『自然と人のダイアローグ』展




 それは人の身体機能において把握できる外界であり、また認識した者の内心において個人的なイメージとして捏ねることが許された対象でもある。
 ゆえに、一方では一般的な機能を把握できる人の五官の作用によって得られた各情報が脳内で統合されるその瞬間に鑑賞者が抱くリアルを目指した描き方が可能となり、また一方では記憶した「それ」を内的イメージとして喚起するものを描く、その際に有機的な結び付きで引き摺り出される郷愁の念などの心情も画面上に表れるよう、色を含ませた絵筆を主観的に動かしていく表現が可能となる。
 画家という一人の人間にクローズアップしつつ、絵画表現のモチーフとなる自然風景をこう捉えるとき、絵画史を彩る様々な技法の特徴によって描かれる様に、驚嘆を禁じ得ないぐらいの違いを見出せることにも納得する。それらは人間一般が認識可能な自然としての絵画表現であり、また固有名を有する画家が内観の果てにその一端を掴み取った個人的イメージとしての絵画表現であって、その間を行ったり来たりする。そうして生まれる大きなうねりを見逃すことなく、巨匠たちの見事な自然風景の数々を鑑賞できる機会となる国立西洋美術館で開催中の『自然と人のダイアローグ』は、だから興味深い展示会だったと素直に賞賛できる。




