乱七八糟
Shangri-La
斉天大聖が日本人に倒された。
部下からその報告を聞いた時、男は何かの冗談だろうと思った。
そして、部下が嘘を言っていないことを確認すると「その日本人は、爆撃機を調達し上海を火の海にでもしたのか」と、冗談でなく思った。
その男……裏社会でその名を知らぬ者などいない超大物、タン・チュンチェンにそれだけのことを思わせる斉天大聖もまた、裏社会に名を知らしめる大物であった。
タンが中国語圏に持つ拠点は、東洋のラスベガスとも呼ばれるマカオだ。
同じ中国語圏の大都市である上海の裏社会を牛耳りつつある男‐‐斉天大聖の動向は逐一部下に調べさせていたが、タンはこの男に対し他の同業者とは違う点で注目をしていた。
それは、裏社会に蠢く集団のトップ自らが圧倒的‐‐いや、超常的とも言える武力を有しているという点だ。
斉天大聖。
本名は劉青林であることは調べがついている。
傘下の組織が運営する地下格闘技イベント・通称『テント』(その名の通りサーカス団が持っているような大きなテントの中で行われている。客は地域の一般庶民が多く、タンの傘下にあるアンダーグラウンドのそれとは比べるレベルにない)に、時折自らも出場し圧倒的強さを見せつけていたという。
強さの源流は、中国武術にある。陳という、所謂『達人』から手解きを受け、その技量は異能の域に達していると上海に送った部下から報告を受けていた。
重力の存在を忘れさせる身のこなし。
ほんのわずかに触れただけで、対戦相手を悶絶させ、昏倒させ、破壊する攻撃。
斉天大聖の名が表すように、幻想の物語の中から飛び出したとしか思えない戦いを観客達の前で披露をしていたのだ。
「これが、その日本人……」
部下の最初の報告から二日後。タンは斉天大聖を倒した日本人の詳細を手に入れた。
成嶋亮。例のテントで人気のあった格闘士で、あまりの強さで賭けが成立しなくなった頃に斉天大聖との試合が組まれ、敗北。その試合の最中に乱入した陳に師事するようになったという。
陳と斉天大聖は師弟であったが決別し、テントでの乱入事件を機にその遺恨が再燃。事件後に陳の拠点に殴り込んだ斉天大聖は陳を殺すも、成嶋亮に敗北を喫した。
成嶋はその後テントに復帰し、試合を重ねているという。
その地を牛耳る大物がいなくなったことで上海裏社会は混沌としつつあったが、斉天大聖傘下には独立性が強い組織が多く、テントの運営元もそうであった。そのため、タンの部下も情報を得るのに苦労はしなかったようだ。
やがて、タン・チュンチェンはその日本人の経歴に目を奪われる。
・番竜会空手の全国大会に門外漢でありながら初参戦で優勝。
・日本の表の格闘技イベントの中でも上り調子のリーサルファイトに参戦。デビュー戦でムエタイの強豪と戦い対戦相手の目を潰し無効試合に。
・リーサルファイト二戦目で中量級の身体でありながら重量級のエース・菅原直人と対決。敗北するも一時は菅原を追い込む場面もあった。
・格闘技の表舞台に出る前は、裏社会の組織に身を置きながらストリートファイトで連戦連勝を重ねていた。
・流派は空手。それを身に着けた場所は、少年院だという。
部下がまとめた資料の中で、成嶋亮が少年院に入るに至った事件についての一文が特にタンの目を引いた。
「親殺し……か」
当時日本社会を震撼させた、優等生の少年が白昼に両親を刺殺したという一大事件。
この事件を起こした少年――それが、成嶋亮だというのだ。
資料を読み終えたタンは、思った。
この男が、欲しいと。
この男が、アンダーグラウンドで戦う姿が見たいと。
「ナルシマリョウ……お前の『闇』が輝く場所は、ここにある」
最強の格闘技は何か?
空手、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ、散打、テコンドー、
柔道、少林寺拳法、中国拳法、日本拳法、古武道、サンボ、
合気道、相撲、アマチュアレスリング、プロレスリング、
ブラジリアン柔術、カポエイラ、ジークンドー、
多種ある格闘技がルール無しで戦った時……
スポーツではなく……
目付き金的ありの『喧嘩』で戦った時――
最強の格闘技は何か?
今現在、最強の格闘技は決まっていない。
SHAMEFUL
魔都・上海。この地の裏社会の大半を牛耳る斉天大聖を失い、界隈は荒れに荒れていた。
しかし、斉天大聖が成嶋亮と戦い命を落としたという真相を知っているのは、タン・チュンチェンと彼が上海に放った部下のみである。
今この上海に広まっているのは、「車での移動中に仕掛けられていた爆弾により死亡した」というタンの一派が流している偽の情報だ。これは亮が裏社会で命を狙われるリスクを回避するための措置であり、そのためタンは爆発した車と死体の用意までしており、情報操作のために金と手間を惜しみなく注ぎ込んでいる。
そんな中で、『テント』を運営する組織の長・李|《リー》は、組織と自らのこの先を斉天大聖がいなくなってからずっと案じていた。
幸い、テントの興行は滞りなく行えているが、後ろ盾を失った状態でどこまで続けられるかは不透明だ。
今日も斉天大聖傘下で李の組織と同程度の地位にある古参組織が壊滅したという情報が入ってきた。明日は我が身……そんな事が今日何度目だというくらいに頭が過ぎった時、そんな李の焦燥を晴らす材料が扉を開けて姿を見せた。
「ボス、早速ですが報告をよろしいでしょうか」
「よく戻った、張|《チャン》。例の件、大丈夫そうか?」
「はい。アポも、ウェン氏との事前準備も問題無くまとまりました。チケットの手配も済み、二日後には出発です」
切れ長の目をした細面、長髪を後ろで束ねた長身の男は、李の右腕として働く組織の副長・張である。髪を古臭い整髪剤で固めた低身長の肥満体の李とは対照的であり、二人はこの上海で凸凹コンビとしてある程度名を知られている。
張が持ってきたのは、ひと月ほど前から進んでいた李の組織の上海脱出の話だ。
斉天大聖という支配者を失ったことで、圧倒的暴力が押さえつける形での秩序が失われ、数多の暴力が生み出す混沌にある上海。李はこの地を捨てることに決めた。
テントは文字通り畳み、金をかき集めてアメリカという新天地に向かう。
斉天大聖の海外ルートの商売の一部を任されてもいた李は、そこで知り合った中国系アメリカ人のウェン・マックスを頼りにアメリカ裏社会で新たな商売を始めるのだ。
集めた金の半分近くをウェンに渡すことになる。
だが、新天地で自分はやり直せる。今更、表の世界で生きていけるとは思っていない。
ある程度秩序が保たれている場所なら、自分なら小賢しく、狡猾に生きていける。
魔都でのこれまでの経験は、元来小心者の李にそこまでの自負をさせるものがあった。
「まずは向こうで、ウェン氏を交えて現地の有力者との顔合わせです。向かうのは少数精鋭で、ボスと私と数名ですが……」
「待て待て、ボディガードの事はちゃんと考えているよな? ボディガードの数は、その『数名』とは別勘定だぞ?」
李は慌てた様子で張の説明を遮った。張はいつものことだなと思い、彼を安心させる材料を掲示することにする。
保身を第一に考えるこの生き方がこれまで彼を裏社会で生き残らせてきたのだろうとも、張はいつも思っている。
「当然考えていますよ。それについては、リョウを連れて行きましょう。あれの強さは別格。ボスもお分かりでしょう?」
自分の右腕を務める男の口から出た名前に、李は少し考え納得した表情を見せた。
反抗的、そして不気味、金にはうるさいが確かにテントでも大人気でそれに見合った実力を持っていた男が成嶋亮である。
李の知る限り、成嶋亮より強い男など、あの斉天大聖くらいしか考えられない。
テント出場のギャラを巡り何度も怒声を飛ばされ、手を上げられたことすらあったが確かに奴を連れて行けば大抵の悪漢・暴漢・修羅場は何とかしてくれるだろうと李は思った。
「わかった。亮にはお前から声をかけておいてくれ、どうせ面倒くさがるだろうから――」
「二試合分のギャラを渡す予定です」
李の言葉の途中で、張はさらりとそう述べた。
李は笑う。この右腕がいてよかった。
この男と共に、新天地で俺はまた成り上がる。いずれ、あのタン・チュンチェンのように裏社会を牛耳ろうと野望の炎をその心の内で燃やした。
二十時間を超す移動を終え、成嶋亮はアメリカの地に立っていた。
一晩宿で眠ったが、まだ身体は本調子ではないように感じている。
そのせいか、この世の全てを敵視しているような彼の目は、いつにも増して他者を近付けない殺気を放っている。
「全く……悪巧みをするにしたって、なんでこんな場所で」
「悪巧みをするからだ。周りに人が少ない方がいいに決まっている」
飛行機を降り、市街地のホテルを出てからまた長時間車に揺られ、亮はまた不満を口にした。張は落ち着いた口調でそんな亮をなだめた。
車が走るのは森林地帯。古くからあるわけでもなければ新興というわけでもない規模としても中途半端なリゾート地であり、今回李の組織が手を結ぶウェン・マックスの別荘がある場所だ。その別荘が今回の会合の場所に選ばれている。
会合は始まった。ウェンの別荘は上品なテラスを備えており、青空の下で中国料理とアメリカ料理を並べながら十数名の男達が言葉を交わしている。
「しかし、マーカス先生のお言葉はどれも私共の心に響きます! 心強い! いや、本当に心強い! いやあ、ウェンさん、ご紹介頂き本当に本当に感謝ですよ!」
李は満面の笑顔と大量の言葉で、テーブルの対面に座る男に媚を売っていた。
その男はマーカス・グランビル。体格の良い白人の男で、この州で州議会議員をしている。表向きは精力的な若手政治家として知られているが、裏ではこのようにアジア系裏社会と繋がっている。
「新たな夢に向かって歩き出そうという方を応援する……政治家の務めですよ。特に、アジアから海を渡りやってきた方達は不安も多いことでしょう。この私とウェン氏が表と裏でしっかり支えていければと考えています」
マーカスはそう言ってグラスのワインを傾ける。
自由と平等の国であるが、白人層以外が得ている自由と平等はまだ足りない。
マーカスは表でも裏でもそう主張しているが、彼が横や背後に並べる部下達は全て白人だった。
そんなマーカスの歪さを亮は既に感じ取っており、口元を歪める。あからさまに不機嫌な表情だ。
「……ほう。地下格闘技、ですか。おもしろい」
「マーカス先生はそちらの方面はどうですかな?」
「存在は知っているが、関わったことはないですね。興味が無いわけではありませんが……」
話は李が上海でやっていた『テント』の話題になる。
「ここにいる亮がそこでは敵無しでしてね。今回もボディガードとして連れてきているわけですよ」
李は得意げに自分の後ろに立つ亮を指さすが、亮はますます不機嫌の色を濃くする。
するとマーカスは今までとは違う笑みを見せた。
「格闘技なら、私の部下にも腕に覚えがあるのがいますよ。なあ、カーター?」
マーカスの声に、彼の背後に立つ者の中でも一際大柄な男が一歩前に出た。
「このカーターは、大学の後輩でもあるのですが、地下ではなく表の格闘技で活躍していた頃がありましてね。確か全勝だったよな?」
「昔の話です」
カーター・ライティ。大学レスリングで州代表にもなり、在学中から総合格闘技を始めて全米二位の団体と契約しプロデビュー。三戦三勝で将来有望とされていたが、交際相手との金銭トラブルから暴力沙汰を起こし団体からは契約解除。その後州議会議員になったばかりのマーカスに拾われたという経緯を持っている。
