Advent Glow Story
※ 2012.12.21 少しだけ修正、加筆をしました。
※ 2012.12.26 最終話をアップしました。
※ 2012.12.27 修正、加筆しました。
Ⅰ:月の音が咲く夜に
橋の上から見る対岸は、町の中心部から流れてくる光で、昼間のように明るかった。島と島との間を渡る海が、深い色の石を敷き詰めた道ようで、街から溢れた光は、道を彩る縁石のようだった。
本土から数えて三つ目の、群島の中では一番大きい島へと続く橋を渡る。夜空には、昼間のように地上を照らす満月の下を歩いていた。
日中は暖かかったが、日が暮れると、空気は冷え、澄んで来る。体はとっても緩やかな心地に暖かくなっていたが、店を出ると、まだ冬の寒さが残っていて、上に着る物を何も持ってきていなかった事を後悔した。
遅くまでやっているショップで白い薄手のカーディガンと、ストールを買うと、包装を断って、すぐに身につける。こういう買い方はしたことがない。やっぱり、少し気が大きくなっているようだった。
ラベルが綺麗だったので、飲んでいたワインのボトルは貰ってきた。明日の昼には、もう自宅に戻っている。その時まで、今日の余韻をどこかに残して、持って帰りたかった。
ゆっくりと歩いて、橋の中腹まで来た。鼻の奥に、ワインと一緒に入って来た、不思議な異国の香りがまだ残っている。周囲に聞きなれた日本語が混じるようになっても、波の音しか聞こえなくなっても、それは変わらなかった。
誰も通らない、夜の大橋は、とても静かだった。海面より大分高いところに架かっていて、空中の道を進んでいる気持ちになる。鉄製の近代的な造形に、島と島を結ぶバイパスの役割から両脇に歩行者用の通路があり、車道と通路を仕切る柵や、支柱から延びるワイヤーの曲線が凝ったデザインをしていた。柵に埋め込まれた色とりどりのガラスが、月明かりに反射して幻想的だ。
有名な海外の建築家が設計したらしい。“人と車が行く、未来の橋を架ける”のが表されているそうだ。ここに着いた時に人から聞いた話だから、あまり詳しくは知らない。けれど、橋だけに限らず、それぞれの島に建っているホテルや美術館なども、世界の他の有名な建築家が設計したものらしかった。
『それまでは、島と島とは船で行き来していたんだよ』
昨日話した島の人は、少し遠くを見るような顔で、そう言っていた。
橋だけに限らず、数年前までここは、一軒のお寺と民宿と住宅が少しと、後はすべて畑か森しかないような群島地域だったのだそうだ。それが、一番本州に近い島が、埋め立て工事によって本州と繋がってからは、次々と道路やホテルが建ち並び、今では、一個の島は宿泊施設がメインで、次の島はマリンスポーツやキャンプの拠点にと、島それぞれで特徴や役割を持った、大きな観光施設に変わって行ったらしい。
私も、テレビや雑誌で紹介されていたのを見て、ここを知った。そして、休暇をどこで過ごすか悩んでいたとき、人から強く推薦されて、ここを選んだのだ。
ヒールの足がもつれて、うっかりボトルを取り落としそうになり、橋の欄干に手を付く。思い付いて、握り直したボトル越しに、月を見てみた。
そこだけ、ラデン細工で作られたように、ボトル越しの月は、光の屈折で薄く虹色に輝きながら、ぼうっとした光を放って、浮かんでいる。
自宅に帰ったら、ボトルの中に、何か綺麗なものでも入れて、部屋に飾ろうか。そう考えて、橋の終わりから下へ延びる、浜辺へ続く遊歩道へ目を向けた。
一分も掛からないで歩き切ってしまえるくらいに、小さな浜辺だった。ホテルの庭からも、別の遊歩道で繋がっていて、酔い冷ましに散歩しながら帰るには丁度良い。風に乗って、微かにホテルのガーデンステージからの演奏の音色や、人の喧噪が聞こえて来ていた。
少しの白砂と、綺麗な色の貝殻でも良いから、何か拾って、ボトルに入れようと思ったのに、拾う事を目的にして歩く時に限って、何も見つからない。
《見つからないんだなぁ。こういうのって……》
その時、出発前に言われた言葉が脳裏に蘇った。
『人には、もともと、感知や知覚出来る現象に限界があるんだ……。元がそうなんだ。それを変えるために、生きているようなものだよ』
そうは言っても、私には無理だったよ
『何も出来ないところから得て、学んで、成し遂げよう』
けれど、出来ることと、出来ないことは絶対あって、私はやっぱり出来なかったんだよ。
「お姉さん!」
「え……?」
顔をあげると、いつの間に現れたのか、一人の少年がこちらを向いて立っていた。
肩に大きめの鞄をかけて、頭には調整するためのつまみのようなものがついたヘッドフォンをしている。ひょっとしたら、自分で作ったものなのかもしれない。製品とは違う作りかけの雰囲気があった。
ヘッドフォンに押さえられた長めの前髪の奥からは、こちらを見つめる瞳が見え、首を傾げて、こちらの様子を伺うようにしている様に、ひょっとしたら、橋からこちらに歩く中で、私は、妙な雰囲気でも出してしまっていたかもしれないと一瞬思ったが、少年が、何事も無かったかのように、こちらから目を離して海の方を見つめ出したので、深くは考えないことにした。
「あの……」
少年は、もう一度こちらを見たけれど、チラッと見ただけで、また海を見つめ始める。両足が汀にかかっていたが、気にしている様子は無かった。
地元の子では無さそうな雰囲気に、きっとホテルの庭から、浜辺へ来たのだろうと思う。こちらから話しかけても、何も変わらないような様子から、もしかしたら、親戚の誰かと勘違いして、私を呼び止めただけだったのかもしれないと思った。だから、そのままにして歩き去ろうとした時、
「人には、感知……や……、知覚? が出来る現象に限界があって。元がそうなんだから、それを変えるために、今を一生懸命生きているようなもの!」
うろ覚えの文章を一生懸命そらんじるように、不意に少年が声を張って言葉を紡ぐと、こちらを向いて笑いかけて来た。少年の声に、私も振り返る。少年の、してやったりと言いた気なニヤリとした顔が見えた。
【何なの? さっきから……】
さすがに、少し背筋が寒くなる。
「怖がらないで。怪しい者じゃない。父さんから、頼まれたんだ」
言うと少年は、鞄の中から、同じ様なヘッドフォンを出してきて、こちらに差し出した。
「昔ね、父さんが都会の大学で働いてた時、その時に教えていた学生の人が持ってた本に書いてあったんだって。ホラー小説。一人の人が、山奥で遭難して、運良く朽ちる寸前の小屋を見つけて休むことにしたんだけど、その晩、小屋の中だけが嵐みたいにガタガタ揺れて、物があちこちに飛んで、壁も床もどんどん壊れ始めたんだ。遭難した人は、真っ暗な中で、いろんなところから崩れていく家からやっと抜け出すんだけど、今度は周りの森の木が宙をまったり倒れて来たりし始めて、そうなって初めて、遭難した人は理解するんだ。《人間には、感知し知覚出来る現象は限られいて、この現象は、人間が知ることのできないところで生きている存在が起こしていることなのかもしれないって。そして自分たちは、それには勝てないし、その脅威からも逃れられない》って事を。話はそこで終わるんだけど、ちょっと暗い話だよね」
