一人じゃない

 その日、僕は母の運転する車で高校の始業式に向かっていた。
 高校生になるのはこれで二回目だった。約一年前、前の高校を辞めてからずっと家のなかにいた僕は、外の光を浴びるのも久しぶりで、助手席に座りながら降り注いでくる日の光に目を細めた。
 久しぶりに制服を着てみると、何となく取り残されたような気がする。これを着ているのは自分だけだという感じがするからだ。同い年の人間はみんなこれを脱いで違う世界へ入っていったのに、自分ひとりがまだ制服を着ている。
 高架橋の下をくぐると、駅前が見えてくる。大通りに入る手前の信号が赤に変わり、車の流れが止まると、運転席に座っている母が、
 「ビルに空が映ってる」
 と呟くような声で言った。
 駅西口にある市内で一番高いビル。その二十三階建ての高層ビルの窓ガラスが大きな鏡のようになって、青空と流れる雲の様子をそこに映している。
 「ほんとうだ」
 そう呟いて、僕も助手席からその風景をぼんやりと眺める。あのビルの八階から十四階までが、これから入学する高校のフロアとして使われている。定時制と通信制を合わせた学校だが、いちおう県立の高校だ。
 信号が青になり、車が進みだす。
 駅近くの食品館に車を停めた母は、駐車券のために買い物をするというので途中まで一緒に歩いた。四月に入って春の陽気が出てきたのか、外は暖かい。青い空を見るのも懐かしいような気がした。
 「じゃあ、行くわ。しっかりね」
 食品館へ入っていく母を見送り、人通りの多い駅前広場を歩いていく。すでに一般の登校時間を過ぎているため学生の姿はなく、制服姿で歩いているのは自分だけだった。しかもあのビルに向かっているせいで、“あそこ”の生徒だと感づかれそうでいやだった。
 ビルの足元にある、銀行のATMのようなその小さな入り口の前に立つ。上には学校名が控えめに書かれている。
 ここで間違いないはずだった。意を決して、扉のむこうへ足を踏み入れる。
 エレベーターで事務室へ向かい、自分が編入してきた生徒だということを伝えると、学年と名前を聞かれ、そのまま三学年のフロアへ行くように言われた。
 階段を上って、指定された教室の前に立つ。おそるおそる扉を開ける。パーカーのようなラフな服装で生徒たちが談笑していた。髪を染めた生徒も何人か混じっていた。
 僕は黒板の前まで歩き、そこに貼ってある座席表を見て、そそくさと自分の席に座る。教室のほぼ真ん中の席だった。“高野”なので、あいうえお順に並べると中央に寄りやすいのだ。
 制服を着た生徒は、一人だけいた。この列の一番前に座っている女子生徒。ここからだと背中しか見えないが、とりあえず自分だけではなかったことに軽く安堵する。
 とは言っても、見知らぬ顔に囲まれているという状況にはやはり戸惑ってしまう。それによく見ると、頬杖をついて窓の外を見ている女性は自分よりも三つか四つ年上に見えるし、その他にもどことなく世間慣れした雰囲気の生徒が何人かいる。
 このままここで一年、やっていけるのかと考えると、急に自信がなくなってくるのを感じた。


 学校を辞めてからこの高校に入学するまで、一年ほどの空白期間があった。
 三年の一学期に学校を辞めた僕は、編入手続きができるようになる翌年の春まで、家にいる日々が続いた。
 目覚まし時計のいらない生活だった。朝に起きることもあれば、真昼や夕方に起きることもあり、一日のスタートが深夜から始まることもあった。一日が一日として感じられず、虫食いのような日々を送っていた。今日と明日が地続きになっていき、一週間という単位がなくなり、一か月が瞬く間に過ぎていった。
 深夜にトイレに座っていると、どこかから電車の音が聞こえてくる。そういうことに気付いたのもこの生活のせいかもしれない。高校生だった頃は、生活音や環境音などを特に気にしたことはなかった。近所から聞こえる水道の音や、カーテンの向こうで輝く太陽など、活動的なものほどなぜか寂しく感じられた。
 夏休みが大幅に伸びたような空白感だった。何かをしたいという気持ちも起きず、ただ毎日が消化されていく。本を読むことは続けていたが、それ以外の時間はただぼうっと過ごしていた。
 ある夏の日、母に買い物を頼まれた。
 外出するのは久しぶりだった。あまり外に出たくはなかったが、断って母の機嫌を損ねるのはいやだったので、しょうがなく自転車を漕ぎだしてコンビニへ向かった。
 家を出る前までは気が乗らなかったのに、シャツ一枚で真夏の日差しを浴びながらペダルを漕いでいると、不思議と気持ちがよかった。よく晴れた日で、雲も光っていた。そして今日が平日であることを思い出し、ちょうど今頃は授業をやっている頃だろうと思った。もう高校生ではない自分がわずかに寂しかった。
 コンビニは川の近くにある。阿武隈川が街を分断している。橋のむこうにはまだ行ったことがなかった。
 小学生の頃、橋のむこうから通っていた友達がいた。
 家が遠かったので外で遊ぶことはなかったが、教室ではいつも一緒に遊んでいた。話が合うというよりも、何となく追っかけあったり、取っ組み合いのじゃれ合いをしたりする友達だった。今はそんなことはしないけど、当時はそんな風に暴れたりすることも楽しかった。
 でもその友達は、中学からは橋のむこうにある丘の上の学校に通うことになった。地区が違うので、当然学校も違う。しょうがないことだとは思いながらも、当時から友達が少なかった僕は、ちょっと感傷的になっていたのか、中学に上がってすぐにその友達に手紙を出した。
 手紙の返事は来なかった。ちゃんと便箋の裏に自分の住所も書いたので、相手に返す気がなかったということだろう。悲しいというよりも、それまで一緒に遊んでいた人間が突然赤の他人のようになってしまう、そのあっけなさに驚いた。
 まるで橋を境に別々の世界の住人になってしまったようだった。それからというもの、僕の中で何となく橋のむこうは別世界だという意識が抜けない。あの先がどうなっているのか、気になりながらも足を運ぶ勇気はなかった。
 けれど今日は天気もいい。気分も悪くない。少し寄り道をしてもいいかもしれない。そんな思いに駆られた。
 橋を渡る。川の流れる音が聴こえる。脇を見ると、水流が岩に当たって白い泡をたてているのが見えた。飛び降りたら死ぬ高さだろうか、水の中なら大丈夫だろうか、などと考えてみる。
 川を渡り切ると、そこから先はまったく未知の世界だった。自分の住んでいる町なのに土地勘がない。すぐ目の前に大きな十字路がある。そのうちの一つに学生たちがぞろぞろと歩いている道があった。この先に学校があるのかもしれない。
 蟻の後をたどって巣を見つけるような気持ちで、学生たちの後をついていく。
 夕方の光が眩しかった。学生たちは笑いながら帰り道を歩いている。考えてみれば、自分も高校を中退していなければ、今頃こうして学校から帰っているはずなのだ。
 どうしてこうなったのだろう。こうしてペダルを漕ぎながらも思う。直接の原因は高校を中退したことだが、根を掘り返してみるともっと昔から違和感はあった気がする。
 内心で焦りを感じ始めたのはたしか中学の頃からだ。
 思春期に入って、同級生たちは今までとは違うところへ行こうとしていた。友達を選ぶようになり、話し方や顔つきに自我の芽生えを感じさせるようになった。置いていかれる、と思ったときには、自分の机の周りに誰もいなくなっていた。
 自分がつまらない人間だからこうなるのかと思った。なぜなら教室ではみんな楽しそうに笑っているからだ。その頃から人の笑顔が苦手になった。笑顔というのはどこか閉鎖的な感じで、ここにいてはいけないような気分にさせられる。
 居場所がなくなると、学校へ行くのが億劫になった。行っても意味がないような気がしながらも、それでも卒業までは通い続けた。進学先の高校には知り合いが誰もいなかった。環境が変わったことで自分自身に変化が起きたかといえば、当然そんなことはなく、むしろ中学の頃よりも人が寄り付かなくなった。
 いつの間にか高校生の姿が消えていた。学校があるところから離れてしまったのかもしれない。脇道に逸れるのは不安なので、そのまま道なりに進んでいく。
 そのうちとても広い敷地をもつ建物が見えた。どこか開放的な雰囲気があると思いながら、入り口にある看板を見る。工業大学だった。
 校門からシャツ一枚で走る集団が歩道に出てきた。どうやら運動部の大学生らしい。こちらに向かってきたので右に寄って歩道の間隔をあけると、ランニング集団はそこを抜けてどこかへ消えていく。
 その時ふと、自分はもう少年ではないんだ、と思った。確実に時間は過ぎている。大学生という時間を過ごしている人間は、その後も順調にその日その日を生きていく。けれども自分は正常な時間から脱線してしまっている。もう子供には見てもらえない年齢になるのに。
 背の高い木が並ぶ道沿いを歩きながら、自分はどこへ向かっているのだろうと思う。十八歳になっても頭の中の地図は空白ばかりで、誰もが知っているであろうはずの道を知らない。出歩かないせいもあるだろうが、それにしたって知らな過ぎる。
 右側を見る。堤防のむこうに高架橋が続いている。


 すべての授業が終わると、もう窓の外は真っ暗だった。
 人がほとんど出払ったのを見計らって窓のそばに近寄ると、眼下には駅前の明かりが見える。高層マンションの一室から眺めているような風景が教室の窓越しに見えるのが不思議だ。
 蛍光灯の明かりで目がぼんやりしてくる。授業中も、強い照明の下でノートを取っていると、何となく気怠い気分になった。机に突っ伏している生徒も何人かいた。緊張の糸が切れたままにされているような空間なのだ。夜学に通うというのはこういうものかと、少し弾んだ気持ちになる。
 ここに通うようになって一週間が経った。最初は定時制高校の、しかも夜間部に通うということに強い不安があったが、通っているうちにだんだんと慣れてきている自分に気付く。
 学校自体も、まだ開設されて二十年経つか経たないかというもので、教室内は新しくて清潔だし、理科室や音楽室もある。体育館もちゃんと用意されている。ビルの中にあるというだけで、内装はほぼ普通の学校と変わりない。
 思いのほかちゃんとしているのだ。少し変わった環境ではあるけれど、それはそれで新鮮に感じることもある。何とかやっていけそうな気がしていた。たった一年間だ。それほど長い時間ではない。そんな風に自分を励ましつつ、帰り支度を済ませて教室を出た。
 エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押す。ビル自体は二十三階建てだが、ボタンは一階から飛び地になって八階から十四階までしかない。それより上に行くには正面の入り口近くにあるエレベーターを使わなければいけない。
 ふと、ビルの一番上へ行ってみたいような気持になった。最上階はプラネタリウムだが、その一つ下のフロアはたしか展望ロビーになっていたはずだ。そこからの景色を見てみるのも悪くないかもしれない。
 学校帰りの浮ついた気持ちも手伝っていた。エレベータで下へ降りて、学校の入り口とは別の正面入り口からもう一度ビルに入る。すでにシャッターが下りたテナントの様子から、何となく嫌な予感がしながらもエレベーター乗り場に向かう。
 だが、そこには案の定、「展望ロビー本日閉館」の看板が立てられていた。
 展望ロビーが午後八時で閉まることを確認した僕は、その日は帰ることにした。
 翌日、僕は少し早めのバスに乗って駅前にきていた。学校が終わってからでは間に合わないので、始まる少し前に行ってみようと思ったからだ。
 スマホを見ると、まだ登校時間まで一時間ほど余裕があった。同じビルの中であるし、これならば景色を見ていて遅刻することもないだろう。放課後に街へ出かける高校生はいるだろうが、登校前に寄り道をするというのは不思議な感覚だった。
 制服を着たままビルのなかに入っていくのは何となく引け目を感じるものだった。この時間帯は普通の高校生は学校で授業を受けているはずなのだ。大人の人に突然声をかけられたりしないかと心配しながら、昨日いけなかった目的の場所へ歩いていく。
 昨日あった看板は当然ながらない。そのままエレベーターを呼び寄せる。デパートに行った時と違って、すぐに扉が開いた。なかに入って二十二階のボタンを押したそのとき、見覚えのある制服を着た少女がこちらへ歩いてきた。
 それは同じクラスの生徒だった。いつも制服を着てくる女子生徒。ホームルームで自己紹介をした時に、唯一名前を覚えた生徒だ。園崎彩希。
 慌てて扉を開けたままにして、彼女を迎え入れる。目は合ったが、お互い特に挨拶をするわけでもなかった。ボタンを押そうと伸ばされた白い手は、すでに点灯したランプを認めるとゆっくり下ろされた。そのままエレベーターの扉が閉まる。
 身構える間もなく、彼女と狭い空間を共有することになった。エレベータの稼働音だけが響いていた。到着するまでの間、お互い顔を上向きにじっと光が進んでいくのを追っていた。
 扉が開くと、彼女は先にロビーへ出ていった。僕はその後ろをついていくように歩いていく。
 ロビーは怖ろしく静かだった。係員や警備員を除くと、もはや人の気配がなかった。平日だから利用客がいないのかと思ったが、昔はアイスクリームなどを売っていた売店のシャッターが下りたままで、店の前にあったはずのテーブルと椅子も撤去されている様子を見ると、利用客自体が減っているのかもしれない。
 もともとこのビルは、自分が通っている県立高校や市民サービスセンターなど、公共施設としての色合いが強い。駅西口の再開発事業として、ちょうど自分の生まれた頃に建てられたビルだが、娯楽施設としてはあまり利用価値がない。
 いちおうビルの目玉として、最上階にプラネタリウムがある。「世界で一番高いところにあるプラネタリウム」としてギネスにも認定されている。なかなかロマンチックなことをすると思うが、この分だと客も入っていないのだろう。他人事ながら少し心配になってしまうが、人がいないのは自分にとってありがたい。
 窓のそばに設置されたベンチはどれも空いていて、僕は入り口から見て手前のベンチに座り、彼女は一番奥に腰を下ろした。
 腰の高さの合わないベンチに重心だけをあずけて、街を眺める。
 この街は盆地のなかにあるのだと、中学の時に授業で習った。つまり周りをすべて山に囲まれているということだ。実際どの方角を見ても、街の行き止まりはすべて山だった。
 街は、決して山の外へこぼれようとはせず、盆地という器の中に収まっている。東北地方の南にある人口三十万の地方都市は、住宅地の広がる凹凸のない街だ。もう開発される見込みもないのか、高層ビルが建てられることもなく、更年期に入ったように街は落ち着いている。
 このガラスの向こう側には自分と同年齢の人間が何千人といて、すでに会社で働いていたり大学に通っていたりするんだと思うと、自分はやはり遅れていると感じる。窮屈な制服は一年出遅れたことの証拠だった。
 学校を卒業したら、将来自分はどうなるのか。就職はしたくない。かといって大学に行きたいわけでもない。いっそ上京するか、と破天荒な考えが浮かぶ。ありえない。この街から出たいとは思わない。
 小田和正の歌声が意識に入ってこないぎりぎりの音量でロビーに流れている。ここは考え事をするには良い場所だと思った。ただ少し寂しい。
 しばらく街に視線を向けていたが、気になる心を抑えられず、ちらと視線をやってみる。細身で、黒髪が肩のあたりにかかっていて、何となく清潔感のある子だ。
 彼女の視線はじっと街に注がれているようだった。何を思っているのかはわからない。何秒か盗み見る程度にして、僕もまた視線を窓の外に戻す。
 動きのない街を新幹線が進みだした。高架橋を伝って早く街を出たがっているようにスピードを上げていく。
 松村は今頃何をしているんだろう? 
 ふと、そんな疑問が湧いた。


