永遠のトモネコ
トモネコとトモビトが暮らす永遠の棄城
Prologue アースガルド
石造りの町アースガルドは、深い山脈の中に佇立した古城でした。
アースガルドには、いつも水のサラサラとした心地良い音が響き渡っていました。
でも、今のアースガルドには、設計し建築した人間たちはおりません。その理由は誰も知りません。
とにかく、人間たちが消えて猫たちが食べ物に困り果てた頃、とてもとても小さな人間たちがアースガルドに流れ着くようになりました。
時が経つうちに、先住の猫たちと余所者のコビトたちは仲良く生きるようになりました。
城のどこでも聞こえる水路の音は、猫とコビトたちの命を支える命の音でした。
城の石造りの壁は朽ちかけていましたが、よく掃除されていました。
石壁を覆っているツタはこれ以上増えないよう、猫たちによって少しずつ剥がされていました。
猫たちは水路の掃除も怠りませんでした。流れる水がいつも綺麗になるよう、猫たちは順番を決めて作業していました。
猫たちは一緒に暮らすコビトを「トモビト」と呼び、コビトたちは一緒に暮らす猫を「トモネコ」と呼びました。
リトのトモビト
ある日、いつものようにコビトのノベルセンが猫のリトに声をかけました。
「いつもありがとう、リト。毎日大変だね」
「大丈夫よ。これ、爪とぎにもなって気持ちいいの。まあ疲れはするけど。今日も帰ったらブラシがけと、ノミ取りをお願いするわ。よろしくね」
リトは作業を続けながら視線を変えずにトモビトのノベルセンに返事をしました。リトよりひと回り以上小さいノベルセンは、リトを心から尊敬していました。トモネコのリトの最近の気がかりはノベルセンの表情の曇りでした。ノベルセンの表情は、最近特に暗く思えました。
(今晩もゆっくり話をしたほうがよさそうね)
そう考えながらリトはノベルセンに聞きました。
「フェニヤの家に行くの? 可愛い娘が隣に住んでて幸せね? ミャッ」
リトは丸くて透明な瞳をノベルセンに向けました。
ツタはがしの作業を止め、爪をしまい、ゆっくりと顔を向けました。
リトは前足をゆっくりたたみ、後ろ足をゆっくり体の下にしまいました。
リトの白くてふんわりした大きな体が、石を敷き詰めた道の上に落ち着きました。
町に風が吹き込み、大きくよろけたノベルセンを見て、リトはヒゲをさっと前に向け、ノベルセンを柔らかく支えました。
「ありがとうリト。風は強いからいつも飛ばされそうだよ。うん、今から会いに行くんだ」
「気を付けてね、ノベルセン」
こうしてノベルセンは隣人のフェニヤの家を訪ね、リトは仕事を続けました。
トモビトとの夕食
一日が終わり、アースガルドは夕暮れになりました。
外では陽が傾き始め、城内の風は冷たくなってきました。城のあちこちで猫たちが時を知らせる鳴き声を上げました。その声を聞き、小人たちはそれぞれの家に帰っていきました。リトは独り言を言いました。
「今日は月が明るい。月の光の下で、ノベルセンと話ができる」
大広場に行くと、町中の猫が集まっていました。皆、変わりない一日だったようでも、そうでもなかったようでもありました。
誰が言い出すともなく集会が終わり、リトはノベルセンの待つ家に急ぎました。
アースガルドの町は友猫と友人たちが住むには全ての寸法があまりに大き過ぎるのですが、リトはいつも通りに狙いを定め、階段で伸びやかな跳躍を繰り返し、部屋に着きました。
リトが肉球から爪を少し出して扉をたたくと、中のノベルセンが全体重で扉を押しました。その隙間からリトが手を入れ、協力してドアの開閉を終えました。
まだ陽は落ちきっておらず、水路もこの部屋まできちんと流れていました。食べ物は十分に保管されています。
リトが、まだ陽の残る床に座り込むと、用意万端で待っていたノベルセンがブラッシングを始めました。ノミは皆逃げていきました。
ブラッシングが終わり、リトは大きく伸びをすると、横向きに寝転びました。ノベルセンは、リトの柔らかいお腹のブラッシングにとりかかりました。
このように、友猫も友人も、自分の役割に熱心なのがアースガルドの日常でした。