一気に言い終わると、少年は、にっこり笑った。
「ちょっとどころか、だいぶ暗いか……。その時の学生さんは、将来に迷ってたんだそうだよ。これから先に進むのが怖くて、何をしていても、新しいことをしようにも、無意識に、絶望するきっかけとか、諦めたりする条件を探したりしてしまうくらいだったんだって。不思議だよね。でも、僕の父さんもそうだったって言ってた。研究に息詰まって、学生の前では明るかったけど、本当は仕事をやめようかとかも思っていたらしい。びっくりしたよ。父さんがそんなこと考えてたなんて、僕は知らなかった」
「何……? 何の話……?」
けれど、うっすらとだけ、少年の言う《学生》に心当たりがあった。彼かもしれない。私のよく知る人。そして、今の私。でも誰かははっきりとはわからない。その誰かは誰なのか。不思議と、少年の話だけが耳に入ってくる。
「学生さんは、しばらく考えたそうなんだ。そのうちに、学部のみんなとここに旅行に来て、コレを見た。この小説は絶望するみたいにして終わっているけれど、その主人公と自分を重ねてみたとき、物語の中の人物は話が終わればそこで終わるけれど、自分にはまだ可能性があるなら、人間が感知出来ないものごとや、あらがえないものごとから自由になる方法とかも、考えられるんじゃないかって」
少年は少し後ろに下がると、波が掛からないところまで離れると、砂の上に座って、足を投げ出した。再び顔をこちらに向けて、見上げたまま、鞄から出して来た方のヘッドフォンをもう一度差し出して来る。
『人には、もともと、感知や知覚出来る現象に限界があるんだ……。元がそうなんだ。それを変えるために、生きているようなものだよ』
「たくさん、泣いてしまったらしいよ。話を読んで泣いて、諦めることばかり考えていた自分が情けなくて泣いて、自分勝手に絶望していた自分にも、泣いて。父さんも、その話を聞いて、我に返ったって言ってた」
『何も出来なくたって良い。誰も知らない道なんだ。正解なんてないんだから』
「父さんは、研究を続けて、コレを作った。まだその時その時で調節しなければならないけれど、大分作れたんだよ。結局、こっちに引っ越す事にはなったけど、ここが一番、研究には都合が良いんだってさ」
『何も出来ないところから得て、学んで、成し遂げよう』
「島の様子は変わったけれど、それでも変わらないものがある。昔からそこにあったもので、変わらなくても良いものは、それを求める人のために、いつまでも変わらずそこにあるんだ」
少年は訴えかけるように、言葉を継いでいく。
「その本は……。今もまだあるのかしら……。誰が書いた、どの本……?」
少年はまたニヤリと笑うと、
「お姉さんが直接聞いたら良いんだよ。帰って、訊いたら良い」
私に、息抜きにこの島に行くことを提案した、彼。私が集めてきた旅行プランを見ていたとき、後ろあらのぞき込んで、この島が良いと強く勧めてきた。
少年は、今度は白い歯を見せて声を上げて笑うと、
「本は今は無いけれど、父さんの研究は実現したんだ。目指したものとはちょっと違うくなったらしいけど、これで良かったんだって、言ってた」
「何、コレ……?」
「正確には、見るの。見るんだよ、音を!」
話に半分着いて行けていない私を放っておいて、少年は、ヘッドフォンを私の頭に被せると、スピーカーを耳に押し当てた。
「やってみればわかる」
「?」
言うが早いか、少年がヘッドフォンのサイドにある調節部分に触ると、細かい金属を転がし続けているような音が、スピーカーから流れ始めた。
蛍が飛んでいるかの様に、さっき橋で見た色とりどりのガラスが月光を含んで放っていた光が、柵を離れて宙に浮かび、空を渡っていく。
さざ波が、砂浜に押し寄せるたびに、白くて細かい光が宙に上がり、寄せては返す波の動作に合わせて、流れるような鈴の音がしてくる。
後ろに広がる森の木々のざわめきは、低い弦楽器の音を伴って、ゆっくりとした波紋のような光の波を夜空の海に流し、橋からくる虹色の月光と一緒になって、空から降って来た。
「何、コレは……!」
少年は、驚いている私の顔を見ると、嬉しそうに笑って、答える。
「見えるものと音が一緒になって、もっといっぱいの風景が見えるんだ。蜂には、空がいつだって虹色に見えている。紫外線の波を見ることが出来る昆虫もいるし、感じ取る動物もいる。それを、一瞬だけ、人間にも見えるようにもしてるんだ」
足を引くと、靴が砂を踏みしめた箇所から、砂金のような光が生まれ、金属が擦れるような音が、本当に微かな微かに鳴って、すぐに消えてしまう。
「何にでも、どこからでも、音は生まれるの? 生み出しているものがあるの!?」
私は、少年に向き合って訊いた。足下で、砂金の光とさざ波の白銀の光が混ざって、雫がこぼれるような音が鳴る。
「そうだよ。なんでもそう。人は誰だって、何かを生み出しながら生きている。歩くたびに新しいものを生み出して、座るたびに、何かを携えて、眠る吐息にも、光が宿ってる。誰も、何もしてないなんてことない。みんな何かを作って、世界を彩っている。作りながら、歩いて、座って、眠って、考えているんだ」
橋を一台のトラックが走り、そのヘッドライトが夜空の光源たちを揺らめかせる。ホテルのガーデンステージからの音色は、森の木々の音とは違って、自然な流線型ではない、規則正しく揺れ幅の変わる、不思議な形だった。
人工のものを含んでも、光の音は変わらない。むしろ、それを受けて、新しく音を放ち、一緒になって新しい光の模様を描いて行く。
「どんなものでも、美しいんだよ。自然のものも、人間のものも。人間がイレギュラーを起こす事で、新しく生まれる音がある。それだって、必要なことだ」
自分が肯定されていくようで、涙が頬を伝った。どんなものでも、どんな人間でも、生きている限り、そこにいて良い。すべてを含んで、生まれて行くものや、作れていくものがある。
「月を見て。見に行こう」
少年の声に、真後ろになってしまった月を見に遊歩道まで戻る。私たちが走って生まれた音は、そのまま空へと昇り、木々の光の波紋がそれを受け止めて、夜空へ運んでいく。
遊歩道の踊り場の、広場みたいになった場所に出て、月を見上げた。
街灯の光と一緒になって、体が浮かび上がってしまうような音がゆらゆらと揺れる音が奏でられている中、月は、笑う赤ちゃんのような、穏やかに微笑む聖女のような、それとも甘く笑う天使のような、大きな大きな暖かい光と静かな雨垂れのような瑞々しい高音と共に、光の羽根を夜空に伸ばしていたところだった。