 松村と最初に顔を合わせたのはいつだったか正確には憶えていない。最初の頃は、気付けばいつも視野の片隅にいる、というくらいの認識だったと思う。入学当初、馴染めない昼休みの教室から逃げ込むように図書室の扉を開けると、いつも先客として眼鏡をかけた生徒が奥の椅子に座って本に目を落としていた。同級生なのか、それとも上級生なのか判別はつかなかったが、今日もいるな、と何気なく思い、自分もすぐ入口手前にある椅子を引いて腰を下ろし、そのまま授業開始の時刻までお互い文字を追った。そうやってほとんど人のいない図書室を共有するのが日々の習慣となり、そんな毎日を繰り返しているうちに一学期が過ぎ、秋に入ってクラス対抗の体育祭が開催された当日、初めて松村から声をかけられた。
 その日は朝から雨が降っていた。校庭で行われるはずだった野球やサッカー等の競技は中止になり、雨天時のプログラムとして体育館で屋内競技が実施された。ただ見ていることが応援になるかは分からないが、クラスのチームの試合には義務として最後まで応援に参加した。その後まだクラスメイトの残る体育館を出て薄暗い校舎に入っていき、そのまま日光を遮られた廊下を進み、二階への階段を上がりもうすぐ到着するところまで来て、もし鍵が閉まっていたらどうしよう、と思った。今日は体育祭なのだから図書室を開けておく必要はない。教師の目線で考えてみるとここに用がある生徒はいないはずだった。その時は引き返して他のクラスの競技を見ているか、教室に戻るしかない。
 図書室前の翳った廊下には室内の明かりが漏れていた。それがやけに温かく感じられた。
 扉はすんなりと開き、入ってすぐ右のカウンターで司書の人が何か書類のようなものに目を落としていた。あくまで職員としての仕事を黙々とこなしているようで、こちらを見る素振りも特になく、行事に消極的な生徒を叱ることもなさそうだった。体育祭という校内行事があってもここだけは当たり前のように機能しているのが不思議だった。
 長テーブルには誰の姿もなかった。手ぶらだったので何か本を探そうと思い、奥の本棚が並ぶスペースへと歩いてゆく。本当は一人で椅子に座っているのが怖かったのかもしれない。誰からも見えない本棚の影へ隠れるように進む。地元の歴史が書かれた分厚い本の前を素通りし、小説が置いてある棚にたどり着く。適当なものを一冊手に取ってパラパラとめくる。硬質な文学小説だった。褪色していたが本自体は綺麗だった。裏に貼られた貸出表には十年前の日付が書かれている。誰にも読まれずこの本棚で年齢だけを重ねたようだ。
 「へえ、すごい」
 耳元で声が聞こえた。振り向くと、あの眼鏡をかけた生徒がいた。いつもと違うTシャツ姿のせいで一瞬誰だか判別がつかなかった。彼は眼鏡を右手で支えながら本に顔を近づけてくる。こちらよりも少し背丈が大きい。
 「何読んでるのかなあっていつも思ってたけど、難しいの読むんだね」
 そう言って、彼はこちらに顔を向き合わせた。眼鏡の奥の瞳は静かだった。喋った言葉に釣り合う感情がそこには含まれていない。眉毛も頬もあまり動かない。感情が読みづらい顔だと思った。
 「いつもこういうの読んでるわけじゃ」
 「そうなの?」
 「はい。たまたまです」
 「……俺も一年生だよ」
 少し考えるような顔をしてから眼鏡の生徒は言った。
 「本当?」
 「うん」
 張り詰めていた気持ちが途端に緩んでいくような気がした。
 「上級生かと思ってた」
 「いや、合同体育で一緒だよ」
 「そうだっけ?」
 「うん。知らなかった?」
 「ごめん。いつもあんまり周り見てないから気付かなくて……」
 もっと良い言葉があるはずなのにそんな言葉しか出てこなかった。
 「いや、いいよ。ところでその本」
 と彼が言いかけた時、  
 「松村くん。頼んでた本、きたよ」
 カウンターから司書の人の声が聞こえた。
 「あ、はい」
 じゃあまた、と言って眼鏡の生徒はカウンターへ歩いていった。それまですぐ近くにあった気配が消え、何か取り残されたような気持ちが残る。彼は司書の人と少しのやり取りの後に分厚い本を受け取り、そのまま近くの椅子に腰を下ろした。もうこちらには来ないようだった。
 合同体育の時に意識して隣のクラスを見てみると、確かにあの眼鏡の生徒――松村の姿があった。図書室で見る時よりも小さく見えるのはいつも正してる背を少し猫背気味に丸めているからだろうか。膝を抱えて大人しく体育座りをしながらも意識はどこか別の場所へ飛んでいるようで、担当教師が前で話を始めてもぼんやりと床に視線を落としている。
 「今日は前も言ってたように選択授業な。バスケとテニスと卓球に分かれてもらう。はいじゃあ、列を作れ」
 相談するような話し声が飛び交いながらも意外にスムーズに列ができてゆく。一番多いのはテニスで、男子の半数以上がここに集まった。右の列ではいつも教室で騒ぎ立てている連中がバスケの列を作っていた。左の列の卓球は圧倒的に女子が多く、その列の最後尾に俯いて座る松村の姿があった。僕は元いたテニスの列を離れてさり気なく松村の後ろに腰を下ろした。前のめりに倒れていた首がこちらを振り向きかけて、また元の姿勢に戻った。
 「分かれたな。じゃあバスケはここで。テニスは校庭。卓球は第二体育館へ行け」
 女子たちの後ろをついて体育館を出る。隣を歩く松村はどんな顔をしているのか気になったが、何となく気恥ずかしかったのでそのまま前を見ていた。
 体育館にはすでに卓球台が組み立ててあった。前の授業で他の組が使ったのがそのまま残っているらしい。後ろから松村がやってきた。目が合う。特に声を掛け合うこともなく二人でラケットを取りに行き、空いている台に入る。
 親指と人差し指でラケットを掴むあのやけに難しそうな持ち方で、ぎこちなくラリーを始めた。ラケットを離れたピンポン玉がネットを越え、卓上で大きく跳ねる。松村は「うわっ」と小さく声を上げ、反射的に押し返すように返球してくる。力対力のやり取りでピンポン玉がコートの外へ逃げて行ってしまうのを何度も繰り返した。そのうちに小さく弧を描くように相手のコートへ返すことを意識し始めると、球が暴れることは少しずつ減っていった。一球一球集中しながら丁寧に返すことを心掛ける。リズミカルにとは行かないけれど、お互いの調子が合ってくればラリーは続く。
 周りでは女子たちが笑い声を立てながらそれぞれのラリーを楽しんでいた。じゃれ合うように、何の隠し立てもない笑顔がそこには浮かんでいる。友達同士というのはああいうものなんだろう。あれが『楽しそう』と言うんだろう。昔はそういう関係に憧れを抱いていた。笑うから友達なんだと思った。だから多少無理をして笑ったりしていた。今はそういう事もない。笑っているから友達、という観念は苦手だ。
 黙々と卓上で音を響かせているうちにいつの間にか授業が終わり、監督していたもう一人の若い体育教師の号令で道具の片づけが行われる。女子たちが前に置いてある棚に集まり、そこへ使い終わったラケットが乱雑に積み上げられてゆく。ラケット片手にその様子を見ていると、
 「やるよ」
 松村がこちらに向かって手を差し出してきた。
 「ありがとう」
 自分の握っているものを渡す。二つのラケットを持った松村は棚へ歩いていった。少し離れたところでその様子を見守る。今いる場から人がどんどん消えていく。出口に向かって列ができたその最後尾に、ようやく帰ってきた松村と並びあって歩く。お互いに無言だった。
 その日の昼休み、何か松村から話しかけられるだろうかと思いながら本を読んでいたが、特にそういう事もなく、ベルが鳴ると松村はそのまま図書室を出て行った。
 ただその後も体育ではペアを組んでいたし、昼になると図書室にやって来る習慣も変わらなかった。特に仲良く話すわけでもなく、笑顔があるわけでもなく、その場を共有する関係が続いていた。そんな不自然な関係を見ていないようで実は見ていたクラスメイトの女子が、
 「高野君って、四組の松村と仲が良いの?」
 と訊いてきたことがあった。
 「いや……」
 特別にそういうわけでもないと答えようとしたが、それは松村に対する裏切りのように思われて言葉に詰まった。
 「……どうだろう。分からない」
 「ふうん」
 少しの沈黙があった。そして笑ってはいたが、何かを探りに来た女スパイのような顔つきでいるクラスメイトが、もう一度口を開く。
 「松村と一緒にいて楽しい?」
 からかうような口ぶりだった。楽しそうに見えないからそう言うのだと思った。
 「分からない」
 正直にそう答えた。すると、分からないの? とクラスメイトが笑った。そういう反応が返ってくることは分かっていたが、他に答えようがなかった。
 「面白いね」
 そう言ってクラスメイトが机から離れていった。そして元いた友達の所へ笑いながら入っていく。場が賑わっている。楽しそうにしていた。
 二年生になり、クラス替えがあっても同じクラスにはならず、今度は体育の授業も別々になったが、昼休みに図書室に通う習慣はお互い変わらなかった。扉を開けると、離れたテーブルに先に来た松村が座っている。お互いの座る場所からは距離もあって、相変わらず会話もないが、その姿を確認できるだけで安心できた。
 桜が咲き終わる頃には教室内の関係性が出来上がっていて、さまざまに引かれた境界の中に一人だけ島国のように取り残された。それぞれの笑顔が国境線のように見えた。みんな笑うことで自分たちの領土を堅く守り、何かから取り残されないように頑張っている。少なくとも僕にはそう見えた。年度が始まって早々の委員会を決める話し合いでも、まずそこで優先されたのは教室内での友人関係で、黒板にポツンと貼られた自分のネームプレートは友達同士の椅子取りゲームから脱落した人間と組み合わされた。
 新たに担任となった体育担当の声の野太い教師が、
 「高野ももう少しみんなと混ざったらどうだ?」
 と声を掛けてきた時は、自分だけが取り残されている、という胸の中の思いが客観的にも事実であることが分かり、本当を言うと恐ろしくもなったが、結局はその教師の言葉を自分の中で納得することができなかった。「変わらなきゃいけない」とか「殻を破らないと」という言葉で開国を迫ってくる黒船は今までにも何度か現れた。関係性を築くことが世の中に出てからも必要になることは大人たちが口を酸っぱくして言っていることだし、それは世間一般的に見て正しいことなのかもしれない。正しいことなのかもしれないけれど、本当のことではない気がする。
 夏休みを喜ぶクラスメイトたちが何を話し合っているのか、ただ机に座っているだけでは耳に入ってくる情報はほとんどない。小学校の頃に遊ぶ約束をする声が教室のあちこちから聞こえていたのが嘘のように、高校生の約束事は他人に知られないところで密かに交わされ、夏休みに入るとその通りに計画が実行される。だがこの街で遊ぶ場所というのが具体的にどこを指しているかはよく分からない。海もなければ動物園や水族館もなく、特に大型の娯楽施設というのもない。そもそも動物や魚を見て何が楽しいのかが自分には分からない。お金を払って興味のないものを見たいとは思わない。海に行って裸になりたいとも思わない。
 休みに入ってもほとんど家から出ない日が続いた。たまに母に付き添って祖母の家に行き、そこで数日を過ごして帰ってくるというのがルーティーンでその間に日付はどんどん切り替わっていった。市立図書館で松村と偶然出会ったのはもう夏休みが終わりかけの頃だった。
 貸出を済ませると図書館を出て、そのまま駐輪スペースに向かい、ポケットから鍵を取り出してロックを解除する。スタンドを戻して自転車を引き出す。左には間隔を空けずにぎっしりと列ができていた。それぞれの高校名が書かれたステッカーが貼られた自転車で埋まったその中に、自分の高校の名前が一つ混じっているのを見つけ、立ち止まる。
 指先で肩を叩かれたような感覚がした。もしや、と思いながら振り返る。松村は小さなリュックを背負ってこちらを見ていた。その瞳には相変わらず感情の色は薄い。夏らしいラフな服装は案外似合っていた。
 「やあ」と松村が声を発した。
 「ああ」とそれに答える。
 やはり松村だと思った。と同時に、声を掛けられたことに少し驚いた。壊れかけた時計の針がまた動き出したような感覚だった。目は合わせたままで、何を話したらいいか探るようにお互いが沈黙の中に落ち、セミの鳴き声がその間を埋めるように響いていた。そして僕がこれだと思いついた時にちょうど松村が口を開いた。
 「家で勉強するよりもいいと思って来てみたけど、ここは人が多くて合わないんだ」
 「宿題、終わってないの?」
 「いや、宿題じゃないんだ。受験勉強」
 その言葉を耳にするには一年ほど時期が早い気がした。
 「二年生なのに?」
 「父親が東京の大学に行くように強く勧めてくるんだ。だからしょうがなく。……高野は、どうして図書館に来たの?」
 少しの間の後に口に出された自分の苗字にどきりとする。名前を憶えてもらえていたことも呼び捨てにされたことも嬉しかった。答えなきゃならないような気がした。
 「本を借りに来た。他にやることもなくて」
 「そうか」
 松村は少し考えるような顔をしてから、また口を開いた。
 「ちょっと時間あるかな?」
 その一言で僕たちは共に坂を下りることになった。下手にブレーキをかけたら大変なことになりそうな速度で、先を行く松村の後についていく。最初に汗をかきながら上り坂を歩いたのが嘘のように一気に国道沿いの道まで出て、そのまま駅前への道のりを漕ぐ。
 途中で無料で置けるという駐輪場に二人で自転車を停めると、駅ビルの近くにある、市内で一番高いビルまで歩いた。高層ビルと胸を張って言える一歩手前のような高さで、最上階のフロアには銀色の球体が見える。
 「ビルに入る」
 自動ドアを抜ける。入口付近にあるエレベーターを呼び寄せてその中へ乗り込むと、松村は最上階のボタンを押した。エレベーターが上昇していく間、何か話しかけてみようか悩んだが、悩んでいるうちに最上階へ着いてしまった。外へ出て、そのすぐ傍にある券売機で二人分の券を買った松村はその一つを僕に手渡した。自分の分のお金を払おうとしたが、「自分が誘ったから」と断られて、そのまま星や惑星の絵が飾られている暗い回廊を進んでいく。ここは小学生の頃に何度か来たことがあった。学校では週に一度くらい「学習」という科目があり、課外授業で学年全員がここに連れてこられて、あの銀色の球体の中へ入っていったのだった。入口手前に立つ乗務員のような制服を着た受付係の女性に券を渡し、中へ入ってゆく。
 映画館のように座席がスクリーンに向かって並んでいて、その端の通路の階段を松村と一緒に上っていく。最も高い位置にある座席まで歩いていき、そこに二人で腰を下ろした。
 穴の空いた球状の紫色の装置がスクリーンの前に設置されている。乳白色の大きなスクリーンはまだ何も映しておらず、これも上映前の映画館の光景と似ていた。
 客はほとんど入っていないようで、それは僕たちが早くき過ぎたせいかと思っていたが、それから数分が経っても何人かがぽつぽつ入ってくるだけで、上映直前になって辺りが暗くなっても座席全体を見回してざっと十人いるかいないかという数だった。完全に市民から忘れられているようだった。
 「本日はお越しいただき誠にありがとうございます。ご注意になりますが、ドーム内での、飲食、喫煙、携帯電話の使用等はご遠慮くださいますようお願い申し上げます。会話も控えていただき……」
 スクリーンの前でスポットライトを当てられたスーツ姿の女性が独特のイントネーションで注意事項を話していく。客の数が少なくてもこういう所はしっかりしていると思った。ドーム内はもうほとんど真っ暗になっていて、通路の非常口を示す明かりがついているだけだった。
 「それでは上映を開始いたします。素敵な星の旅をお楽しみ下さい」
 そう言ってスーツの女性は暗がりに消えていく。階段を上ってアナウンス席へ行く姿が朧げに見えた。そして目の前に暗幕が引かれるように夜の空が広がり、首が折れるぐらいに頭上にも星が見える。目に見える範囲全体に星が散らばっている。その星々にマウスで操っているような矢印が飛び回って解説が始まる。これはこの街の夜の空です、あれが夏の大三角形で……という具合にそれぞれの星座を形作る線が引かれてゆく。しかしその線を見てもこじつけのようにしか見えず、あまり興味が抱けない。
 星座の解説が終わり、夜空が線だらけになってようやく音楽が掛かり、映像が動き出した。
 大迫力の映像と音声を体が求めていた。星の勉強をしたいのではなく宇宙の雰囲気を味わいたかった。しかしその期待を下回るように、映し出されるのはどこか分からない市内の風景や、やはり相変わらず夜空を映し出すスクリーンに合わせて今流行りの恋愛ソングが流れたりする。雰囲気は悪くないが、何かが足りない。探るような気持ちで隣に座る松村の表情を見ると、楽しんでいるのかいないのかよく分からない相変わらずの無表情を浮かべてじっとスクリーンを見ている。
 結局、宇宙の映像も出るには出たが惑星は出てこなかった。もっと惑星を見たかった。どこかお預けをくらった犬のような気持ちになりつつ、夜空が消えて元の乳白色のスクリーンに戻る。「忘れ物がございませんよう……」というアナウンスが最後に流れて上映は終了した。席を立った松村に続き階段を下りてゆき、スクリーンの前で両手を合わせて立っているアナウンス係の女性に会釈をしてドームを出る。
 松村はエレベーターへは向かわず、階段で直接繋がる下の階の展望フロアへ降りていった。ドームから出てきた客がすでに何組かいてベンチに腰を下ろしていたので、しょうがなく一番端の窓際に立って街並みを見下ろす。
 西日が街を包み始めていた。時間の経過は思いのほか早い。それにしても、見かけによらず随分思い切ったことをする男だ、という気持ちが浮かんでくる。今も隣で無表情に街を眺めているが、いったい何を思ってどんなことを考えているのか顔を見てもよく分からない。
 駅のホームを出発した新幹線が高架橋の上を進みながら遠くの景色に消えていく。
 その光景を見ながら、松村も高校を卒業したらこの街を出ることになるかもしれないことに気付く。たしか東京の大学に行くように父親から勧められていると言っていた。「上京」という言葉はどこか自分とは無縁のものと思っていたが、そうか、松村は上京するのか。
 「高野は、どうするの?」
 「え?」ふいの言葉に驚く。
 「進路のこと」
 「ああ」
 窓の外を見て、しばらく考えていたが、答えが見つからず、
 「……どうだろう、まだ分からない」
 「そうか」
 今度は松村が窓の外を見つめる。
 それからは無言で街並みを眺めていた。途中で近くのベンチが空いたので、そこに腰をおろした。次第に西日は弱まっていき、街は薄闇に包まれていった。僕は、心細さに似た疲れが湧いてくるのを感じた。
 「帰ろう」
 松村の声に頷き、フロアを出る。
 人がまばらな駅前広場を歩きながら、僕はさっきの松村との短い会話を反芻していた。進路について口にした松村の顔は、やはり何を考えているのか分からなかったが、その表情の奥には、どこかへ歩いていこうとする彼の本心があるんだろうか。
 金網に囲まれただけの簡素な駐輪場は、ビルの間に挟まれた真っ暗な場所にあり、自分の自転車を探すのに骨が折れた。出口の前で待っている松村にやっと合流する。そうして夜の駅前通りを歩きだす。
 それほど長くはなかったが、一緒に帰れるところまで歩いた。そしてお互いの家の方向が分かれる交差点に差し掛かったとき、松村が、
 「いちおう連絡先を交換しておこう」
 と言った。 
 意外な提案だったがもちろん断る理由はなかった。僕たちは連絡先を交換し、そこで別れた。
 松村とまともな交流したのはこれが最初で最後だった。二学期が始まると、二人であのビルへ行ったこともまるで夢か何かだったようにまた元の何も話さない関係に戻った。ただ松村は図書室で本ではなく参考書を開くようになり、それを見ていると僅かに不安な気持ちにさせられた。
 進路について担任に呼び出されるようになったのはちょうどその頃だった。
 「高野は自分の将来についてどう考えているんだ」と、僕と白紙の志願書とを交互に睨みながら担任が言った。放課後の静まり返った職員室で、コーヒーを手元に置いて書類に目を落としている教師たちがさり気なく聞き耳をたてているような気がして嫌だった。どう考えていると言われても、自分の将来というものほど漠然としたものはなかったので、担任が満足できるような回答を出せるはずもなく、「ええっと……」などと呟いてみて考えるような振りをしながら気まずそうな顔をしている他になかった。
 「将来」という言葉が苦手だった。小学校も中学校も、行くように決められているから毎日通っていた。そこに何の疑問もなかった。違和感が付きまとい始めたのは高校受験の頃からで、「行きたい高校に行くためには勉強しなければならない」という言葉が出始めたことがきっかけだった。僕にとって学校は「行く」ものだった。それ以上でもそれ以下でもない。ただ行くことが当たり前だった。
 僕は、決められたことには真面目に取り組んでいた。だから授業でも不真面目な態度を取ることなく黙々と黒板に書かれている内容をノートに写していったし、提出物も必ず決められた期限は守っていた。けれどテストという自主性が出てくるものに対しては消極的で、いつかもテスト期間中に教室で本を読んでいたら「余裕だねえ」と通りすがった国語科の教師に言われてしまったことがあった。やらなければ叱られる宿題とは違い、テストの場合は懸命に取り組もうとそうでなかろうと、自己責任という形で決着がつく。僕は良い成績を取って優秀な学校に行って、それが具体的にどう自分に返ってくるのか実感として掴めなかったので、本を読むことを優先した。その結果、成績は下降していくことになったがそれほど深刻には受け止めず、こんな自分もどこかに入ると漠然と思っていた。今までだってそうだった。自分が何も考えなくても自然と道は用意されている。
 そうしているうちに三年に一度の文化祭も、二泊三日の修学旅行も、またその他諸々の行事も瞬く間に過ぎていって二学期が終わり、冬休みを挟んで三学期に入ってすぐに三年生のセンター試験の話題が上り、自分も一年後はどこかの学校を受験しているのだろうかとやはり漠然と考え、また就職組の特別授業が始まり出し、いよいよ君たちの番だと教師たちが強い声を出すようになり、進学組への風当たりも少しずつ強くなってきて、そんなこんなをしている間にあっけなく三学期も終わり、そのまま三年生に繰り上がった。
 三度目の春が来て、世間の慣習に倣って祝福をあげる校門前の桜の木は、何か祝い事がある時に「おめでとうございます」と口にする親戚のおばさんに似ている気がした。桜の花びらは綺麗だと思うが、それほど嬉しくもない事に対して「おめでとう」と言われるのは好きではない。教室へ入れば、去年よりも一層強固なクラスメイトの笑顔に迎えられ、そこに自分の入り込む隙間はない。三年はクラス替えもなく、ただ受験に向かって落ち着いた雰囲気を保つことを優先される。僕の机は笑顔と切り離されて、永世中立国の島国として浮かんでいる。
 松村は相変わらず図書室にいたが、その目は参考書に向けられている。去年の秋から始まった受験勉強は、父親に言われてしょうがなくやっているにしては随分長続きしていた。表面上は本が参考書に代わっただけなのに、まるで松村だけが今まで乗っていた電車を乗り換えてどこか知らない場所へ向かっているようだった。
 仲間だと思っていた人間が急にどこかへ消えてしまう経験は昔からよくあった。友達だと明言された関係ではないけれど、この人は自分と同じだと信じていたら、暗黙の了解が暗黙であることを利用して罪を残さず逃げてゆく。それはもしかしたら自分が一方的に仲間だと思い込んでいただけなのかもしれないけれど、裏切られたという思いはどこかに必ず残っているものだ。
 松村にそれを当てはめるには無理があるだろう。お互いを意識していることが分かる接触はこれまでに何度かあったし、今もお互い一人でいる状況は変わらない。何より将来のために勉強をするのは本人の自由だ。それを自分の身勝手で相手を逆恨みするのはよくない。理屈ではそう分かっているのに、参考書に目を落とす松村を見ていると、あの心細さが募ってきて一人を意識してしまう。
 三年になって最初のテスト期間に入ったとき、やはり周りが勉強しているときに本を読んでいると、担任が教室に入ってきて僕の前に歩いてきた。
 「高野は進学だよな」
 「はい」
 「お前こんなことしてていいのか?」
 担任はそれからは何も言わず、自分の用事を済ませるとすぐに教室を出ていった。
 しばらくの間茫然として、本を持ったまま固まっていた。
 やがてチャイムが鳴り、とりあえず手だけ動かしてテスト用紙の解答欄を埋めていった。解けない問題が多いので空白部分が多く、すぐに終わりまで行きつく。そうしてテストが終わるのを待っていると、そのうち怒りが腹の中からこみ上げてくるのを感じた。
 クラスメイトの前で恥をかかせられたことも、当てつけのような短い言葉も許せない。やるべきことはやっている。校則を破ったこともない。冷たい言葉をかけられるいわれはない。
 自己弁護の言葉が次から次へと胸の内に沸き上がってきた。
 テストが終わってからもまだ胸の内が収まらなかった。自分を根っこから否定されたような気がした。もともとこのクラスには不満があった。みんな自分をいないもののように扱う。いたくない場所にいる必要はない。学校にいなければならない理由なんて本当はない。
 次の日、僕は学校を休んだ。
 初日だったので、母も一日限りのズル休みは許してくれた。何をするでもなく、家で本を読む。時間だけがただ過ぎて、すぐに一日が終わってしまう。
 そして翌日も母に休みたいと告げると、それは許さないと言った。いくら粘ってもダメで、僕は追い出されるように家を出た。
 行けと言われると行きたくなくなる。このまま学校へは行かず、どこか逃げられる場所を探そうか、と頭では考えながらも、自分の足は駅へ向かって歩いている。そして自分と同じ高校生たちが歩いているのを見ると、抵抗する気もなくなった。
 駅構内に入り、そのまま改札を抜ける。
 電車は予定通りの時間に到着した。観念するように乗り込み、空いている席に座る。学校までは二駅分ある。普段は読書をして過ごすが、今日はそんな気持ちも起きない。ただ田んぼや畑、または雑木林ばかりが映る窓の外を眺めても、なんの慰めにもならない。
 やがてアナウンスが流れ、もうすぐ目的の駅に着くことを知らせる。電車がゆっくりと減速していき、駅の様子が見えてきた。自分と同じ制服を着た何人かの生徒が席を立ち、出入り口の傍に集まっている。
 出入り口の扉が開く。人が出ていく。そして新たに入ってくる。今ならまだ間に合う。二日休むと歯止めが利かなくなるぞ。そう自分自身に忠告をするも、体は動かなかった。扉は閉まり、電車が次の駅を目指して動き出す。
 制服を着ている人間が少なくなったのを見計らって、電車を降りた。定期は使えないので直接駅員に料金を払って改札を抜ける。
 駅への道が分かるように一本道を歩いていく。最近整備されたようなきれいな道だった。しばらく歩いていたが、畑ばかりが広がる風景に不安を感じて、そこからすぐ引き返した。そして今度は反対方向へと歩き出す。
 すると住宅地のようなところに来てしまった。そのうち道も狭くなっていく。どこを見ても二階建て以上の建物がない。完全な田舎町だった。どこかに寄って時間をつぶせるような場所もなさそうなので、しょうがなく引き返す。
 駅の近くに桜の木がある小さな公園があったので、そこのベンチに腰掛ける。
 スマホで時刻表を調べてみると三十分後に下り電車があった。このままこの町にいても仕方ないし、あんまりウロチョロしていても怪しまれる可能性があるので、電車がくるまでここに座って待つことにした。
 天気だけはよかった。花見にちょうどいいような春の陽気が満ちている。こんな時に自分はどうしてこんな馬鹿なことをやっているんだろうと思った。二日休めばその分授業が進み、板書された内容をノートに写すこともできない。どんどん面倒くさくなっていく。
 明日からは学校へ行く。それが一番賢い選択なのは分かっていた。ただこのよく晴れた青空を見ていると、このまま意地を張っているのも悪くないような気がしてくる。それは最悪な選択だと分かっていた。
 下り電車で自分の街に帰ってきても、僕はどこへ行けばいいのか分からなかった。制服を着たままなので一定の場所に長くいるわけにはいかず、とりあえず頭の中にある地図の範囲内で行ける場所を歩いた。
 とくに理由もなく市役所の前まで行ったり、二年前まで通っていた中学校の校門を通り過ぎたり。意味のないことをしていると思った。
 夕方まで時間をつぶすのは大変だった。足が棒になったようで、何もしていないのにひどく疲れた。ようやく玄関の前までたどり着いてノックをすると、母が笑顔で迎えてくれた。
 「今日はよく行ったね」
 僕は曖昧に笑うしかなかった。学校へ行かなかったとは言えない。あんまり褒めないでほしいのに、母は今日に限ってここぞとばかり褒めてくれる。
 夕食もお風呂も済み、やっと今日が終わろうとしていたその夜、僕は明日の用意をしていた。リュックの中には教科書ではなく、箪笥から持ってきた私服を入れた。
 これから長い裏切りの日々が始まると思った。
 翌日、昨日と同じように駅に向かった。ただ電車が待っているホームへは行かず、構内にある個室トイレに入った。制服を脱いで持ってきていた私服に着替えると、そのまま駅の外へ出た。
 さあ、どこへ行くか。昨日のように市内を歩き回るのは疲れるのでいやだ。どこか腰を落ち着かせることができる場所はないか。
 とりあえず図書館に行ってみることにした。九時から開館するというので、それまでは駅前広場で持ってきていた本を読んでいた。
 駅前から図書館までは少し距離があったが、歩いていけないほどではなかった。それに苦労するのは今はそれほどいやではない。とりあえず目的があればいいのだ。
 その日はずっと図書館にいた。空腹を感じるとファミレスに入って食事を取り、また図書館に戻った。本を読むのは苦に感じなかったので、夕方までいることができた。
 次の日、僕は電車に乗った。学校へ行く方向とは反対の下り列車に乗り、三駅ほどで降りた。以前降りた駅よりは町らしい町だった。歩けばお店も見つかる。ただ少し遠くを見渡せば雑木林が広がるのは変わらない。
 川沿いを歩く。道はコンクリートで舗装されているところと、整えられた砂利道が半々くらいで続いていた。橋はあったが向こう側には渡らず、一見浅そうに見える川の水面を見ていた。自分の町に流れている川と似ている気がした。阿武隈川だろうか。
 あまり遠くには行かず、早めに散策を切り上げて帰ることにした。
 街に帰ってきても、まだ昼も過ぎていなかった。それからは昨日と同じく図書館に行き、読書をしていた。それでまた一日が終わった。
 その日の夜、僕は横になって今後のことを考えた。
 四日も休んだせいで、すでに気持ちも落ち着いていた。今ならあんなに意地になることはなかったと思える。とても自分が冷静になっている。だからこそもう言い訳もできないと思った。
 次の登校日は週末をはさんでからになる。本当に、引き返すなら今だ。学校へ行けば、多少恥ずかしいだろうがそれでも一時の恥で済む。母についてる嘘もバレずに済む。
 でも、また制服を着て、あの窮屈な教室へ戻ることを考えると暗い気持ちになる。それに抜け道を見つけたような安心感も、やはり自分の中に存在している。
 休みの間も考え続けていた。結論は決まっていた。学校へ行くべきだ。それは自分が一番よく分かっている。逃げ続けても先がない。今なら傷を負わなくて済む。だから月曜日には、学校へ行こう。
 そして日曜日の夜、僕はリュックの中にやはり自分の服を入れていた。
 朝起きると、僕はいつものように図書館へ向かい、夕方まで読書をし、家に帰ってきた。
 玄関先で迎えた母の顔は曇っていた。
 「あんた、学校休んでるの?」
 「え?」
 「先生から電話が来たのよ。あんたに電話しても繋がらないからって」
 バレてしまった以上言い逃れはできない。僕はすべてを母に白状した。すると母の説得が始まった。
 「敬一、明日は行きなさい。絶対。逃げられないのよ、これは」
 「……」
 「高校は行って。お願い」
 「……」
 「中卒では将来困るのよ。就職だってできないし」
 「……」
 「明日は行って。ね?」
 僕は「うん」とも「いやだ」とも言えず、そのまま部屋に入った。
 スマホの電源を入れてみると、見覚えのない番号から何件か着信があった。おそらく学校だろう。いつも休みの連絡を入れた後、電源を切るようにしていて正解だった。担任とは話したくない。
 「敬一、入るわよ」
 部屋の外で声がして、母が入ってきた。後ろ手で扉を閉めると、床に正座して僕を見つめる。
 「なんか学校で嫌なことでもあったの?」
 「まあ……うん」
 「何?」
 「大したことじゃないんだけど」
 「意地悪されたの?」
 「違うよ。そういうのじゃないけど、ちょっと意地になっちゃって」
 「……」
 母は何も言わず、僕がその先を言うのを待っている。
 学校へ行かなくなった理由が、担任のちょっとした一言が原因とは言いづらかった。それにそれだけでなく、自分自身で意地になってしまったのもあるし、前々から教室の空気というものに馴染めなかったのもある。ただその感覚を、上手く言葉にするのが難しい。
 「お母さんも経験あるから気持ちは分かるわ。休んでるとどんどん行けなくなるの。一日だけ我慢すればあとは周りも忘れてくれるわ。どんなに嫌でも、あと一年行けば終わるのよ」
 「……」
 「ね?」
 「……」
 「明日は行ってね。約束よ」
 そう言って母が部屋を出ていく。僕は床の上に寝転がって天井を見つめた。
 これから母の説得を受け続けることを考えると気が重かった。母を困らせるのは嫌だ。やっぱり学校へ行くべきか? 結局観念しなければいけないのは自分だろうか。
 その日はずっと自分の部屋でそのことについて考えていた。結論は決まっていた。あとは気持ちの問題だった。
 そして翌朝、僕は制服に着替えて玄関の前に立っていた。リュックにはちゃんと教科書が入っている。
 「いってらっしゃい」
 母の声に背中を押されるように、ドアノブに手をかける。そのとき頭の中で声がささやいた。
 どうして自分は悪くないのに、こんな状況になってしまったんだろう。自分に冷たい言葉を吐いた担任は大人だから許されるのか。普段笑顔の裏で手を取り合っているクラスのもとに戻って、自分はどう思われるんだろうか。みじめな奴だと思われるのか。
 「やっぱり行かない」
 握っていたドアノブから手を放し、靴を脱いで自分の部屋へと向かう。
 「敬一、ダメよ。約束したでしょ。今日は行きなさい」
 僕は追いかけてきた母に振り返り、
 「やっぱり僕は悪くないよ」
 と言って、そのまま部屋のなかに逃げ込んだ。
 「ねえ、お願い。今日は行って。」
 ドア越しに話しかけてくる母の声が聞こえないように耳を塞いで、ベットにもぐった。
 それから僕は学校を休み続けた。部屋にこもってずっと本を読んでいた。昼間でも、部屋にいると外の音も聞こえない。カーテン越しに入ってくる日の光を頼りに、部屋の中でぼんやり文字を追う毎日。たまに時計を見て、今頃は授業をやっているんだろうかと思うと、重苦しい気持ちになった。食事時には母とも顔を合わすが、あれ以来怒ったように一言も口を利いてくれなかった。僕自身も、こうなったら意地の張り合いだと思った。このまま逃げ切ってやる。
 転校についてもパソコンで調べた。高校の転校は、転校を希望する学校側に欠員がなければいけないらしく、しかも親の転勤などそれ相応の理由がないと難しいということだった。
 編入の場合は、高校を中退した人間が再度入学するというもので、例えば三学年の途中で学校を退学したとすれば、三年生の最初からその学校へ入ることができる。一年生からやり直す必要はない。人よりも一年遅れることになるが、たぶん自分の場合はそうなるだろう。
 私立はお金がかかるので考えていなかった。そうなると県立高校のみの編入となるが、自分の学力では行ける学校が限られているだろう。
 すぐ頭に浮かんだのは駅前にあるビルのなかの定時制高校だった。あそこはたしか通信制もあったはずだ。家からも遠くない。人とあまり会わなくても済む。あそこなら自分でもなんとかなりそうな気がする。
 仮に編入のことを話して、母は認めてくれるだろうか。
おそらく現段階では許してくれないだろう。編入の話をするにはまだ欠席日数が足りない。それに最終的には担任とも話さなくてはならない。今はこのまま部屋に籠城して時間稼ぎをするしかない。
 担任が家にやってきたのはそんなことを思っていた矢先のことだった。
 会いたくはなかったが、顔を合わせないわけにはいかないので、担任が待っている居間へ入っていくと、座布団に正座している大柄の体が見えた。
 担任は机を見つめたまま、静かにそこに座っていた。僕が現れてもとくに視線を合わせようとはせず、本題に入るまで口を開かないのはいかにも大人らしいと思った。
 僕はそこへ向かい合うように座り、母は脇でその様子を見守るような形となった。
 「じゃあ早速なんだけど」
 と担任が口を開く。
 「最近、学校に来ないけど、どうしたんだ?」
 「ちょっと教室の空気になじめなくて……」
 頭の中で用意していたセリフを口にする。
 「お前が何となく教室に居づらいというのは、分かってたんだけどな。前も言ったけど、高野はもう少しクラスメイトと話す努力は必要だよな」
 「はい」
 「先生も毎年クラス持つんだけど、やっぱりクラスの輪の中に入っていけない生徒って一人か二人いるんだよ。そういう子見てると、もうちょっと自分から話すようになれば違うのになあって毎回思う。お前見ててもそう思うんだ」
 「はい」
 「それと、お前いつも本読んでるだろ。別に悪いことじゃないんだけど、時と場合って大事だよな。テストのときは勉強をするとか、まあ先生も体育の教師だからそんなに勉強好きじゃなかったけど、何となく周りを見て動くことはしなきゃいけない。それは分かるよな?」
 「はい」
 「お前自身、これからどうするつもりなんだ? ずっと休んでいるわけにもいかないだろ」
 ついに来たと思った。僕は覚悟を決めて、口を開く。
 「ずっと考えてたんですけど、ちょっとこのまま教室にいるのはつらいので、違う学校に行きたいと思ってて……」
 そう言うと、担任も母も顔色を変えた。
 「学校辞めるつもりなのか?」
 「このまま教室にいる自信がないんです」
 担任は少し考えるような顔をして、
 「どこの学校に行くつもりだ?」
 と訊いた。
 「駅前のH高校です」
 居間が静かになってしまった。大人にとって子供の口から出てくることは驚くことばかりなのだろう。
 「まあ仮に、学校を変えるとしても、たぶん今年は無理だぞ、来年から編入という形で、三年生から入ることはできると思うけど」
 「はい。それでも大丈夫です」
 「……」
 また場が静かになってしまった。
 担任が帰ると、それまで黙っていた母が口を開いた。
 「あんた、学校変えるなんて許さないわよ。なに勝手なこと言ってるの」
 「もう決めたんだ」
 「決めたって……」
 「もう教室にいるのいやなんだよ」
 母は困った顔をしてしばらく僕を見ていたが、
 「とりあえずお父さんに相談しなきゃいけないわ……」
 そう言いながら台所へ消えていった。
 『通信制はだめだぞ』
 父は、開口一番そう宣言した。
 「どうして?」
 と僕が訊くと、
 『通信制っていうのは高卒の認定を取るために行くようなところだぞ。進路の相談だってしてもらえないし、第一人との関わりがなくなる。そうすると社会へつながっていくのも難しくなる』
 もっともな意見だった。父の言うことはいつも正論だ。だから嫌だった。
 父はさらに畳みかけるように、
 『お前、このままだと引きこもりみたいになっていくぞ? それでもいいのか』
 確かに、自分でもそう思う節がある。このままズルズルと良くない方向へ行ってしまうような予感が。
 「でも、もう学校行くのイヤなんだよ!」
 このままだと父のペースに持ち込まれそうなので、とにかく感情で食い下がる。対面なら、父に丸め込まれていただろうが、電話ならばなんとか粘ることができる。単身赴任先で関東にいっていることが不幸中の幸いだった。
 結局、長い話し合いの末、
 『……学校を辞めることは認めてやる。その代わり定時制にしろ』
 そこが妥協点だった。四時間以上電話で説教をされた末に、通信制に入れてもらえなかったのは残念だが、とにかく学校を辞めることは決まった。
 退学が決まったのはそれから一週間後だった。
 学校側からの対応は予想外にあっさりとしたもので、退学の意志が揺るがないことを聞くとすぐに準備をしてくれた。正直学校側から引き留められることを覚悟していたので、こんなものなのかと驚いてしまった。厄介者は別にいなくてもいいと、そう言われたような気がした。
 この二、三週間のあいだに、自分の運命が決まってしまったことに対して、僕はずっと戸惑いの気持ちをぬぐい切れなかった。自分のやったことであるのに、何かとても間違ったことをしてしまったような気がする。苦しい期間が終わると同時に押し寄せてきた、我儘を突き通したことに対する後悔の念が自分のなかで膨れ上がっていく。やってしまった、と思ってもすでに遅かった。
 部屋の中で寝転がっていると、スマホからメールの受信音が聞こえた。もしやと思って開いてい見ると、やはり松村からだった。
 『学校辞めたの?』
 というメールに対して、
 『うん』と返す。それ以外の言葉が見つからなかった。
 『そうか』と返事が来て、『今度会おうよ』と続く。
 『うん』同じ返事をした。
 たったそれだけのやり取りだったが、なぜかとても嬉しかった。
 もともと僕たちは、頻繁に連絡を取り合うような関係性ではない。だから連絡先を交換したといっても電話したり、メールのやり取りをすることもなかった。でも、こういう時に一言かけられる言葉というものは、なにか胸に沁みるものがある。
 それ以来、僕にはスマホの画面を確認する癖がついた。よお。とか、元気か? とか、その程度でもいい。忘れられていないということが分かればそれでよかった。
 毎日スマホを確認しては、何も連絡が来ていないことを残念に思った。だが松村にも学校があるし、受験も控えているのだから仕方がない。それに男が男に毎日メールを送るというのも気持ちが悪い話だ。いい加減自分も気持ちを切り替えなければいけないのだが、なにもやる気がしない。
 高校を中退すると、時間の流れが急激に早くなった。いろいろなものに鈍感になり、ほんの少し前まで高校生だったことも、どこか昔の出来事のように実感がなかった。自分だけが止まった時間のなかで生きているみたいに、一日一日が希薄だった。松村の一年に比べて、自分の穴ぼこだらけの一年はなんの意味があるのだろう。部屋で横になりながら、ぼんやりそんなことを思っていた。
 家の外で季節が過ぎていった。紅葉も雪が降ったという知らせもテレビのニュースが教えてくれた。寝て、起きて、本を読む。そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか春がやってきていた。
 もうH高校への編入の手続きは済んでいて、あとは入学を待つだけだった僕は、これから始まる一年のことを考えていた。同級生に後れを取ったことも、もう一度高校生をしなければいけないことも気が重かった。こんなことならあの時やはり逃げ出さなければよかったと思った。我儘を突き通すということはいろいろと苦い結果をもたらすものだと、いろいろ後悔の念に襲われたが今さら考えて仕方がない。
 テレビをつけても、ちょうど卒業シーズンのため高校の卒業式の様子などが映る。次々に体育館へ入場していく卒業生たちは赤の他人だったが、ふいに松村の顔が頭に浮かぶと寂しい気持ちになった。
 僕はスマホの画面を確認してみた。やはり着信もメールもない。自分はもう忘れられているんだろうかと、嫌な考えが浮かぶ。もともと強いつながりがあったわけじゃない。ひょんなことから連絡先を交換しただけで、高校卒業とともに切れてしまう程度の縁であることはわかっていた。
 けれどもこれでいいのだろうかとも思う。手を伸ばせばまだ届きそうな距離にいる気がする。いつも人から声をかけられるのを待っているが、たまにはこちらから接触してみるべきではないか。
 ほんの出来心だと思いながら、メールを打つ。
 『久しぶり。受験どうだった?』
 大した内容の文章じゃないが、とっかかり程度にはなりそうだ。そのまま相手の返信を待とうとスマホを置くと、すぐにメールの受信音がなった。
 『久しぶり。受かったよ』
 間を空けずに返信する。
 『どこの大学?』
 『東京のほう。明後日には向こうへ行って準備をする』
 松村は遠いところに行くんだと思った。もう会うこともないのかもしれない。あっちへ行ったらもう完全に関係は途絶えるだろう。そんな考えがいつになく自分を大胆にさせた。
 『よかったら、見送りに行くよ』
 今生の別れだと思った。もし迷惑なら断ってくれても構わない。そう思っていたら、
 『うん、頼むよ』
 と、了承する返事がきた。
 二日後、僕たちは駅前の広場で待ち合わせた。
 てっきり旅行バックのようなものを持ってくるんだと思っていたら、松村は軽装で現れた。少し拍子抜けした気持ちになって、あっちへ持っていく荷物のことを訊いてみると、「荷物は事前にむこうに送ってあるんだ」と教えてくれた。
 久しぶりに会う松村の姿は前と全然変わっていなくて、少し安心した。大学生になるといっても、松村本人の変化はなく、ただ高校生から大学生という名称に変わるだけのような気がした。そんなに焦ることでもなさそうだ。
 駅構内は混雑していた。やはり今の時期は松村のように進学やら就職やらで街を移動する人が多いのだろう。そんな光景を見ていると、少し胸のあたりが縮まるような思いがする。
 階段をのぼって二階にあがり、改札口の前までくる。多くの人が行きかっていた。街を出ていく人、帰ってきた人、改札口というのはそれぞれのドラマの始まりでもあり終わりでもあるんだろう。そんな感傷的な思いを抱いていると、
 「じゃあ、行くよ」
 松村が言った。いつもの感情の色の薄い目。特にしんみりしている様子もない。松村らしい。
 「また会おうよ」
 僕の言葉に頷きを返すと、松村は向こう側に歩いて行った。いちおう背中が見えなくなるまで見送る。
 一人もときた道を戻り、構内から出る。外は日差しが強く、広場では噴水の飛沫がきらきら輝いている。中央の円形の椅子に座って休憩している人たちも多いようだった。
 三月の上旬、春の暖かな空気の中に僕は取り残された。


