした。しかし、何度やってもやはり、彼女が処女の時に抱いていたセックスに対する興味に十分応えるような感覚を抱くことはなかった。その内、男は彼女に飽きたのか、バイト先で彼女に話しかけることがなくなり連絡も途絶えた。男との関係がなくなり、彼女はパートナーがいなくなったが、今までまともに恋愛というものをしたことがないので、気になる異性がいても自分からアプローチするということがどうしてもできず、結局その後は高校時代までと同じく恋人のいない生活が続いた。そんな時だった。新宿で風俗のスカウトを受けたのは。もちろん、怖さと本当にいいのか、という気持ちはあった。それでも、彼女の中で溜まったフラストレーションと内向的な自分を変えたいという気持ちが彼女を新しい経験をすることに導いた。
朝比奈は面接と研修をなんとか乗り切ったが、初めての出勤日にはとにかく不安で心が挫かれそうだった。彼女は、店に連絡せずに飛んでしまおうかと考えたり、事務所の前に来たものの引き返そうとしたりもしたが、その度にここで辞めてしまったらまた同じになってしまうと思い踏みとどまった。言われた通り、出勤時間の三十分前に事務所へ着くと、すぐに指名が入っていることを聞かされ、彼女は送迎車に乗り込んだ。ラブホテルは実際に見るのも入るのも初めてだった。初めての客は四十代後半ぐらいで、友達の家に遊びに行った時にたまにいるお父さん、というような雰囲気の男だった。男は風俗を月一回ほど利用する家庭のあるサラリーマンだということで、彼女が自分の初めての客だということを告げると、気楽にやってくれていいからと微笑み、接客のことや業界のことなど実に様々なことを彼女に教えた。この客とは、朝比奈が風俗を始めて二年を経た今でも月一回のペースで会っている。もし、初めての客がもっとタチの悪い人間だったならば、きっとその日のうちに辞めたくなっていて実際行動に移していたかもしれない、と彼女は思う。そういう意味で彼女はこの客に対してとても感謝している。
ところで、朝比奈にとってイメージと違ったことが、風俗を利用する客は意外にも普通の男が多かったことだ。もちろん、たまたま彼女を指名する客がそういう男が多いだけかもしれないのだが……。彼女と初めて対面したほとんどの客は、反応の仕方は様々であるが、まず彼女の圧倒的なルックスに驚いた。そして、タイプは違えど様々な方法で彼女に気に入られようと試みた。時計や財布のような高価なプレゼントを毎度用意している五十代の会社役員、毎回手料理を用意している気弱そうな男、自分は他の客とは違い恋愛対象であるだろうと考えている若い大学生、誠意を見せるということで何の行為もせず会話だけして時間を終える客。これらの客が共通していることは、皆、彼女にとって特別な存在になりたいという考えであった。そして、朝比奈自身、経験を重ねるにつれ、そういった客の心理を熟知し、うまくコントロールして自分の都合の良いように動かす術を身につけていった。客がどれほどのことをしようが、風俗における嬢と客の関係が崩れ去ることはないことは、当事者である朝比奈が一番わかっていた。彼女は、客が今何を考え、何を求めているか完璧に把握し、いかにも自分だけが特別であると錯覚させるような完璧な演技を常に遂行するのだった。彼女が出勤する際に予約が埋まらないことはなかった。
 朝比奈結には、自分が世の中においてどういった需要を持っているのか、明確に理解した時があった。彼女が中学三年生の頃である。その日は、中間テストの最終日だった。最後の科目の英語を受け終わり、友人と一緒にあそこはああだったなどと先ほどのテストを振り返った後、家路に着こうとしていた。だが、ふと担任の教師である乾に呼び止められ、彼女は集まった提出物を職員室に持っていくように依頼された。職員室に入ると、教員達は昼食にでも出かけているのか誰一人いなかった。彼女が担任の教師が普段座っている座席にプリント類を置き部屋を出ようとした時、給湯室の方から二人の男性教員のヒソヒソした話声が聞こえてきた。内容は、女子生徒に関する猥談だった。とても言葉にするのもはばかられるような品位の低い内容で、話の中には朝比奈のことも頻繁に登場した。彼女は、普段公正に振る舞っている大人の教師がそんなことを話していることに動揺し、薄ら笑いの含んだ口調にも気持ち悪さを感じた。一方で、今まで感じていた男たちからの奇妙な視線や不自然な態度、その正体がわかった気がした。自分は男を興奮させるものを持っているのだとその時、彼女は理解したのだ。それから日が経つにつれ、彼女の中でそういった目で見られることを気持ち悪いと感じる気持ちは徐々に薄れていき、代わりに承認欲求が満たされたような気がするようになった。
 高校生になった頃には、彼女は自分自身の色気を自らはっきりと感じることができた。美しく手入れした髪や肌に向けた男の視線から、彼らが何を訴えているのか手に取るようにわかるようだった。そうした視線は彼女にとって優越感を感じさせた。実際に、自分に好意を抱いている男子の話を耳にしたり、ある時には、ヒソヒソと声を抑えてはいるが、彼女の噂話をしていることがほとんどバレバレであったりもしたが、彼女はなぜか男から告白されることは一度もなかった。周囲を見ると、カップルが誕生したり、破局したり、そういった恋愛物語が確かに繰り広げられていたのだが、彼女はなぜかそういった話には全く縁がなかったのだ。一時、自分の魅力はひょっとすると自分の勘違いに過ぎないのではないかと考えたこともあったが、しかし、冷静かつ客観的な目で自分の周りを観察しても、やはりそうとは考えにくかった。ただ、後々、自身で振り返ってみるに、彼女は自分の性格の大人しさがそれに起因していたのだろうと思った。周りの彼氏が途絶えない子は、やはり男子とコミュニケーションを取るのが上手な活発な子が多かった。彼女はそういう要素とは生まれてこの方、全くもって無縁だったのである。所属していたテニス部も女子しかいなかったし、学校はアルバイト禁止だったので在学中、男子との接点はほとんどなかった。それが、大学入学前までの朝比奈の異性との関わりだった。一方で、同性からはというと、中学時代に一度給食のカレーの中に大量のホッチキス針が混ぜられていたことはあったが(後になって彼女を妬んだ生徒の犯行とわかったが、当時の彼女はそういった嫉妬の感情もあまり理解することができなかった)、あからさまないじめというのはこのぐらいで、普通に友達もいた。ただ、彼女自身、親友と呼べる人間は一人もいなかった。
朝比奈が受験勉強に本格的に取り組み出したのは高校二年の冬からだった。元々、入学時より真面目に授業を受けて課題もこなしていたため、彼女は一年後の受験をそれほど悲観するような成績でもなかった。それよりむしろ、彼女を悩ませたのはどういった進路を選ぶかということだった。朝比奈には明確な夢も目標もなく、金持ちになりたいとか結婚して幸せになりたいとかそういった願望もほとんどなかった。それでも十七、八歳の子供達は、大人になるために、自分の将来を無理矢理にでも見通して進んでいかなければならない。しかし、三年になっても彼女の気持ちは定まらず、とりあえず皆に合わせて受験に向かって勉強している状態でいた。そんな時、ある日の世界史の授業で、他クラスとの調整という名目でその時間だけビデオ鑑賞の授業になったことがあった。世界史担当の岡は定年間近の優しいおじいちゃん先生といった感じで、男女問わず生徒皆に好かれていた。一方で、同僚の教師陣からは、そういう生徒に優しくて甘い性格をバカにされているような雰囲気も彼女は高校生ながらに感じ取れた。彼が見せたビデオは、アフリカの飢餓の話だった。世界には明日の展望など全く見えず、今日明日を生き抜くために生きている人達がいるのだと彼女は知り、自分がどれだけ恵まれているかということにも気付いた。彼女はその日、部活の時も夕飯の時も入浴している時もずっとその日見たビデオのことについて考えていた。もし、そういった人達に役立つようなことを仕事にできたら……。彼女は昔から自分がこうしたいといった願望はほとんどなかったが、他人が嫌がったり傷ついたりしているのはよく気付いて、それを助けてあげたいと思っていた。そこで、彼女の中で道が開けたような気がした。彼女はその考えを母親に話した。
「生きてることって申し訳なく思うの。私は何か大変な苦痛を味わったわけじゃない。だけど、ただこの裕福な国に生まれたってことだけで、蛇口を捻れば飲める水が出てくるし、ある日突然どこかの誰かにこの身を売られることもないわ。こんな私の命一つでさえなくなってしまえば、どれだけの人間の食糧を確保できるだろうって思うの。」
「なら、将来国際貢献をしなさい。青年海外協力隊とかNGOとか。そういった取り組みはいくらでもあるわよ。」
母親の言葉を契機に、彼女は国際協力ができるような仕事やそれになるにはどうすれば良いのか、図書館やインターネットを使って調べ始めた。しかし、やっと見つけた将来の展望は先生や友人には言えなかった。なぜ、言えなかったのか。帰国子女でもなく特別英語が得意なわけでもない自分が世界で働くなんて、という引け目もあったかもしれない。だが、一番の理由は、他人に言ってしまったら自分が抱いた展望が何だか安いものになってしまうような気がしたからだった。だから、これは家族を除いては、自分だけの内に秘めておきたいと感じたのだった。そういう経緯で、彼女は国際関係について学ぶことができる大学を志望校に決めた。第一志望に挙げていた青山大学は模試の段階でB判定で、危なげなく合格できた。こうして、晴れて彼女は現役で志望大学に合格した。大学でも、入学当初から勉強に励んで留学などもしようと彼女は意気込んだ。一年時の前期は授業をキツキツに入れて、その上でより良い留学先に行けるように懸命に勉強した。ボランティアサークルにも入り、忙しいながらも毎日充実した日々を送っていた。一方で、朝比奈はやはり、浮いた話とは縁遠かった。サークルはどちらかと言うと真面目な人が多く、高校時代とは違い彼女に声を掛けてきた男も少なからずいたが、彼女自身があまり乗り気になれず、そういう雰囲気を相手が悟ったのか結局、彼らは皆、彼女から身を引いていった。朝比奈は、大学生になってもそういう面では変わることができていないことに焦りを覚えていたが、先述の夏休みの出来事を経て、大学一年の十月から彼女は風俗で勤務するようになる。風俗を始めてからというもの、入学時にあれほど傾けていた勉強への情熱はみるみる失せていった。もちろん、単位を落としたり、ましてや留年したりすることは親に申し訳ないので真面目に授業には通っていたが、それまでのように、授業時間外で図書室に籠ったり、教授に質問にいったりするようなことを彼女はしなくなった。それよりも、彼女は、風俗で稼いだお金で化粧品やバッグなどを買い、自分を着飾ることに興味が向いた。彼女は幼い頃からどちらかというと流行に乗り遅れるタイプで、高校生の頃は周りが隠れてメイクをして学校に来ていたりする中、化粧水と日焼け止めぐらいの簡素な美容で済ませていた。しかし、おしゃれを追求することは、彼女にとって、日々、自分の美しさを更新しているようでとても楽しいものだった。風俗の客や日常で出会う男達もそんな彼女をチヤホヤした。彼女は、参加していたボランティアサークルも、大学の勉強と同じように情熱がなくなってしまい退会した。サークルの先輩からは、将来国際貢献を考えているのなら続けた方がいいと何度も止められた。だが、彼女は思った。(国際貢献に参加することは本当に有意義なことであろうか? もちろん、自分一人加わればそれだけの力にはなるのだろう。だが、自分ができることなんて、自分がやらなくとも他の誰かがやるのではないか。それよりも、自分にしかできないことをするべきではないか。それが巡り巡ってまた誰かの利益になるのだから。)
 朝比奈は、ある程度自分の過去を俯瞰して見られるようになった今だからこそわかる。自分はきっと誰かに求められたかったんだろうと。困っている人を助けたいと思ったのはきっと自分の中にある罪悪感の気持ち悪さから逃れるためだ。自分は自分のために他人に慈悲を与えるんだ、と。本当のところを言うと、彼女は昔から自分を特別に愛して欲しかった。自分を巡って争って欲しかった。自分のことをもっと気にかけて欲しかった。彼女はそれを、おとなしい性格や人に気を遣ってしまう性質から、抑制して生きてきた。それが今はわかりやすく満たされているがために、今の自分は他人の窮状に目が向かないのだろうと彼女は感じた。
 
第二章 教会
 
真夏の太陽が容赦なくアスファルトを焼き尽くす。小林竜(こばやし りゅう)の全身からは、じっとりとした汗が吹き出している。昨日は大雨だった。そのため、道路のくぼみにはまだ水たまりがあり、地面には湿気が残っている。それがますます、彼の虫食いだらけで吸水性の悪いTシャツの不快感を高めるのだった。彼がこの仕事を始めて、初めて迎えた夏は想像以上の地獄であり、まだ屋内の食品工場で正社員として作業していた前職の方が数段マシに思えたのだった。
「バイト君、交代や」
 西口という中年で小太りの男が彼に声を掛けてきた。
「あ、はい。」
 振っていた誘導棒を下げて小林は答える。
「また一緒に通しとったやろ。それで結局バックしてもらって怒鳴られてたな。」
「あ、はい。すいません。」
「俺に謝ってどうすんねん。まあ、失敗はしょうがないねん。切り替えんとな。俺も最初の方は失敗して迷惑かけることあったけど……」
 ここからの展開を彼は知っていた。「失敗して迷惑かけることもあったけど、厳しい先輩や現場の職人に何とか食らいついた。そうした苦労の積み重ねの結果、今の自分が出来上がった。お前もそうやって歯を食いしばって生きていかないといけないんだ。そうしていけば、いつか俺のように認められて正社員になれる」である。なにせもう何十回も聞いたフレーズだった。覚える気などなくとも頭に残っていた。自分で交代だといった割りに西口の話はまだまだ続きそうだった。
「何話しとんじゃ! はよ仕事せえ!」
 現場の作業員からの激が飛んだ。
「すいません。すぐ交代します。ほら、休憩行ってこい。斎藤さん怒らせたら仕事なくなるからな。」
 西口は、慌てふためいてそう言った。齋藤さんというのは、怒らせたら怖いということでこの警備会社で名前の知れ渡っている現場の作業員である。斎藤さんの現場につく日には、社員はいつもよりソワソワしている。しかし、いかんせん、この斎藤さんのおかげで小林は西口の説法から解放されたわけである。彼は近くのコンビニに向かい、おにぎり二個と350mlの水一本を買った。そこから道沿いに歩き、コインパーキングの敷地に丁度良い建物の日陰になっているところを見つけたので、そこで休憩をすることにした。交通誘導の現場はその日その日で異なるため、当然、決まった休憩所などない。大抵、現場の作業員も警備員も自分の車の中でコンビニで買ったものなどを食べているのだが、あいにく小林は車を持っておらず、いつも社員の誰かに送迎してもらっている。そのため、彼は昼休みの度にその日休憩する場所を探さなければならない。住宅地やどこかの店舗の日陰で休憩していたこともあったが、周囲の人間に不審がられたのでやめた。どこか居心地の良い休憩に適した場所はないかと探していたところ、コインパーキングという選択肢が見つかったのである。これは、彼にとって画期的な発見であった。と言うのも、コインパーキングは大抵どこにでもあったし、それほど頻繁に人が出入りするわけでもなかったためだ。また、壁に寄りかかっていれば、誰か同乗者を待っているようにも見えたので、まさに休憩所として最適だった。
「お疲れ、バイト君。」
 警備時間が終わり、向かいの道路から歩いてきた西口が声を掛けた。
「お疲れ様です。」
「おう、ほんならサインもらって帰るで。」
 先述の通り、警備現場は日によって異なるので、車も免許も持っていない彼は一旦事務所に立ち寄ってからその日ペアを組む社員に送迎してもらっていた。西口とは現場で同じになったことはあるものの、車に乗車するのは今日が初めてだった。帰りの車に乗り込むと、西口は何やら音楽をかけ始めた。その音楽は、西口世代の少し古い曲というわけでもなく、かと言って最近流行りの曲でもなかった。高い女性の声で軽快に歌われるその曲は賛美歌だった。
「いい歌やろ? なあ。」
 車を発進させながら西口が問いかけた。
「何の曲ですか?」
「賛美歌や。俺は教会の歌手なんや。今日もこれから歌いに行くんやで。」
 小林にとっては、意味がわかるようなわからないような返答だった。彼は助手席に置かれた分厚く黒い本が、行きの車の時から気にかかってていたことを思い出した。背表紙をよく見ると「新約聖書」と書かれてある。とは言え、彼にはさして興味はないことであったが……。
「バイト君、お前も来たらええんや。」
「いや、大丈夫です。」
 小林は、ただでさえ炎天下に長時間の立ち仕事で疲労困憊なのに、これからそんな訳もわからない集まりに参加したくはなかった。
「バイト君、お前が今そんな感じなんは神様にお祈りをしてないからなんや。俺の教会に通ってる子で適応障害を患っとった子がおるんやけど、その子はうちに来てお祈りするようになってからみるみる回復していったんや。俺やってそうやで。俺は元々こんな仕事してるような人間やないんや。ホンマやったら大学を出て一流企業で働いとったんや。やけど、就活の時期に丁度リーマンショック になってな。内定もろうてた企業から取り消しの連絡が来たんや。それで、結局ブラック企業に就職するしかなくなってしもた。当時は今で言うパワハラ上司の下で月二百時間も残業して身も心も削られながら働いとった。そんな時に、ふらっと立ち寄った教会でキリスト教の教えに出会ったんや。そこの神父さんはな……」
 西口の自分語りは相変わらず長い、と小林はうんざりした。話を聞いているうちに、彼は車が見知らぬ道を通っていることに気づいた。西口は彼を乗せたまま教会に向かっていたのである。
「ちょっと、僕は行かないんですけど。教会。」
「予定より警備が長引いたからな。直行で行かんと間に合わんのや。事務所にはちょっと飯に連れてっとるって連絡しとくわ。まあ、行きと帰り送ってるんやから少しぐらい付き合うてくれ。一時間ぐらいで終わるから。」
 そう言われると、小林は渋々了承するしかなかった。車は、繁華街の裏通りにある教会の駐車場に止まった。教会の中には、椅子に腰掛けた人が五、六人、前方のステージには二十数名の人達が楽譜を持って、讃美歌を合唱していた。西口は前方の座席にちょこんと座ってステージを見つめている老人の方に向かっていき、話しかけた。小林はそれについていった。
「こんばんは。遅くなってすいません。」
「ああ、西口さん。今日もいらしたんですね。」
「はい。仕事帰りで。」
「そちらの方は、新しい信奉者の方ですか?」
 神父らしきその老人は小林の方を見て言った。
「はい、そうです。私の部下です。」
 俺は信奉者でも何でもない、と小林は思った。西口は小林を放置して、手ですみませんというような仕草をしながら合唱団の群れの左端に加わって歌い始めた。後から加わった西口の声は周りと比較しても大きくとても目立っていた。小林は、上手いとも下手とも言えない何とも微妙な歌声だなと思った。彼は、あまり長くならないことを祈りながら神父の斜め後ろの椅子に腰掛けた。
「名前は何と言うのですか?」
 神父が微笑みながら振り返り、小林に話しかけた。
「小林竜です。」
「イエスの教えに興味がおありで?」
「違います。ただ連れてこられただけです。僕は宗教とか一切信じてないんで。」
 彼がそう言うと、神父はまた軽く微笑んで優しく語り出した。
「確かに、日本では宗教というと何か不審なもののように感じる人が多いですよね。しかし、重要なことは神様の存在の有無ではない。神は常に自身の御心にいるのです。この汚く生きづらい俗世において、救済の存在があるという事実だけで救われる人間は大勢います。私はそういった方達のために主の教えを説くのです。」
「神父さんは神様が本当にいると思っているんですか?」
 小林はぶっきらぼうに聞いた。
「無論、私は神の存在を信じています。あなたが救済を求めた時、主は常にあなたの味方です。」
 神父には全てを包容するような雰囲気があった。しかし、小林は神父の無責任な言葉にイラッとした。恐らく、炎天下による仕事の疲労と空腹感、それでいてまだ帰路につけないことが、彼を短気にさせていた。
「僕は、神なんていないと思います。いたらこんなに不公平な世の中にしてないですよ。僕は生まれてこの方、幸せを感じたことなんかほとんどないです。毎日腹が減ってるし、小さい頃から親は喧嘩ばかりしていて、僕も憂さ晴らしに何かと文句を言われていました。暴力を振るわれたことも何度もあります。でも、小さな頃はみんなそうだと思ってたんです。みんな学校では笑っているけど、実際には苦しいことや悲しいことを抱えて生きてるんだと。自分だけが苦しいんじゃないんだから頑張ろうと思いました。幸せは、我慢や努力の結果手に入るものだから、頑張っていればいつか笑って過ごせる毎日が訪れるだろうと思っていました。でも、僕がどれだけ我慢しようが、状況は全く良くならなかったです。反対に、友達はいつも楽しそうでした。なんでこんなにも違うんだろうと思いました。彼の家に行った時のことです。その子の家は高層マンションの最上階の部屋でした。玄関に入ると綺麗で優しそうなお母さんが出向かえてくれました。僕は他人の家庭のことなんか、それまでちっとも知りませんでした。でも、そこにいたら、友達は僕の育ってきたのとは全く違う環境で育ってきたことがわかりました。人間は、生まれや才能といったもので不公平に作られているんです。それから何を努力する気もなくなりました。その友達は僕の一番の親友でした。でも、その親友に話しかけられても、翌日からはそっけなく返事をするようになりました。それでも友人は、最初は僕に話しかけてくれましたが、僕の態度が変わらないばかりかむしろ悪化していくので、しまいには僕から離れていきました。僕はどうしても、自分の卑屈な感情が出てきてしまって、その子と仲良くしようという気が起こらなかったんです。」
 彼は初対面の男に突然、こんなに胸の内を喋ったことに自分でも驚いていた。ついさっきまでこんな昔のことなど忘れていたが、きっと心の奥にはわだかまりとしてずっとあったものなのだろうと彼は思った。
「主は無限の愛を私達に与えてくれます。あなたが望めば、神はどんな人にも救いの手を差し伸べます。」
 神父は彼に優しく微笑んで軽く抱擁した。その時、小林は傷ついてボロボロの体が、少しだけ癒えていくような感覚がした。その日、西口の歌が終わって二人が帰路に着いたのは、教会に来てから二時間ほどしてからだった。

第三章 女

 程なくして、小林はあの神父に会いに一人で教会に足を運ぶようになっていた。小林は神父に実に様々なことを相談した。神父は彼の話に助言するでもなく、否定するでもなく、ただ聞いていた。彼にとってはそれが心地良かったのである。
「僕は、母子家庭なんです。小さい頃は父親から度々暴力を受けていました。僕の顔が気に入らない、家での態度が悪いと散々罵られ、殴られ、蹴られました。父親は決して顔を傷つける事はありませんでした。僕は夏でも長袖長ズボンの服を着させられました。虐待の跡を隠すためです。同級生には、夏なのになんで長袖のままなのかとよく聞かれましたが、いつも寒がりだからという事でごまかしていました。体育で着替える時はトイレに行っていました。水泳の授業は日光アレルギーだからという理由で見学していました。母は暴力的な父に対して全くの無力でした。母が言うことは決まって、これ以上お父さんを怒らせるな、でした。僕が小学五年生の時、両親は離婚し、僕と妹は母に引き取られました。母は僕と僕の妹を育てるために朝から晩まで働いていました。それでもお金はいつもありませんでした。」
「それは、あなたが悪いのではありません。子供のあなたに何ができたでしょう? あなたはその時、ご家族の関係を良好にしようと大変努力をされたはずです。辛かったでしょう? 全てを吐き出しなさい。」
 神父は毎回、小林の話に真剣に耳を傾け、彼を責めることは決してなく、優しい言葉を投げかけた。これまで、そんな相手が周囲にいなかった彼にとってはそれだけで十分だった。
 小林は教会に通う内に知り合いが増えていった。話をしてみると、必ずしも皆がキリスト教を信仰しているというわけではないことがわかった。皆、各々の生活の中で何かしらの傷を抱えていて、その救いの場として教会へ通う人間も多かったのである。そんな中で、彼は同い年の桐子(きりこ)という女と仲良くなった。彼女は母親が熱心なキリスト教信者であり、小さい頃からそれに付き添う形で教会に通っていた。彼女は毛虫のようにゲジゲジの眉毛にニキビ面と垢抜けない容姿だったが、一際明るい性格をしていた。彼女曰く、「教会にはおっさんとババアしかいない」とのことで、歳の近そうな小林がいるのを見つけると、彼女は興味津々で近づいた。桐子は初対面にも関わらず、家族のことから好きな芸能人の話まで、彼が聞いてもいないのに自分のことをベラベラと喋った。そして、彼に対しても、そういったことを質問責めにするのだった。神父と話すために教会に通っていた彼は、始めのうちは桐子を疎ましく思っていたが、そんなつれない態度で接していても、変わらず彼の心に入り込んでこようとする彼女に、いつしか彼も心を許すようになっていた。

「最近、教会に通ってるみたいやな。」
 ある日、仕事で同じ現場になった帰りの車で、西口は小林に問いかけた。小林は返事をしなかったが西口は特に気にしなかった。
「ええ人やろ、神父さん。あそこの人はみんな優しいからな。」
 小林は、西口のおかげであの神父に出会うことができたという事実を認めたくなかった。彼は、社内に軽快に流れる讃美歌を聞きながら、窓の外を見つめていた。この日の現場は歌舞伎町だった。車が新宿駅南口を差し掛かった頃、駅前では小林と同じくらいの年齢の集団が、プラカードを掲げたりマイクで呼びかけたりして、政治運動を行っていた。プラカードには、「若者の未来を取り戻す」などと書かれている。小林は、そんな集団の姿を冷ややかな目で見ていた。彼は思った。(きっとあいつらは大学生の、目立ちたがり屋で暇な奴らだろう。どいつもこいつも苦労を知らず、甘やかされて育ったお坊ちゃんみたいな顔をしてやがる。親の金で大学に通って、ろくに勉強もせずに毎日遊んでるくせに優等生ぶりやがって。偉そうに政治を語る前にまず自分が働いてみろってんだ。俺は日曜日にも関わらず働いているのに……。お前らみたいな甘ったれた若者が一人でも減れば、その方が国にとっちゃ何倍もいいだろうよ。)彼はイライラしながら、顔をしかめた。
事務所に着くと、西口は車を駐車場に停め、小林を居酒屋に連れて行った。二日前の金曜日、彼らには一か月分の給料が振り込まれていた。小林は嫌々ながらも、結局は西口の強引な誘いについていかざるを得なかった。西口は、若い小林のことをどうやら気に入っていたようである。それは、自分が気兼ねなく上の立場に立てるという理由があったからかもしれないが……。居酒屋に着くと、西口は焼酎のロックを頼んだ。小林は酒が好きではないので、と断ったが、西口は勝手に小林の分のビールを注文した。小林はこれまで酒を飲んだことがなかったので、自分が酒に強いか弱いかすらわからなかった。ビールが運ばれてきて、それを口にした時、彼は苦いと感じてすぐにむせた。では焼酎はどうかと西口は小林に自分の分の焼酎を飲ませた。小林は、ビールよりは焼酎の方が嫌いじゃないと思ったが、それでもやはり、好んで飲むものではないなと感じた。西口は小林がそんなことを考えている間にも酒を進め、すっかり顔は赤くなり、自分語りにも普段よりも拍車をかけていた。
「二十代の時は痩せててモテとったんやで。まあ今もイケてるけどな。あの教会の若い女の子、桐子ちゃん知ってるやろ。あの子は俺のこといつも見てるんや。バイト君、お前は彼女おるんか?」
 小林は桐子から西口の話を聞いたことなどなかった。彼は西口の質問に首を横に振った。
「童貞か? え?」
 答えなかった。この男は本当に無神経にものを話すな、と小林は思った。
「お前、風俗も行ったことないんか?」
「西口さんはあるんですか?」
「俺はプロやで。もう達人の域やな。」
 西口は誇らしげだった。全く威張れることではないと思うが……と小林は思った。風俗なんて金で結ばれた関係に過ぎない。第一、相手は見ず知らずの気持ち悪い客を相手にするわけで、そんな人と行為をすることも申し訳なかった。そもそも、女を金で買うことは神の教えに反するのではないだろうか、と小林は思った。
「お前、行ったことないんやったら俺が連れていったろか?」
「いや、いいです。風俗なんて行きたくもないです。病気とかもらいたくないですし。」
「病気なんてなったことないで。お前ビビりすぎやて。やっぱり童貞やろ。」
 小林は頭がぼんやりしていた。西口の話の鬱陶しさから、目の前にある飲み物に逃げ、気が付くと、西口が最初に頼んだ焼酎ロックを自分が全て飲み干していることがわかった。小林は少し驚いたが、その時はあまり気にならなかった。酒は美味しいとは感じないが、彼はもう少し飲んでみたい気にもなった。店員が近づいてきて、西口が舌をもつれさせながら次の酒を頼んでいた。小林も日本酒を注文した。その後も、西口は話し続けたが、今度は小林も西口に負けず自分のことを喋るようになっていた。西口に言わない方がいいようなことも言ってしまったような気がしていたが、次の瞬間には記憶がなく、小林自身、まあどうでもいいやという感覚になっていた。ただ、女の話をよくしていたような気が彼はしていた。
 居酒屋を出て気が付くと、小林は西口と電車に乗っていた。どこへ向かっているんだろう、と小林は思ったが、それもやはり彼にとってはどうでも良かった。なんだか、電車の中で何かをしきりに大声で言っていたような気もした。次の時には、彼はラブホテルの前にいた。小林は、横にいる西口が自分にしきりに何だか説明をしているなと思った。「部屋番号を押して入れ」と言っているような気がした。「お前の分も予約しておいた」ともたぶん言っている。フラフラの足で部屋に入ると、小林は気持ち悪さと吐き気に襲われた。部屋のトイレに行き、全て出した。吐くとスッキリして、酔いも覚めてきた。そして、小林はハッとした。酔いつぶれていたこれまでのことを一気に思い出したのだ。西口は、女性経験のない小林を風俗デビューさせてやると言って、池袋まで電車を乗り継ぎ、ラブホテルの前で「お前の分も予約したから三十分後くらいにくるらしいで」と言ったのだった。小林自身も内心まんざらでもなく、「西口さんがそこまで言うからですよ」と了承した記憶があった。電車の中で大声で上げていた声はきっとそれだった。小林は一旦吐いた後、これから起こることへの不安とこれまでの自身の醜態への恥ずかしさから、完全に酔いが覚めた。つまり、今からこの部屋に女が来ることになるのだ。そう考えると、小林は挙動不審になった。何をしなければならないかと考え、彼はまず歯磨きをした。さすがに、酒を飲んで吐いた後の口で女に会うわけにはいかなかった。それから、ドキドキしながら、可能な限り身なりや髪を整えた。その後、小林は落ち着かない様子で色々な扉を開けたりして部屋を物色した。ラブホテルなんて、彼女のできたことのない彼は入ったことなど当然なかったのである。しかし、入室してから三十分、四十分が経過しても女が到着することはなかった。もしかしたら、西口がホテル名や部屋番号を間違って伝えてしまったのかもしれない。もしくは、そもそも西口に全部騙されているのかもしれない。そんな疑念が彼の頭をよぎり出した。一方で、少しホッともしていた。時間は、入室してから四十五分を過ぎていた。あと十分何もなかったら出よう。彼はそう思った。その時、部屋の外でコツコツとしたヒールの足音が聞こえ、その足音は彼の部屋の前で止まった。インターホンの音が鳴った。一気に彼の心臓が上に上がってきて激しく鼓動し始めた。彼はドアの方へ行き、扉を開けた。そこに、小林より一回り背丈の低い美少女が立っていた。
「こんにちは。ルナです。」
 女の子は彼に目を合わせて挨拶した。彼は緊張のあまり目の前の女の子を直視することができなかった。
「入っていいですか?」
「あ、はい。どうぞ。」
 女の子はヒールのついた黒い靴を脱ぎ、自分の分と彼の分の靴を揃えて部屋に入ると、高そうなバッグをソファに置いた。
「お兄さん、初めて?」
 女の子が彼に聞いた。図星だった。しかし、彼は一生懸命に落ち着いた振舞いをしようと試みた。
「なんでですか?」
 出そうとした五分の一ほどの大きさの声しか出せていないのが彼自身わかった。女の子はフフっと笑いながら答えた。
「なんか雰囲気で。ずっと立ったままで慣れてなさそうだし、ちょっとソワソワしてる感じしたから。」
 笑った顔もとてもかわいい、と小林は思った。彼は過去に経験したことのないような心臓の鼓動を感じていた。手足は小刻みに震えていた。彼女は彼の手を握ってソファーに誘導し、そのまま腰かけた。
「大学生?」
 大学生に見えたのだろうか? そんな風に見られたのは初めてだ、と小林は思った。
「そう見えるんですか?」
「うん。若い方緊張するなぁ。いっつもおじさんばっかりだから。」
 後半の言葉に、不満の感情を乗せるようにして彼女は答えた。
「僕と同じぐらいの人って来るんですか?」
「全然! だからすごく嬉しいの!」
 彼女はそう言うと、目を潤ませてまっすぐ小林の目を見つめた。彼の脳は目の前の女の子が発する情報を処理するのに必死だった。彼は彼女が、近くで見ても肌荒れ一つしていないことに気付いた。こんな人間が実在するのかと思えるほどの美貌だった。彼にとって、彼女はこれまでテレビで見たどんなに綺麗な芸能人よりも魅力的に思えた。次の瞬間、彼女は彼にキスをしていた。彼女の湿った柔らかい唇が彼の震える唇に当たっている。小林の鼻腔には、何の匂いかはわからないが、冴えない彼には縁遠いような爽やかな香料の香りがした。いつの間にか、彼の性器は勃起していた。彼女は唇を離すと彼を見つめてフフッと笑い、もう一度、今度は舌を入れてキスをした。彼は興奮しながらぎこちなく彼女の口内で舌を動かした。一分程そうした後、彼女は唇を離して言った。
「お風呂行く?」
 小林は頷いた。そして、彼女に脱がされるがままに服を脱いでいった。彼女も次々と服を脱ぎ、いよいよ裸になった。裸の彼女は同じ人間だと到底思えないと彼は感じた。小林には妹がいるので、女性の体自体に免疫がないわけではない。しかし、彼女の身体は、今まで見たどれよりも圧倒的に美しく、およそこの世のものとは思えないものだった。彼女はボディソープを手に取り、丁寧に彼の身体を洗っていった。風呂を出ると二人はベッドに入った。そこからのことを小林はあまり覚えていなかった。ただ、この時間がずっと続けばいいのにと彼は思った。怒り、不満、理不尽、そういった負の感情が全て包み込まれ、受け入れられるような感覚だった。

「気持ちよかった?」
 彼女は小林に問いかけた。
「うん。」
「お兄さんの名前、なんて言うの?」
「……。竜。」
 一瞬、彼は偽名を使おうか迷ったがやめた。
「竜くん。私、薫っていうの。」
 その時、彼女の設定したアラームが鳴った。彼女はアラームを止めて暫く携帯を見ていた。
「終わりですか?」
 彼は彼女に尋ねた。
「いや、まだ十分あるから大丈夫。ねぇ、この後何するの?」
「家帰ってって感じです。」
「彼女さんいるの?」
「彼女? いないです。」
「寂しくない? 家に一人でいると。私、いっつも寝るとき寂しくなるんだよね。」
彼には彼女が何を意図してそう言っているのかわからなかった。結局、何と返せば良いのか分からず、彼が沈黙したままでいると彼女は再び口を開いた。
「シャワー行く? 話しすぎた。」
それから二人は浴室に向かい、シャワーを浴びた後、お互い服を着た。彼女の口数は先程と比べて少なくなっていた。彼も何を話せば良いかわからず、そのまま時間が過ぎた。そうしているうちに、彼女の支度が終わった。
「また絶対会おうね、竜くん。」
彼女は最後に彼を十数秒抱きしめ、お別れのキスをした。小林にとって、間違いなく人生でこれほどの幸福感を感じた日は今までなかった。