月の周囲を取り巻く星が、池に浮かぶ水連の花のように夜空に揺れて光かり、途切れることなく続く管楽器のような音色を、月の羽根と一緒に流れていく。
「お姉さんには、どう見える? 僕には、おっきな白い蓮の花が、ゆっくりと咲いていくように見えるんだ。咲いて、花弁の一枚一枚が蕾から離れるたびに、音がする。凛とした、水のような音。そんで、咲いた花からは、人の歌声がするんだ。いろんな人の声。きっと月を見て、いろんな思いを持っている人の声だと思う。それを聴いて、月は、人の代わりに歌ってるんだ。癒されるように、満たされるように、歌ってるんだ」
少年は、夢中になって、自分に聞こえている音と見えている音を話していた。
「俺は、月が好きだよ。人間にも聴きやすい音で歌うのは、月だ」
「そうね。太陽はどんな音なの?」
「元気すぎる! 俺の妹たちみたい!」
今まで一番力強くそう言った少年に、私は声を上げて、笑ってしまった。
バスに揺られて、窓の外を見ると、昨日、少年と一緒に月を見上げた遊歩道が目に入った。
少年が言うには、機械を使って、一時的にでも、普段は見えない光景が見れても、ずっとそうして見続けていたら、それはそれで、体を悪くするらしい。彼の父親は、この研究を誰にも言うつもりはないと言う。発表なんかしなくても、きっといつか、途方もない未来の先で、きっと人は、機械が無くても、自分たちが生み出しているものの存在に気付くだろうし、見えるようになるはずだから、なんだそうだ。
駅に着いたら、これから帰るということを連絡するついでに、訊きたいことがあったが、彼の父親のそうした方針のことを思って、自宅で待っていてくれる存在にも、あれこれ訊くのはやめようと思った。ただ一言、新しい可能性のきっかけをくれたことに、お礼を言えば良いんだと思う。
人間は、何もしなくても何かを生み出しているし、それを拒否するものは、世界のどこにも存在しない。ただ、決めてしまっているだけなんが、自分には価値は無いと、これは無価値だと、決めてしまっている自分がいるだけなんだ。
バスが島から離れて、本州に入る。今度は、二人で休みの日に来れたら良いな。普通に、余暇を楽しみたい。そんな未来が与えられるように、変わりたいなと、思った。
今から眠ろうとしている私の吐息も、バスの走行音も、揺れる木々の葉も、太陽から降る光も、すべてが一つの世界の必要なもの。機械が無くても、その元気すぎる音が聞こえてきそうで、見える景色に喜びが湧いてくるのが、わかった気がした。
Ⅱ:はじまりが集まる図書館
《恵みを与えよう。それは君たちが思う、一番よいもの。得るべきものを得るように》
「だれか使う?」
マグナは腹ばいになって、使えそうな《書き手》の子はいないかと、曲がり角の向こうの様子を覗き込んだ。
「だめよ。《レコード》の編纂でみんな忙しいよ」
私は、金の箔押しがされた、二つ折りの紙切れを睨んだまま答えた。柔らかい手触りで、インクも新しい。
「でも、調べる人数が多い方が楽だろ?」
マグナがこっちを向いて意見してくるが、
「だめ。私たちで解くの」
と返す。面白くないなぁ、と言いたげに舌打ちする音が聞こえたが、無視した。
「一人で良いから持って来て、情報収集手伝わせれば、楽なのに……」
マグナは、もう一度曲がり角の向こうの様子を伺っていたが、筆記具や紙類、綴じられた編纂資料の山の間を行き交う《書き手》たちの動きを観察して、引っ張って来れそうなのが一人もいないのがわかると、ため息をついて、だらしなく壁にもたれて座り、頭の後ろで手を組んだ。《書き手》の子たちに手伝わせるのを諦めた印だ。
「なんか面倒くさいの拾って来ちゃったな……」
「今日は編纂作業の練習無いから、ちょうど良いじゃない?」
目の前の広がる、紙とインクの匂い。ピカピカに磨かれた廊下の市松模様の床には、書庫に収まり切らない本や資料が置かれていて、白い壁に大きく取られた窓の外には、雪解けの季節が過ぎて水量の落ち着いた川の静かな流れと、芽吹き始めた新緑の林が広がっている。
城を取り巻く緑が濃くなって、木の垣根で幾何学的な模様が描かれた庭に、もっと花が増えたら、春夏の朝食を摂るためのガラス張りのテラスに、小鳥やリスのお客様が来るようになる。
私たちが生まれてから来るようになった、この小さなお客様たちは、本と《書き手》以外にいなかった城に、生き物がもたらす癒しを運んで来たと、ソフィアが嬉しそうに言っていた。
一つの世界であったことの全てを、一字一句間違いなく記録していく《アカシックレコード》。その編纂作業は、世界が新しく変わるたびに行われて、終わったことなんて一度もない。
世界の始まりの際に約束された人たちが読み、役立てることになっている《レコード》は、読める環境も、読むための力も、特定の人たちに培われるようになっているから、誰もが読めるわけはないけれど、それならなぜ、そんなにいつもいつも編纂しているのかと、前に作業中のソフィアたちに訊いてみた。
「一つの事柄が変わると、書き直す箇所も膨大で、全てのことを間違いなく記録するためにも、時間を惜しんではいられない」
のだそうだ。
「そんなに大変なの? 休みが無くても、やらなきゃいけないの?」
マグナや私は、まだ筆記具を上手く使えないから、練習をした後は自由に外に遊びに行ったりしている。
「私たちも子どもの頃はたくさん遊んだから、貴方たちが外で遊ぶのを見てたら、自分も遊んでいる気持ちになれるから良いのよ」
「木の実を食べるのは良いけれど、洗って食べろよ?」
そう言って、ソフィアたちは資料の山の向こうから笑った。
けれど、一度だけ、こんな話をしたこともある。どうして《レコード》なんてものがあるのかについて、質問した時のことだ。
「それは……。これから何が起こるかを知って、新しい可能性を選び取るために、《レコード》はあるんじゃないかしら」
いつもなら、それで終わるだろうなソフィアの答えに、珍しくデュナミスが引き継ぐようにして言った。
「それでも結局、その新しいことも俺たちが今ここで、記してしまうんだから、次に世界が再生された時には、“すでに《レコード》に書かれてる事柄”の一つになってしまうんだ。まったく、頭がおかしくなりそうな話だよ!」
「デュミナス!!」
「怒るなよ。俺がこの世界の人間だったら、絶望したかもしれないなって、同情してるだけなのさ。どうやったって、全てが折り込み済みの計画済み。ぜーんぶどうせ最初っから決まってるって、悲しくないか?」
ソフィアは複雑そうな微笑みを浮かべて、ペンを動かし続けるデュミナスを見る。
「デュミナスは《レコード》を作るのが嫌なの?」
代わりにマグナが残念そうに声を上げた。彼からしたら、一番憧れてもいた存在が、己の存在意義に対して疑問や不満を持っているにも等しい発言だったからだ。
「それは違うわよ、マグナ」