 「ねえ」
 と声をかけられた。振り返ると、園崎彩希がそこに立っていた。
 「あなた、たしか同じクラスでしょう?」
 「うん」
 「学校、そろそろ始まるよ」
 それだけ言うと、彼女はエレベーターのほうへ歩いていった。
 一瞬の出来事で返事をする間もなく、僕はぽかんとしながらその後ろ姿を見送っていた。
 スマホを確認してみると、確かにそろそろ学校の時間だった。
 僕はベンチを離れると、どこか落ち着かない気持ちのままエレベーターをつかって下へ降りた。そしてビルの左側まで歩いていくと、いまだに見慣れない自動ドアの校門をくぐった。
 教室にはすでに彼女の姿があった。誰とも会話をせず、大人しく席についているのは昨日と同じだ。どことなく人を寄せ付けない雰囲気を持っているが、意外と親切な面もあるのだなと思う。それに顔も覚えていてくれたらしい。
 教室ではそれぞれの会話が起きている。仲が良いもの同士が集まってグループをつくるのは普通高校と同じだ。ただそれに混ざらず一人でいる人間も少なくはない。そういう人は恐らく年齢が違うのだと思った。働きながらこの高校に通っている人間もいるのだと説明会でも聞いた。その辺が普通高校との決定的な違いだ。教室の空気というものがまとまりそうでまとまらない感じがある。人見知りの自分にとってはその方が都合がよく、居心地は悪くない。
 もともとこの教室のほとんどの人間は、二学年から繰り上がってきたのだろうから、だいたい知り合いのようなものだろう。ただ自分は違う。違う学校から転入してきたよそ者で、一年間休んでいた分年齢も一つ上だ。そういう意識がこのクラスと自分の距離を遠くさせている。
 それぐらいでいいのだと思う。たった一年間なのだから卒業さえできればいい。この学校に通っているほとんどの人間だってそうだろう。真っ当な高校生活をしたいのなら別の高校に行っているはずだ。問題は卒業してからどうするかだ。
 入学してすぐに、進路希望についての紙を渡された。この学校は就職する生徒が圧倒的に多いことは説明会でも聞いていた。就職のサポートはある程度できるが、進学は本人の学力にかかってくる。はっきりとではないが学長自身もそれとなくそんな内容のことを話していた。
 とりあえず進学のほうに丸をつけておいた。進学したいのではなく、就職したくないからだ。進路の話はもう聞きたくなかった。前の学校を辞めたのだってそれが理由なのに、ここに来てまでそのことを突き付けられるのにはうんざりしてしまう。
 いつかは向き合わなければいけない時が来るのかもしれない。だが、いまは考えたくなかった。
 ホームルームが終わると、いよいよ授業が始まる。この学校には時間割の関係上、休み時間というものがない。夕食の時間を除くと、下校時間までずっと授業が続く。ただやるべきことをやって帰る、そういうストイックなところが個人的に好きだ。
 四十五分の授業を六時限受ける。教室移動などを繰り返していると、気が付けば夜になっていることが多い。蛍光灯の明かりがだんだん眩しくなってくる頃合いだ。学校というよりは、やる気のない塾にいるような気がする。学校に入ったばかりの、この他人と授業を受けているような感覚は不思議だった。自分はいったい何をしているんだろうと、脳が錯覚を起こしているような感じがする。
 そして一日が終わる。部活動をする生徒はそれぞれ各集合場所に散らばっていくが、活動できるのは一時間だけだ。部活というよりも授業後の軽い運動をするという感覚で入っている人間が多いのだろう。自分はもちろん参加しない。そのまま教室を出てエレベーターに向かう。
 夜の八時を過ぎたバスターミナルは学生の姿があまり多くない。家に帰ったか、着替えて夜遊びに出かけているか、アルバイトをしているか。とにかく制服を着ている人間は少なくなる。
 やがてバスが来て、疲れ切ったサラリーマンと一緒に乗り合わせる。薄暗い車内で、スマホをいじるでもなくただじっと座っているのはどこか心地よかった。自分は十八歳なのだから、もう会社員としてどこかに勤めていてもおかしくない年齢なのだ。でも高校生でもある。
 ふと、松村は何をしているのだろう、という疑問が浮かんだ。駅で見送ってから、特に連絡というものをしていない。東京へ行って、それからどんな生活をしているのだろう。大学で友人みたいな存在はできたんだろうか。
 家に帰って、僕は久しぶりに松村にメールを打とうと思った。スマホと睨み合うようにして、二時間ほど文面を考えていた。でも結局やめてしまった。どんな言葉を送っても松村の負担になるような気がしたし、何より照れ臭かった。
 翌日、僕はやはり一時間早いバスに乗って駅前に来ていた。
 そして昨日の再現をするかのようにビルへ向かい、エレベーターで展望ロビーを目指す。階数表示のパネルの光が二階、三階……と進んでいくのを見ながら、都合のいい考えを抱いている自分が恥ずかしくなった。
 扉が開くと、もしかしたらという期待とともに、相変わらず人気のないロビーを歩いていく。だがベンチには誰もいなかった。
 とりあえずそのまま腰掛けて街を眺める。
 昨日と違って、景色を見に来たわけではない。その自覚はあった。約束をしたわけでもない。こちらが一方的になにか思い違いをしているだけなんだろうけれど、席を立とうとはしなかった。まだ時間はある。
 少し経って、足音が聞こえた。
 だんだんとこちらに近づいてくる。警備員のものではない。だとしたら十中八九そうだ。
 足音が通り過ぎてから、そっと視線を向ける。
 なで肩のほっそりとした後ろ姿に、見覚えのある制服。いつも教室で見ているその背中は、園崎彩希に間違いなかった。
 思惑が当たったことに対する喜びを抑えつつ、窓の外に視線を戻す。あくまでも景色を見に来た風を装っていなければならない。眼下の街を眺めながら、胸にある充実感が広がっていくのを感じていた。
 次の日から、僕は学校が始まる前には展望ロビーへ行くようになった。
 今日は来ないんじゃないか、そんな不安とは裏腹に、園崎彩希はそれが習慣であるかのように毎日ここへ上がってきた。待っているときに足音が聞こえると、自分は拒絶されてはいないんだと安心できた。
 もう少し接触してみたい。珍しくそう思う相手だった。制服を着ていることからの勝手な仲間意識もあるが、それだけではない。
 この学校に編入してきて、彼女だけはどこか違う場所からやってきたような印象があった。教室で机に座っているときの寡黙な背中や、何を考えてるかを容易に悟らせない表情には、ある種の知性を感じた。逆に言うと、周りがあまり賢く見えないのだ。
 暇があると園崎彩希を観察するようになった。
 教室ではクラスメイトとの交流はなく、彼女の机に誰かが来ているのを見たことがない。愛想がないわけではないが、自分から他人と関わっていこうとはしないようだ。授業態度は真面目なようだ。教師に質問されることがあっても、答えられなかったことはない。
 夕食の時間になると、彼女は教室からいなくなる。
 弁当箱を広げるクラスメイトたちの騒めきに乗じるかのように、教室を抜け出してどこかへ行ってしまう。行き先は不明だった。もしかしたら食堂に行っているのかもしれないが、なんとなく腑に落ちないところがある。
 さすがに探しに行こうとは思わなかったが、ずっと不思議に思っていた。いつも机から離れない彼女が、この時間だけはどこかに消える。どこへ行っているのだろうとぼんやり考える日々が続いていたが、期せずしてその機会はやってきた。
 その日僕は、国語の授業で借りた本を返そうと図書室に向かっていた。
 休み時間がないこの学校では、まだ図書室を利用したことがなかった。少々緊張しながら階段を下りていき、扉の前までくる。明かりの漏れていることから、閉館していないことがわかり、そのまま中へ入っていく。
 誰もいない図書室で、園崎彩希だけがテーブルの片隅に座っていた。本を読むでもなく、どこか所在なさげに本棚のほうを見つめている。居場所がないという言葉がぴったりのその光景はどこか嘘のようだった。
 僕はバーコードを読み取ってもらい、ちょうど自分の肘がおける高さの棚にその本を戻した。顔を上げると、そこには窓がある。もう外は暗く、蛍光灯の明かりに支えられながらも室内はぼんやりと暗くなり始めている。
 「変な感じだよね」
 声がしたほうに顔を向ける。園崎彩希が座ったままこちらを見ていた。
 「変?」
 問い返すと、彼女は窓の外を見て、
 「普通の学校の窓からは、駅前の風景なんて見えないでしょう」
 「ああ、そうだね」
 真下には輪を描くような形のバスターミナルが見える。だんだんと当たり前になりつつある風景。ここに来て一か月が経とうとしている。毎日展望ロビーで顔を合わせているのに、園崎彩希に声をかけられたのは、これでまだ二回目だった。
 彼女の目はいつもと変わらず、何を考えているか掴みづらいものだった。誰かに似ている、目を見る度にいつもそう思っていたが、今やっとわかった。松村だ。物事に無関心に見えて、意外と親切な面がある部分も似ている。
 「明日はもしかしたら休むかもしれない」
 ふいに園崎彩希が口を開いた。
 「え?」
 「最近ちょっと体調が悪いの。だから、明日は来ないと思う」
 「うん」
 そう答えた時に、五分前の予鈴がなった。
 「行くね」
 彼女は椅子から立ち上がって、扉へ歩いていった。座っていると分からないが、彼女は背が高い。自分とそれほど変わらないくらいだ。それにとても細かった。


  「今日も園崎さんは欠席です」
 朝のホームルームで担任が言った。今日でちょうど一週間が経つ。あの日から園崎彩希は学校を休んでいる。あの時は体調が悪いと言っていたが、それで一週間も休むものだろうか。担任の口ぶりからも、ただの風邪のようなものではないことは何となく伝わってきた。
 教室でも噂話がいくつか聞こえてきた。驚いたのは、彼女が自分と同じく今年から編入してきた生徒だということだ。彼女が来ている制服というのは、県内でも有数の進学校のものだった。
 なぜそんな生徒が、しかも三年生になってこの学校に来たのか。謎は深まるばかりだった。ただこの学校に来る人間というのは多少なりとも訳ありだ。まあ何か事情があるのだろうと、それ以上首を突っ込んでいこうとしない空気が教室のなかにもあるような気がした。それに彼らの関心は数日後に控えている定期テストに向き始めていた。
 パーカーを着た仲のいい者たち同士が集まって、試験勉強まがいのお喋りをしているのを見るのはどこか息苦しかった。制服を着ているのは自分だけになってしまったことで、そんなつもりはないのに、なにか自分だけ意地を張っているような気持ちにさせられる。別に私服で登校しても、僕自身に問題はない。だが、それはどこかで彼女を裏切ってしまうような気がした。
 展望ロビーには毎日通い続けていた。一時間近くベンチに座って、足音はいつ来るのだろう、仮に聞こえたとしてその足音は本物だろうかと考えながら、彼女のことを待つ。
 あの時、「明日は休むかもしれない」と言ったのは、もしかしたら彼女なりに気を遣ってくれたのかもしれない。自分が当分学校に行けなくなることをあらかじめ僕に伝えておけば、ここで待っている必要もなくなるからだ。
 体調が悪いというのは本当のところどういう意味なのか。精神的な面でのことなんだろうか。三年からの編入というのも、よくよく考えてみると不思議な話だった。しかも進学校からわざわざ定時制高校へ。よっぽどの理由がない限り、そんなことはしないはずなのだ。何か関係があるんだろうか。
 いろいろなことを考えながら、僕はますます園崎彩希という人物に興味を持っていることに気付く。あの感情を悟らせないような目。その奥になにか特別な事情を抱えている。  
 「おはよう」
 突然の声にびっくりして振り返る。園崎彩希がすぐ傍に立っていた。
 「あ、おはよう」
 慌てて挨拶を返す。
 心なしか、一週間ぶりに見る園崎彩希は少しやつれているように見えた。どうしたのと、素直に聞いてみたい気持ちがあったが、それを抑えて、別の形で問いを投げかける。
 「ずっと体調悪かったの?」
 「うん、そう」
 何も教える気のないような返事だった。それから街に視線を向けていた園崎彩希は、今度は思いついたように自分から口を開いた。
 「ずっとここに来てたの?」
 「うん」
 「……」
 園崎彩希は街を眺めながら、なにかを考えているような顔をしていた。しかし、やはり何を考えてるかはその表情からは読み取れない。
 そのまま沈黙が訪れる。短いやり取りが終わると、あとは街を眺めているしかなかった。
 「先に行くね」
 そう言うと、園崎彩希はこないだと同じように歩き去っていった。僕は立ったまま街を見下ろしていた。
 教室に行くと、園崎彩希は何事もなかったかのように自分の机についていた。いや彼女だけではなく、クラスメイトたちも席についている。そして問題集を解いたり、友達と教科書を見合ったりしている。そうだ。今日は定期テストの日だった。
 自分もカバンから教科書類を出して、机の上に並べる。そしてなかを開いてパラパラとページをめくって見る。とりあえず単語だけでも記憶しておけばちょっとは違うかもしれない。
 やがて担任が入ってきてホームルームが始まる。欠席者がないことを確認し、今日は定期テストがあるから頑張るように、と軽く一言だけ述べると、そのまま教室を出ていく。そして教室がまた騒めきはじめ、グループのできた机のあちこちからテストを心配する声が聞こえだす。だが息苦しさはない。すぐ近くに制服を着た背中が見える。
 十分にも満たない付け焼刃の勉強の成果は、予想通り良いものではなかった。どの教科もクラス平均は超えているものの、大学を目指す人間の成績としてはまだ足りないものがある。本当に進学する気がないなら、就職することも視野に入れた方がいいのではないか。テストが終わった後の二者面談で、担任からそんなことを言われた。
 一方で園崎彩希の成績は申し分ないものだった。ほとんどの生徒が就職や専門学校へ進むのに対し、国立の大学を目指す人間が出るのは数年ぶりだと、校内でも密かに話題になった。ちなみに公務員は毎年何人か出ている。勤務先は陸上自衛隊だ。
 梅雨に入り、展望ロビーの眺めは悪くなった。
 雨が降っていると遠くの景色が霞んで見えなくなる。青い空も重苦しい灰色に変わった。そんな状態になっても、僕も、園崎彩希も、いつものように展望ロビーへ上がっていた。
 大したものも見えないのに、二人でただ街を眺め続けた。
 いつかはこういう日々にも終わりがくる。少なくとも一年後には、彼女はどこか国立の大学へ進学するはずだ。自分はどうなるのか。大学へ進めるのかも怪しい。
 あの時と似ている気がした。松村は無事に上京した。自分は高校を中退し、この学校にやってきた。誰もが歩いている将来という道は、自分の場合ある場所から消えてしまう。自分には見えない道の先を同級生たちは歩いていく。
 「先に行くね」
 園崎彩希がそう言って、エレベーターへ向かう。最近は、来るときも去るときも、なにか一言言ってくれるようになった。