「ねえ、李さん。私は少し興味が出てしまいましたよ」
「はい?」
「あなたの『テント』で活躍していたリョー君と、私の部下のカーター。どちらが強いのでしょうか? どうでしょう、ここで親睦を深めるために試してみては」
マーカスの突然の申し出に李は狼狽する。
「なあに、遊びですよ、遊び」
「は? え、そ、それは……」
ここで頼りになるのは、右腕の張だ。言葉に詰まった所で李は彼の方を見ると、張は頷いた。
張はマーカスの腹の中を読んでいる。
(部下を使い、間接的に力の差を見せつける……か)
ウェンからの紹介もあったため、今狼狽している自分のボスよりも早くから張はこのマーカス・グランビルという男を知っているが、友好的な態度の裏にある黒いものは幾度も感じていた。
当然、白人層以外にも自由と平等をなどという美辞麗句を正面から信じていたわけではないが、まさか本格的に顔合わせをした一発目からこのように仕掛けてくるとは予想外だった。
ちらりとマーカスの方を見ると、目が合う。ニヤニヤと笑いながらこちらの返答を待っているようだった。
斜め後ろに立つ亮の方を振り向くと相変わらず不機嫌そうで、マーカスの方を睨んでいるように見えた。
マーカスの隣に座るウェンは平静を保っており、チーズをひとかけ口に放り込み追ってグラスの中のワインを飲み干した。
(なるほど、止めないか)
そんな風に周囲を一瞥した後、さらに腕時計を見て時刻を確認。
そして、少し呼吸してから張はこう口を開いた。
「いいじゃないですが、ボス。私も是非見てみたい」
「――なっ! ほ、本当か?」
李は自分の右腕が想定していたものとは違うことを言い出して、ますます焦りの表情を見せた。
「亮、三試合分の報酬を出す。頼む」
亮の反応を伺うより先に、金の事を伝えた。事情は知らないが、亮は何よりも金を欲しているということを張は知っている。
「てめえ、本当にそんなに出せるのか?」
「無論だ。なんなら、この会合が終わったらすぐに渡してもいい」
張の態度に、亮はこれ以上喰ってかかるのを止めた。
『テント』の人間とはこれまで試合に出ながらも何度か衝突はしたが、この張だけは約束を違えたことはなかったからだ。
日本にいた頃から裏社会の人間とつるんできた亮の嗅覚が「金と契約については裏切らない」と、この張に対しては判断させた。
だから、了承する。
「わかったよ。やってやる」
それに金だけではない、戦ってもいいという理由が彼の中に生まれていた。
マーカス達の態度は、亮が今日募らせた不機嫌の原因の何割かを占めていたことが主な理由である。
亮とカーターはテラスから降り、芝生の前で向かい合う。
その対格差は歴然だった。百七十二センチ・体重は七十キロ前後の亮に対し、カーターは身長で十センチ以上、体重では二十キロ程度は上回っていた。
その二人の姿を見比べて、マーカスはますます愉快そうだった。
「先ほども言いましたが、これはお遊びです。別に殺し合いをさせるわけではありません。勝負は当然素手で、表の格闘技と同様に目突き、金的、噛みつきは無しにしようと思いますが……」
マーカスは立ち上がり、亮達に向かって声をかけた。
「リョー君! 他に禁止事項を決めたかったら、君から言っていいぞ?
なあ、カーター?」
「当然です」
カーターも笑顔を見せた。自分が目の前の東洋人と戦って不覚をとることは間違いなくないと自信を持っていた。
そして何よりも、この相手を見下していたのだ。
当の亮は目の前の相手とその雇い主に対し、こう返した。
「そうだな。じゃあ、これだけは禁止にさせてくれ」
「おお、何でも言ってごらん?」
カーターを指さし、マーカスの方を見据え、亮はこう言った。
「あんたも、あんたの部下も、負けた時の言い訳は禁止な」
小柄な東洋人のその言葉に、二人の表情から笑みが消える。
そして、それまで不機嫌な表情しか見せていなかった東洋人が初めて笑顔を見せたその瞬間が、戦闘開始の合図となった。
カーターの狙いは圧倒的対格差を活かしての組み付きからのパウンドだ。
技術よりも力でねじ伏せ、圧倒的有利な体勢から殴りつけて勝利を決める。
――そのつもりだったが、カーターが亮を捕えることは一向にできなかった。
タックルを仕掛けたり掴みかかろうとするも、どれも最小限の動きで避けられる。パンチを振り回しても同様で、全く当たらない。
カーターの息が荒れる。表情に焦りが見え始める。
一方で、亮は涼しい表情で攻め込む敵をいなし続ける。
「カーター! 何をやっている!」
ついにはマーカスが声を張り上げた。
本来ならば今頃、部下が生意気な東洋人を叩き潰している光景が目に入っていたはず。
それなのに――
次の瞬間には、部下が東洋人に転がされる光景を見ることになっていた。
「アガッ! アァッ!」
雇い主の怒りに更なる焦りを見せたカーターは、決死の形相で亮の喉のあたりを掴もうと接近する。
亮はそれに対して身を低くし回避。そのまま、突き上げるようにしてカーターの顎に頭突きを喰らわせた。
そして、よろけたカーターに足払いを決めたのだった。
転倒する巨体の男。
それを見下ろす小柄な男。
「フゥ……フッ!」
小柄な男――成嶋亮は、息を少しだけ整えると、この勝負における最後の一撃を見舞った。
仰向けに転がった状態から起き上がらんとするカーターの顔面に、下段後ろ回し蹴り。
この一撃でカーターは鼻骨を粉砕骨折。意識が飛びかけるも、顔の中央に発生した激烈な痛みがそれを許さなかった。
だが、意識の代わりに失ったものがある。
それは、戦意であった。
この場にいた一同は、それぞれ違う事情で言葉を発さずにいた。
亮は、決着を告げる声が聞こえてこないのなら追撃をするかと思案していた。
カーターは、戦いを止める合図をテラスにいる雇い主に求めていた。
その雇い主であるマーカスは、自身が持ちかけた勝負に部下が敗北した事実に羞恥と怒りが織り交ざった劇場に駆られていた。
マーカスの横で観戦をしていた李はとにかく気まずそうな面持ちだ。
ウェンは、この場を丸く収める役目は自分に回ってくると察し面倒なことになったなと空を仰いだ。
張は意外なことに、我関せずといった様子で腕時計を見ていた。
「おい、もういいだ――」
亮が呆れ気味に声を上げたその時、エンジン音が割って入る。
現れたのは小型のトラックで、テラスの近くで止まった。
「おや、もう注文が届いたのか」
ウェンはそのトラックを見慣れていた。
この地域の別荘に電話一本で希望の酒や食料を届ける業者があり、部下がこの会合のために追加の注文をしたのだろうとウェンは察した。
ウェンは部下に目配せをし、品物の受け取りをするように促すが部下達は困惑する。
ここ一時間、誰も業者に注文をした覚えがないからだ。
車のドアが開くと、そこから現れたのは黒づくめで、目深にニットキャップを被った二人組の男だった。
「――まさかッ!」
ウェンは、咄嗟に部下に指示を出そうとしたが、遅かった。
車に一番近づいていたウェンの部下が、パンッという乾いた音の直後に倒れる。
車の中から姿を見せた男達による、銃撃である。
続く二発目、三発目の銃声でウェンの部下がもう一人、そしてマーカスの部下も一人、身構える前に銃弾が頭部に入り込み即死する。
「うあああ!」
亮の傍らで倒れていたカーターは立ち上がり、雄叫びを発し、黒づくめの二人に駆け寄る。
「亮、逃げろ!」
次にこの現場で声を荒げたのは張だ。自身は席を立ち李の下へ駆け寄ると、彼の腕を引っ張りこの場を離れようとした。
そうこうしているうちに、ニットキャップの男達に駆け寄ったカーターの頭に銃弾が命中する。吹き飛んだカーターの一部が亮に付着した。
「チッ!」
亮は舌打ちと共に駆け出す。一瞬応戦するかと頭に浮かんだが、先程まで戦っていた男の死に触れたのと、張の声が耳に入ったことで、この場を離れることを選択した。
残ったウェン、カーターの部下が銃で応戦を始めると、トラックの荷台が開き黒づくめの男がまた新たに姿を見せた。当然その手には銃が握られており、それは銃撃戦の激しさが増すことを意味した。
「グゥッ! ウグッ……」
マーカスは左肩に被弾。部下数名が彼の前に立ち、更なる被弾を防ぐ盾となる。
一方、既に多くの部下を失ったウェンだったが、最側近である部下――既にあの世に旅立ったカーターに負けず劣らずの体格を持った男が状況を変えた。
片腕で抱え上げた仲間の死体を盾に、銃で応戦しながら黒づくめの男達へと突撃する。
一番近くにいたニットキャップの男に仲間の死体を投げつけ、倒れた頭に銃弾を撃ち込む。
続けざまにその隣にいた男の頭部に強烈な蹴りを見舞う。鉄板入りの靴は、男の現役時代に得意としたハイキックの威力を一撃で絶命させるまでに増大させた。
男の名は、ジュンイチ・ジェラード。日系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の間に生まれた元プロキックボクサーだ。活躍していた団体ではヘビー級のチャンピオンだったが、キックボクシングの人気が低いアメリカでは将来が見出せず、やがて裏社会に身を落とし現在に至る。
「……恐らくそんな彼|《ジェラード》のおかげもあって、我々は何とか逃げ延びたわけですね」
亮、李が後部座席に座る車内。張は運転をしながら説明をした。
「張! そんなことはどうでもいい! これからどうするんだ? それにあいつらは何なんだ? マーカス氏との仕事は?」
「――奴らはウェン氏の商売敵の可能性が高いですね。とはいえ、まさかマーカス氏もいたあの場面で襲撃を受けるとは……」
ここで亮の怒声が車内に響く。
「オイッ! 俺はさっさと日本に帰りてえんだ! そこら辺はどうなってんだ?」
「亮、そしてボスも、落ち着いて聞いてください。これまでアメリカに出張した時に使っていたアジトがあります。まずはそこに行って、今後については考えましょう」
張はそのまま約数時間二人をなだめながら運転を続け、郊外のアパートの前にたどり着くと、車を停めた。
モノノケダンス
そこは五階建ての古めかしいレンガ造りのアパートだった。そのうちの四階のワンフロアを丸ごと李の組織がアメリカでの拠点として使用していた。六部屋あるうちの半分は倉庫になっており、残りの部屋を三人が一部屋ずつ使用することにした。
「おっしゃる通りですね。カナダルートで一旦上海に戻るのが最善です。さすがボスだ」
「は、早く! 準備ができたら早く出るぞ!」
「はい、カナダからの連絡が入ればすぐにでも……」
李と張は、アメリカ脱出と今後の話をしていた。
張が行っていたアメリカでの商売で得たコネを使い、カナダを経由して上海に逃げる方法を取ることに決めた。これだけでも相当な出費だし、ウェンと進めていた話も白紙となったことは火を見るより明らかだ。
李の組織の懐の状態は、上海に残した僅かな金と李の隠し口座の金だけという危機的な状況に陥っているが、李はまずは身の安全が一番だという結論を出した。斉天大聖亡き後に混沌とする上海ではあるが、それでも頼るものがほぼなくなってしまった状態のアメリカよりはマシという結論である。
「さて、また亮をなだめなきゃいけないんで、少し失礼します」
「わかった。さっ、さっさと戻ってこいよ!」
李との長い話し合いと、それまでの長時間の運転で張はさすがに疲れの色が顔に出ていたが、ドアを出て数歩のところでかかってきた電話にひとり笑顔を見せた。
そして、踵を返す。
「おや、やけに早かったな張。いや、早いのは結構なことなんだが……まさか、もう準備が?」
「はい。一切、抜かりなく」
張の言葉に、李は満面の笑みを見せる。
「そうかそうか! そういえば、車のガソリンは大丈夫か? それに――」
「いえ、車の心配はありません。そもそも、もう乗る必要が無くなりましたから」
興奮気味な李を制しつつ、張はジャケットの内ポケットに手を伸ばした。
「ん? 車以外でカナダに?」
「向かうのは、カナダよりもずっと安全な場所ですよ。
――李さん」
「へ?」
張が取り出したのは、サイレンサー付きの拳銃。
その銃口が向けられたのは、彼の雇い主・李の眉間であった。
李が状況を飲み込むより先に、眉間に銃弾が吸い込まれる。李の肥満体が倒れると、張は表情を変えることなく残りの弾を李の身体に撃ち込んだ。
「ふう……」
弾切れとなった拳銃をベッドの上に放り投げると、電話を取り出し操作を始める。
張が仕える真の雇い主への報告の電話だ。
「ボス、終わりました」
「ご苦労」
電話の先にいた声の主は、タン・チュンチェンだった。
ご存じ、このアメリカや、そしてマカオなど世界を股にかける裏社会の超大物である。
「先に言っておくが、李の隠し口座の金はお前に預ける。次の仕事で何か入用があれば、そこから使え。残りは小遣いにやる」
「もう次の仕事が決まっているんですね。参ったな……」
「そう言うな。今度は『針』のように時間のかかるモノじゃないから安心しろ」
『針』とは、中国系裏社会で使われている言葉だ。簡単に言えばスパイのようなものだが、『針』は潜入した組織に深く入り込み、その組織で重要なポストに就くこともしばしばある。
潜入先の組織にとっては抜ければ組織が崩れかねない「しつけ針」であり、本来の持ち主からすれば動き次第で狙った相手に致命傷を与える「毒針」でもあるのだ。
「承知しました。それでは、ボスはこれからいよいよお目当ての観戦ですよね。存分にお楽しみください。私も配置につきます」
そうして張は携帯を切りアパートから離れる。
途中、黒服の男達とすれ違うが、その中に二人ほど尋常ならざる雰囲気を纏った者がいることに気付いた。
(なるほど、これが格闘士……『テント』で戦っていた連中とは比べ物にならないな)
小柄なアジア系の男と、大柄な隻眼の男。
その二人はアパートの階段をゆっくりと上がっていった。
成嶋亮は部屋で苛立ちを抑えることに努めていた。
李の組織からもらう最後の金のため、アメリカにまで来た。だが、揉めごとに巻き込まれ、それどころではない状況。偽造パスポートで入国をしてそのパスポートも張に預けている状態だ。
身動きは取れない。張に頼らざるを得ない。
そう考えると、張に暴力を振るってでも自分だけアメリカを出国できるようにするべきかとも頭に浮かぶ。
だが、裏社会の揉め事に巻き込まれた以上は張も下手には動けないのかもしれないと考えてもしまう。最悪、張が死んだり捕まったりでもすれば出国の可能性は限りなくゼロに近くなるというのが、亮の抱える最大の懸念事項だ。
「クソッ!」
亮はベッドに身を置き、今度は日本にいる妹のことを思う。
『テント』で稼いだ金は上海を発つ時に送金できたが、それ以上をもっと……既に前金でもらっている、このアメリカでのボディガードの仕事で得た分を足せば、いくらか……
無事日本に戻れた時のことまで考えが及んだ時、ドアをノックする音が聞こえた。
亮は飛び起きる。
張ならノックの後にすぐ名乗るはず。
李ならノックをしながら俺の名前を呼ぶはず。
だが、今は三回のノックの途中とその後、人の声らしきものは聞こえなかったのだ。
――亮は、身構えた。
アメリカ某所。
大量のモニターの前で、蝶ネクタイを着用した長髪の男がマイクを手に立っていた。
「みなさま! 突然のご連絡で大変に申し訳ございませんでした。
しかし、お時間を頂いたことを決して後悔はさせません!
これからのアンダーグラウンドを彩る逸材のお披露目になります!」
男の名前はアーサー・シロタ。タン・チュンチェンが出資する巨大地下格闘技イベント『アンダーグラウンド』の司会を務める男だ。
「あらかじめお断りをさせて頂きますが、今回の試合……いえ、試合とは呼ばないのが相応しいのかもしれません! そして、この一戦は賭けの対象にはならず観戦のみをお楽しみ頂く形になります」
モニターが密集する方に向かってシロタは大げさに一礼をした。
「本日会員のみなさまに御覧頂くのは、我らがアンダーグラウンドに『ある男』を迎え入れるセレモニーでございます! 少々手荒な方法――暴力を用いての捕獲劇になりますね。いや、むしろ、みなさまはそれが見たいのでございましょう?」
芝居がかった口調でまくしたてるシロタに、モニターの向こうのアンダーグラウンド会員達は笑みを見せる。
「さて、そんな舞台はここになります」
大型のモニターに映し出されたのは、四階建ての建物。
レンガ造りの古めかしいアパートだった。
「今回の獲物は、現在この建物の最上階、一番奥の部屋にいる模様です」
そこで、モニターは室内に切り替わった。
画面には一人の小柄な東洋人が映っている。
「この男の名は、成嶋亮といいます」
シロタは先ほどまでとは打って変わって、声のトーンを落とし訥々と語り始めた。
「それは、ある夏の昼下がりのことでした。
当時十六歳の少年Aは……両親をナイフで滅多刺しにし、殺害しました。
周囲では優等生として知られ、何の問題もない少年だったそうです。
少年の母国・日本の全土が震撼したその事件の加害者……彼は少年院で空手を習得し、出所後は裏社会に身を落とし暴力を振るい生きて行きます」
ここで大型モニターの画面が、東京ドームで行われたある試合の映像に切り替わる。
「しかしそんな彼は、光ある世界に足を踏み入れます。
裏の社会で振るってきた空手の技を、リーサルファイトの英雄・菅原直人相手に試すことになったのです。
ヘビー級の菅原に立ち向かう元少年Aの身体は中量級で、あまりにも無謀な挑戦。彼が日本中に注目されることになった、二度目の事件となりました」
シロタの口上にアンダーグラウンドの会員達は興味津々な様子だ。
「激戦の末に敗れた元少年Aでしたが、その後に彼は再び裏の世界――それも魔都・上海の地下格闘技で活躍をします。それはもう破竹の勢いでございました。そうして――」
画面は再び切り替わる。上海の夜景、地下格闘技のイメージ映像、そして最後に映し出されたのが京劇に用いられる面だ。
「中国裏社会に住まう怪物! あの斉天大聖を倒すまでに至ったのです!」
会員達はざわつく。裏の世界を知る彼らにとって、上海で頭角を現していた斉天大聖の名は有名である。
シロタはその反応に対し、笑いを必至に抑えた。
「そう! その彼こそが! 元少年Aが! この成嶋亮なのです!
この度、アンダーグラウンドは光と闇を行き来してきたこの異形の傑物を、格闘士として迎え入れることに決まりました!」
会員達は歓声を上げる。そして再び画面は切り替わった。
「実はこの成嶋亮ですが、まだ我らアンダーグラウンドの存在を知りません! つまりは本人の承諾を得ずの加入となるわけですから、先ほど申し上げた通り、少々手荒な方法を使うことになってしまいますね。
ご想像の通り、この成嶋亮は相当に凶暴な男です。関係者がこちらのアメリカ郊外のアパートに亮を滞在させていますが、ここから身柄を拘束しアンダーグラウンドで試合をさせるには骨が折れることでしょう!」
「ん? もしかしてあいつは?」
会員の1人が、画面の中に現れた新たな人物に気付く。
「はいっ! 凶暴な成嶋亮の捕獲に、今回はアンダーグラウンド格闘士二名を起用しました! その豪華な面子がこちらです!」
会員達は再びの大歓声。
男が二人、アパートの廊下に立っている。
手前の男は、バンダナを頭に空いた小柄なアジア系の男。腰には大型のナイフをぶら下げている。
「みなさまお馴染みのC級格闘士! BBこと、バルトロメウス・バッツドルフ! ナイフ携行での登場でございます!」
『元』最強のグルカ兵、バルトロメウス・バッツドルフ。訳あってこれまでの経歴を抹消しアンダーグラウンドに身を置くことになったこの男は、これから行う戦いを前に、極めて冷静な面持ちだった。
BBより奥に立つのは、彼よりも幾分体格が良い男。
黒い革製の眼帯で左目を覆っており、BBとは対照的に不敵な笑みを浮かべている。
「さあ、こちらも要注目! デビュー戦で見事な勝利を飾り、異例のペースで試合をこなし三連勝中! ブラッド・ウェガリーがこのスペシャルイベントに登場です!」
世界の戦場を股にかけた傭兵にして、表の格闘技の舞台に姿を現したこともある強者だ。
ブラジル、グランシエーロ一族が主催する『ヴァーリ・トゥード』のトーナメントに出場し、反則である目突きや暗器による攻撃を振るう暴挙に出たことは、見た者に強烈な印象を残した。
トーナメント後の消息は不明だったが、アンダーグラウンド会員の知人を通じ、格闘士となっていた。その知人がウェガリーに賭けて得た金の三分の一を貰うという契約で、デビュー戦では元マフィアの用心棒を相手に勝利を収めた。
「殺し以外の技術も確かなこの二名ですが、果たして成嶋亮を捕えることができるのでしょうか? それでは参りましょう!」
シロタは今日一番の気合を込め、声を張り上げる。
「アンダーグラウンド特別戦……
設定ッ! 『水曜スペシャル! 幻の少年Aを捕獲せよ!』
おおっと! そうこうしているうちに、地獄よりの使者二名が今、獣が潜む部屋の前に立ちました!」
ドアのノックから十数秒。
亮は警戒を緩めずに部屋の中のあるものを手にする。
この部屋にはベッド以外の家具は冷蔵庫とサイドテーブル以外は何もないが、そのサイドテーブルの上に置かれた刃渡り二十センチほどのナイフを手にした。
張に用意をさせた護身用の道具である。
ナイフを握り再びドアの方を注視すると、ノブが回る音がした。
(鍵はかかっているはずだが……)
ガチャっという金属音の直後、強烈な衝撃音がした。
ウェガリーが蹴りを打ち込み、ドアが部屋の中に勢いよく吹き飛んでくる。
それと同時にBBが身を低くして侵入。腰のナイフを抜き、切っ先を亮の方に向け動きを止める。
「誰だテメェっ!」
亮もナイフの切っ先を向け、怒声を上げる。BBは答えない。
これも、あの別荘地で起きた銃撃戦の延長かと亮は一瞬思ったが、目の前に現れた男の雰囲気から違うと察する。
この男、ただの組織の構成員ではない。
ナイフを構えた姿の隙の無さが、相当な戦闘経験があるに違いないと確信させる。
そしてそのナイフも問題だ。湾曲した巨大な刀身――ククリナイフ――は、亮の手にするナイフの倍以上はある。
「悪者を捕まえにきた正義のヒーローってところかな?」
そんな軽口と共に、ウェガリーが部屋に足を踏み入れた。
相変わらずの不敵な笑みだが、その目は亮をしっかりと捉えている。
そして、亮はこの男もまた強者であることが直感でわかった。
(こいつは丸腰か……)
二人の正体のことよりも、この場を切り抜けることを亮の思考は優先していた。後から入ってきたウェガリーのことを把握しようと意識がそちらに向いた時、ナイフを構えていたBBが距離を少し詰めてきた。
「クッ!」
亮はBBの方に構えるも、今度はウェガリーが動く。
腰のベルトを一瞬で引き抜き、鞭のように振るう。狙いは亮の手元のナイフで、ベルトの金具部分が亮の手に直撃しナイフが零れ落ちた。
BBはそこから一気に攻め込もうとするが――
(ッッ!)
亮はベッドに向かって跳躍。そのまま着地すると、ベッドのスプリングの反発を利用し再び跳んだ。
その先にはウェガリーが立っており、亮はスーパーマンパンチの要領でウェガリーの顔面に拳を打ち込もうとする。
「猿かコイツは!」
そこは百戦錬磨のウェガリー。咄嗟に回避し着地した亮に膝蹴りを飛ばす。
だが、亮は飛んでくる膝頭を押さえつつもう片方の手をウェガリーの顔面に伸ばした。狙いは、隻眼のウェガリーに残された右の目である。
肘による打撃を振るい亮を引き離すウェガリー。
「まだまだ人生楽しみたいんでね。残った目を渡すわけにはいかない」
ウェガリーはまた笑うが、背筋に冷たいものを感じていた。
一瞬の攻防で自分とBBの獲物になっているこの男は、普通の格闘家ではないということがわかったからだ。
数多の戦場を生き抜き、無類の『勘』の鋭さを得たウェガリーだったが、その勘が成嶋亮の危険さを存分に伝えていた。
(やれやれ、またも小柄な日本人かよ……)
既にベルトは手から落ちており、アップライトに構える。
リーチの差を活かしての打撃戦で削る、もしくは打撃から組み伏せる。
ウェガリーでなくてもそのようにシミュレーションをしそうだが、先ほどのような三次元的な動きで狙いは崩される可能性がある。
(ならば最大の武器を上手く活用。これに尽きるな)
ウェガリーは踵を鳴らす。
すると、ナイフを構えていたBBが腰を深く落とした。
ウェガリーにとって、今ある最大の武器は相方の存在だ。
その武器を有効に使うため、この戦いの前にいくつかの合図を決めていた。
踵を鳴らすのは、オレ(ウェガリー)が相手の回避行動を促す攻撃を放つから、BBがそこに追撃をしろという合図だ。
当然、亮は二人が連携で仕掛けてくるということは予測している。
リーチのある隻眼の男と、強力な武器を手にしたバンダナの男。
こちらは得物を手元から失い丸腰で、相当に不利な状況だ。
だが、不利な状況には慣れている。
少年院でも、
リーサルファイトでも、
中国でも、
自分が有利な状況など皆無に等しかった。
それでも、生き延びてきた。生き残ってきた。
成嶋亮の生存本能が今、戦場を経験してきた二人の強者相手に炸裂する。
(リーチの差を埋める――武器ッ!)
亮はウェガリーが攻め込むより先に動いた。でんぐり返しのように身を転がして向かった先には、サイドテーブルがあった。
四角い木製の板を鉄製の四つの脚が支えるサイドテーブルの上にはもう何も置かれていなかったが、問題はない。亮はテーブルの脚を掴み、持ち上げた。
新たな武器を得て、リーチの差を埋めた瞬間である。
ウェガリーの表情から笑みは消えていた。が、構わず亮に前蹴りを放つ。
その程度の物を手にしたところで、支障はないと判断したからだ。
亮は獲物では受けずに蹴りを回避。しかし、その横にはナイフを手にしたBBが迫っていた。
「――フゥッ!」
回避動作と連動し、テーブルの脚を両手で持っていた亮はBBにそれをフルスイングした。
金属と金属がぶつかる音が部屋に響く。
BBはナイフを振るいサイドテーブルによる打撃を迎撃したのだ。
ククリナイフのような大型のナイフだからこそ可能な芸当である。
亮はサイドテーブルを片手持ちに変更。バックハンドブローのような動きでBBに二撃目を見舞う。
そこに割って入ったのがウェガリーだった。
がら空きの亮の脇腹にミドルキックを見事に命中させる。
「グゥ……」
BBはナイフでサイドテーブルを弾き飛ばし、亮の手からそれを落とすことに成功した。
このまま身柄を拘束すべきと判断をしたウェガリー。指を鳴らし、捕獲にかかろうと相方に告げる。
ウェガリーはもう一度亮に蹴りを見舞い、BBに目配せする。
するとBBはナイフを納め、ポケットに手を突っ込み別の物を取り出した。
結束バンドである。
アンダーグラウンド製の、対人用に作られたバンドはヘビー級の格闘家でも千切ることを許さない強靭さを誇る。
亮の手足がこれによって拘束された時が、今回のアンダーグラウンド特別戦決着の合図となっている。
ウェガリーは意識を完全に飛ばしてからの拘束を狙っており、亮の頭部にパンチを振るう。ダメージはありながらも亮はそれを捌くが、そこにBBが脚部への蹴りを見舞う。
「おおっと! これは成嶋亮、業界用語でいうところの『フルボッコ』だあ!
もはやイジメであります! これはひどい!」
シロタは心底愉快そうに実況をしている。
観戦中の会員達も笑うが、二人相手ならしょうがないという評価だ。
しかし、シロタも、会員達も、そしてブラッド・ウェガリーもバルトロメウス・バッツドルフも知らなかった。
成嶋亮という男は、どんなに追い込まれても心が折れることはないということを。
成嶋亮は、ここからが強い。
ウェガリーが再びパンチを叩き込もうとした時、亮の目がキッとウェガリーを睨んだ。
向かってくる拳に額をぶつけに行く亮。
狙いは成功。次の瞬間には、ウェガリーが苦悶の表情を浮かべていた。
「ハァッ!」
亮はウェガリーの腹に前蹴りをぶち込み、続けざまに手刀をBBに見舞う。
BBは両腕でガードをするも、その後亮とは距離が生まれてしまった。
その隙に亮は落としてしまっていたサイドテーブルを拾い上げ、BBを追撃する。
手から結束バンドを捨てたBBは電光石火の速さでナイフを再び抜き、亮の攻撃を受け止める。
部屋にはまたも金属同士が激突する音が響いた。
一方、拳の痛みと共にウェガリーは自身への怒りで顔を歪めていた。
二対一という優位な状況で、確実に気が緩んでいた。
戦場ではどんな場合でもそのようなことは許されない。
誰よりもそのことを知っている自分が、気を緩ませて余計なダメージを許してしまった。
この失態を取り戻すため、ウェガリーは気を引き締め成嶋亮との決着に臨む。
アンダーグラウンド主催からは成嶋亮捕獲にあたり、殺すのはもちろんのこと回復不能な傷を負わせるなとも命じられた。
しかし、それが許されるほど甘い相手ではないと判断する。
幸い、拳を痛めはしたが骨は折れてはいない。再び構え直し、BBと獲物同士の打ち合いをしている成嶋亮を見据える。
亮の蹴りがBBの右の膝関節を打ち抜いた。
続け様に亮はサイドテーブルを下から上へ突き上げるような一撃を見舞う。ナイフで受け止めたBBであったが、反撃しようとすると突然相手の押してくる力が消えたのを感じる。
不覚。
亮は、獲物を手から放し部屋の外へと駆け出していたのだ。
(膝への攻撃は追う足を潰すためか)
移動に支障はないことを確認するBBだったが、まずは相方に目配せをした。
「上等、すぐに決めてやる」
ウェガリーはすぐさま亮を追う。BBもそれに続くが、既に亮は廊下に出ていた。
廊下を走り階段へと向かう亮に、ウェガリーはある物を投げた。
「グッ!」
それは、亮がこの戦いで最初に用いたナイフだった。ウェガリーは亮が部屋を飛び出た次の瞬間にはそれを拾い上げていたのだ。
ナイフは亮の左のふくらはぎを掠めるが、亮は構わず階段へと向かう。
しかし、そこで――
「ガハッ……!」
階段の一段目に足をかけようとした瞬間、亮の動きが見えざる何かに阻まれた。走っていたところを、首元に何かを叩きつけられたような衝撃に襲われたのだ。
その正体はウェガリー愛用のワイヤーだった。
〇・三ミリの細さでありながら百五十キロの重さにも耐えられる特殊タングステンワイヤーは、よく目をこらさなければ視認することは難しく、後ろの追っ手を気にしている最中の亮が気付くのは無理な話だった。
ウェガリーが部屋に向かう前に用意しておいた、とっておきの仕掛けである。
「どうだい、準備いいだ――ろっ!」
動きの止まった亮に、ウェガリーは強烈な中段の蹴りを見舞う。
亮は反撃をせずに階段を駆け下りた。ウェガリーは当然それを追う。
階段の踊り場に亮が足を踏み入れた時、ウェガリーは追う足を加速させる。
その時、彼の勘が自らの身に迫る危機を察した。
逃げようとしていた亮が突然身を返し、後ろ蹴りを放ったのだ。
「お前……まだ、やる気だったのか?」
咄嗟に回避したウェガリーだったが、この一撃は相手を突き放すためのものではなく、確実な殺意が込められていたことを感じた。
そして、このままこの踊り場で継戦かと構えた時――舌打ちをした。
(この状況……成嶋に有利過ぎる)
この踊り場は人が二人いるには手狭で、格闘をするなど論外といったところだ。だが、仮にこの場所で戦わざるを得なくなった場合、小柄な成嶋が有利になることがウェガリーに想定できた。加えて、この相手に対し戦闘を行うのと同時に再び逃走をする可能性も考慮をしなければならない。
戦場でも幾度となく経験があった。あらゆる事態を想定するのは当然だが、複数の選択肢の中から選ぶという行為――それが「迷い」になった時、死が降りかかる。
一対一という状況の場合、その「迷い」が生じ得る状態を押し付けた方が有利となる。
そして今、自分はこいつにその状態を押し付けられている……
ここで向き合っている相手、この成嶋亮に感じる脅威が一段増したように思えた。
踊り場の広さに反して大きな窓から、月明かりが差している。亮は腰を低く落とし構え、ウェガリーをジッと睨み付ける。
(いずれにせよ……即刻、確実に、仕留める)
ウェガリーの勘が告げる。
このスペースで回し蹴りなどはできない。
喰らわせるなら縦の動き。
人体の一番硬い場所をぶつける。
当然、このスペースでも出せる最大限の威力を付けられるような一撃。
それは――
(打ち下ろしの……肘ッ!)
