BLUE REFLECTION 二次創作
HRHRDVモノ -1-
お母さんが再婚した。人の良さそうな男の人だった。これでお母さんも安心できるねって、陽桜莉が言った。私もそうなると思っていた。お母さんとその人の結婚前は、色々と優しくしてくれた。陽桜莉と一緒にレストランへ食事に連れていてもらったり、プールにも連れて行ってもらったり……そんな人だったから、お母さんもやっと幸せになれるって、そう思っていた。
最初に違和感を覚えたのは、その人が陽桜莉の着替えをジッと見ていたからだった。普段は目を逸らしてくれていたから、その日はたまたま気になってしまった。
「おとうさん……どうしたの?」
なんの疑問も持たず、そう尋ねる。すると「なんでもない」と素っ気なく言って、持っていた本を読み始めた。首を傾げる。子供心ながら少しばかりの気持ち悪さを覚えたものの、それ以上はなにも言えなかった。その人が纏っている雰囲気が険しくなったのを、感じてしまったからかもしれない。
その夜。陽桜莉とお母さんと並んで眠っていると、その人に叩き起こされた。「ちょっと来なさい」と寝ぼけまなこを擦る間もなく手を引っ張られ、部屋から、さらに家の外へと連れ出される。恐怖を感じた。なにかしてしまったか。それともなにをされるのか。春先とは言えまだ寒い夜空の下で、その人を見上げる。表情はよく見えない。けれども、笑っていたように思える。そしていきなり、頬を叩かれる。最初は何をされたのか理解ができなかった。痛み始めたそこを手で覆って……けれどもすぐその手も払い落とされる。また男を見る。
「今日の態度は何だ?」
怒気を含んだ、静かな言葉。
「お前はそんな教育を受けてきたのか? 嘆かわしい……」
視界が歪む。それが涙を流したからとすぐに理解する。けれどもそれを拭うこともできない。身体は硬直して、震え始める。怖い。ただそれだけしか考えられない。
「なにか言うことはないのか?」
唇が震える。言わなきゃ。謝らなきゃ。そう思っているのに、言葉は出て来ない。代わりに出てくるのは声にもならない嗚咽だけ。その人は私の頭を乱暴に撫でると、そのまま家へと戻って行った。扉を開ける音が聞こえる。そこでようやく涙を流すことができた。私が、なにをしたのだろう。昼間の行動を思い出す。あの言葉がダメだったの? でもあれは、陽桜莉を……――どうして、あんなことを聞いたんだろう。
それからその人に恐怖心を持った。持ってしまった、とでも言えるかもしれない。例えば一緒に食事に行こうって言われても、陽桜莉のようにすぐに返事をすることができない。例えば何か買ってあげようと言われても、欲しいものなんて思いつかない。まるであの時と同じように。私は怯えているのだ。そしてその人は、その怯えを敏感に察知する。
とある日の夜。陽桜莉とお母さんが二人で出かけていた。私はその人と一緒に、家の中で留守番をしている。思えばそれは、その人が私と二人きりになるように仕組んだ結果なのかもしれない。
「怖いのか?」
その人の言葉が背中から聞こえた。息が詰まる。心臓の音が大きくなっていく。怖くなんかない。だってこれはおとうさんだから。本当の父親なんだから。そう言い聞かせてみるけれど、やっぱり振り向くことができない。やがて背後から腕が伸びてきて、その手が肩に置かれる。
瞬間、悲鳴を上げていた。上げてしまった。
「その態度だ!」
頬を叩かれる。
「どんな教育を受けてきたんだ!? えぇ!? それが父にする態度か!?」
髪を引っ張られ、顔を無理やり上に向けられる。痛い。苦しい。助けて……。
「妹の方はまだ可愛げがあるぞ!! それに比べお前はどうだ!! あぁ!?」
胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。逃げられない。怖いよ、お母さん。助けて、お母さん。……陽桜莉……。玄関の鍵が開かれる音が聞こえた。そちらを見る。陽桜莉がひとりで、私達を見ていた。
ーーーーー
お姉ちゃんが泣いている。おとうさんがお姉ちゃんの髪を引っ張りながら怒鳴りつけている。私はそれを見ている。どうしてこんなことになっているのかわからない。けど、このままじゃいけない気がした。だから足を踏み出そうとする。けれども、動けなかった。足が動かない。身体が動かなかった。おとうさんがこちらを見る。その表情は……どうして、笑顔を浮かべているのだろう。
「ママはどうしたんだい?」
優しい口調で尋ねられる。だけれど、答えられなかった。おとうさんは笑みを深めて「そうか」と呟くと、お姉ちゃんに視線を向ける。
「すまなかったな」
謝罪の言葉。けれどもそれは、どこか白々しく聞こえた。そしてお姉ちゃんから手を離し、再び私を見る。
「こっちに来なさい」
その言葉に従わなきゃ。そうじゃないと、またお姉ちゃんが酷い目にあってしまう。恐る恐る近づくと、大きな手で頭を撫でられた。お姉ちゃんはその場でうずくまり、泣いているようだった。
「お前は素直でいい子だな」
その言葉が脅迫なんだって、何となく理解してしまう。この人は、おとうさんは……優しく微笑んでいる。でも、目は笑っていない。口元だけが笑っている。そのことに気付いてしまったから……こちらも笑みを作ることしかできなかった。
ーーーーー
HRHRDVモノ -2-
その日から地獄が続いた。機会があればその人に叩かれ、殴られ、蹴られ、罵声を浴びせられ……そして、好きにされ。それでも、陽桜莉やお母さんには絶対に手をあげない。それがわかっていたからこそ、その約束があったからこそ、必死に耐えることができた。
死にたいとも思った。けれども私が死んだら、陽桜莉もお母さんも悲しんでしまう。それだけはできない。なにより今は私へと向いている暴力が、陽桜莉やお母さんの方へと向いてしまうかもしれない。それだけは嫌だ。だから耐えるしかない。
学校へも、理由をつけて休まされることが多くなった。怪我をした。風邪を引いた。家の都合がある。そんなのすべてが嘘。その度に殴られる。蹴られる。罵声を浴びさせられる。もう限界だった。何度も死のうかと思った。その度に陽桜莉の顔が思い浮かぶ。お母さんの優しい声を思い出す。泣くことしかできなかった。
ある日の朝。いつものようにその人は私の部屋に入ってくる。今日は何を言われるのだろう。何をされてしまうのだろう。恐怖で身体が震える。するとその人は「ああ、そうだ」とわざとらしく思い出したように言って、私の方へと歩み寄ってくる。そして、私の服に手をかけ、乱暴に脱がし始めた。どうして? なんで急にこんなことをするの? 混乱する私に構わず、その人はズボンを脱ぎ捨て、そして私を押し倒す。抵抗する力なんてない。ただされるがままになるだけ。やがてその人のそれが私の中に入り込む。痛みと圧迫感。苦しい。息ができない。涙が出てくる。なのにその人は止まらない。腰を打ち付けてくる。何度も。何度も。やがてその動きが激しくなり、やがて果てた。
行為が終わると、その人は服を着直し、そのまま部屋を出て行った。私はしばらく呆然としていたが、やがて起き上がり、下着を履き直す。自分の体を見ると、あちこちが赤くなっているのが見えた。胸の奥がズキっと痛む。気持ち悪い。吐き気がする。どうしてこんなことになったんだろう。わからない。何もかもがわからなかった。