ソフィアが否定するが、みんなの心配を余所に、デュナミスは道具入れから綴り紐を取り出し、書き終わった資料をまとめて《書き手》の一人に渡す。と、ふい思いついたように、背後の戸棚から、装飾が施された金の台座の上で、内側から青白く輝く光球体を取り出した。人の顔くらいあるそれは、中心が雪のように白く光っているが、周りは光を全部吸収してしまったかのように暗くて、まるで、夜の帳のようだった。
ソフィアが、自分の机の上から未処理の資料の山をどかすと、空いたところにデュナミスが光球体を置く。光球体は、デュミナスが指で軽く突っつくと、中心の光が揺れてくるくると回転した。
「これが、俺たちが今、編纂している世界のやつらが考えてる、世界の形だ。周囲は何もない暗い闇だが、一つの大きな大きな光の球を中心にして、世界全体が回りながら時を刻み、変化と安定を繰り返してる。時々、闇の外側から受ける刺激が生き物の進化を促し、進化の加速に付いて来られなくなった者から、淘汰されて消えていく。これは、球の一つに住む生き物たちも同じで、とにかく、何か大きなものを中心にして、物事は順調に回り、世界は安定していると思っている。《光》ってのは、生きてるものじゃなくても良いんだ。なんでも、自分たちの中心にいてくれるものだったらOKってこと」
「ちょっと極論だけどね」
ソフィアの注釈が入る。
「聞いてくれよ。何もしてないのに消えてしまうなんて、嫌だろ? マグナもアルスも、自分が知らないところで、新しい進化が始まって、それで自分たちが何もしないうちから淘汰されて消えてしまうなんてなったら、どう思……」
「絶対いやだ!!」
マグナは力強く言ったが、私は、少しだけ考えて、
「仕方ないことかもしれないけれど、やっぱり、自分が何も出来ないままで消えることになるのは嫌」
と答えた。すると、マグナは今度は本気で怒って、
「嫌なら嫌で、すぐ答えろよ。そういう事してるから、消えるんだ! 俺はお前が消えるのなんて嫌だよ」
と言って来た。掴みかからんばかりになって怒るので、ちょっと迷惑に思ったが、ソフィアは笑っているし、デュナミスはお腹を抱えてもっと笑っていた。二人に笑われたのが恥ずかしかったのか、マグナは走って部屋を出ていこうとしたけれど、すぐにデュナミスに襟首を掴まれて、椅子に座り直させられる。
「まぁ聞けって。笑って悪かった」
「私も、ごめんなさいね」
二人が謝って、マグナはやっと席に座り直した。
「つまりな。この光の中で暮らしてるやつらも同じなわけだ。自分が知らないうちに消えたりなんかしたくないし、隣の奴が消えたり、消えてしまうのも仕方ないとか言ったら、腹立ったり、悲しくなったりするんだ」
マグナが強く頷く。私も頷いた。マグナもソフィアもデュナミスも《書き手》の子たちも、いなくなってしまっては悲しい。いなくなって良い理由なんてない。なくならないように出来るなら、そうしたい。
「そんな思いを持つ生き物のために《レコード》はあるんだ。このまま行ったら、消えてしまう存在、失ってしまう存在、それと、新しく生まれ、育つものが記されてる。消えて欲しくないもののために使うも良いし、新しいもののために使うも良い。使い方は読んだ側次第だけれど、その全てが、幸せや、良いことに繋がることを俺たちは願ってる」
デュナミスは、言うと、光球体をまた突っついた。
「良いことのために、使われない時もあるの?」
私が訊くと、デュナミスもソフィアも複雑そうな顔をして、
「私たちに、良いことがどうかを判断することは出来ないの。存在したことや、起こったことは、起こるべくして起こったもの。《レコード》が存在していない世界では、幸せは、その世界が終わった時に、そこで行きていた存在たちが決めて良いことだけれど、《レコード》が存在してからの世界では、良いことや悪いことの判断が、少しだけ明確になってしまうから、尚更、悲しいことは悲しくなるし、嬉しいことは嬉しいわ」
私とマグナには、ソフィアの説明はよくわからなくて、首を傾げた。
「はっきり言えば、悲しいことは悲しいままで終わってしまうし、苦しいことは苦しいままで終わるってことさ。けど、俺たちが《レコード》を編纂するのは、希望のためだ。生き物がたくさんいる世界、その周りを取り巻く闇の中。そこに抱え込まれた悲しみを取り除く希望があるかもしれない。ひょっとしたら、光届く場所にも、新しい希望の種はあるかもしれない。一つの光の中で、過去に蒔れた希望の種を、未来が気付くかなくて、見逃しているだけかもしれない。まだ生まれて来てない希望もある。俺たちは、そう言った希望を見つけるために、《書き手》の子たちと一緒に、それまでその世界で起こった出来事を全部記録して、読む側がそれを良いことへ使うことを願っているんだ」
デュナミスが、とても真面目な顔をしてそう語るので、マグナも私も息を飲んでしまたが、次の瞬間には、いつもみている顔で笑うと、
「俺が変なこと言ったから、余計に不安にさせたな。ごめん。昼食まで遊んで来いよ。昼から、新しい筆記具の使い方を教えてやる」
と言って、編纂作業に戻って行った。
「もし、何も遊ぶ予定が浮かばなかったら、ちょっと厨房に来ない? お菓子を作るのを手伝ってもらいたいの」
ソフィアが私たちに言う。こういう時には、何か大切な話がある時だ。私たちは黙って、ソフィアに付いていった。
「デュナミスはね。今、戦争の歴史を編纂しているの」
材料を計って器に取り分けながら、ソフィアが言った。《書き手》の子たちを外に出して、三人だけでお菓子を作る。
「一度ね、回避に向かった戦争だったんだけれど、新しい技術を手に入れたら、やっぱりそれを使って争い始めたのよ。もう二度と、こんな殺し合いなんかしないって、みんなで決めたことだったのに、もう誰もそんなこと、覚えてない」
私たちは、飾り付けに使う小さなお菓子を選ぶ手を止めて、悲しそうに眉を寄せるソフィアの顔を覗き込んだ。
「デュナミスは戦争が起こるたびに悲しんでいるわ。どうして、戦争を経てでしか、学べないことがあるのかって。自分がこうして、《レコード》を編纂してるから、余計になんでしょうね。《レコード》を読めば人目でわかることなのに、何でたくさんの人が命を落として、それが大切なことのように語られていくのかわからないって、いつも悩んでる。命は尊いし、亡くなった命も尊い真理を残された命の心に残すわ。それでもやっぱりね、命が奪われていく様は残酷で悲惨なものよ」
材料を混ぜるソフィアの手が止まる。私たちも、お菓子の缶や瓶を、机の上に戻し、型抜きは箱に戻す。
「でもきっと、マグナの言ったことで、彼の中で何か納得がいったんでしょう。少なくとも、出口の無い悩みからは、抜け出せたみたいよ!」
マグナは、どういう顔をして良いのかわからないと言いたげに下を向いたが、