その日、西口のことはすっかり忘れて、小林は電車を乗り継ぎ自宅に帰った。帰る間も、頭に浮かぶのはさっき出会った女の子のことだけだった。だが、家に帰って食卓の椅子に座った時、ふと、桐子の顔が頭に浮かんだ。(彼女は恐らく、俺のことを気に入っている。俺自身、彼女に対しては、心を開いて何でも話すことができる。だが、何度も会話し、冗談を言い合った桐子に対しても、特別な感情を持つことはできない。桐子はさっき会った女の子の持っているものを何一つ持っていない。桐子は薫という女の子に比べると全てが劣っている。滑らかな肌も、美しく整えられた髪も、女性らしい身体つきも。薫と桐子は全く別の生き物に思える。)
「ただいま。何ニヤニヤしてるの?」
 いつのまにか帰宅していた小林の母親が彼に声を掛けてきた。確かに、リビングの鏡に写った彼は笑みを浮かべていた。彼は言われて初めてそれに気付いた。その顔には何か醜悪なものを含んでいるような気がした。彼は母親の問いかけを無視し、すぐに顔を作り替えた。

第四章 恋

朝比奈がホテルを出ると、真夏の蒸し暑さが襲ってきた。夜の二四時だというのにこの暑さである。いったい、これから地球温暖化が進行すれば地球はどうなってしまうのか。これが終わったらコンビニに行ってアイスを買おう。今日はいつもより働いたから大きいサイズにしよう。きっとその分のカロリーは消費してる。そんなことを考えながら彼女は待機している送迎車に乗りこんだ。
「ルナさん、お疲れさまでした。」
「よろしくお願いします。」
 本日三回目、恒例のドライバーとのやり取りである。今日は二四時まで出勤のため、あともう一回これが行われる。普段の日曜日は、翌日朝から授業があるため、二二時で仕事を切り上げ、事務所に戻った後タクシーに乗って六本木のマンションに帰る。しかし、明日の午前の授業は休講になったため、今日は二時間長く出勤することにしたのだ。朝比奈は元々、大学二年の春までは駒大駅の周辺に下宿していたが、金に余裕ができ、もっと東京らしい場所に住みたいと思い、今の家に引っ越した。家賃は1LDKでおよそ50万円。ただの大学生が住めるような部屋ではなかった。しかし、彼女には政治家、弁護士、医者、芸能人と強力な「支援者」が何人もいた。
「次も新規ですよね?」
「はい。」
 今日は一人のリピート客の後は三連続で新規だった。彼女が出勤すると、リピート客が枠を占めることが多い。そのため、新規客がこう続くのもなかなか珍しいのである。新規の客は、特徴を瞬時に掴み、適切な対応をして心を掴む必要があるため、彼女はいつも神経を張っている。さっきの客への接客はうまくいったと彼女は思った。リピートに繋げるためには、ただ幸福な時間を与え続けるだけではなく、時折儚さを見せるのも大切なことである。彼女は先程の若い客の情報を、記憶を辿りながら自分の日記帳に書いていった。そうこうしているうちに、送迎者は新宿の指定のホテルに着いた。彼女は車から降りてホテルに入り、エレベーターを経由して指定の部屋の前に着いた。いつものようにチャイムを鳴らす。もう、五回は行ったことのあるホテルだった。一分程経ってドアが開いた。そこにいたのは、若く清涼感のある男だった。たぶん自分とそんなに年齢も変わらないと彼女は思った。彼女はほんの一瞬驚いたが、しかし何てことはなかった。こういった客とのやり取りも彼女はシミュレーション済みだった。
「っ。びっくりしたぁ。何でデリヘルなんて呼んたの?」
 朝比奈は恥ずかしげにうつむきながら男に問いかける。右手で髪をとかした後、前髪を直す仕草もしておいた。 
「性欲解消。それ以外にある?」
 男は無表情で答えた。クール系だ。まあ、そりゃそうだよな、と朝比奈は思いつつもう一度押してみる。
「お兄さん、すごくかっこいいから緊張する。」
今度は、手をバタバタさせて顔の火照りを冷ますような仕草をした。
「あ、どうぞ?」
男は表情を変えず朝比奈を中に招き入れた。なかなか反応がわかりづらい。シャイ系かな? と彼女は思った。
「お仕事帰り?」
日曜日だったが、男は黒のスラックスにスーツシャツを着ていた。しかし、しっかり着ているというわけではなく、袖はまくっており、ネクタイはしていなかった。
「そう、かな?」
 男は曖昧に返事をした。仕事のことは、聞かなくてもいろいろ喋ってくる客は多いのだが、この男はどうやらそうではないようだと彼女は読み取った。(やっぱり、分かりづらい。顔は嫌いじゃないけど、苦手なタイプかも。まあいいや。若い客はどうせほとんどリピートしないし金もない。クレームにならないように当たり障りなく接客して終わらせよう。まあ、この人はあまりクレームも言わなそうな大人しい感じだけど……。)
 朝比奈と男は服を脱ぎシャワーを済ませた。シャワーの間もほぼ会話はなかった。男はあまり話を求めていなそうだったし、彼女自身も接客の連続で少し疲れていた。解消だけを求めているのなら別に無理に話そうとする必要はないと彼女は思っていた。シャワーからあがり、朝比奈は男をベッドに誘導していざプレイに移ろうとした時、それまで黙っていた男がふと呟いた。
「愛の夢。」
「え?」
 彼女は思わず吹き出しそうになった。頑なそうな雰囲気の男から、不意に見た目に似合わない情緒的な言葉が出てきたことがおかしかったのだ。
「流れてる曲だよ。リストの。」
「ああ。」
朝比奈は、入った時から部屋には心地良いクラシック音楽が流れていたことに今気が付いた。この曲のメロディーは彼女も聞いたことがあった。もっとも、彼女は音楽には疎いので曲の名前はわからなかったが。
「音楽好きなの?」
朝比奈は彼に問いかけた。
「クラシックは時間があったら聞いてるよ。」
「へぇ、すごいね。」
「この曲、詩人の曲から作られてるから歌詞があるんだよ。内容は……」
 朝比奈は曲の内容のことより、男は実はこんなに喋る人なんだなと思った。
「……だから、辛いことがあった時はクラシック聞いてる。」
「辛いことなんてあるの?」
「あるよ、たくさん。仕事もそうだし日常生活も。」
「なんで?」
「毎日ストレスのたまる仕事してるし、残業も休日出勤もあってしんどい。人間関係も酷いしね。それに、もうちょっとしたら三十歳。親の介護しないといけないかもだし。あと結婚。俺がこの先の人生、強く生きていける気がしないのに、妻や子供の人生を背負うなんてとてもできない。そもそも、生まれてくる子供に同じような苦しみを味わってほしくない。」
「それはちょっと悲観的になりすぎじゃない? 楽しいこともあるでしょ?」
 朝比奈は笑いながら言った。
「楽しいことよりも辛いことの方が多いよ。一割の楽しみのために九割の苦しみを耐えないといけないなら、いっそ何も感じない方が楽だと思う。」
 男は手を逆向きにしてシーツに両手をつき、ため息をついた。朝比奈は会った時から感じていた彼の低いテンションの理由が、シャイだからではなく、落ち込んでいたからなのだとその時わかった。その日は日曜日だったが、彼はスーツを着ていたため、恐らく休日出勤をして、仕事で何かしんどいことでもあったのだろうと彼女は予想した。
「そっか……。疲れてるのね。お疲れ様。私も孤独だと思って辛いときあるよ。このお仕事してても、本当は誰にも愛されてないんじゃないかって思うときある。」
 連続接客の疲れだったのか、それとも彼の妙に落ち着いた声に不思議な安心感を覚えたのか、朝比奈はいつも接客時に作る顔をこの時ばかりは忘れて、目の前の男に素で語っていた。
「人間、誰だって孤独だよ。みんな自分のことしか考えられないんだから。それでもいいんだと思う。自分を守るためにみんな働いて、それで世の中は動いている。それが事実だから。」
男はベッドのシーツに目をやりながらそう言った。
「寂しくならない? じゃあ今、何のために生きてるの?」
「誰も味方がいないと思って辛くなることはあるよ。何のためって……俺は満足するためかな?」
「満足?」
朝比奈が聞き返すと、男は数秒考えて、再び口を開いた。
「俺も、愛されたいのかも。多くの人にね。孤独ってわけじゃないよ。俺って別に友達が全くいないとか、両親がいないとか、そういうのではないんだ。だけど、昔から人に求められないなって思ってた。君はあんまりそういうのなさそうだね。ほっといても自然と人に囲まれてたでしょ?」
朝比奈は、男がどこか自分と似ているような気がした。彼女は、この男は何を問いかけても、表面的ではない何かを返してくれそうな気がすると思った。そして、それは、自分がずっと求めている疑問に何かしらの答えを出してくれるような気がした。
「じゃあ、いろんな人にいっぱい愛されて、それで十分満足したらどうするの?」
「死ぬかな。」
彼は真顔だった。きっと冗談ではない。彼は今まで出会った人とは違うかもしれないと彼女は思った。大概の人は次の生きがいを見つけるとか、なってみないとわからないとか濁し、無意識に死ぬという選択肢を考慮しない。しかし、この人は生きることを大前提とはしていない。そもそも、命あるものが必ず生を全うしなければならないというのは、生き物としての生への本能をヒューマニズム的に美化したに過ぎないと彼女は思っていた。彼女は彼の、建前でごまかさず本音を語ってくれる姿勢に好感を抱いた。
「あ。」
 ふと彼女が声を上げた。
「どうしたの?」
「ごめんね。話しすぎた。」
「いいよ。一緒に横になっててくれる?」
「いいの? 何もしなくて。」
「疲れててさ。本当は、家に帰りたくなくて誰かと一緒にいたかっただけなんだ。」
 彼はそう言うと、横になり、彼女の身体に顔をうずめた。彼女はそんな彼の頭を撫でていた。

「ねえ、これからも会ってくれる?」
 終了の時間を告げるタイマーが鳴ってから、朝比奈は男に問いかけた。
「また呼ぶよ。すごく楽しかったから。」
 そう言った客は二度と来ない確率が高いことを彼女はよく知っていた。
「そうじゃなくて……今度一緒にご飯とか行かない?」
 彼女は、男を何の下心もなく、ただもっと話したいという理由で誘ったのは初めてだった。恥ずかしくて、語尾がはっきりしない言い方になったが、それでも今言わないと、この男とはここで一生会えなくなる気がしていた。
「それは……怖い人とか来そうで怖いんだけど。」
「そういうのじゃないから、本当に。連絡先交換しよう?」
 男は了承した。二人は再びシャワーを浴び、着替えた後ラインを交換し、別れた。

ゾウのはなこ像は吉祥寺のシンボルだ。二年半前に上京してきた朝比奈は買い物や友人との遊びは二十三区内で済ませるだけで、吉祥寺は意外にも未開拓の場所だった。地下鉄大江戸線から中央線に乗り換えて、吉祥寺駅に向かう。普段はもっぱらタクシー移動の彼女は、この日久しぶりに電車に乗った。彼女は駅の北口を降り、マップを検索しながら目的の像へ向かった。約束のラインは彼女からした。男のラインの登録名はtakeruだった。
「こんにちは。ルナだよ。今度一緒にご飯行きませんか?」
送ってから彼女は本当に返事が来るのかそわそわしていたが、返信は割と早くに来た。
「いいよ。どこ行く?」
そういえば、この人はどこに住んでいるのだろう? 出会ったのは新宿のホテルだったが、都内に住んでいるのだろうか? 朝比奈は考えていた。男に関する情報が少ないのと、自分から誘い出す経験値の低さから、既読をつけずにメッセージを読んでから一時間が経とうとしていた。もうさすがに何かしらの反応をしないといけない。そう思っているとスマホにはまた男からメッセージが来た。
「吉祥寺はどう? いろいろあると思うけど」
 朝比奈は突然の通知に思わずメッセージをタップしてしまった。既読をつけずに読んでいたことがバレバレで彼女は恥ずかしくなった。
「ごめん。遅くなって。いいね。吉祥寺。私、行ったことないんだけど…」
「俺、住んでるから案内できるよ」
男の住所は吉祥寺だと判明した。吉祥寺という街は何となく彼のイメージに合致する、と彼女は思った。こうして今日に至るのだが、当日になって朝比奈は思いの外、心臓の鼓動を感じていた。何十回、いやもう何百回も異性と二人きりで過ごしてきて、こういうことは慣れっこのはずなのに、彼女はまるで、初めてデートにとりつけた中学生のような心境に陥ってしまっていた。もっとも、彼女は、生まれてから世間一般に言うまともなデートはしたことがないのだが……。
 男は平日が仕事ということで、約束の日は日曜日にした。朝比奈は、普段の土日はもっぱら風俗の仕事に出勤するが、この日曜だけは予定を開けた。彼女は約束の十九時の十分前に目的地に着いた。ゾウのはなこ像はすぐに見つかり、その横には既に像の大理石に腰掛けた男の姿があった。黒のスキニージーンズに紺色のシャツを合わせている男はとてもスタイリッシュだと彼女は思った。彼女はその遠くで自分の身なりを少し整え、深呼吸をしてから彼の元に向かった。
「お疲れ。」
「お疲れ。」
男はこの間あった時には見せなかったような笑顔で返した。
「ご飯、食べる?」
 男が彼女に尋ねる。
「あ、うん。」
「何か食べたいものとかはある?」
「え〜どうしよかな? とりあえず歩きながら決める?」
「そうだね。」
 二人は、会ってからというものお互いほとんど喋らずにただ歩いていた。会話があったとしても、たまに男がこの店がおいしいとかこの先に何がある、というように吉祥寺の案内をするだけだった。朝比奈は気の利いた話題を探していたが、どうにも気を遣ってしまって、これを聞いたら嫌がるかもしれないなどと考えてしまい、結局、沈黙してしまっていた。
彼らが通りがかったサンロード商店街の入口付近では、若者の集団がプラカードを掲げ、何やら政治活動を行っていた。集団は、若者や弱者に配慮した政治を街の人間に訴えかけているようだった。中心には、男と同じくらいの年齢のガタイの良い青年がいる。一目見て、その青年がこの集団のリーダーだと感じさせるようなオーラがあった。周囲にはそれなりに人が集まっていた。その光景を通りすがりに見て、朝比奈は口を開いた。
「あんなことしても無駄なのよ。いくら街中で一般市民相手に主張を訴えかけたって、世の中は何も変わらないわ。」
 彼女はとにかく話題を探していたため、目の前に飛び込んできた集団を話のネタにすることにした。
「じゃあ、彼らはどうすればいいと思う?」
 彼は彼女に問うた。
「野蛮だと思わないでね。私はどれだけ口でうるさく騒ぎ立てようとも、政治は変わらないと思うの。もっと実力で訴えないと。」
「武装蜂起とかクーデターとか?」
「そうね。それぐらいしないと世の中は変わらないと思うわ。でも、これだけ国家体制の整った国でそんなこと無理。だからどうしようもないのよ。結局。」
「じゃあ、彼らの言っているように君の未来はますます生き辛い世の中になるね。」
「あなたの未来もでしょ?」
「あぁ、そうだね」
 男はどこか他人行儀だった。朝比奈はこの話題選定は失敗だったなと思い、後悔した。二人は集団を横切ってサンロード商店街に入り、ダイヤ街の周辺を歩くことにした。彼女がおしゃれな店に行きたいと言ったので、彼は一度だけ行ったことのあるイタリアンの店に彼女を連れていくことにした。二人が出会ってから数分が経っていたが、彼女は思いの外、緊張してしまって、うまく話せず焦っていた。目的のレストラン到着し、中に入ると、薄暗く、レンガの壁で敷き詰められた清潔感のある内装が二人を出迎えた。朝比奈はしきりに様々なところの写真を撮った。彼女は店の雰囲気が気に入って、テンションが上がっていた。彼はそんな彼女の様子を見て、ホッとしていた。彼も彼女と同じく、相手を気遣い、緊張していたのである。二人は席につくと、それぞれ別々のパスタを頼み、その後は主にお互いの日常について話をした。彼女が大学生であること、彼の仕事のこと、お互いの趣味など、たわいもない話だった。しかし、移動中とは違い、会話は自然な感じで進んでいった。朝比奈も、当初の緊張はだいぶほぐれ、リラックスして会話ができていた。その後、二人は食事を終え、レストランを出た。この後、どうするかという話になり、彼は、吉祥寺が初めてなら井の頭公園に行ってみないかと提案した。サンロード商店街から井の頭公園までは徒歩で十五分ほどだった。繁華街と自然がこれだけ近くで存在している吉祥寺という街は、それ故に多くの人々に人気の街だった。彼女は、歩いている最中も自分に関する様々なことを話した。彼と一緒にいて、これまでになかった胸の高ぶりを彼女は感じていた。
「君は、何でデリヘルやってるの?」
それは男の唐突な問いかけだった。朝比奈はそれを聞いて、今まで高揚していた気分が一転、急落していくのを感じた。彼女は今の今まで、自分のアイデンティティと言える代名詞をすっかり忘れていた。恋愛を楽しむ乙女のような感覚でいたが、自分はどんなに純粋な心を思い出そうとしても、風俗嬢を経験したという事実を変えることはできないんだと彼女は思った。彼女は肩の辺りから髪をときながら、
「高級アイスを毎日食べるためかな?」
 と冗談のつもりで返した。だが、彼は真顔で、
「好きなの?」
 と彼女に問いかけた。
「うん。バニラがこの世で一番好き。」
「そっか。じゃあ、どこかで買って食べる?」
 男はそう言うと朝比奈から視線を前方に移した。彼女はそれには答えなかった。沈黙のまま二人は数十メートル歩を進めた。彼女は、何か杭のようなものが自分の胃に刺さっているような感じがした。
「私は……」
「言いたくなかったらいいよ。別に。」
 男は彼女の言葉を遮るようにそう言った。朝比奈は彼の問いかけに対して冗談めいてごまかしてみたものの、彼には彼女の心の動揺がわかっていたようだった。その時、彼女は彼に嘘をつくのはやめようと思った。彼女は自分の全てを曝け出すことを決めた。本心を話しても、彼ならばちゃんと自分の言葉に向き合って聞いてくれるような気がした。
「私、性的対象に見られることが気持ちいいの。そうやって見られるとすごく自尊心が満たされるの。だって、なんだかんだ言っても、男の人が女を見る時、一番重要なのは頭の良さでも性格の良さでもなく、どれだけエッチしたいと思うかでしょう? だから私は性欲をぶつけられることが嫌だとは思わない。私はそれだけこの世の中で価値がある女ってことだから。」
 彼女は、普段思っているが、とても他人には言えないことを包み隠さず彼にぶつけてみた。彼は正面を向いて黙ったままだった。十秒ほどして、彼はようやく口を開いた。
「だから君は、風俗をやってるんだね。」
 彼の応答はこれだけだった。引かれたかな、と彼女は不安になった。彼はやはり初めて会った時から一貫して感情が読み取りづらいと彼女は感じていた。
「引いた?」
「いや? 別に。」
「ねぇ、正直に言って。さっき私の言葉に幻滅したでしょう?」
 彼は少し目を見開いて彼女を見た。
「いや、びっくりしたんだ。それだけストレートに自分のこと話してくれるとは思わなかったから。だから、俺が無闇に何か言うべきじゃないと思って何も言わなかった。幻滅なんてしてない。正直、嬉しかった。俺って、他人から正面から向き合われることがほとんどないんだ。なんでかわからないけど、小さい時からずっととそうだった。俺と接する相手はいつもどこか壁があった。俺から歩み寄ろうとしてもどこか引いた態度を取られていた。だから、嬉しいんだ。君が本音を語ってくれることが。つまらないその場しのぎの嘘や建前じゃなくて、本心から向き合ってくれたことが。」
「本当に?」
「本当だよ。」
 朝比奈は彼の言葉に、自分の肩から何か重いものが下りたような気がした。
その後、二人はコンビニに立ち寄り、彼女の好きなバニラのアイスを買って井の頭公園に入った。夜の井の頭公園の眺めは、幻想的でとても美しかった。途中、二人はベンチに座り、買ったアイスを食べた。この日は久しぶりに、涼しく気持ちの良い風の吹いている夜だった。
「あっ。」
「どうしたの?」
「名前言ってないと思って。私、朝比奈結。」
 彼女は笑いながらそう言った。
「朝比奈結さんって言うんだ。俺は谷本武尊(たにもと たける)。武士の武に尊敬の尊って書いてたけるなんだ。」
「へぇ、かっこいいね!」
 二人はこの時間がとても心地よかった。お互いの話は尽きず、ベンチに座ってから既に一時間ほど経っていた。谷本は朝比奈と初めて出会った時とは別人のようによく笑っていた。彼は落ち着いていて、そんなにおしゃべりではないが、冗談もよく言う人で、それが意外だなと彼女は思った。そんな谷本のギャップに、彼女はいつしか惹かれていた。時刻は二二時を過ぎていた。まだ一緒にいたい、と二人は感じていたが、それを言い出すのはお互いにまだ遠慮があった。
「明日はお仕事?」
 朝比奈は谷本に尋ねた。
「そうだよ。平日仕事だから。たまに土日もあるんだけどね。だからこの時間いつもめっちゃ憂鬱になるんだよね。」
 彼は苦笑しながらそう言った。
「そっか。大変ね。朝早いの?」
「うーん、いつも六時半起きぐらいかな?」
「じゃあ、もう寝る準備しないといけない?」
 朝比奈はこのままでいたかったが、一方で社会人の谷本に気も遣っていた。
「いや、俺、睡眠時間短いから大丈夫。いつも四時間とか。朝比奈さんこそ明日大学は?」
 朝比奈は笑った。
「四時間は短すぎ。死んじゃうよ。明日は午後から授業だよ。」
 彼女は、本当は明日、朝から授業があったが嘘をついた。少しの沈黙の後、彼は切り出した。
「じゃあさ、ちょっとうちに来ない?」 
 彼の声は少し自信なさげに震えていたので、彼女は彼が勇気を出してそれを言ったのだとすぐにわかった。
「行く。嬉しい。」
 谷本の自宅は駅から十分ほど歩いたところにあった。彼の部屋は綺麗に掃除されていた。それまで多くを話したため、二人の間にもうほとんど会話はいらなかった。部屋に入ると彼は彼女を抱きしめた。細身の体からは想像がつかないほど強い力だと彼女は感じた。彼女は今まで男と何百回とハグをしてきたが、これだけ恥ずかしく、暖かく、安心感のあるハグは経験がなかった。朝比奈は彼のことが好きなのだと思った。そして、彼もまた自分に対して同じ感情を抱いていることも確信していた。二人はその日、お互いの身体を求め合った。彼の身体と触れる度に彼女の身体は火照っていった。セックスがこれほどまでに心地よく、また、自分の全てを受け入れてくれるものだと彼女は初めて知った。翌朝、二人はシャワーを浴び、駅前のカフェで朝食をとり、彼は仕事へ、彼女は六本木の自宅へと帰っていった。

朝比奈は生まれて初めて好きな人ができた。彼女は、彼のことを考えるとどうしようもなく幸せになり、それから何とも言えない不安が襲ってきて、自分でもこの感情をどう扱えば良いのかわからなかった。彼のことを彼女はまだほとんど知らなかった。どんな仕事をしているのか、どんなものが好きなのかなど、まだ全然知らないことばかりだった。そもそも、仮にも風俗の客として出会った男だ。初めてではなさそうだったし、もしかしたら、自分は複数の女性の中の一人に過ぎないのではないか。ただ自分が一人で盛り上がっているだけなのではないか。そういうことを考えて落ち込んでは、いやそんなことは関係ないと自分に言い聞かせていた。あの日別れてから、彼女は何度もラインをしたい衝動に駆られたが、そういった不安が邪魔をし、もう別れてから三日が過ぎていた。さすがに、そろそろ連絡しないといけないと思っていたところ、彼からまた連絡が来た。
「また会えるかな?」
 彼女はそのメッセージを見て、とても幸せな気持ちに包まれ、「いいよ」と返した。
それからというもの、朝比奈と谷本は金曜の夜には毎週会った。彼は平日仕事で忙しいし、彼女は土日は風俗の仕事があるので、金曜の夜の彼の仕事終わりが一番都合がつけやすかったのである。大概、彼は残業していて、予め遅めに設定した時間よりもさらに一時間か二時間は遅れることが多かった。六本木と吉祥寺を交互に行き来してご飯を食べた後、どちらかの家に泊まるというのがいつもの流れだった。二人は金曜の夜が来るのが待ち遠しかった。

 ある日、二人で食事の後に映画を見に行った帰り、谷本は朝比奈に問いかけた。
「最近はどうなの? 調子。仕事の方の。」
 初めてのデートの日以来、彼が彼女の風俗の仕事のことを話題に出すことはなかった。彼女は少しびっくりしていた。
「なんだか最近、身が入らなくてねえ。ずっと仲良くしてたお客さんがいるんだけど、たぶん切れちゃったのよね。」
「なんで? 何かしたの?」
「何もしてないの。きっとそれがダメなのよ。」
 彼女は苦笑いでそう言った。
「客は一人一人、私にとって特別でないといけないから。私、普段はうまいのよ。そういう風に思わせる演技をするのがね。例えば、自分に自信のなさそうな人には、私は何か悩みを抱えていて不幸であるように見せるの。そしたら、あれこれと世話を焼いてくれるようになるの。自分が女の子を救うヒーローになったような気がして気持ちがいいんでしょうね。」
「罪悪感はないの?」
 彼女は少しため息をついて答えた。
「言いたいことはわかるわ。こうやって本音を言えば、私がすごく嫌な奴みたいに聞こえるでしょう? でも、私は限られた時間の中で、普段、客が満たすことのできない感情を満たしてあげてるのよ。それが風俗ビジネスってものでしょう?」
「まあ、そうなのかな?」
「そうよ。風俗嬢をやっていたらわかるの。男の人って本当はみんな女の子をかっこよく口説きたいって思ってるのよ。でも、現実社会では、自分の立ち位置やキャラを考えてみんな抑制されてる。日常では私に視線を送ることもできない、声をかけることもできない人達が、あの空間で私がちょっと笑顔を向けてあげれば、それだけで歯の浮くようなセリフを吐くようになるのよ。いかに男の人が建前で生きているかがわかるわ。」
 彼女は不満げに続けた。どうやら、少しストレスが溜まっていたようだった。
「だいたい、いきなり自分よりずっと年下の私に対して自分の重い話とかし始めて、君ならわかってくれるだろう、なんて期待されて、私だってスーパーマンじゃないんだからそんなことわからないわよ。そんなの全部正面から受けてたら私の心が持たないわ。客って勝手よねえ。風俗嬢はね、身体は売っても心は売ってないのよ。その時間に発する愛の言葉は全てまやかしだわ。私ももう潮時かな。」
「もうやめたいの?」
「う~ん。そうねえ。もういろいろ経験したし。」
「いろいろって?」
「私は客のお金でいろんな楽しみを得たわ。銀座の高級レストランなんてもう何度も行ったし、有名なホテルのスイートに泊まったこともあるし、最上階にバーがあるようなタワーマンションに呼ばれたこともある。私が欲しいなって呟けば、次会う時にはあの人たちはブランドのバッグや高級化粧品を探して買ってくるのよ。私、普通に就職して普通の暮らしをするなんてもう無理かも。」
 彼女は冗談交じりにそう言った。
「武尊くんはさ。将来何がしたいの? ずっと会社員?」
「俺は……本当は作家になりたいんだ。」
 谷本はそのことについて他人に言ったのは初めてだった。
「へぇ。すごい! どんなの書くの?」
 朝比奈は身を乗り出して聞いた。
「私小説みたいな。自分の人間に対する捉え方を作品にしてみたい。」
「武尊君ならなれるよ。向いてると思う。」 
「そうかな? どういうところが?」
「武尊君って人と感性が違うもの。私に合わせられる人はちょっと変人じゃないとね。」
 彼女はくすくす笑っていた。
「そっか〜。作家か〜。それなら、ちゃんと答えを出してくれる小説を書いてほしいわね。」
「どういうこと?」
「最近の小説は、漫画もそうだけど、設定や風呂敷を広げすぎて、最後は何だかよくわからない結末になることが多い気がするのよ。私、あれすごく嫌いなのよねえ。それまで細かく物語を作ってても、最後まとめきれなくて、もういいやって勢いで終わって、何となく無理やり納得させられる感じ。」
「なんか、わかるようなわからないような感じがする。」
「武尊君ならわかるよ。そういうのは書かないでね。」
「君は、答えが欲しいんだね。何となくごまかされるのが嫌いなんだ?」
「そうかも。」
 朝比奈は機嫌を取り戻したように笑った。谷本は彼女の顔を見つめた後に、空を見上げた。
「でも、この世界に明確な答えがないからそうなるんだよ。何か絶対的な基準があれば答えは出るけど。もちろん人間が創ったものには基準を与えられるけどね。」
「どういうこと?」
 朝比奈は谷本に尋ねた。
「う~ん。何だって本当は許されてるって言うか……。例えば、環境破壊だけど。」
「うん。」
「環境って、誰のための環境? 要は人間が過ごしやすい環境って意味でしょ。地球に優しくっていうのはさ、結局は人間に優しくって意味なんだよ。」
「そんな風に考えたことなかったけど、でも人間の他にも困る生き物はいるでしょ。例えば……そう、サンゴとか。」 
「でもサンゴがいることで奪われる命もあるよ。この世界は誰のためにあるの? 誰の基準で動いてるの?」
「神様が本当にいるのかどうかって話?」
「結はどう思うの?」
「私は……」
「武尊くん。」
 朝比奈が言葉を言いかけた時、谷本は突然誰かに呼び止められた。顔を上げると、そこには彼のよく知る女がいた。
「えっ、三宅さん?」
「そう! わ~、久しぶりやねぇ。偶然にも程があるわぁ。」
 三宅莉乃(みやけ りの)は谷本が高校二年生の時に、初めて交際した女だった。三宅は高校時代まで黒のショートヘアだったが、現在は腰までかかるほどの茶髪になっていた。また、目元を強調するようなメイクをしており、服もぴったりとしたTシャツにショートパンツという格好で、高校の時とは違う垢抜けた印象を谷本は感じた。
「東京にいたんだ?」
「うん、就職で上京したんや。武尊君こそ、東京におったなんて全然知らんかったわ。」
「高二の時以来だからね。」
 谷本は落ち着かない様子で中途半端に笑いながら三宅に返した。谷本と三宅は高二の時に別れて以来、お互い口を聞かず微妙な関係だった。そんな中、数年ぶりに、しかも東京の地で三宅が突然話しかけてきたので、彼は戸惑いを隠せなかった。朝比奈は黙って二人の様子を伺っていた。
「彼女?」
 三宅が朝比奈の方を見て彼に聞いた。朝比奈は否定もせずペコリと会釈した。
「そうなんやぁ。武尊君良かったなぁ。武尊君かなり奥手やったからなぁ。心配やったんやで。」 
「そうなの? あ、元気にやってるの?」
 谷本はとりあえず場をもたせるような質問をした。
「元気元気。実は、私婚約しとるんよ。来年結婚予定で。相手は十個上の会社の先輩なんやけどな。」
「そうなんだ。」
「そうなんだって、相変わらず人に興味なさそうやね。私が指輪しとるの気付かんかったん?」
 三宅は少し苛立っているように見える。言われてみれば、彼女は左手に指輪をはめているな、と谷本は気付いた。しかし、大っぴらに左手を見せていたわけでもないのに、再会してすぐの段階でそれに気づけというのも無理な話だろう、とも彼は思った。
「私、ちょっとお手洗い行ってくるね。」
 朝比奈は谷本にそう言うと、近くの建物の中のトイレに向かった。谷本は、自分が喋りにくそうにしてるのを彼女が気遣って席を外してくれたんだと思った。朝比奈はあまり嫉妬という感情がなく、そういう気遣いをする人間であることを谷本はよくわかっていた。
「ねえ、武尊君さあ、あの時私のこと全然好きじゃなかったやろ?」
 朝比奈が去った後、三宅は谷本に尋ねた。谷本は何か言葉を探したが、うまい返事を思いつかなかった。
「わかるよ。ただ、ちょっと付き合ってみたかったんと違うん? でも、今のあの子のことはホンマに好きなんよね? 見てて思ったわ。やっぱり顔? だってあの子めっちゃかわいいやん?」
「顔とかそういうんじゃないけど……。」
「じゃあなんなん? 私とあの子で何が違ったん? 私は武尊君のこと考えて、一生懸命尽くしてたやん。」
 三宅は谷本を責めるような口調になっていた。
「違うんだよ、君とあの子は。根本的に違う。どっちがいいとかそういうことじゃなくて……。」
 彼女は谷本の言葉にムッとして言い返した。
「そう? あの子は普通の子に見えるよ? あの子のことを特別視しすぎなんじゃない? 今、付き合ってる子のことをそういう風に思いたがるのはわかるけど、運命なんて現実にはそうあるものじゃないよ。」
 谷本は黙ったままだった。彼は言葉を探していたが、何を言ったら良いのかわからないでいた。ただ一つ、彼は自分が何か言葉を発そうものなら、それはきっと三宅を傷つけてしまうものになるとわかっていた。やがて、彼の様子を見かねた三宅はため息をついた。
「はあ、やっぱ、相変わらず意味わからんわ。私、あんたのことは言うてそんなに好きでもなかったから。だって、私がどんだけ近づこうとしようが、あんたは心の壁が厚すぎで何考えてるかわからんもん。よくそんなんで人間関係やっていけてるよね。あんたは自分のちっちゃな世界で、誰も僕を理解してくれないって泣き喚いてるだけと違うん?」
谷本は言い返さなかった。三宅は普段大人しいが、こうやって怒り出すと、他人の意見が耳に入らなくなることを彼は思い出していた。もはや、何か言い返そうものなら、さらに大きな罵声が返ってくるだけだと思った。そうしている内に彼女がまた罵り出した。
「あんたはそうやって、人と向き合おうとせず、争いを避けようとする。だから人からも相手にされんのやで。もうええわ。私は今ちゃんと愛してくれる人がおるから。さっきの彼女やって本当はあんたのこと好きじゃないんじゃないん? じゃなかったら私が突然現れても気になって席外したりせんやろ。あんたのこと愛してくれる人なんてこの世に一人もおらんやろ?」
 谷本はほんの十分前まで、まさか自分がこんなに罵られているとは思いもよらなかった。
「もう、別れよう。これ以上、話したくない。」
「こっちのセリフやわ。さよなら。」
 三宅は谷本に背を向けて、そのまま振り返ることなく足早にその場を去っていった。それから五分ほどして朝比奈は帰ってきた。
「もう別れたの? 大丈夫?」
 彼女は少し暗い顔をしている谷本を気遣った。
「大丈夫だよ。行こうか?」
 谷本はなんとか元気な声を絞り出した。二人はまた歩き出した。

