『喜雨とトレニア』ためしよみ
◆電波性少年の
僕とミヤコは、それはもうずっと一緒にいるけれど、性格も見た目も似たところなんて一つもない。まぁ他人だしね。そっくりだったらそれはそれで怖い。だけど共通の友達に言わせると笑った顔や顰め面は似てるらしい。きっとミヤコの能天気が、僕の神経質がお互いにうつったんだな。
真夏過ぎの屋上、ほんの少し高くなった空、遠い蝉の声と、グランドから聞こえてくる運動部のかけ声。それらと一緒に出入口の日陰に隠れるようにして、僕達は埋めきれなかった放課後の時間を消費している。
僕は手元のマンガ雑誌をめくりつつ、隣に座っているミヤコをちらっと見る。授業のときとは比べものにならない集中力で書きなぐっているのは、いわくラジオドラマの台本だった。
ミヤコは短い話を書いては放送部員の僕に渡してくる。部員の中にはそうしたコンテストに出る人もいるけど、僕は違うのに。僕は毎日の清掃時間のアナウンス係だ。いつもならそれらはたいていお蔵入りになるか別の部員の手に渡るかだけど、今書いているものは長編大作の予定で、僕が絶対に読まないといけないらしい。
顧問とのごたごたでサッカー部を辞めてからというもの、ミヤコが熱中しているのはこの台本作りくらいだ。大のサッカー好きなのは知ってるから何となく気の毒になって、僕は今日も台本の完成を、こうして気長に待とうと思っている。
「……とは言っても、そろそろ、大筋は教えてくれたって良いんじゃない」
「宇宙。宇宙人。襲ってくるやつ」
「は?」
「メグなら知ってるだろ。異星人がやって来るって設定のラジオ番組を本物だと思ったひとたちがパニック起こしたって話。すっげー大昔の、外国の」
「あぁ、あれ」
僕もミヤコも学力は中の下だけど、変な知識だけは豊富にある。僕の場合、その大半はミヤコから仕入れたものだ。
「パロディもの書いてるんだ?」
「どっちかってーと、あの話の続きかな」
割かし有名な話の続きって、自分で自分のハードルを上げてるんじゃない?
「続きと言っても」
顔を上げずにミヤコは続けた。
「物語の続きじゃなくって。大騒ぎが起きた後、その噂を聞きつけてホントにやって来た異星人がいたら、ってもしもの話。自分たちの正体が人間にばれたかも、って不安になって偵察しに来たんだ」
バインダーに無理やり挟まれたノートのページを一枚めくる。描かれていたのは、フルフェイスのヘルメットをかぶった戦隊もののヒーローのような異星人の絵だった。趣味を詰めたな。こいつは特撮が好きなんだった、意外なことに。
「これ以上は言えないぞ、まだ展開が固まってないから」
「それはそうだね」
「焼く前のホットケーキ生地って感じ」
「渡されても食えない」
「うん。ちなみに読んでもらうなら柴山さん」
「読んでもらいたいの? ていうかなんで柴ちゃん限定」
「声が好き」
が、の部分を強調するミヤコ。柴ちゃんは僕と同じ放送部員で、早口言葉クイーンの名前をほしいままにしている。
「何ならメグでも良いよ。おれ、録音してやる」
「はぁっ? 僕? やだよ、他の人にしなよ。しかもでも、って妥協じゃん」
「ははっ。……飯田とか永島とかはちょっと。な」
ぽつぽつと放送部員のクラスメイトの名前を挙げる。こいつ、僕や柴ちゃんには台本の話をするのに、他の奴にはかたくなに見せようとしないんだもんな。
どの台本もちっとも変じゃない、むしろ面白いものが多い。なのに読まれることを嫌がる、というより、怖がっているようだった。
「じゃあ分かった、僕から柴ちゃんに言っといてやる。台本が出来たらな、出来たら」
「わーいありがとー大好きー」
「棒読みじゃん。最初からそのつもりだったくせに」
「とか言いながら引き受けてくれるメグ最高」
「今度ラーメン奢ってな」
「おっけー」