「良いのよ。貴方は、大切な事を言ったわ。その心があるから、始まった戦争も終わるのよ。隣にいる人を大切に思う気持ちって、とっても大切だわ」
私もソフィアの意見に賛成した。マグナは、顔を赤くして、また型抜きを選び始める。
「良いことにも、悪いことにも使われるけれど、それでも、前の世界よりも確実に物事が変わったり、新しい事柄が生まれているから、私たちは、いつでも《レコード》の編纂作業を行っているのよ。未来を変える尊い力の証が改訂された《レコード》には詰まってる。だから、とても大切な作業なのね」
ソフィアはそう言うと、再び材料を混ぜ始めた。
三人で交互に材料を混ぜて、型を抜き、残った部分をつまみ食いした。なんでも無いいつものお菓子作りだったけれど、とっても楽しくて、つまみ食いしたお菓子は、今までのよりずっと美味しかった。
昼食の後、デュナミスには一番大きくて、立派に出来たお菓子をあげたら、何かを言おうとして、でも言葉にならないようだった。うつむいて、手を強く握りしめたあと、やっと、
「四人で分けような!」
と言ったので、四人で分けて食べた。みんなで分けて食べたお菓子は、つまみ食いした時よりも、もっともっと、美味しくて、忘れようがないような味がした。
私たちが、ソフィアたちみたいに《レコード》の編纂作業をするのは、もっと筆記具を使えるようになってかららしい。今はまだ、練習しているだけだけど、いつか、デュナミスが言ったような気持ちになるのだろうか。
「俺たちが今こうしてるのも、俺たちみたいな誰かに記録されてたりしてな」
昼食の後、私たちは庭に出ると、薔薇のアーチや青い丸石が敷き詰められた小道を通って、川傍の芝生に行き、マグナはそのまま芝生に横たり、私は傍に置かれた倒木にもたれて座る。
「誰か、私たちみたいな存在が、まだどこかにいるってこと?」
「そう。それで、この世界で起こっていることを記録してる」
「マグナがこっそりベッドの下に隠してるお菓子の袋の事とか、筆記具を落としてヒビを入れた事をソフィアに黙ってる事とか、読んじゃ駄目って言われてる過去の《レコード》を読みに行こうとしてみた事とか、それをソフィアに黙ってる事とか、昨日のお菓子、ソフィアに見つからないように一個多く食べた事とか?」
「嫌みな奴だなぁ、お前……」
「ごめんなさい。でも、全部事実よ?」
「全部ソフィアには言わないで!」
「言わないよ。ソフィアは怒ったら怖いもん。そんなの私も見たくない」
「でもお菓子の事は、デュナミスは見てたけど、ニヤってしてだけで、何も言わなかった」
「だって、デュナミスも一個多く取ってたもん」
「いつ見てたんだよ、お前は! 細かいなぁ!」
「ソフィアがちゃんと考えて取り分けてくれてるのに、多く取ろうとするのが悪い」
「美味しいんだから、仕方ないよ!」
少しだけ、沈黙が流れた。
「考えなれないことではないと思う」
「何が?」
「私たちの事を、他の誰かが記録してるってこと。でも、別に良いんじゃないかな。そういうの。少なくとも、記録されていても、そうでなくても、今の私たちには、変わりはないし」
「…………そんな風にして、デュナミスが編纂してる世界は、戦争をしてるんだろうか……。何したって、どうなったって、歴史は変わらないって、思ってるのかな……。だから、戦争なんかするのかな……」
マグナは、その事が引っかかっているらしかった。ソフィアもデュナミスも、考え方が変わったと言っていたが、マグナ本人の中では、自分の言ったことに対する、違う考えがくすぶっていたようだ。
「隣にいる人間が消えて欲しくないって思うから、消そうとして来る相手を殺して、それがずっと続いて行って、戦争になるのかもって思ったら、なんか、俺たちがみんなのことを大事に思うのも、いけないことなのかなと思って……」
「そんなこと考えてたんだ」
私は、マグナの顔を見て、それに気付いたマグナも私の顔を見上げる。
「ソフィアもデュナミスも言ってたじゃない。誰かに消えて欲しくなんかないって思いが争いを止めるんだって。誰にでも争ってしまう気持ちがあるけれど、こうやって、誰かを思う気持ちもあるから、止められるものもあるってこと。それを繋ぐために、選ばれた人が読む《レコード》には、すべてを一言一句間違わずに記入するんだよ。全部を伝えて、そして、生かしてもらうために」
マグナが驚いたような顔でこちらを見て、つぶやく。
「あ、そういう意味だったの、あれ……」
「わかってなかったの?」
「うん。ソフィアの話は、難しいんだ」
「ふふ。とにかく、マグナの答えは、戦争を終わらせても、始めるようなものじゃないよ。相手を大切に思う思いがあったら、戦争なんて始めない」
「そうか。……うん、わかった!」
隣にいる相手を大切に思う心は、デュナミスが言っていたような希望を生むのだろうか。まだ《レコード》の編纂をしたことがないから何とも言えないけれど、そうであって欲しいなと、私も心から願った。
「ところで、コレはどこで拾ったの?」
紙切れ自体は、今朝、私たちが朝食を食べている途中で、水面に現れた小さい《アルゴン》の群れを追い回しに行ったマグナが、追い回して得たに違いない輝石の欠片と一緒に、拾って来たものだ。
《恵みを与えよう。それは君たちが思う、一番よいもの。得るべきものを得るように》
【《得るべきものを得るように》って……、なんだろう?】
記されている文言から推理すれば良いのだとは思うけれど、内容が抽象的過ぎて、どれが答えに繋がる単語がなのかがわからない。
「拾ったのは、玄関前の長い回廊のとこ。それにさ、それ変な文章だよな」
マグナが、自分にも見せろと言いたげに、紙切れの端を引っ張る。
「そんなのわかってるわよ?」
と、言い返したが、マグナは仏頂面になって、こっちを見て言った。
「違うよ。文章の内容が変なのは俺にもわかってる。それじゃなくてさ。この文章、バランス悪いんだよ。ほら、下に空白がおかしいくらい空いてるだろ? なんか、《得るものを得るように》のあとに、まだなんか続くみたいじゃん」
それは私も思ったけれど、空きすぎている空白の部分には、何も書かれたような後もないし、紙にも仕掛けはされていなかった。
「昔の《レコード》の資料の一部?」
「それはないわね。書庫以外には持ち出さないもん。それに、編纂者が触って、綴られた資料は、例えそこから落ちてもまたもとの場所に自分から戻るようになってる。落とされっぱなしってのはないわ」
「古典的な仕掛けは?」
「その形跡もなかったわよ。誰かが新しく書いたものなんじゃない?」
私は、スカートのポケットから《常夜灯の石》の欠片を取り出したが、紙には何も映らない。
「これ、書きかけなんじゃないかしら」
「書きかけ?」
「そう。続きを書いてる時に時間が来て、書きかけのままどこかに挟んでいて、落っことした」
「回廊に?」
「今朝、朝食の前にそこを通った人」
「《書き手》の子たちも含めたら、いっぱいいる」
