虚空
己はいま目の前の虚空を見つめている。いま?それは嘘だ、ずっとこうしていたような気がする。生れた時からずっとこうしていたような気がする。或いは己自身が虚空なのか。果てしない虚空。いかなる踠きも嘲笑う虚空。己は生来的にすべてが缺落していた。最初から虚空であるが故に己は前進も後退もしなかった。できなかった。虚空は腐敗することがない絶対的なもの、絶対的なものの中でも最上位に位置する絶対的なもの、あらゆる真理の祖、あらゆる真理の種だからだ。最初から虚空であるが故に己は幸福も不幸も知らなかった。本当に"幸福も不幸も知らなかった"。不幸というのはよく底の抜けた器に譬えられるらしいが、己は器ですらなかった。虚空、茫漠たる虚空だった。己にとってそれらは何の意味も価値もなかった。すべては何の意味も価値もなかった。己は何も持っていないが故にすべてを持っていた。何も知らないが故にすべてを知っていた。すべてを知っていたというより己は、虚空というのはすべてだった。己は至るところで虚空を、即ち己を見た。己の死骸や、残骸を見た。己は"場"であった。あらゆる場であった。どこにも行く必要がなかった。なぜなら己はあらゆる場であったから。"終点"のない、行き止まりのない場であったから。最初から虚空であるが故に己は苦痛も快楽も知らなかった。己はただ気紛れで膨張したり収縮したりしている宇宙に過ぎなかった。そこには人間の説く愛や慈悲というものはなく、ただ気紛れがあるだけだった。最初から虚空であるが故に己には愛が解せなかった。愛とやらの為に愚かになるということが解らなかった。そのような形而上学的な事柄の為に死ぬということが解らなかった。何もかも解らなかった。どうでもよかった。何がどうなろうとどうでもよかった。己は虚空だから。己は生きることと死ぬことを同一にしてしまった虚空、星一つ瞬かない虚空、何にも譬えられることのない虚空、ただそこに在るだけの虚空。
虚空