均衡(図書館にて)

ひとりの女性が上段の棚に手を伸ばして本を取ろうとしているのが視界に入った。しかしなかなか取れないでいるようだ。(たしかに紙一枚ゆるさないように密に本が棚に入っているときがある。それが上段だとなおさら取りにくい。)その本を掴めたにしても引っぱり出すのは難しいだろう。その女性の筋肉量が十分であるとはとてもいえない。
僕は「取りますよ」とその女性に声をかけ、取ろうとしていた本を棚から取り出した。
「ありがとうございます」と声がした。その声は一瞬どこから聞こえてきたのか判らなかった。無論その女性の声だったのだが。感情の咀嚼する間のない瞬発的に発せられたもののように思われた。
その女性の本を持つ手にどこか希少性のようなものを感じた。指一本一本がそれぞれ独立してそれぞれの角度で本を支えている。それは静謐な絵画の綿密に計算された構図のようだった。片方の腕は下に向けられていて、袖から覗く指は、脱力はせず、しかし意気を持ちすぎるということもない。どこかキク科の植物の葉を思わせるシルエットだった。

静かな場所で声を出すのは憚られる。私は何ホーンで喋っていたのだろうなどと思う。話しかけられるといったんたじろいで、その反動でつい打ち返すように応答してしまう。それが往復するならラリーのようになるだけだ。これをなおすには正しい手順が必要なのだろう。私に正しい手順を身につけられる時間は与えられていない。もしくはその期間は過ぎ去った。
司書の男性はある程度の提案を私に向けて、去る。そのある程度の按排というのはどこで決められているのだろうか。
私は所作を間違えないように本をバッグにしまった。周りの空気が多数のアングルで纏わりついてくる。それらが私をゆるやかに塞いでいる。鷹揚に手足を伸ばせない。私の意識は外皮を貫くこと無く内側に戻ってくる。
まだここに着いてから15分余りしか経過していないが、淡く立てていた予定を消去し、帰宅しようと決めた。まだ体の時期が早かったのだ。電車はあと数分で来る。
電車は空いていた。私はドア付近に立つ。ドアの窓から見える景色は思っていたより長閑だった。
電車は自宅の最寄り駅に到着した。
時間をかけて身につけた私の歩き方は傍目には颯爽とすら見えるかもしれなかった。沈黙を鋭利に捌く。勇気を持って。ひとつの防具も持たずに。
私は歩くには、渇いているのだ。私が50メートル歩くのであれば、その消耗は50メートル分だけのものではない。わたしの身体は、肉体の浪費とは別のすり切れ方をしている。
私はドアを出て、何事も無く、行って帰って来れる人間に対して飽くなき羨望を抱いている。
自宅の敷地に入り、私をそそのかす外気から私は逃げ切った、と家の中に入りドアを閉め鍵をかける。私は洋間に行きいつもの革張りの椅子に座る。そしてオーディオの電源を入れる。液晶の表示の光が私自身を思い出させ、残った外気を振り落とした。私は再生ボタンを押す。
私が微量に発している粒子を、構成されたいくつもの音の粒子がつつむ。
私を熟知して、取り逃がさない。そのいくつもの音の粒子は、私の外郭のなさを許してくれる。私の部屋用の私になってゆく。
(私はいつもひとりで綻びて、ひとりで取り戻していく。この過程に他人が介入したことは無い。)

均衡(図書館にて)

均衡(図書館にて)

身体と意識のことなど

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-23

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