擬態の終り
自分が存在したという事実すら殘したくない人間はどうしたらいいのだろう、それが総てのはじまりだった。
己は生きることを肚の底から軽蔑した。生命を、生きて在ることを、神秘だの、奇跡だのと嘯き、喧伝する連中を憎み、詛い、軽蔑した。彼等には解るまい、生きるとは憎悪、怨恨、嘲笑だということが。
彼等は己を憐むだろう、だが彼等には解るまい、憐みとは最も低俗な感情の一つであるということが、最も低俗な加害の一つであるということが。
ある詩人が仄めかしている、生きて在ることは犯罪的だと。全くもってその通りだ。生存とは罪名に他ならず、生を受けるとは屈辱であり、生命は平等では有り得ない。生命とは彼等が説くように崇高なものではないし、苦心して保護すべきものでもない。それは恥ずべきものであり、唾棄すべきもの、根絶すべきものに他ならない。人間には生来的に犯罪性がその心臓に浸透しているのだ。かつて生命が平等であった時代などあっただろうか?
絶えず何かに擬態して日々をやり過ごすことにも厭き、疲れていることも知覚できないほど疲れ果てた。人生が素晴らしくも何ともないことは、そう思う人間が広めずとも勝手に、徐々に広まっていくだろう。理想は平等の癌だ。証すまでもない。
総ては腐り朽ち果てる。望むと、望まずとに関わらず。
擬態の終り