ノベルセンによるブラッシングが終わると、リトは自分でも毛を舐め始めました。リトの毛は長いので、リトは毛先までていねいに舌でこすりました。
一方、ノベルセンは、どうしても逃げていかないノミを殺すために用意していたバケツの水を流しました。――今日は必要なかったので。
ノベルセンが部屋の隅の大きい袋から、カリカリと呼ばれている、町で唯一の食料を皿に移しました。
「いただきます」
「いただきます、ニャーン」
ノベルセンは、昼間から水でふやかしておいたカリカリを抱えて食べながら言いました。
「ねえリト、食べ物はまだいっぱいあるの?」
リトはカリカリを一粒一粒吟味しながら、歯で砕きました。室内の水路に流れる新鮮な水を美味しそうに飲みながら。
「そうね、私たちが生きている間は全然心配ないわ。町の倉庫にたっぷりあるし」
「水は? 枯れたりしない?」
「この町は大丈夫よ」
リトは母親からノベルセンとの共同生活を引き継きました。リトはノベルセンの答えを知りつつ聞きました。
「私の前のトモネコのこと、覚えてる?」
ノベルセンは必死に思いをめぐらせました。
「僕のトモネコはリトだけだよね?」
「ノベルセンの前のトモネコは私の母。私と同じ、白くて毛が長いトモネコよ」
「リトが言うなら間違いない。僕が昔のことを覚えていないだけだ」
「ミャア」
リトは頷きました。
「トモネコたちは賢い。朝に夕に集まって話し合う。でも僕らトモビトは集まっても、あまり大した話がないんだ。それは記憶がないからだと思う」
語るノベルセンの青い目は悲しげでした。
月の光が二人を照らしました。リトの持つ透明な真球の瞳には夜空が映っていました。
リトは言いました。
「そうなの。トモビトは、過去の思い出をどんどん忘れていく種族なのよ」
ノベルセンは答えました。
「でも、今日は隣のフェニヤに会ったし、町長のフィヨルギュン爺さんがトモネコのミーミルに乗って巡回していたよ。フィヨルギュン爺さんとミーミルは昨日もそうしていた」
リトは優しく言った。
「じゃあ、一昨日は?」
「やっぱりフェニヤに会った。フィヨルギュン爺さんが町を回っていた」
「その前はどう? 例えば先週は?」
ノベルセンは考え込んだ。
「先週……。それは確か、前の日の前の日の、もっと前の日の意味だよね?」
ノベルセンは、大きいリトの透明な瞳を見ました。
リトは言いました。
「ふふ。私には、次にあなたが聞くことが分かるんだなっ」
トモビトの疑問
リトは暗く沈んだノベルセンを長い尾で優しく引き寄せました。リトは、自分が知る限りの知識を今晩も伝えます。
まず、リトはノベルセンの疑問を当てました。
「ノベルセンは、いつも、なぜトモネコがトモビトを食べないでいるのか、と聞きたい。ミャッ」
ノベルセンは驚きました。
「その通り」
ノベルセンは下を向いてつぶやきました。
「リトは、いつも僕に同じことを何回も聞かれて嫌になっているに違いない」
リトは気楽に答えました。
「ならないわよ」
ノベルセンは安心して言いました。
「良かった! でも、僕がリトなら、イライラすると思う」
「考え過ぎよ」
「僕はいつか、リトと別れなければいけない日が来るんじゃないかと、いつも心配しているんだ」
「ノベルセンと私は、いつまでも一緒よ」
ノベルセンはリトを見て尋ねました。
「いつもの大きな疑問だけど、なぜトモネコは我らトモビトを食べないでいられるのだろう? このカリカリは美味しいけど、時々、リトも他のトモネコも、雰囲気が変わる時がある。足から爪が出て、顔を床につけて後ろ足に力が入っているよ」
リトは深いため息をつきました。懸命に力を尽くしても、生まれ持った性――さが――には逆らえないのです。
「ごめんねえ。絶対食べる気はないんだけど。だから大昔はね、私たちトモネコは、あなた方を食べていたんだって。キャー恐ろしいぃ」
「げっ」
「でも女王様が、トモビトを食べないで一緒に暮らすと決めたその日から、トモビトを食べたトモネコは一人もいないっ!」
リトは胸を張り、フン!と鼻から息を出しました。
ノベルセンはリトに向かって倒れこみました。ノベルセンの体は、リトの白く柔らかい毛に浮かびました。