(打ち下ろしの……肘、か)
亮は一歩踏み込んできたウェガリーの動きを捉えた。
この状況下なら、相手の技の選択肢が限られる。だからこそ捉えられた。
だから――
「なにぃ!」
頭上で交差した亮の両腕が、ウェガリーの左肘を受け止めた。
十字受けである。
ウェガリーは驚愕。
そして、彼にただ一つ残された右の目に、成嶋亮の鋭い眼光が飛び込んできた。
亮が次の動きを見せる前に、右の拳を振るう。
だが、拳を振り上げた瞬間に、左肘の拘束が解かれた。
「グッ……」
亮の拳が真っ直ぐと、左右同時にウェガリーの胸部に叩き込まれた。
諸手突き――空手の技であった。
この日一番のダメージをもらったウェガリーだったが、怯まずに亮の次の動きに対応しようとする。追撃か、逃走か、体勢を立て直そうとした瞬間――
踊り場の巨大な窓ガラスが割れる音と共に、BBが飛び込んできたのだった。
頑丈なジャングルブーツを履いた彼の足は、ガラスを蹴り破ったそのままに亮に一撃を見舞った。
BBは、ウェガリーと亮が四階から三階の踊り場で格闘を始めるのを確認した段階で自身は四階から五階の踊り場に移動をしていた。そして、ウェガリーが仕掛けていたワイヤーを回収し、窓から窓への移動時の道具にしたのである。
(チッ、だがこれで状況は……)
相棒の打ち合わせの無しの乱入により、ウェガリーは腕に小さなガラス片が刺さる。
しかしこれで一気に捕獲までいけると確信をした。
だが――
「そこまでっ!」
階段の下の方から、亮にとって聞き覚えのある声が聞こえた。
「なっ、なんでテメェが!」
現れたのは、張だった。
片手にハンディカメラを持ち、もう片方の手には拳銃が握られている。
そのレンズと銃口は、BBの一撃から立ち上がった亮に向けられていた。
「それは車の中でゆっくりと話そう。たぶん、長くなるからな」
「おいおい。お前に止める権限、あったのかよ」
「あります。ミスター・ウェガリー、申し訳ないが捕獲ボーナスは無しということになります」
「チッ、割に合わない仕事だったぜ……」
愚痴を漏らすウェガリーに対し、BBは相変わらず無言、無表情だ。
たったさっきまで戦っていた二名は亮の横を素通りし更に階段を下りて行き、やがて姿を消した。
この間、亮が動けなかったのには理由がある。
それは、張の周囲に立つ大量の人影を見たからである。スーツに身を固めサングラスを着けた男達は、機関銃やショットガンを携えており亮の一挙手一投足を追っていた。
「張、お前まさか上海の時から……」
張の表情を読み、そして張の背後にいる強大な何かの存在を感じ取った亮はそう口にした。
「車にどうぞ」
張は掲げていたカメラと拳銃のうち、拳銃を下ろしそう返す。
それと同時に、亮の周囲で銃を構える音が複数聞こえた。
「クソッ」
両腕と両足を結束バンドで拘束され、車に載せられた亮は張からアンダーグラウンドの存在や亮を拘束した目的について聞いていた。
アンダーグラウンドの組織の巨大さには驚愕する他なかった。そして、あのアパートに目立たぬように大量のカメラが仕掛けられていたことについては驚きを通り越して呆れてしまう亮だった。
張が『テント』に『針』として打ち込まれたのは、いずれタンの抗争の相手になる可能性が高い斉天大聖への対策のためだったが、亮という存在がその思惑を引っくり返してしまったことは相当に衝撃だったそうだ。
「さっきも言ったが、うちのボスは命を懸けて戦う格闘者に特別な感情を抱いている節があり、常に彼らの存在を求めている。ここから先何をやるかは私のような一部下には教えないてくれないがな。そんなわけで……」
車の中にはウェガリーとBBもおり、一切の物理的反抗を許さない状態になっている。
「私は亮を送り届けたら、日本に向かうことになる。また新たな格闘者を探さなきゃいけなくてね……詳しい資料はこれから確認するんだがこれが大変そうなんだ」
もはや話題は張の仕事の愚痴になっていた。
「深道ランキングの上位ランカーを引き抜けという話だが、亮は知っているか? 故郷の格闘技事情くらい――」
瞬間、ウェガリーとBBが身構える。
亮から放たれる殺気が急激に濃くなったのを感じたのだ。
両手両足を拘束し、さらにはワイヤーでシートに括り付けている状態であってなお二人が警戒するのは、この成嶋亮と実際に手を合わせたからである。
二対一の奇襲で始まった戦いでありながら、驚異的な対応力で応戦した亮の凄み。百戦錬磨の軍人である二人が、獣と向き合っているような錯覚さえ覚えたのだから警戒はし過ぎるということはない。
(車から降ろす時は、張を先に。十分に車から離れてから成嶋を降ろす)
BBはそんな思案をしていた。
(こんなのを飼い慣らすなんざ、本当にできるのかね?)
ウェガリーはズボンの後ろポケットに忍ばせた暗器をいつでも取り出せるように構えている。
車はそれから数十分、無事にアンダーグラウンド所有の洋館に到着した。
ここにはアンダーグラウンドの支配下にある選手数人が強制的に滞在させられており、その中には亮と同じ日本人がいる。
その男の名前は、櫻井裕章といった。
李とウェン・マックス、マーカス・グランビルの会合を襲撃したのも当然タン・チュンチェンの一派であった。
突然の銃撃という非常事態を引き起こすことで、反抗的な亮も流れから従わざるを得なくする。そうしてアンダーグラウンドが用意したアパートに縛り付けておく状況を作り出したのだ。
やや大袈裟過ぎる仕掛けに思えるが、これはアメリカ国内の裏社会の勢力争いも関わっていた。
会合に参加していたウェン・マックスはアンダーグラウンド会員でもあるが、タンにとっては様々な商売上の出来事で敵対する存在である。組織の規模としてはタンの組織の下部組織と同じ程度だが、ここ最近で急激に勢力を伸ばしている状態だ。
タンとしては組織を潰すまではしなくとも一定の「あいさつ」が必要と考えており、今回の亮の捕獲と一緒にやってしまおうと考えたのだ。
そして、事は万事順調に運んだ。
ただし、ある一点を除いては。
あの時の会合にいたもう一人が事件後に行動を起こし、これがアンダーグラウンドを揺るがす大事態につながることになる。
「今一度確認するが、先方の希望は偽造パスポートを使っていた日本人……ナルシマ・リョー一人でいいのかね」
「もう偽造パスポートの件までご存じなのですか。流石ですね、ミスター」
「うむ。あとはこちらの判断で好きに動かせてもらうが、問題ないかね?」
「我々にあなたを――いえ、この地球上であなたの行動を縛ることができる者などいるはずがないでしょう」
電話の相手から「ミスター」と呼ばれていた男は通話が切れるのを確認すると、葉巻を咥えながら、手にしていた資料をテーブルに置いた。
某国の王室も重用した職人の、生涯最後の作品と言われるテーブルに置かれた紙束には、成嶋亮の顔写真とその経歴が印刷されていた。
このテーブルの持ち主は、ある筋からの依頼を受けるにあたり事前に亮について調べていたのだ。
ある筋とは、政治家。某州の州議会議員、マーカス・グランビルであった。
電話の相手は彼の秘書だった。
マーカスによると、部下を連れ別荘に訪れていたところで事件に遭遇してしまったそうだ。近くの別荘の持ち主である実業家が仕事上のトラブルから裏社会の人間から目を付けられ、ついには別荘での静養中に襲撃にあったという。
その現場に近かったせいでマーカスとその部下も巻き込まれ、マーカスは怪我をし部下数名が命を落としたとのことだ。
犯人は、上海から進出してきた裏社会の一派。襲撃の実行犯グループを仕切っていたのが、小柄な日本人だった。
(このマーカス・グランビルという男、アジア系の裏社会と繋がっているくせにアジア系の人間を蔑視している……ナルシマに何か尊厳を傷付けられたのだろう)
依頼を受けておきながら、その男はマーカスがしてきた依頼にはいくつもの虚偽があることを見抜いていた。
その上で、成嶋亮という人間に興味を持ち、彼の周囲の状況を面白いと感じたので「成嶋亮を捕えて刑務所にぶち込んでほしい」という依頼を遂行すると決めたのだ。
(さて、動くにあたって二件ほどオファーをしておく必要があるな)
今後の流れを頭の中で整理しながら、男はワインセラーの方へ向かった。
ワイン愛好家なら一度は口にしてみたい、飲めるなんて夢のまた夢、そんなことを思わせる名作ワインがずらりと揃ったセラーからおもむろに一本取り出し、惜しげもなくグラスに注ぎ飲み始める。
先ほどのテーブルを筆頭に絢爛たる調度品に満ちたこの部屋は、驚くべきことに刑務所の一室である。
この部屋の主は、女性の腰くらいはある太い腕をしていた。
一見肥満体に見えるが、その実は全身を鋼のような筋肉で固めている。
宇宙と同様に膨張を続ける肉体。
ひとたび力を解放すればその前にある全てを粉砕する肉体。
いかなる堅牢な鎧も凌駕する究極の肉体。
この肉体の持ち主は、ここアリゾナ州立刑務所――通称・ブラックペンタゴンの中において、およそ受刑者とは思えない自由を謳歌している。
いや、刑務所の中には留まらない。この地球に生きる全ての人間の中で一番自由な『地上最自由』の称号を掲げている。
そう――この男は、ビスケット・オリバその人である。
VOLCANIC DRUMBEATS
「随分なご挨拶だな、ミスター・オリバ」
「少し挨拶が丁寧すぎたかね、ミスター・タン・チュンチェン」
アメリカ某所の劇場。いつかの不景気の煽りで閉鎖して以来長らく使用されていないが、在りし日は多くの名優達がここの舞台を踏んだこともある。
その控室で、ビスケット・オリバがお気に入りの葉巻の煙をくゆらせていた。彼の足元には数名の黒服の男と、上半身裸の偉丈夫が転がっている。
黒服はアンダーグラウンドの係員だ。半裸の男は、今日ここでの「出番」を控えていた格闘士である。
D級格闘士、ファビオ・クアドロス。
アンダーグラウンドで現在二勝している生粋のストリートファイターで、ブラジルのファヴェーラ(貧民街)出身であることから『リアル・シティ・オブ・ゴッド』と呼ばれ会員のファンも急増中だった。
「しかし……君の自慢の格闘士とやらに触れてみたが、少しがっかりといったところかな」
オリバは、今しがた倒した黒服が所持していた携帯電話を手にしながら、控室に先日取り付けられたカメラに向かって語りかける。
電話・カメラの向こうにいるのはタン・チュンチェンだ。
突然起きた異常事態にすぐさま係員の携帯に電話をかけ、その事態を引き起こした張本人に電話を拾わせ、こうして会話を始めている。
「その男は『テスト』の相手だからな。それをアンダーグラウンド本来の実力だと思われても困る」
「ふむ、テストか。それならそのテストの受験生にも是非挨拶をしたいところだ。さて、どんな子かな」
オリバのその言葉に、僅かな溜めを作ってタンは返した。
「アメリカ最強の男も演技力はいまいちのようだな。既に成嶋亮のことは調べがついているのだろう。お前の今日の目的のな」
ビスケット・オリバが知らぬことはこの世に存在しない。
そんなことを彼を知る者達はよく言うが、確かに彼は刑務所の中で常に膨大な知識・情報を仕入れている。
だが、今回オリバはここにたどり着くために「裏技」を用いており、タンもそれには気付いていた。
「ハッキングされたのに会場もカードも変えなかったのは、好奇心かね?
どうだい、タン・チュンチェン君」
「ふん。確かに、アンダーグラウンド相手にそんなことをしてくるなんて、どんな奴か会ってみたくなるかもしれないな」
この劇場では今日、アンダーグラウンドの正式な試合が執り行われる――その予定だった。
D級格闘士、ファビオ・クアドロスと相対するのは、この日デビュー戦となる期待の新星、成嶋亮であった。
オリバは、試合が行われるこの場所、試合前の格闘士達がそれぞれどちらの控室にいるかも全て把握していたのだ。
全ては、依頼通りに成嶋亮を捕獲するためである。
「安心したまえ。ちょっと邪魔はしたが、これ以上は迷惑をかけるつもりはない。むしろ、当初の予定以上のエンターテインメントとなることを約束する。そう、極上のマッチを提案しよう」
朗々と語るオリバに、タンはまさかと思いハッと息を吸う。
「ビスケット・オリバ対成嶋亮!
最強の犯罪者捕獲人と元少年Aのドリームマッチさ」
「…………ふむ。それは魅力的な提案だな」
タンは素直にそう口にした。
せっかく手に入れた成嶋亮の戦いを見たいのは事実だ。だが、空前絶後のイレギュラーの登場と、そのイレギュラーの提案をそのまま受け入れる危険性も考慮しなければならない。
(最大の問題は、断るとオリバが何をするかわからないことだ。
そして、オリバはそれも予め計算に入れて話を持ちかけている。この男は『自分がビスケット・オリバである』ということを、最強の交渉材料と確信しているのだろう。
ならば……)
「OK。何かそれ以外に条件があれば聞いておこうか。両者同意ができればアンダーグラウンドスペシャルマッチの決定だ」
「流石、裏社会きっての決断の早さで知られているだけのことはある。
そうだな――」
試合自体はアンダーグラウンドで広く用いられる「刃物有り、銃器有り、防刃・防弾無し」のルールで行われる。
ただし、勝敗条件には今回限りの特別ルールが追加される。
『試合会場の劇場メインホールの大扉から成嶋亮が脱出した時点で、成嶋の勝ちとする』である。
また、勝敗決着後には三つの取り決めもある。
成嶋亮が勝利した場合には、成嶋はアンダーグラウンドから開放される。
ビスケット・オリバが勝利した場合には、成嶋亮の身柄はアンダーグラウンドではなくオリバに拘束される。
試合後の両者に対し、アンダーグラウンドは一切の接触を許さない。
(成嶋が勝った場合、オリバはそのまま奴を捕獲する)
話がまとまった後、タンは真っ先にそう思った。
それくらいしてくるだろうと予想はしていたが、策はある。
オリバが命を落としていれば、問題はない。
オリバのことを知る者ならば、そんなことは無理だと言うだろう。あのビスケット・オリバを殺せるわけがないと言うはずである。
だが、ここはタン・チュンチェンが巨額を投じ猛者達を集め、その命をぶつけさせているアンダーグラウンド。この地下の魔境には、その手段があるとタンは自負している。
成嶋亮逃亡時のために、ある格闘士を劇場に待機させている。
その格闘士の拳は、オリバの鋼の肉体に通じるとタンは確信している。
オリバの肉体と同様、その男の拳は人外の領域に足を踏み入れていると確信しているのだ。
だから、タン・チュンチェンはこのスペシャルマッチの諸条件を全て了承した。
そして何より、この男が抱えるサガもあった。
成嶋亮の戦いが、ビスケット・オリバの戦いが、この二人の激突が見てみたいという衝動に裏社会の王は猛烈に駆られていたのだ。
「うーん! 噂通り、裏社会一の度量の広さだ。感謝するよタン君。
泣き虫サクラが大暴れしていた時代からこの国の地下格闘技は全て追っているが、アンダーグラウンドが類を見ない規模になっている理由がわかるというものだ」
「成嶋にも部下が今回の条件を全て伝える。
十分後にスタートとなるが構わないかな」
「もちろんさ。私も戦うのが楽しみで仕方がない!」
オリバは既に黒のパンツ一丁のスタイルで臨戦態勢だ。
全身の筋肉はいまにも弾けそうで、タンもその姿には思わず息を飲んでしまった。
不安が全く無いわけではないが、この肉体が戦いの中で躍動する様を拝むことができるのかとタンの中で何かが暴走しそうになっている。
だが、直後に水を差す音が耳に入ってきた。
アンダーグラウンド係員が持つ携帯からの着信。
緊急を要する時以外はかけて来ないように伝えていたが、タンは通話ボタンを押した。
「どうした。もう試合は始まるがまたトラブルか」
「た、大変です! ム、ム、ム……が! ム、ムテ……」
(無手勝流? いや、そんなわけないか)
タンは電話をかけてきた部下に落ち着くようなだめる。
試合まではあと六分といったところだ。
「はい、報告します。ムテバですううう!
あのムテバ・ギゼンガが来ていますううううううう!」
「安心しな。そちらが手を出してこない限り、こちらも手を出さない。
――今回はそういう『契約』になっている」
タンは思わず電話を落としそうになった。
それは、ビスケット・オリバ同様に裏社会に生きる人間なら知らぬ者は存在しない不吉な者の名だ。
「ジェノサイダー」「コンゴの死神」「伝説の殺戮傭兵」「アフリカの最強生物」「暗黒大陸の殺人マシーン」「非情の拝金戦士」など、数々の異名を持つ傭兵。全身を禍々しいタトゥーで覆った大柄な男が、タンが廊下のカメラの映像に切り替えると姿を見せた。
(……オリバめっ!)
タンはすぐに察した。約束を確実なものにするために、ここまでやるのかと今日一番の動揺をしてしまう。
そして、すぐさま着信音が聞こえる。当然オリバからのものだった。
「いやあ、友人が騒ぎを起こしてしまったようで、申し訳ない」
「……ミスターアンチェインともあろう者が、随分慎重じゃないか」
「そりゃあそうさ! こんな恐ろしい組織に足を踏み入れるなんて、ボディガードの1人くらい雇いたくもなる!」
お前にボディガードなんて、何の冗談だ。ビスケット・オリバにとってこの世で最も不要なものだろう。
そう口にしそうになったが、まずは排除の方向で交渉を進めようとする。
が――
「大丈夫、ムテバが試合会場のメインホールに入るようなことはしない。
そちらが余計なことをしなければ、こちらも余計なことはさせないさ。
今回は、そういう『契約』になっている!
――さて、試合まではあと二分。会員の皆様をお待たせはできないだろう?」
タンは舌打ちする。
ムテバはこの劇場のどこかに潜伏しており、試合開始ギリギリのタイミングで姿を見せてこちらにプレッシャーをかけ、さらには対応する時間を与えない算段だったのだ。
「さあ、ショータイムだ」
アメリカ最強の男の筋肉が、脈動する。
試合開始が待ちきれない、楽しみだというのはオリバの素直な気持ちである。
そう、劇場で待っている。
今宵の共演者が。
どんな脚本家でも書けないようなシナリオを演じてきた、唯一無二の役者が待っている。
いったい、俺はいつまで踊らされているんだ?
成嶋亮は考えていた。既に今回の戦いの条件は全て聞いている。
状況的に従わざるを得ないからそうしているが、ふと気を抜けば自分がいったい何をやっているのかと、焦燥・苛立ち・不安・怒りで震えそうになる。
しかし、これで勝てば……
(いや、あの条件だと俺が逃げてもそいつは俺を捕まえに来るわけだよな)
今から自分が戦う相手は、途方もない規模の裏社会の組織に急に介入し、従わせるほどの男だ。戦っても圧倒的な強者だということは想像ができるが、それがどれくらいの強さなのかは想像できない。
だが、どうにかしなければならない。
生き延びなければならない。
日本に、帰らなければならない。
強く決意をし、亮は劇場のメインホールに足を踏み入れる。
向かうは、先入場者の待機場所に指定されたステージ中央。
裏社会の王、タン・チュンチェンが欲したその演者が、舞台に足を踏み入れた。
「みなさま……大変ながらくお待たせ致しました」
アンダーグラウンドの試合開始前、アーサー・シロタのいつもの口上が始まるが、今日はどこか様子が違った。
事前に用意していたシナリオが使えなくなり、若干の焦りが見える。
しかし、得も言われぬ高揚感が同時に彼を襲っている。
「先入場者は、先日アンダーグラウンドにお迎えした元少年A!
成嶋亮でございます!
待ち伏せ防止の観点から待機する場所は舞台のセンター!
うーん、意外と……いや、想像以上に舞台に映えますこの男!」
シロタの口上は冗談半分のようだったが、本音も含まれていた。
これから始まる戦いを待ちわびる会員達も、その姿には思わず言葉を失う。
そう、得も言われぬ雰囲気があるのだ。
日本人の平均よりも少しだけ小さな身長。纏う筋肉は引き締まっており、世に知られる格闘技の階級でいえば中量級といったところだ。
目の肥えた会員達ならば無差別級のアンダーグラウンドという場で戦うにはこの身体ではあまりに頼りないと普段なら判断するところだが、成嶋亮が漂わせる雰囲気には、そのような尺度では測れない何かがあると感じている。
美しい。
単純に言えば、成嶋亮とは、そう思わせる存在であった。
「さて……ここでアンダーグラウンド史上最大のトラブルがやってきたことを皆様にご報告致します。大変恐縮ですが、心してお聞きください!」
シロタは声を張り上げる。
「この成嶋亮ですが、アンダーグラウンドに来る前……アメリカ入国後に事件を起こし追われる身となっていました。
そして今、恐るべき追跡者が彼を捕えに来てしまったのです!」
『事件』についてはアンダーグラウンドが仕組んだことでありながら、シロタは情感をたっぷりに語り続ける。
会員達は、今日のシナリオはそういう風にいくのかと頷いた。
これから入場する格闘士に、亮を捕える役という設定が与えられるのだと。
しかし、アンダーグラウンド史上最大のトラブルという文句は何だろうか、大袈裟じゃないかと会員達は訝しんだ。
「これから後入場――追跡者の姿がモニターに映ります。
皆様、どうか取り乱さずにご覧ください……」
すると劇場のメインホールの外、中央扉前のカメラの映像に切り替わる。
その直後に会員達は一様に口を閉ざした。
目に飛び込んできたその巨漢の男の正体に気付いた者、気付かなかった者、どちらもざわつき始める。
気付いた者は、なぜこの男がここにいるのかと驚愕した。
気付かなかった者は、このような肉体を持った男がこの世にいるのかと驚愕した。
アンダーグラウンドの場に、ビスケット・オリバが正式に登場した瞬間である。
「おい! オリバが来て、その……大丈夫なのか?」
オリバを知る一人の会員は、慌てふためきシロタに叫ぶ。
犯罪者捕獲人としての顔、実績をよく知るその会員は、オリバの仕事がアンダーグラウンド全体に及ぶのでないかと危惧をしたのだ。
「ご安心ください。オリバ氏の目的は、成嶋亮の身柄のみでございます。
今回の参戦にあたり、我らアンダーグラウンドとオリバ氏の間で様々な取り決めがされましたが、オリバ氏は成嶋亮を捕獲したのなら速やかにこちらを去る約束になっております」
一部の会員達は安堵する。
「そして! これから行われる成嶋亮対ビスケット・オリバの一戦も、それらの取り決めが組み込まれたものになります!