「含めなければ、少ない」
「というか一人!」
「デュナミス!」
徹夜で編纂作業をしていたデュナミスは、城の端にある第四書庫から朝食を摂るテラスに来るのに、一番近道な玄関前の回廊を通ったと思う。
《書き手》の子たちは、編纂者が指示した通りに原稿を書くことは出来るが、自分から文章を作り出したり、書面を箔押しで飾ったりは出来ない。
四人しかいない城の中で、落とし主を探すのは簡単だった。
「何のためにこんなの書いたんだろう?」
「わからない。でも、誰かに何かを送りたかったのよ」
「ソフィアに?」
「こんなのソフィアに渡したら、“子どもっぽい”って言って読まないわよ?」
「そうだなぁ……。じゃあ、俺たちに?」
「うーん……」
私たちの推理はそこで息詰まって、結局、デュナミス訊きに行って、推理通りにデュナミスのものだったら、謝って、紙切れを返すことになった。
読んでしまったことも、謎めいた文章に二人して浮かれてしまったことも、謝らなければならない。
「俺らじゃない、新しい誰かが書いたものだったら、面白いのにな」
「え?」
「編纂者の手はいつも足らない。俺たちも早く編纂が出来るようになれば良いけれど、もっと人数が増えても、それはそれで良いことじゃないか」
「そうね。仲間が増えるって、素敵かも……」
「何?」
「なんでもない」
新しい仲間と言われても、ちょっと想像がつかない。けれど、楽しい仲間が増えたら、それが一番、良いことな気もする。
私たちは、立ち上がると、デュナミスが作業をしている第四書庫に向かった。
「あの紙、俺が書いたことになってるような気がする……」
「あら。なら、それでよろしく!」
「君が書いたんだろう!?」
「そうだけど……。はぁ……、アルスが何か不安になるようなことを考えてなければ良いけれど……」
「そこは謝るよ。書き損じはすぐに処分してしまうんだった。資料に挟んでおけば、見つからないと思ったのに、参ったなぁ……」
「凝ったことなんかせず、素直に話せば良かったわね」
「本当だ。凝ったことなんて、考えなきゃ良かった」
デュナミスは、ペンを動かしながら、空を仰ぐ。
「素直に、今日が貴方たちの誕生日だって、教えに行きましょ」
「そうだな。」
ソフィアが立ち上がり、デュナミスから受け取った原稿と自分の分を重ねて、待機していた《書き手》に渡す。これから原稿は、製本専門の《書き手》の手に渡って、他の《書き手》が書いた原稿と一緒に《アカシックレコード》となるための作業に入る。
そこから先の事は、デュナミスたちも知らない。どんな原理で、紙から宇宙の真理が作られるのか、それはもう、この世界に《書き手》という存在を生みだし、送り込んで来る存在にしかわからない領域だ。
「自分たちが生まれた時のこと、まだ何も?」
庭に出るために、紺色の石で模様が描かれた回廊を行く。
「話してないわ。不思議なことだったし、二人には時が来たときに、話た方が良い気がして。幸い、二人とも健やかに育ってるわ」
「生まれたときから、《魂》や《愛情》を持っていた《書き手》は今までいなかった。不思議な存在だな、あの子たちは」
デュナミスも同様に、思い出しているようだ。
この世に、どんなに不思議な事が起こっても、それもまた、起こるべくして起こったこと。自分たちの世界の歴史に何が記され、何が希望の種となるかは、自分たちで見つけ、育てて行くのだ。
誰も反対はしない。尊いものを育む力。それは、誰の心にも生まれながらに備わっている。それを信じて使えることが出来たなら、それが一番、望まれた形のようだと、思わずにはいられない。
Ⅲ:Code * L♭ ~Order breakers~
建物沿いに植えられた銀杏の木々からは、赤ん坊の手のひらのような葉が、はらはらと落ちてくる。
給湯室で、沸き立てのお湯を注ぎ、落とさないように慎重に、けれど迅速に階段を駆け上がり、
「いっただっきまーす!!」
と歓声を上げると、青柳颯人は、出来上がったカップ麺の蓋を慎重に取って、満面の笑顔で、箸を割った。
器から湯気が立ち上って、黒縁眼鏡のレンズが曇る。髪をオレンジと金の間くらいの派手な色に染めた青柳の風貌は、学生と間違われるくらい幼い。けれど、本当の年齢は、もう二十代の半ばだ。
年齢を間違われるのは、きっと、その言動ににもあるのかもしれない。青柳は、中学生が受験中の夜食に心躍る様と同じな格好で、心不明瞭な視界も物ともせずに、火傷しに熱い醤油味のスープを喉に流し込んだ。
「あー! 生き返るわぁ……! 激務の後のとっておきの旨さは異常!」
満面の笑みで、もう一口すする。すると、入り口のスキャンスクリーンが人間の入室を告げ、二人の男が入って来た。
「盛り上がってるなぁ」
宮下薔一と白銀創は、口の端を上げて、それぞれコンビニと自販機で買って来た弁当とお茶を机に置くと、一人盛り上がってる青柳を面白そうに見下ろした。
「俺、このために生きてますから!」
青柳が勢い良く宣言すると、薔一たちは笑いながら、それぞれ空いた席に座った。
「たったその程度で、安い至福だな」
白銀はメタルフレームの眼鏡を外して机に置くと、ペットボトルのお茶の蓋を開ける。
「良いじゃないですかぁ、別にぃ……」
「それ、新商品?」
薔一の方は、上着を脱ぐのを忘れたために再び立ち上がると、袖から腕を抜きながら、青柳が置いたカップ麺の蓋を覗き込む。
「いいえ。新しいのもありましたけど、それよりもこの方が美味しいので!」
「へぇ。俺も久しくカップ麺は喰ってないなぁ」
上着を椅子の背に掛けると、薔一は飲み物よりも先に、弁当の蓋を開けた。
「腹が持たんからな」
白銀は、買ってきたものをビニール袋から出し始める。
「それは白銀さんが燃費悪いだけですよ。今日だって、どんなけ喰うんですか」
言われた白銀は、ビニール袋から、特大弁当とおにぎり2つ、総菜パンを3つ出して来ただけだったが、袋の中には、まだパンが2つとおにぎりが4つ残っている。
「このまま夜勤だから、夜の分も買ってきたんだ。寒くなって来たから、深夜に外には出たくない」
「だからって、それでも多いでしょ。どこに収まってるんすか」
「腹にだ」
「当たり前です! 俺が言ってるのは……」
「まぁ、白銀は頭脳労働もしてるからな」
薔一は、苦笑いで仲裁すると、自分の分の弁当を食べるために、箸を割った。
しばらく、三人とも何も言わずに食事を摂っていたが、不意に薔一の方から、白銀に問いかけた。
「一昨日のやつ、認めたのか?」
薔一からの問いに、白銀は一瞬箸を止めたが、何事も無かったかのように、また食べ物を口に運ぶと、
「まだだ。受け入れようとはしていない」
とだけ、答える。
「《裁決》は完全に決着したにか?」
薔一は、眉根を寄せて白銀を見ると、箸を置いた。
「ああ。不満なんだろう。下った結果に納得が行かないということだ」