リトは優しくゴロゴロと音を立てて、ノベルセンの体を癒しました。ノベルセンは力なく言いました。
「こ、怖いなあ……体を引き裂いて、頭を噛み砕くということでしょ? い、痛い」
ノベルセンがリトの長いヒゲを引っ張りました。
「ミャン」
リトは隣家の友猫、マロンの話を思い出しました。隣家の友人、フェニヤはノベルセンと全く違って、いつも明るく幸せな娘だといいます。
そんなリトの思いをよそに、ノベルセンは苦悩の表情を浮かべ続けています。
リトは、遠くの夜の星月が、雲に見え隠れするのを眺めながら答えました。
「あなたは、普通のトモビトと違うみたい。私たちトモネコの性を見抜くし。時々なんか難しいこと言うし」
リトのふわふわの白い毛に浮かんで遊んでいたノベルセンは、姿勢を変え、顔をリトに押し付けました。
そのまま、低い曇った声で聞きました。
「聞きたい。なぜトモネコたちがトモビトを食べるのをやめたのか、僕らが町に来た様子についても聞きたい」
月夜に照らされた細切れの雲が、陰影を刻々と変えながら、勢いよく流れていました。
トモビトの苦悩
リトは白いふんわりした尾でノベルセンをくるみ、口を開きました。
「最初のトモビトの一団は、もうずーっとずーっと昔に、町の北の端の門から入ってきたの。言い伝えではね」
ノベルセンはリトのヒゲをなでて話の先をうながしました。
「私たちのご先祖はカリカリに食べ飽きていた……だから皆、トモビトを喜んで食べちゃった。どこからどうやって来るのかは分からないんだけど、アースガルドに定期的に迷い込んでくるあなた方は、ご先祖たちのご馳走だった。でも、ある日、女王様が、『今日からはトモビトを食べないで、家に連れ帰って一緒に暮らしましょう』と言ったの」
「それはなぜ? どうして?」
「理由は匂いみたいね。食べ残しが腐って、匂いが町中まで流れてくるようになったから。皆、それが嫌になった」
「ふうん。僕らを可哀想に思ったから、とかじゃ、ないんだね」
ノベルセンは少し怒っていました。リトはさらっと答えました。
「あなただってブラッシングの時、逃げないノミは両手でしっかり押さえこんで、必死にバケツの水で殺すじゃない。いつも頼もしいわよ。悲しそうには見えないなあ」
「え? ノミは殺し方は教わっているけど、いつも皆逃げていくよ」
「覚えていないのよ。先週は7匹も殺してくれた。本当にありがと! ノミが残ってると、本当にかゆいんだあ。もう気が散ってイライラする。だからノベルセンの退治は最高! ありがとぉ」
ノベルセンは深く考えました。
「……覚えていないけど、リトが言うなら間違いない。確かに僕の中にはノミに対する憎しみがある。リトの血を吸って糞まで残していくんだからね。そんな奴がブラッシングで逃げなかったら、殺すしかない。ノミは憎いよ!」
「昔のノミたちは全然逃げもしなかった。私たちはノミたちに血を吸われるままだった。でも女王様の言う通り、トモビトと一緒に暮らすようにしたら、トモビトがノミを追い払ってくれるようになったから。もう最高っ」
「ノミは僕にとっても危険だから。だから、逃げないノミは殺す。あいつら力強いから、もし殺すとなれば大変な作業だと思う」
「そうね、いつも大変そう。その時のノベルセンの顔は、ものすごく怖い」
「覚えていないけど……きっとそうなんだね」
ノベルセンは続けました。
「でも、トモビトはブラッシングとノミ取りしかできない。水路や町の手入れは、全部トモネコがしてくれる。トモビトはトモネコによって生きているんだ」
リトは姿勢を変えました。合わせてノベルセンも姿勢を変えました。
「そこまで考えるトモビトって、あんまりいないらしいよ? 食べ物だって、町の倉庫のカリカリを持ってきてるだけだし、水も仕組みまで知ってるわけじゃないよ?」
ノベルセンは夜空を見つめました。
「この大きい、ひどく大きい、アースガルドはなぜここにあるんだろう?」
リトはノベルセンを見ました。
顔が赤くなり、頭からは湯気が出ています。
リトは巻いていた尾を伸ばし、ヒゲでツンツンと合図をしました。
「なに?」