第五章 天国と地獄

 小林竜は今、とにもかくにも金が欲しかった。彼は、あの日以来、薫という女の子に会った時のことを思い出しては、日に日にまた会いたい気持ちが高まっていた。彼は、今度会った時には彼女に告白しようと決めていた。生まれてこの方、彼は告白なんてしたことはないが、それでも、今言わないときっと一生後悔するだろうと思っていた。しかし、そのためにはちゃんとした服が必要であるし、ボサボサの髪も整えなければならない。また、たとえ付き合えたとしても、金を持っていなければ、彼女をデートに誘うことすらできないと彼は考えた。しかし、月の収支をほぼイコールで生活している彼は、貯金なんてほんの数万円ほどで、この間の約四万円の出費はとても痛いものだった。
 そんな中、彼は教会に通ううちに、教会の運営維持費や神父の給料が信者の献金で成り立っていることを知った。しかし、この教会もここ最近は資金不足に悩んでいるようだ。教会のような神聖な場所にもやはり俗世的な悩みはつきものである。小林はその話を桐子から聞いた時、今まで自分が献金を納めずに神父を長時間拘束して悩みを聞いてもらっていたことを恥じた。しかし、そのことについて、神父も他の信者達も何も言わなかったのだ。彼とて教会の力になれるのであればなりたかったが、手取り十三万でギリギリの生活をしている小林にはとにかく金が無かった。彼は、いつも神父や教会、それに桐子に与えられてばかりで、自分は何も返せていない現状を何とかして変えたかった。
そういった事情が重なって、小林は生まれて初めて、本気で金が稼ぎたいと思った。世の中の人間はみんな金が欲しい。だが、そのためには大変な努力と忍耐が必要になる。皆、その面倒と金を得ることを天秤にかけ、自分の意志とは反して結局、日々の仕事やら友人との付き合いやらに時間を食い潰されて行くのだ。小林もこれまではそうだった。しかし、金を得る強い動機が重なった今は違っていた。さて、いざ金を得たいとなると、まず彼が思いつくのは自分の時間を切り売りすることであった。すなわち、会社員やアルバイトのことだ。しかし、小林にできる仕事など時給換算すれば千円がいいところで、かつ彼にとって苦痛を伴うものであった。小林は、高校卒業後就職した食品工場の仕事を、長時間動きっぱなしでミスが許されないのが嫌になって辞めた。その後、彼はなるべく動かなくてよくて責任のない仕事を求め、現在の警備会社にアルバイトとして入った。だが、これも、外で長時間立ちっぱなしなのが嫌になり、今まさに辞めたいなと思っているところであった。そこで、もっと短期間で金を稼がなければならないと思い、彼が次に目をつけたのがパチンコや競馬などのギャンブルだった。小林はこれらの愚かさに気付くのに約二週間を要した。そういったギャンブルについては、これまでも同僚などが何万勝っただの負けただのという話をしているのを耳にしていたため、彼の頭の中にはあった。彼は、学のない自分でも、ギャンブルなら稼げるのではないかという期待を抱いた。しかし、いざ始めてみるとその考えは到底甘いことがわかった。パチスロは金を入れても入れても当たらない。結果、始めは一万円しか使わないと決め、千円ずつ投入していたが、気づいた時には貯金から全財産の五万円を損していた。たまに当たったとしても、最後に終わってみれば収支はマイナスになっていた。しかし、ギャンブルで損した金はギャンブルで取り返したくなるものである。小林はパチスロで稼ぐのを見限った後、競馬に手を出すことにした。彼は、競馬なら一度大穴を当てれば今までの負けた分もチャラにできると考えたのだ。ちょうど、二十五日の給料日で金が入ったので(しかし、小林の生活費はもらえる一ヶ月分の給料額とほぼ等しいため、その金を娯楽に使うのは命取りではあった。彼自身もそうしたことはわかっていたが、それでも、今度ばかりはいけるかもしれないという淡い期待感が彼を浪費に導いた)、小林はその金で馬券の購入を試みた。競馬にはさまざまな賭け方があることをその時小林は初めて知った。彼は、大穴単勝狙い、三連単の多点買い、複勝転がし、 と実に様々な賭け方をしてみたが、結果は、まるで磁石のN極とS極のようにことごとく彼の予想の逆をいった。やはりズブの素人の彼が稼げるほど、競馬の世界も甘くはないのだ。小林はこの二週間の経験を経て、金輪際ギャンブルに手を出すのはやめようと心に誓った。しかし、その教訓を得るために費やした出費により、彼は今までに増して本格的に金に困ることになった。ギャンブルにより、貯金だけでなく、生活費として持っておかなければならない金も浪費した彼は、今、実家に入れるべき金に苦悩していた。小林の家庭は、母親が一人、それに妹が一人いる。彼の妹は公立高校の受験に失敗し、この春から授業料の高い私立高校に通っている。そのため、彼の母は今までのパートに加え、さらに夜も働きに出ていた。小林自身もこういった家計の状況は理解していたため、自分の稼いだ給料は大体、家賃、光熱費などに充てていた。母親はほとんど家におらず、小林も料理などはできないため、彼と妹のご飯はいつもコンビニのおにぎりやカップ麺だった。それにも関わらず、ギャンブルの誘惑に目が眩み、生活費分のお金まで使い果たしてしまったのだ。彼はこんな時こそ神の救いが欲しいものであった。そんなさなかにいたこともあり、ある日小林は、教会で桐子に、それとなく金がもっと欲しいという話を振ってみた。理由は、自宅の洗濯機が壊れて、コインランドリーに行くのが面倒だから新しいものを買いたいのだと適当に嘘をついた。あわよくば、話の流れによっては桐子から金が借りられるかもしれないという期待感も少なからずはあったかもしれない。すると桐子はこう返した。
「竜はクレジットカードとか持ってるの?」
「クレジット? いや、持ってない。よくわからないから。なんか怖いし。」
「え~、でも持ってたらいろいろ便利だよ。お金が手元にない時に一旦借りられて、翌月の給料でちゃんと返せばいいんだからね。あくまで一時的なものだから、長い期間少しずつ返済していくような消費者金融とかの借金とは違うのよ。私は一応三枚持ってる。作るのに審査が必要だけどね。」
 審査が必要ならば、高卒で小さな警備会社に勤めるフリーターの自分は間違いなく通らないだろう、と小林は思った。桐子の考えはボツだった。しかし、この会話は彼に、貸金業者からお金を借りるという選択肢があることを気付かせた。考えてみれば、彼はテレビCMなどで、借入で審査不要がどうのという話を耳にしたことがあるような気がした。小林はこれまで、金を工面できずに困ることはなかったため、そういった話は適当にしか耳に入っていなかった。そこで、彼は貸金業者についてネットで調べ、申込をしてみることにした。しかし、実際には、申し込みにあたり勤め先や収入状況について各種事項を入力しなければならないことがわかり、彼は気分が落ち込んだ。小林は、自身の勘違いから審査不要で借入ができるつもりでいたが、そんな愚かな金貸しはこの世には存在しないのだ。悩んだ挙句、彼は自分が警備会社の正社員であることにし、収入状況についても大幅に嘘をついた。審査結果はその日中にわかるとのことだった。彼はドキドキしながら審査結果を待った。一時間ほどして、小林のスマホに貸金業者から審査結果を知らせるメールが届いた。それを恐る恐る開けて見てみると、審査は通っており、しかも、彼は残り三十万円の借入枠まで手にしていた。さらに、調べてみると毎月返済する額は五千円で良いとのことである。これまで金に困っていた小林に希望が開かれた。金を借りても、いつか何かで儲けて一気に返せばいいんだ、彼はこの時そう思った。
 小林が最初に借入を行ったのは十万円だった。家賃、光熱費と一か月の食費としては九万円ほどであると計算したからだ。そして、残りの一万円は教会への献金に充てることとした。翌日、小林は仕事終わりに教会へ行き、神父にこれまで献金を納めていなかったことの謝罪をし、借りた一万円を手渡した(もちろんそれが借入金だとは言わなかったが)。神父はそれを受け取りつつも、献金は任意のものであるのだから、他人から強制されるものではなく、あくまで自分の意思で払うものであると小林に教えた。小林はそれを聞いて、神父の慎ましさに心底感動した。
 小林は、それから一週間ほど警備のアルバイトに行く日々を送っていたが、その刺激の無さと上限の見える賃金に嫌気が差し、再びギャンブルをしたくなった。今の小林には、この間手にした借入限度額の三十万円があった。彼は、痛い目を見てやめたはずのギャンブルに再び手を出し、たまにまぐれで勝つこともあったが、結局収支はマイナスとなり、追加で借り入れた二十万円も浪費してしまった。それでも、彼には危機感があまり無かった。どれだけ借入額が増えようが、最低返済額の月五千円を返せば良いだけのため、彼には借金をしているという自覚が無かったのである。彼はその頃、借入額でギャンブルのノウハウを学び、いずれは一発逆転大儲けするつもりでいた。そのため、彼にとって、今ギャンブルで損をしているのは将来のために必要な自己投資であるという感覚があった。彼はいつしか、消費者金融の借入限度額を自分の貯金だと思ってしまっていた。
ある日、小林は桐子と久しぶりに会って、自分も以前献金をしたという話をした。だが、彼は桐子の話から、自分の献金額がいかに他と比べて少ないかということを知った。
「十分の一献金っていうのがあってね。キリスト教には、ひと月働いて得た稼ぎの十分の一を神様に捧げるっていう習慣があるのよ。それに則ってる人は多いし、それよりももっと払ってる人もいると思うわ。」
 桐子は小林に語った。
「それだけ寄付する人間がいてなんで資金不足なんだ?」
「う~ん。私が言った事はあくまで私の想像だから。神父様は本当に優しい人で、信者に献金の催促なんて絶対にしないの。だから、献金の実態は私たちが思ってるよりもずっと少ないのかも。それともう一つ問題があってね。実は、この教会と神父様、別の宗教団体の人達に脅されてるの。その人達は、神父様が告解 で聞いた信者の弱みを利用して、信者を揺すってお金を巻き上げてるって言いふらしてるわ。だけど、そんなこと根も葉もない噂なのよ。私は神父様のことを小さい時から知ってるけど、そんなことする人じゃないって断言できるわ。要はその人達、悪い噂を流してうちの信者を自分達の団体に囲い込みたいのよ。でも、神父様は優しい人だから何も言わないでいる。そしたら、最近その人たち、今いる信者達に嫌がらせの電話をしたりストーカーまがいのことまでやり始めたの。それで、やめてほしかったらってことで、神父様にお金を要求してるのよ。」
小林は神父の窮状をこの時初めて知った。自分の知らないところで、神父もそんな悩みの種を抱えていたことを知り、彼はひどくショックを受けた。
「それで、お金が必要なのか。ひどい話だな。」
「本当にそうよ。神父様も訴えるとかしたらいいのに、罪人こそ救われるべきとか悠長なこと言ってるの。でも、このままじゃ本当にこの教会も神父様も潰されかねないわ。」
 小林は神妙な面持ちで考えていたが、ふと意を決したように顔を上げた。
「俺の献金がもっとあれば、それ、解決するかな?」
 小林は意図して作ったような低い声で、格好をつけたように言った。
「何言ってるの? 竜がそんなにお金持ってるわけがないじゃん? 竜、今フリーターでしょ?」
「実は俺……ずっと前からギャンブルでかなり稼いでるんだ。俺が正社員にならないのは時間を縛られたくないからだ。本当はもうバイトも辞めてもいいんだけど、今辞めたら職場の人達が困るって言うからしょうがなく続けてるんだ。俺は出せるよ。俺は神父さんを信じているから。」
 もちろんそれは、虚栄心に突き動かされた彼の嘘だった。
「竜、それ本当?」
「……うん。」
彼は、その日帰宅すると、一社目と同じ手法でもう二社から借入を行った。彼の借金は膨れ上がり、最初の借入と合わせて、実に百万円を超えた。それでも、小林はいずれギャンブルで成功すれば、こんな借金いつでも返済できると思った。それよりも、今は彼の恩人ともいえる神父の困りごとをなんとか解決してやりたかった。
翌日、小林は桐子を通して、教会に献金をした。小林は、自分からの献金だと言うと神父を心配させるので、自分のことは伏せて、誰か知らない人間が教会に来ていきなり献金をしたことにしてくれと桐子に言った。小林はそれで満足だった。あの二人の話を偶然聞いてしまうまでは……。
 
その日、礼拝堂は閑散としていた。平日の昼間に教会へ行くことは、意外にも小林にとって初めてのことだった。彼は、この日交通誘導に行くはずだった工事現場が、前日の大雨による地面のぬかるみのために工事中止となったことを、朝、電話で伝え聞いた。そこで、予定が空いてしまったので、彼は教会へ足を運んでみることにしたのだ。いつもと違って教会には人気がなく、彼は恐る恐る入口の端から中の様子を伺った。すると、中には桐子と神父が二人きりで話しているのが見えた。だが、小林は、礼拝堂に入ることなく、じっとそこへたたずんでいた。なぜなら、そこにいた神父は、口調や顔つきがいつもの印象とは異なっていたからだ。
「彼、その後どうなった?」
「もう限界だと思います。元々、竜の稼ぎじゃ生活するのにいっぱいいっぱいなんですから。それなのに彼、アルバイトのままで、働く時間を増やそうともしないですからね。自業自得ですよ。今はギャンブルで簡単に金を稼げると思っているようだけど、結局損してばかりで。それでいて、あのお金はギャンブルで手に入れたなんて豪語するんだから、あの時は笑いをこらえるのに必死でしたよ。こっちは彼が借金してることなんてとっくに知ってるのに。あんな何にも続かないダメ人間、この先お金なんて稼げるわけないし、今ある借金も返せずに終わるでしょ。とにかく、彼はもうお金は借りられませんよ。」
 桐子は鼻で笑いながらそう言った。
「いや、まだある。彼は家族と同居で母親も働いている。彼からはもっと引っ張れる。彼は人を信じやすく、そして白痴だからね。」
 神父も笑いながら言った。
「今度は家族からとるんですか。わかりました。今度そういう風に話を誘導してみます。」
「彼のような順々な子を主は気にいるだろうね。俗世に生きる私としては、そういった純朴な存在に感謝の意でいっぱいだよ。」  
 神父の言葉には明らかに嘲笑の念が含まれていた。ふと、小林の背後からサッサッと箒を掃く音がして、彼はその音の主を確かめることもなく慌ててその場を離れた。彼は、その日結局、教会で神父らと顔を合わせることなくそのまま家に帰った。
 
小林の中に神父に対する疑念が生まれた。いや、先ほどの神父と桐子の会話は、既に疑念を抱くまでもない回答を小林に対して突き付けていた。それでも彼は、神父のことを信頼したかった。何かの間違いであってほしかった。そのため彼は、翌日再び教会に出向き、そこにいる人間に、神父の人となりについて聞いて回った。思えば、彼は桐子や西口を除き、神父についての話を人としたことはほとんどなかった。彼が尋ねると、皆、一様に神父は聖人であると語った。しかし、彼はいくらかの人の表情に、どこか無理しているような感じを受けた。その中で、一人の年老いた男は、皆と違って小林の問いに肯定をするでも否定するでもなく、ただ難しい表情で黙っていた。その男は、よく教会の周辺や内部の掃除をしている信者だった。男は教会の信者になってから長く、桐子のことも彼女の幼少期から知っている人物だった。小林はその年老いた信者に強く問い詰めた。その男は恐らく、この教会という閉鎖的な環境の中で、それを言うべき時と相手をずっと探していたのだろう。その年老いた信者は、自分が神父の奴隷として長年仕えてきたことを明かした上で、教会と神父に近しい存在だったからこそ知り得た事実を全て小林に話した。
 神父の正体は、欲望の限りを尽くす悪の権化だった。教会の信者の女性は少なからず神父の性的搾取の対象だった。桐子の母親は、随分前から神父の支配下にあり、肉体関係があった。桐子も幼き頃から神父の性的搾取を受けていた。時には、酷い暴力も振るわれていた。しかし、そんな虐待の中で、桐子は神父に対して一種の崇拝を抱くようになった。中学生になる頃には、桐子は神父の言うことならなんでも従うようになっていた。桐子が小林に近づいたのは全て神父の指示だった。いかに小林が神父を信じていようが、あからさまに金の話など持ち掛ければ怪しまれる可能性があった。だから、教会の中で同じ年代である桐子を利用し、彼に近づいたのだ。その他にも、神父は教会に払われる月定献金を横領していた。また、酷い話では、神父は告解で聞いた話を種に信者を揺すり、多額の献金を納めさせていた。
 自分は騙されていたのだ。この時、小林はようやく理解した。いや、あの二人の会話を聞いた時に、既にそれはわかっていた。しかし、そんな疑念には向き合いたくなかった。彼は信じたかったのだ。自分を愛してくれる人間の存在を。だが、彼が信じてきた存在である神父や桐子は、結局のところ彼を利用するために近づいたに過ぎなかったのである。本当の意味で彼と向き合ってくれる人間は最初からいなかったのだ。彼に残ったのは、どこにもぶつけることのできない憤りと信頼していた人間から裏切られた悲しみ、それに百万円を超える何の意味もない借金だけだった。
 
 小林はそれでも、最後の希望としてあの女の子に会おうとした。彼はこの感情を誰かに鎮めてほしかった。小林の心は、既に絶望のあまり折れかけてしまっていたが、誰かが愛を与えてくれれば自分はまだやり直せると彼は思った。そしてその相手は彼女しか考えられなかった。彼女の予約は、彼の想像と違って案外すんなりできた。それは彼にとってラッキーなことであった。彼は彼女と会う準備をした。今回は仕事終わりの作業着姿ではない。借入金を使って購入した黒のスラックスにジャケットを羽織って、間違いなく彼は過去一番のおしゃれをした。そして、内ポケットには、言葉でうまく伝えられなかった時のために用意した手紙をしまい込んだ。小林には、きっと彼女も自分のことを気に入ってくれているという確信があった。彼は、前回と同じ池袋のラブホテルの部屋に入り、彼女が来るのを待った。三十分ほど待ち、インターホンが鳴った。
「こんにちは。」 
 二ヶ月ぶりの彼女は、やはり自分が会ってきた誰よりも神々しいと彼は思った。
「こんにちは。」
「入っていいですか?」
 彼女はそう言うと、自分の靴を脱ぎ、部屋に入った。小林は、彼女がどこか沈んでいるような気がした。彼女はこれまで彼の目を一切見ていなかった。彼女はソファに荷物を置き、スマホを取り出した。
「六十分ですよね? 連絡していいですか?」
「あ、はい。」
 彼女はスマホで店に電話をかけ、スタートの報告と受領金額の確認を行った。その淡々とした様子を見て、小林は彼女が自分のことを覚えていないのではないか、と不安になった。彼女は部屋に入ってから今まで、一度も笑みを見せていなかった。電話を終えると、彼女は小林から金を受領しそれを丁寧にポーチに入れ、そのポーチをバッグにしまった。彼はとうとう我慢できずに切り出した。
「あの、薫さん。竜です。二か月前にここで会った。」
 彼女はハッと顔を上げて、この時初めて彼の顔を見た。が、すぐうつむいて、微笑しながら、
「竜さんですよね。また来てくださってありがとうございます。とても嬉しいです。」 
 と、なんとなく社交辞令のような感じで彼に返した。この日を待ち侘びて、できる限りの準備をして臨んでいただけに、小林の心はこのわずか数分のやり取りだけで、落ちるところまで落ちていた。
「シャワー行きますか?」
 二人はバスルームへ向かった。シャワーの間も彼女は口数が少なかった。口を開いても、熱くはないか、洗い残しはないか、など最低限の会話だけだった。
「あの、何かあったんですか?」
 小林は彼女に問うた。
「え?」
 彼女はびっくりした様子で反応した。
「いや、この前の時と全然違うから。僕のことも覚えてないみたいだったし。」
「そんなことないですよ。また会えて嬉しいです。お仕事大変ですか?」
「あ、はい。」
 彼女は笑っていたが、やはりその笑顔は無理して作っているもののように小林は思えるのだった。シャワーから出て、いよいよプレイに移ろうという段階になった時、こんな状態のままプレイに移りたくないと思い、小林は意を決した。
「あの、薫さん、僕と付き合ってくれませんか? 本当に薫さんのことが好きなんです。」
 小林にとっては生まれて初めての告白だった。この時までに頭の中で何度シミュレーションしたかわからないセリフだった。彼はドキドキしながら返答を待った。しかし、
「すみません。そういうのは禁止なので。私、恋人いますし。」
 彼女は淡々と小林の告白を断った。彼女は接客中にこういった言葉を投げかけられすぎて、いつしか予め用意した言葉が反射的に出るようになっていた。しかし、以前までの彼女だったら、もう少しオブラートかつ相手に期待を持たせるような断り方をしていたのだが……。彼女は、小林の突然の告白も特に気に留める様子もなく、ベッドのそばでプレイの準備を始めた。それを見て、小林は再び服を着始めた。彼の表情は、もはや何の感情もなく無だった。
「もういいですよ。終わりでいいです。」
 彼は彼女に言った。
「そうですか? じゃあお店に連絡しますね。」
 彼女はこれにも動じることなく返した。彼女は店への連絡を済ませると、手帳型のスマホケースを開いたまま、片付けをしたり浴室に忘れ物を確認しに行ったりした。手帳型のケースのポケットには三枚ほどのカードが入っていた。一番上の一枚は学生証のようだった。小林には「Aoyama」という文字が読めた。

小林は自宅の布団の上にいた。夢を見ていた。過去の夢だ。高校生の頃のことだった。嘲りの色を含んだ声が、遠くからではあるが、はっきりと聞こえてきた。
「足おっそ。」
「見たまんまじゃん。」
 女子二人と、男子四人が団体で座っている。皆、顔には軽蔑と嘲笑の笑いを含んでいた。その中の一人は彼が恋焦がれた女子だった。 
「めっちゃ見てる、めっちゃ見てる。」
 その女子は、笑みを保ったままで、顔を背けるようにして一人の男子の膝に倒れかかった。集団はいつまでも彼を笑っていた。
 目を覚ました。(なんで、こんな夢を見たんだろう……。きっとこの時の感情に似ていたからだ。女という生き物は、無慈悲な生き物だ。表面的にはまともに見えても、利害関係に敏感で、自分の損になるようなことは絶対にしない。そういうところが男との違いだ。彼女は女神様でも何でもなく、やはり自分が昔から嫌悪していた女だった。自分の利益のために平気で嘘をつき、強いものに媚び、弱いものは見下す薄汚い女。過程なんて全く見ず、結果ばかりを見て平気で掌を返す浅ましい女。自分のことは棚に上げて、人の悪口はとことん言う女。桐子だって同じだ。女はみんな害悪だ。もう……限界だ。)

 また、眠りに落ちていた。目を覚ますと、そこは眩いばかりの光の世界だった。小林は、そこが天国だと思った。あの絶望に同情した神が、救いの手を差し伸べて天国まで連れてきてくれたのか、と彼は思った。小林の前に真っ白な上下一体の服を着た人間が現れた。彼はそれを神だと思った。それの顔をよく見ると小林自身だった。それは人間・小林に語りかけた。
「君の辛さは僕が一番わかっているよ。君のことをわかってやれるのは僕だけだ。僕のことだけは信頼してほしい。」
 人間・小林は神・小林に話し始めた。
「家族には生まれた時から愛されず、信頼した人には騙され、生きる希望を見出してくれた女は俺のことなんか眼中にもなかった。俺は誰にも愛されていない。世の中に必要とされていない。俺はただ、この世の中の弱者として金持ちの奴隷として働き、搾取されて死んでいく。俺の存在価値なんかたったそれだけだ。俺は全ての人間にとって、見下すことで安心を得るための存在。そんな星の下にきっと生まれたんだ。成功している人間の努力論は聞くだけで吐き気がする。あいつらの努力が報われているのは、恵まれた環境や生まれ持っての才能があるからだ。あいつらは知らないだろう。何を頑張ろうとしても否定されて、足を引っ張ろうとしてくる奴らばかりの環境を。あいつらは知らないだろう。たとえ、どれだけ努力をしても、何一つ成果が出ず、努力などいっさいしないようなニヤけた奴に敗北する屈辱感を。クソだ。本当にクソだ。この世の中は。もう消えて無くなりたい。なんで生まれてくる権利も死ぬ権利もないんだ。俺は自分で望んだわけではないのに。なんで、安らかに死なせてくれないんだ。」
「安らかな死か。確かに生きていくことは苦しいことだね。だけど、君の人生はこれから素晴らしいものになるかもしれない。君がこれまで我慢してきたことは、全てこれからの人生のためなのかもしれない。誰よりも苦しみを味わった君だからこそ、君にはこれから誰よりも幸せになる権利がある。君は幸せになりたいのだろう? 僕が保証するよ。君にはこれから生きててよかったと思える日が来る。なぜなら、この世は皆に平等にできているのだから。」
「平等……か。本当に平等か? お前の創った世界は。一つ例を出すぞ。人間の死に方で最も苦しいのは焼け死ぬことらしい。全身の細胞が一つ一つ燃え尽きるまで苦痛を味わうことになるから、長い間地獄のような痛みに苦しむことになるらしい。その死因の多くは、その苦しみから早く解放されようとして舌を噛み切ることによることによるものらしい。そんな苦しみを、ある日突然自暴自棄になった見ず知らずの他人の放火によって与えられる可能性がある。そんな不条理ってあるか? だけど、それが世の中というものだ。人間が欲をぶつけ合って生きている限り、必ずそういうことは起こる。もう一つ言おう。末期癌の患者がいる。薬物を投与しようと、もはや死んだ方がマシなぐらいの苦痛を味わい続ける。それに耐えて、生きることにしがみついた結果、待っているのは結局のところただの死だ。そいつは体の苦痛と、それを見て苦しむ家族の姿も目の当たりにしないといけない。そこで安楽死を求めることは罪なのか? その患者は最後の最後まで苦しみ抜いてからでないと神は死なせてくれないのか? 改めて聞く。人間とは何だ? 俺達は何のためにこの世に生きている? お前が神だというならば、どうしてこんな残酷な世の中を創った?」
 神・小林は黙っていた。人間・小林はまた語り始めた。
「お前が悪いんだ。俺達はみんな、お前の被害者だ。生まれてきた人間には痛み、苦しみを味わう機能が備わっている。そして、それは理不尽にも俺達に襲い掛かる。だが、お前はただ世の中を眺めているだけだ。お前が創った世の中という仕組みがどうやって変わっていくのかをただ観察しているだけだ。俺は下りるぞ。こんなクソみたいな世界になんて最初から生まれない方がいい。この世に生まれてこないことが一番の救済だ。だが、俺達は生まれてきてしまった。お前の創ったこんなクソみたいな世の中に。だからこそ、俺達は人間の誕生を止めるべきだ。俺達が繁殖しないこと、自分の命を安らかに終わらせること、これがお前に対抗する唯一の策なのじゃないのか? 無責任にこのクソみたいな世の中に子供を産み落とす親は悪だ。子供を作るのは結局のところ親の自己満足に過ぎない。」
 神・小林はなお黙ったままだった。

再び、眠りに落ちていた。次に目を覚ますと、何やら奇妙な光景が目に映っていた。黒褐色の空が広がっていた。二十メートル程先には教会にあるような祭壇があった。両脇には松明が灯っている。祭壇上には人の高さほどの黒く大きな鍋が乗っていた。中では、何やら赤黒い液体が沸騰している。祭壇の右下で螺旋状の模様をした覆面をした黒づくめの男三人が奇妙なダンスを踊りながら回っている。鍋の左手には、今度はみずぼらしい恰好をした小林自身が立っていた。
「お前は何をしに来た?」
覆面の男の一人が踊りながら問いかけた。
「人を殺しに来た。」
 彼は迷わず答えた。別の覆面がそれに返答する。
「殺すのはお前だ。お前が生きているからお前はお前に殺されるのだ。お前が世に生まれたからお前は殺されるのだ。殺された後に残るのは何だ。無だ。お前の持つ憎しみ、怒り、恨みは跡形もなく消え去るのだ。」
 小林も覆面に言葉を返す。
「俺は俺自身を殺して生きてきた。殺さざるを得なかった。俺が俺であることを世の中が許しはしなかった。俺を殺さなければ、世間は俺の存在を認めなかった。俺は世の中に生まれた時から死んでいる。」
 空には厚い雲が前面にかかっていた。大鍋の沸騰が強くなった。遠くから見てもはっきりわかるほど、しぶきがあがっている。また小林が語り始める。
「俺は、生まれてから全てが敵だった。あからさまに蔑む奴、利用しようとする奴、優しくして自己満足を図る奴。もううんざりだ。こんなクソみたいな世界は。」
「ならば、殺すのか?」
 三人目の覆面が問いかけた。小林がそれに応じる。
「殺す。だが、俺を殺す前にあいつらを殺す。笑っていやがるあいつらを。」
「ならば、殺せ。」
 これまで黙っていた大鍋の左手の小林は覆面を被った。彼は目を覚ました。 

 角ばった左右対称の建物の周辺には様々な国の国旗が掲げられている。国連大学のすぐ目の前に青山大学はあった。校門前には多数の大学生たちがたむろしていた。男は校門を入って少ししたところで、目的の女が来るのをただひたすら待っていた。午前八時五十分ごろ、その女は現れた。彼はバレない様にフードを被って顔を伏せながら、女の跡をつけた。女は大教室の右後ろに座り、一人で授業を受けた。教授の板書を真面目にノートに書き記していっている。彼はバッグの中に忍ばせていた包丁を握りしめた。躊躇いはあった。今自分がこの包丁から手を離し、この場を去れば、今日という日は何も特別なことのない平凡な一日となる。しかし、平凡な日常が既に地獄であったと彼は思い出し、再び包丁の柄を握って覚悟を決めた。(俺は今日、死ぬ。) 
 悲鳴が鳴り響いた。後ろの座席に座る生徒たちは、すぐに何が起こったのか察した。それもそのはずで、突然白い机は真っ赤な血で染まり、男の腕の振りと共に、今まさに女子生徒の首からは血が飛び散っていた。辺りの生徒たちは男から離れ、恐怖から誰も止めようとするものはいなかった。やがて、刺され続けていた女子生徒は声をあげるのを止め、息絶えた。広い講義室には生徒の知らせを聞いて駆け付けた教授たちが集まってきた。直に警察も来るだろう。男は殺害した女子生徒を抱きしめ、冷たくなった唇にキスをし、自らの首を血だらけのナイフで掻っ切った。再び生徒達の悲鳴が教室をこだました。男と女子生徒は共に倒れた。男の目には涙があった。警察が駆け付けたのは、それから十分後のことだった。 

谷本は、いつものように憂鬱な気分で朝を迎え、支度をして満員電車に乗り込み職場へ向かった。朝の中央線は、他の時間と違い少し陰鬱な空気が漂っているのがわかる。今日は雷雨のため、充満した湿気も相まってなおさらそれを感じる。いつものように職場につき、いつものようにパソコンを立ち上げ、いつものように仕事を始める。しばらくして彼は午後の会議のための資料を作り終え、一息ついた。そこへ、同僚の女達の話声が聞こえてきた。
「昨日も行ってきたんですよ。」
「どうだったの?」
「夜まで飲んで、カラオケ行って、結局それで別れたんですけど。」
「え〜何もなかったの?」
「もうちょっと積極的に来たらいいんですけどね〜。まあ、ご飯奢ってもらったからいいんですけど、次はないかな。」
 最近は同僚の女達のこんな会話が気にならなくなっていたが、今日は谷本にとって、久しぶりにそれが耳障りに聞こえた。その正体を彼はわかっていた。いつもと違うことは、今日は携帯のバイブが鳴らないことだった。いつもなら大体午前十一時までには彼女から返信が来る。日を跨いだ彼女の返信のリズムはいつもそんな感じだ。彼はこの時間の付近になると、いつも待ち遠しくてそわそわする。しかし、今日は十一時を過ぎても、昼休憩の時間になっても一向にバイブ音が鳴ることはなかった。彼はちょくちょくトイレや給湯室に行くようなふりをして携帯を見てみたが、やはり連絡は届いていなかった。ひょっとすると午前中は急用ができたのかもしれない。もしくは、この雷雨で何かトラブルがあったのかもしれない。そんなことを彼は考えていた。しかし、結局その日、終業時間になっても彼女からの連絡はなかった。彼は今日、珍しく定時上がりした。周囲からは物珍しそうな視線を感じたが、不安な気持ちを抱える彼にとってはそんなことは知ったことではなかった。中央線に乗り込んだ。彼は悩んでいた。今ここで電車を乗り換えて、いっそ彼女の家まで行ってみることも考えていた。電車は荻窪に着いた。ふと何気なく、彼は電車の中のモニターを見ていた。アメリカでプレーする日本人メジャーリーガーの活躍。次は、舞台公演の開幕のニュース。これは彼女が見たいと言っていて、二人は今度一緒に行く約束をしていた。次は……青山大学で二十一歳の女子学生が男に刺されて死亡……。彼女は二日前に二十一歳になった。誕生日祝いで、二人はこの日曜にどこかへ遊びに行こうという計画を立てていた。青山大学は彼女が通う大学だった。彼の肩を嫌な風が通った。彼は動悸を感じた。まさかと思った。スマホを取り出して恐る恐るこの事件の詳細を検索した。しかし、その動作をしながら彼は考え直した。考えてみれば大学三、四年の大学生はだいたい二十一歳だ。青大が何人生徒を抱えるのかは知らないが、まさかそんなことはないだろう、と彼は考えた。だが、彼女からは昨日の夜から連絡がとだえていた。こんなことは今までに一度もなかった。彼はスマホでネットニュースを見ていった。三つ目に見た記事で、容疑者の名前と年齢、犯行の動機は個人的な私怨と見られること、それと……被害者の名前が書かれていた。電車のアナウンスは吉祥寺を告げた。 

「愛とは美しいものです。人間は一人では生きていけません。だから、助け合って生きていかなければなりません。誰かを愛し愛されるということは本当に素晴らしいことなのです。愛には様々な形があります。男女愛、家族愛、隣人愛、すべてこの世の中を生きていく上で大切なものです。愛することは、何か見返りを求めてやるものではありません。本当に誰かのことを想い、その人のことだけを思いやる無償の愛こそが本当の愛と言えます。」
谷本は昔読んだ雑誌に書いていた詩を思い出していた。誰とも知らない人が綺麗ごとを並べ適当に書いたようなその詩を、彼は妙に頭に残り覚えていた。(俺は、彼女を愛していた。彼女は生まれてから出会った他の誰よりも特別だった。彼女の代わりなど、この先見つけることはできないと思ったし、彼女と過ごす時間は、これが幸せかとはっきり実感させるものだった。それならなぜ、俺は今、現実をすんなり受け入れられているのだろう。彼女がこの世からいなくなった。もう二度と彼女と会話を交わすことはできない。もう二度と彼女と体を交わすことはできない。もう二度と生きた彼女に会うことはできない。その事実を画面を通して伝え聞き、俺の頭は驚くほど冷静にその情報を処理している。俺には人の心がないのか。涙は出てこず、むしろ、この無表情から笑い顔を作ることさえできるような気がする。)
その時、辺りが一瞬光った。その二秒後に遠くの方から雷鳴が聞こえた。
「あぁ、そうか。」
彼は呟いた。(俺がいつも感じていたことだ。人間が生きている意味なんか無い。ただ、この世に存在するという事実があるから生きているんだ。そして、彼女が存在しなくなった、これもまた事実だ。雷が、昔の人間が想像したような天の怒りなどではなく、大気中にある静電気の集まりであり、音が光よりも遅れて伝わってくるのと同じように、今、俺はただ、世の中の摂理を聞いただけなんだ。彼女は多くの男を騙し、金を貰い、自らの欲を満たしてきた。そして今日、恐らくは騙した客のうちの一人の恨みを買い、殺された。たったそれだけのことだ。因果応報、自業自得、この状況を表す言葉はたくさんある。もし仮に、愛というものが他者をただ慈しむ無償の愛を指すならば、俺は彼女のことを愛してはいなかった。俺が愛していたのは、このつまらなく苦しい人生に楽しみを与えてくれた彼女との時間だ。そして、それは彼女も同じだろう。彼女は、自分に初めて本当の意味で共感してくれた俺という存在に特別な感情を抱いた。俺ならば、風俗嬢である自分を受け入れ、自分の思っていることの全てを理解してくれるだろうと彼女は考えた。最近の彼女は、それを盲信している節があって、あまりにも抽象的な議論をふっかけてきては、俺の適当に合わせた返事に納得しているような感じがした。それは結局、彼女が世の中の不条理や理不尽に対して理性的な答えを求めていたわけではなく、ただ、自分が思うよりも周りが自分のために動いてくれないということにフラストレーションを溜めていただけなんだ。彼女は、俺なら満たされなかった自分を満足させてくれると思ったのだろう。彼女もまた、自分のために俺との時間を愛していた。でも……、俺はそれでも、彼女のことを失いたくはなかった。)
外から部屋の窓を揺らすほどの強風が吹いた。彼はひざまづいて、そのまま立ち上がることが出来なかった。

彼は目を覚ました。いつの間にか寝ていたようだ。カーテンは開けっぱなしで、もう夜は明けていた。今日も昨日に引き続き大雨のようだった。分厚い曇り空がどこまでも続いている。彼はいつものようにシャワーに向かうのだった。

挿話 愛

 事務所に着いた。これから仕事だ。前から小柄で可愛らしい女の子が少しうつむきながら私の方に歩いてきた。地味な服装や何かの記念で貰ったかのような白のトートバッグを肩にぶら下げた様子から女の子は垢抜けなさを感じさせたが、それでも普通のかわいさじゃないと私は思った。その女の子は目立つことを無意識に避けているような感じがした。女の子は私に気付いて会釈をしたので私も返した。すると、女の子は私に声を掛けてきた。
「初めまして。ルナです。」
 女の子は礼儀正しく頭を下げた。たぶんいい子な気がする、と私は思った。
「ルナちゃんね。初めまして。かえでです。」
「かえでさん、よろしくお願いします。」
「最近入ったの? 始めてどのくらい?」
「一週間前に入ったばかりなんです。」
 ルナという源氏名の女の子は私に恐縮しながらそう答えた。私はこの風俗店で働き始めてからもう三年になるので、入ったばかりの女の子達でも、事前に店の情報を調べてベテランの私のことは知っているという子は多かった。
「病んだりしない? ほらこの仕事は特殊じゃない?」
「嫌だなって思うこともたまにはありますけど、でも基本いい人が多いですし大丈夫です。」
「そうなの。客に恵まれてるのね。何か困ったことがあったら何でも相談してね。大したアドバイスはできないと思うけど」
「かえでさん、ありがとうございます。すごく心強いです。」
「またね、ルナちゃん。」
「はい。こちらこそ。」
 ルナはニッコリした。

 それから私はやっとの思いで今日の仕事を済ませ、再び事務所に戻った後、送迎車に乗り込んだ。
「かえでさん、お疲れ様です。」
「お疲れ様です。お願いします。」
 車内はドライバーと私の二人だけだった。このドライバーはちょっとイケてる風のたぶん三十代前半の男だった。プライベートなことはお互い話したことはないが、二人きりの時にどちらかが切り出せば割と世間話は続く相手だった。この日は私から話を切り出した。
「最近、事務所に初めて見る子が多いですね。」
「最近、新人さんが多いですからね。今日も事務所で三件面接をやってましたよ。」
「そうなんですね。今日は事務所であの子に会いましたよ。ほら、あのおどおどした子。最近入ったって言ってたかな? 白のトートバッグを持った。」
「ルナちゃんですか? いい子ですよね? いつもしっかり挨拶するし。確か、一週間前に入った十九歳だそうですよ。若いのにしっかりしてますよね。」
 ドライバーの声色が上がった。ドライバーはフロントミラーに写る自分の方へ少し目線を移した。若いのにという言葉は、私は若くはないと言われているような気がした。
「おとなしい子ですよね。私がずっと喋ってて。あの子ほとんど喋らないから。」
「ああ、気を遣ってたんじゃないですか? かえでさんに。かえでさんはベテランですから。」
「いや、大変でしたよ。コミュニケーション取りづらいっていうクレーム多いんじゃないですか?」
「いやぁ、聞いたことないですけどねぇ。」
 私はだんだんイライラしてきた。
「でも、すごい贅沢な感じしますよね。贅沢っていうか、人生甘く見てる感じ? だってそうでしょ? 大学生の身分でデリやってるって、どうせ親に黙ってやってるんだろうし。学費や生活費は親に出してもらって、ここで稼いだお金は服とか自分の好きなものに使えるじゃないですか?」
「いやぁ、あの子も色々事情があるのかもしれないですよ? 苦労なんて他人にはわからないものじゃないですか?」
 私はドライバーの言葉にムカムカしてきたので、それっきり黙りこくった。そういう優しい言葉をかけられて、配慮されるべき人間は、誰よりもこの自分であるべきだという自負が私にはあった。私は我慢してきた。どんなに泣き喚く我が子に殺意が芽生えようとも育児放棄したことなど一度もなかった。今、悠々自適に駐在妻としてロサンゼルスで暮らす妹は、昔、散々自由奔放に遊びまわり、それが仇となって二十代半ばの頃に自らの心身を滅ぼしかけた。その時は家族親戚の誰もが妹を腫れもの扱いにし遠ざけた。当時、そんな荒れた状態だった妹の生活を支えたのは私だ。妹はその後、徐々に立ち直り、新しく出会った男と結婚し、周囲の誰もが羨むような挙式を開いた。皆歓迎ムードで、私自身、波瀾万丈だった妹のようやくの安定は嬉しかった。しかし、あれから妹夫婦から連絡が来たことは一度もない。散々迷惑をかけて私の稼いだ金で幸せを掴んだら、後は用済みということか。自分の善意や人の良さが周りから都合良く利用されているような気がして、時折、辺りのものを全て破壊してしまいたいほどに憤りを感じることがあった。私は本来、もっと褒められるべきだ。報われるべきだ。だが、こういった不条理への憤りを態度に表せば表すほどに、周囲の人間は私から離れていった。周りが気を遣い、持て囃すのはいつも今日会った女の子のような人間。大して苦労もしてないのに労いの言葉をかけられ、大したこともしてないのにさすがと持て囃される。世の中の人間は結局、人の本当の苦労や努力なんて見てやしない。ただ、その相手から感じる雰囲気と自分への見返りを求め、他人を評価する。それが人間というものだ。私を認めてくれる人間なんて、この先現れることはない。私はただ誰かの奴隷として息絶えるまで働き続けるだけだ。そして、私が死んだ時、彼らが思うことは、便利な奴隷がいなくなったと、たったそれだけだろう……。
「お疲れ様でした。」
 車は私が指定した場所の前に着いた。ドライバーの言葉を背に私は車から降りた。

夜道を歩いていた。時刻は深夜零時半。しばらく街灯のない道が続く。こんな夜に一人でいると、人生に対する途方もない絶望感と孤独感を感じる。もはや、これから何をやろうとも手詰まりなのがわかっていた。もう充分努力は尽くした。私は決して他人より怠惰だからこうなったわけじゃない。むしろ、現状を少しでも変えたくて、我慢して努力して思考を巡らせて、結果行き着いたのがここだったのだ。昔の自分は、反骨心を糧にそれがいつか報われると信じて努力する人間だった。学校の勉強も部活でやっていたバレーボールも中学から始めた生徒会も、始めたころの私には何も特別なものは備わっていなかった。周りを見渡せば、いつも器用にそれらをこなす人がいて、私はそれに負けまいと不器用ながらも必死に食らいついた。そうすることで、徐々にではあるが成果は出たし、周りも私を勤勉な努力家として認めていった。だがいつからだったか。社会の理不尽にぶつかる度に、そういう実感は徐々に感じられなくなっていった。
もう……疲れた。どれだけ汚い客に触られようと、どれだけ汚い言葉で罵られようと、そんなものは日常で、いつしか何も感じなくなっている自分がいた。既に肉体のみが存在し、私自身の心を守る気持ち、自分を大切にしようという心は死んでいた。ストレスから一瞬でも逃れる手段は食べることだった。コンビニやスーパーでスナック類を大量に買い込み、一気に食べる。この時間は私のストレスを無くしてくれる唯一の時間だった。しかし、その影響で肌は荒れ、髪も潤いを失っていった。私は太りにくい体質のため、体型が変わることはなかったが、食べ終わるといつも罪悪感に襲われるのだった。何をやっても行き詰まり、人間としても女としても終わっていっている感じがした。

 いつもの待ち合わせ場所に着いた。しかし、今年小学校に上がったばかりの我が一人息子の姿はそこにはなかった。トイレにでも行っているのか、それとも母の来るのを予見し、どこかに隠れているのか。
「健太、いるの?」
 応答はない。周囲に気配もないし、隠れているわけではなさそうだ。私は、いっそもういなくなってくれればいいのにと思った。朝から働き続け、もう身体も心も限界だった。しかし、私の母親としての本能がわが子を保護する方に傾く。私は公園を少し離れて、辺りの道路や家屋の周辺を探し回った。しかし、息子はどうしても見つからなかった。途方に暮れて道路の壁によりかかった時、向かいの道路わきを、二十代前半ぐらいのスラッとした男が息子を背負って歩きすぎるのが目に入った。
「あ、あの?」
 私は男の背に問いかけた。
「はい?」
 男は振り返った。
「え、あ、その子。」
「あっ、お母さんですか?」
 男は目を丸くしてそう言った。
「あ、はい。そうです。迷子になってて。えっと、どこで?」
 男は安堵の表情を浮かべた。
「渋谷のハチ公口にいたんですよ。何だか政治運動をしてたんですけど。何はともあれ、夜にこんな小さな子供が繁華街を一人でいるからちょっと心配になって。それで声を掛けたら、この子、人に聞きながら電車で一人で渋谷まで来たって言うから……。それで家の場所を聞いたら、いつもこの辺りでお母さんと待ち合わせしてるって言うので、そこまで送ることにしたんです。でもこの子、電車で寝ちゃって。」
 男のしどろもどろな話し方から、彼が疲れ切っているのは容易に読み取れた。
「こんな遠くまでわざわざ……ありがとうございました。本当に助かりました。」
 よく見ると男は汗だくだった。黒のスーツジャケットは脱いで腕にかけ、白いワイシャツは水分を多分に含んでいるのがよくわかる。時刻は深夜の一時だった。
「あの、これ。」
 男は息子を背負ったまま、手に持っていた小包を差し出した。私はそれを受け取り、中を開けてみると、そこには私の好きなチョコレートのショートケーキが二つ入っていた。
「息子さんが、お母さん今日誕生日だって言うから……。きっと内緒で買ってくるつもりだったんだと思います。テレビで渋谷のケーキ屋を見たって言ってましたから。それで迷子になっちゃったんだと。」
 久しく照らされていなかった心の灯が暖かくなったのを感じた。同時に、つい先程、わが息子を見捨てようとした自分を振り返り、罪悪感を覚えた。
「もしかして、買っていただいたんですか?」
 何となくそんな気がした。
「ええと……お金足りてなかったんですよね。」
「本当にすいません。お代は払いますので。」
 私は慌てて言った。
「大丈夫ですよ。誕生日なんですから。それより息子さん、家まで送りますよ。」
 男は背中の息子を見ながら、微笑んでそう言いった。
「えっ、そんな大丈夫ですよ。悪いし。適当にタクシー拾いますから。」
 言ってから私は、この辺りはタクシーが通らないことを思い出した。
「じゃあ、タクシーが見つかるまで。」
 男は息子を背負ったまま、また歩き出した。私は家の方に男を案内することにした。
「すみません。どうやって帰るんですか?」
 私はふとそれが気になった。
「えっ、あぁ歩いて。」
「失礼ですがご自宅はどちらなんですか?」
「吉祥寺です。」
 男は何でもないような口調で言ったが、どう考えても今から交通機関なしに帰れる距離ではなかった。全く不信感がないわけではなかったが、息子を汗だくになりながらここまで送り、おまけにケーキの代金まで払ってくれた人をこのまま夜道に放り出すわけにはいかなかった。
「あの、もし良ければ今日だけ家に泊まっていきませんか? こんな夜分ですし。終電もないでしょう?」
「えっ、いや大丈夫ですよ。ご迷惑でしょうし。帰れます、全然。いざとなったらネットカフェでも行きます。」
「この辺りは何もないですよ。本当に近くなのでシャワーだけでも浴びていってください。だってたくさん汗をかいてる。ね?」
 半ば強引に了承させ、私は男を家に引き入れた。家に入ると、私は息子を寝室の布団に寝かし、それから風呂の掃除をして、男にシャワーに入るように言った。私はその後、男の着替え用に、前の夫の服をクローゼットから引っ張り出した。そうこうしているうちに、物音に気付いたのか、布団に寝かせていた息子は目を覚まし、目を擦りながらトボトボ歩いてきた。
「ママ、ケーキ。」
 息子は寝ぼけ気味に私に言った。
「健太、起きたの? ケーキ、ありがとね。」
 そこへ、男はシャワーを浴び終わって浴室から出てきた。
「あれ、健太君、もう眠くないの?」
「平気! ねえ兄ちゃんもケーキ食べよう?」
 息子は男の方に駆け寄っていった。どうやら息子はこの男に懐いているらしい。私の中に僅かにあった男への不信感は完全になくなった。
「あの、良かったらケーキ食べませんか? 一緒に。」
 私は息子に続いて男に言った。
「え、いいですよ。二つしかないし。」
 男は遠慮しながらそう言った。
「じゃあ、三人で分けましょう。」
「ママが一個だよ。」
 健太が言った。
「すみません。ありがとうございます。」
男はお礼を言った。私は食器棚から三人分の皿とフォーク、それにナイフを取り出した。男はナイフで一つのショートケーキを二個に切った。
「誕生日おめでとう、ママ。」
「健太、ありがとう。」
「おめでとうございます。」
 男も息子に続いて言った。こんな感覚はいつぶりだろうか? 自分と息子以外で食卓を囲むのは、夫が出て行って以来のことだった。息子はフォークを不器用に扱いながらケーキを食べていた。私はこの時間がずっと続けばいいのにと思った。
「ママ、もう元気だね。」
 息子は私の方を見てそう言った。思えばここ最近、私は心労のあまり、食事の時もテレビを見ている時も、ずっとむすっとした顔をしていた。今、ケーキを食べながら表情が少しだけ和らいでいたのを、息子は敏感に感じ取ったのだ。息子は今の今までずっと私の表情を気にかけていたのかもしれない。
「そうね。ケーキ、美味しいからね。」
 私は、何週間ぶりかの笑顔を息子に向けた。息子はそれを見て、嬉しさと恥ずかしさの混ざったような顔をしてうつむいた。息子は私の笑った顔がずっと見たかったのだとこの時わかった。私はそんな息子の様子を見ていて、この子はまだ純粋に自分の感情を表現できるのだなあと思う。人間なのだから、大人だって当然、喜怒哀楽の感情はある。むしろ、子供よりもずっと、周囲のことを忘れて泣き喚きたくなったり、辺り構わず怒り散らしたくなったりもする。大人は子供に比べて、そういう感情を隠すのが上手くなっただけなのだ。私は、今のこの、なんとなくむず痒い感情が自分の中で収まりが悪いように感じて、話を男に向けることにした。
「会社員の方ですか?」
 私は男の方を向いて尋ねた。彼がスーツ姿だったためだ。
「いえ、学生です。インターン中なんです。老けて見えます?」
 男はニヤッと笑いながらそう言った。私は慌てて弁明した。
「いや、落ち着いてるから。それで、どんなお仕事に就かれるんですか?」
「まだはっきりとはわかりません。でも自分は、お金を稼ぐことよりも、何か困っている人の役に立つような仕事がしたいんです。それが昔からの夢なんです。」
 男は目をキラキラさせながらそう言った。綺麗な顔だな、と思う。私は、自分の仕事のことなど、絶対にこの純潔そうな男には言えないなと思った。
「そうなんですか。頑張ってくださいね。」
「ありがとうございます。」
 男はニコッと笑った。この笑顔とよく似たものを私は数時間前に見た気がする。この顔は私にはとても眩しく思える。私は意識的に、先ほどまで見つめてしまっていた視線を男の顔から外した。

 ケーキを食べ終わると、私は空き部屋になっていた部屋に布団を敷き、男をそこへ案内した。息子は先ほど歯磨きを済ませ寝室の布団に連れて行ったばかりなのに、私が戻るともう眠っていた。私はその寝顔を見ながら息子の入る布団に入った。
「良かったなぁ……健太がいてくれて。ごめんね。健太。」
 私はすやすや眠る息子のかわいい顔を見ながら独り言を言った。私もいつしか眠りに落ちていた。

 ふと目を覚ますと、ダイニング部屋から少し明かりが漏れていた。私が戸を少し開けると、電気もつけずに携帯のライトを控えめに照らして男はメモ書きを書いていた。男は扉の隙間から覗いている私に気づいた。
「あぁ、起こしちゃいましたか? すみません。もう始発も動いているでしょうし、そろそろお暇しようと思って。」
 薄闇に照らされた掛け時計の時刻は午前五時だった。
「もうちょっと休んでてもいいんですよ?」
 男はもうほとんど身支度を終えているようだった。靴を履いて荷物を持てば、もう今すぐにでも出られるという格好だ。
「いえ、今日もインターンがあるので。じゃあ、失礼します。色々ありがとうございました。」
「あの、道、わかりますか?」
 玄関に向かおうとしている男を私は呼び止めた。
「大丈夫……だと思います。」
 そう言いながらも、男は若干不安気だった。
「ちょっとそこまで送りますよ。」
 私は男と、駅まで一本道になる場所まで歩いた。何かを言い出さなければこのまま彼と会えることはないだろう。だが、私の抱えているあらゆるしがらみが、喉元で言葉を押さえつけるのだった。やがて、男は言った。
「ここまで来たら大丈夫です。ありがとうございました。」
「こちらこそ、本当にいろいろご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。」
「はい。」
男は会釈をして駅の方へ歩いて行った。しばらくの間、歩いてゆく男の背中を見ながら、今なら間に合う、などと思いつつも、結局、私の足が動くことはなかった。

第三部 変革

第一章 瓦解

二〇二四年一二月二二日
「M9.1 国内観測史上最大」
 二十一日午後十一時二十五分ごろ、駿河湾を震源とする大地震があり、静岡県から宮崎県の沿岸各地で震度7を観測した。北海道から九州にかけての広い範囲で震度6強~1の揺れと、津波に見舞われ、死者・行方不明者は、現在わかっているところでは、中部、四国地方を中心に二千人を超えている。地震の規模を示すマグニチュード(M)は9・1で、二〇一一年三月十一日発生の東日本大震災以降、国内で最大となった。

二〇二五年三月十二日
「増大する復興費 圧迫する国民の生活」
 社会保障費が逼迫している。昨年十二月二一日に発生した大震災は国内各所に甚大な被害をもたらした。地震によって破壊されたインフラの整備や沿岸各地の津波による瓦礫撤去等で、かかる復興予算は四五兆円にも登ると見積もられている。二〇一一年三月十一日の東日本大震災以降、国内の企業は大災害にも対応しうるような事業継続計画を立てることが求められてきたが、それでも先の震災は多くの国内事業者に深刻なダメージを与えた。これにより、企業は人件費を大幅にカットし、多くの非正規雇用者が契約を打ち切られていっている現状がある。一方、社会保障は逼迫している。先述の復興費はもちろんのこと、団塊の世代が後期高齢者となり始め、医療、介護、年金に対する労働者世代の負担額が増大しているのである。増加する社会保障費と減少していく賃金、国民の生活は、今まさに削られている真っ只中にある。

二〇二五年五月二六日
「暴走する若者達」
立て続けに、若者の暴走が起こっている。今月一七日に、総武線の最後尾車両で刃物を持った二六歳の男が暴れ回り、駅員が取り押さえるまでに逃げ場のなかった計二名が重傷、五名が軽傷を負うという悲惨な事件が発生した。同様の事件は、ここ数年で激増している。例えば、三ヶ月前の二月十日には、サッカーの競技場において人が密集した中、一人の観客が刃物を振り回して、三名の重傷者が出たという事件があった。また、昨年に起こった、青山大学の講義室において、同大学の女子学生が授業中に刺殺された事件は当時話題になり、我々の記憶に新しいことである。こうした若者の無謀的犯行は、近年、件数を増している事件形態であり、これが震災以降抱える現代の社会不安と因果関係があることは否定できない。いや、時代を遡れば、バブル崩壊後より我が国は少しずつ蝕まれてきたのである。多くの日本人はそれに気づいていながらもその事実から目を背けてきた。賃金は下がり、就職氷河期が訪れた。「失われた十年」を経て、国民は日本という国に対する希望よりも、むしろ不安を抱えて生きるようになった。そして、私たち日本人は保守化し、上昇志向を失った。その雰囲気は子供世代にも受け継がれた。彼らが生まれた時から国は借金を抱えており、国の将来について後ろ向きな報道が多くされてきた。そのため、若者世代は夢を持つことよりも将来の安定を求めるようになった。しかし、それが彼らから「生きがい」といったものを奪ってきた。事実、文部科学省の調査において、先の未来に希望が見えないと答えた中高生の数は全体の六割強にも及んだ。それもそのはずで、子育て支援に乏しい日本では子供を産むことはリスクと捉えられ、今後ますます少子高齢化は進み、労働人口は減少していくことが見込まれる。しかし、それに反して年金受給者は激増するため、その負担は働く世代に重くのしかかる。それにより、手取り賃金は下がる一方である。企業も金がなく、安い賃金で雇える労働力を欲する。すなわち、外国人労働者や派遣労働者を雇い、必要でなくなったら切り捨てる。一方で、正社員はというと、働き方改革が進んだとは言え、未だブラック企業と言われる会社は蔓延している。若者達は、日々仕事に追われ、将来への不安から、結婚し子供を作ることもできず、何のために生きているのかわからず自暴自棄になって、中には先に挙げたような無謀的犯罪を起こすものが出てくる。恐らく、このような事件は今後さらに増加していくだろう(もちろんそうあってほしくないと筆者は切に願っているが)。追い詰められた若者達の救済が今求められている。
 
第二章 演説

愛宕(あたご)団地から少し離れた場所に公に開かれた集会場がある。周辺は整備されずに生い茂った草木で覆われていて、日中でも人気はほとんどない。その集会場から、二十代半ばほどの青年のはっきりとした声が聞こえてくる。
「もはや、俺達若者に未来はない。あの震災以降、国は社会保障の負担額を増やし続けている。震災の影響で追い詰められた企業は、人件費を削減し、可能性のある若者よりも、安い賃金で働かせられる外国人労働者や即戦力となる人間だけを必要としている。今まで、そういった専門教育を受けてきていない若者達は、この国難の状況に伴い政府からも企業からも見放されている。その結果を見ろ。今や若年者の七割は貧困層かつ非正規雇用者だ。それでもなお、政治家は自分達の立場を守るため、人口のボリューム層である高齢者を取り込む政策を推し進めている。もはや、国なんて信頼すべきではない。俺達若者は自分達の手で国の未来を掴み取るしかない。少子高齢化の波は止まらず、労働人口は減少し、俺達若者は、老人共を養うために自らの心身を削りながら労働し、しまいには見返りを得ることもなく死んでゆく。それどころか、自ら命を絶つものも大勢でる。日本の若者の自殺率は世界でも有数だ。もう引き返せないところまで来ている。こんな世の中を今から変えるためには、もはや常識の枠を飛び超えた発想で現状を変えていくしかない。この二年、CRYを作ってから、俺はきたる革命の時のためにずっと準備してきた。始めは皆、俺が何を訴えてもまるで相手にしていなかった。しかし、あの震災以降、国民の生活は本格的に苦しくなり、今、時代は俺達を求めている。今こそ、俺達がこの日本を救うべきなんだ。」
 皆に演説した男の名は東條聡だった。現在、東大大学院に在籍し休学中の二十四歳の男である。今日の集会には、ざっと三十人ほどの人間が集まった。だが、この集会はミーティングアプリでリモート中継されており、ネットでの参加者を含めるとその数は実に三百人にも及ぶ。その多くは大学生やフリーターといった若者で構成されているが、中には、三十半ばのサラリーマン、それに専業主婦までいる。一見、統一性のある集団とは見えないが、彼らには、今一人演説を行っている東條聡を崇拝しているという共通項がある。この二年半、東條は地道に仲間集めと資金集めを行い、組織は着々と成長してきた。会合に参加するメンバーは増え、東條はそのカリスマ性で彼らの信頼を得た。会員は皆、東條のことを、震災による社会不安や生活苦から救う日本の救世主とみなしていた。
「この数年、若者の生活苦は日に日に増し、追い詰められた若者が暴走するという事件も度々起こっている。これが、俺達が生きていく日本の姿か? まさに今、誰かが立ち上がらなければならない。」
「そうだ! クーデターしかない! こんな腐った世の中を変えるためには政府を打倒するしかない! 化学兵器でも作って国会議事堂前にばら撒くか。それとも、核を作るか。俺が先陣を切って官邸に自爆テロを起こしてもいい。」
 いつものように威勢よく息巻いたのは小岩という二十二歳の男だった。東條の演説が終われば、小岩が勢いよく同調するのは毎度決まった流れだった。もっとも、彼がどれだけ過激な言葉を並べようが、聴衆には小岩の言葉は、外で鳴いているセミと同じような雑音にしか感じられていなかった。
「雄二、軍事訓練も受けていないただの集団が国を相手に武力闘争を仕掛けたところで、すぐに弾圧されて終わりだよ。それに、核や化学兵器の作製もすぐに足がついて取り締まりをうけるだけだろうね。いずれも非現実的だよ。」
 東條が小岩を諫めた。小岩は少ししゅんとした。この集会において小岩を抑えられるのは東條ただ一人だった。
「ならどうするんですか?」
 他の参加者が少し抑え気味の声で言った。
「それは、今準備していることがある。詳しくはまだ言えないが、これが進めば俺達の目的に一気に近づく。あなたたちにやって欲しいのは、引き続き、ネットを使っての広報活動だ。この会合に参加しているのは大学生が多い。君達は、社会人の会員達と比べたら、比較的自由に動ける立場にある。手の空いた時間は是非、こちらの活動を進めて欲しい。忙しいところ申し訳ないが……。」
 東條は、申し訳なさそうにそう言った。すると、眼鏡をかけた小太りの大学生が喋り出した。
「俺達は他の思考停止している大学生とは違う。あいつらは、政府の言っていることが正しいとして、まるで自分の頭で考えようとしない。まさしく、戦争から八十年が経ち平和ボケした日本人の典型だ。あいつらは、飲み会だの、合コンだの、そういったことにうつつを抜かし、現状の問題から目を逸らし続ける。そして、いよいよ自らの身に問題が降り注いだ時、初めて事の重大性に気付いて騒ぎ始めるんだ。」
 他の女性会員もこれに同調した。
「そうです! 今、最も重要なことは、大学に行ってなんの役にも立たない講義を聞くことよりも、この組織の活動を広めていくことだと思うんです。私達の未来はもう誰も救ってはくれない。なら、自分達で未来を幸せに生きる権利を勝ち取るしかない。私はCRYに入って、東條さんの話を聞いていて、この組織がまさにそういう考えを持つ人達の最前線にいるということを確信しました。私は、東條さんと共に新しい日本を作っていきたいです!」
 集会の参加者達はしきりに頷き、彼女の言葉に賛同の意を表した。この集会における東條という存在の絶対性は火を見るよりも明らかだった。
 
第三章 利用

 会合は終わり、会員はそのまま出口に向かう者、仲間同士で今日の集会の内容について議論を交わすもの、東條に直接意見を申し出に行く者に分かれた。サラリーマンの松山誠心(まつやま せいしん)は、この集会の常連参加者だった。松山は立川市の中堅建設会社に勤める営業マンだ。彼がこの集会に参加し始めた理由は、ここにいる多くの人間のように今の日本社会に疑問を持っていたからではなかった。彼が初めてこの集会に参加したのは一年半前にもなる。きっかけは、お得意様の会社の部長からよからぬ噂を耳にしたことだった。なんでも、大学生の娘が最近、CRYという妙な集会の話をしきりにするとのことである。その部長は胡散臭いと思い、妙な活動に参加するのはやめるように言ったところ、その日から娘は口をきかなくなったとのことである。自分で行ってその集会を確かめたいが、娘に見つかるとさらなる反発を受けてしまう可能性があるとのことで、偶然その話をした松山に、よければ集会の詳細を確かめてほしいと依頼してきた。人のいい松山はこの申し出を断ることができなかった。松山もこの部長と同じく、初めて集会の噂を耳にした時は胡散臭いなと思った。若い内は何者かになりたがる。世の中の全ての大人を敵と見做し、自分達はそれに立ち向かう正義の集団と位置づければ、それは大変気持ちの良いものである。そういった反逆的な雰囲気は、松山が若い頃にも確かに感じたことがあったので(もっとも、松山自身はそういった集まりとは無縁であったが)、彼は前もってそういう属性の集会なんだろうなというイメージをしていた。しかし、その日、初めて集会に参加してみて、彼は二十そこそこの東條という青年に一種のカリスマ性を覚えた。彼とて、もう二十年以上も社会人をやってきており、世の中の大概の種類の人間は見てきていた。故に、一見、魅力的に見える人間も、嘘や偽善といった何かしらの仮面を被り生きていることを彼は経験から既に知っていた。そのため、ここ数年は何かの秀でた人に出会っても、感嘆を覚えることなどなく、その人物は自分の中にデータベース化された何かしらのタイプの人間に分類されるだけだった。だが、この東條という男はどうだ。雄弁な語り口、全てを信頼できるようなその雰囲気は確かに演技の上手いしたたかな政治家に似通った部分はあるのだが、東條をもってすれば、それは本物の「正義」に思えるのだった。それが、精悍な態度に不釣り合いな若さから来るものなのか、それとも、何か松山の知らない特性を持つからなのかはわからなかったが、長い社会人生活で多くの人間に出会ってきた松山も全く感じたことのない印象を東條は放っていた。何はともあれ、この集会は松山にとって、若者の本音を聞くことのできる良い環境であるように感じ、土日に会合があれば出席するようになっていた。そして、気付いたらCRYへ正式に入会していた。
松山が集会所を出て、少し歩いた先にある喫煙所で一服していると、ふと、小太りで眼鏡をかけた中年の男が彼に話しかけてきた。
「すいません、火もらえますか?」
「あぁ、いいですよ。」
 松山はポケットからライターを取り出し、男に渡した。
「どうもどうも。」
男は右手で失礼、というような仕草をしながらペコペコ頭を下げた。
「集会に参加していた方ですよね? いやぁ、若者のエネルギーは凄いですね。最近の若者はけしからん、なんてよく言いますけども、僕らが見習うべきことはたくさんありますよね。」
 男は松山に興奮気味に話しかけた。男も先ほどの集会に参加していたようだったが、松山はそこまで周囲を見ていなかったためか、見覚えがなかった。
「確かにそうですよね。何度か来られてるんですか? この集会には。」
「これが初めてです。あなたは?」
「自分はもう何十回目というところです。知り合いから聞いたのがきっかけで、行くうちに興味が沸いてしまいまして。」
「そうなんですか。ベテランですね。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「松山です。営業の仕事をしています。」
「松山さん、私は佐々木と言います。私もメーカーの営業をしているんですよ。どうぞ、よろしくお願いします。」
「ええ、こちらこそ。」
 松山は佐々木の一服が終わるのを待っていた。少しの沈黙が流れた。
「松山さん、この後って空いてますか? よかったら一杯どうですか? 私は参加し出したのが最近でして、まだ誰も知り合いがいないんです。良ければ、一緒に集会のことについて語りたいなと思って。」
 松山はこの後の予定は何もなかった。松山は佐々木に対して悪い印象は持たなかったので、これに了承した。
「ええ、構いませんよ。」
 その後、松山は佐々木とともに、最寄り駅近くの居酒屋に立ち寄った。話してみると松山は、佐々木が自分と同じく二児の父親だということがわかった。佐々木は冴えない風貌に見えたが、どこか教養と品を感じさせる男だった。二人は集会のこと、それに仕事や家族への不満などで意気投合し、二軒目はバー、三軒目にカラオケのあるスナックに行き、その日は大いに盛り上がった。
その後も、松山と佐々木は連絡を取り合い、飲みに出かけるようになった。松山にとっても、若い時に比べて最近はそういった友達がめっきりいなくなっていたため、佐々木の存在はありがたかった。松山は佐々木に、普段溜め込んでいる実に多くのことを打ち明けた。家族の中で誰にも相手にされず、金を運んでくる男としか見られていないこと、会社の中でも大人しく真面目な松山に仕事がのしかかり、係長という役職柄、若い社員と気軽にコミュニケーションを取ることができず、彼らが何を考えているかわからないことなど、悩みの種は実に多種多様だった。佐々木はそういった話の全てに、実体験を交え共感してくれたので松山にとってはとても心地がよかった。この日も、松山は仕事の愚痴でつい酒が進んでしまい、佐々木への信頼もあってか、企業の内部機密と言えるようなことまで話してしまっていた。
「今度建設予定の大型アミューズメント施設をうちが手がけることになっているんですが、周辺に厄介なのがいましてね。まあ、端的に申し上げると建設予定の土地が、ヤクザがみかじめ料 を徴収している地域なんですが、うちの上のゼネコンの役員がそのヤクザと癒着があるらしく、下請けのうちにもヤクザへの上納金を上乗せした額を請求しているみたいなんです。うちの会社としてもそれはわかっていますが、うちのような下請け会社は、ゼネコンの言うことは結局従わなければならないのが現状です。ただ、こうも彼らの言いなりにばかりなっていてはねえ。うちもいずれは、いいように利用された挙句潰されかねないですよ。」
 松山はため息をついた。佐々木は腕を組み少し考えていたが、パッと顔を上げて語り出した。
「松さん、その問題、何とか出来るかもしれません。」
「本当ですか? いや、しかし全く無関係のあなたが一体どうやって?」
 佐々木はそれまで頬杖をついてビールを飲んでいたが、きちんと姿勢を正し、松山に向き直った。
「松山さん、私は本当は警察官なんです。すみません。気を張られるのが嫌で、メーカーの営業なんて嘘をついていました。その話、今は松山さんから聞いただけですが、きちんとした裏付けがあれば、摘発することができます。」

 佐々木にゼネコン役員の汚職の証拠を提出した数日後、松山はゼネコン役員が恐喝罪、組長も組織犯罪処罰法違反罪に問われたことをニュースで伝え聞いた。松山は、間違いなく佐々木の仕業であると思った。彼は、最近頭を悩ませていた状況がこうも簡単に解決されたことに驚きを隠せなかった。
「本当に助かりました。何とお礼を言ったらよいのか。本当にありがとうございます。」
「とんでもない。大したことはしてないですよ。少しでも松さんのお役に立てたことが嬉しいです。」
 佐々木は謙虚な微笑みで返した。
「いつもいつも私ばかりお世話になって。飲みに行っても私の愚痴ばかり聞いてもらっているような気がしますし。何か哲也さんの力になれることがあれば遠慮なく言ってください。」
「困っていることですか……」
「はい、何でも。」
 佐々木は言うべきか悩んでいるような顔をした。
「哲也さん、自分は他言はしないと約束しますよ。営業の仕事も信頼関係が大事でね。」
 松山は嬉々として答えた。佐々木は微笑み返すことなく、真面目な表情のまま言った。
「実は……私は公安警察なんです。」
「えっ。」
 松山の顔が固まった。
「松さんに近づいたのは全て計画です。最初から松さんがゼネコンの問題で悩んでいたことも知っていました。それだけじゃない。松さんの家庭環境、職場での状況、その他全て調べた上で、あの集会所近くの喫煙所で松さんに声を掛けました。私達が友人になったのは偶然ではない。」
「何のために……」
 松山が問うた。佐々木は毅然とした態度で続けた。
「私はこの国の国民を、危険をもたらす可能性のあるあらゆる反乱分子から守るために行動しています。私はあの集会のことを実に四年前の今の前身組織の時から把握していました。最初の集まりは、政治に関して勉強する小さなセミナーでした。あの段階では、全く問題のある集まりではありませんでした。リーダーの彼も全く危険な存在ではなかった。ただ、その後もマークは続けていました。そこに参加していた小岩という高校生ですが、私は東條というよりも、彼、小岩の動きをずっとマークしていたんです。なぜなら、彼は中学三年の時に、一度威力業務妨害の疑いで逮捕されているんです。原因は、原発を爆破するという内容を電力会社や役所のホームページに書き込んだことでした。彼曰く、あのような爆破予告を出してそれが話題になれば、皆、原発の恐ろしさを再認識して再稼働させたくないと思うだろうと考えたからだそうです。動機としては、正義感が行き過ぎた、まだ分別のつかない中学生のものとして理解できなくもないですが、問題は彼が本当に自部屋で爆弾を作ろうとしていたことなんです。今の時代、ネットを検索していけば、曲がりなりにもそういった情報は手に入ります。彼は爆弾の作製に必要な薬品を学校の化学室から盗むなどして集めていたんです。もちろん、それでも中学生のやることです。集めた薬品で爆弾が完成するとは到底言えませんでしたがね。彼の家宅捜索の際にそれが判明して、それらは全て没収されました。結局、彼は保護観察処分となりました。しかし、私はこの時から、小岩を危険思想の人物としてマークすることを上から命じられたんです。小岩は大学入学後、政治活動を始めました。彼は仲間を募り小さなデモを行っていました。東條も活動に参加はしていたようですが、全体的な指揮は小岩がとっていました。この時も、熱心な学生の政治ごっこという感じで、正直全く脅威ではなかったです。しかし、その後、東條が統率を取り出して以降、彼らは明らかに変わりました。彼らは悪どい方法で資金を調達し、徐々にその危険な思想をあらわにし始めました。彼らが若者のために動く理念は、今の社会情勢を鑑みると確かに納得する部分もあります。しかし、やり方が問題なのです。私は彼らの調査をして、彼らが極秘に進める計画の一部を知っています。東條の見据える『若者のための未来』とは、高齢者層から富の再分配を行うなんて生ぬるいものではありません。彼と小岩は、若者へ所得分配をするために高齢者層を抹殺しようとしているのです。今や我々が管理している彼らの危険レベルは、国内のどの有力なカルト教団よりも高いです。私は危険視していました。いつか彼らが暴走し、国民の生活を危険に晒しかねないと。松さん、私はこの立場にあるため、全てをあなたに話すことはできませんし、私の発する言葉は常に思惑をはらんでいるかのように思えるかもしれない。そして、それは事実です。しかし、私を信じて私に協力してくれませんか? 組織の動きを止めるには、集会の内部にいて情報を流してくれる協力者が必要なのです。」
 松山は数秒考える仕草をしていたが、答えは既に決まっていた。
「もちろん、協力します。あなたがどんな立場であろうと、孤独な私を救ってくれた恩人であることに変わりはない。あなたの目的のために私の立場が有用だというならば、どこまでも利用してください。私は少しでもあなたの力になれればいい。」
 松山は覚悟を持った表情で言った。
「松さん、ありがとうございます。」
 佐々木は何度も頭を下げた。 

「最近、土日は出かけてるのね。」
 普段自分に無関心な妻が話しかけてくるのは珍しいなと松山は思った。
「ああ、ゴルフの練習でね。接待が近いんだ。」
「そう。ところでね、お父さん。魁斗のことだけど。中学からは私立に行かせた方が良いと思うのよ。」
松山の妻、玲子は夫の回答には特に気を留めることもなく、すぐに自分の本題を切り出した。どうやらさっきの質問は自分の主張をする前のジャブ程度の意味合いだったらしい。言われなくても松山は、玲子が息子の私立中学受験を前々から検討しているのは知っていた。何せ、近所の奥さんからもその話をされたくらいだ。当然、彼女もそのことは知っている。とすれば、珍しく話しかけてきたその意図は、息子の中学受験の決意表明ではなく別にある、と松山は考えた。
「魁斗はもっといい塾に行かせるべきだと思うのよ。今の塾は先生の質が悪いってみんな噂してるわ。公立の学校でもきちんと勉強はできるし、学校の授業をきちんと頑張っておけばいいっていうスタンスなのよ。要は受験に対する意識がお粗末で指導も甘いらしいの。友達の西川くんの塾は先生が有能で、みっちり受験のための指導をしてくれるらしいのよ。お金はかかるけど、でも私達が切り詰めれば何とかなると思うの。」
 彼女は一気に自分の考えを述べた。要は息子の塾の費用がかさむから俺の小遣いを減らすけど問題ないわよね、ということだなと松山は思った。家計の管理は彼女に一任されていたため、実際にどういったお金の動きがあるかは松山は知らなかった。しかし、彼は息子の成績が私立中学校受験のためには奮っていないことは知っていたが、それは塾のせいというよりも息子自身のやる気が問題ではないかと思っていた。松山は、妻が買い物に行った途端、勉強机から離れゲームを始める息子の姿をよく知っていたし、それについて特に息子に怒ることもなかった。なぜなら、松山が何か子供に注意をしようものなら、それがだいぶ捻じ曲げられた情報で玲子に伝わり、余計なことはするなと激怒することになるからである。松山はそれを学習して、子供のことについてはもう何年も口を出す事はなかった。いつしか、松山は二人の子供について関心がなくなっていき、彼らと会話をすることもほとんどなくなっていた。
「あぁ、それなら仕方ないな。」
「ありがとう。いつも頑張ってくれてありがとうね。」
 彼女は機嫌良くそう言った。彼女が松山にお礼を言うのはこういう時だけだった。
 夕飯どきになって、松山の高校生の娘である由梨恵が二階の自分の部屋から降りてきた。彼女は食卓の料理に驚いて声を上げた。
「今日、晩御飯すごくない? どうしたの? これ。」
「お父さんが毎日お仕事頑張ってくれてるからこんなご飯が食べれられるのよ。ほら、みんな、お父さんを応援しないと。フレーフレーおとーさん! フレーフレーおとーさん! わー!」
「ママ、恥ずかしい。」
 由梨恵は笑いながらそう言った。松山の息子の魁斗は何も言わずテレビに目線がありつつも微笑していた。彼は先程、玲子から塾の変更についての話を聞いた。松山は、この三人と自分の間には、見えはしないが厚いガラスの壁があるように感じた。
「あ、CRY。」
 由梨恵が言った。食卓のテレビにCRYが路上で政治運動を行う映像が映し出されていた。
「最近よく見るわね。この人達。」
 妻が娘に言った。
「イケてない? だって岡田健斗も賛成してるんだよ。」
 由梨恵は岡田健斗という俳優の大ファンだった。松山は、よく玲子と由梨恵がその俳優について話しているのを聞いていた。
「そう。でも、なんだか怖いわ。あの集団。」
「若者のための活動だよ。汚いおっさんに偉そうにされるよりよっぽどいいわ。」
由梨恵は松山の方ををチラッと見ながらそう言った。娘はその集会の活動を阻止するために動こうとしている人間が、今目の前にいるとは夢にも思わないだろうと松山は思った。

第四章 過激な集団

東條の結成した組織は、インターネットやSNSを多分に利用した、現代版の革命組織だった。かつて多くのテロ組織や革命集団が行った武装蜂起は、まだ政情が不安定な発展途上国ならともかく、これだけ国家体制が固められた現代の日本においては成功するはずもなかった。事件を起こせば、恐らくセンセーショナルな話題をかっさらうことが出来るだろうが、それでもその効果は一時的なものである。では、大規模なデモはどうか。これも効果があるとは到底言うことが出来ない。いかに国会前で、大勢で「反対」と叫んでも、国政が変わることがないことは過去の事例から見て明らかだった。そこで、東條が考え出したのが、インターネットの活用だった。集会のウェブサイト作成を始め、ツイッター、インスタグラム、ユーチューブ、ティックトックなど、使えるものはなんでも使い、まずCRYの認知度を上げることを試みた。注力したのはデザイン性の追求であった。目の肥えた現代人にとって、パッとわかるかっこよさやおしゃれさというのはフォロワーを増やすのに最も重要なことである。そこには特に力を入れた。様々なインフルエンサー を真似したり、時にはそういう人々にダイレクトメッセージ を送ってアドバイスを請うた。CRYのプロモーションビデオ等を作成する際は、有名ユーチューバーやテレビの演出も研究し、魅力的に見える動画づくりに力を入れた。そして、各種SNSの更新も毎日欠かさなかった。キーワードは「いかに若者ウケするか」だった。東條は組織結成当初、会員にそういったことを徹底的に研究させた。会員には元々、SNSや編集、情報収集といったことに長けている者もいればそうでない者もいた。しかし、前者は自分の才能が発揮できる機会が得られたことを喜んでいたし、後者も新鮮味を感じて積極的に活動に参加していった。始めは少なかったフォロワー数、視聴回数も、社会の不安定化と共に徐々にではあるが増えていき、それぞれの媒体で十万人を超えるフォロワーを得たのである。しかし、ある決定的な出来事が起きるまでは、CRYの知名度は、ネットをよく利用する人で知っている人は知っているという程度だったのもまた事実だ。その、ある出来事とは人気俳優、岡田健斗のフォローだった。岡田はそのルックスや演技力で現代の芸能界で最も売れている俳優の一人である。他方で、岡田は二十七歳という年齢でありながら、歯に衣着せぬ物言いが度々話題になる男でもあった。昨年、自身が主演した戦争映画の記者会見で、歴史認識問題を巡り、隣国に苦言を呈したのは記憶に新しい。この発言は一時、国際問題にまで発展し、日本の外務大臣が謝罪するまでの大騒動となった。岡田の発言に対しては、日本国内でポリコレ 的意見が多かったのは確かであったが、一方で、多くの日本人が内心では岡田に賛同していたのもまた事実である。こうした、建前ではなく、自分達の本心や現実と向き合おうというのが岡田という俳優のスタンスであり、その姿勢は一種のカリスマ性を人々に感じさせた。そんな彼が、CRYをフォローし、ツイッター上で支持を表明した。それがネットニュースとなり、組織の知名度は瞬く間に跳ね上がり、それから僅か二週間でCRYのプロモーション動画は一千万回も再生されるほどとなった。結果として、東條のメディア戦略は大成功を収めたのである。

「俺達の知名度もだいぶ上がった。これから第二段階に移行する。」
「第二段階?」
 この日、会合に参加したメンバーは目を見合わせた。東條は続けた。
「フォロワーに働いてもらうんだ。働いた人間には報酬が入るシステムを作る。現状、俺達のユーチューブやSNSを見ている人間は所詮ただの視聴者だ。俺達の本当の同士ではない。彼らが自分の時間や労力を無駄にしてまで俺達に協力することはほぼないだろう。だからこそ、CRYの活動を利用することで得られるわかりやすいメリットを提供することが必要なんだ。そのために、新しく会員制のオンラインサロンを立ち上げる。そこにミッションを割り振る。ミッションに成功した人間には内容を報告してもらい、その達成度に応じて成功報酬を与える。目的は老人よりの政策を行う政治家の撲滅だ。」
「撲滅って。一体どうするんです? まさか殺人を命じるんですか?」
 会員の一人が声を上げた。
「いや、徹底的な監視社会を作る。なにせ、今はみんなスマホという武器を揃えてくれているからな。」
 東條と一部のメンバーは、既に二年前のCRY結成当初からこのサロンの開設を計画してその作成にあたっていた。東條はまず、CRYの現会員、約五百人にサロンのログインIDを割り振った。そして、各種SNSを通じて「稼げるバイト」を銘打って、会員でない者達に対してもオンラインサロンの周知を行った。その日、組織の現会員を含め、サロンには七百人を超える会員ができた。早速東條は、CRYの活動に批判的なコメンテーター達十数名を監視し、スキャルダルを掴むというミッションを出した。すると、早くも翌朝、サロンの運営にミッションを達成したという旨のメッセージが一件入った。添付されたファイルを見ると、そこには、対象のコメンテーターが不倫相手らしき相手とタクシーに乗り込む様子が撮影された動画が入っていた。東條はこの働きを十段階の七点であると位置づけ、目撃者に二十万円を振り込み、得た情報と出した報酬内容を、新たに開設したオンラインサロン用の各種SNSにて拡散した。人間、他人の醜聞というものは何よりの好物で、その情報は大いに人から人へ拡散され、同時にそれがCRYのオンラインサロンの仕業であるとの噂も広まっていった。そのコメンテーターは、その後、出演番組を取り下げ、瞬く間に失脚していった。そして、CRYのサロンには入会希望者が激増した。そこで、東條は入会金や月額の登録料の面で会員を十段階にもランク分けした。すなわち、より成功報酬が高く難度の高いミッションが見られるランクほど、会員料が多くかかるようにしたのである。例えば、ランク5の会員はレベル5のミッションしか見ることができず、その上のミッションにも下のミッションにも関わることができない。そして、このランクは、会員一人につき十個あるうちの三つまでしか登録できないこととされていた。これが重要なポイントであった。なぜなら、CRYの全ターゲットを知っているのは、サロンの運営員だけということになるからである。サロンの会員になるには、CRYの入会時同様、最初に厳しい身分証明が必要であった。それを通過すれば、入会希望者はCRY専用のVPN を利用できるという流れになっていた。組織はセキュリティ対策として、主にVPNとTor(トーア) を併用して情報の秘匿性を保っていた。
 特定の人間をターゲットにしたスキャンダルはそうそう頻繁に取れるものではもちろんなかったが、それでも、週に数件はミッション達成を知らせるメッセージが運営のもとに届いた。現代において、有名人はホームページやツイッターなどで、スケジュールや近況を報告していることが多く、そういったことはミッションに臨むサロン会員達に大きな手助けとなったのだ。著名人達は、今自分がターゲットになっているのかを知りたがったが、全てのターゲット情報を知っているのは、先述の通り運営のそれもごく一部だけだったため、それは無理な事であった。また、サロンの会員も、自分が達成できるかもしれないミッションの情報をあえて外に出して著名人を警戒させるようなことはしなかったため、情報が表に出ることはほぼなかった。やがて、著名人達はいつ自分が標的にされるか、もしくはもうされているのではないかと恐れ始めた。すると、CRYに対する忖度が起き始めた。ある政治家は、これまでそんなそぶりなど全く見せなかったのに、突然若者に配慮した政策を言葉にするようになった。ニュース番組に出演するコメンテーター達も同じだった。なにせ、顔と名前を晒して公共の電波で自分の意見を述べるのだ。あるコメンテーターは、CRYを近年稀に見る向上心と意欲の塊であると褒めたたえ、まさに現代日本に現れた明治維新であるとまで称した。以前はワイドショーの番組でも、CRYのポピュリズム 性を批判する意見の多かったことだが、ここ最近はそういった声は滅法減ってむしろ賞賛するコメントが多く見られた。こうして組織の作ったサロンは世の中の大人達にプレッシャーを与え続けた。世論を味方につける、これがサロン開設における東條の狙いだった。
 東條は自身の信頼のおける数十名だけを集めた極秘の会合において、世間のCRYに対する掌返しを痛烈に批判した。
「見ろ、これが現実だ。本当に国民のことを考えて仕事をする奴がいたならば、こんな自らの立場を危うくする障害があったとしても主張を変えることはなかっただろう。これは結局、政治家やコメンテーターは自らの保身のみを考えていることの証拠だ。奴らはこれまで、日本において多数派である老人の機嫌をとることに終始してきた。だが、こうして若者の力が強くなれば掌を返し、そこに群がろうとする。厚顔無恥とはこのことだ。力のある者に擦り寄ろうとする姿勢は本当に見苦しいな。だが、これだけでは終わらない。デモをやるぞ。今度は本気のデモだ。」
「今度はどこでやるんですか?」
「国会議事堂前だ。」
 これまでもこの組織は、新宿や渋谷などの街で小規模なデモをしたことは何度もあった。しかし、東條は今度のデモは政府と戦う本気のデモであると位置付けた。
「これを見てくれ。」
 東條は段ボールで埋め尽くされた部屋の写真を集まった皆に見せた。段ボールの中には、銃や弾、時限爆弾、手榴弾といった武器が入っていた。会員はそれを見て、皆驚きの顔を浮かべた。
「一体どうしたんですか? これ。」
「他国からの密輸ルートを作った。政治家の中にもそういうパイプを持っている奴はいる。そいつを掴んだスキャンダルで脅して働いてもらったんだ。俺達は無血革命を目指しているが、それでも同士がやられているのをただで見過ごすわけにはいかない。敵は武装した国家権力だ。ならば、俺達も自分の身を守れるだけの武器は備えておかないとな。だが、誰彼構わず渡すわけにはいかない。だから信頼のおけるこのメンバーだけにこのマンションの住所と部屋に入るパスワードを教える。もし、自分の身が危うくなりそうな時はこの部屋の存在を思い出してほしい。」
その後も、日を追うごとにCRYのサロンは勢いは増していった。サロンのターゲットはコメンテーターや政治家に限られず、次第に悪徳商売で成り上がった資産家や企業の不祥事など、身近に悪事を行っているものまでを対象としていった。彼らはいわゆる、社会悪までを制裁の対象としたのである。

そして時は流れ、十一月七日、東條は計画通り、国会議事堂前でデモを始めた。この日集まったCRYの会員と若者の群衆は国会議事堂を取り囲んだ。事前の呼びかけの甲斐あってか、その数はおよそ二十万人にも登った。群衆と対面する形で警察官達が出動した。群衆は、プラカードやマイクを掲げ、「若者のための政治」「未来ある国家運営」をしきりに訴えた。東條もマイクを持ちその群衆の中心にいた。その荒れた光景を、官房長官の乃木は国会議事堂内部から見ていた。乃木は御歳八十二歳の老練した政治家であり、政治世界の酸いも甘いもよく知っている人物だった。乃木はこの混乱を鎮めるため、組織のリーダーとされる東條との対談を求めた。乃木は以前から、この革命集団を率いる東條という男にいささか興味を抱いていたのである。乃木の申し出は、彼の側近を通じて密かに東條に伝えられ、東條もこれを承諾した。こうして、東條と乃木の一対一の会談の場が急遽設けられた。厳重なセキュリティチェックを済ませ、東條は案内に従い、一人国会内部の会議室へと向かった。その頃、乃木は一人、このデモについて思考に耽っていた。
(確かに、革命なんて企てるあの組織の気持ちもわからなくはない。彼らが主張するように、既に日本は「詰み」の段階に来ていることは間違いない。少子化の波は抑えられず、労働人口は減少し、革命的なイノベーションが起こる期待も薄い。中国などの国にとって食われるのも時間の問題である。若者の暮らしが、より一層厳しいものになっていくのは紛れもない事実だ。そんなこと政治家たちは皆わかっている。だが、だからといって、もうこの波を変えることなんて誰にもできない。そうなれば、政治家達はいくつかのパターンに分かれる。こんな状況でもなお、各種手当や労働改革などで少しでも国民の生活をより良いものにしようとする者。客観的に見れば、最もまともで「政治家」と名乗っても良い部類だ。これは全体の二割といったところか。だが、大抵の政治家が考えていることは、大声を上げて自らの利益も顧みず既得権者との闘争を繰り広げることではなく、自身の選挙区では権利団体の集まりへの参加に精を出し、自分は国政でこれだけの活躍をしているのだと惜しみなく披露し、次の選挙に備えることである。彼らが望むことは、現状の議員制度のまま、国会議員としての甘い汁を吸い続け、粛々と自らの資産を蓄えておくことである。正直、こんな連中に一国の権利の一部が握られ、その一挙手一投足で国の方針が決まるのだから、日本国民というのは本当に哀れに思う。
だが、お前たち若者は、我々過去の人間と比べ、本当に不幸なのか? 確かに、賃金は下がり、生活に困窮している若者は多い。しかし、今当たり前にある社会福祉など戦後の日本には無かった。いや、そもそもこれだけ高水準のものが当たり前に手に入る時代が歴史上あっただろうか? 蛇口を捻ればいつでも飲める水が出てくる。コンビニやスーパーでは、数百円出せばとりあえず食べられるものは手に入る。街中を歩いていて突然襲われるようなこともほとんどない。仕事だって、アルバイトをしていれば、贅沢と言わずともなんとか生活できるレベルには稼げる。明日の命さえ保証されなかった先人達の努力がそんな世の中を作ったんだ。幸福追求権は憲法上保障されている原則だ。だが、そういった基本的人権さえ、人類史を振り返れば、むしろ保持されていない方が当たり前なのだ。我々人間は、元を辿れば野生の動物達と何ら変わらない。明日生きていられるように、今日命懸けで獲物を捕らえ、毎日他の生物との生存競争に晒される。人間だって、その生存競争が知能競争になっているにすぎない。何もそれだけ原初に立ち返り、人類の獲得してきた基本的人権を否定しているわけでは全くない。ただ一つ、あの養豚場の豚のような群衆を見ていると、人間も偉く図々しくなったものだな、とつくづくそう思う。大体、あの群衆の中に、本当に今の世の中を変えたいと思って参加している人間がどれだけいるか。そもそも、どれだけの人間が現状の日本が抱える問題点を正しく説明できるだろうか。恐らく、大概の連中は誰か強いものの意見に便乗し、自分が正義の何者かになったつもりで動いている。人間は自分自身を肯定するために誰かを否定したがる生き物だ。
 この国において、若者の死因として自殺の割合が高いのはなぜか? 若者が貧困に追いやられているからか? それも一つの要因としてはあるだろう。だが、私は本当の理由は別にあるように思うのだ。何か? それは、他の死因で死ぬことがほとんどないからだ。公衆衛生、インフラが十分すぎるほどに整ったこの国で事故や感染症で若者が命を落とすことなどほとんどない。たとえ病気になっても、病院に行けば保険が適用され、誰もが治療を受けられる。それによって死ぬことは滅多にない。それほどまでに日本という国は、世界の大多数の国と比較し、異常なほど恵まれている。だからこそ、若者達は、自分の生活が他の若者と比べてどれだけ幸せかということに意識を向ける。彼らが追い詰められる本当の原因は、社会が閉塞しているからではない。彼らは自分の置かれた既に恵まれた環境を、周りの人間と比較し、順番をつけ、自身の惨めさに絶望し、悲観するのだ。)
 部屋をノックする音がした。乃木が呼応すると、東條は入室した。乃木は、身体つきのしっかりした精悍な印象を東條に感じた。乃木も東條の情報は、官僚から聞いて事前にある程度は知っていた。なんでも若いのにえらく頭がキレ、弁が立つとのことである。だが、実際のところは直接対面して、かつフラットな関係で話さなければわからないことがある。そこで、得体の知れない者には、相手を否定するではなく、かといって手放しに持ち上げるでもなく、まずは自分と相手の立ち位置が対等であるかのような雰囲気を作り出す。そうすることで、相手は自分の内に抱える本音を出しやすくなるのだ。それは、乃木が長い政治家人生の中で、官僚や政治家、記者とのやり取りを経て得た教訓である。乃木は東條に語りかけた。
「君があの組織のリーダーの東條くんだね?」 
「はい、東條聡といいます。こうして私達若者のために会談の場を設けていただいて感謝いたします。」
 東條はわざとらしさなど微塵も感じさせないような丁寧な振る舞いを見せた。彼の中には若者に特有の自我や驕りが見えなかった。なるほどな、と乃木は思った。たったこれだけのやり取りをしただけでも、乃木は東條が若者の救世主として崇められている所以が少しわかったような気がした。
「座りなさい。その方が落ち着いて話せる。君が望むことを教えてくれるかな? 報道などで伝え聞いてはいるが、対面して君の口から直接聞きたいんだ。」
 乃木の態度は媚びるでもなく、かといって高圧的に振る舞うでもない冷静なものだった。一方で、それは同時に、何を考えているかわからない恐ろしさも感じさせた。
「日本の政治が変わることです。あの震災以降、いや、それ以前から日本は徐々に国としての力を失ってきました。その皺寄せは今、若者世代に来ている。現状、日本全体が苦しいのは私とて分かっています。だが、そうした状況の中で、力のあるものは自らの既得権をより強固に守ろうとする。私の見方では、恐らく日本の権力者達は若者の将来を切り捨てることで束の間の安定を得ようとしているように思えるのです。私は日本の政治家たちにもっと先を見据えて動いてほしいのです。自分達の利権や保身といったことに捉われずに、本当に国民のことを考えて。」
東條の言っていることはもっともであると乃木は思った。乃木とて、この先の日本を見据えて、このままでは本当に未来はないことなど十分わかっていた。しかし、乃木にはまだ、この東條という男の本質を様々な角度から見極める必要があった。そこで、あえて乃木は東條を挑発してみることにした。
「本当に国民のことを考えて、か。その弾けんばかりのみずみずしさに当てられると、老衰した私の心まで若返りそうになるよ。だが、そんな無駄に歳を重ねた老人が人生を生きてきて得た教訓がある。物事を大きく動かすのは理想や大義ではない。人間の醜き欲望だよ。しかし、それが大きな力となるんだ。政治の本質は、政治家自身の高潔さや熱情の中にはない。それは、力のある人間の欲望をコントロールし、いかに汚い金を動かすか、ということの中にある。」
「世の中を動かすのは結局、金と権力ということが言いたいんですか?」
「その通りだ。それは人間にとって、他者を慮るよりも自分の私利私欲を満たし、その利権を保持することの方が大きなエネルギーが働くからだ。そうやって世の中は動いていく。君とて、何やら怪しげなサイトで、議員やコメンテーターの醜聞を集めていたそうじゃないか? あれはまさに私の言ったことそのものだろう。だが、私に言わせれば、あんなもの程度では世論は動かない。なぜなら、本当に力を持っている人間は、そもそも君ら一般人の目に触れないところで自分の手を汚さずに悪事を働くからだ。それに、あれは言わせてもらえば週刊誌のパパラッチが数を増しただけのようなものだ。今は話題性があるが、じきに皆、うまく出し抜く方法を考える。いずれにしても、君達がいくら訴えようとも日本の政治はこのまま変わらない。」
東條は乃木の言葉に苛立ちをあらわにした。
「本気で言っているんですか? なら、あなたは日本はこのまま変わらないままでいいと言うんですか? 権力を持った者に抗うことはできないから、現状維持のまま衰退を目の当たりにしていくしかないと?」
「そういうことではない。私達とて、現状できる限りの手は日々尽くしている。大きく変わることはなくとも、地道に一歩ずつな。だが、日本の政治が抱える闇はあまりにも根深い。それでもし、この国が君の言うように衰退の一途を辿っていくとしても、それは定められた運命なのだ。人の人生に波があるように、国にも繁栄すべき時と衰退すべき時がある。日本は恐らく、歴史的に見てそういう時機に来ているのだろう。」
 東條は唖然とした。
「国を動かす最前線にいる人間がこうだとは思わなかった。あんたは、もう既に変わることすらも諦めているのか? 政治が変わらないというならばこの俺が変えてやる! 現政府を変えるんじゃない。俺達が政権を乗っ取るまでだ。そして、俺達が若者や弱者のための政治が行われる国を作る!」
 東條は礼節を捨て熱く語った。しかし、乃木は冷笑した。
「若者のための政治、か。本当にそれが価値あることならばいいがね。そもそも、君達にはそれに値する価値はあるのか? なぜ人は動く? なぜ君は動く? なぜあの群衆はあの場に集まっている? 彼らが本当に君の崇高な理念を理解していると思うか? 違うだろう。あの群衆を見るといい。あの中の何人が君の同志だ? 彼らの大半は、捌け口を探し、浅ましい興味からあの場に集まってきただけだ。彼らはこの一連の行動の先に何を見ている? ただ、社会の不条理に不満をぶつけているだけかもしれない。それとも、ただのファッションか。大義なき革命に未来はないぞ。君達が本当に政府を打倒したならば、それこそ彼らがこれまで享受してきたサービスは無に帰すわけだ。まさか本当に君達だけで政治が行えると思っているのではないだろうな? 若者よ、冷静になれ。君達が活躍するのはまだ数十年先のことだ。私とて、この国を悪い方向に持っていこうなどとは思っていない。ただ、この政治世界の現実と人間の本質を君に説いているだけだ。それに、君達が政党を作り、国政に出ても、大多数の国民はやはり現状維持を望む。なぜだかわかるか? 皆、トラブルが嫌いなのだ。」
 本来、乃木は若い官僚や政治家の拙い考えの中にも迎合すべき点があると考える柔軟な人物であった。彼の言葉は、勢いのある若者の集団に対する嫉妬や自分達の利権を守ろうとするようなものではなく、ただ事実として述べたものだった。東條はガタッと音を立てて椅子から立ち上がった。
「未来は誰にも分からない。現状を維持しようとも、俺達が革命を成し遂げても、結果は誰にもわからない。だが、確率の問題ではない。未来に何が起こるか分からないからこそ、この国は未来を本当に案じているものが動かす。」
 未来を本当に案じているもの、か。乃木は表情一つ崩さずとも内心は、今しがた目の前の情熱的な青年が発した言葉に歓喜して震えていた。(そうだ、未来は我々経験を積んだ者達にもわからない。我々や官僚組織は、経験則によるどっちの確率が高いだの低いだの、そういったことを日々議論することしかできない。だが、私が望んでいたのはまさにこういう若者だった。かつて私自身も、公平で正義の保たれた日本を作りたいと思い、官僚を志した。それは私が高校を卒業して地元の工場で働いていた時だった。私は大学に行くために昼は仕事、帰ってからはひたすら受験勉強に取り組んだ。なかなか上手くはいかず、大学に入ったのは二十二歳と周りよりも四年も遅れていた。官僚になるための国家公務員試験も何度も落ちた。それでも、一旦就職して、働きながら勉強を続け、年齢制限ギリギリでようやく厚生省 が自分を拾ってくれた。そして、官僚組織の腐敗を間近で見て、公正な社会への想いは萎えるどころか一層増した。私は七年間官僚として勤めた後、政治家を志した。私には地盤、看板、カバンのどれひとつなかった。だが、それを逆に武器にして、平民政治家として地元住民からの支持を得てここまで辿り着いた。政治家になってからは、官僚時代にも増して社会悪の根深さを実感するばかりだった。私は巨大な壁に全身全霊で立ち向かって行く度に、私の中にある最も大切なものを少しずつ負傷し、歳を重ねる度にその傷は癒えることがなくなっていき、「折り合い」をつけるということを自然とするようになった。私自身、そういう自分に気付いていたし、嫌悪もしていた。今だってそうだ。私は今でも、かつて思い描いたあの公正で平等な社会を夢見ているのだ。)
「要求はわかった。君のことも。先ほどの発言は君を試すために行ったものだ。私も君と同じくこの国に尽くそうと考えていることを信じてほしい。それに今日、君と話したこと、それとあのデモ隊を見たこと、それが私の政治家信条と今後の動き方に影響を与えたこともまた信じてほしい。しかし、今日はもう帰りなさい。デモだってずっと続けるわけにはいかないだろう。あの群衆の中にも、既に食欲に負けそうになっている者がいるはずだ。それに、君の目的はもう果たされたんだろう?」
 乃木は表情を変えずに東條を見据えた。乃木は、東條がこのデモはあくまで話題性作りを目的としていたことに気付いていた。東條は全てを見透かされているような感覚に陥った。彼は短く礼をして、部屋を後にしようとした。
「一つだけ聞かせてくれ。君は、本当は何を守ろうとしているのか?」
 乃木が東條を呼び止めた。東條はその言葉に足を止めた。
「私は……この国を守ります。」
 東條は先ほどまでの態度を改め、再び礼節のある態度をとった。
「さっきも言ったが、君が思っているほど人間は高尚なものではないぞ。人間の本質はそう変わるものではない。」
 東條は口を開いて何かを言いかけたが、思い直し、また振り返って歩き始めた。

 時刻は二十三時を超えていた。デモ隊にはどこか気味の悪い結束感が生まれていた。このまま朝までいよう、どこまでも政府と戦うぞ、そんな雰囲気が群衆の中には生まれていた。しかし、国会議事堂から出た東條は、群衆にデモを終了するように指示を出した。この指示により、デモ隊は退却に向かった。デモ隊の中には不満を垂れるものもいたが、他ならぬ東條の指示とあっては、皆、歯向かおうとはしなかった。誰もがこれでデモが終わると考えていた。その時、突然、連続した銃声と共に悲鳴が聞こえた。デモ隊に参加していた一人の男が、持っていたボストンバッグから自動小銃を取り出し前方の警官を撃ち始めたのだ。男の周囲はすぐにパニックになった。デモに参加していた人間たちもすぐに男の周りから離れようとした。何人かの警官は何かを叫びながら銃を取り出し上空へ撃った。男はその後も前方の警官に向かって無差別に銃撃を続けた。一人、二人と警官は男が乱発した弾に撃たれる。警察隊は男を狙撃しようと試みたが、この群衆である。発砲すればデモに参加している周囲の人間に確実に危害が及ぶ。パニックになった群衆は男から離れようとしていたが、もみくちゃになり、前が詰まって思うように逃げることができていなかった。これもたった三秒ほどの出来事であった。その時、警察隊の一人が発砲した。彼は、確実に群衆を避けて男に弾を命中させるほど射撃に自信があったのかもしれない。もしくは、同僚を守ろうとする騎士的精神か、それとも身に降りかかる死への恐怖か。その警官の放った弾は無情にも男を避け、デモ隊の中の一人の女に当たった。女は胸から血を流しその場に倒れこんだ。再び悲鳴が上がった。銃を乱発していた男は銃撃を止め、
「警官が一般人を撃った。」
と叫んだ。その僅かな隙を狙い警察隊は発砲した。今度は男にちゃんと命中した。男は射殺された。現場は騒然としていた。