陽桜莉が笑っている。それだけが救いだった。お母さんも陽桜莉と一緒に料理をしている。大丈夫かしら。陽桜莉が料理を作るといつも失敗ばかりするってのはお母さんもわかってるはずだけれど……。いきなり、視界が歪む。それが涙だと気づくのに少し時間がかかった。
「美弦、どうしたの?」
お母さんの声が聞こえる。顔を上げると、心配そうな表情を浮かべたお母さんがいた。
「……なんでもないよ」
笑顔を作って答える。お母さんは何か言いたげだったけど、結局は何も言わず、陽桜莉の方を見た。陽桜莉がこちらを見て首を傾げる。
「……お姉ちゃん、泣いてるの?」
慌てて目元を拭い、誤魔化すために笑う。
「ううん、泣いてないよ」
それを聞いた陽桜莉が、表情を曇らせる。お願いだから笑っていて、陽桜莉。あなたが笑っているから、私は耐えられるのだから。陽桜莉もお母さんも、私が守るから。あの人から。絶対に守ってみせるから……。
ーーーーー
夜。陽桜莉と一緒に部屋の中で過ごす。他愛も無い会話。笑いかけてくれる陽桜莉。学校であったこと。友だちと話したこと。楽しそうに話してくれる。それを見ているだけで幸せになれる。だけど、心の中では……ごめんねと謝り続けていた。陽桜莉にだけは、知られたくない。知られたく、ない。
「お姉ちゃん?」
陽桜莉の心配そうな声。気がつけば視界が歪んでいる。また泣いてしまったのか、私は。
「……おとうさんのこと、嫌い?」
その言葉を聞いて、心臓が跳ね上がる。好きだって言わなくちゃ。好きだって思わなくちゃ。頭ではそう考えていても、震える口は動かない。言葉にすることができない。だって、それは嘘なんだから。本当のことは言えないから。嘘をつくしかないから。でも、もしここで本心を言ってしまったら? おとうさんはきっと怒る。そして、もっと酷いことをしてくる。だから、駄目だ。
「…………」
黙っていると、陽桜莉の視線を感じる。不安そうな視線。
「私はね、おとうさんのこと……きらい。イヤなこと、されるから」
一瞬、すべての思考が消えた。背筋が凍る。頭が痺れる。約束と違う。私が……私さえ我慢していたら陽桜莉やお母さんには手を出さないって、そう約束したはずなのに。喉が渇く。胸が痛くなる。
……許せない。
きっとその言葉は、知らないうちに言葉にしてしまったのだろう。陽桜莉は少し悲しそうな顔をして……すぐに、またいつものように笑ってくれた。
ーーーーー
翌日。いつものようにその人は私の部屋に入ってくる。昨日と同じように服を脱がされ、押し倒される。そして、乱暴に体を貪られる。何度も何度も突き上げられる。やがてその人が果てると、満足したように服を整え始める。ベッドの下に隠した包丁は見つからなかったようで、良かった。その人が背中を向ける。その隙に包丁を取り出し、その背中めがけて……。
傷はつけた。けれども子どもの力で殺すことなんか、できるわけがなかった。
「なにしてくれるんじゃ!! このクソガキがァ!!」
怒鳴られ、殴られ、蹴られた。今までに無いくらいに激しく暴力を振るわれた。意識を失いそうになるほどの痛み。体を丸め、目を閉じて、耐える。そして、その度に、陽桜莉の顔が思い浮かぶ。お母さんに暴力が向かないように。陽桜莉に危害が加えられないように。必死に耐え続ける。このまま殺されるんだなって思った。やっと楽になれるんだなって……。
いきなり、嵐のような暴力が止んだ。最初は自分が死んじゃったのかと思った。
「お姉ちゃん! 大丈夫!?」
陽桜莉の声。陽桜莉も死んじゃったの……? そんなわけがない。そんなわけがあるはずがない。勇気を出して、目を開ける。赤い……赤い陽桜莉が、私を見ている。
「陽桜莉……?」
その剣はなに? その手に持っている赤い剣は……なんなの?
