虹の影 ~ Jardin d'iris ~

次森友美

 ――久々に舟の夢を見た。
 けれどもいつもとは状況が少し違う。篠原亮は櫂で銀の舟を漕ぎながら、濃い霧の中を懸命に進んでいる――ような気がする。なんせ周りは霧だらけだ。進んでも進んでも白い霧があるだけで、景色が変わるわけでもない。舟の揺れる感触と、ざあと流れる水の音、頬を叩きつける強い風圧で、辛うじて前に進んでいるという自覚があるだけである。
 帆先の銀の装飾が霧を割って空気の隙間が渦を巻く。白の薄れた霧の狭間もすぐに濃霧で埋められる。何があるわけでもない。変化が起こるわけでもない。このまま進んで何がある。本当にこのままでいいのだろうか。もしかすると何もないのでは。これでいいと勘違いをしているだけでは。などと次から次へと押し出される疑念につと駆られ、目標物の定まらない舟は推進力を徐々に削がれる。手を緩めると、櫂は舷に身を委ねるようにして舟の上で静かになった。
 ふと気配を感じて辺りを見渡す。霧の山を超え、そのまた向こうの霧の奇峰に何かの影が映っている。赤と青の光の中に黒い三日月と人の影。墨を溶いたような淡い影が丸い虹の中に滲んでいる。
はて、あんなもの、今まで見たことがなかったけれど。こういう現象を耳にしたことがある。ブロッケン現象って言うんだっけ、太陽の光を受けた自分の影が霧に浮いて出てくるっていうやつ。影は一定の距離を保ったままこちらへ帆先を向けている。亮が右手を上げると向こうの影も手を上げた。へえ、面白い、と櫂を動かして影の方へと舟を近づけた。ザブンと漕いで舟は進む。虹の影もこちらに向かって進んでいる。なのに二者の距離が一向に縮まらない。漕いでも漕いでもその努力は泡と化す。
 幾ばくかの刻が過ぎ、一抹の懸念が頭を掠めた。俺はいったい何やってんだ、いくら漕いだって出会えなければこの努力は無駄じゃないか。得体のしれない虹の影、永遠に近づくことのない目標物。あんなものを本気で追い求めようとするなんて、よくよく考えると馬鹿げてる。前へ進むのを止めようか。それとも別の方角へ向かおうか。何も見えない、白い霧だらけの虚無の世界へ舵を切って……
 不安、脱力、倦怠感。そぞろな気分に手の力が抜け落ちた。動きを止める亮に倣って虹の影も櫂を下ろす。二つの舟は並行世界に漂いながら白い霧に躰を委ねる。より濃い霧が覆いかかって銀の舟を沈ませる。亮の意識が霧の中へと落ちてゆく。

「……と、いうような夢を、たまに見たりする」
 食べ終わった弁当箱に蓋をして、机脇に掛けてある鞄に仕舞いこんだ。教科書とノートが詰まったリュックの鞄は、登山をするのかと思うくらいにパンパンになってはち切れている。
机の真向いにいる友人は、「ふうん」と気のない返事をしながら、ソースのついた一口カツを頬張った。亮がこちらへ引っ越してからの、数少ない友人の一人である。眼鏡を掛けた物静かな佇まいは、真面目さを通り越して堅苦しいというか、取っつきにくい感も滲ませているのだが、それもそのはず、こいつは「競技かるた」という、亮には馴染みのない百人一首のスポーツ競技をこよなく嗜んでいるのだ。レベルもそこそこに強いらしく、大会で勝って地元の新聞に載ったのも何度か目にした。趣味はかるた、部活もかるた、話す話題も全てかるた、時間があればかるたの練習。呆れるほどに、こいつの周辺には常に幾万もの「かるた」という文字で溢れている。
「ふうん、って、そんだけ? 恥を忍んで俺の秘密を喋ったのに。他に意見がないの? 最近見た夢とかさ、夢についての解釈とか」
 んー? と眼鏡レンズの奥の視線を上げて、友人は口をモグモグさせる。昼休み前に担任から呼び出しを食らっていて、今日は遅めの昼食だ。
「俺は夢なんて見んでえ。寝不足はかるたの暗記の大敵やからな、いつも熟睡七時間は確保しとる。睡眠時前はスマホも見んようにしとるし、目覚めは毎朝バッチリや」と、二つ目の一口カツを口に入れる。ウスターソースの香ばしい匂いがぷんとする。こいつ昨日もカツを食ってたぞ。こっちの人ってどんだけソースカツが好きなんだ。
「ああ、そう、カツ……じゃなくて、かるた、だよな。さすが、寝るのに関しても自己管理が徹底してんな……」と、感心しつつも顔に出るのは薄ら笑いだ。
「あ、思い出した」と、ご飯を挟む箸を下げ、左の甲で眼鏡枠をくいと上げた。「死んだじいちゃんの夢なら前に見たことある。夢ん中で一緒にかるたしてな、初めてじいちゃんのかるたを見たんやけど、ひっでもんに強かったんやざあ。怖いくらいの強さやったけど、でも楽しかったなあ。もういっぺんくらい、夢に出てきてくれんかなあ」
「夢でもかるたしてんのか。すげ」
「百人一首にも夢を詠ったもんがあるで。『住の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ』って、藤原敏行朝臣が詠んだやつ。他人にバレたらあかん恋やっても、夢の中で逢いたいっていう意味やな。敏行は三十六歌仙の一人でな、和歌にも書にも長けた名人やったそうや。何も見えん夜の闇ん中で、ざあーって海の波の音だけが静かに聴こえてくるみたいやろ。ええ歌やな」
 素直な笑みが友人の表情に浮かんでいる。かるたのことを話しだすと素の純朴さ丸出しだ。正直、和歌や古典に関しての造詣はそれほどでもないのだが、話題を他に振ることもできず、「んー、うん、そうだな」と曖昧気味に追随した。
「『す』とか『せ』とかS音の札は大事でな、これを取られると試合の流れがコロッと変わったりするさけえ、こう、一直線にな、きっちり取るよう気を付けとるんやけど」と、箸を置いて水平に腕をブンブン振る。
「なるほど、俺にはよく分からん話だけど、なんとなく理解した」と、素早く出された腕から反射的に仰け反った。
「夢に関する和歌はたくさんあってな、平安時代の貴族たちも好んでネタに使ってた。有名なのは、ほやなあ……古今和歌集にある小野小町のこの歌、知っとるか? 『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』」
「あっ、それなら俺でも知ってるぞ。教科書かなんかで目にした気がする」
「夢っていうのは深層心理を脳がイメージとして見せてくるっていうけどな、脳の働きなんて昔の人は知らんでえ、夢を一つの世界として認識していたんや。どうしても会うことができん、でも会いたいと思う人に会わせてくれる、大切な異次元の通り道。夢は神様とか仏さまとか、そういう人たちから贈られたメッセージやったんやな。やから夢解きっちゅう、夢を分析して解き明かす職業もあったりした。今でいうと予知夢とか、夢占いとか、ほういうもんかな。でも昔の人にとっての夢は、ラッキーアイテムみたいな軽々しいもんではなくて、自分の運命や人生、生き方の指針、未来までも変えてまうほどの影響力を持っていたんよ」
 へえ、と、友人の造詣に耳を傾けながら、「じゃあさ、俺の夢に出てきた虹の影にも、何かの意味があったりするのかな」
「意味って、なんのことや」
「例えば……特別な人に会える予言だったりとか」
 思い浮かぶのはもちろん遥香だ。こっそりこちらへ遊びに来たりとか? 道端で偶然会えたりとか? なんて、あの夢が良い前兆ならばとフワフワ妄想が膨らみかけたのだが、
「あるわけないやろ。夢解きなんて昔の人が信じていた、ただの迷信や」
 素っ気ない一言で、にわか妄想は敢え無く萎む。周囲にいたクラスメイトはほぼ昼食を食べ終えていて、呑気に食べているのは目の前の友人一人だけだ。友人は最後のカツを箸で掴んで自分の口に放り込んだ。
「夢を見ただけで自分の将来が変わってもうたら、えらいことやさけえ。俺は非科学的なもんはあんま信じん。将来は自分の手で掴むもんや」
「将来のことについて、考えでもあんの」
「うん、やっぱ俺にはかるたしかないさけえ。かるたで社会構造を変えていくような、そういうのを俺にも何かできんかなって、色々と調べとる」
「またかるたか。そこまで極めるなんて、すげえなホント、感心するわ。大学合格おめっとさん」
「へへっ、ありがとな」
 友人は耳を赤らめながらズズッと洟を啜り、手を合わせて今日の弁当に感謝した。こいつは先日、東京の大学へ推薦入試を受けていた。先ほど担任から、その合格を伝えられていたのだ。

 東京から地方の高校へ転校して八か月が経つ。転校先は県内随一の進学率と抜群の偏差値を誇る公立のF高校だ。在校数は約千名、部活動や同好会も体育系、文科系ともに活発にされている。吹奏楽部もレベルが高くコンクールでの金賞獲得常連校であるが、亮はやはりここでも入部をしなかった。目指すはやはり父親であり、一流の菓子職人である。亮は父の経営するパティスリーでアルバイトとして働きながら、毎日修練を積んでいる。とはいえ学業優先、成績下がれば出勤停止、勤務時間は学校の部活動と同じ夜七時までを厳守とする条件は、東京にいた頃とさほど変わらない。亮は祖父の家へ鞄を置いて、私服に着替えて自転車に跨る。自宅から川沿いへ走ったすぐ先に店はある。
 Jardin d'iris(ジャルダン・ディリス)――父の作った新しいパティスリーだ。
 日本語でいうと菖蒲の庭。淡い紫色をした花弁がスカートのフリルのように華やかで、亡くなった祖母が好んだ花だ。パティスリーを建てる前――祖父の定食屋だった頃、店先に菖蒲を何本か植えていたらしい。建て替えの際に花はなくなり、代わってミニバラの植木や黄色やピンクの小花たちが店の庭に彩りを添えている。
 店のコンセプトもまるっと変えた。主なターゲットは家族連れ、板張りの壁にツタのリース、陶器や雑貨小物、グリーンを散りばめて、ヨーロッパの片田舎を連想させるような可愛らしい内装となっている。奥には店のシンボルともいえる、黒の薪ストーブがでんと構えていて、そろそろ暖のお世話になる時期だ。バルカロールのシックな佇まいはどこへやら、週末になると高校生や大学生、小さな子どもを連れた家族で賑わっていて、よくぞここまで一新したというか、地元のニーズをとことん知り尽くした父のセンスに舌を巻く。
 店の裏手に自転車を止めて店へ入ろうとしたら、視線の端に人影を見つけた。川辺に広がる石畳の階段に小さな男の子が座っていて、水の流れを眺めながら黙々とお菓子を食べている。ここへよく一人で来ている子だ。量販店で売っている単色の上着と濃い目のジーンズ。寒そうに背中を小さく丸めて、手にするいつもの黄色い袋、あれはポテトチップスか? 亮が見ていたら男の子と目が合って、いつものようにそ知らぬふりして目を逸らされる――と思いきや、ペコリとこちらへお辞儀をされて面食らった。なんだ、結構いい奴じゃん。