「一度水を浴びて来るといいわ。でも風にあたると冷えすぎるから、すぐ戻ってね」
ノベルセンは言われるままに水路の溝に向かい、流水に身を任せました。
「きーもーちいぃー…」
「良かった。でも、冷えすぎると死んじゃうから、そろそろ戻ろう? ミュウ」
ノベルセンは言われるままにリトの横に戻りました。リトが白いふんわりした尾でノベルセンの体を巻きます。
「おかげで、頭がスッキリした!」
「よしよし。では続きといきますか」
「うん。この町は何か、そしてリトはなぜ、トモネコの生まれ持った性格に逆らってまで僕を食べないのか」
リトはノベルセンの顔を見ました。母もいつもこうして悩めるノベルセンの相手をしていたのでしょう。
「この町のことは、アースガルドという名前以外、誰も何も知らない。大昔に、とても大きいトモビトがいて、この石の町を作ったってことだけは分かるんだけど」
「大きいトモビト? 大きい僕ら?」
「私はトモネコだから、石の段や柱を跳びまわって、町を上から眺められるから分かるんだ。トモビトがすっごく大きくなれば、全部がぴったり合う造りになってるの」
「そうなんだ」
「でね、町の外は、出ても何もないの。見渡す限り、山しかない」
リトは小さく鳴きました。
「話を続けるね。女王様がトモビトを食べずに一緒に暮らすことにしたのは素敵なことだった。トモビトがノミを追い払って、毛をブラッシングしてくれるようになって、トモネコはそれまでの汚い暮らしから、今のきれいな暮らしに変われたんだよ!」
「トモビトとトモネコは支えあっている。お互いに大切にする友達」
「そういうことよ。友達を食べたりしない」
ノベルセンはまだ考え込んでいました。
「でもまだ、最初の、はじめのきっかけが謎なんだ。トモビトがトモネコの役に立つというのは、一緒に暮らし始めてからでないと分からないわけだし……」
リトは鳴きました。
「ミャー ハハハ」
「リト、笑っているように聞こえますが」
「だっておかしいんだもん。いつもノベルセンは分からないことばかりを考えてる。分からないことは分からない! そういうものじゃない?」
リトは大きな瞳でノベルセンを見ました。ノベルセンはリトの目の奥の、黄緑の複雑な文様を見つめました。
「美しい……なんと美しい……」
ノベルセンは風変りです。リトは強めに言いました。
「あなたは全部知りたいの? よく知らないこと全てを? なんのために?」
「……」
「昨日も今日も幸せだった、きっと明日も幸せだろう、じゃだめ?」
リトは諭しました。
トモビトの悲嘆
その時、扉を叩く肉球と爪の音がしました。
リトが言いました。
「この音はマロンね」
「僕、扉を開けるよ」
ノベルセンが全身で扉を押し、空いた隙間から栗色の足が見えました。隣家の友猫、マロンです。ノベルセンから挨拶しました。
「マロンさん、こんばん……」
栗色の友猫、マロンが遮りました。
「フェニヤが死にそうなの。あなたを呼んでいるわ。今すぐ来て!」
マロンの報せを聞いたリトはノベルセンに言いました。
「早く私の首を掴んで!」
リトはノベルセンを連れ、急いで深夜の城内を駆けました。マロンが先を走っていきます。石壁の隙間から差し込む月の光が敷石を明るく照らしています。
扉が開いたままの、マロンとフェニヤの家に入ると、フェニヤは新しいフワフワのベッドに苦しそうに横たわっていました。ノベルセンは駆け寄りました。
「フェニヤ!?」
「ノベルセン……来てくれて良かった……私はあなたが好きよ……」
「僕もフェニヤが好き。大好きだよ」
リトとマロンは、友人たちから距離を置いて見守ることにしました。
フェニヤが苦しそうに言いました。
「……息が苦しいの……とても眠くて……でも眠ったら明日が来ない気がして……夜中だけど会いたかった……見て……マロンの毛で編んだベッドなの……息が苦しいわ……」
マロンが悲しく鳴き声を上げました。
苦しむフェニヤは片手を差し出しました。ノベルセンが両手で握ると、フェニヤが強く握り返して腕を引きました。不意のフェニヤの動作で、フェニヤ一人には大きいベッドに、ノベルセンは倒れこみました。