「……良かったぁ~……お姉ちゃん……もう大丈夫。あの人はもう、大丈夫だからね……」
大丈夫って……慌てて身体を起こす。あの人は、どうやら背中から刺されたようで……身体をわずかに震わせながら床に倒れていた。血が流れているのが見える。それも普通の量ではない。死ぬのかな。そのまま死んで欲しい。そう期待してしまう自分がいる。それにしても……陽桜莉の方を見る。髪の色が変わっている。目の色も変わっている。そして何より……。
「……それは、なに……?」
陽桜莉の持つ赤い剣を指差す。
「これ、すごいんだよ! この人の身体、簡単に貫いちゃった!」
無邪気に笑う。
「……殺しちゃった……」
赤い剣が、ガランと、床に落ちる。真っ赤に染まった陽桜莉が膝をつく。慌てて、その体を抱きとめる。力いっぱい、抱き締める。血が汚れることも気にしない。気にしていられない。むしろ陽桜莉の汚れが私も汚してくれるみたいで……陽桜莉の重荷を少しでも受け止められてるようで、少しだけ誇らしかった。
「ありがとう、陽桜莉……」
ゴメンなさい。私はあなたを守れなかった。あなたを守るどころか、あなたを危険な目に遭わせた。あなたをこんな風にさせてしまった。ごめんね、ごめんね、ごめんね……陽桜莉…………。
「陽桜莉……なんてこと……」
お母さんの声。顔を上げる。青褪めた表情のお母さんが、両手で口元を覆って立っていた。見られた。見られてしまった。そう思った。誤魔化すこともできない。なにも考えられない。どうしようもできない。ただ陽桜莉を、思いっきり抱き締める。守るように。離さないように。
お母さんが、私が用意していた包丁を拾い上げる。怒られるかと思った。警察に連絡されるのかなって思った。けれどもお母さんはその包丁で、おとうさん……だったものの背中を突き刺し始めた。何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。陽桜莉が刺した傷が見えなくなるまで。返り血でお母さんが、部屋が、真っ赤になるまで。
「……逃げなさい、美弦、陽桜莉」
真っ赤なお母さんが、私達を見る。
「知らなかったの。あなたたちが乱暴されているだなんて」
お母さんが、泣いている。
「……知らなかったの。あなたたちが、この人を殺すほど思い詰めていたことだなんて……」
その表情は、真っ赤でよく見えないけれど、きっと後悔や悲しみや憎しみや恐怖や怒りや苦しみや絶望や……色々な感情が混ざり合ったような、そんな顔をしているに違いない。
「だからこの人は、私が殺したことにするから……逃げなさい、美弦、陽桜莉」
お母さんは私達に両手を伸ばそうとして……その手が血に汚れてるのを見て、途中で止めた。
「美弦。陽桜莉を守ってね」
震える声。
「お母さん、失格ね……」
そんなことないよ。掠れた声で、ようやくそれだけ言うことができた。
ーーーーー
赤い指輪がふたり分。ひとつは、もともと陽桜莉が持っていたもの。もうひとつは、紫乃から貰ったもの。あの惨劇から逃げ出して、紫乃と出会って、この学園に身を潜めて……あれからお母さんがどうなったのか、知らない。報道もされていない。家の方にも……しばらく帰っていない。
ふたつの指輪を握りしめる。お母さんに言われた通り、陽桜莉を守る。今はとにかく、それだけで良かった。
UTHNK首絞め
その日はなんとなく、本当になんとなく駒川さんの首筋が気になった。と言っても変な理由ではない。紅くなった跡が見えたからだった。駒川さんが、その、なんというか……マゾ気質? ということはわかっている。けれども首を絞めるだなんてやりすぎだし、もしそれが事件の跡であるならば尚更、やめさせる必要がある。というかそもそも首を絞める行為だなんて、殺意があるんじゃ……。ともかく立ち上がり、床に置かれた青いソファーでくつろいでいる様子の駒川さんへと声をかけた。
「首、どうしたの?」
尋ねると、駒川さんは首筋に手を添える。
「首、ですか?」
そう言って、少し気難しそうな、それでいてどこか困ったような表情を浮かべ、そしてすぐにいつものように微笑む。
「これは……なんでもありませんよ、白井さん」
誤魔化すつもりなんだろうか。それなら私にも考えがある。私はそのまま駒川さんの正面まで移動して、しゃがみ込む。そして彼女の首筋をじっと見つめた。すると彼女は俯き、それから私の視線から逃れるように横を向いてしまう。しかしそれでもなお、見続ける。
「なんでもない、でそんな痕が残る?」
指摘すると、彼女は少しだけ視線を泳がせた後、観念したようにため息をついた。それからソファの上で体育座りをして膝を抱える。
「……ええ、白井さんが察している通り、締められた跡です」
違う。左右に首を振る。
「知りたいのはそうじゃないの。誰に締められたの? それとも自分で締めたの?」
そう聞くと、今度は膝に顔を埋めた。よほど言いにくいことなのだろうか。でもこのままではいけない。だってこんなことが何度も続けば、いずれ死んでしまうかもしれない。死なないとしても、あまりにも危険すぎる。しばらく無言の時間が続いた。やがて観念したのか駒川さんが顔を上げ、口を開く。
「……星崎さんに、です」
えっ、とそんな言葉が喉から漏れ出た。愛央が? 駒川さんを? 理解できなかったし、信じられなかった。どうしてあの子が、この人を? 困惑する私を見て、駒川さんは苦く笑う。
「勘違いしないでください。私が頼んだんです。首を絞めてください、って」
……この言葉のおかげで、もっと理解できなくなる。
「なんで?」
思わず尋ねてしまった。それに対して駒川さんは小さく笑って答える。
「きっと、気持ちいいと思ったんです」
……わからない。全然わからない。首を絞められて快感を得る人がいるの? そもそもそれは本当に快感なの? というか、なぜそれを愛央が駒川さんの首を絞めたの? 疑問だらけだった、けれど。
「……気持ちいいはずがないよ。駒川さん、それは間違ってると思う」
首を絞めて気持ちがいいだなんて、それはゼッタイに違う。間違ってる。そう言うと、駒川さんはまた苦笑を浮かべる。それから立ち上がって窓際へ。外を眺めながら呟いた。
「そうですね、確かに間違ってるかも、しれません」
その口調はとても寂しげで、悲しげで、とても辛そうだった。だから、それ以上は何も聞けなくなる。どうしたものだろう。愛央やめるように言うべきなんだろうか。でもきっと、これは駒川さんから求めたことだってのは想像できる。愛央が、愛央から駒川さんの首を絞めるだなんて、想像できない。愛央が悪いんだろうか。ううん……。わからない。答えが出ないまま、ふたりとも黙ったまま、時間だけが過ぎていく。蝉の声が遠い。遠く感じる。ふいに駒川さんが振り返り、私の方を見た。
「白井さん、私の首、絞めませんか?」
……? 言葉の意味を理解できず……いや、言葉そのものは理解できるけれども意味がわからず呆けていると、駒川さんはゆっくりと歩み寄ってくる。そして目の前に座り、視線を合わせた。首筋の朱い痕が目に入る。
「そ、そんなの無理だよ! できない!」
そう叫ぶと、駒川さんは残念そうに眉を下げた。
「……私が望んでいるんです。望んだんです」
懇願するような声音だった。けれど、それでもやっぱり私は応えられない。それにもし私が彼女の首を締めたら、彼女は死んでしまうかもしれない。どうして殺すような真似ができるのだろうか。私にはわからない。わかんないよ。すると駒川さんは私を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「白井さんは、死にたいですか?」
突然の言葉に戸惑ってしまう。えっと、どういう意味で聞いているの? それともそのままの意味で受け取っていいの?