 屁理屈のように聞こえることを承知で記せば、完成した絵画作品は必ずその制作者である画家が第一号の鑑賞者となって向ける視線に晒されている。したがって、誰にも見られない絵画作品はないと考えることができる。
 またどんな理論に基づこうとも、絵画作品を構成する物質面の認識無しにはどんな鑑賞も行えない。つまりは目の前の作品に織り込まれた情報を取得するという段階を経た後でなければ、それぞれのスタンスに則った絵画表現の鑑賞を始められない。この点で、いわば鑑賞の準備段階ともいうべき当該過程においては例えば画家が唯一の想い人の為に完成させた名画がこの世にあって、かかる想い人でないとそこに描かれたものを何一つ理解できないし又は感じられない真実が発覚したとしても、当該名画を構成する情報を想い人と共に取得した赤の他人が固有の鑑賞体験を行える。その内実が制作者である画家が描いていたものとは異なっていても、それを否定することは画家でも行えない。なぜなら鑑賞者が作品から得た情報をその内側に蔓延る言葉=意味認識の網の目へどう触れさせたのか又はその網の目から何が、どう零れ落としたのかは現に生じてからしか知れない事後的なものであり、ゆえに絶対的に自由であると評価し得る。この点で極めて個人的なその経験をどう言葉にして表現するかは鑑賞者自身が決めるべきことである(丁々発止の議論によって一般性を獲得していくまでに個人の意見ないし感想の内容が磨かれていく批評文化はこの延長線上にあるのだろうし、かかる批評の段階においてなら、画家などの表現者が自らの意見に基づいて議論に参加できると考える)。
 要約すれば鑑賞者一般が行える作品に織り込まれた情報の取得と、かかる取得の後に受け身の立場で経験させられる心情等の内面的変容という鑑賞者個人の経験がある。観る側に認められるこの対比は鑑賞行為の形成過程に内在するものであるからこそ、人は覚えた言葉によって抱く感情のあり様が規定されている可能性(ゆえに生まれてしまう、言葉により表現される前の純粋な感情という発想は所詮夢物語でないかという意地悪くも鋭い批判)を考慮しても尚維持されるのでないか。だからこそ、かかる対比をもってすればロマン主義に属する絵画表現の肝が見えてくるのでないかと筆者は期待する。
 拙い理解で記せば大量の労働者を単位で取り扱い、最大多数の最大幸福に適う合理的な判断であれば全て良し、または取り決めに従った機械的な生き方をこそ推奨する管理優先の社会の流れに抗って、同じものが二つとない(はずの)個人性の復権をロマン主義が目指す。そのために重視された主観的な情動の表れとして、例えば『自然と人のダイアローグ』で鑑賞できたテオドール・シャセリオーの「アクタイオンに驚くディアナ」において余りにも赤裸々に描かれた、後ろ姿とはいえかの女神の裸身が露わになった人間味に満ちた表現があり、また一方でカスパー・ダーヴィト・フリードリヒが描いた「夕日の前に立つ女性」の、出来過ぎと言えるぐらいの慕情溢れるシチュエーションを劇的に静止させた大いなる自然の時間軸と、否応なくそこに巻き込まれていく一人の人間としての感動がある。
 神話と自然。これらのテーマが有するある種の通俗性を鑑賞者が好むだろうと画家が一度たりとでも思ったりはしなかったか。そんな訳はない、と筆者が直観するのはやはり表現作品を巡る現実は一人でも多くの人に見られてナンボという土壌にこそ花咲くと固く信じているからだ。
 制作者という立場と初めての鑑賞者という立場が目まぐるしく入れ替わる制作現場において生まれる主観と客観の交差点にて絵画作品は完成し、その画面上にて把持し得る不確かな存在の数と内実が豊かになる。だから画家が鑑賞者の立場に寄せてウケるものを描こうとするのは決して悪くない。大事なのは、鑑賞行為の形成過程で対比させたもののうち、極めて個人的な営為となる意味認識作用との接触面でどれだけの火花を散らせられるか。そのための工夫をどれだけ昇華して行えるか。かかる工夫が巧みに又は高次に行われていれば、不特定又は多数人が寄ってたかって鑑賞する一枚の名画から得られる各人の十人十色な鑑賞体験がその場における、二度とない感覚として得られるはずであり、それこそがロマン主義に属する絵画表現の目指した境地だろう。自惚れていると言ってもいい状態が齎す光に眩んだ目を開けてこそ明瞭になる主観と「世界」の一体感。その圧力に気圧され、疑いもしなかった客観的な言葉の覚束なさを持て余し、鑑賞者はまた一度名画と称される目前の表現に挑む。その体感の繰り返しこそが「私」という不思議をより深め、また楽しませていく。
 個人の情動を重んじるという点ではロマン主義と共通すると考える表現主義は、しかしながら心象風景への理性的かつ野心的な接触を技術面又はコンセプト面で大胆に試みるという意味でロマン主義とは一線を画すと素人ながらに考える。かかる表現主義の作品と位置付けられるロヴィス・コリントの「樫の木」は、しかしながら『自然と人のダイアローグ』で最も心奪われた一枚だった。見えない地中に根を伸ばした生きる意思の表れが黒々とした幹に今も伝わっている。天を埋めんばかりの繁茂ぶりを見せる枝葉の勢いはその強さの証で、歴史の現在地だ。画面上に現れる少しの抽象表現と量に溢れた厚塗りの茂みは樫の木のまとまりを巧みに伝え、画家が成り代わったような生命力を発揮する。ここに来て、散々記して来た主観と客観の区別を鉈の如く打ち込む隙がかかる「樫の木」のどこにも認められない、少なくとも筆者には見出せなかった。
 上村松篁が描く花鳥風月に特に感じたあの言葉、画家とモチーフの渾然一体という感想が当該作品に向けて湧いて出る。その響きを感じ取りながら、西洋画に対してこの実感を抱くことはないのだろうなぁと勝手に思い込んでいた自身の短絡さを反省する。
 そこにある「樫の木」は、ただただ存在するだけであった。その凄さに全身で打ちのめされた驚きと喜びを決して忘れない。



 『自然と人のダイアローグ』。そこにあるのか無いのか知れやしない自然。
 人において最も身近な自然といえばこの身体であるが、かかる身体=自然が認識するものに触れて思うことは男嫌いのかの女神がその裸体を見た者を鹿に変え、使役していた猟犬に食われる運命を課した様な理不尽な即決をその場で行うのではなく、絵画好きの一人として、この機会に「絵画は終わった」という趣旨の一文が指摘するものを改めて考えてみようということだった。高度に学習したAIが利用者の技術を問わずに興味深い絵画のイメージを作成している現況及びすぐに訪れるかもしれない近しい未来において、人こそが行える何かがあるのでないか。人間という偏見に満ちた情報処理機関にしか見えないものがあるのでないか。それは何かと想像し、拙いながらも身の丈に合った言葉を用いることを忘れず、書き終えたものを赤の他人のフリして読んでみて、また感じるものに言葉を乗せ、その全部又は一部を壊し、改めて作り直してみること。そこに見出せる意義がきっとある。
 そう思って、まだまだ遊ぶのだ。


 

『自然と人のダイアローグ』展

『自然と人のダイアローグ』展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted