葉っぱの上のバッタ

葉っぱの上のバッタ

人は葉っぱに乗って流れるバッタ

私は時間があれば散歩をします。なに、基礎代謝が落ちた中年太りで、食べなくても太るのに食べて少しでも減らそうとするのですが、これが減らないの困ったものなのです。皆さんもそうそう!と笑う方もいらっしゃるでしょう。
 散歩をすると何にでも興味がある、子供のような私はきょろきょろしながら歩くわけです。この時期散歩コースになっている土手に植えられた桜の木はすっかり葉を落とし、それが土手にまだ残っているのですが、風が強い日それが舞って水路に落ちました。それを見るとふと、若者に話したことを思い出しました。

「人間は葉っぱに乗ったバッタみたいだな」
私が机に並んで作業する若者に言ったのです。
「なんですそれ」
「川に何匹ものバッタが乗った一枚の葉っぱが流れていてね、もう一匹のバッタは土手の草の上にいるんだ。そのバッタが葉っぱの上のバッタに言うの「お前たちどうしてそこからおりないのか」と」
「バッタはものを言わないでしょ」
「そんなこと分かっているがな、比喩やたとえやがな」
「はあ、それで」
「葉っぱの上のバッタは何匹も一緒にいるから土手のバッタを見るとお前なんで後ろへいっているんだと思うわけよ」
そんな話を作業をしながらするわけです
「それでな、暫くはいいわけだ、流れも緩やかで、そのうち急流に差し掛かるから土手のバッタは教えてやるのよ「お前たちその向こうは滝のようだからそろそろ飛んだらどう」って」
その青年も人がいいというのかその話を聞いているのですね
「ところが葉っぱの上のバッタはね、大勢でいるから馬鹿なことを言うな。お前こそ一匹で後ろへ行って、随分ゆれているぞ」と」バッタなんだからさっさと飛び上がれば真実が分かるのに、それをしようとしない。そのうち水に巻き込まれる。まるで今の人のようだと思わないか??」

青年はチラッと私を見ましたが、「なるほどね」と分かったのやら分からないのやら返事をし、黙々と作業を続けました。
 たぶん2500年前に釈迦もそんな説法をしたのだろうと思いました、私が説法してるというのではないですよ。それが彼岸だの大日如来だのの形となって現在に残っているのでしょう。誰にでも分かるような比喩で説法したのだろうと思いますね。

 そんなこと考えながら散歩するのは実に楽しいものです。日々新たな発見があります。
今もまた一枚の枯葉が流れていきました。葉っぱの上のバッタ、いつになったら飛び上がる勇気を持つのでしょうね。

葉っぱの上のバッタ

葉っぱの上のバッタ

あっちが流れるのかこっちがとまっているのか

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-21

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