メメント・モリと写真展



 不謹慎な響きに気付きながらも背筋を伸ばして記述をすれば、生前の姿を記録できる写真だからこそ被写体となった人の死をその表現に呼び込むのは難しくないと考える。すなわち被写体となった本人が既に他界されているときは勿論、その本人が存命する「今このとき」もいつか迎える終わりを記録物たる写真は予感させる。合理に従って物理的に又は制度的に構築される人間社会がどれだけ見ないフリをしようとも、身体的機能が停止すればその死を迎えることを私たち人間が知っているから、写真で残されるイメージには過ぎ去りし日の刻印がしかと残される。
 写真撮影ではシャッターを切った瞬間にファインダーで捉えていたものが機械的又は化学的方法で残される。その過程においては撮影後に起きる変化を捉えることが叶わない。同じ構図で、同じ被写体を何度でも撮影できるとしてもその瞬間、瞬間の判断をやり直すことはできない。このことはデジタルの場合にも妥当する。写真撮影は、喩えれば素朴に把握する時間の矢印が進んでいく一方向の直線上で行われる点としての決定であり、飾り付けた言葉を上から塗せば逆巻く夢を決して抱けはしない決断そのものといえる。この点で切り取り線として存在する写真作品はその失敗と成功を事後的にしか知り得ない。だからこそ写真作品は時間芸術の名を冠する。その戴冠式においては生者も死者も等しく扱われる。免れられない人生の終わりを共有している。
 ラテン語であるメメント・モリが有する「死を想え」という意味が辿った変遷からは、人間が「死」に対して選択できる態度の違いが窺える。いつ死ぬか知れないからこそ今を楽しめ!という享楽へと至る道と、いつ死ぬか知れない現世の虚しさをこそ足場にして救済に満ちる来世へと意識を向け、可能な限りの徳を積む生き方に身を置く道を両極とする価値判断の違いである。
 死を恐れるからこそ生きられる人は、生きるからこそ死を恐れる。死への真摯な向き合い方はそのまま裏返って、真剣に生きる今に繋がる。対概念として定義づけられる生死の境目に浮かべられる写真表現のイメージもそれを鑑賞する者が過ごす個々の人生の起伏と色合いに応じて大きく揺らぎ、瞬間的な輝きを放つものとして大切に拾われることもあれば痛切な事実を嫌でも伝えてくる対象として忌避されることもある。しかしながら、その間に表現作品としての優劣はない。どちらも観る側の感情を鷲掴みにしている。
 改めて記せば、そもそも記録物である写真に求められるのは何を撮影したのかという点を把握できる情報の正確さだと言える。日時、場所、そこにいる人又はそこにある物、撮影者の立場と撮影の目的(例えば被写体となった家族の集合写真を撮った知人又はいち早く駆けつけた事件現場を撮影した報道カメラマン等)。現像され又はデータとして保存された写真からこれらの点を知り得るならその史料的価値は十分に認められる。本来、それ以上のものは要らない。
 かかる写真の史料的価値に基づけば、表現作品と評価できる写真はただの情報取得に終われない工夫が施されているものをいうと考えることができる。それは記録装置であるカメラの性能をフルに活用した写真、例えばアンセル・アダムスとフレッド・アーチャーが考案したゾーンシステムによって撮影された人の身体機能を優に超える撮影条件で捉えた明瞭かつ静穏な光景の、日常のベールを引き剥がす奇跡的な情報の記録であったりするのだろうし、または世界中を旅していたセバスチャン・サルガドがヨーロッパに亡命した後も愛して止まなかった南米各地を訪れて撮影した作品集、「アザー・アメリカンズ」に表れている厳しい自然と向き合う人々の生きる形、根ざす強さ、結ばれる血盟、そして直観的に捉えられた構成の隙間から溢れ出す神秘の数々と映って止まない豊かに編まれた情報の記録であったりするだろう。
 技術的な側面に拠って立つ前者の方法に対して、後者は視覚情報その他の身体的情報を統合して認識される人の「世界」の解釈に働きかける工夫であると筆者は考えている。この後者の工夫は筆者が敬愛する写真家であるソール・ライターの写真表現の核心を成しているとも思っていて、かの写真家は都市部の生活においてふっと訪れる緩みを予見的に把握してこれを撮影し、仕上がった作品において前後不覚知の物語を添えた詩的な表現としてそれを結実させた。故に、撮影する場所が前人未踏の地でなくても「世界」を変える写真表現は行える。「どういう写真になるだろうか」と頭で考えるのに先んじて動く指によって切られたシャッター音とその感触に興奮して脈動する内心の達成感を支えるのは一種の未来感覚であり、これを身に付けた表現者こそが成し遂げられる仕事は間違いなく「何か」を雄弁に物語っている。