「編むのに使った毛はね……ブラッシングでとれる毛から良いのを選んで、水にさらして干したの……おヒゲも時々抜けて落ちるから、芯材に使ってみたの……」
「うん、よくできてる。寝心地がとてもいいよ」
フェニヤは、ようやく安心したように微笑み、両手でしっかりノベルセンの手をつかみましだ。ノベルセンはフェニヤの金色の長い髪をなでました。フェニヤは寝息をたて始めました。
ノベルセンは遠くで見守るトモネコたちに言いました。
「リト、マロン……良く分からないけど、僕は今日ここに居るべきなんだと思う。フェニヤが明日起きるまで、一緒に添い寝するね」
リトとマロンは大きくうなずいた。
まもなく、ノベルセンも眠りに落ちました。
翌朝、ノベルセンは目を覚まし、ぼやける目をこすると、横にはフェニヤの姿がありました。
「フェニヤ、調子はどう?」
隣に横たわる少女の顔は微笑んでいました。でも、ノベルセンをつかむ手に力はなく、フェニヤの腕は滑り落ちました。
「フェニヤ」
どんなにノベルセンが名前を呼んでもフェニヤは起きませんでした。
ノベルセンは空虚な目でベッドから起きて、眠り続けるフェニヤを見つめて言いました。
「フェニヤは昨日、『明日が来ないかも』って言った。その通りになった」
トモビトを失ったマロンが悲しく鳴き続けました。
リトは朝のトモネコの集会で女王様に報告するために家から走り出ました。マロンの友人、フェニヤは死んだのです。
マロンは、死んだフェニヤを胸に抱いて床に丸くなりました。
マロンの大きな瞳からは大粒の涙が流れ続けました。
報告から帰ってきたリトは、その場に立ち尽くすノベルセンに声をかけました。
「さあ、帰りましょう。マロンを一匹にしてあげるのよ」
ノベルセンはリトの耳につかまって、背中に乗りました。リトは静かにアースガルドの敷石の上を歩きました。
古い鋪道の敷石の間から生えたコケや小さな葉に、たくさんの朝露がついていました。
この日ずっと、リトはノベルセンの傍に居ました。この日のリトの仕事は友人を慰めることでした。
一方、マロンの仕事は特別なものでした。それはとても不思議な出来事でした。
マロンがフェニヤの体をアースガルドの最上階の南の出っ張りの上に置くと、フェニヤは間もなく静かな風に包まれました。細かい砂がサラサラと解けるように、そして、柔らかい毛が軽々と宙を舞うように、フェニヤの体は風に消えていきました。
Epilogue 約束
夕方が始まる頃、ようやくノベルセンが口を開きました。
「もう、フェニヤはいない。……死んだんだ」
リトも口を開いた。
「実はね、あなた方トモビトの命は長くないの。トモビトは、アースガルドの北の門に流れ着いては、南の空に消えていく」
ノベルセンはリトの言葉が耳に入らないようでした。
「フェニヤは楽しくて、明るい子だった」
「そうね、とってもいい娘だったわ」
リトは続けました。
「正直に言うと、あなたに残された明日も多くはないの。フェニヤとあなたは同じ日に流れてきたと母に聞いたわ。ごくたまに、フィヨルギュン爺さんみたいに長生きするトモビトもいるけど、ほとんどのトモビトは同じ頃に死んでしまうの」
「そうか、僕も、もうすぐフェニヤの後を追うんだね。そう思うと、不思議な気持ちがする。なんだか気が楽になったような気がする」
ノベルセンは立ち上がりました。リトも体を起こし、伸びをしました。
もう日暮れ時も過ぎ、陽が落ちそうでした。
ノベルセンは言いました。
「フェニヤとはずっと毎日会えるものだと思っていた。でもトモビトにはいつか明日を迎えられない日が来るんだね」
「そうね、でもトモビトはね、幸せなのよ。私はトモビトをうらやましく思う。どこから来るか分からないけれど、きれいな水の流れる町で、好きな人を作って、私たちに看取られて去っていける。フェニヤにマロンがついていたように、ノベルセンには私がついてるわ」
「ありがとう。でもフェニヤを失った悲しみで、二度と幸せを感じることはないと思う」
「そうね……今はね」
ノベルセンは少し怒って答えました。
「フェニヤを忘れるわけないよ! いくらトモビトが記憶を持たないとしても」