ミヤコは持っていたバインダーを置いて、頭の上で手を組んで大きく伸びをした。姿勢を戻して、僕が読み終わっていた雑誌を手に取ってぱらぱらめくる。だけど結局、興味がないのかすぐに閉じてしまった。それから、僕が座っているのとは反対側に上半身を倒す。脇腹が伸びまくっている。ワイシャツが、縫い目が分かるくらいぱつぱつだ。
「どうした」
「きゅーけい。ちょっと考えてた。行き詰った」
「何に」
「……やって来た異星人な。目立たないように多分少人数で来ると思うんだよ。少数精鋭。スパイみたいなもんだから、ひょっとすると一人で来るかもしれない。で、友達とか仲間とか……おれたちみたいな地球人と仲良くなって情報を引き出す。のが任務。だからたいていは他人と話すのが好きなやつとかが選ばれるんだ。だけど主人公のこいつは自分から友達作りに行くタイプじゃないんだよ。友達が少なくても気にしないタイプ」
「スパイの適正なくない? なんで選ばれたんだよ」
「理由? 理由はー、まー、色々あんだよ。サンプルをたくさん採取するのが連中の目的だからな。たまたまそいつは地球の環境にすっごい合ってる身体だったわけ。環境が違う別の星に行くんだから、適合率? は重要だろ」
まだ自分の頭にしかないことを、まるで見てきたようにミヤコは話す。倒れたままで、どっかを向いたままで、ぶつぶつと。
「今回の台本で柴山さんに演じてもらう主人公は」
まるで、もう柴ちゃんに読んでもらうのが決まったみたいな言い方だった。
「突然選ばれたから準備もちゃんとできなくてニンゲンのことがよく分からなかった上に、来て最初に会ったのがおっかない人だったからそれがトラウマになってるんだ。それ以外にも大変なことばっかだった。自分のいた星と地球とじゃ勝手が違うんだもんな。挫折に続く挫折だ。失敗したり、悲しい目にあったりもする」
「……人間が、怖いんだ」
「でも、おれたちだってそうじゃね」
ミヤコは身体を起こした。
「人間同士で分かり合えてりゃラブアンドピースで戦争は起きませんよ。よそのやつが何考えてるのかなんてさ、想像するしかないもん。こえーよ、そりゃ」
「……」
「そんでようやく、めちゃくちゃ気が合う人間の知り合いができる。……ってとこまでは考えたんだけど、それからの展開が思いつかなくてさぁ」
「……行き当たりばったりと思いつきはミヤコの専売特許だろ。起承転結ね。じゃあ、そろそろ事件が起こるんじゃない」
「人間に近付きすぎた危険分子と見なされて処分命令が下るとか」
「いきなり物騒すぎる」
「実は異星人だと思っていたのは妄想だった。ただの人間でした」
「話の方向性が変わってきそうだ」
「地球病にかかってしまう!」
「何それ」
「他の星の連中がかかると致命傷になるやつ。なんかすごいの」
「雑だな。バッドエンドにしたいわけ?」
「っあーもう、思いつかないいぃい」
ミヤコはまた横にばたんと倒れた。痛くなかったのかな。けっこうな音がした。
「コンクリ気持ちいー。やっぱだめだわ暑いもん、頭回らねー。なんで他の教室あいてねーの、あっついあっついったらもー」
「今日に限って運がなかったよな、ほんと」
僕も反対側に身体を倒す。思っていたよりすべすべなコンクリートは、制服ごしでもじゅうぶん冷たかった。雑誌と一緒に買った、一リットルパックの梨ジュースに浮いた水滴が地面に滲みを作っている。残った中身は温くなっているにちがいない。
◆グリーン・ベル
断頭台に立つ罪人の気分を味わいながら立ち上がる。故郷の街の皆が集まる講堂に、グリーン・ベルは呼び出されていた。
「旅の救世主、あなたにこの街を救って欲しいと、皆が願っているのはあなたも知るところだろう。どうか、力を貸してはくれないだろうか」
帰って来た途端にこれか、と苦笑は鉄面皮の裏側へ。頼まれた依頼は必ず引き受ける、それが信条だった。
だから一も二もなく善も悪も無く頷いた。考えるより先に身体が動いた。
講堂からは歓声が上がる。伸びた背筋をより伸ばし、トレードマークの緑色のタイを少し直して、グリーン・ベルは初めて口を開く。
「私にできることは嘘を見破ることだけ。一字一句この通りです。