 コックコートに着替えて、厨房へ。職人は東京からの協力助っ人、蔭川の他に男性一人と地元採用の女性二人、厨房外のカウンターには三國屋さんという女性の人、父は事務室にでもいるのだろうか、厨房を一時離れている。平日なので客数は少なく、ある程度の仕事は終わっている。翌日の生地の仕込みに器具の後片付けを手早く済ます。時間が余ったので、こういうときこそ自主練習、蔭川相手に絞りの指導をお願いした。
 絞りにはホットメレンゲというものを使用する。卵白に砂糖を入れて湯煎をして泡立てた、ごく単純なクリームだ。卵白は店で大量に余るから、練習材料には丁度いい。絞り口はサントノーレの尖った口金で、黒鉄板に白い山並みをにゅっと出す。山から尻尾が細く伸びて、山裾がぽってり広がる形はさながら海で泳ぐ白いエイだ。絞りのテンポをリズムよく、一定の力加減で、黒い鉄板に白いエイを何匹も泳がせた。エイの群れの先頭が徐々にズレてくる。ああ、尻尾が捻じ曲がった。クソッ、まだまだ技術が足りてない。
「菓子の専門学校でも、こういうことをするんですよね?」と、五匹目のエイを絞り出しながら蔭川に問いかけた。
 うん、と、蔭川は頷いた。長い手袋を付けて、腕全体を使いながら、ボウルに入れた白い生地を懸命に練っている。地元の和菓子屋とコラボした、どら焼き生地を準備しているようだ。
「絞りの練習はたくさんするよ。ロザーズっていう、星口金で作るバラの形ね、あれを時間内に何個作れるかって競争したこともあったなあ。懐かしいなあ」
 遠い目をする蔭川はいつものように顔が青白いが、こちらへ来てから少し血色が良くなった。若干太ったような気もする。地元方言の影響を受けたからか、イントネーションには妙な抑揚ができていた。もしかすると彼女ができたんじゃないかって、三國屋さんが嬉しそうに喋っていたっけ。蔭川さんを好きになる女の人って、いったいどんな人なんだ?
「親父……オーナーがね」と、いらぬ妄想に口が滑った。手も滑って六匹目のエイの頭に瘤ができた。「専門学校には行くなって言うんですよ。お金も掛かるし、近くの大学へ行きながらここで働けば十分だって、どうしても許してくれなくて」
 一発奮起で意気揚々と転校したのはいいものの、いざ現実となるとそのハードルの高さに目を剥いた。とにかく学費だ、学費が高い。一年で二百万、二年だと四百万。教科書や資格取得といった諸々とした費用も嵩んでくる。積み立てておいた学資保険もあるにはあるが、その用途を専門学校に全額当てしまうのもどうなのだろうと、父は渋い顔を変えようとしない。
「ああ、なるほど、そういう見方もあるよね。店で学ぶ方がより実践的だしね、実技としても早く覚えられるし、オーナーの指導なら申し分ないし。じゃあもう専門学校はやめておくの?」
「うーん、まだ悩んでるんすよ。やっぱり諦めらめきれなくって。俺の行きたいとこって関西なんすよ。一人暮らしもしないといけないし」
「ええっ、そうなの?」
 ボウルを混ぜる蔭川の手が止まった。声に驚いたようにエイの白い尻尾が横を向く。黒い海を泳ぐ十匹のエイの群れは統一感がなくてバラバラだ。駄目だなこりゃと反省し、絞りを持つ手に集中しながら次の群れに挑戦した。
 専門学校を調べるうちに、興味を引く学校が一つあった。大阪府天王寺にある、大辻製菓専門学校というところだ。一次募集は間に合わなかったが、二次募集の締め切りがもうすぐあり、再度父に頼むつもりでいる。亮がそれほどまでにここへ拘るのには理由がある。その専門学校の提携先となるフランス校、その実地研修(スタージュ)となる先に、ストレール――父が修行を積んだパティスリーがあるのだ。

