月から還ってきた少年
「実はね、僕は昨年の春に月から還ってきたんだ」
彼があまりにもそっけなく言うものだから僕は思わず、へえそうなんだ、と相槌を打ちそうになった。
少しだけ間を空けて、僕は彼の方をちらりと見た。いつもと同じように、彼はどこか遠くをぼんやりと見つめたままだった。屋上から見下ろす桜並木はすっかり緑色の葉で覆われ、からりとした風が僕たちの間を静かに吹き抜けていく。
彼とは、図書室の一角で言葉を交わしたことをきっかけに顔を合わせては話すようになった。桜の花びらが強い風に巻き上げられて、まるで吹雪のような光景を見せる時期のことだった。僕と同じ学年で、同じ月の生まれで、同じくらいの背丈と体つきをした彼は口数こそ少ないものの、気がつくといつも図書室から借りた本を手にしていた。ジャンルは見事にばらばらで、彼曰く特定の種類に偏らないように考えて毎回本を借りているらしい。
昼休み、あるいは放課後になると二人で静かな場所を探して校内を彷徨い、取り止めもない話をすることが日課となっていった。共用のラウンジや空き教室、図書室に併設された個別学習スペース、そして今日だと、屋上。
「月って、あの、月?」
僕は空を見上げて、指差した。薄い雲によって霞みがかった空間に白くぼんやりと浮かぶ月は、なんだか今にも溶けて消えてしまいそうだった。
彼は空を見上げて、頷いた。
「そう」
「宇宙旅行かなにか?」
「ま、理由はちょっと言えないんだけど」
そう言って、彼は少しだけ口角を上げた。彼のいたずらっぽいそんな表情を、僕は初めて見た気がする。
「楽しかったよ、月は」
「でも月って、岩とか砂とかで覆われてるイメージしかないんだよなあ」
「世間一般的にはそうかもね。でも、面白い発見もあったんだ」
「ふうん?」
僕が相槌を打つと、彼は続けた。
「現地で、地面を掘り起こす作業の手伝いをさせてもらえたんだ。なにか未知の物質が出てきたら面白そうだなと思って」
「うん」
「で、これが出てきたんだ」
着ていた白いワイシャツの襟近くに手を伸ばした彼は、閉じられていた第一ボタンを外した。その手つきがなんだかやけに滑らかで、艶かしくも見えてしまい僕は内心どきりとしてしまった。
ワイシャツの内側に少しだけ手を入れた彼は、指先に光るものを引っ掛けて外へと引っ張り出した。シルバーの細いチェーンで出来たネックレスだったのだが、一際目を引いたのはトップに付いていた輝く石だった。
「うわ、すごい」
思わず僕はそんな声を出してしまった。近づいてよく見せてもらうと、なんとも言えない青白い輝きを放っている。まるで自ら発光しているような、不思議な妖しさを持つ美しい石だった。
「これは、宝石みたいものなのかな」
僕が言うと、彼は少しだけ首を傾げた。
「組成とか成分とか、目下調査中でね。幸いにも結構な重量を採取できたから、今は世界各地の研究所で調べてもらってるってさ。有毒な成分は入っていないというところまでは確認が取れたから、こうやって加工してもらったんだ」
「へえ、すごいなあ」
僕の人差し指の先に乗るくらいの小粒な石だけど、ダイヤモンド、いやそれよりも強い輝きを放っているように見える。
「このネックレスはいつもつけてるの」
「そう。つけてると、月で過ごした日々を思い出せるから。……あ、もちろん先生達には内緒だけどね」
彼は少し微笑んだ。
僕たちが通う学校では、校則でアクセサリーの類を身につけることは禁止されている。日々、折り目正しく制服を着ている彼がこっそりとネックレスをしているという秘密を知って、僕はほんの少しだけ気持ちが昂ってしまった。彼の意外な一面を知ることが出来て、ちょっとした優越感みたいなものも込み上げてくるのだった。
「……また、月に行ってみたいとは思う?」
僕が尋ねると、ネックレスをワイシャツの内側にしまいながら彼は言った。
「そうだなあ。また行ってみたいなとは思ってるよ。でもそのためには、もっと色んなことを勉強しないといけないからね。しばらくこっちで勉強や研究をしてから行きたいな」
「そっか。じゃあ将来は月の研究者になる、とか」
「なれたらいいね。うん」
言って、彼は再び空を見上げた。僕もつられて、空を見上げる。さっきよりも霞が少し晴れて輪郭がはっきりしてきた白い月は、静かに僕らを見下ろしていたのだった。
月から還ってきた少年