それで救えるのなら、喜んで手助けいたしましょう」
より大きな喝采が響く中、グリーン・ベルの相棒だけは、不機嫌そうに皆を睨み付け続けていた。
いつからか「それ」は街を覆っていた、気付いたときには既に手遅れだった、と、街の者は口々に言う。「それ」などと呼ばずにきちんとした名称を教えろと薄い笑みを浮かべたグリーン・ベルに、彼らはひっそりと呟く。
「幻想、ですよ。いえ、勿体ぶっていた訳ではありません。聞けばあなたはそんなことか大したことはないと思うだろうと伏せていたのです。「それ」のために、この街はひどく疲弊してしまった。……目の前にある事態を対処できず、その上、打ち勝つ力を失ったこの街が飲まれていくのは、時間の問題だったのでしょうが」
幻想の正体は自分達自身だと説いた思想家は街から出て行った。街に残ったのは、その言説を事実と認めながらも、なお気付かない振りを続ける者ばかり。自分も逃げようと思えば逃げられるのだが、と彼らが顔を見合わせるので、思わずグリーン・ベルも相棒と視線を交わす。
「―逃げない理由は?」
「自分達が生まれ育った街ですよ? 見捨てるような真似はできません。何とかして、また昔のような活気を取り戻したいじゃないですか」
そんなところだろう、と思っていたのは口に出さず。出戻って来た自分を前にして言うことか、と呆れかえった心を表に出さず。
彼らと別れたグリーン・ベルは、街はずれにある資料館へと向かう。
「幻想が脅威になることなんてあるかい、なぁ。あの人らは、物事の良い部分だけを見ようとしておかしくなっちゃったんだ」
グリーン・ベルの相棒は言う。見事に整備された石畳も緑鮮やかな広葉樹の並木もにこやかに挨拶をしてくれる住人も、この素晴らしい全部が幻想だ、とグリーン・ベルが言い切るので。その全部を引き剥がしてやるのが君のやることだろう、と意地の悪い口調で、敢えて言う。
「あの人らは理想を押し付けた。だからその理想ってやつに沿うように、世界が有りもしないものを見せ始めた。嘘を引っぺがして見えるのは理想を剥いだナマの姿さ、だったら理想も嘘も大差ないって話だろ。なにもこの街に限ったことじゃないね」
その通りだ。こうした病を患った地が辿る末路を散々、嫌というほど見てきた。
「でもまぁ、もしも本気でこの街の人達がどうにかして欲しいと思っているなら。タイミングが一番重要になるわけだ」
グリーン・ベルは黙っている。露店で買った、かすみのようなホットサンドに噛みつくのに精一杯だったから。
「ウソとホントは鏡合わせ、均衡が崩れれば片方が片方に引っ張られる。引っ張られ過ぎたらハイおしまい。何もかもがめちゃくちゃになるだけさ。難しいね。でも君は嘘を見抜けないのは馬鹿な連中に限ったことだと言う」
「だってきみ以外は皆馬鹿だもの」
「そんなの知っているとも」
グリーン・ベルが爪先を置いていた石畳が割れて崩れた。相棒は口笛を吹く。徐々に崩れてきているねぇと、小さな子供と変わらぬ口調で囃す。
「依頼は依頼だ。私、グリーン・ベルができるのは嘘を見破ることだけ。けれどそれは、私だけができること、じゃあない」
「さてさて、それはどうだろう」
結局、君が一番の嘘つきだな。
笑う相棒に、グリーン・ベルは笑い返さない。
◆ゆらりのからだ
私は透明な壁にかこまれた部屋で暮らしている。壁の外のようすをおしえてくれるのはねえさんだ。ねえさんは壁にぴったりくっついて、低くておちついた声で話す。頬のあたりがむぎゅうとつぶれているのがかわいいのだけれど、教えない。ねえさんは私のほうがかわいいという。
私はじぶんの姿を見たことがない。
「夜、遅くまで起きていてごらん。この壁にあんたの顔が映るよ。初めては、これが自分だとは思えないかもしれないけどね」
ねえさんはいつものように、頬をつぶして話した。
その日の夜、眠い目をがんばって開けて、まっくろな壁を見た。私と同じ動きをする、不思議ないきものがいた。ねえさんとも、他のなかまたちとも違う見た目だ。