翌日は、朝からデモのこと、そして最後に起きたデモ隊と警察隊の衝突のニュースで埋め尽くされた。それは国内に限らず、海外のニュースでも同じだった。あの発砲事件に関して警察は、興奮した男の無差別な発砲に対する緊急的措置であり、警察官職務執行法違反とはならないという見解を出した。しかし、東條はこの事件を巧妙に利用した。彼は組織の媒体を通して、「デモに参加した女の言葉にカッとなった警官が発砲してきたため、万が一のために予め戦闘の準備をしていた気合いの入ったデモ参加者が、これをデモ隊に対する攻撃と捉え、銃撃を開始した」と伝えた。もちろん、これは真っ赤な嘘であった。だが、東條が語れば信者達は皆それを信じた。また、信者でない人間も、そういう疑惑を流しておくだけで、本来CRYが過激なテロ予備軍だと位置付けられて終わるはずの話なのに、いつの間にか、弾圧しようとする国家権力とそれに対抗する反乱分子のどちらが正しいかという二項対立に導かれるのだった。これこそ、今回のデモにおける東條の真の目的だった。あの銃を乱射した男は、実はデモの前に東條が仕込んでいた人物なのである。東條は、会員の中でも自分に特に忠実で、かつ正義感の強い人間を選び、革命を起こすためには誰かが犠牲にならなければならない、と言葉巧みに自分に従わせていたのだ。
結果として、このデモが世の中に与えた効果は絶大だった。もはや国民でCRYの存在を知らない人間を見つける方が珍しかった。ネット上には組織を称賛するコメントが多数書き込まれた。若者達はしきりにCRYの活動を称賛した。
「マジで老害は全員滅びればいい。今の日本をダメにしてる元凶を根絶やしにしろ」
「老人を排除して新しい若者のための国を作ろう」
「CRYやばくない? カッコ良すぎる」
電車の中では女子高生までもがこんな話をしていた。
「ねぇこれCRYのマークでしょ? 待ち受けにしてんのウケる。」
「そう、かっこよくない?」
「政治とか全然興味なかったけどさぁ、あれは応援できるよね。」
「そう、本当にさ、ウチらのこと考えてやってくれてる感あるよね。」
「リーダーの人イケメンだし。」
「それな。」
「今の政治家は自分のお金が大切だから、ジジイババアの機嫌とるしかないんだって。」
「みんな自分のことしか考えてないよね。」 
 また、ある日の飲み屋街での話である。CRYの話をしていた若者グループに七十代ぐらいの男がつっかかったのだ。
「お前らは騙されとる。あれはただのテロリスト集団や。いつの時代もそうや。お前らみたいな脳なしがああいうしょうもない奴らを持て囃すから戦争が起きるんや。お前らは昔の日本人が耐え抜いて作ったこの国を何だと思っとんじゃ。」
しかし、この発言に、若者グループのみならず周囲にいた他の若者達はこの男を怒りの対象とした。
「うざっ。社会のお荷物の老害はマジで早く死ねよ。お前らこそ日本の害悪だろ。」
 集団の中の一人が、老人を突き飛ばした。集団はよってたかって、老人を痛めつけ始めた。それは、リンチ以外の何者でもなかった。
「俺達が正義だ。わかったか、老害。」
一方で、組織に疑問を呈す層もやはり存在していた。ネット上を見ても、確かにCRY支持者は多かったが、七対三ぐらいの割合で反対意見を投げかける書き込みがあったのも事実だった。このようにして、CRYが火付け役となって、世論は高齢者を守ろうとする派閥と若者の未来を守ろうとする派閥に分かれた。
この国会議事堂でのデモの後、CRYの影響力は著しく増した。若者の大半はCRYを支持していたし、三十代、四十代の労働者世代に関しても、多くの人がCRYに賛同していた。それを表す数字として、デモ前に40%程度はあった内閣支持率だが、人々がCRYの存在を認知しその思想に影響されたのか、デモの後は15%ほどにまで落ち込んだ。そして、CRYやサロンの会員になろうとする者の数が激増した。それだけではなく、CRYの活動にならい、独自に同様の思想を標榜する組織を立ち上げる人間も出てきて、国内には多くの分派が現れた。その中には、過激な思想を持つ分派も少なからずあった。ETE(エテ)と呼ばれる一派はCRY関連の組織で最も過激な集団だった。ETEとは、老人排除(Elimination of the elderly)の略である。彼らは、諸悪の根源は、現状の増えすぎた老人達であると説いた。そして、我々は既に一からリセットしなければならない段階にあり、そのリセットの方法が高齢者層の抹殺であるという主張をした。ETEは、御影(みかげ)という四十歳の資産家の男が構成した組織である。彼は、CRYの過激版の組織を銘打って、ネット掲示板などを使い人員を募った。御影の過激すぎる意向のためか、ETEの会員の多くは、社会から見放された貧困層や犯罪歴のある者といった、つまりは社会のはみ出し者たちで構成された。御影は、集まった人間を自身が複数所有する山奥の土地などに集め、彼らの生活環境を提供した。ETEがCRYと異なる点は、その暴力性だった。ETEは、高齢者や政治家、資産家などをターゲットに、強盗、殺人など、より過激なテロ行為を行い、金品を奪った。彼らは、住む場所にも困るような連中だったため、もはや失うものなど何もなかったのである。国民はETEを恐れた。いつ、どこでETEの人間による無差別テロ事件が起きるかわからなかったからである。しかし、ETEの行動は、革命派の人間に影響を与え、ETEにならう組織も次々と現れた。もはや、国内の治安状態は最悪で、街では、高齢者の営む店舗などを狙った無差別な犯罪が毎日いたる所で起きていた。日常的に虐げられ、苦しめられてきた人間達の怒りは、今頂点に達していた。人々は皆、街を出歩かなくなった。今の日本はいつどこで紛争が起きるかわからないので危険すぎた。
CRYは、ETEなどの分派に対して、基本的に不干渉の構えだった。それは、これらの分派に対して、東條が何のアプローチもしなかったからである。CRYとしては革命の本筋に武力闘争の考えはなかったが、国の金が流れている高齢者層を切り詰めなければならないという方向性は分派と一致していたので、彼らは分派の動きをただ静観していた。

国会議事堂前でのデモから三か月が経とうとしていた頃、総理大臣記者会見において、現職の総理、中澤は遂に驚くべき声明を出した。
「一連のCRYと名乗る集団に影響を受けた人間の犯罪行動は、目に余る由々しき事態となっています。彼らは無差別に高齢者や政治家、資産家を狙って攻撃し続けています。これにより、国民の生活は脅かされており、たとえ一般人でも日常生活において命の危険に晒されています。今や、国民の大半は、危険を鑑みて外出することが出来なくなっており、これでは国として機能を果たすことができません。日本国政府は、もはや、通常の法に則っていてはこの組織、及びそれに追従する若者達による組織的犯罪に対処しきることはできません。したがって、ここに超法規的措置 を発動します。今後、高齢者を狙った犯罪、議員その他官僚などを狙った一連のテロ行為に対して、自衛隊による武力行使を認めます。」
 これは、日本国首相による、事実上の内戦開始の号令だった。もはや、日本国内において、これまで保たれていた秩序は崩壊しかけていた。CRYのメンバー達はこの政府の声明に興奮していた。
「遂に、日本政府は俺達と戦うことを宣言したぞ。」
「政府は俺達CRYと分派を同一視している。どうする? 奴らにもう法は通用しない。ならば、力づくで弾圧されるのも時間の問題だぞ。それこそ、今夜にだって。」
「来るべき時が来たのかもしれない。戦う時が。武力で来ると言うのならこちらも武力で応戦するしかないだろ。革命の始まりだ!」
 小岩が皆を鼓舞した。東條はその様子を見ながらも、一人黙っていた。
 
第五章 本音

翌日より、自衛官、警察官達は、都市部を中心に街の警備に充てられた。彼らは武装しており、いつどこで戦闘が起こっても対処できるような構えだった。それでも、CRYに賛同する過激派達の行動は止まらなかった。彼らは引き続き、高齢者などを狙ったテロ行為を日本各地で起こした。武装した自衛隊員達は、首相の宣言通り、これらに対し武力的な弾圧を始めた。店舗を襲うなどして武器を手に入れていた革命派の組織や戦闘員達は、自衛隊の武力行使に応戦し、その度に政府側、革命側の双方で多数の死傷者が出た。もはや、その光景は従前の日本の面影が消え去っていた。世論は、従来の日本を望む保守派と革命派に二分され、その対立は日に日に激しさを増していった。ほとんどの国民は外出を控え、武力衝突が起こる時以外、街は静まり返っていた。教育機関はほとんどストップした。それもそのはず、革命派に影響された学生が結託し、反乱を起こす可能性があったからである。人々は皆、可能な限り在宅で仕事をした。
CRYの中では、この国内の混乱に乗じて、いよいよ、本気で政権を奪うために行動を起こすべきであるという気運が高まっていた。会員達は口々に東條にその種の訴えを投げかけた。東條はそれに対して、ただ黙って聞いているだけだった。しかし、組織のメンバー達は、東條が今、革命の策を熟慮している最中なんだと信じていた。この日の会合では小岩が中心に会を進めた。
「いよいよ日本政府との全面戦争だ。俺達は国を乗っ取る。俺達は折に触れてデモを起こし国に訴えてきた。俺達の苦しみを。怒りを。だが、奴らはそれを聞き入れなかった。奴らは結局、何も変わろうとはしなかった。この先、奴らに任せていても俺達の未来は不幸を増していくだけだ。もはや、俺達は自分達自身の力で自分達のための国を作るしかない。」
 小岩の演説が終わった。組織のメンバーは口々に同意した。皆、いよいよ訪れる戦いにいきりたっていた。
「その通りだ! 今こそ日本政府を乗っ取るべきだ! 本気でクーデターを起こして勝ち取ろうじゃないか。私たちの本当の未来を!」
「計画はどうするんだ?」
「例えば、俺達の分派を含め、全国にいる仲間を一斉に集めて一気に政府を叩くとか。東條さんなら、今ある分派を一つにまとめて動かすなんてたやすいはずだ。」
「そうだ! 俺達は集団になって、大規模な革命を仕掛ける。そうすれば巨大な力になる。全ての国会議員を消し去って俺達が権力を握るんだ!」
 小岩の声が部屋中をこだました。
 
 この日の集会の後は、いつにも増してメンバー達は興奮していた。
「どうする? 本当に革命が起きようとしてるぞ。」
「本当にやってしまうんだな。死んじゃわないかな? 大丈夫かな?」
「いや、ついにこの時が来たんだ。俺達の力で国を変えるんだぞ。」
「もし、革命が成功したら東條さんが新しい総理になるの?」
「馬鹿。そもそも国自体を変えるんだぞ。総理じゃなくて皇帝だよ。」
「俺達ももしかしたら幹部かな? サロンのメンバーと違って、ずっと東條さんのそばで組織を支えてきたんだから。」
「お前、もう革命後のこと考えてるのか?」
「考えるだろ、そりゃ。」
 突然話に割り込んできたのは佐伯という男だった。彼は冷めた口調で続けた。
「最初から革命なんて興味がないよ。俺は勝ち馬に乗りたいだけさ。今の政府は信用できない。問題を未来に先送りし、無難な策を採る。他国に侵略されるのも時間の問題さ。なら、今は東條率いるこの組織に加担した方が、後々有利だろう。この革命が終われば、俺達は日本政府の幹部だ。手厚い接待が待っているんだろうな。」
「お前、そんな目的で参加してたのか?」
「ああ。人間そんなものさ。若者のため? 未来のため? 違うだろ。自分のためさ。三年前までの日本なら俺は絶対にこんな組織に加担しなかった。だが、今はここにいる方が後々自分のメリットになると思ったのさ。お前たちも先のことは考えておいた方がいいぞ。今からうまく立ち回っておかないと。若い人間がこれだけ集まって、共通の敵がいなくなれば、じきに内輪揉めするものさ。そしたら、今度は内紛勃発を防ぐために仲間うちで殺し合いをしかねない。そうだ、あの小岩ならやりかねないな。東條さんはまだ物分かりが良さそうだけどな。」
 東條は物陰でその会話を黙って聞いていた。

 日に日に組織の中には、団結して一挙に革命を起こすしかないという意見が固まっていた。あとは東條の一声さえあれば彼らはすぐにでも行動に移すだろう。組織のメンバーはこぞって東條の決断を待っていた。しかし、彼は依然、だんまりを続けたままだった。小岩はそんな東條の様子を不審に思っていた。
「どうしたんですか? 東條さん。日本政府は僕たちを法に乗っ取らずとも潰すとまで言ってきてるんですよ。現に、それでやられた僕たちの同志は日に日に増えていっているじゃないですか? 各個人の力にも限界がある。このまま黙っていたら、組織の力としては失われていく一方ですよ。しまいには、僕たち中枢組織が攻撃されて一気に革命の気運は下がりますよ。革命を起こすのは今しかないんですよ。」
 この日、小岩は東條に二人きりで話そうと持ちかけていた。東條はそれでも黙っていたが、しばらくして深いため息をついて話し始めた。
「なあ、本当に成功すると思うか? 革命が。そして、万が一俺達が政権を握ったとして今の日本より良い国になると思うか? 俺達の集団は政治運営に関してど素人ばかりだぞ。」
「何を……今さら。そんなこと分かりきっていたことでしょう。でも、現状の政府に任していては未来がない。だから僕達が立ち上がったんでしょうが。細かな運営とかそういうことは後から考えながら成長していけばいいんですよ。まさか東條さん、この期に及んで、革命後の世界を想像してみたら、とてもじゃないけどやっていけないと思ったから、やめたくなったなんて言わないでしょうね?」
 小岩は冗談を言っているような顔を向けて東條に言った。しかし、東條は少しも笑みを見せず真顔のままだった。そして、小岩に返した。
「要するに……そういうことだ。もう十分組織の考えは広まっただろう。ここで引けば、政府も貴重な労働者を弾圧したりはしないさ。」
 小岩は唖然として東條を見た。
「本気で言ってるのか?」
「お前、本気で国を変えるつもりだったんだな。」
 東條が呟いた。辛い沈黙が流れた。東條は顔を上げることができなかった。上げたらそこにはきっと、失望、落胆、呆れ、怒り、いろいろな感情を含んだ小岩雄二の顔があるはずだったからだ。
「本気じゃなかったってことか? おい。今の今まで本気じゃなかったのか? あれだけ威勢よく政府を批判して俺達を先導してきたお前は全部虚構だったっていうのか? あ?」
 小岩は見たこともないような怒りの表情を浮かべていた。眉間を寄せ、こめかみには遠く離れた距離でもはっきりわかるほど血管が浮き出て、顔は真っ赤だった。
「君を信じていたのに。本当の英雄だと。救世主だと。お前は、お前は自分が周りから褒められて崇められたかっただけなのか?」
「英雄なんて、そんなもの人間ごときに求めるべきじゃない。どんなに、魅力的な人間であろうと所詮は人間だ。お前は妄信していたんだ。だが、そんな幻想もいつかは裏切られるものだ。」
「本当に世の中のことを、これからの若者のことを考えていると思っていた。常に、自分を犠牲にして、世のため人のために動く人だと。それが結局、お前も自分のことしか考えていないじゃないか。お前がさんざん批判してきた日本の既得権益そのものじゃないか。」
「全くその通りだよ。」
 東條は冷静に言い放った。
「お前には心底失望した。もういい、CRYは俺がしきる。お前はただ、この国の行く末を見ていろ。そして、俺達が政権を奪取した後、一旦指導者になり、すぐに俺に権力を譲れ。曲がりなりにも、民衆にとって革命の象徴は必要だからな。これに従わないならお前は処刑する。良心的だろう? お前が生きる道を与えてやってるんだ。」
 小岩はそう言うと東條を背にして歩き出した。
「お前には無理だ。お前ができるはずがない。今まで、この集団の統率がとれていたのは俺が指揮していたからだ。事実、お前が提案した事が一つでも採用されたことがあったか? 一度でも皆を説き伏せたことがあったか? そもそも、お前はこの集団において自分では№2ぐらいに思っていたかもしれないが、俺にとっては議論に口をはさみたがる、頭の悪くて声だけ大きいただの金魚の糞だ。お前、自分が賢いと思っていただろう。俺から言わせれば、そうでもないさ。お前じゃ無理だ。まあ、もっとも、議論を盛り上げるには大いに役立ったがな。こういう馬鹿は一人は必要だからな。」
 小岩は怒りの表情を浮かべて振り返った。
「黙れ! そもそもお前みたいなお坊ちゃんにはわかるはずがなかったんだ。俺達みたいな本当に助けが必要な人間の気持ちが。お前は知らないだろう? 生まれた時からマイナスの人間の気持ちが。お前のように自己実現のために政治ごっこをしている奴とは俺は違う。俺は国に対して戦争を仕掛けるぞ! 穏健派のお前と違って、俺は最初からそうすべきなんじゃないかと思っていたんだ。俺は、全国にいる俺達の同士を集めて日本政府を叩く! 俺にはその決定権がある。元はと言えば、この組織はお前のものじゃない! 俺から始まったものだ!」
 小岩は東條を振り返らずに走り出した。

その三日後、日本政府はCRY側に対して、会談を行うことを提案してきた。政府は、このまま、自衛隊と革命派の衝突が日々起これば、国の機能は立ち行かなかなくなると考え、CRY側と交渉に踏み切ることを決断したのだ。小岩はそれを受け、すぐにCRYのメンバーに招集をかけた。
「政府による弾圧により、日に日に俺達の同士はやられていっている。このままでは、俺達の影響力は落ちていく一方だ。俺達はこれを止めさせなければならない。だが、毎日の戦闘に疲弊しているのは政府とて同じことだ。俺達は交渉の場で、革命派の行動を抑止させることを条件として、政府にいくつかの要求をつきつける。交渉が決裂したならば、その時はいよいよ戦争だ!」

 この日の会談にあたって、各メディアは大々的にそれを報道した。国民は、内戦が終わるかどうかがかかっているこの会談に多大なる関心を示した。この日の前日から、各テレビ局のチャンネルはこの会談のための中継で埋め尽くされた。国民の支持を失いつつある現政府と、東條という新しいカリスマ率いる革命派の構図を、皆、固唾を飲んで見守っていた。この日、政治の主要施設の前には多くの若者達が自発的に集まった。それは東京に限った話ではなく、各都道府県でも、駅前、繁華街、都道府県庁、役所前などで同様の集まりがあった。自衛官、警察官達は、いつ衝突が起きても対処できるように武装してそれらの場所の警備にあたった。
国会議事堂前では、若者の群衆と自衛隊、警察隊が対峙し、いつ武力衝突が起きてもおかしくないような格好だった。集まった若者達は、戦闘行為には及ばないものの、自衛隊、警察隊に対して罵声を浴びせた。
「そこを開けろ! お前らは国家の犬だ。」
「恥ずかしくないのか! あの老人共の言いなりになって。」
「お前らは思考停止のクズ野郎だ!」
「売国奴め。お前らは中韓のスパイだ!」
「あんな政権のどこがいいんだ?」
 自衛官、警察官達はそれらの挑発にも黙ったままだった。警備にあたった彼らも、群衆と同じくらいの年代の者が多かった。彼らはどれだけ罵声を浴びようとも、自分達の職務を全うしていた。
 
日本政府は、CRYのリーダーである東條と日本国首相の二人きりの会談を設けることを求めた。CRY側はこれを飲み、東條は首相官邸に召喚されることが決定された。しかし、この会談に実際に向かうのは小岩であった。小岩は東條の代理であることを、直前まで明かさないつもりだった。それは、革命の象徴である東條が出てこないとなれば、政府側が会談を中止にする懸念があったからである。小岩は、この会談の申し入れを政府があっさり飲んだ背景として、この会談に際して東條を暗殺する考えがあるのではないかと踏んでいた。そして、事実その考えは当たっていた。政府側はこの機を逃すまいと、公安主導で東條の暗殺計画を立てていた。保守派と革命派の対立がこれだけ激化した現在において、いまや東條が表舞台に出てくることはほとんどない。そのため、政府はこれを東條を暗殺する最後のチャンスと捉えていた。彼らの計画は、東條を乗せた車が通るルートに軍の狙撃手を置き、離れた場所から狙撃させ、それが革命派に恨みを持つものの犯行だと思わせるようにするという内容だった。無論、東條を暗殺すれば、革命派の反発は激しさを増すだろうが、それでも政府は革命派の絶対的な求心力である東條を暗殺すれば、彼らの勢いは次第に衰えていくだろうと考えていた。小岩は、暗殺がなされるならそれは移動の際であろうと考え、外から中の様子を確認できない特殊なフィルムを施した車を十台用意した。小岩は、一連の車の整備を全て組織の一員である松山誠心に託した。松山はその人格の良さから、CRYの中でも信頼のおけるメンバーとして通っており、また、建設会社の勤務ということで、本来、住宅の窓ガラス等に使われる、そのような特殊フィルムを調達するのに融通がきいたということが人選の理由だった。会談当日、松山によって細工された十台の車のうち、九台にはダミーのメンバーと運転手が二人ずつ乗った。各運転手とダミーの九人は、誰とペアを組み、どの車に乗車するのか、直前まで知らされなかった。小岩のこれらの対策により、組織の誰がどの車に乗っているのか判別することはできず、政府の暗殺計画は頓挫した。
午後十二時三十分頃から、別々のルートを通ってきた十台の車が順次、官邸に到着していった。十台全ての車が到着するのを待って、CRY側は官邸の地下駐車場に車を誘導するように指示を出した。職員に導かれ、CRYの車は全て地下駐車場へと入り終えた。その時、突如、大きな爆発が起きた。それは、十台の車全てから起こっていた。現場は騒然とした。
「何だ? 何が起きた?」
 CRYの車が移動してくるのを追っていたテレビ局の中継は、地下駐車場の入り口で警備員に足止めされていた。彼らは爆発音を聞くと、すぐさま警備員をかいくぐり、地下駐車場へ入っていき、その様子を中継した。
「たった今、首相官邸地下駐車場において、凄まじい爆発が起こりました! 中は火の海に包まれています。危ない! 早く逃げて!」

 佐々木が首相官邸に到着するのとほぼ同時に爆発は起こった。佐々木は今しがた、茨城県東海村から大急ぎで車に乗って出先から戻ってきた。彼は、CRYの人間が会談の騒ぎに乗じて、原発に自爆テロを仕掛ける可能性があるという情報を聞き、現場の確認に向かっていた。それは他ならぬ松山からの情報だった。だが、彼はその松山からの電話をきっかけに今、東京へ戻ってきたのである。一時間前、佐々木は松山から着信を受け取った。佐々木は、昨晩から連絡の取れなかった松山からの電話とあってすぐにその電話に出た。
「もしもし? 松さん? 大丈夫ですか? 今何を?」
「哲也さん、伝えたいことがあります。今お一人ですか?」
「ええ。一人です。伝えたいことって一体……?」
「哲也さん、私が話した原発テロの情報は嘘です。いや、確かに小岩主導で計画されていた話ではあったんですがね。」
「なぜ、嘘をついたのですか? これまであなたは、どんなに些細な情報でも正確に私に伝えてくれていたじゃありませんか? あなたは、私を信用していなかったのですか?」
 佐々木は責めるように松山に言った。
「いえ、違います。私が哲也さんに嘘をついたのは、私が東條を官邸に送る十台の車のうちの一台の運転手に任命され、その車の整備も任されていたからです。私は考えました。その車全てに時限爆弾を仕掛ければ、東條を暗殺できるのではないかと。私はあなたから伝え聞いて、公安が東條の暗殺を計画していることを知っています。しかし、それに対して組織が対策を練っていることもわかっています。公安の暗殺計画はうまくいかないでしょう。そもそも、東條ほどリスク管理を徹底した男を暗殺することは至難の業です。しかし、私が犠牲になれば、それは達成されます。爆弾は全て、今から一時間後に起動するように設定してあります。これを事前に話したら、あなたは決して私の策には賛成しなかったでしょう。ですが、こうして選択の余地がなくなれば、あなたは公安らしく合理的な判断を下せるはずです。私はずっとあなたの役に立ちたかった。なぜならあなたは家庭でも職場でも孤独だった私を救ってくれたから。」
 佐々木は絶句した。松山は続けた。
「CRYは所詮、個の集まりです。東條という絶対的なリーダーがいるからこそ成り立っているんです。彼が死ねば、暴走した若者達の勢いも削がれるでしょう。彼らは再び正しい道を歩むようになります。哲也さん、あなたの言ったことは本当だった。あの組織はやはり危険な組織だった。あなたが私にそれを気づかせてくれて、人として正しい道へ導いてくれたんです。東條を止めればまだやり直せる。日本人は今まで培ったものを忘れちゃいませんよ。ただ、将来への不安から、強い者の意見に流されているだけです。哲也さん、僕は日本国民が自分を取り戻すきっかけになりたいんだ。」
 佐々木は松山の発言に対して、終始言葉が出なかった。松山の家庭では、もう長らく専業主婦の母親と二人の子供がメインであり、松山は金を稼ぐ道具のようにしか思われていなかった。妻の玲子は、家計のためと松山の小遣いを減らしつつも、その分を自身の財形貯蓄に充て、平日の昼間はヨガ教室で知り合ったインストラクターと隠れて不倫をしていた。佐々木はそういった松山の現状を、既に知り合う前から把握していた。そもそも、佐々木が松山を協力者候補に選んだのは、そういった背景が主な要因としてあった。家庭に居場所がなければ、外部でできた信頼できる相手に依存しやすい。佐々木はそう考えたのだ。しかし、松山は佐々木が当初想定していた以上に懐の深い人間だった。一時期、佐々木は松山があまりに良い人すぎるため、むしろ自分が騙されているのではないかと本気で警戒していた。公安をやっていれば、自然と人を信じるということはしなくなる。佐々木と松山の間には、「利用」の関係があることは間違いない。しかし、佐々木自身、松山と接していると、彼のことだけは本気で信頼しても良いのではないかと思えてきた。善人はこの世に実在するのだと、松山誠心を見ていると佐々木は本気でそう感じた。無論、公安警察として関係を持った人間に情を抱くことはあってはならないことは、佐々木も自覚していたが……。
「私の犠牲で多くの国民が救われるならそれはむしろ本望です。そして、私はあなたの役に立てることが本当に嬉しいんです。どのみち、このままでは私は死ぬ運命にあります。ですが、自分からこの命を差し出すことで、多くの人間を助けることができるんです。」
「松さん、死んじゃだめだ! 今すぐその運転手の役目を降りてください。いや、官邸まで行ってもいい。けど、爆破はやめて下さい! 焦る必要はない。もっと良い方法が必ずあります!」 
「哲也さん、私がこのタイミングで役目を放棄したら、組織は不審に思ってすぐに車を調べるでしょう。そして、爆弾を仕掛けたのが私だと考え、必ず私のことを殺します。今、あなたが部下を使って車を止めさせようとしても無駄です。私はいつでも、この爆弾を手に持っているリモコンで起動させることが出来るのですから。では、なぜ電話したのかって? 私は死ぬ前に、どうしてもあなたと話したかったのです。哲也さん、あなたは公安警察です。国を守るという大きな役目のために手段を選ぶべきではない。あなたは私の命を、ここで利用すべきなのです。」
「松さん、何と……言ったら……。」
 佐々木は涙と共に言葉にならない声を出そうとしていた。普段冷静な彼だが、今、あふれんばかりの思いが込み上げて、とても平静ではいられなくなっている。佐々木は松山のやろうとしていることの意義を理解していた。それがもし成功すれば、間違いなく革命派の勢いを削ぐことができることもわかっていた。佐々木はその聡明な頭で、何が合理的な選択かを既に判断し、数時間後にはどういう結末が待っているかも予想できていた。それでも、彼はあふれ出す感情を止められないでいる。
「すみません。すみません。あなたは関係がなかった。私があなたを巻き込んだ。」
 松山はその言葉に優しく微笑んだ。
「哲也さん。その涙だけで充分です。私にとっては。ありがとう。」
 松山はその言葉を言い終わると電話を切った。そして、暫しの間、感傷に浸った。(私は今から死ぬ。しかし、血迷った青年からこの国の大勢の民衆を守るために死ぬのだ。子供の頃、私は漫画やアニメに出てくる正義のヒーローに憧れていた。いつか自分もこんな風に人を助けて賞賛されたいとそう願ったものだ。今まさに、私はその時が来ている。死に対する恐怖はない。最大の親友が私の死に様を知っていてくれるのだから。もはや、この世に未練はない。)
松山は、爆発の被害を最小限に抑えるため、十台の車が官邸に集まる時を爆破のタイミングと決めていた。松山と佐々木が電話で話してから一時間後、松山は炎に包まれた。松山の運転する車に乗車していた小岩は爆発に飲み込まれた。

「東條が死んだ」という噂は瞬く間に日本中を駆け巡った。これまで東條を信じて動いていた革命派の間には、確実に意気消沈の色が見えた。それほどまでに、東條という男の求心力は高く、革命の絶対的な象徴だったのだ。それを理解していた松山の決死の行動により、もはや一連の革命運動は終わりを迎える雰囲気であった。動員した各所の警察隊、自衛隊も、態度には出さずとも内心は少し警戒を解いていた。もう争いは起きないような雰囲気が日本中にあったのだ。そんな空気に煽られて気が緩んだのか、国会議事堂の警備にあたっていた自衛隊員の一人が隣の仲間に、彼の内にあったが今まで出さなかったものをうっかり呟いてしまった。
「なあ、これで良かったのか?」
 問いかけられた隊員はそれに答えなかったが、それは確実に聞こえていた。いや、隣の隊員どころかその小さな呟きは彼の思いの外、半径五メートル以内にいる隊員にはみんな聞こえていた。そこには、運悪くも彼の上官にあたる隊員もいた。しかし、その言葉を諌める人間はなぜか一人もいなかった。十秒ほどの沈黙が流れた。別の隊員が沈黙を破った。
「これでまた元通りだな。」
 また少しの沈黙があった。しかし、また別の隊員が沈黙を破った。彼はこの空気を途切らせてはいけないと感じたのである。
「良く……はねえだろ。」
 彼の言葉は、確実に今皆が抱えている「本音」の部分を炙り出した。
「そうだ。この国に本当に未来はあるのか? 俺達は何のために訓練して戦っているんだ。彼らが言っていたことは事実だ。俺達は選挙で選ばれただけの戦地に行ったこともないような奴らの一存で手駒のように地獄に向かわないといけない。とうのあいつらは自分達の金のことしか考えていない。」
 隊員は国会議事堂の方を指さし、そう言った。
「そうだ! 東條という男を見ろ! 自分の命を懸けて国を変えようとしたじゃないか? 俺達が本当に従うべきなのはああいう人間なのではないのか?」
 そうだ、そうだと賛同する声はさざなみのように広がっていった。驚くべきことに誰もそれを注意しなかった。自衛隊の中のこの雰囲気は近くにいた警察官達にも伝わっていた。
同じ頃、ネット中継により、革命の指導者である東條が死亡したと見られるという情報が流されていた。だが、着々と、これまで大人しかった民衆の声が上がり始めていた。
「これで終わりかよ。つまんね」
「もっと戦えよ」
「また若者を虐げる国に逆戻りですか」
「この非日常感が楽しかったのに」
「明日からまた学校行くのかよ」
「東條は死んでないぞ」
「日本終了のお知らせ」
「本当に?」
「終わりだよこの国」
「もう日本に未来はないな」
「CRYのユーチューブを見ろ」
「東條はどこにいるの?」
「東條まさかの生存説?」
 CRYのユーチューブでは、東條の姿を映したライブ中継が流されていた。東條は椅子に腰かけ、ただじっと静止した画面を見ていた。彼は無表情で何も語らなかったが、確かに画面の中には死んだと思われた東條聡本人がいた。瞬く間にこの情報はネット上で拡散された。
「東條、東條は生きている!」
「東條復活!」
 国会議事堂前の先ほどの自衛隊員達もすぐさまその情報をキャッチした。東條が生きていることがわかった彼らは興奮の声を上げた。辺りはまるでスポーツ観戦の興奮したスタジアムのような歓声に包まれた。もはや、それは反乱組織から国家を守る軍の姿ではなかった。
「東條が生きているんだとしたらどうする?」
「彼らに協力しよう!」
「一度失って気付いた。俺達にはあの人が必要だ!」
 この空気はここに限った話ではなかった。同様の出来事がまさに日本中で起こっていた。国家権力の矛と盾が、自らの宿主との繋がりを切ろうとしていた。もはや統制は取れなくなっていた。自衛官や警察官達はツイッターやユーチューブを使って、自分達が革命組織に加担することを次々と表明していった。そして、それに加担せず、あくまで統制を守ろうとした自衛官や警察官達は組織の中の反乱分子の動きを抑えることができなくなっていた。この動きはネットを通して急速な勢いで伝播し、制服を脱ぎ、CRYの一員に加わる表明をする者が一人また一人と増えていった。皆の日常に対する不満、変革を求める本音が今、国中に映し出されていた。国民の皆は、心の奥底で東條を望んでいたのである。一度死んだと思われた男の復活により、国民の東條に対する信奉はまさに神に対するそれだった。その数時間後、自衛隊、警察官の有志連合は国会議事堂や官邸、その他主要機関の周りを包囲した。もはや、権力者達に逃げ場はなかった。日本の権力組織を支える武力が反旗を翻したことにより、遂に日本国首相は白旗宣言をした。今後、日本国は一九四七年施行以来保ってきた日本国憲法による統治体制を全面的に廃止すると。革命は成立した。東條は弱冠二五歳にして文字通り、日本国最高指導者となった。

第四部 現実

第一章 革命の後

 
 革命の翌日は殺伐としていた。外は全く人気がなかった。それもそのはず、皆、自宅のテレビに釘付けだった。国民の中には、一連の出来事に関する中継を家で見ていただけの人間も多かったため、本当にこの日本において革命が起きたという実感のないものがほとんどだった。画面の中では、日本国の新しい指導者となった東條が今後の方針について語っていた。彼が語った内容は、まず、昨晩日本国首相と正式に会談し、東條を指導者とする新政府の樹立が決定されたこと。それから、日本国憲法は革命によって廃止となり、新しい指導者、すなわち東條を主権 の対象とした憲法を今後早急に取りまとめること。それまでは、これまでの形を踏襲し、国民生活も今まで通り行うようにとのことだった。東條は新しい統治体制についての国民の不安感についても触れ、旧憲法下で保障されていた基本的人権が侵害されることは原則的にないとした。但し、これらの人権は全て東條の留保付きではあった。また、国会、内閣、裁判所、地方自治体といった統治機構の仕組みも大枠は旧来通り変わらないとした。そして、近く国政選挙を行い、新たな国会議員も選出する予定であると述べた。東條の説明を聞いた国民は、その内容に戸惑いつつも、翌日からは皆、これまで通りの仕事に向かうのだった。

新人警察官の橋本は、とある家族の家に来ていた。彼は玄関のインターホンを鳴らしたが、一分ほど応答がない。もう一度押すと中から足音が聞こえ、女がスピーカー越しに応答した。
「はい。」
 不機嫌な響きが含まれているのが容易にわかる。
「松山さん、警察のものです。少しお話しさせていただきたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「警察?」
 橋本はインターホンに取り付けられているカメラに警察手帳を見せた。数秒後、松山玲子は怪訝な顔で玄関口に出てきた。
「警察の方が何の用ですか? 旦那が何かやらかしましたか? 一昨日から連絡一つ寄越さず帰ってないですからね。私はてっきりセクハラでもやらかして捕まっているのかと。いやでも、だとしたら、警察が来るのもちょっと遅いですね。」
 彼女の態度は明らかに目の前の橋本を馬鹿にしたものだった。彼は挑発を受けずに単刀直入に事実を切り出した。
「旦那様は亡くなりました。暴走した若者を止めるために。恐れ多くもそれによって私たちは多くの命を救われました。旦那様の最後は本当に勇敢なものでした。」
 玲子はほんの一瞬だけ目を見開いて顔を上げた。だが、すぐに元に戻した。それから橋本は、松山の最後について、上司から伝え聞いたことをできる限り詳細に彼女に伝えた。新人警察官の橋本は、この情報を遺族に伝えて取り乱した反応を見るのが何より心苦しいものになるだろうと、ここに来るまでに覚悟していたが、玲子の反応は意外にもあっさりしていた。
「そうですか。それで、それは自殺になるんですか? もちろん、違いますよね? だってCRYとやらが革命なんか起こさなかったら、うちの人は死ななかったんですから。」
 橋本はこの女が何を言っているのかわからなかった。しかし、ハッとした。橋本がこの家に着いてインターホンを鳴らし、この女が出てきた時からずっと感じていた違和感の正体についてだ。旦那が行方不明で外はこんな混乱状態のさなかにある。なのになぜ、この女はこんなにも取り乱していないのだろうと彼は不審に思っていた。この女は、夫が死んだことを知らせ聞いた今、それによって生命保険が下りるかどうかの心配をしていた。
「ねぇ、どうなんです?」
「あなたは……。あなたは、ショックじゃないんですか! たった今、私はあなたの愛すべき夫が死んだと申し上げたんですよ! 本当なら、もっと取り乱すはずだ。それなのに、あなたは今……。それは、それは今質問することですか?」
 橋本は玲子に怒鳴った。彼女は表情を一変させて冷たく言い放った。
「勝手に人のことをわかったような気にならないで下さい。人の本当の気持ちなんて誰にもわからないじゃないですか? もういいですか? それだけを伝えにきたのならもう帰ってください。」
 玲子は玄関のドアをバタンと閉めた。