「えっ、えと……」
戸惑い、言葉に詰まると、駒川さんは微笑みを浮かべた。
「冗談ですよ、白井さん。冗談です」
そのままソファの方へと戻り、座ると再び膝を抱える。
「すみませんでした。もう、言いませんから」
そう言われてしまうと、これ以上は何も言うことはできない。唇を噛む。力になることができないことが悔しい。人の心がわからないのは、久しぶりのことだった。もし、今ここで駒川さんのフラグメントが暴走したら、はたして今の私に抑えることができるだろうか。不安になる。愛央なら? 美弦さんならば? きっと、寄り添えるのだろう。駒川さんのことを、もっと知りたい。知らなければならない。
「……駒川さん。本当に、望んでるの?」
触れあえば、わかるのだろうか。
「……ええ、星崎さんにもそう言われました。本当に首を絞められたいのかと。苦しいのが好きなのかと」
そう言って、少しだけ微笑む。
「きっとそれが、私というものなんだろうって思うんです。でも、白井さんが望むことではないでしょう? だから、大丈夫です」
その笑顔は、なんだかすごく切なくて、見ているだけで胸が苦しくなる。
「絞めるよ」
それは私にとって、勇気のいる言葉だった。こんなのおかしい。ゼッタイに間違っている。そんなことはわかっている。
「……殺さないように、絞める。首、絞めてあげる」
でも、駒川さんの望みを叶えてあげたいという気持ちは、嘘じゃない。駒川さんは驚いた表情でこちらを見る。それから、嬉しそうに笑った。その笑顔に、邪なものは見られない。
「ありがとうございます」
駒川さんが座っている横に腰掛け、手を伸ばす。細い首に触れると、びくりと震えた。ああ、きっとこれが正解なわけがないんだろうなって思いながら、両手で優しく首を包む。ゆっくり力を込めると、駒川さんの顔が苦痛に歪んだ。
ごめんなさい。
ごめんね。
違う。
間違ってる。
指先から感じる脈動が早くなるのを感じる。息遣いも荒くなっていく。このままだと、死んじゃう。
ごめんなさい。
やめて。
お願いします。
助けて。
そんな言葉たちが聞こえてくる気がした。その度に、罪悪感でいっぱいになってしまう。やめたい。やめた方がいい。きっと間違っている。でも、それでも。
やめないで。
続けて。
そう言われたような気さえしてしまう。私は首を絞め続ける。駒川さんの呼吸が浅くなり、顔が紅潮していく。汗が滲んでいる。きっと気持ちよくなんかない。苦しいはずなのに。痛いはずなのに。どうしてだろう。不思議と嫌じゃなかった。むしろ、嬉しいと感じてしまっている自分がいた。自分の感情がわからなくなる。ただ、ひとつ言えることがあるとするならば、それは。
「ダメっ!」
慌てて手を離す。両手が震えている。駒川さんが喉に手を添え、咳き込んでいる。首の痕はより朱く、紅く。
「間違ってる! 間違ってるよ! こんなの、ゼッタイに違う!」
叫ぶ。違うんだよ。そうじゃない。そうじゃないのに。駒川さんは、ゆっくりと深呼吸をしてから、私の方を向いた。微笑んでいた。優しい笑顔だった。まるで、何もかも受け入れてくれているような、そんな感じだった。
「……私が望んだことなのですから」
やだ。やだよ。なんで、なんで……。言葉にならない言葉ばかりが浮かんでは消えていく。両手はまだ震えている。嫌な汗が全身から吹き出している。
不意に、駒川さんは私に抱きつくようにして、体重をかけてくる。ソファに押し倒されるような形になり、駒川さんはそのまま私に覆い被さってきた。首筋に温かさを感じる。これは……手を、首に?