初めて見るじぶんの姿は、かわいいとも、ぶきみだとも思わなかった。納得が、いちばん近い気持ち。悲しい、でも嬉しい、でもないのが、不思議だった。
翌朝、ねえさんにこのことを話した。
私は、誰とも似ていないのね。
「そう、あんたは誰とも違うんだ。冷たい海で生まれた、あたしたちのお姫様さ」
ねえさんは言った。
あの子が来たときのことは今でも良く覚えている。
小さくてふわふわしていて、赤みのあるほっぺがとっても可愛かった。怪我をしやすいからと隔離するように透明な箱の中に入れられていた。皆は箱を怖がって近付こうとしなかったんだ。あたしが話しかけたのはほんの気まぐれ。あの子がいつも、ぼんやりとどこを見るでもない目をしていると気付いたからだ。あれは、良くない目だった。
あたしたちは経験上、常に周りへ注意を払うのを忘れない。自分の命を守るためだ。でもあの子は外の世界の怖さを知らなかった、箱の中しか知らなかった。身を守ったり食べ物を手に入れたりすることを知らなかったんだ。だから苦労知らずを揶揄する「姫様」という呼び名さえも、何とも思っていなかったんだろう。
あたしは透明な壁越しでも声を真っ直ぐ届けることができた。皆よりも低くて、怖いと言われるこの声を有り難く思ったのは初めてだった。
あの子はとても賢くて、どんどん知識を吸収していった。お姫様は呼び名だけじゃない。この子は本当の姫様になれると思ったんだ。
◆桔梗色の過日
朝だというのに、もうこんなに汗をかいてしまいました。とれたての美味しいお野菜のため、我慢をいたしましょう。
とうもろこし、きゅうり、なす、トマト。すいかも食べごろかしら。かごに入りきらなくなる前に、きゅうりだけでも置いてこよう。立ち上がって腰を伸ばします。手を当てて思いきり。
「お早う御座います、もも乃さん。精が出ますね」
「お、おはようございます、六衛門さん」
慌てて姿勢を戻しました。頭を下げるのも忘れない。いけない。今日が何の日なのか忘れてはいませんが、うっかりしていました。
六衛門さんは葡萄茶の着物がお似合いのおじいさまです。後ろに控えている、立派そうなかたは誰でしょう。
「ああ、こちらは、私が以前仕えていた治親殿です。今年は私のところへもご挨拶に来てくださるそうで、いやいや有り難いこと」
「そうなのですか。おはようございます、治親様」
深々とお辞儀をして、お二人は斜向かいのお屋敷に入ってゆきました。
「六衛門さん、やっと連れて来られたのね。あのお殿様えらい人見知りらしくってね、それでここまで来るのにえらい苦労してたのよ」
「胡蝶さん。今年もお早いですね」
「あっちの客を捌くのに時間がかかるからね、ちゃちゃーっと終わらせようって思って。あら、それ、良い瓜だこと」
胡蝶さんはとても美人。今年の着物の柄は朝顔で、かんざしと耳飾りと、おそろいだ。
「へえ、あっちにもそういうお休みどころがあるんですか」
「当たり前よー? 男なんてどこにいたって変わりやしないもの。ね、もも乃さんも、生きてるあいだだけじゃなくって、死んでからも気を付けないといけないんだから」
胡蝶さんなら、引っ張りだこに決まっている。高い下駄を鳴らし、胡蝶さんも長屋の通りに行ってしまいました。
それから見知ったかたが次々にやって来ます。甲野さん、多江ちゃん、江田先生。皆さんお早い。わたしもお野菜を採ってしまわないと。
「きみ、きみ、そこの君。ちょいと教えて呉れ」
せっせとトマトをもいでいると、頭の上から声がしました。学帽をかぶった男の子が立っている。見慣れない校章。歳はわたしくらいかしら。
「君、変なのと話をしていただろう」
変なの、ですって。変ではないのだけれど、「見えない」人にはそう見えるのだろう。しまった、あんまり堂々と話してしまって、頭のおかしい子みたい。
「僕もあの集団についてきたんだが」
この人にも皆さんの姿が見えるのかしら。わたしと同じ?