白銀も、薔一を見る。
「ふざけた奴だ……」
「そうだな……」
青柳は大きなチャーシューを箸で摘むと、リスが木の実をかじるような動作で、むしゃむしゃと食べていく。
「すげぇな、そのチャーシュー……」
薔一は、わざと陽気な声を出しているような話し方で、青柳に言うと、青柳は口をモゴモゴさせながら笑い、チャーシューを飲み下し、
「でしょ? これが良いんですよ!」
と、まるでこのカップ麺を開発した人間のプレゼンか何かように、力強く宣言した。
薔一は、青柳の楽しそうな声に微笑み、白銀の方は、二つ目のおにぎりを食べたところで、青柳の顔を見つめて言った。
「喰う喜びがあるってのは、素晴らしいことだな。安いなんて言って悪かった」
言われた青柳の方は、きょとんとして、白銀の顔を凝視する。
「何だ?」
「いや……、白銀さんが謝るなんて、初めて見たから」
「そんなに俺は非常識人間だったか?」
心外だと言いたげに眉根を寄せる白銀に薔一が吹き出す。
「いや。と言うか、いつも白銀さんは、間違ったことなんか言わないから。いつも自信持ってて、変な事件も、胸くそ悪くなるようなことあっても、間違わないって言うか……」
言い淀む青柳から視線を離して、白銀は、椅子に座り直した。
「俺だって間違いは犯すさ……。間違いだって……」
言う途中で、白銀は言葉を切った。
「…………」
薔一も、箸を止めて、宙を見つめた。
「あの……、二人とも……?」
白銀と薔一は、共に小さくため息を吐くと、再び箸を持ち、食事を続けながら口を開いた。
「いや別に。それより喰ったらもう一度、桜河のところだ。気合い入れとけ」
「腹に力が入ってないと、上手く丸め込まれる」
「???」
白銀と薔一の態度の意味を青柳が知ったのは、昼食が終わって、仕事に戻った時だった。
「一課が、《裁定》を歪めたらしいぞ」
公務用の端末に不備を見つけて、庶務へ行くと、同じように何かの備品を申請しに来ていた他の課の人間が話しているのを聞いてしまった。
「歪めたってどういう事だ?」
「《裁定》は不正なんて出来ないぞ?」
聞かされた他の課の人間が、小声ではあるが、驚嘆の声をあげる。
「けれど、今回だった少女は、まだ目を覚まさないんだそうだ。なんでも、突入した時、既に少女の様子はおかしかったが、白銀裁定者が、事を断行したとか」
「本当なら、大問題だろ」
「ああ。少女の一生も無駄になるな」
その言葉を聞いて、青柳が体中の血が沸騰するような感覚を覚えたが、なんとか理性でそれを抑えると、乱暴に備品交換の手続きを済ませ、少女が治療を受けている医療棟へ向かった。
神が人類を作って、救世主による救済があってから、二千年。人類の社会には、《裁定》と言われる新しい仕組みが作られていた。
《裁定》と呼ばれるそれは、前時代の選挙と似ていて、現在の社会基準では犯罪とされていることでも、《裁定を仰ぐ》という形で計画を組み、その結果がもたらす道を神に委ねるという仕組みだ。
四度目の世界大戦の折り。泥沼の戦況を変えたのが、この方法だったのだ。
それぞれの国が、一国を滅ぼす兵器を保持し、敵からの脅威を祓おうと、同時に周囲の国めがけて兵器を使おうとして、一時、地球自体が再生出来ないほどに壊滅してしまうかもしれない事態を迎えた時だ。
国々は、兵器の発射ボタンを前にして、沈黙した。
誰が勝っても、どんなことが起こっても変わらない今の状況で、どの地域のどの部隊も、どの国も、争いを起こさない状態になったのだ。
誰もが、第六感を持って、確信していた。次に引き金を引いたら、自分が立っている地面から、自分たちは消えてしまう……、と。
世界大戦の火は次第に消え、今はもう、戦争など無縁の世界になっている。
その代わりに、《裁定》と《決定者》の制度が人間にもたらされた。
いつの頃からか、世界に対して、何かを問いたいものは、《裁定》を起こす者として目覚める、それと同時に起こされた《裁定》がどこで終結を迎えることにするのかを決める《決定者》も現れるようになった。
有事が起こった際には、《裁定》起こす側は自身の考えや行動の行く末を神に委ね、《決定者》は、神が決めた采配を地上で行う。
一人の人間の思いこみや、集団妄想の暴走から世界を守る方法が、高次元の存在からもたらされたのだ。
けれど、この二十年。《裁定》は、単なる反社会的行動の代名詞になり始め、その内容も、結果にも、疑問の声が上がるようになっていた。
一昨日の《裁定》も、何の滞りもなく終わるはずだったのだが、発端になった桜河透は、下った結果に納得が行かず、受け入れていない。《決定者》であった高校生は、結果が出たあと、ずっと眠り続けたままだった。
《裁定》が滞りなく終わらなかったケースは、過去にもあった。そのどれもが、《裁定》を起こした者には、何もなく、《決定者》になった者に負担が大きくかかってくる。
今まで、目覚めた者は誰もいない。一生を、生きたまま死んだそうに眠り続ける。
青柳は、早鐘のように鳴る心臓に息を乱して、少女が収容されている病室に入った。
「あ、鳴沢先生!」
青柳は、少女の主治医に駆け寄る。
「彼女は? やっぱり、目を覚まさないんですか?」
鳴沢医師は、隣にいた看護士に何か告げると、目の前に展開していたウィンドウを閉じて、青柳に向かい合った。
「それを聞いてどうする? それに、ここは病棟だぞ。静かにしろ」
「あ……。すみません……。俺……」
青柳は、鳴沢医師越しに、ベッドに眠る少女の顔を覗き込む。
目を閉じたまま、微動だにしない、少女の顔に、心が痛んだ。一昨日まで、《決定者》としての自分の運命に不安がってはいたものの、その他は普通の子だったのだ。
彼氏とお揃いのブレスレットを付け、友達とお揃いのテーマパークのキーホルダーを鞄につけていた。次の定期考査の出来を気にしてもいたし、早くそういう生活に戻りたいと、瞳を振るわせていた。
青柳たちは、《決定者》をいち早く見つけだし、《裁定》が厳粛に行われるのを守る仕事をしている。《裁決》が他の利権に利用されることがないように、監視し、余計な圧力が絡まないようにする。
そのセクションの責任者が、《裁定》に手を加えたりすることなどあり得ない。
「噂のことなら、俺も聞いている。取り乱すな。白銀たちの足を余計に引っ張ることになる」
「……はい」
うなだれて、後ずさる青柳の肩を、鳴沢医師が叩いた。
「彼女の体調はこっちに任せろ。お前は、今回の《裁定》の正当性を信じているんだ。でないと、悲しんでも、悲しみきれない人が、出ることになる……」
「はい!」
青柳は、もう一度、少女の顔を見た。
「必ず、目覚めさせてあげる。友達にも、恋人にも、会えるようになる。絶対、そうするから!」
そう言って、駆け出す青柳の背中を見送って、鳴沢医師は表情を消すと、眠り続ける少女を見た。
「君は、どう思う? これは、君自身が最後に迷ってしまったからでもあるんだよ?」
