クリームサマー
「田舎の方がさ、多いんだよキラキラネームって」
浮蘭ちゃんが言う。その睫毛の先がまぶしい陽射しにつくった影のかたちを、りいかは黙って見つめていた。左手でペットボトルのキャップを開けたのに、なんだか飲む動作へ移れなくて飲みものはただ右手の中にある。ラベルで結露した水滴が足元に落ちた。
「りーかちゃんはさ、いいよねなんか、いかにも東京の子って感じの名前で」
浮蘭ちゃんはりいかの名を、りーかちゃんと呼ぶ。最初からそうだった。
「……そんなこと、ないよ」
首の後ろがじりじりした。ここは、この町の気温と太陽は、地元に比べればぜんぜん暑くないけれど、こうしているとこれでも夏なんだと実感する。並んで見る湖の水面が、いくつもの方向へゆらゆらしゃらしゃら輝いて、揺れて、はじけては凪いでいく。
「ね。今日もさ、りーかちゃんのとこ泊まりいっていい?」
姉ちゃんの旦那が花火とアイス買ってきたの。それ持ってくから。浮蘭ちゃんはそう続けて、はまひるがおの上に投げだしていたスマートフォンを拾いあげた。
──ふゅらちゃんも、家にいたくない子なんだ。りいかは察して、曾祖母の家で過ごすこの夏休みに、彼女と友だちになれてよかったと、まっすぐに思った。
温くなったペットボトルの水を口へ含む。光る波を飲むような、くすぐったい味がした。
●
夏休みは、東京にいた頃から好きだった。
平日の昼間に外を歩いても誰からも気にされない。他の、学校へ「行けている」子どもと何も変わらない存在として、そこにいられるように思えて安心した。そうなることができたわけではなかったけれども。
でもここにいると、もう、そもそも、そんなふうに考える時間自体がなくなっていた。
「りみちゃん、でなかった、りいちゃん、畑さかたってくかい」
日よけのスカーフと手ぬぐいをかぶった曾祖母が、玄関で言った。ひいばあちゃんはいつも、りいかと母の梨美子の名とを間違える。「かたってくか」とは、一緒に来るかという意味だ。
本を閉じて立ちあがる。スマートフォンも置いていく。りいかが向かうと曾祖母は、玄関の冷凍庫を開けてほれ、とペットボトルをさし出してきた。
「しゃっこくしてあるから、飲むにいいど」
「ありがとう」
中身は半凍りになった水だ。曾祖母は畑へ行く時用に、これをいつも常備している。
「りいかとばあちゃん、畑行くの?」
干した布団を叩く那知流が、表で声を上げていた。戸口のはまなすの葉と花が、生じた風圧で揺らぐ。
「熱中症なったら大変だから、早く帰っといでよー」
ぜんぜん涼しいのに、と思ってから、りいかは那知流の言葉が高齢の曾祖母を案じるものだと気づく。東京に比べたらここの夏はちっとも暑くないが、九十歳を越えた身には負担のはずだ。
それでも、ひいばあちゃんの歩みは軽かった。シルバーカーを軽快に押し、着くと載せてきたかごにきゅうりを収穫していく。「朝とるの忘れたらはあ、晩には大根みたくなるんだ」とぼやいている。
畑はじゃが芋の白い花が満開で、道路沿いではあじさいのつぼみが色づいていた。関東では梅雨の花だが、ここでは七月末から八月のお盆にかけて咲くものだという。こんな、浜から離れた畑に立っていても、風の匂いは海のかけらを含んでいた。
戻ってくると、スマートフォンが通知を示していた。連絡なんてないだろうと置いていったが、そうだ、今はそうでもないんだったと思い出す。
『またそっち行っていい?』
届いていたLINEは浮蘭ちゃんからで、返信を送るより早く、あの戸口のはまなすが揺れた。
「姉ちゃんの旦那とか子どもとか来ててさ、うるさいんだもんうちいたら」
浮蘭ちゃんはそう言って、毎日のようにやって来る。そのまま泊まっていったり遅くに帰ったり、曾祖母と那知流も彼女を幼い頃から知るだけに気にせず、好きなようにさせていた。
昼、茶の間の食卓にジンギスカンの湯気が立った。きゅうりの浅漬けと春雨のサラダ、おむすび、麦茶、まっ赤でしょっぱい北海しまえびも並ぶ。ジンギスカンは茹でたうどんがどっさり入り、大きくなりすぎたきゅうりの切ったのまで具として加えられている。
「うちのジンギスカンよりおいしい」と浮蘭ちゃんがほおばるのを、りいかは胸のはずむ思いで眺めた。
開け放した網戸からの風に、山鳩の声と猫や狐の鳴くのが混じる。こんな夏ってなかったな、とふと、蒸し暑かった東京の日々を想い、以前はまずしたことのなかったおかわりをした。
クリームサマー