いいえ……違う。だって、こんなに暑い日に学ランを着込んで、汗の一粒もかかない人間なんて、いないもの。
「あいつらはどこへ行った」
「皆さんのお家……だと、思いますけれど」
「ふむ、そうか。では僕の家はどこだ?」
わたしは、取り敢えず男の子をお家に上げることにしました。客間。縁側では失礼だ。
「あら、もも乃。お野菜はどうでした」
こそこそと廊下を渡っていたら、洗濯物を干し終えたお母さんと鉢合せしてしまった。壁の時計を見ると、もう朝ごはんの時間になっていました。
「沢山できすぎてしまうのも……。そちらのお坊ちゃんは?」
「お母さんにも見えるの?」
答える代わり、きょとん、とした顔をされた。いつもは見えないはずのお母さんにも見えているのだ。一体どうしたことだろう。こんなこと、今までなかったのに。
「何といいますか、迷子です。お庭で声をかけられたんです」
「そのご様子だと、もしかしてあちらの方かしら?」
「そうみたい、なんだけど」
「あら。お母さんにも見えるなんて、不思議ですねえ」
朝ごはんはまだですか、と尋ねるお母さん。男の子を一人残すわけにもいかず、三人でごはんを食べることになってしまった。
男の子はわたしやお母さんと同じように食事もできた。とても美味しそうにお漬物をパリパリ齧り、お味噌汁を飲んでいる。あちら側の方なのに食事ができるなんて、ますます不思議だ。
食後のお茶を用意しながら、いろいろと尋ねてみることにしました。
「ねえ教えてくださいな。あなたも「戻ってきた」のでしょう。だのにどうして自分のお家を忘れているの。わたしは便利屋じゃありませんよ、あなたが分からないことは分かりません」
「だから、解らないから訊いたのだろう。解っていたらここに留まりはしないさ。それとも僕が、便利屋か何かに頼る軟弱者に見えるのかい」
軟弱かどうかは兎も角、運動が苦手そうな見目ではあります。
「それから僕はあなたではない、桔梗だ。冲嶋桔梗という。
この辺には似た家が増えたね。見分けが付かず道も分からず、ほとほと困ったよ」
「最近の流行だそうですから。ということは、それより前のお生まれなんですね。ええと、『そちら』には、二、三十年ほどになりますか」
「うん、僕がいにしえの武士にでも見えるかな?」
もう、いちいち、人を見下した言いかたをなさる。これで困っていらっしゃらなかったら、すぐに出て行ってもらうのに。
桔梗さんは畳が珍しいのか、器用に上体を倒して、あぐらをかいたまま何度も匂いをかいでいます。
「君の家は大きいんだな。医者先生でもしているのか」
「いいえ。……それに、もうすぐ越しますし」
「成程、維持費も高そうだしねえ」
「お金の問題ではありません。いい加減張り倒しますよ」
「おお怖い怖い」
桔梗さんは目玉をくるりと回しました。
「わたしとお母さんが住むには大きすぎるので」
「―二人暮らしか」
あぐらを正座に直して、桔梗さんは首を傾げます。
「父親は、医者ではなくて軍人かな」
「そんなご立派な職業ではありません」
わたしのお父さんは作家です。そこそこ有名な雑誌にも作品を発表している、けれどもうずっとお家に帰ってこない。
お父さんの友人の船城さんは、外国に勉強をしに行っていると言ってくださった。ほんとうかしら。どこかうんと田舎にこもっているのか、ほかの女性と仲良くなってしまったのか。ああ、嫌だ。昔の癖がまた出ているのです。お母さんが時々ぽつりと言うから、わたしもお父さんと女性の方々とのお付き合いのことは知っているのよ、知りたくないのに知っているのよ。それとも、賭博場へなど入り浸っていたら、どうしよう。
何冊かの本がとても売れてしまったから、ご自分が偉い人だと勘違いなさっているのだ。今だってお母さんを困らせている、だめなお父さん。
「僕に解るだろうか。何という作家先生かね」
「茜谷紫苑。ハイカラな筆名でしょう」
「あかねだに……。知らんな」
「学生の頃は『銀河』という雑誌を作っていたそうです」
言い添えると、桔梗さんはいきなり、四つん這いで近付いて来ました。
「学生雑誌の銀河だって! 聞いたことがあるぞ! 読んだことはなかったが、著名な作家も多く輩出されている、格調高い雑誌だそうだね」
「はあ……?」