 梅雨明けが宣言される前から、すでに夏らしい日が続いていた。
 毎年のように叫ばれる異常気象。三十度を超える日々が当たり前となり、七月に入ってからは天気予報はずっと晴れの日が並んだ。
 どこの教室に行ってもエアコンが設備されているので、授業中も暑さに悩まされることがないのはこの学校の最大の長所に思えた。また校庭がないので、体育の時間にマラソンや激しい野外競技をすることもない。夏はいろいろな面で他の学校よりも過ごしやすい環境だった。
 教室の風景も夏らしいものに変わり、半袖や薄着の人間がほとんどだったが、園崎彩希は肌の露出を好まなかった。制服こそ夏服に変えてきたが、その上には必ずカーディガンを羽織っていた。体育の授業を受けるときはいつも長袖ジャージだ。体型を気にしてか半袖になりたがらない女子はたまにいるが、彼女の場合太っているわけではない。むしろスレンダーなほうだ。だからそれほど気にすることもないのに。
 最近はこの暑いのにマスクをしてくるようになった。どういう格好でいるかは彼女の自由だが、見ているとやっぱり暑そうだ。もしかしたら体調が悪いのかもしれない。廊下を歩いているときなんかどこか伏し目がちだし、七月に入ってからは欠席や早退が目立つようになった。
 何かが彼女の中で変わってきているのが分かった。展望ロビーで会った時も、お互い挨拶もしなくなり、すれ違ったときも彼女は目を合わせようとしない。関係性がだんだんと他人に戻っていくような恐怖を感じた。
 もともと互いの間には何もなかったのに、それをあなたが一方的に勘違いしていただけ。突然彼女がそう言い出したようだった。
 そのうち彼女は展望ロビーにも来なくなった。
 登校時間のぎりぎりまでベンチに座って、なんの代わり映えもない街の風景を一時間近くぼうっと見ている。いつまで経っても足音は聞こえない。教室へ行くと、ちゃんと席に座った彼女の背中が見える。
 してもいない約束を自分だけが律儀に守っている。馬鹿みたいだし、これは園崎彩希も望まないことだと思った。むこうが嫌なのならきっぱりと辞めるべきだ。ここへ上がるのは今日で最後にしよう。何度もそう思ったのに、翌日にはここで街を眺めている。
 そんな日々が続いて、ついに一学期最後の日が来た。
 その日も展望ロビーへ上がり、彼女が来るのを待っていた。すると意外なことに、彼女はあっさりとここへやって来た。挨拶こそなかったが、今まで姿を見せなかった彼女の姿を見れたことが純粋に嬉しかった。
 そしてしばらく街を眺めていたが、彼女はいつまで経ってもエレベーターへ向かおうとしなかった。スマホを取り出すと、学校が始まる十分前になっている。僕は彼女へ歩み寄っていき、もうすぐ学校が始まることを伝えた。
 「先に行って」
 そう言った彼女の顔はどこか頑なだった。まるでここから一歩も動くつもりはないというように、その瞳を街に向けている。
 どういうつもりなのか。彼女の意図がまったくわからない。だがもう登校時間が迫っている。エレベーターに向かいながら、途中で振り返ってみたが、彼女はやはりベンチに座ったまま動こうとしない。しょうがなくそのままエレベーターを呼び寄せて下へおりる。
 ビルの足元に出る。辺りを歩いているのはサラリーマン風の男や買い物に来た中年女性ばかりで、学生の姿はない。制服を着ているのは自分だけだった。学生は学校へ行くべきだと思う。何もおかしいことじゃない。なのに苦しいような罪悪感がある。この感情の源は何だろう。彼女を裏切ることではないのか。
 踵を返して、ビルへ戻っていく。思い込みの激しい男は嫌われる。今度こそ、今日で最後にしようと思った。
 学校に休みの連絡だけ入れると、そのままロビーへ向かった。彼女はまだベンチに座っていた。僕に気付くと、しばらくじっと視線を向けてきたが、やがてまた窓の外に視線を戻した。
 それから僕たちは街を見続けていた。昼が終わり、空が薄桃色に焼けはじめる。そのうち学校帰りの高校生のカップルが何組かここへやって来た。いつか警備員の人たちが、「ここは夕方になると高校生のたまり場になる」と言っていたのを思い出す。彼らは僕たちとは違って同じベンチに腰掛け、各々の会話をはじめた。話し声はわずかに聞こえるが、それぞれのプライベートな空間はきちんと守られている。妙に雰囲気がいい。
 恋人をつくるということに憧れている同世代の人間は多い。教室でもよく彼女が欲しいと口にしているクラスメイトがいる。もちろん自分も異性に興味がないわけではない。そういうものを否定する気はない。ただ目に見える関係というのは、どこか不純であるような気がする。恋人とか友達という、きちんと契約書で明記されたような人間関係は苦手だ。
 僕も園崎彩希も一人で街を眺めている。そこに契約書はない。
 夜になると、街はキャンドルのように控えめな光を灯した。それは街灯であったり、建物の明かりであったりした。また大通りでは帰宅途中の車のライトが連なって光の道を作り出していた。日中よりも明らかに夜のほうが景色がいいことに、今さらながら気付く。
 やがて高校生もいなくなり、僕たち二人だけがロビーに取り残される形となった。彼女が帰らないので、僕もそこに居続けた。
 閉館を知らせるアナウンスが流れるまで僕たちはそこにいた。街の明かりで保たれているロビーは照明の数が少なく、わずかにオレンジ色の明かりを床に落としているだけだった。静まり返ったロビーに足音が聞こえる。ガラス窓には街の夜景と、園崎彩希がこちらを見る表情が映っていた。