ハラハラドキドキのスペシャルマッチをお楽しみください!」
その後、シロタからルールが説明された。
そしてルールの説明が終わると遂に、オリバが大扉を開けてホールの中に入っていった。
アーサー・シロタは今、アンダーグラウンドでこの仕事に就いて以来、最大級に興奮をしている。
(なんだこの野郎は……肥満、いや、筋肉なのか?)
亮は大扉の開く音と共に現れた巨体に動揺を隠せなかった。
今まで様々な相手と戦ってきたし、その中にはヘビー級の人間は数えきれな程いた。だが、この男はそのどれとも違う、あまりにも異質・異常・異様であった。
「グッイブニィーングゥ、ボーイ」
亮はその声に思わず構えた。
「さあ、ただいまからベットスタートです。皆様、今回の勝敗がつく条件を改めてご確認の上、振るってご参加ください!
開演のブザーがこのホールに鳴るまでが、ベットタイムになります!」
ブザーの音が試合開始の合図だというのは、ホールの中の両者にも伝えられている。
舞台上の亮は目に見えて緊張をしている。
観客席のオリバは立ち止まり、舞台上を見て笑っている。
そして、遂に開演のブザーが鳴り響いた。
成嶋亮は、どんな脚本家でも書けないようなシナリオを演じてきた、唯一無二の役者である。そのシナリオにまた、新たなページが書き込まれる。
「始まったか。さて、例の件は間に合うかどうか……」
ホールの外、劇場のロビーで待機しているのはムテバ・ギゼンカ。試合には介入しないという条件を呑み劇場内にいることを許されているが、試合開始のブザーの音を耳にしてふとそんなことを漏らした。
「まあ、そう固くなるな。君も勝利に向かって、全力を出してきなさい」
亮は構えたまま舞台から降りない。一方のオリバは観客席から徐々に舞台へと歩みを進める。
「どうした? 私は君を捕まえに来たんだぞ?
私が出入りする刑務所に君をぶち込むわけで、そうなれば君は日本には帰れない。家族にも会えなくな――」
亮は走り出した。その動き出した瞬間をオリバは捉えることができず、その速さに感心する。
「――フッ!」
脇腹に、後ろ回し蹴り。加速を付けての一撃がオリバの腹筋に突き刺さるがその巨体はビクともしなかった。
(『家族』がトリガーになったか)
顔面に、上段突き。続けざまに、胸部に猿臂。顎に鍵突き。
(一撃一撃に凄まじい殺気が込められている。急所を確実に捉えてくるこの正確さは、実戦で研ぎ澄まされてきたことがわかる)
飛び膝蹴り。着地後すぐに腹部に正拳突き。拳の引き際に同じ箇所に逆突き。
(だが……)
オリバはこれまでの連撃を受けながらも涼しい顔をしている。
更なる亮の追撃をもらいながらも、まるで気にすることなくゆっくりと手を伸ばした。
手のひら。それで拳を振り上げた亮の胸部を軽く押した。
「ウェイトの無さが致命的だ。ボーイ」
亮は強烈な圧迫感を胸に受け、後方に吹っ飛ばされてしまった。
驚愕。絶句。
亮はなんとか着地するが、その力の衝撃に全身が震える。
「バケモノ……」
「ふむ、月並みな言葉だ」
オリバは亮に近付く。ゆっくりと、堂々と、戦いの最中にこれほど余裕を見せることがあるのだろうかという様相だ。
「そして、月並みな行動だ」
オリバの視界に亮の一本指拳が入った。
普通の打撃が通じないと判断したら、急所狙い。オリバにこれまで向かってきた者の多くがそうしてきたことだ。
亮の指がオリバの目に届くより前に、オリバの前腕が亮の首元にめり込んだ。振りかぶってというよりは、亮が向かってくる場所を見定め予め「置いた」という感じの攻撃だった。
「おやおや、成嶋亮。やはりといいますか、ここまででしょうか……
正式なアンダーグラウンドデビュー戦が残念ながら卒業マッチに……」
シロタが見ているモニターの中では、亮がオリバの一撃で悶え苦しんでいる姿が映っていた。
この試合のオッズの開きは、先日の櫻井裕章対イミ・レバイン以上の開きがありオリバ優勢。賭けが不成立になるギリギリの状態だった。
「しかし、この試合の決着方法を皆様お忘れではないでしょうか?
成嶋亮の勝利の道はオリバ氏を倒すだけではございません!」
そう、亮はこのホールから逃げ出しても勝利となる。
倒れる亮にオリバが手を伸ばそうとした時、亮はオリバに背を向けた。
そして、駆け出す。
「さあ、成嶋亮! 逃げ出しました!
そうです! この一戦は殺し合いと鬼ごっこのハイブリット!
さあ、オリバは成嶋を捕まえられ――」
亮は駆け出した直後に、やや斜め前方に跳躍。その先には観客席の椅子があり、その背もたれに足を乗せた。
いや、乗せたというよりは椅子を蹴飛ばし、その反動を利用して亮の身体は追おうとするオリバの方へと向かった。
そのまま――
「ああっと! 逃げるかと思いきや! まさか!
この一撃は、かつてここアメリカに渡った一人の空手家が使った技と同じです! ゴッドハンド! 空手バカ一代! あの飛鳥拳が見せた三角跳び蹴りだあああああ!」
亮の足刀部分がオリバの頬に直撃する。
そしてこの一撃により、初めてオリバの巨体が揺らいだ。
アンダーグラウンド会員達は、まさかの展開にモニターの前で絶叫した。
観戦者達の熱狂に反し、亮は冷静だった。
(バケモノめ……)
これ以上ない一撃だと思った。同階級の人間はもちろん、たとえヘビー級が相手でもこれをもらえば昏倒することは間違いない。
そう思えたのだが、この規格外の相手に限っては違った。
傾いた体勢をゆっくりと戻し、鼻血を指で拭うと試合が始まった時と同じ笑顔を見せる。
「グッド、なかなかにグッドだ」
「てめえの身体は何でできてやがるんだ……」
「筋肉さ。見てわからないのかな?」
オリバは親指を立て、その分厚い胸筋に当てて誇らしげに口にする。
亮の頬に冷たい汗が流れた。
(さて、この筋肉ダルマのスピードは……)
この三角跳び蹴りで勝負を決められなかった時の事も想定していた。
次の一手は「逃げ」だ。
試合決着後も追われる可能性を考慮しても、今は少しでも可能性のある方に賭けることに決める。
「おや? ――それはつまらんな、ボーイ」
亮がまた背中を見せ、今度は完全に逃げ出したことにオリバはやれやれと言った表情を見せる。
近くにあった椅子の背もたれを掴み、手に力を入れる。
すると、ビキッ、ビキッと音を立てオリバは床から椅子を引き抜いてしまった。劇場の椅子は横に複数が繋がっているため、オリバはまるで板チョコを割るかのようにその中から一脚を取り分けた。いや、千切ったという方が正確かも知れない。
そして、千切った椅子を亮が走る方に向かって投げつける。
剛力を有するビスケット・オリバは、追うのではなく、その力で逃げる相手を捕まえることに決めたのだった。
走る亮の目の前に、椅子が飛び込んだ。
あまりの出来事に唖然として足を止める亮。椅子が飛んできた方を振り返ると、オリバは椅子を次々と引き抜き、引き千切り、次弾の準備をしていた。
「アンビリーバブル! アンビリーバブルです!」
シロタは興奮に震えながら実況を続ける。
会員達はモニターに映る光景に、歓声を挙げることを忘れて魅入っている。
オリバは次々に椅子を投げ、亮は回避を続けるが遂には命中してしまう。
跳躍時に椅子が直撃し、倒れ込む亮。オリバは構わずそこに椅子を投げ続ける。
そうして、劇場の一角に椅子が重なりできた奇怪な山が生まれたのだった。
オリバはその山に向かい悠々と歩き出す。
山の中に手を突っ込むと、亮の足首を掴む。亮を逆さ吊りにし、心底つまらなそうにボロボロとなった亮を直視している。
こいつも、この程度か。
そういった面持ちだった。
ひとつ溜息を吐くと、振りかぶって亮を床に叩きつける。
床に全身を打ち付けられた後にバウンド。その身体が宙に舞い、亮は数瞬であったが意識を失った。
意識が戻りつつある中、亮の脳裏に様々な光景が浮かぶ。
勉強を強いられていた少年時代のある日。
両親を刺し殺したあの日。
少年院での出来事。
空手に出会った事。
出所後の日々。
リーサルファイトでの菅原との戦い。
菅原との暗闇での再戦。
上海に渡ってからのこと。
斉天大聖との戦い。
斉天大聖との――
――戦いで、俺が、したことは?