 東京都写真美術館で開催中の『メメント・モリと写真』展で鑑賞できるロバート・フランクが捉えた多民族国家であるアメリカの見えざる孤独と、寂しくも晴天に突き抜けるような爽快感を兼ね備えたユーモアの音階。または高尚な主題を地面に投げ捨ててアメリカ南部で見られる何気ない風景を撮影し、ときに奇妙で、常に愛おしい人間の「現実」という名の非現実をカラフルに見つめたウィリアム・エグルストンのその目。さらには表現者が見つめるもの全てを静止させる光学作用の余韻と作品自体に備わった硬質ぶりで撮影者たるヨゼフ・スデックが巧みに喩える、過去のざらつき。
 会場内で突出していたこれらのイメージ表現の雄弁な語りの淵源は写真家の代名詞にはなりえても、写真家自身にまで遡及することがない。少なくとも鑑賞者の方ではその必要を感じない。記録装置であるカメラを用いて表現を行う写真家の姿は作品の上で見事に解消されている。有益な死は果たされている。
 人の目で見える普段以上のものを記録し、それを鑑賞者に認識させて始まる写真イメージの誕生とその証となる産声は経験的にこそ知れる。史料として認識できる情報の取得に止まらないはずの写真表現は、鑑賞する側が自然に採用する初期状態としての受け身の立場を質的に変える。鑑賞を通じて生成されたイメージは「所詮は錯覚」という懐疑に向けた個々人の内面的な情動に洗われて唯一無二の地金を晒し出し、遅々として理性的に振るわれる言葉=意味に削られて固有のかたちを成す。個々人の一回的な経験事実として果たされるこの情報処理が写真から得るイメージを「我」々のものとする。その所有感覚に背中を預けて送れる「生」があり、かかる所有感覚を押し広げて人間一般に妥当する写真表現の価値を模索する「営為」に通じる思考がある。生きて死に、死んで生まれる巡りに似た関係性がここにも認められる。
 ここで記しておきたい『メメント・モリと写真』展の解説文はどのセクションをピックアップしても素晴らしい内容で、これを読む前と読んだ後で行う作品鑑賞の感動がまるで違ったから驚いた。筆者は、だから本展を『柴田俊雄と鈴木理策』に続く今年のベストに挙げたいと心から思うのだが、記憶違いでなければその最後のセクションではヴァルター・ベンヤミンの言葉が引用されていた。フランクフルト学派のことを少し齧った程度の知識を持ってはいる筆者は、しかしヴァルター・ベンヤミンの著作をきちんと読んだことがない。何というか、あちこちで引用されるフレーズの切り口が与える感触が十分に好ましいものでその全容を知らなくても構わないかなぁという変な感情を抱いてしまっている。しかしながら先に記したベンヤミンの言葉は表現作品と時間を跨ぐ記述として切れ味がとても鋭く、その哲学を知りたい欲に駆られてしまった。その内容は是非、会場で拝見して頂きたい。


 撮影者が亡くなってもその意思は残る。イメージに即した表現として、その瞬間に生まれてもいなかった私たちの何もかもに刺激を与えて触発し、その時代ないしは社会状況に応じた生まれ直し方をして真理(めいたもの)に近付いた命脈を絶えさせない。
 生きる情報処理システムとしての人間の間で行えるこの営みを楽しむのに理由なんて要らない。心からそう思えるこの瞬間をこそ、今こうして言葉にしようと心掛ける。日々の理をこそ逞しく生きる為に。
 死をも超える表現を、ただの情報として殺すことがないように。
 

メメント・モリと写真展

メメント・モリと写真展

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-04

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