 確かに彼女はこちらを見ていたのだと、何度も頭の中で繰り返し、それが間違いないことを心の中に刻み込んだ。裏切られたのではない。もともと白紙だったわけでもない。口にしないだけで、つながりはあった。
 夏休みに入ってからも、定期的に展望ロビーへ来ていた。だが、あれ以来彼女は現れていない。
 もうここには来ないんじゃないか。何となくそんな気がしていた。彼女はなにか事情を抱えている。あの別れ際の表情はそれを無自覚に訴えているように見えた。
 夏休みになって、展望ロビーには子供連れの家族が多く入場するようになった。プラネタリウムは夏休み特別番組を上映しているし、このすぐ下のフロアではショーのようなものを開催している。
 昼間でも寂しかった場所が突然賑やかになり、あちこちで子供の声が響いている。まるで園崎彩希の存在を帳消しにするような騒ぎだった。突然押しかけてきた家族連れの集団へ無言の抗議をしているように、自分はここに居座っている。
 夏休みの過ごし方としてはもっと有意義なものがありそうだが、ここに来る他はほとんど外に出ない。家では寝ているか、本を読むかのどちらかだ。夏休み前に教師たちがよく口にする、夏を制するものは受験を制す、という言葉は見て見ぬフリして過ごしている。受験に対する情熱というものはまるで持てない。宿題だけは済ませて、あとはだらだらと過ごしている。
 誰かと遊ぶとか、そういう学生らしいこともしない。普段なら。ただ今日に限っては予定がある。
 スマホで時間を確認する。今は午後三時。約束の時間まで、あと四時間ある。
 メールが一件入っているのを見つけたのは、三日前の夕方だった。連絡先も知らないのに、なぜか反射的に園崎彩希だと思ってメールを開くと、
 『こっちに戻ってきたんだ。ちょっと会えるかな』
 それは松村からだった。
 まったく思いがけない相手からの連絡にびっくりしながらも、もちろん大丈夫だと返事をした。喜びよりも驚きのほうが大きかった。まさか松村から連絡が来るなんて思ってもみなかったのだ。確かに今は大学も夏休みに入っている。ちょうどいい機会だと思って、こっちへ帰ってきたんだろう。
 久しぶりの再会は、喜ばしいというよりも少し怖い。自分と同年齢の人間というのは、少し距離を置くとだいぶ中身が変わっているものだ。
 松村は変わっていないだろうか。窓の外を見ながら思った。