人間が命を落としかねない危機的状況に陥った時、その者がこれまでの人生で経験してきた様々な場面が頭を過ぎることがある。
走馬灯。
そう呼ばれる現象について、一つの見解がある。
危機的状況を切り抜ける方法を、過去の経験の中から見つけ出す、というものだ。
床に転がる亮の手首を、オリバは掴んで宙吊りの状態にする。
既に手にした相手に対する興味は失っており、ホールに配置された大量のカメラのうちの一つに目をやった。
これでもう決着だろうと、アンダーグラウンド側に判断を促している。
「ア……ガハッ!」
「おや、お目覚めか」
オリバが掴むのは亮の左の手首。右腕は自由になっている。
亮はゆっくりとオリバの胸部に手を伸ばし、触れた。
これが最後の抵抗だろうと、オリバも、アンダーグラウンドの会員達も、アーサー・シロタも思う。
シロタはこの手が再び垂れ下がった時、勝負を決着すべきと判断した。
その時であった。
相手の気、自分の気、それらを水と認識する。
その水同士の揺らぎを――
同調。
同調の後、解き放つ。
水は、逆巻き、うねり、荒立ち――
解放。
「――――――え?」
オリバの手から亮が落ちる。
そして、その巨体がゆっくりと後方に倒れ込む。
突然の光景にシロタも、会員達も、言葉を失う。
そして、何より信じられないと思っているのは倒れたオリバ本人だった。
「な、なにを……やりやがった?」
起き上がりながらオリバが睨みつけるのは、先ほどまで興味を失っていた相手である成嶋亮。
亮は、オリバに触れた自身の右手をチラリと見て、頷いた。
そして、こう言う。
「バカみたいな筋肉野郎でも、結局は身体の中に血が流れる生物だ。
なら――効く!」
発勁。
異能の怪物、斉天大聖を倒すために身に着けた中国武術秘伝の技。
その技は今、鋼の筋肉で覆われたオリバに確実にダメージを与えた。
立ち上がったオリバに対し、亮は飛びかかる。
目線はオリバの下半身に行っている。そして、右足で蹴るような動きを見せた。
オリバの目は亮の動きを追うが、それはフェイントだった。
発達したオリバの大胸筋に、今度は亮の左の手のひらが置かれた。
同調。
――解放。
百五十キロを超す筋肉の塊が、ホールの宙を舞う。
亮の二度目の発勁が成功した瞬間だった。
「あ、あ、あのオリバが! あのビスケット・オリバの吹っ飛ぶ光景がまさか見られるとは! いいですか会員の皆様、我々は今、とんでもないものを目にしているのです!」
しばらく実況をできない状態にあったシロタだったが、ようやくマイクが復活した。会員達もそれに合わせざわつき始めるが、その中に亮がしたことを理解できた者はいない。
だが、亮に吹っ飛ばされて本日二度目のダウンを喫したオリバは、跳ね起きたのと同時にこの技の名前を口にした。
「ハッケイ……発勁か。生まれて初めて味わったぜ」
亮に触れられた胸部をさする。
外傷はないが、触れられた箇所から異様な衝撃が身体全体を走り、全身の水分が一瞬だけ沸騰したような感覚に襲われた。
発勁――主に重心、体重の移動を利用した中国武術が有する特異な力の発し方のこと……そう記憶していた。だが、今目の前にいる相手がしてきたことはその類のものではない。
『気』などという概念を持ち出す、オカルトじみた技である。
「これは一種の、ファンタジーだな」
そう言ってオリバは笑った。その口元には血が垂れている。
「へへっ。お前とは違うバケモンにも効かせたことあったからな、こいつは」
(なるほど……これを斉天大聖相手に使ったのか)
オリバは得心が行った様子。
この発勁をもらうまで、確かに良い動きをしてはいるがこの成嶋亮という男があの怪物・斉天大聖を倒せるとは思っていなかった。
だが、この異能の技を使えたというならそれも可能かもしれない。
しかし――
「しかしだ。この私まで倒すというのは、認められないな」
オリバは素直な気持ちを述べ、前に出る。
まだ身体の中には今まで経験したことがない衝撃の余波がある。
それでも、前に出る。
全てを、この筋肉でねじ伏せる。
それがビスケット・オリバだからである。
拳を振り上げ、目の前の小さな日本人に振り下ろす。
回避され、床に拳がめり込んだ。
アンダーグラウンド会員達が初めて目にする、ビスケット・オリバが本気で拳を振るった瞬間だった。
亮は全身の痛みを堪えながら、後方に大きく跳んでその拳を回避した。
その凄まじいまでの威力に、またも驚愕する。
そして、相手の『ギア』が変わったことに気付いた。
(こいつ、俺を殺すつもりか……)
これまでのオリバの攻撃は、そしてオリバが纏う雰囲気は、亮を捕えるという任務を課された上で、どこかゲームに興じるような感じであった。
だが、今の攻撃は違った。
直撃すれば再起不能、下手すれば絶命というような一撃。
さらに、拳を床から引き抜きこちらを見据えるその目も、先ほどまでとは違っていた。
「さすが、殺意には敏感……といったところか、成嶋亮」
オリバは初めて、本日の対戦相手のことを名前で呼んだ。
認めたのかと問えばオリバは否定するだろう。
だが、こう答えはするはずだ。
「もう何を言っても反応しなくなるかもしれないから、その前に一度くらいは名前で呼んでやろうかと思ってね」
亮の見立て通り、オリバの『ギア』は変わっていた。
最初から殺すつもりで仕掛けるというよりは、動いた結果、死んでしまっても仕方がない――そういう思考に切り替えたのだ。
亮は自身の心臓が張り裂けんばかりに脈を打っているのを感じている。
決着は近い。
脳内すらその鼓動に満たされそうな中、ふとそう感じた。
「決着は――近いな」
そして、亮と対峙する全身筋肉の大男も、そう口にした。
オリバは両脚を肩幅くらいに開いた。そして両手は開き、前方に突き出すようにして亮を見据える。その構えは、オリバの友人である男が、好敵手と認めた相手に見せる構えに酷似していた。
亮は相手の構えを見て少し眉をしかめる。
オリバが見せている構えは、端的に言えば亮にとっては厄介である。
両腕を前に突き出す。ただそれだけで、発勁を決める際に触れるべきである相手の胴体への到達が困難になる。
発勁の威力を知り、明確に警戒をした相手への接触は当然難易度が上がる。
加えて、亮がオリバを倒し得る武器はその発勁しかないという現実。
発勁は通常の打突と違い、相手に触れてから同調と解放のためにそのまま触れ続ける時間が必要である。
(手を届かせる難易度が跳ね上がった。
加えて、届いたとしても……)
亮の脳裏に浮かんだのは、オリバの胸部に触れて発勁をしようとした自分に彼の恐ろしく太い両腕が振り下ろされる姿だ。
それでも、発勁を仕掛けなければこの相手を倒すことは困難を極める。
――死を賭した一撃。
そう、なるに違いない。
「発勁……まずは、お前が触れるのを困難にするという対策を取らせてもらった。
そして、こちらは……既に触れられた時の用意もできている」
オリバはそう言って笑みを見せる。
だが、その口元からは鮮血が滴り落ちており、息も少し乱れていることが対峙する亮にもわかった。
この戦いにおける亮のもう一つの勝利条件は、このホールから脱出することだ。そのためのただ一つの扉は、対峙するオリバの肉体が邪魔をしてよく見えないという状況。
脱出という選択は、亮の中では既になくなっていた。
オリバの近くには椅子がある。
自身の身体に残るダメージを考えると、非常に厳しい。
脱出に向けオリバを避けて走ったとしても、全身を襲っている痛みがそれを許さないだろう。走力は先程より低下し、回避行動も困難になっているのが実際に動いていなくとも亮には容易に想像ができている。
あの椅子を引き抜き次々に投げるという常軌を逸した攻撃をまたされたら、今度こそ完全に終わりである。
そう判断をした時、亮は目の前のオリバに向かって飛び込むことを決めた。
オリバも、亮の目線の変化を察し笑みが消える。
――死を賭した一撃。
それをしてくるに違いない。
オリバがそう思った次の瞬間、亮が駆け出した。
オリバは全身の筋肉に力を入れる。両腕はまだ上がったままで、亮を捕まえる動作には入らない。
しかしすぐに亮の右手が突き出された。オリバの両腕がピクリと反応する。
「あっ……」
その攻防をモニターの先で見守っていたアーサー・シロタの口から、思わずそんな声が漏れた。
亮が次に見せた動きは、まさかの蹴り技だった。
右手を突き出した後に身体を低く沈め、跳んだ。
そのまま空中をほぼ一回転し、勢いの付いた亮の左の踵がオリバを襲う。
だが、シロタが声を漏らした理由は蹴りを出したからではない。
走り出し距離を詰めていたとはいえ、亮の蹴りはオリバに全く届いていなかったからだ。
まるで、オリバの目の前で豪快に転んだようにしか見えなかった。
当然、オリバも一瞬呆ける。
技を放った瞬間は一瞬亮が視界から消えたかと思ったが、気が付けば相手は勝手に床に倒れ込んでいたのだ。
オリバはふと我に返り亮に手を伸ばした。
その時――
パンッ パンッ
亮は起き上がった動作からそのままの勢いでオリバの懐に飛び込み、分厚い鋼のような胸板に手を触れたのだった。
相手の意表を突く技を仕掛け、自分がギリギリ安全な位置でわざと失敗をする。
こちらの失敗に対し相手が動いた時にできた一瞬の隙に切り札を喰らわせる。
半端なフェイントなど通用しないと判断した亮の、命を投げ出すような作戦だった。
そしてその作戦は、成功に至った。
同調。
――解放。
この日三発目。そして、この戦いで最後となる発勁が炸裂した。
二発目の時は後方に飛ばされてしまったが、今回オリバは渾身の力で踏ん張りその場に留まった。アメリカ最強の男にして地上最大の筋肉を持つ男の全力は、東洋の摩訶不思議なる攻撃による再びの失態を許さなかったのだ。
「なっ……」
その様に亮は驚愕。そして、オリバの両腕が再び上がる。
「ふ……触れられて、発勁をまた喰らっちまった時の用意はできているといっただろう?」
オリバは再び笑う。しかしその口元からは、先ほど笑った時よりも遥かに多い量の血がこぼれていた。よく見れば、目、鼻、耳からも血が垂れている。
「用意。それはひたすらに耐えることだ。
――この鍛えに鍛えた肉体で……ネッ!」
言葉を言い終えるのとほぼ同時に、オリバは技に入った。
巨大な両腕で相手を締め上げる、ベアハッグ。
極めて単純な技ではあるがビスケット・オリバがやるそれは、捕縛したその瞬間に相手を失神させる。そして、そのまま続ければ容易くあの世に送り届けることができる代物だ。
亮も、オリバの腕が当たるのを知覚したのとほぼ同時に強烈な圧迫により意識を失った。
オリバはそのまま締め続けることはせず、亮の意識が飛んだことを確認すると拘束を解いた。亮の身体は、ホールの床にドサリと音を立てて落ちる。
(これは……けっ、決着か?)
シロタはこのまま亮が起き上がることはないだろうと判断し、試合決着の合図を出そうとする。
観戦していたアンダーグラウンドの会員達の誰もが、もうこれで終わりだろうと思った。
だがその時、オリバが動いた。
「ま、まさか完全にとどめを?」
会員の一人はそう漏らす。彼の予想が当たったのか、オリバは亮の身体を再び抱え持ち上げた。
「成嶋亮……今日の所はお前の勝ちでいいぜ」
オリバは意識を失っている亮が聞こえていないことをわかった上で、そう口にした。
そして、抱えていた亮を、ありったけの力を込めて――
ぶん投げた。
まるで大砲から放たれた砲弾のように、亮の身体は勢いよく飛んでいく。
その飛んだ先にあったのは、ホールの大扉だ。
亮の身体が扉に激突すると、扉は勢いよく吹き飛んだ。老朽化した金具が壊れ、外れた扉はホール前の廊下に音を立てて倒れる。
そして廊下には、同じく亮の姿もあった。当然意識は戻っていない。
そう、亮は倒れたままだ。それでもこの光景は、アーサー・シロタのコールを待つまでもなく今回の戦いの終わりを意味している。
『試合会場の劇場メインホールの大扉から成嶋亮が脱出した時点で、成嶋の勝ちとする』
全く予想していなかった状況に言葉を失っていたシロタだったが、会員達が困惑する音声の中に「これは成嶋の勝ちなのか?」というものがあったのを聞き、ハッとした後に叫んだ。
「おっ、おっ、大穴が出ました! 勝者、な、成嶋亮ッ!」
シロタのコールの後に一瞬の静寂。
その直後に、会員達のほとんどが言葉にならない絶叫をしたのだった。
成嶋亮対ビスケット・オリバ、アンダーグラウンドスペシャルマッチはルールに則り亮の勝利に終わった。
しかし、この戦いの裏で二つの緊急事態が起きていた。
一つは、この劇場内で亮とオリバの戦いとは別にアンダーグラウンドが承知していない一戦が行われていたということ。
もう一つは、ビスケット・オリバの乱入を超すアンダーグラウンド存亡に関わる大事件が発生したということ。
後に、事の顛末を知ったブラッド・ウェガリーはこう語った。
「根拠は『何となくそう思っただけ』なんだが、アンダーグラウンドがあの成嶋亮とかいうチビに手を出したのが原因だ。あいつには、関わる全てを無茶苦茶にする何かがある」
乱七八糟