第二章 真相

 佐々木は今日、松山の家庭に旦那の死を伝えに行った旨の報告を受けた。松山玲子の反応は、佐々木にとってはまあ予想通りという感じだった。報告には新人警察官の橋本という者が向かったらしい。まだ警察官になって間もないのに酷な仕事をさせたと彼は感じた。

革命から二週間後、新政府は新しい指導者である東條を主権に置く新憲法を採択し、新たな国会議員を決める国政選挙の開催に向かった。この選挙において、従来の有力な政治家達はほとんど立候補せず、代わりに、CRYのメンバーや革命に前向きだった若者達が議席の大半を占めた。依然、反対派は一定数いるものの、実際に革命が成功してみて、世論は東條を中心とする新たな国作りに前向きになりつつあったのである。この選挙で、東條はスマホによるネット投票を解禁し、それにより、若者の投票率が大幅に上がったことも、選挙結果を説明する大きな要因となるだろう。東條はその後、各省を束ねる閣僚や政府の重要ポストをCRYのメンバーから任命した。しかし、実態として、それらの最終決定は全て東條の指示で行われていた。当然、彼らはやることがないので、有り余った体力と無駄にある権力を自分達の思いのままに使った。新政府の幹部組織は早くも腐敗していた。旧政府の外交使節団をもてなすための宴会場は彼らの娯楽施設と化し、毎日のように宴会が開かれた。権力を持ったCRYのメンバーの実態は、ほとんどこんな調子だった。

 それからさらに時は流れた。ベテラン警察官の山井は、公安で同じくCRYのマークに当たっていた若手の部下である木崎と会話をしていた。
「旧政府が倒れてからもう二か月か。」
 山井は木崎に問いかけた。
「ええ、政治家が国を放棄し、若い奴らにそれを投げた。一時はどうなるかと思いましたが、意外と何とかなってるものですね。彼らはすぐに国家運営を立て直しました。行政も外交も旧政府の遺産を残しつつ、改革するところはしている。以前と違って指導者の権力が強すぎるので専制化が少し不安ではありますがね。」
「ああ、政権運営が非常に巧みだ。とてもあの若い奴らだけでやっているとは思えない。今の政府は旧政府よりも遥かに大人な政権運営をしているよ。一体どういう方法を使っているのか。あの東條という男、ずっとマークしてきたが、あそこまでの男だったとは思わなかったな。」
「二十代の人間が一国を動かしていることなど、人類史で見てもそうはないでしょうね。政治には経験が必要と言われるが、しかし、これだけ情報のあふれた社会、むしろ今の若者は我々が必要だと思っている知識や経験など、すでに習得済みなのかもしれませんね。それならば、むしろエネルギーのある若者が権力を握る方が良いのかもしれません。」
 山井は木崎の言葉に考え込んだ。木崎は続けた。
「そういえば、近々パリでG7 が開かれるじゃないですか? 政府は一体どうするつもりなんでしょうね。」
「当然参加するだろう。今、彼らは自分たちの仲間になってくれる国を見つけておきたいからな。だが正直、期待は薄い。他国は今、日本で起きた革命の影響が自国にも及ばないか恐れているからな。先進各国はどこでも少子高齢化の問題を課題としている。もし、日本にならって活動する若者が増えれば、それは各国政府にとって好ましい状況ではない。だから、日本が今、各国に期待されていることは、政治がボロボロになって国が滅びることだ。各国政府としては、やはり革命は失敗するという印象を付けておきたいと思うからな。」
 山井の話に、木崎は納得した表情を見せた。
「それにな木崎、今や東條は他国にとって核兵器なんだ。」
「どういうことですか?」
「今、日本が外国からどう見られているか知っているか? 老人を力づくで排除し権力を握った奴らが統治する野蛮な国、それが日本に対するリアルな評価だ。他国は今恐れている。指導者連中が青二才とは言え、日本という大国が持つ武器はおもちゃじゃない。ならば、そんな奴らが権力を握っている国を他国が脅威とみなさないわけがない。一方で、そういった脅威が、革命後の混乱にある今現在においても、日本が他国に干渉されていない理由でもある。つまり、革命の象徴である東條が健在であることは、それだけで他国への抑止力となっているんだ。そうなると、次なる他国の願望としては、日本政府が外交上のエラーを起こし、国際的に非難できる対象となることだ。それに乗じて各国で結託して一気に日本を攻め、この国の財産を奪い取る算段だ。」
「内乱が去ったと思えば今度は外国との戦いですか……。東條に任せて、本当に国は大丈夫でしょうか?」
「木崎、てっきり私は、お前が既に過去の自分を忘れ、東條に心酔しているのかと思ったが?」
 山井は木崎の方を見て探るように言った。
「私は……わからないんです。旧公安組織での任務は、CRYから国家を守るためにマークすることでしたが、革命後の組織再編に伴い、私達はつまはじきにされ、今はただの警察官です。この前まで敵とみなしていた人間が、今度は私達が守るべき対象となっている。私は、警察官であるが故に国家権力の盾となっていたのか、それとも、国家権力を信じていたからこそ警察官であったのか……。しかし、私は恐らく信じたかったんです。この国を危難から救ってくれる強い存在に身を委ねたかったんです。今、その対象は旧政府から新政府、いや東條に代わった、たったそれだけなんだと思います。山井さん、私は間違っているでしょうか?」
 山井はため息をついた。
「いや、お前は間違っていないよ。私も同じだ。国を守る。この崇高な響きに魅了され、それを私の使命だと信じ、あらゆる犠牲もその代償と捉え、国のために動いてきた。だが、本当は……私のこれまでの行動は、本当は自分自身の生きがいのためだったんだろうな。」
 
革命達成から三か月が経ち、東條の掲げた政策の影響は徐々に国民の実感として表れていた。東條が行ったのは、年金の削減、高齢者の医療自己負担額の増加だった。これにより、生活の苦しくなった高齢者達は働き口を探した。しかし、彼らはまともな労働環境にありつけず、高齢者層の自殺は件数を増した。一方で、東條は削減した歳出で、まず、教育改革に力を入れた。東條は、大学、大学院まで全ての教育課程における学費を無償化し、小学校の段階からデジタル教育、専門教育に力を入れさせた。また、子育て支援策として、各種補助金を拡充した。こういった政策は、労働者世代には大層ウケが良かったが、一方で、高齢者切り捨てだという批判や、東條の倫理性を追及する声も国内外問わず多く上がった。しかし、東條はそういった周囲の声をものともせず、高齢者切り捨て、労働者世代優遇の改革を推し進めるのだった。また、この二か月ほどで、東條は自衛隊や警察から選抜し、新たに自分の目と耳となる秘密警察を組織した。この組織は、政府に対する、人々の様々な疑念や憶測の対象とされた。
「最近、みんな言ってますよ。最初は確かに目新しさもあったし、若いリーダーにカリスマ性も感じられた。ですが、実態は、指導者の権力を背景とした横暴な独裁政治だ。ニュースにはなっていませんが、政府に敵対的な人間は片っ端から捕えられているそうですよ。これじゃあ、ファシズム と全く同じだ。」
 木崎は山井に語っていた。彼はまだ続けた。
「これから先も、高齢者への社会保障を減らし続ければ、生活が苦しくなり、自ら命を絶つ者がさらに増えていくでしょう。政治とは、本来全ての国民を救うために存在しているのではないでしょうか?」
そこへガタッと扉が開く音がした。山井と木崎が話していた旧公安が所有していた部屋に佐々木が入ってきた。
「ようやく、突き止めた。」
 木崎は思わず椅子から立ち上がった。
「佐々木さん! 今までどうしてたんですか?」
 木崎と山井は突然の訪問者に驚きを隠せなかった。それもそのはず、佐々木は革命後の組織再編以降、警察官の職を辞し、それ以来、一切連絡がつかない状態となっていた。佐々木は革命以前、リーダーとして、この二人とグループを組んでCRYのマークに当たっていた。この部屋は、その時使用していた、言わば三人のアジトだった。
「すまない。心配かけて。だが、どうしてもこの作業は一人でやる必要があってな。誰とも連絡を取ることが出来なかった。」
「突き止めたって……一体何を突き止めたんです? もう公安でも警察官でもないあなたが。」
 木崎は佐々木に尋ねた。佐々木は一拍置いた。
「東條の……真実についてだ。」
「真実?」
「ああ。そうだ。東條の真実。すなわち、革命の真実だ。」
 佐々木は言うのをもったいぶっていた。まるで、今から話すことで世界が一変すると言わんばかりだった。
「何なんです? 早く話してくださいよ。佐々木さん。」
 木崎が促した。 
「ああ。六年前から東條を見ていた。東條のことを見ていて、私はあいつに、ある種の憧れを持っていたんだ。あいつは羨ましいほどに全てに恵まれていたからな。私は東條をマークしなければならない立場だったが、その責務とは別に、純粋に奴に興味を抱いていた。私はあいつの思想や交友関係を、過去のことまで全て調べ上げて把握していた。だが、一つだけ今の今まで、どうしても腑に落ちないことがあった。奴がなぜ、元々そこまで興味を抱いていなかった国や革命のことにここまで関わるようになったのか、ということだ。ある時からあいつは考え方や行動が大きく変わったんだ。それは恐らく、あいつが大学四年の頃だ。その変化の原因が何だったのか、私はずっと調べていた。私はCRYの内部にいた松さんの協力を得て、組織の通信を逆からたどり、東條のスマホに潜り込むことを何度も試みてきた。だが、東條のスマホは厳重なVPNが常時接続されており、奴のIPアドレス やデータトラフィック を盗むことは困難を極めた。しかし、五年もの月日、機会を伺ってきて、たった一度だけチャンスができたんだ。それは、あの革命の日、会談に向かう車が爆破された時だ。東條が死んだという噂が日本中を駆け巡り、革命派が意気消沈していた時、東條は自身のスマホを使い、CRYのチャンネル上で自分が生きていることを国民に示した。私はその映像を見ていて、もしやと思い、ダメ元で通信をたどり、東條のスマホに潜入を試みた。結果は成功だった。実はその僅かな時間だけ、奴のスマホからはVPNが切られていたんだ。恐らくそれは、ライブ配信における通信速度の遅さを解消するためだろう。VPN接続は通常の通信と比較し幾分か速度が遅くなる。ましてや、あの時、CRYの使用していたVPN回線は、指導者が死んだかもしれないというパニックで混雑を極めていたことだろうからな。あの警戒深い東條がセキュリティを弱めたのは、少しの時間ならという慢心があったのか、急を要するためにそれどころではなかったのか、それは定かではない。私は限られた時間で、そのスマホを遠隔操作し、可能な限りのデータを私のパソコンに送った。痕跡は残さずな。この国がまさに革命に揺れ動いていたころ、私は東條から抜き取ったデータの解析を行っていた。そこにあったのは、革命の計画や組織のメンバーとのやりとりなどだった。組織について、私達が知らなかった事実も多く出てきた。しかし、これらのデータの内容の衝撃も、これから話す驚愕の事実には遠く及ばない。」
 ここで佐々木はふう、と深呼吸した。興奮してはやる気持ちを自ら抑えようという感じだった。彼は一息ついて、また話し始めた。
「私を最も驚かせた内容は、東條の革命行動に影響を与えた人物がいたということだ。そいつはネット上に潜んでいる。奴は自分のことをユチと名乗っていた。全ての黒幕は、このユチという奴だ。」
 佐々木の話に、山井と木崎はあっけにとられていた。やがて木崎が口を開いた。
「そいつは、何者なんですか?」
「調査はした。だが、今のところ皆目、見当がつかない。なにせサーバーは海外にあり、IPアドレスも特殊な暗号で保護されていて、個人を特定できないようになっているからな。しかし、何はともあれ、組織結成から現在の政権運営に至るまで、東條の行動の裏には常にゴーストライターがいたということになる。全てはこのユチのシナリオ通りに進んでいた。ユチは、この国で少子高齢化が進み、若者の不満が燻っている点に目をつけ、日本を変革させる計画を作り出したというわけだ。東條は、この男の指示通りに動くただの手駒だった。まあそれも、こいつのカリスマ性と弁舌のうまさがなければ成立しえない物語だったがな。それに、運もかなり味方した部分は否めないだろう。」
「そのユチってやつの狙いは何なんでしょうか?」
「ユチの運営するサイトは、まだ更新の途中だった。私は数千ページにも及ぶユチのサイトを見られる限りは全て読んだ。その上での私の推測としては、ユチは最終的に日本を戦争に巻き込みたいのではないかと思う。こいつにとっては、それがメリットになるってわけだ。日本が戦争に向かって喜ぶ者……。憲法構造が変わろうとも、国際法上、条約の効力は新政府に承継される。日本が戦争することになればアメリカが出てくる。アメリカは、自国から遠く離れた日本周辺で憎き国を攻撃することができる。」
「……中国。」
 これまで黙っていた山井が呟いた。
「そうだ。これはあくまで私の憶測に過ぎないがな。」
「しかし、いかに日本近海を主戦場にするとしても、中国とアメリカがやり合えば両国ともダメージは大きいでしょう。」
 山井は佐々木に言った。それに木崎が反応した。
「目的はさらに別にあるんじゃないですか? その二国がやり合って、メリットになる国はどこだろう?」
 三人の間に沈黙が流れた。やがて、佐々木がそれを破った。
「真相はわからないし、これだけの情報では何を言っても推測の域を出ない。ユチの正体か誰で、真の目的は何だったのかは未だ闇の中だ。」
「東條はなぜ、得体の知れないそいつの言うことを、そこまで信じたんでしょうか?」
 木崎は佐々木に問いかけた。佐々木はふう、とため息をついて少し考えた後、また喋り始めた。
「さあな。だが、ここからはずっとあいつを見てきての感想だが、私には彼から信念なようなものは感じなかった。彼は確かに能力が高い。私が今まで見てきた人間の中でも頭二つも三つも抜けている。しかし、彼からは、歴代首相が持っていたような信念のようなものが感じられなかった。政治家は皆から称賛される職業ではない。むしろ、国民のために尽くせば尽くすほど、非難を浴びるのが政治家というものだ。それでも、『ライオンのような勇猛さと狐のような狡猾さ』 を持って国に尽くす。それが政治家というものだ。若者達が自分達の立場の改善を求めて立ち上がった動機とはまた違う。東條はある意味、現代の若者を象徴している。彼らは本質的には自分の頭で考えていないんだ。誰か声の大きい者の意見に乗っかり、さも自分が何者かになったように威勢よく振る舞う。革命に参加していた多くの若者がまさにそうだ。なぜなら、彼らはもう、それについて知っていると思うからだ。だが、最短ルートだけを追い求める彼らは知らないんだ。険しい道を歩む中で見つかる、その人間にしかわからない辛酸、挫折、そしてそれらを乗り越えた歓びを。そういう人間が増えることで何が起きるか。意思のない人間が集まった国は、他国に利用され尽くした末に崩壊する。」
 再び場は静まり返った。
「これから、国はどうなっていくのでしょう?」
 木崎が尋ねた。
「今の政府がどうするかだな。」
「佐々木さん、あなたは一般人となった今、この国がどうなってほしいと考えますか?」
「私は……わからない。旧政府の下で公安警察として働いていた時、この国の安寧と秩序を守ることこそが私の使命だと思っていた。だから、それを脅かすものはどんな手段を使ってでも排除してきた。だが、今は……安寧そのものが何なのかわからない。一体どう振る舞うのが、この国と国民を守ることになるのか私にはわからないんだ。だから、私はこの件をある若者に託した。私は東條の真実をつきとめた。だが、それでどうしようという気持ちにはならなかった。私にはわからない。ここで東條の真相を国民に話し、新しい指導者を迎えうるのが良いか、それともそうではないのか。これは恐らく、私が決める問題ではない。この事実を知っているのは木崎、山井、お前達の他に、私の協力者になってもらっていた一人の青年だけだ。私は東條の言葉で一つ賛同していることがある。この国の行く末は未来あるものが決めると。だから、私はあの若者に選択を託すことにしたんだ。大丈夫だ。彼は多くの人間が持っていないものを持っている。あの松さんのように……。彼自身はそれを持つ自分を嫌悪しているが、それでも彼は捨て切ることができないものだ。いかんせん、私の役目はもう終わったんだ。」
 佐々木はそれっきり黙った。木崎は話を切り替えようと思った。
「そういえば、佐々木さん。あなたのもう一人の協力者の松山さんのご家庭ですが、金銭的にかなり困窮しているようですよ。元々、子供の学費などで身の丈に合わない出費をしていた上に、夫の稼ぎがなくなりましたから。しかも、それに追い打ちをかけるように、あの妻は家族に内緒でやっていた株で最近、大損したって話です。彼女は働きに出て、親戚や知り合いにまでお金を借りているみたいですよ。」
 佐々木は複雑な表情をして木崎に問いかけた。
「松さんは、死ぬ時に自分の家族のことを考えたと思うか?」
「え?」
「私は考えなかったと思う。私は松さんから情報を得るために、彼のことを調べあげたし、実際彼のことなら何でもわかっているつもりだ。彼はあの時、もはや自分の家族のことを愛していなかった。たとえ血の繋がりがあろうとも、お互いをリスペクトし合う気持ちがなければ、家族でさえ繋がりは脆いものだ。」

第三章 二つの本質

東條は首相官邸の会議室の椅子に座り、これから起こるであろうことをただじっと待っていた。昨日、彼のスマホに一通のメールが来た。それは、身に覚えのないアドレスからだった。中身は、「革命の真相を知っている。詳細を知りたければ、警備を取り払い、二人きりの会談の場を設けろ。そしてこの話は誰にもするな。」という内容だった。彼は指示通り、自分のための警備は全て取り払った。そして、匿名の人物が直通で自分に接見できるように取り計らった。その人物を待つ間、東條は目を瞑り自らの過去を振り返っていた。
(世の中のあるゆるものが空虚に感じ始めたのは高校二年の頃だった。そう、あの頃から始まっていたんだ。それまでヒーローだった俺は、その時、初めて挫折というものを味わい、同時に才能の限界というものを知った。一番になれないのなら何もかもがつまらなく感じた。それを知ると、急に何かが俺に、大人になれと催促しているような気がした。大学に入学しても、その感覚を打破する何かはなく、二十歳を迎えた頃には、俺には自分の先というものがはっきり見えてしまった。きっとこのまま何の特別な才能も発揮せず、普通に就職し、普通に結婚し、年老いて、疎ましがられながら死んでいくんだろうと。皆がやっているその当たり前の人生を受け入れることは俺にとって耐え難いことだった。自分は何か特別でありたい。このつまらない世の中で、クソみたいにつまらない普通の生き方なんてしたくない。そういう思いは心の内に秘めつつも、俺は大学院への進学を決めた。そんな時だった。インターネットであのサイトを見つけたのは。それはユチと自分を称する管理人によるウェブサイトだった。そこには、現状の日本が抱える問題点、将来起こりうる危機、それを解決するための革命の計画について詳細に書かれていた。最初は胡散臭いサイトだと思った。だが、その胡散臭さが、退屈で刺激を求めていた俺の興味をそそった。読み進めていくうちに俺は、自分を遥かに凌駕するユチの圧倒的知識量と読みの深さ、それと革命手法の発想力に驚嘆することとなった。俺は夢中になり、何千ページもあるその思想や計画を一晩中読み耽った。俺がページを閲覧していると、ユチは突然そのサイト上でチャットをしてきた。俺は驚いた。ユチはチャットで、俺以外にはまだこの計画を明かしていないと言った。そして、自分は表だって動くことはできないために誰か行動してくれる人間が必要であると語った。この時、俺は自分の中で、人生の中で一番と言って良いほどの強烈なエネルギーが湧き出てくるのを感じた。俺はユチと共に日本の変革物語の主人公になることを決めた。それ以来、俺は事あるごとにユチと連絡を取り合い、現状に合わせて都度計画を練り合い、革命を進めてきた。
だが、いよいよ事を成そうということになった時、俺は自分自身の正体に気付いた。俺は本当は革命など望んではなかったのだ。ただ、自分自身の満足や退屈凌ぎのために、人々を導いていた。だが、俺だって、自分自身のエゴを自覚しながら行動していたわけではない。俺はそれ以前より世の中について一定の憂慮はしていたし、ユチに触発されたことがきっかけではあるが、革命集団を率いていた時は、自分の意思として国を守ることに情熱を傾けていた。だが、そういう正義感は大抵誰もが少なからずは持っているものだ。ただ、人間は他人のためには命を懸けて動くことはできない。大きな力を発揮する時、そこには必ず、自分を満たすであろうものが原動力としてあるのだ。俺は乃木の言葉によってその内心に風穴を開けられた。本当は心のどこかでわかっていた。いつかそれに向き合わなければならない日が来ることを。しかし、俺はこの非日常的な刺激を否定したくはなかった。また、心のどこかでは、この道を進んだ先に何か別の道や新しい自分が待っていることを望んでいた。しかし、この世は全く紛れもない事実を俺に提示するだけだった。現実の世の中には、巡り合わせも都合の良い予定調和もない。ピンチになってかっこいいBGMが流れるわけでもない。全てがハッピーエンドで物語が終了するわけでもない。人間は命の奴隷として、この世の中で苦しみながら生きていくしかないのだ。だが、俺のそういう気持ちとは裏腹に、俺が鼓舞し扇動してきた民衆は、想像よりも遥かに東條聡という指導者を求めていた。世の中が変わることを望み、当の本人はそうではなかった。決断が迫られた時、もはや、俺自身にも選択の余地はなかった。)

 扉が開いた。谷本武尊は東條が一人待つ部屋に入った。
「どうやらお前は、革命の真相を突き止めたらしいな。」
 東條は座ったままで、入ってきた谷本に話しかけた。
「突き止めたのは俺じゃない。佐々木という男がお前の裏にユチと名乗るゴーストライターがいることを突き止めた。その男は旧政府で公安警察だった。」
 谷本は入口で立ち止まったまま返答した。
「真相を知っているというのはハッタリではないようだな。やはり、ハッキングされていたか。」
「そうだ。佐々木は、死んだと思われていたお前が生きていることを証明するためにライブ中継していた時、お前のスマホのセキュリティが甘くなったのを察知して潜り込んだと言っていた。」
「ああ、あの時だろうな。だが、あれは俺が自分の意思で映したものではない。画面が静止していたから映像を見た人間は俺が自撮りしたもののように見えたのだろうがな。あの時、俺の映像を流したのは組織の中にいた神野(じんの)という男だ。神野はCRYがまだCRYでなかった頃、選挙の政治運動をするために小岩という男が集めた人間だ。神野ははじめから、実行力のある小岩の行動に深く共感していた。一方で、小岩に代わって組織の中心になった俺には常に否定的だった。神野は俺のやり方が穏健的過ぎると陰でよく批判していた。二か月ほど前、革命派の影響力が高まり、いよいよ武装蜂起かと皆がいきりたっていた時、俺は自分が最初から革命なんて望んじゃいなかったことを自覚した。小岩はそれに対して激怒した。そして、小岩は旧政府との会談に俺の代わりに向かうこととし、俺への監視として、自身の信頼のおける神野をやった。俺は、監視がついていようがついていまいが、その時はもはやどうでもよかった。だが、会談に向かう小岩を乗せた車は何者かの手によって爆破され、小岩は死ぬこととなった。恐らく、小岩が指名した運転手のうちの誰かが、自分もろとも俺を殺そうとしたんだろうな。まあ、俺なら乗車の前に一度自分の目で車内を隈なく確かめていたがな。その後、国内では、俺が死んだという噂が駆け巡った。その時、俺と一緒にいた神野は自分のスマホで車に乗車した人間の安否を確認しつつ、没収していた俺のスマホを使って俺を映した映像をCRYのチャンネルに流した。奴はここで革命を終わらせてはいけないと感じたのだろう。だが、俺のスマホは厳重にVPNを敷き、セキュリティ対策を施していた。こういうセキュリティを敷いていれば、必然的に通信速度は遅くなる。あの時は回線も相当混みあっていただろうしな。だから、神野は俺が接続していたVPNを切ったんだ。恐らく、その僅かな時だろう。その公安の人間が俺のスマホにハッキングしたのは。俺はそういう可能性もあるだろうと思っていたが、その時の俺にとっては、やはりそんなこともどうでもよかった。だが、その後の自衛隊や警察の動きは俺の予想外だった。奴らは国を捨てて俺に寝返った。いつの間にか俺は祭り上げられ、気付いた時にはこの国の最高指導者になっていた。これが、あの革命の真相さ。失望したか? だがな、現実なんて所詮こんなものさ。それは、過去の歴史を振り返っても同じことだ。」
 谷本は黙っていた。
「しかしなぜ、事の真相を突き止めたその公安はこない? なぜお前が来た? お前はこの件に関して何か関係しているのか?」
 東條は尋ねた。谷本はふうと一息つき話し始めた。
「ああ、関係してるよ。俺の恋人は二年前、青山大学で起きた刺傷事件で殺された。名前は朝比奈結。彼女は大学生をしながら風俗嬢だった。そして、色をかけた客の恨みを買って殺された。その犯人の名前は小林竜。彼は結を殺した後、自らの手で自殺した。」
「ああ、その事件なら知っている。当時、話題になったからな。だが、それと今回の件は何の関係がある?」
「結の死後、俺はその恋人ということで、参考人として警察の取り調べを受けた。俺は結との関係を警察に包み隠さず話した。俺には、結を殺したのは彼女が関わっていた客だという確信があったからだ。彼女が風俗嬢だったことを伝えると、警察はすぐに彼女が働いていた店に出向き、顧客リストを調べた。小林と顧客リストの電話番号を照合すればいいだけだから作業は容易だったことだろう。調査の結果、やはり彼女は自分の客の恨みを買って殺されていた。警察はそこで、犯行の動機を風俗における男女のトラブルと断定した。これにて一件落着というわけだ。だが、俺の気持ちはどうしても収まらなかった。小林は彼女を殺した後、その場で自ら命を絶った。そんな身勝手が許されるか? 自分の感情を満足させて、罪を償うことなくこの地獄から抜け出すなんて。一方で、この俺はある日突然、最愛の恋人が殺されたという事実を画面を通して伝え聞いたんだぞ。残された人間のこのやり場のない怒りと喪失感は一体どうすればいい? そういう感情に突き動かされてか、俺は小林竜という男について自分自身でも調べてみることにした。俺はきちんと知っておきたかった。彼女がどういう経緯で、なぜ殺されなければならなかったのかを。俺は捜査協力の過程で、警察から逆に小林についての情報を聞き出し、独自に調査を始めた。彼は当時、定職についておらず、警備会社の非正規社員だった。俺はまず、その警備会社に出向き、小林が西口という男とよくつるんでいたという話を彼の同僚から聞いた。そして最近、西口が小林を、自身の信奉するキリスト教の教会へ連れて行き、小林もそこに頻繁に出入りするようになっていたという話も聞いた。俺はその教会に向かった。教会には神父が不在だった。そこの信者に聞くと、最近、神父と信者の一人の女が失踪し、行方がわかっていないとのことだった。小林はこの神父のことをとても慕っていたようだった。タイミングがタイミングなだけに、俺は何かあると感じた。それから俺は毎日教会に通い、その日いる人間に小林や神父の話を聞いていった。心底煙たがられたがな。そこで、一人の人間が、言うのに難色を示しながらも、神父には実は悪い噂があったことを教えてくれた。それは、その神父が信者から不当に金を巻き上げているという話だ。そして、その話をしてくれた男は、最近、小林にも同じような話をしたと言っていた。その時の小林の様子は、心底切羽詰まって怒ったような感じだったという。俺はその時思った。恐らく、小林はその神父に騙されて、金銭トラブルを抱えていたのではないかと。そして、小林は結を殺す前に、神父と桐子という信者の女を殺したのではないかと。実際、その予想は当たっていた。俺はこの推測を電話で警察に伝えた。すると、警察は、後日詳しく話を聞きたいという返答をしてきた。そして、約束の日、警察との待ち合わせの場所には佐々木という男が一人でやってきた。その時はまだ、彼が公安だなんて思ってもみなかった。なぜ、この事件に公安が絡んできたと思う? それには東條、お前が関係しているんだよ。お前たちCRYは三年前、結成間もなくまだそれほど力を持っていなかった頃、お前の指示で悪どい手を使って資金集めに勤しんできたよな。お前は、組織の人員集めと資金調達の二つを効率的にやる方法を考えた。そこで、本来救う対象であったはずの若者達をターゲットにしたんだ。お前は二つの方法で組織に人を集めた。一つは、若者のための政治を訴え、その考えに共感する人間を呼びかける方法。これは正攻法だし何の問題もない。だが、お前はそこで集まった人間から騙しやすそうな人間、または実家が金持ちの人間を選別し、組織の各種資金として巧妙に金を入れさせていた。まあ、元からそういう人間を狙って声を掛けていたんだろうな。そして、二つ目は、稼げるバイトを銘打って金目当ての人間を集める方法。お前達は三年前のこの時点で既に、小規模なオンラインサロンを作ってそこに人を集めていた。だが、やっていたことは議員やコメンテーターの醜聞集めではない。お前はその類まれな弁舌能力を使って、詐欺まがいの商品をサロン会員に売りつけ、同様にそれらを同じような手法で彼らの友人に売りつけさせた。要するに、これはマルチ商法だよな? そして、これら二つの方法を使ってある程度の人員を集めると、今度は集まったメンバーを様々な宗教団体にスパイとして送り込んだ。彼らは大抵どこでも怪しまれることなく歓迎された。今はどこの宗教団体も信者の数を増やそうと躍起になっているからな。お前自身、集団の指導者の立場になったからこの方法を思いついたんだろう? お前は組織の会員に各宗教団体の内情を探らせ、弱みを握るとその情報を利用して、その宗教団体に恨みを持つ者、もしくは同じように脅迫の対象としていた別の団体の指導者を巧みに誘導し、自分は表に出ることなくその宗教団体の指導者を揺すらせた。あの教会の神父もそのうちの一人だった。彼は聖人の評判で名高かったようだが、その内情は内輪での権力を利用して欲に溺れる悪人だった。お前はその情報を元に、間接的に神父を脅して金を巻き上げていたんだ。そして、金に困った神父は、最初は手を出すつもりのなかった小林までを金を奪う対象とし、多額の借金をさせるように誘導した。恐らくその過程で、桐子という教会の女も絡んできたのだろう。公安は元々、お前達がそうやって様々な宗教団体に絡み、資金集めをしていたことは調査済みだった。だから、俺が警察に神父と女についての話をした時、お前のマークに当たっていた公安の人間が出てきたんだ。お前達が神父と女を誘拐、もしくは殺人した可能性があったからな。後日、警察の調査で、神父と桐子という女の遺体が発見された。大胆にも、彼らの遺体は、教会の近くにある人が滅多に入らない廃ビルの八階にあったそうだ。恐らく小林は、金を渡すという名目で二人を呼び出し、その場で殺害したのだろう。小林は既にその時には自殺するつもりでいたから、死体を隠す必要もなかった。いかんせん、彼らはもうこの世にはいない。となると、俺の復讐相手は残りはお前だけだ。お前がいなければ、神父は小林にまで悪意を向けることはなく、彼は追い詰められて自暴自棄になることもなかった。おまえを殺さなければ、結を失った俺の気は収まらない。」
 東條は谷本の話を黙って聞いていた。
「なるほどな。俺が関係しているという言い分がわかった。お前の言った事は全て当たっている。そうか……。要はお前は復讐をしに来たってわけだ。彼女を殺した張本人が死んじまったから、彼女を間接的に死に追いやったこの俺を。それでどうする? 今ここで、その手に持っているナイフを使って俺を殺すのか?」
 谷本は、入室したときは腹に隠し持っていたナイフを、今右手に持っていた。
「その後、お前はどうする? 異常に気付いた警備員に連れられて、そのまま牢屋にぶち込まれるか? それとも俺の真実を暴いたと銘打って、新たな救国の英雄にでもなるつもりか?」
 東條には恐れの様子は見えなかった。谷本はまた静かに話し始めた。
「俺は佐々木に会って以来、互いの利害が一致したこともあり、佐々木の目と耳となって調査に協力していた。佐々木はあの革命の日、お前のスマホにハッキングして、お前がユチというやつの操り人形だったことを突き止めた。俺もこれを聞いた時には心底驚いた。だが、もっと驚いたことは、佐々木が俺に、この情報をどう扱ってもいいと託してきたことだ。だから俺は今、お前の目の前に一人で立っているんだ。正直、彼が何を考えて俺なんかに託してきたのかは今でもわからない。佐々木は、俺なら日本国民を救う最良の選択をできるとでも思ったのか。だが、とうの俺にとっては国なんてどうでもいい。周りの人間のことも。俺は、俺の心を満足させるためだけに動く。結は俺にとって唯一の希望だった。このクソみたいな世の中に光を照らしてくれた存在だった。結が殺された日、俺は彼女の亡骸を確かめに行こうともせず、ただその事実を冷静に受け止めていた。人はいずれ死ぬものだ。彼女は恨みを買った客に報復されただけなのだと、その時は思った。だが、結がどれだけ悪人だと思い込もうが、俺の心に空いた穴は埋まらなかった。どうやら、人は死んだ人間のことを完全に忘れることはできないらしい。」 
谷本はゆっくりと右手を上げた。ナイフが東條に突き付けられていた。東條は目を見開いた。
「お前は、本当に俺のことを殺すのか? その満足とやらのために?」
「そうだ。俺はこれからお前を殺す。小林竜があの事件を起こした背景の一つには、お前がある。お前を殺すことで俺自身に何のメリットがあるのかはわからないが、はまっていないジグソーパズルの一ピースのように、お前を殺すことは俺の運命なんだと思う。お前は言ったな。その後、俺はどうするのかと。答えは、わからない、だ。だが、お前をここで殺すことだけは決まっている。」
 東條は谷本の言葉を聞いて、ふっと笑って下を向いた。そして、今まで見せたことのないような不気味な笑みを浮かべた。
「いいや、わかるぞ。お前は俺を殺せない。もう満足したんだろう? 俺に会ったことで。お前は本当は何も成し遂げることなんか望んじゃいないんだ。そうだろう? なぜわかるって? 俺も同じだからだ。尊き国と大多数の国民を背中に負えば、俺はこの世の中を人間らしく生きていけると思っていた。なにせそれまでは、文字通り廃人だったからな。事実、革命は楽しかったよ。日常では味わうことのできないスリルをたくさん味わったさ。しかし同時に、自分の利益だけは享受しようと俺にすがろうとする醜い人間の姿もたくさん見てきた。CRYを率いていた時も、政権を奪ってからもだ。俺はこんな連中を救おうとしていたのか。心底そう思ったよ。お前、人間が救う価値のある尊いものだと思うか? 俺は思わない。人間は自分の満足のためなら他人なんてどうだっていいんだよ。お前だってそうだろう? なあ、お前も本当は気付いているんじゃないのか? お前は今の今までその最愛の恋人を自分のために利用していたことに。お前は本当は生きる目的が欲しかったんだろう? 恋人を失ってから廃人となり、それでも死ぬことなんてできず、人生の目的を探していた。そして、復讐というものを無理やり見出した。そもそも、間接的に関係しているとは言え、復讐の対象が俺に向かうというのも不自然な話だ。お前は、わかりやすいアイコンであるこの俺を自分の人生の目的に置くことで、それに向かう自分に酔っていたんだ。何を根拠にこんなこと言ってるかって? 目だ。お前の目はあの時の俺と一緒なんだ。勢いに身を任せ、これが自分に定められた運命だと信じ込み、それを成すための日々に心酔する。だが、俺達は馬鹿にはなり切れない。俺達は自分を捨てきれない。お前は今、自らの言葉とは裏腹に、俺を殺した後のことを既に心のどこかで想像しているはずだ。そして、心の奥底では、この場から去ってしまいたいと思っている。違うか? お前は俺と同じだ。俺は、俺達とは違い本当に事を成す人間の目も知っている。ずっと近くで見てきたからな。」
 谷本はナイフを構えたまま数秒無言だったが、また話し始めた。
「そうさ。俺がここまで来たのは自己愛のためさ。この世の中に、他人を思いやる無償の愛なんて存在しない。あるとすれば、それは母親の我が子を想うそれだけさ。お前はどうして言い切れる? 俺の自己愛が自分の身の安全や自由を守るために注がれると。俺は心底、この世の中に嫌気がさしている。俺の中で満足してしまえば、その瞬間、何の責任も負わずに自分の命を終わらせることも自己愛と呼ぶのではないのか? あの小林のように。お前は復讐の対象が自分に向かうのは不自然だと言ったが、人間、自分が満足してしまえば、その対象が本当に復讐する価値があるかどうかなんて関係ないんだよ。」
 谷本は、東條を殺したのち、自分もそのナイフによって死ぬことをほのめかしていた。東條の表情から笑いが消えた。彼は何かを考えていた。数秒後、また語り始めた。
「自己愛……か。俺もそうだ。俺は自分のために革命組織を結成し、自分のために人々を先導した。そうやってここまで来てしまった以上、俺には元々、この国のことなんてどうでもいいはずだ。だが、革命が達成されてなお、なぜ俺は日本の指導者として働いている? なぜ、俺は全てを投げ出さない? 国の中枢にいるからこそ、俺にはこの先の未来で確実に言えることがある。日本は近い将来、必ず他国の攻撃に遭う。なぜか? 今の日本は革命によって成立した国だ。他国は革命の余波が自国に届かぬよう、日本という国をどうしても潰しておきたい。いずれ日本を国際的に孤立させ、きっかけをつかめば集団で戦争を仕掛けるつもりだ。あたかも、大国お得意の正義の戦争のように見せてな。でたらめだと思うか? 俺は各国のインテリジェンス 共が今、この国の国防戦略を掴もうと躍起になっているような報告を連日受けている。だから俺は、俺自身の意思で対外防諜のために秘密警察を組織したんだ。他国に支配された国がどういう運命を辿るのかお前は知っているか? それは、死んだ方がよっぽどマシな毎日の始まりだ。男は奴らを太らせるための労働に駆り出され、女は既婚、独身問わず犯される。人間としての尊厳など根こそぎ奪われるんだ。それが戦争というものだ。そんなこと、現代において起きるはずがないって? お前も見ただろう? あの温厚だった日本国民が、震災以降、生活に困窮し暴徒化していったのを。ニュースなどでは、若者の無謀的犯罪ばかりが取り上げられていたが、実際には、三十歳以上の非正規労働者の間でも、同様の犯罪はかなりの数起こっていた。要するに、人間、余裕がなくなればどこまでも残酷になれるってことだ。それは、国という単位でも同じことだ。なにせ、戦争は異常に金とストレスがかかるからな。いかに国連というものがあろうとも、そんなもの大国の論理にかかっては無いも同然だ。世界政府など、今の世の中にはないのだからな。」
「何を言っている? この期に及んでお前は国を守る責務に目覚めたとでも言うのか? お前はどっちだ? 善か悪か。」
 谷本は戸惑っていた。東條はナイフを構えている谷本をまっすぐに見つめた。
「要するに……俺は、死ねない。この現状を招いたのは俺だ。俺には国民に尽くす義務がある。ここで責任を放棄して死ぬことができればどんなに楽か。だが、それはできない。俺はこれまで、ユチの言葉に導かれて動いてきた。確かに俺はユチの言う通りに動いてきたが、国に対して全く無関心であったわけではない。元々は俺自身も憂いていた。この国の将来を。俺達の子孫は俺達以上に苦しめられる。そんな現実があるからこそ、俺は立ち上がろうと思ったんだ。」
「だが、お前のやり方は酷いものだった。事実、あの革命を通してたくさんの高齢者が犠牲になった。今もなお、お前の行き過ぎた高齢者に対する冷遇は、彼らを苦しめているじゃないか。」
「だが、俺がいなければもっと悪い未来が待ち受けていたことは間違い無い。俺達はいつか人間の選別を行わなければならなかったんだ。極論だと思うか? しかし、結果論ではなく、この問題を誰か他の人間が解決できたか? そこまでする必要がないって? そんなことはない。そう遠くない未来に必ず、今までの反動は俺達に降り掛かっていたはずだ。俺達は結局、自分達はベストを尽くしたと言い訳をし、将来の世代に問題を先送りしていたんだ。だが、その歪みはいずれ巨大な膿となって国民に降り注ぐ。日本は、いつかはリセットしなければならなかった。俺はそこに向き合ったんだ。どれだけの犠牲が出ようが、未来は自分達自身で守るしかないと。」
 東條はナイフを構える谷本の方へ一歩一歩近づいていった。彼の鼻息は荒くなっていた。彼は次第に、狂気じみた様相を見せ始めていた。
「お前は問うたな? 俺が善か悪かと。俺が自分のために組織を率いて、革命を起こしたのは疑いようのない事実だ。だが、結果として、今この国は変革の時を迎えている。俺はこの先の未来、この国と民衆を脅かすものはどんな悪どい手段を使ってでも排除してやる! お前に問う。善人のなす政治は全て正義なのか? 悪人のそれはすべて悪か? 本当にこの国とその民衆を守るのはどっちだ? 東條聡は社会に殺された。だからこそ、今度は、何者でもないこの存在がこの国を守るために動く!」
 東條は凄まじく激しい口調と表情で言い終えた。彼がこんなにも感情をあらわにするのは初めてだった。一方、谷本の心は揺れていた。彼がかつて捨てたはずのものは、今もなお彼の奥底にあった。しかし、彼はそれを自覚していなかった。