「そうさ! 僕も作家になる夢を持っていたのだ。ねえ君、ここに住んでいるのなら柴口芳山の芝居は見たことがあるかい? ないか! はっはは、小さいが立派な設備の劇場が、駅前にあるだろう! 今でも昨日のことのように思い出せる、男女ともに艷めかしい台詞と役者の個性を引き立たせる展開! 他の追随を許さぬ見事な舞台装置! 柴口芳山の! 芝居! だよ! 懐かしいねえ。貧乏学生だったが、金が貯まればすぐ観に行った。そうかそうか、父親が作家なら、君もさぞかし文才に溢れているのだろう!」
「わたしは文系というより理系です」
「何。理化学かぶれの小娘か」
「……作家様でしたら言葉にはお気を付けなさったらどう?」
「ふん」
態度をころころ変えなさって、疲れないのかしら。
お父さんが学生の頃に作っていた雑誌を知っている、となると、やはり数十年前だろうか。その頃に、桔梗さんは今の状態になったのだ。お家が分からないというなら、これまで一度も帰っていなかったのだろう。皆さんのご事情は様々です。
「―で、僕は決意したのだ。いつか芝居の題材になるような物語を書いてみせようと。僕の文章は、学友の間ではそこそこの評判だった。しかしそれだけでは井の中の蛙。新聞か出版社か、でなければ自費で本を売るか。俗に言う、売れる手段を考えていた」
わたしが考え事をしている間にも、桔梗さんは話を続けていました。
「帝国大学への推薦も決まっていてね。飛び級だよ、驚き給え。入学の日は先だったが居ても立っても居られずに憧れの都へ行きたく、高い切符を買って列車に乗り込んだ。あの季節にしては珍しく、雪風が強い日だったね」
桔梗さんはふっと、小さくため息をつきました。
「―しかし、その列車が事故に遭った」
「…………それで」
「うむ。この有様という訳だね」
桔梗さんにも、六衛門さんや胡蝶さんの姿が見えるわけ。それはわたしのように、ほかの人と違っているからではないのです。
桔梗さんは人間ではないのだ。ごはんも食べられますし、お母さんのようなふつうの人にもなぜか見えているけれど、生きてはいないのだ。
わたしはこのお盆の時期にだけ、いわゆる「幽霊」の姿が見え、話ができる。だから、桔梗さんもその一人、ということ。
「数十年ぶりのふるさとで迷子になった幽霊なんて、おかし過ぎて笑いも出んがね。
朝一番の列車だったのだが、どうも点検がまずかったらしいね。脱線して、横転した。あまりにも突然で、三途の川とやらを見る余地もなかったんじゃないのかね。ポックリいってしまったよ。……ふん。僕の身の上話なんてどうでも好い。その様子だと、まったく何遍も何遍も、似た話を聞かされてきたようじゃないか」
「皆さんがこちらへ戻ってくる理由は様々ですよ。だからいくら聞いても飽きません」
お話したがりなご先祖様は実のところ、とても沢山いらっしゃいます。一年に数度しか帰ってこられない上に、こちらでは話し相手も少ない。だから、わたしに話しかけるのだ。話を聞くのには慣れているけれど、桔梗さんなりに気を使ってくれたようです。
「それで、桔梗さんの理由は何です?」
「何においても理由が必要だというのかね。まぁ好い、実に在り来たりな動機さ。家族の姿を久し振りに見たいと思ったのだ」
「……それで、ご実家に向かう途中で迷子になった、と」
「その通り。何だ、そんな目で見るんじゃないよ。僕はやるぞ、生家が分からないだなんて、情けないにも程がある。君には世話になったね、ここからは僕一人で必ず成し遂げてみせよう」
「ですけど」
「いいや! 男子たるもの、女子を無闇に連れ回す訳にはいかない。外は暑いんだ、君が倒れたらどうする? 僕が担ぐのか? 女子を担いで歩き回る姿なんぞ大衆に晒すべきではなかろう。第一僕が君を支えきれるかも分からん。勘弁して呉れ給え」
お口とは裏腹に、ぜったい、ついて来て欲しいと思っている。それにわたし、そんなに重くありません。失礼ね。
これからの予定といえば、夏期休暇ぶんの宿題をすることくらい。それらもほとんど終わってしまったから、あとは好きな小説を読んで過ごそうと思っていたところでした。あとはお寺に行くくらいで、やることは多くない。このお家にはもう、仏壇もお写真もない。新しいお家に持って行ってしまった。
「わたしもお付き合いします」
「へえ、何、ならば同行願おうじゃないか」
君ではありません、もも乃です。
きっぱり申し上げますと、桔梗さんは目を丸くして、すぐに猫みたく細めました。
『喜雨とトレニア』ためしよみ
短編集の各話冒頭部分のためし読みです。