「……私、死ぬの?」
死にたくない。
「死にはしませんよ。苦しいだけ、ですから」
ゆっくりと、駒川さんの手に、指に、力が入ってるのがわかる。私には抵抗することができない。声を上げることもできない。怖い。怖くて仕方がない。けれど、それ以上に。この人の苦しみを、痛みを、少しでもわかってあげられたら。そう思った。首が絞まっていくのがわかった。少しずつ、苦しくなる。少しずつ。苦しくなる。少しずつ。意識が遠のいていくのがわかった。少しずつ。苦しくなる。少しずつ。
そして、全てが真っ暗になった。
RNYUKレズキス
満月のおかげかそれほど暗くなく、そして夏だってのに風は涼しさを運んでくる。まるで晩夏の訪れを感じさせるような、過ごしやすい夜だった。窓の外。いつもと変わらない、雑多な施設が立ち並ぶ学校の裏。勇希が提案した学校魔改造計画も、場所が足らなくなってきたと嘆いていた。
夏の終わり。これは何を意味するのだろうと、窓の外を眺めながら考える。星は夏模様。単なるたまたまか、それとも世界の管理者の不調か。……考えても仕方のないことなのだろうか。ライムさんに確認すべきなんだろうか。それとも、また私は気にしすぎているだけだろうか。幸いにもこの静かな夜に、考える時間はいくらでもある。とりあえず飲み物を用意しよう。そう思って立ち上がり、窓の外に勇希の姿を捉えた。花壇の方を見て、何かを探しているようだった。
ーーーーー
「なにをしてるの? 勇希」
花壇を眺める勇希の背に語りかける。
「黒揚羽」
勇希は振り向かずに答えた。
「単語だけじゃなくってちゃんと言って。なにをしてるの? こんな夜に」
そんな問いに、ようやく勇希は振り返った。どことなく嬉しそうな顔なのは……なんとなく察しがつく。
「黒揚羽を見つけたんだよ! 真っ黒な蝶々! この辺に飛んでったの!」
そう言って指差す先。そこは花壇で……月のある夜とは言え、真っ暗闇で黒揚羽らしきものを見つけることはできない。花の色さえも判別できやしない。おぼろげに、赤や黄の、色らしきものが見えた気もするが、それが本当に花なのかさえわからない。空を見上げる。月は校舎の向こう側。……本当に、こんな暗闇で黒揚羽を見たのだろうか。
「……見間違いじゃない? だいたい、こんな夜更けに揚羽蝶が飛ぶとか考えにくいよ」
蝶々の生態をよく知っているわけではない。けれども夜に、蝶々が動き回るのは考えにくい。真昼ならまだしも。私の言葉を聞いた勇希は、少しムッとした表情を見せる。
「いたんだって! 確かにこのあたりにいたの!」
どことなく真剣な表情。どうしたものかなと思いつつも、勇希の隣に立つ。そのまましばらく二人で、夜の学校の花壇を眺めていた。
虫の声だけが聞こえる時間が流れる。……もう、鈴虫が鳴いているんだと少し驚かされる。とは言え大合唱というほどではない。耳をすませば聞こえるぐらい。
「……本当にいたんだって……」
勇希の呟きが聞こえてくる。ふぅん……。と相槌を打つ。ここまで必死になるということは、本当にいたのだろう。けれどもこんな暗闇だと探すのも一苦労してしまう。ライト、持ってくるべきだったかなと後悔してしまう。
「こんなに暗いと無理よ。ほら、戻ろ?」
そう言う私の言葉を無視して、勇希は再び花壇をじっと見つめ始める。……完全に夢中になっている。無理矢理にでも連れ帰るべきなんだろうか。でも明日は特別に早起きしなければならないってわけでもないし……。
「いたぁ!」
突然の大声。と同時に、勇希の姿が花壇に消えた。
「あっ、バカ!」
慌てて追いかける。そんな大きくない花壇の中に……勇希の姿が見えない。辺りが暗すぎる。ガサガサと、何かをかき分けるような音だけは聞こえる。
「ちょっと! 勇希!? 大丈夫!? 怪我しないでよ!」