 待ち合わせ場所は駅の近くにあるファミレスだった。
 自転車を漕いでいる間に辺りは暗くなり始めていていた。店の前まで来ると、入り口のそばでぼんやりと立っている松村の姿が見えたので、自転車を降りてそのまま歩み寄っていく。
 「ごめん、待たせて」
 待ち合わせ時間は過ぎていないはずだが、いちおう謝っておく。
 「いや、大丈夫」
 飄々と答えるその松村の表情は以前とまったく変わっていなかった。
 店内へ入り、お互いなにか一品ずつ注文をした後に、「飲み物何がいい?」と松村が言った。オレンジジュースと答えると松村は席を立って、自分の分も合わせてドリンクを持ってきてくれた。何気に親切な部分も変わっていない。
 料理がくると、お互い黙々と食事をした。器にはいった熱々のドリアはおいしかった。松村も運ばれてきたカルボナーラを無表情に食べている。ときおり窓の外を睨むように見つめる松村は、やはり何を考えているのかわからない。夜の闇はいっそう濃くなっていた。話という話もしないまま、時間が流れていく。
 「そういえば」 
 と僕は口を開いた。
 「大学はどう?」
 あまりにも平凡な質問だったが、まあ興味のある話題でもある。松村はさして気に留めてもいないような口ぶりで、
 「辞めたんだ」
 と答えた。 
 「えっ?」 
 さすがに驚きを隠せず、「どうして?」と矢継ぎ早に問いかける。
 「大学はもともと父親に強く言われたから行っただけなんだ。それに思っていたような場所でもなかった」
 松村はそう答えると、追加で頼んだチョコレートケーキに手を付けた。そのどこかあっけらかんとした態度に、僕はしばらく呆然としてしまった。
 店を出てからも、僕たちは一緒に通りを歩いていた。別れるにはまだ早いような気がしたし、何となく帰ろうという言葉を言い出しにくかった。どこへ行くともなく自転車を引きながら歩いていると、
 「そういえば高野はいま何をしてるの?」
 と松村が口を開いた。
 「あれ、言ってなかったっけ。定時制の高校に通ってるんだ。駅前のH高校」
 「ああ、あそこか」
 言いながら松村は頷く。そして、
 「せっかくだからそこまで歩いてみよう。ちょっと見てみたい」
 と言い出した。
 「え、いいけど」
 僕としては別に構わなかったが、意外な提案だった。まあ、このままどこへ行くともなく彷徨っていても仕方がないのもある。僕たちはそのまま駅前を目指した。
 駅前広場は人もまばらだった。駅構内の店はすべて閉まっていて、照明だけが義務を守って通路を照らしている。人払いを済ませたようなその風景は、夜の街を歩いているという感じがした。
 「ここだよ」
 すでに眠りに就いたビルを指差す。学校があるフロアの窓も真っ暗だった。隣にあるコンビニの照明がうるさいほど明るい。
 「中はどうなってるの」
 「普通の学校と変わらないよ。体育館もあるんだ」
 「へえ、すごいな」
 ビルの中を頭で想像しているんだろうか。何かを考えているような目だ。
 「定時制はどんな人がいるの?」
 「え?」
 松村の問いに、僕の中には園崎彩希の姿が浮かんだ。彼女の存在を松村は知らない。浮気をしたような罪悪感が少々湧いてきた。
 「普通の学校とそこまで変わらないよ。服装とかは自由だから、少し雰囲気は違うけど。慣れればそんなに気にならない」
 「そうかあ」
 そう言って松村は頷く。
 松村が歩き出す。僕はそれについていく。
 ネオンの光もそれほどないこの街の駅前は、少し道を外れるとどこの路地にもぼんやりと暗闇が立ち込める。スマホを片手に男が近づいてきて、「この子どうですか」と訊いてきたりするのを会釈をして避けながら、アーケードへと入っていく。
 この辺はまだやっている店が多かった。店の前で立ち話をしている従業員もいる。パッと見て怪しそうな男たちもいれば、スーツを着たサラリーマン風の男もいる。ただ見た目だけでは判断が難しい。ヤクザが多いと言われるこの街では、サラリーマンに巧妙に化けたその筋の人たちもいるのだろう。
 どこの店へ入るわけでもなく、ただ何となくそこを抜けていく。
 こうして松村と街を歩くことになるとは思わなかった。東京へ行ったら、おそらくこのまま忘れられてしまうのだろうと、心の隅で思っていた。だからメールがきたときはとても嬉しかった。大学を辞めたということも、正直嬉しかった。
 『松村といて楽しい?』
 いつかのクラスメイトの言葉が浮かぶ。楽しいとか、楽しくないとか、そういう間柄ではないのだ。これはこれでいいのではないだろうか。友達でなければダメなのだろうか。
 「あ、言い忘れてた」
 思い出したように松村が言った。
 「来週から駅前のコンビニでアルバイトをするんだ」
 「え、そうなの?」
 意外だった。そんな行動力があるタイプには見えない。
 「うん。それでなんだけど、高野も一緒にバイトしないか?」
 「え、僕も?」
 「いやならいいんだ。もしよかったらだけど」
 自分がアルバイトだなんて考えてもみなかった。思い返すと、この頃は園崎彩希のことばかり頭にあって、将来のこととか、その他のことはちっとも頭になかった。
 松村は大学を辞めて、すぐにアルバイトをすることを決めた。自分は学校を卒業したらどうなるのだろう?
 歩きながらしばらく考えていたが、なかなかすぐに答えを出せるものではなかった。
 「ちょっと考えてみる」
 とりあえずそう答えた。
 「そうか」
 松村はそれ以上は言ってこなかった。少し悪いような気持ちになる。でももう少しだけ猶予が欲しい。
 気付けば人通りのない道を歩いていた。冷たい風が吹いている。濃く広がった夜の闇のなかを、二人並んで街灯の明かりだけを頼りに歩いていく。自転車の車輪の音だけが聞こえる。