少女は何も答えない。ただこんこんと眠り続けるだけだった。
「桜河はなんて言ってるんです?」
「変わらない。自分の選択に絶対の自信を持っている。その上で、結果を飲まないんだ。≪裁定≫を、こちらが歪めたと思ってる」
「…………」
「どうした?」
「まさかその……。そこまで……、人を犠牲にしてまで、貫きたいものがあるってことなのかと思って……」
「迷うな、青柳」
薔一は、歩く速度をゆるめずに、青柳の一瞥した。
「例え《裁定》をやり直すことになっても、結果は変わらないんだ。一度出た結果は覆らない。決められた道は、進むだけだ。繰り返すことになっても、先と同じ事を繰り返し、犠牲になる人間が増えるだけ。そんな事態を防ぐのも、俺たちの仕事なんだ」
「はい……」
前を向き直し、青柳は薔一と共に、桜河との面会室に立つ。聴取の際の不測の事態を避けるために設置された、スキャンスクリーンの前で、青柳は、覚悟を決めて、拳を握りしめた。
「宮下さん。俺は、正しいとか、正しくないとか、そういうのはわからないです」
薔一は、黙って青柳を見つめる。青柳は、はっきりとした口調で、言い切った。
「でも、俺はやっぱり白銀さんを信じてるし、宮下さんの言葉もわかります。それに、あの子が眠ったままとか、それが一番おかしいと思う。彼女に、普通の生活に戻ってもらいたいし、彼女みたいな子たちや、それ以外の人たちが暮らしてるこの世の中を守りたいです!」
薔一は、青柳の目を見て、小さくうなづくと、面会室のドアを開けた。
【戻ってもらいたい。彼女たちの世界。その秩序を俺は守りたい】
誰にも言わず、静かに青柳は、そう決意した。
Ⅳ:本の世界樹
メル・ローゼスは、空を貫くばかりに天へと幹が延びる樅の木の下で、枝の先に宿った世界たちを眺めていた。
悲しく、暖かく、面白く、かわいい。怖い世界もあったけれど、そこで生きている人々は、皆、自分の命を力の限り生きていた。
「メルー。早くしなさぁい」
遠くで、姉たちが呼んでいる。
「はーい!」
メルは、自分の足首まで雪が積もった道を、転ばないように一歩一歩、しっかりと歩き出す。
石畳の道まで戻ってくると、輝石の装飾品で飾り付けられた商店が両脇に並ぶ中を、広場へと向かう。
姉たちの後からたどり着いた町の広場で、メルは空を見上げて、次の世界の欠片が降りて来るのを待っていた。
毎年、この日になると降ってくる、世界の欠片。同じ世界のものからでも、来るものがいつも変わる。それを取りこぼさずに受け取って、町の高台に聳える木に掛けていく。
「来なくなる世界もあるけれど、新しく生まれてくる世界も多いわね」
メルの隣で、パン屋の奥様がつぶやく。
「いつも受け取っている世界から、また欠片が届くと、安心するな」
お菓子屋さんのご主人は、受け取った世界の欠片を愛おし撫でた。
メルは、今度はシアンブルーに輝く世界の欠片を受け取って、高台へと向かった。
特別に市場が設けられた道は、甘いキャンディーや、チョコでコーティングされたパンにクッキー、大きな瓶いっぱいのジェリービーンズの香りで溢れている。
お菓子の店に混じって、鉱石で出来た天球儀のミニチュアや、スノードームのオルゴール、木と真鍮で出来た望遠鏡も売られている。
メルは、人々の間を縫って、石畳の道から、雪の山道へと進んで行った。
「メル。疲れてない?」
後ろから、姉のローラが追い付いてきて、メルウェザーの後ろを押してくれる。
「大丈夫よ。お姉ちゃん」
メルは、生まれたての赤ん坊を抱えているような気持ちに成っていた。冷たい空気からも、もし自分が転けてしまっても欠片だけは無傷であるように、両手でしっかりと包んで、そして、守りながら欠片を運んで行った。
木の前に立つと、先に着いた人たちが、木へと世界の欠片を放っているところだった。
欠片は運んできた者が木の前に立つと、自然に運んだ者の手を放れ、それぞれが木の枝へと導かれていく。ローラが運んでいた欠片も、もう一人の姉、フォンティーヌが運んでいた欠片も、二人の手を離れ、木へと流れて行く。
けれど、メルが運んで来たシアンブルーの欠片は、上手く木の方へと向かっていけないようだった。
「どうしたの?」
フォンティーヌが、メルの腕の中を覗き込む。
「欠片が、飛ばないの……。私、何かしてしまったのかな……」
メルの声が震え始めたのを見て、一番上のローラも駆け寄って来る。
「大丈夫よ。少しそばに行って、そして、手を貸して上げるの」
二人の姉に背中を押されて、メルは、人だかりから前に出ると、今まで見たことも無いような近い距離で、木を見上げた。
木の内側が目の前に広がっている。表に見えてるものだけでは無く、見えないところにも、たくさんの欠片が宿っている。
「ゆっくり差し出して」
ローラが促す。すると、お菓子屋のご主人が、「手を貸そう」と申し出て、メルを肩車した。
より、木に近いところで、メルは再び、欠片包む手から力を抜く。手の中で、不安定に揺れる欠片を、慎重に前に差し出すと、他の欠片に導かれるようにして、やっとシアンブルーの欠片は木の枝へと進み始め、木に宿る光の一部に成っていく。
「あの欠片が生まれた世界は、まだ怖い思いをしているの?」
姉たちに問いかけたメルに、ローラが答えた。
「そうかもしれないわね。それか、これから不安になるようなことが起こるのかも」
姉の言葉に、メルが黙っていると、お菓子屋のご主人が口を開いた。
「共に祈ろう。世界のために。ここに集った、すべての世界のために。我々はこうして、集ったのだ」
メルはお菓子屋のご主人の言葉に従って、目を閉じて祈りを捧げた。二人の姉も、それに習う。
「また来年。こうして、無事に世界の欠片を受け取り続けられたら良いな」
明日の朝には、世界の欠片は一つになって、朝陽と共に、空へと昇っていく。
それまで、樅の木の中で揺らめく世界の欠片は、響き合い、語り合うようにして、一つに成っていくのだ。それを見守るメルたちの心にも、静謐な空気が流れていく。
町は夜を通して、輝き、祈りを乗せて、世界の欠片を見守って行った。
Advent Glow Story
Ⅰ:※ ここに出てくるホラー小説は実在のものですが、作者が題名も原作者も忘れてしまったために、未だ探し出せずにいます。学生の時に学校の図書館で借りたものなので、母校に戻れば見つかるかもし れませんが、行く機会がなかなか無いのと、最近はどこもセキュリティが強いので、卒業生と言えど、気軽には母校には入れません……(笑)
※ 地元の人の言葉が標準語になってしまっているのは、作者がモデルにした場所の方言を忘れてしまったからです。夏にまた行くと思いますので、思い出せたら、修正いたします。
※ 月の音が聞こえるシーン等は、『天空の城ラピュタ』のサントラを聞きながら書きました。ですが、お読みになる際には、お好きなBGMをご想像下さい。