返事はない。その代わりにと言うかなんというか、黒っぽい何かがひらりと空中に舞った。その黒い何かは空中を漂うように、もしくは誘うかのようにゆっくりと揺れてみせた後、テントの方へと。アレは黒揚羽……? そう思った瞬間には、私の体は動いていた。あの黒揚羽を追いかけなければならない、そんな気がした。
その姿を追いかける私を嘲笑うかのように、黒揚羽はゆらりゆらりと揺れながら飛び去って行く。その姿はどこか楽しげに見えてしまう。どうしてだろうか。なぜだかとてもイラついてしまう。足を動かすたびに、暗闇に靴音が響く。私は何をしているのだろう。何を追っているのだろう。そんな疑問を抱きながらも追いかけて……どうやら黒揚羽は、テントの中へと入ってしまったみたいだった。逃さないと。屈み込み、テントの中を覗き込む。真っ暗闇のそこは……恐怖さえ感じるほどで、思わず息を飲む。……そこには何もなかった。ただ暗闇が広がっているだけで……先程までそこにいたはずの黒揚羽の姿がない。まるで最初からいなかったかのように。……まさかと思って左右を見る。……やはりいない。暗すぎて見えない。……どこに行っちゃったのよ……! 焦燥感だけが募っていく。なんで私はこんなことをして……。そんな時に、背中から重さを感じ、暗闇の中へと倒れ込んだ。叫び声を上げそうになった。
「伶那、どうしたの?」
勇希の気の抜けた声。ホッする。背中のこれは、ああ、いつもの勇希の重さだ。間違えるはずもない。
「なんでもない! ……重いよ! 勇希!」
なんとかもぞもぞと身体を動かして仰向けになり、勇希を視界に捉える。月明かりも、たまたま勇希の顔を淡く照らし出した。土か泥かで、両頬が汚れている。手を伸ばし、その汚れを拭き取る。勇希は、不思議そうな顔をしながら、私を見下ろしていた。
「……黒揚羽が、この中に入ってったの」
もう見つからないけどね。そう付け加えると勇希は、「そっかぁ」と気のない返事をした。それからしばらくの間、無言の時間が続く。虫の声だけが響き渡る。こうやって真正面で勇希の顔を見上げるのって、久々な気がする。勇希の大きな黒い瞳が私を捉えている。月明かりが私に乗っかっている勇希の小さな身体を照らしている。ふたり分の影が、テントに映し出される。静かな呼吸の音が聞こえる。少しだけ、鼓動の音も聞こえた、気がした。少しだけ汗ばむ、投げ出された両手。月が雲に隠れ始めたのか、闇が一層濃くなる。このまま時が止まればいいとさえ思ってしまう。勇希の手が伸びてきて、私の前髪をかきあげる。そしてそのまま、おでこに手を当てられた。冷たい。勇希の体温が伝わってくる。その冷たさが心地よくて目を細める。その時、また風が吹いた。ザワリと木々が揺れる音。勇希の長い髪も揺れる。
不意に、口元に勇希の体温を感じた。それが勇希の唇だと気づくのには少し時間がかかってしまった。……キスされていると気づいた時にはもう、勇希の唇は離れていた。呆然と勇希の綺麗な目を見つめ返すことしかできない。勇希は悪戯っぽく笑うと、もう一度、今度はさっきよりも強く、私の口を塞いだ。
「……んっ……」
声にならない声が漏れる。柔らかい感触と、生温かい吐息が伝わる。
「ぷはぁ!」
勇希が離れていく。勇希の唾液と、自分の唾が混ざり合ったものが糸を引く。なんだかすごく恥ずかしい。心臓がドキドキしている。勇希も同じなのか、耳が赤く染まっている。勇希はゆっくりと起き上がると、「帰ろ?」と小さく呟いた。私は、黙ったまま勇希の手を握り締めると、立ち上がって歩き出す。勇希は何も言わずについてくる。きっとお互い、顔を合わせられないんだろう。……それでも繋いだ手だけは離さなかった。
BLUE REFLECTION 二次創作