 夏休み明け、園崎彩希の姿はなかった。
 出席を取るときも彼女の名前だけ飛ばされたことから、学校には何かしらの連絡がいっているのだとわかった。ただ辞めたわけではないようで、彼女の名前が名簿に残っているのを何度か見た。学校に籍だけは残しているみたいだ。だから復帰してくる可能性はあるのだと思った。
 展望ロビーへは行かなくなった。彼女が来ないとわかっているところへわざわざ足を運ぶ必要もない。
 学校生活は単調なものになった。今まで視界に入っていた制服姿の背中は見えなくなり、周りはパーカーを着た生徒たちばかりになった。自分だけが制服を着ていた。疎外感がひしひしと身に迫ってきて、教室というのはただ息苦しいだけの場所になった。笑っている生徒たちを見ると、何が楽しいのかと思う。
 人間には純度がある。僕には受け付けない人間というものが多過ぎた。どんな人間にも、かすかな汚れが付いていたりする。そういうものがいちいち気になってしまう。
 二学期に入ってからの二者面談では、そのことについて担任から一言あった。高野くんは編入してきてなかなかクラスに馴染むのは難しいかもしれないけど、ちょっと他の人と話してみたらどうか、というやんわりとした言い方だったが、結局他の大人たちと言っていることは同じだ。いい加減処世術を覚えろと、そう言っている。
 環境が変わっても自分が同じ見方しかされないことに、重苦しい気分になった。他人から見て、自分という存在はそんなに目に付くものなんだろうか。どうして誰も味方になってくれないのか。
 うんざりするような話題は他にもあった。この前の定期テストの結果では、やはり大学進学は厳しい。県内の大学にこだわらず、もう少しランクの低い学校を狙えばまだ可能性はある、ということだった。
 家を離れたくはなかった。だから予定通り、県内の大学を狙う旨を伝えた。本心を言うと、受からないならそれでよかった。大学に行きたいわけではなく、就職か進学かの二択を迫られたから進学を選んだだけだ。できることなら、もうこの話題には触れたくない。
 秋になって、夜風はだいぶ冷えてきた。バスを待っている時間を利用して駅前のコンビニに寄ると、例の感情の読めない表情でレジをしている松村の姿が目に入る。
 松村は秋に入ってすぐにバイトを始めた。大学を辞めた後も、間を空けずにほかの事を始められるのは偉いと思った。思えば受験のときもそうだった。図書室で鉛筆を握っていた姿は今でも覚えている。何かやり始めると、すっとそこへ向かうことができる人間なのだ。
 何かレジに持っていくと、松村は「ああ」と少しだけ笑みを浮かべる。レジも慣れてきたようで、袋詰めされたものを手渡される瞬間などは、なんだかたまらないものがある。
 自分だけが停滞している。高校を中退した時からずっとだ。もたもたしていたら、今度こそ置いて行かれてしまう。
 いろいろなものに対しての焦りが募っていた。それに対して対処ができない自分がまた歯痒かった。叔母のお見舞いに行くことになったのは、そんな悶々とした毎日を過ごしていたときだった。
 叔母が入院している病院は、国道沿いの道を少し外れたところにあった。白い病棟が緑の木々に囲まれていて、外からの目が届かないような造りになっている。ただし閉鎖的な雰囲気はなく、敷地内にはちょっとした中庭のような空間が備えられてあり、うまくバランスが取られている。
 古かった建物を何年か前に立て替えたことで、病院全体が新しく清潔な雰囲気に変わったらしい。院内も白く清潔な感じで、花や絵などが飾られている。
 一階の窓口で受付を済ませたので、ナースステーションにはすでに連絡が入っていた。すぐに鍵を持った看護婦が出てきて、病棟の扉を開ける。ちょうど夕食の時間だったらしく、患者たちは席について配膳された食事を食べていた。
 「こちらでお待ちください」
 僕たちは面会室に案内された。しばらくして、看護婦に付き添われながら叔母が入ってきた。両手で食器を載せたトレーを持っている。ここで食べるらしい。 
 看護婦が退出すると、さっそく母が口を開いた。
 「ごめんね。夕食の時間なのに」
 「ううん、いいのいいの」 
 叔母は笑って返した。何となく調子が良さそうに見えた。
 二か月前、幻聴の症状が現れた叔母は、一緒に暮らしている祖母に対して攻撃的な態度を取るようになった。勝手に自分の部屋へ入られたと主張したり、自分のものがなくなったと言い出したりと、その言動から疑心に取り付かれていることがわかった。しまいには仲介に入った母に攻撃の目が向き、近所の人に「母が死刑になる」と言い出したことから、もう収まりがつかないと判断し、祖母と叔母と母の三人で相談した結果、入院することになった。
 意外なことに叔母は自分から進んで入院することを希望した。家にいるよりも、病院にいる方がよっぽど安全だと思うらしく、いろいろなことを心配する必要がなくなって叔母としても気が休まるのだそうだ。
 「敬ちゃんもわざわざ来てくれてありがとね」
 そう言って笑う叔母の表情は優しかった。まさに何の心配もない、一切の不安から解放されたような人間の顔だった。
 小さい頃、僕は叔母が好きだった。どうしてなのかは自分でもはっきりとはわからないが、死んだ祖父、祖母を入れた三人のなかで、一番穏やかそうな顔をしていたからかもしれない。この人は優しそうだという、子供ながらの直感が働いたのだろう。実際、部屋へ遊びに行っても嫌な顔をせずに、自分を迎え入れてくれたことも覚えている。
 叔母が病気だと知ったのは最近のことだ。統合失調症は治らない病気と聞いていたから、やはりそれなりにショックだった。でもそれ以上に、そういう遺伝子が自分にも受け継がれているのだということに恐怖を感じた。
 「ちょっと食べてみる? 意外とおいしいのよ」
 食器には、鮭や大豆の煮物、切り干し大根など、健康に良さそうなメニューが並んでいる。ただぱっと見あまり美味しそうには見えない。叔母には申し訳ないが、一番無難そうなデザートのオレンジゼリーだけを頂いた。
 面会の終わり間際、
 「お姉ちゃん。ここ、寂しくない?」
 何気ない調子で母が問いかけると、
 「ううん。ここには仲間もいるし、看護婦さんも優しいし、良いところだよ」
 叔母は、芯からそう思っているような様子で答えた。
 面会が終わり、看護婦が病棟の鍵を閉める。扉の窓から笑顔で手を振っている叔母に、こちらも手を振り返す。そして前を向いたとき、僕と同い年くらいの女の子が、父親らしい男性に付き添われて歩いてくるのが見えた。ルームウェアのようなものを着ているが、とても痩せていて、一目で病人とわかった。
 だんだん距離が縮まっていくにつれて、なんだかその顔に既視感があるような気がした。すれ違うときに、目が合った。いつもの制服姿ではないから、途中まで気付かなかった。園崎彩希はすっと目を逸らして、ナースステーションへと歩いていった。
 「あの子、拒食症だね」
 母が囁く。僕は言葉を返せなかった。
 家に帰ってからも、信じられないような気持ちだった。本当にあれは園崎彩希なのだろうか。顔が似ているだけで別人なのではないか。
 数日後、病院に電話をかけてみた。園崎彩希という患者はいるかと訊くと、
 「失礼ですが、どういったご関係の方ですか」
 と言われた。同じ学校の同級生で、最近来ないから心配していたのだと伝えると、電話の相手も納得してくれて、病院にいるか調べてみると言った。しばらくして、
 「はい。たしかに当病院に入院されてますね」
 「そうですか……」
 やはりあれは園崎彩希だった。突然学校へ来なくなったのはそのせいだったんだ。
 「あの、何かお伝えしておくことはありますか?」
 「え?」
 「お友達なんでしょう? 何かあれば伝えますけど」
 「えっと……」
 親切心で言ってくれたのだろう。でも突然そんなことを言われても困ってしまう。こちらの言葉を待っているような相手の沈黙が伝わってくる。何か言わなければいけない。
 「待ってます。お大事に、と伝えてください」
 そんな言葉しか出なかった。
 電話を切った後、そのままベットに横になって考え事をしていた。彼女の弱みを見てしまったことに対する、なにか申し訳ないような気持ちがあった。生きることから離れようとしている。反射的にそう思った。僕には見えない苦しみがある。
 だから彼女は信頼ができる。一般的には理解ができない苦しみを持っているからだ。底のほうでつながっている。地下にいるか、海底にいるか。いる場所が違うだけだ。
 もしかしたら彼女はあのまま死んでしまうかもしれない。拒食症で亡くなる人間というのはたまに耳にする。少なからず命にかかわる病気だ。治療を続けるとしても簡単には行かない。治るのに時間がかかるだろう。
 もし帰ってきたとしても、聡明な彼女は僕のことを置いて、どこかへ飛んで行ってしまうだろう。彼女は美しいし、頭も良い。そのまま元居た場所へ帰っていくだけだ。
 結局一時的なつながりでしかないのかもしれない。ある種の踏み台としての役割を自覚してしまう時がある。仲間でいられるのはわずかな時間だけ。それを思うと悲しい気分になる。
 いつか一人になる自分を想像する。人間の底でじっと座っている。


 冬休みの間、ずっと展望ロビーに通っていた。
 精神病院の入院期間というのは長くても三か月だ。だからもし彼女に来ようという意志があれば、姿を現す可能性があった。もちろん状態がよくなければ間を空けて再入院するのかもしれない。来る保証はないが、ただ電話口で待っていると言った手前もある。嘘をつくわけにはいかない。
 そうやって通い詰めの日々を送っていたが、結局彼女が姿を現すことはなかった。雪が降った日はバスを使ったりして、一日たりとも欠かさずに足を運んでいたのに、すべては徒労に終わった。
 休み明け、クラスメイトたちは完全に園崎彩希の存在を忘れていた。就職組は内定をもらったことでほっと息をつき、進学組は受験に向けて静かにペンを動かしている。数少ない大学受験者のなかでも、国立大学を狙っていたのは彼女一人だったのに、それがこういう形を迎えてしまうのは他人事ながら少し残念だった。
 そして受験が始まった。試験当日には真剣な表情の受験生たちに混ざって自分も会場でペンを握った。解けない問題をハードル走のように跨いでいくとテスト用紙の終着点に辿り着き、ちょうどそこで試験終了の合図があった。受験というのはあっさり終わってしまうものだった。学校では受験生をねぎらうような声がかけられ、「やり切ったんだから後は結果を待つだけだ」と教師たちが暖かいまなざしを向けていた。自分は「やり切った」のではなく「済んだ」のだった。
 合格発表の日には、受験番号の張り出された掲示板の前にはたくさんの人だかりがいた。嬉しいのか悔しいのか泣いている人間がちらほらといた。友人と抱き合っている女の子の姿もあった。抱き合って喜ぶほど難関な大学ではないはずだと思ったが、それは受験に受からなかった人間が思うことではなかった。自分の番号がないことをもう一度確認してその場を後にする。
 テレビに映る受験生の顔は晴れ晴れとしたものだった。やった分の結果が出て喜んでいる。当然の光景だと思った。落ちるというのは、やはり少し嫌な感じがするが、何もしていないのだからそれもしょうがないと諦めた。
 スマートフォンが鳴り、メッセージが届いたことを伝える。松村からだった。
 『結果は出た?』
 『うん』と返信する。
 『どうだった?』と文字が浮かんだ。
 『落ちた』と返すとしばらく応答がなかったが、やがて『もし高野がよかったら、一緒にバイトしないか』と入った。
 卒業したのに何もしないというのも格好がつかないし、言い訳のようなものも思いつかない。本当はあまり気が進まないが、今回ばかりは断りづらい。それに誘ってくれた嬉しさもある。
 少し迷いながらも『うん、やってみようかな』と返事をした。
 『そうか』
 ただのひらがな三文字なのに、なぜかほっとしている松村の姿が浮かんだ。
 最後に『それじゃあ』『じゃあまた』としりとりのような別れの挨拶をして、スマートフォンの電源を落とした。


 「高野敬一」
 壇上で校長が声を上げる。
 「はい」
 と返事をして椅子を立つ。静まり返った空気のなかで名前を呼ばれ、少しどきっとしたが、自分の順番が過ぎてしまえばどうってことはない。出番は終わった。あとは式が終わるまで待っていればいい。
 僕が立った後も次々に名前が呼ばれていく。林のように人が並んでいる。みんな少しもよろけるような素振りもなく立っている。
 ついにやってきた卒業式。高校生が終わる。一年前のしこりをようやく取り除けると思うと、晴れやかな気持ちになってもいいようなものだが、何となく気分は冴えなかった。
 このすべてを清算する日に、園崎彩希の姿はなかった。単位不足だろうから来ても卒業はできない。だから来ないことは頭の中では分かっていたけど、彼女がいないという事実はやはり苦しいものがある。
 彼女が今どういう状態なのか。それすらも分からない。病院に確認の電話をしてみようかと何度もスマホを手に取ったが、その度に思いとどまった。もし彼女が来ることを望むなら、ロビーへ顔を出すはずだ。自分はそれを待っているだけでいい。
 教室に戻ってくると、一人一人に卒業証書が手渡された。こんなのただの紙切れだという気持ちと、自分は卒業したのだという気持ちが半々くらいあった。教室には空席が一つある。自分が一歩先へ進んでしまったせいで、彼女から一歩遠くなってしまったような気がした。
 式が終わると、僕はいつものように展望ロビーへ上がった。
 人の姿はない。市民から忘れ去られて、自分だけの特等席のようになっているベンチへ座る。眼下には凹凸のない街並みが見える。もうすぐ二十歳になろうとしている自分がここにいることを、街の人たちは誰も知らない。僕はここにいるぞ。心の中で声を上げる。
 百円玉が入れられるのを諦めたようにテレビ型の望遠鏡が街を覗いていた。僕は財布から百円玉を取り出して、投入口に入れた。黒い画面にぼんやりと街が映る。車は走っているのに、人の姿はあまり見えない。三十万人の人間が息をひそめて、どこかに潜伏しているはずなのに。
 そうこうしているうちに画面が暗くなってしまった。大して画質も良くないのに、こんなに短い時間しか使えないなんて。
 少し不満に思いながらも、もう一度百円玉を入れた。画面にまた街が映る。今度は高架橋の線路をたどっていく。山のほうまでズームしていくと、集落の下にトンネルのようなものは見えた。でもその先は見えない。
 あの先には何かがあるはずだ。まだ見えない世界。いつか見えるのだろうか。
 「何を見ているんですか?」
 声がしたほうを振り向く。女性の警備員がこちらを見ていた。人のよさそうな笑みを口元に浮かべている。
 「なにか変わったもの見えるかなあって思って」
 咄嗟にそう答えると、
 「なんにもないからね。若い人には退屈な街かもしれないけど」
 そう言って彼女は街に目を向ける。
 「私も若い頃はそうだったけど、長く住んでいるとここが一番落ち着くわね」
 どこか遠くを見ているような目だった。若い頃のことを思い出しているのかもしれない。
 「そういえばいつも来ていた彼女、来なくなったわね」
 「え?」
 「きれいな子だったわよね。あの子のこと、待ってるんでしょ?」
 「ええっと……」
 僕が口ごもっていると、ふふっと笑って警備員はどこかへ歩いていった。見てないようで、いつも見ていたんだろうか。
 いちおう今日で見切りを付けようと思っていた。これからはバイトも始まるし、学校だって卒業した。いつまでもここに上がっていても仕方がない。諦めることも一つの決断だと、そう自分に言い聞かせていた。
 でも本当にそれでいいのだろうか。もし仮に、彼女が明日ここに現れたらどうする? このまま待っているべきなんじゃないのか。自分からつながりを切るようなことをして納得できるのだろうか。
 底に沈んでいる彼女の姿が、自分にはまだ見えている。手を伸ばしても届かないけれど、待っていることはできる。
 もう少しだけ、ここに座っていよう。
 「まもなくプラネタリウムの上映を開始します。ドームに入場する際はお近くの券売機で入場券をお買い上げの上、受付の係員にお渡し下さい」
 ロビーにアナウンスが流れる。自分ひとりに呼び掛けられているような気がする。
 久しぶりに、プラネタリウムでも観てみようか。そう思ったとき。
 足音がした。

一人じゃない

一人じゃない

テーマは「将来」や「仲間」です。 あまり物語に起伏はないですが、自分なりに真面目に取り組んだ作品です。 もしよければ、読んで頂けると嬉しいです。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-09-05

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