会議室にはひたすらに長い沈黙が流れていた。それは、部屋にかけられた秒針が三度も回りきるほどであった。やがて、ナイフを汗ばむ右手に持ったままの谷本は、ようやく顔を上げて、東條を見つめ静かに語った。
「自分の意思で動けよ。たとえその先の道が間違っていたとしても、お前はお前の革命を起こせよ。」
 谷本の言葉に、東條の頭には小岩の顔が浮かんだ。
「革命、か。」
 東條は呟いた。

第五部 善と欲望

 谷本武尊は欲望を悪と捉えていた。欲があるから争いが起きるのだ。世界中の皆が自制し合えば、平和で理想的な社会になると考えていた。彼は口数の多い人間ではなかった。身に起こったことは、誰のせいにするでもなく、ただ自分の中に受け止め、内省するのが彼の性分だった。気の許せる友人はほとんどいなかったように思う。しかし、彼が自らそれを放棄したのではなかった。彼は誰よりも、他者に自分のことをわかって欲しいと思っていたし、同じように他者のこともわかってあげたいと思っていた。彼は小さな頃、将来は世の中の多くの困っている人々を助けてあげたいと思っていた。自分が犠牲になって、誰かを救うことができるならば、それが本望であるとも思っていた。それが、具体的な行動として表れることも多々あった。彼が小学四年生の頃、同級生から些細ないたずらを受けた。小学生というのは物の程度がよくわかっていないもので、結果として、彼は顔によく目立つ切り傷を受けた。担任の教師はそれを発見すると、すぐさま相手の生徒と彼とで事実確認を行った。教師の立場は、ほとんどその友人を責めるような格好であった。友人は泣きじゃくりながら、故意にやったのではなく、彫刻刀を持った手が滑り、勢い余って前に突然現れた彼に当たったのだと主張した。そんな場面でさえ、彼は相手の男の子が教師に責められる様子を見ていてとても可哀想に思い、助けてあげたくなるのだった。彼は、自分が友人を脅かそうと突然前に表れたところ、驚いた友人が手を滑らせたのだと主張した。
彼は、自分自身の人格について、正しいと思っていたし、また、正義の行いをする度に誇らしさを感じていた。そんな彼の価値観を翻弄する出来事が彼の十二歳の時に起こった。彼の父親は無口で無愛想な男だった。彼は十二歳になるまで、父親が何の仕事をしているのか全く知らなかった。ただ、街やテレビで見る一般的なサラリーマンではないことはわかっていた。彼の父親はいつも深夜の決まった時間に作業着を着て車で出かけ、昼過ぎに死んだ目をして帰ってきた。彼の父親は帰ってくると真っ先に風呂へ向かい、出てくると、買ってきたビール缶一本に夕飯を済ませ、ほとんど言葉を発することなく寝床についていた。
 彼はある時、意を決して父親に聞いた。自分の父親はいったい何の仕事をしているのかと。その日の深夜、父親は彼を車に乗せてどこかへ向かい始めた。着くと明らかにその建物の周囲は空気が澱んでいた。彼はそこに入るのが嫌だと本能的に思った。父親について建物の入り口に向かうと、徐々に生臭い臭いと人間のものではない呻き声が大きくなっていった。そして、そこへ入った時、彼はこの場所が屠殺場であることを理解した。
生き物が実に効率的に、かつ流れ作業的に殺されていく姿は、ある種の芸術性さえ感じた。それは、人間の賢い頭で編み出した合理性の姿を見ているようだった。あの屠られる豚は、例えば屠殺場で働く彼らの子供を食い殺したのか。ならば、今目の前で起こっている現実は因果応報の四文字で片付けることができる。だが、それは違うと彼はわかっていた。あの豚達は人間が食し欲を満たすためだけに生まれてきて、今、無残にも殺されているのである。彼の父親はたった一言こう言った。
「これが世の中だ。」
その時から彼は人間が食べている様子を見て気持ち悪さを感じるようになった。以来、彼は肉を食べることをやめた。食事は徹底して米と野菜のみを口にするようにした。一週間もして、彼は自分の身体に全く活力が湧いてこないことを感じた。それでも頑なに肉を食べなかった彼は、ある日、体育の授業中に倒れて救急搬送された。気付いたら彼は病院のベッドの上にいた。倒れた原因は貧血だった。そこで、拒む彼に反して強制的に豚のしょうが焼きが食べさせられた。忌み嫌う行為とは裏腹に、彼の身体は心底喜びの反応を見せていた。自分自身も、結局は快楽を貪る人間に過ぎないのだと彼は初めて学んだ。自分達は生存という籠に入れられ、欲望という呪いにかけられているのだと、彼はその時初めて知った。

彼が初めて交際した女性は、パッとしない地味目な女の子だった。それは、彼が高校二年生の頃で、きっかけは彼女が描いていた絵だった。彼女は美術部に所属しており、その日は教室から見える桜を描こうと、皆が帰った後、担任の許可を得て教室で作品を描いていた。そこへ、忘れ物をとりに来た彼が、ガラッと勢いよく戸を開けて入ってきた。彼は、教室でポツンと一人絵を描いているクラスメイトを特に気にすることもなく自席に向かった。机の中の忘れ物をとって再び扉に向かおうと振り返った時、彼は初めて動揺した。彼女は突然の入室者に驚き、筆を滑らせてしまっていた。床には絵の具が点々と飛び散っており、彼女は目に涙を浮かべていた。彼は、自分の登場によってそれが起こったのだろうなと悟った。しかし、彼は女子と話すことが気恥ずかしく、ただ一言の謝罪の言葉を出すことができなかった。そして数秒固まった挙句、教室を出ようと歩みだした時、彼女が彼に喋りかけた。
「何もないん? 言葉。」
 彼は彼女の気の強い言い振りに驚いた。彼女は絵や自分の大事なものに関しては感情を表に出すタイプだった。
「ごめんなさい。」
 彼は素直に謝った。しかし、彼女の怒りは収まらなかった。
「あんたのせいでめっちゃ時間かけたこの作品おしまいやん。どうしてくれんの?」
「どうしたら……。」
 彼はおろおろしながら彼女に近づき、自分が台無しにしたらしい絵を見た。
「どこがダメになったの? すごく綺麗だけど。」
 彼は本心からそう言った。彼にはその絵のダメになった部分が全くわからなかった。彼女は少し頬を染めながらも彼を責めた。
「ここ。よく見て。色にムラができてるやろ。ここだけ手滑らせて濃くなってしまったん。」
 彼にとっては本当に意識してみないとわからない差だった。しかし、自分にとっては些細な違いでも、他人にとってそうでないことは世の中にたくさんあるのだということに気付き、彼は誠意を持って謝った。彼女は不平を言いながらも、最終的には彼を許した。
それから彼女は学校でもよく彼に話しかけるようになった。彼女はそれまでクラスメイトとはあまり関わっていなかったので、話す相手ができたことが内心嬉しそうだった。気が付くと、二人は週に一度、部活終わりの時間の合う日に一緒に帰る仲になっていた。彼らは自然と、周囲に交際していると認識されていた。しかも、その噂は彼女の告白により現実のものとなった。交際が始まって二か月ほどしたある日、彼は彼女に誘われて彼女の家に行った。そして、彼女の部屋で学校のこと、友達のことなどを二時間近く喋ったのち、彼は自分の家に帰った。その数日後、彼は彼女に別れを切り出した。他に好きな人が出来たとか、彼女のことが嫌いになったなどの理由ではなかった。恐らく、彼の中で、彼女と向き合うための気力が無かったのだ。

彼は、大学を出て、会社員として働いていた。その会社は最悪の労働環境と人間関係で、彼は毎日毎日死にたいと思っていた。丹念込めて尽くしていた営業先のために、日曜にも関わらず一人出勤し、商談の準備に励んでいた彼は、その夕方、電話口で彼らにあっさり裏切られたことを伝え聞いた。その日、彼は一人泣きながら公園で酒を飲み、家に帰る気にもなれず、やけになって風俗を使った。そして、彼は一人の女の子と出会った。自らを嘘で塗り固め、私腹を肥やして華々しく着飾る彼女は、天使の格好をした魔女さながらだった。しかし、彼女は言うまでもなく異様に美しく、そして可愛い女性だった。握り拳ほどの小さな顔、大きくて黒い瞳、陶器のような白い肌、美しく巻かれた薄茶色の髪、その整った顔立ちの中にある愛らしさは、見る者全ての心を奪ってしまうほどだった。また、彼女は身に纏う物も実に洗練されていた。服、バッグ、腕時計、靴、アクセサリー、香水、彼女の身につけているものは、全て高価なブランド物で固められていた。彼女はそういった物を上手に着こなす術も持っており、彼女にかかれば、よくありがちな高級ブランドに着られている感を感じることは微塵もなかった。彼女はそういったブランド品について、悪びれることもなく、客から貰っただとか、稼いだお金で買ったと彼に語った。内心好みじゃない物に関しては、それと一緒に写った写真をいろんなバリエーションで撮った後、ネットや質屋に売りに出して換金するのだという。再度その客に会うことになっても、その写真を見せてやれば、大概は満足するのだそうだ。彼はそんな彼女の話を聞いていて、言葉や態度には出さなかったが、少なからず心が痛むことがあった。女という生き物には基本的に慈悲がない。とは言え、彼女の気を引こうと、そういった物で釣ろうとする男も男なのだが……。彼は彼女と話していて、彼女の中には、彼が抱く様な罪悪感の感情は無いのが感じ取れた。それでも彼は彼女の顔を見る度に、彼女への想いが増していくのだった。彼は彼女と毎日ラインのやり取りをした。連絡不精な彼は、そんなこと今まで誰ともなかった。彼は毎日彼女と繋がっていられることが幸せで、仕事中でも風呂に入っている時も携帯は片時も離さず常に気にしていた。彼女からのメッセージの内容はいつも自然なもので、お互い気を張ることなく心地良い会話が続いた。しかし、たまに数時間遅れてメッセージが来る時は、彼はどうしても彼女の仕事のことを考えざるを得なかった。もはや、彼にとって彼女は生活の中でなくてはならないものになっていた。彼女は彼にとって、退屈で苦しいばかりの人生に現れた希望の光だった。
 彼が彼女と一緒にいたのは大変短い期間だったが、二人は実に多くのことを話した。彼女は、彼に対して、ただ素直に好きだという感情を表現してきた。彼にとってはそれが本当に嬉しく、心地良さを感じた。これまで、彼の周囲には、彼に注目する人間はいても、正面から向き合おうという人間は一人もいなかった。同性からは薄汚い眼差しを向けられ、異性からは一歩引いた目で観察される。きっと彼女もそうだったのだろうと彼は思った。二人は、似たような痛みを持っていたからこそわかり合えたのだ。彼が彼女に、他の女にはない特別な感情を抱いたのは、まさにそういったところだったのだ。
 一方で、彼は彼女が風俗嬢であるという事実に何も感じていないわけではなかった。初めてデートした日、彼は彼女が風俗で働いている理由を聞いた。彼女ははじめ、言うのをためらっているように感じたが、遂には自分の本心を告白した。それは、嘘偽りなき彼女の真実だと彼は思った。彼女にとっては相当の告白だったことだろう。だから、彼がそれを受け入れたことは彼女にとって大変嬉しいものだったことと思う。彼もその時は、真実を持って向き合ってくれた彼女に対して特別な感情を抱いた。しかし、彼女と過ごす時間が長くなれば長くなるほどに、彼は彼女に対する恋心と、相反する複雑な感情の両方を増していくこととなるのだった。彼女の周りには今でも多くの男がいる。この先も彼女は多くの男と出会う。中には自分よりもときめく対象に出会うかもしれない。今現在がこの上なく幸せなだけに、それを失う恐怖も一段と増していくのだった。
 しかし、そういった幸せと悩みも束の間、彼女は客の恨みを買い、殺された。警察は彼女のスマホを調べた。そして、恋人と思われた彼にも事情が聞かれることとなった。彼は警察の調査の過程で彼女の遺品を見た。その中で、彼は一つの物が気になった。それは、彼女の日記だった。日記は、二〇二二年から二〇二四年までの三年分を記述できるような仕様になっていた。内容を見ると、その多くは、風俗の仕事で出会った客のことだった。彼女は客の身なりや仕草から、自分なりの考察を一人ずつ事細かに書き記していた。
「2023年4月1日 土曜日、本指名、7回目のお客さん。私の好きなブランドの財布をくれた。前回会った時に何か欲しいものがあるかと聞かれて、私がそれを答えたからだ。確かに、この財布は私がずっと欲しかった物だけど、なんで、それを手に入れた今こんなにも興味を失っているのだろう。私は何か、それを見るのが嫌だとさえ感じる。私はこの気持ちの原因を知っている。このブランド物には、お金で気を惹こうという客の浅ましさが見え隠れしているんだ。だから、私はこの大好きなブランド品から目を背けたくなるんだ。」
彼はパラパラとページをめくり、自分が彼女に出会った日の記述を探した。
「2024年7月7日 日曜日 20:00 20代前半 名前:リュウ 白のTシャツにベージュのチノパン リュック 現場系の仕事をしている方? 風俗自体初めてとのこと。本人の挙動からたぶん本当だと思う。パッと見て冴えない感じがした。けど、彼は極度に緊張してぎこちないながらも、靴はここに脱ぐのだとか、トイレはここにあるのだとか、正直どうでも良いことだけど、気遣ってくれていた。そこに、私からの対価を求める客達とは違った感覚を受けた。正直、少し嬉しかった。他の女の子も同じホテルに同じタイミングで呼ばれたから、彼はおそらく上司か同僚に連れてこられたのだと思う。彼を見ていると、なんだか彼に優しくしてあげたい気持ちになった。これは、幸薄く見えた彼を哀れむ心から来たからかもしれないけど…」
「2024年7月7日 日曜日 22:00 20代半ば 黒のスラックスにブルーのシャツのスーツ姿 爽やかそうな見た目。ホストの見た目ではなかった。最近はこういった客も多い。いつものように少し恥ずかしげで嬉しそうな演技をしようとした。でも、彼は反応が読み取りづらかった。少し話していると、彼は私にどこか似ている気がした。何だか不思議と彼に興味が湧いた。私は彼に今後も関係を持ってくれないかと持ちかけた。自分でもなんでそういう気持ちになったのかはわからない。だけど、彼は私が求めている答えを持っているような気がした。」
 次のページからは彼女の仕事に関する記述は少なくなった。それに代わって増えたのは、彼に関することだった。
「2024年7月14日 日曜日 彼との初デート。最初は緊張したけど、だんだん仲良くなれた。ご飯は美味しかったし、井の頭公園に行っていろんなことを話した。彼はやっぱり、周りの人間との関わりの面で自分と似ている所があると思う。私達はお互い、他人と心を割って付き合うことができない。それは、私達が他人といろんな部分で違うからだ。これまでは、そういう気持ちをわかってくれない周囲に対してイライラしてたけど、彼ならきっと私の話に共感してくれる。彼なら、たとえ私が風俗嬢であろうと、それを理解して私の人格に正面から向き合ってくれる。私はそういう人をずっと求めていた。」
彼は日記を読み進めていった。彼に関する記述は、その後も頻繁に出てきた。文面から、彼女の喜びがその場で聞こえてくるようだった。しかし、彼はページをめくるごとに、彼女の記述内容が、次第にネガティブな感情を含んだものになってきていることに気付いた。それは、風俗の仕事に関しても、彼に関してもそうだった。
「2024年8月16日 金曜日 彼と一緒に映画に行った。私も彼もずっと観たかったやつ。主人公とヒロインの飾り気のない恋愛の感じが良かったな。フィクションの中では純粋な愛情が確かに存在していて、私はそういうものにすごく憧れる。今、私は彼とそういう関係になれてるのかな……。
映画が終わった後、通りを歩いてたら、彼の元カノっぽい女が彼に話しかけてきた。私はその場にいて話を聞いているのが何だか嫌になって、二人から離れた。戻ると女はもういなくなってて、彼はちょっと落ち込んでるみたいだった。彼の感情があの女によって何かしら影響を受けたのだと考えると、なぜか私の気分も落ち込んだ。」
「2024年9月14日 土曜日 今日も客から別れを切り出された。よくあることだけど、こうして立て続けに起こると気が滅入ってくる。私はこの仕事に向いていないみたいだ。いや、前まではどんな客とも心から楽しく過ごせていた。笑顔を頑張って作るようになったのは最近のことだ。客にはそれが伝わるのかな。」
 次のページ。文章が日付の枠には収まっていなかった。
「私は、彼のことを四六時中考えてしまうほど、彼のことが好きみたいだ。彼の注意は全部私に向けて欲しい。私のためなら何でもして欲しい。永遠に彼と一緒にいたい。それだけできっと幸せだ。だけど…彼はいずれ私から離れていくだろう。私が若さを失えば彼は新しい女性を求めていく。いや、もう求めているかもしれない。風俗嬢をやっていたらわかる。どれだけ強く抱きしめあっても、身の震えるような言葉をささやき合っても、男女の間に永遠の絆など存在しない。彼は私の容姿が醜かったなら、私の話を聞こうとしただろうか? 私の誘いに乗ってきただろうか? そういうことを考えていると、世の中の決まっていることに逆らえない自分に途方もない無力感を感じる。そして気持ちが締め付けられる。彼が他の女と一緒にいることなんて、考えただけでやりきれなくなる。私はこの先、どんな大金持ちが一生豪邸に住ませて養ってくれると言ってくれたとしても、彼を選ぶだろう。」
 日記はこのページで終わっていた。彼の彼女を愛する心は、常に不安や葛藤と表裏一体だった。彼は、彼女がどれだけ自分のことを好きだと言ってくれても、彼女のことを完全に信じることはできなかった。しかし、自分が彼女を愛し求めていたように、彼女もまた自分に対して同じ気持ちを抱いていたことをこの時初めて知った。二人の愛は、彼がいつか読んだ詩のような「無償の愛」ではなかったかもしれない。だが、自分のためにお互いを必要とした事実は、「愛」という言葉で呼んでも良いのではないかと彼は思った。また、この日記を読み、彼は、彼女も元々は心優しく、相手を思いやる心を持った子だったのだとわかった。一方で、彼女は、自分を抑えて生きてきた反動と周囲の放置のせいで、良心よりも彼女自身を満たそうとする欲の方が強まっていったのだ。彼女はそれを自覚しつつも、自分の欲に従う方を選んだ。

 彼は彼女を失った後、大きな喪失感に襲われた。今まで当たり前にあった彼女とのやり取りは、彼の生活の支柱であったことを痛感した。彼は彼女という、生きていくための唯一の希望をなくし、一度、本気で首を吊って死のうとした。彼は普段から、生きていることに意味などなく、早く死にたいと考えていたが、本気でそれを試みたのはこれが初めてのことだった。だが、死の寸前になって、彼の中の生への執着がそれを阻んだ。彼は死を実際に前にして、生きたいと願う自分を初めて発見した。
その後、彼は、彼女がなぜ、どういう経緯で殺されたのか深く調べ始めた。そして、調査の結果、彼女を殺した小林にも、そこまで追い詰められた原因があったことを知った。恋人を失い、それでも廃人のように生きていた彼の感情はそこへ向けられた。彼は彼女のために、小林が暴走する原因となった東條に復讐することを決意した。それこそが、自分が生きていることの使命だと彼は思った。
 しかし、東條への復讐に向かう一年半余りの期間は、彼に多くのことを思考させ、自分について見つめ直させる時間だった。彼は、昔から自分の身に起こったことを深く内省する性分だった。彼はある時気付いた。自分は彼女のために復讐へ向かっているのではなく、ただ自分が生きていく糧が欲しいのではないかと。復讐とは彼にとって、彼女の代替物、及び自分が生きていくための道具でしかないのではないかと。彼は彼女の死さえも、自分の欲のために利用していたことをその時自覚した。彼の中に眠る最大の欲とは、自分がこの世に生きている言い訳を欲する気持ちだったのだ。昔から、生きていること、それ自体が彼にとっては恥ずかしく思えていた。食べること、眠ること、着飾ること、そういった人間としての欲を貪ることは、彼にとって最も醜いと思えることだった。なぜなら、人間にしろ、何にしろ、この世に存在すれば、それだけでその他のものを不幸にするからだ。ましてや、贅沢なんてすれば、その影響はより多くのものに及ぶだろう。誰かが幸せになれば誰かが不幸になる。これは事実なのだ。私たちは普段そういった場面を直接目の当たりにすることはないがために、それを意識することはないが……。それゆえ、あの病棟で肉の美味さに身体が歓喜の叫びを挙げた時、彼は心底、自分の身体に嫌気が差した。また、彼は誠意を持って自分に向き合った三宅莉乃に対し、本心では彼女に対する情欲の欠乏を背景に関係を終わらせた。それからしばらくして当時を振り返るごとに、彼は自己嫌悪と彼女への申し訳なさでやりきれない気持ちになった。彼は、自分自身が幼い頃に憎んだ欲深き存在に、自分もなっていたことが許せなかったのだ。
彼は小さな頃より、自分が世の中において強い存在でないことを本能的に知っていた。そういう人間は、優しさだったり因果応報だったり、そういうことにこの世界の真理を見出そうとするものだ。しかし、世の中は残酷だ。私達の世の中は決して皆が平等で、正義が報われるようにはできていない。彼はそのこともまた、本能的に気付いていた。彼は、そうした現実とどう向き合うかという問題と、小さな頃より戦っていた。しかし、成長するにつれ、彼の中で自分自身を守ろうとする気持ちは強まっていき、欲というものも次第に理解できるようになった。それでも、彼にとって、それはまだ戦うべき相手だった。彼は必死で、欲を受け入れることを拒んできた。それが、人としてあるべき理想の姿だと思っていた。
だが、歳を重ねるにつれ、彼の周囲には欲深き悪が増えていった。悪は伝染していくのだ。神が機能していないからこそ、多くの人間はいつか、この世の中において悪は正義であると気付くのだ。次第に、彼の中で大切にしていた「優しさ」とは、他人にとって都合の良いだけのものに思えてくるのだった。しかし、それでも、彼の持つ優しさが本当に他人を想うものならば、彼は見返りなど必要としなかっただろう。彼は自分が抱いてきた理想も信念も、全ては彼自身のためのものだと気付いた。それは彼が内心気づいておきながらも、長年見ないふりをしていた事実でもあった。彼の善行は、彼が自らを奮い立たせて行動したものではなく、ただ、自分が不誠実であることに一種の気持ち悪さを覚え、そこから逃れようとした結果に過ぎなかったのだ。彼は贅沢や欲を嫌悪する一方で、内心ではそれを欲していたのだ。彼はこの時、初めて朝比奈結の気持ちが本当の意味でわかった気がした。彼女が建前を嫌い、本音にこだわった理由、それは、自分を含め人間の本質が欲深く醜いものであると理解しており、それを綺麗な言葉や態度でごまかそうとする他人の姿が許せなかったからだ。彼もまた、彼女と同じように善にはなれなかった。
 彼は一つの結論を得た。自分の身を守ろうとすること、自分の欲求を満たそうとすることはそんなに悪いことだろうか? 他人を助けることになんの意味がある? それが、自分自身の利益に繋がるのならわかる。だが、無償で他人を助ける人間など恐らくは存在しない。皆、何かの見返りを求め、他者と関わるのだ。

(人間はなぜ生きているのか。人間とは、営みの中で生まれたただの種だ。そして、その舞台が地球であった。それが事実だ。俺達は、命があるという事実があるから生きている。そもそも人間、いや、この世の中のあらゆる生命に、さらに言うと宇宙の成り立ちに恐らく理想や大義など存在しない。それらはただ、営みの中で生まれた事実として存在し、今も増え続けている。人間は自らが生きている意味を求める。昔からそれについては様々な解釈と理由付けがされてきた。だが、大前提としてそれらに意味なんてない。ただ、生きているという事実が存在するだけだ。人はなぜ生きるか、この問いに対し、明確な証明をしようとした場合、俺達はしばしば迷宮に迷い込む。はたまた、最終的には未来の世代のためだとか、他人のためだとか、ヒューマニズム的な思考に酔い、何となく気持ちの良い結論を用意してとりあえず議論を片付けようとする。だが、論理性を重視する人間にとって、それらの答えは満足するものでは到底ない。そもそも、俺達人間が生きる意味を論証しようとする姿勢が間違っているのだ。何かがしたいから生きる、たったそれだけで良いのではないか? もしくは、今死にたくないから生きる、今死ぬ理由がないから生きる、死ぬのが怖いから生きる、たったそれだけのことで良いのではないか? たったそれだけで、生きるための理由は存在している。
生きていること自体に意味などないが、この世に生まれ落ちてしまった以上、人間は現状の不満足を変えるために動く。言わば、革命のために生きるんだ。だが、その革命には常に代償が伴う。人間は自分の革命のために動き、それによって他人から何かを奪う。それなら、人間が革命を起こすことは悪なのか? かつてはそう思っていた。だが、この世界に生まれてきてしまった以上、どうしても俺は自分を捨て切ることなんて出来なかった。俺は他人を傷つけながら生きるならば、いっそ死んでしまいたかった。それでも俺は死ねなかった。俺は悟った。人間はどこまで行っても、自分だけを愛している。この世に他人を慈しむ無償の愛なんて存在しない。ただ一つ、それがあるとすれば母親の我が子に対するそれだけだ。俺は自分の欲を否定するのをやめた。俺は他人を無視して、自分のために生きようと思った。かつての、世界平和を願っていた俺は完全に死んだ。それが、俺にとっての革命だったんだ。だが、それは仕方のないことだ。なぜなら、この世は元々、そういう風にできているのだから。
東條は、CRYを率いて高齢者層やそれを優遇する政治家達を標的にした。そして、彼らが利権を貪っているのだと主張し、命の選別を行った。だが、若者も高齢者も、生まれた時代が違うだけだ。要は、論理的な正当性ではなく、どちらの側に自分がいるか、ということだ。人間は自分達の安定を守るために動く。誰が悪いのか? いや、誰も悪くない。東條さえも。彼の言う通り、この先の未来がどうなるかは誰にもわからない。東條が革命を起こさなければ、日本国民の将来はもっと悪くなっていたかもしれない。逆もまた然りだ。そしてその先も、東條のような人間が権力を握ることが、この国の将来にとってどのように転ぶことになるのかはわからない。東條は言った。自分は社会に殺され、これからは社会に奉仕する人間になったと。だが、彼が本当にそうだったのかは俺にはわからない。人間の本質はそう簡単には変わらない。彼はナイフを向けられて俺に弁舌した時、本心では、ただ死にたくなかっただけなのかもしれない。彼自身も気付かないところで、彼の本能がとっさに国を守るという建前を作り出したのかもしれない。人間の心の内は、本人でさえ自覚できるものではない。この国と国民の未来は、彼に委ねて本当に良かったのだろうか……。
いいや、違う。こんなことは俺にとってどうでもいいはずだ。俺は、自分のために結の死を利用していたことを自覚しながらも、結局は彼女を失った喪失感を埋められず、東條への復讐に走った。しかし、東條はすぐに俺のエゴを見抜いてきた。俺は自分の心が見透かされたのが気に入らなくて東條の殺害をやめた。それが事実だ。俺は、どこまでも自分の感情と欲に動かされて生きている自分勝手なクズ野郎だ。それが俺の本質だ。だが、誰も悪くない。人間は、自分の願望を満たすためにどこまでも傲慢に生きるんだ。それが人間の本質なんだ。強いて言うならば、この世の中が悪いんだ。)

終 若き意思

 二〇二六年八月十五日、国民にとってはいつもと変わらぬ日常だ。今日この日を新しいスタートの日と位置付け、決死の覚悟を持って臨んでいる人間は東條を置いて他にいないだろう。彼は定例の会見に臨んだ。スーツ姿の東條は壇の前に立った。彼は前をしっかりと見据えていた。彼は、一度深呼吸したのち、やがて国民に向かって話し始めた。
「先の令和革命から三か月が経ちました。それまでの日本を振り返ってみましょう。戦後、復興のため、私達の先祖は懸命に働き、日本国は高度経済成長を経て豊かな国となっていきました。しかし、バブル崩壊、失われた十年以来、少子化は進み、その影響は徐々に大きな膿となって私達世代に降りかかりました。私は、その苦難からこの国と国民を守ろうと革命を起こしました。無論、多くの犠牲者も出ました。しかし、そこまでしなければ、現在、そして未来にはもっと悲惨な事態に発展していたことでしょう。今まさに、日本は変革の時を迎えています。そして、この国の政情の混乱に乗じて、他国からの脅威はますます増している限りであります。先の革命から、自衛隊員のなり手不足が顕著になっています。現状、私達の国防の術は日に日に弱まってきていると言っても過言ではありません。」
 東條は一拍置いた。少し壇上へ視線を落とし、また画面の方に向き直り声を一層張り上げて語り始めた。
「そこで……私はこの国に徴兵制を導入したいと思っています。今まさに、皆さん方、日本人の底力が試される時なのです。自国の安全は自分達で守っていかなければなりません。共に、理想の国を作っていきましょう!」
多くの群衆は驚きの声を上げた。東條は真っ直ぐ前を見据えていた。この目は東條自身のものだ。そんな東條の姿を谷本は街に映されたスクリーンを通して見ていた。東條の演説が終わると谷本は再び歩き出した。空はどこまでも厚い雲に覆われていた。


革迷

革迷

少子高齢化が進み、若者の7割が貧困に陥った現代の日本。賃金は下がり、一方で社会保障の負担額は増大し、生活が困窮して追い詰められた若者達は頻繁に暴走的犯罪を起こすようになっていた。 そんな日本において、天賦の弁舌能力とカリスマ性を持った天才大学生の東條は、その才能とは裏腹に「特別」でない自分を自覚し、将来に対して諦めの感情を抱いていた。しかし、彼はある日、友人に頼まれて政治セミナーの講師を行うことになり、そこで、政治に熱心な高校3年生、小岩と出会う。小岩や恩師の李先生の影響を受け、東條はこの衰退していく国に革命を起こすため立ち上がることとなる。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-05

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  1. 第一部 革命の男
  2. 第二部 若者達の苦悩
  3. 挿話 愛
  4. 第三部 変革
  5. 第四部 現実
  6. 第五部 善と欲望
  7. 終 若き意思