海鳴るまちへ
「さむっ」
女満別空港へ降りたった時、首をすぼめたらそんな声が漏れ、りいかはひどく恥ずかしかった。同行者もいないのに、独りで呟いてしまうなんて。漫画やドラマならあるあるな行動だが、実際やると人の目がかなり気になった。
到着口に出る。待ち人を迎える地元民たちの奥に、鞄を左肩へかけ直している那知流の姿が見えた。会うのは二年ぶりで、前に会ったころりいかはまだ小学生だった。
「なっちゃん、」
ためらいを押して呼びかける。那知流の視線が横へずれ、それからこちらを映す。耳朶のピアスが揺れ、髪に絡んでいた。
「りいか? おっきくなったねえ」
首都圏では聴かないイントネーションがなつかしい。うなずいて寄り、目を丸くした那知流のそばに立つ。もう少しで、身長は追いつけそうだった。
「預けた荷物ないの?」
「うん。これだけ」
「トイレは? 寄ってっかい?」
「……だいじょうぶ」
恥ずかしいよ、とうつむいて首を振る。せめてお手洗いとか言ってほしい、と思うが、小さなことにこだわるのも子どもっぽい気がして口を噤んだ。
「りいか、着いたって梨美ちゃんにラインしたら?」
「……車乗ってからする」
出口へ足を向けながらリュックを背負い直す。那知流もそれ以上は勧めてこず、二人で空港をあとにする。
駐車場前の電光掲示板は、気温一度と表示していた。曇天の下へ散ってゆく人々はすごい厚着か、軽装かのいずれかに大別できる。大げさな厚着は観光客で、玄関から玄関まで車移動が常の地元民は上着さえ着ていなかったりする。そのどちらでもないりいかは再び首をすぼめて、マフラーに口元を埋めた。先を歩く那知流の背へ、迎えにきてくれてありがとうと言いかけ、けれど、結局言えなかった。
空港から五十分、那知流の運転で車は進んだ。
りいかは助手席で、母の梨美子へ連絡した。明らかに勤務中の時間だったが間もなく既読がつき、やがて「おばあちゃんとなっちゃんによろしくね」と返信も届いた。
それ以外には誰からの通知もないスマートフォンをリュックへしまう。冬枯れた景色と空きっぱなしの対向車線を眺めて、北海道に来れたんだな、と思う。そっと息がこぼれた。
「あ、鹿」
那知流が顎で指す。すぐ脇の斜面に、えぞ鹿が四頭並んで何かしている。葉の失せた林は鹿のかたちがくっきり見えて、思わず目を奪われるが、
「鹿もいるし狐もいるし、狸も貂も熊もいるよ」那知流がこともなげに言う。「りいか覚えてるべか、じいちゃん死んだ時も、病院向かうって矢先にそこで鹿とぶつかってえらい目に遭ったんだよ」
「……うん」
本当は、覚えているのではなく後から聞いて知っているのだったが諾った。那知流が年下の自分に、記憶を共有している前提で喋ってくれたことが嬉しかった。
「葬儀屋さん電話すんのと車レッカー頼むのとで泡食ってさあ、隣の園田さんも新車来て三日で鹿にぶつかって廃車なったしね、ほんと鹿もさあ、いいかげん交通ルールとか覚えてほしいよね」
「無理でしょ」
「でも、狸は道路渡る時、ちゃんと左右確認してんだよ、見たもんこないだ」
「見たの?」
話すうち、山と森林ばかりだった眺めがひらけ、濃い青の海が車窓にあふれた。年中冷たいオホーツクの海だ。あとふた月もしたら──二月の声を聞くころには、この海は流氷で白く閉ざされるらしい。
その時期までいたいな、とりいかは思い、そうもいかないんだろうな、と自らうち消す。
もうだいぶ、中学校へは行けていない。どうせ毎日家にいたから、少し早いが冬休みを曾祖母のところで過ごすという名目のもと、平日の飛行機で独り北海道へ発つことを母が許してくれた。
でもずっといられるわけではない。母の従姉である那知流が、その祖母を助けてともに暮らしているようには、りいかはずっととどまっていい存在とはいえなかった。自分が滞在すれば、那知流と曾祖母に面倒をかけることになるのだと、わからない年齢ではない。
ぱち、と車の窓が音を立てた。首を上げると鋭利な雪粒がガラスに当たり、たちまち砕けて融けて流れていく。路面へもいくつも粒が降り、タイヤに轢かれてアスファルトを濡らした。
「まだそこまでしばれてないから、雨と霙と雪の混ざりっこだね」那知流が呟く。「これからもっと寒くなったら、さらさらの雪になるよ」
「……そうなんだ」
きっと、お正月が明けたら母も帰ってきなさいと言うだろう。いつまでもいられるわけがない以上、それは仕方のないことだ。けれど──さっきこぼれた息は安堵だったが、帰ることを思うと重たいため息が落ちた。
「りいか」
一時停止で停まった那知流が顔を向けた。
「りいかがいたかったらさ、帰りたくなるまでこっちにいていいんだからね」
車が左折する。降りつづく霙の中を、野良猫が飛ぶように駆けていく。曾祖母の家の、青い屋根がもう覗けていた。
「梨美ちゃんと話して、りいかがゆっくりできるようにこっちで好きに過ごさせたらいいよーって言っといたから。ばあちゃんもりいか来るの楽しみにしてるしさ。ね?」
なっちゃん、と言おうとした声は喉に痞えた。なっちゃんありがとうと言わなきゃ、言いたい、そう思っても、顔が熱く呼吸がこみ合い、泣きたくないのに涙がにじんで鼻水が兆す。
「ほら、ばあちゃん玄関さ出てるよ」
顔見せたげな、と右肩をたたかれる。九十を越えた曾祖母が、戸口で手を振って笑っていた。
手首で目元をこすり、車から降りる。吹きつけた海のにおいの風が、涙の筋をひゅうと冷やす。車を施錠した那知流と曾祖母とに囲まれて、りいかは海鳴りを胸いっぱいに聴いた。
海鳴るまちへ