リトは黙って頷きました。
ノベルセンが尋ねました。
「リトは、とても悲しいことがあったらどうするの?」
リトは母親を思い出しました。リトの母は昔に亡くなっていました。町の朽ちた天井から不意に落ちてきた石を避けきれずに死んでしまったのです。
「私たちトモネコは、悲しみは仕事で紛らわすかな」
リトは続けました。
「この間、なぜ女王様がトモビトを食べ物から友達に変えたか、その最初のきっかけを知りたがったのを覚えてる?」
「うん」
「女王様の、まだ小さい娘さんが、こっそり一人のトモビトを連れ帰って隠して世話してたの。話し相手にしていたのね。それを見た女王様が、トモビトも、アースガルドの水とカリカリだけで生きられると知って、一緒に暮らすことにしたの。それが言い伝えよ」
「そうかあ……そうなんだね……教えてくれて、ありがとう」
ノベルセンは疲れ切っていました。リトの体に倒れこみ、すやすやと眠りに落ちました。
翌朝、ノベルセンはまだ悲しみに沈んでいました。リトは仕事に出かけ、ノベルセンは一日中フェニヤの姿を思い出して過ごしました。
夜はいつものようにリトのノミ取りをして、一緒にカリカリを食べ、眠りました。
そして、次の朝になりました。
ノベルセンは元気を取り戻していました。
「よく寝た。えーと、リトは今日も仕事だよね。ありがとう。ちゃんとブラッシングとノミ取りの準備はしておくよ!」
リトはうらやましく思いました――友人の記憶は短いのです。
朝食を終えると、ノベルセンは近所の探検に行く、と意気込んで出かけて行きました。
リトはこの日の朝の集会で、自分の友人、ノベルセン――がすっかり元気になったことを皆に伝えました。この日の朝は女王様から発表があり、たった今、町の北の門を守る係から、新しい友人の一団が流れ着いた報告があった旨のお知らせがありました。
自分の友人を持っていない友猫たちが女王様の後を追いました。その中にはマロンの姿もありました。
この日のリトの仕事は、他の友猫たちと一緒に、石壁に広がり過ぎたツタの剥がし作業でした。リトは一心不乱に仕事に打ち込みました。
一日の仕事を終えると、夕方の集会で、女王様から、無事に全ての友猫と友人の組み合わせが完成できたお知らせがありました。集会が終わり、友猫たちが解散すると、リトは栗色の友、マロンの姿を探しました。マロンはフェニヤにどこか似た、可愛らしい少女を背中に乗せていました。
マロンは言いました。
「早速ノベルセンに会わせたいんだけど、いい?」
リトは喜んでゴロゴロと鳴きました。
マロンの背中に乗った少女は、マロンの耳やヒゲを珍しそうに触っていました。
リトは嬉しそうなマロンの横を歩きながら、この新しい友人を観察しました。フェニヤに似て、利発で明るい娘でした。
リトは、マロンと少女を家の玄関前に待たせると、勢いよく肉球で扉をたたきました。いつものようにノベルセンと共同作業で扉を開閉すると、マロンに向かって鳴きました。
「ノベルセン、新しいトモビトだよぉ。マロンのトモビト。ノベルセンには新しいお隣さんだね! ミャーン!」
ノベルセンは新顔の少女に元気に挨拶をしました。
「僕、ノベルセンといいます」
「私はマーニャよ。よろしくね!」
「マーニャ……フェニヤの生まれ変わりみたいだ……よろしくね……」
ノベルセンは大粒の涙をこぼし始めました。
その様子を見たリトの目にも涙が浮かびました――ノベルセンはフェニヤを忘れてはいなかったのです。
「気丈に振舞っていたのね……」
リトがつぶやきました。
すると、新入りの、快活なマーニャが早速ノベルセンに話しかけ始めました。
「どうしたの? 今日、悲しいことでもあったの?」
リトとマロンは共に喜びました。ノベルセンが残り少ない日々を、この娘と幸せに過ごせることは間違いないでしょう。
(ノベルセン。マーニャ。友猫は、いつまでもあなたたち友人の傍に居るわ)
リトは心の中で言いました。
窓から差し込む月の光が、部屋の敷石と水路を明るく照らしていました。
(了)
永遠のトモネコ
――あなたが愛した、今は亡き家族は、いつまでも貴方の中で生き続けます――