 亮の漕ぐ舟の先にはまた虹の影が待っていた。小さな影を内に抱える赤、白、青の光の環。巨大な丸い虹は奇妙でありながら、見惚れるような怪しさで三色の光を輝かせ、あらゆるものを内へ吸い込もうとする魅惑的な引力を放っていた。無視しようにも抗えない、引き剥がすことがどうしても許されない、大きな導き、天から与えられた霊力のようなもの。見えない糸に釣られたかのように、亮は虹へ向かってひたすら櫂を動かす。虹の影も同じ動きでこちらに向かう。なのにどうしても二つの舟は近づかない。必死に、さらに必死に、がむしゃらに、漕いでも漕いでもその距離が変わらない。
 重い櫂に腕が痺れて息が次第に上がってきた。なんで会えないんだろう。なんで辿り着けないんだろう。疲れた、しんどい、もうこのまま諦めようか。不安になって、諦めて、また挑戦して諦める。そんな気分に幾度となく振り回される。気分の変動は気力を奪う。気力の消耗は不安を呼び、不安の叫びは虚脱感を増幅させる。
 舟のスピードは徐々に落ち、櫂の動きがピタリと止まった。虹の影も動きを止めて、両者は静かに川に漂う。ゆらゆら、ゆらゆら、足元が水に浮く。ゆらゆら、ゆらゆら、目の前で虹がちらつく。ゆらゆら、ゆらゆら、心のブレが収まらない。ふてぶてしいほどの存在感が全くもって苛立たしい。叶わない努力が腹立たしい。亮の心に張る何かが、どこかへ弾かれ飛ばされた。フウと大きく息を吸い込んで、
「なんでこっちに来ねえんだよ!」
 肺に燻る全ての澱を、虹の影へ一気に吐き出した。
「どんだけ苦労して、そっちに向かっていると思ってるんだよ。どんだけ苦しい思いして、櫂を動かしてると思ってんだよ。何かあるならはっきり言えよ。いっつもぼんやりな形してて、そのくせ綺麗な虹なんかしょっててさ。もうムカつくんだよ。そっちに行けないんだったら、もう消えろよ。気になってしょうがなくって、目障りでウゼえんだよ。お願いだから消えてくれよ。お前がいるから行きたくなるんだよ。お前がいるから疲れるんだよ。頼むから、もう消えて俺を放っておいてくれよ。なあ、頼むから……」
 威勢を損なう亮の声は徐々にか細くなってゆき、空気を切らした躰が萎むようにその場でしゃがんだ。腕に顔を埋めて肩で息を整える。もういいや、あんな虹。追いかけるのもめんどくせえ。無視してどこかへ行ってしまおう。眼を閉じて、霧へと消える刻を待つ。川を渡る風が腕に触れた。空気の圧が髪に当たる。何かを感じて顔を上げると、巨大な虹がすぐ傍まで来て色の輝きを濃くしている。赤、白、青と、虹の環が川の上でグルグル渦を巻いている。
 ――ちょ、嘘だろ、なんだよこれ。
 打ちのめされるほどの威圧感に亮は息を飲み込んだ。虹の中心にある影が見る見るうちに倍に膨らみ、亮の背丈を追い越して、黒い腕のようなものが視界いっぱいに広がった。影の腕が銀の舟へと襲い掛かる。やっべ、逃げなきゃ――思う間もなく、影は亮の躰をすっぽり包み込んだ。虹の環に舟が吸い込まれる。赤い光の圧に呑み込まれる。底知れぬ恐怖感で亮は何かを喚きまくった。どこかへ叫んだ。助けを呼んだ。それらの声も虹の光に捕まった。舟の銀の輝きも虹の色に変えられる。捉えたものは離さない、狙ったものは逃がさない、そんな虹の強い意志が亮の脳裏に瞬いた。ぬるりとした肌の感触とともに、亮と舟は虹の光へ溶けてゆく。赤の輪郭が細く残り、それも霧にふつりと消えた。

 年が明けて、遥香がこちらへ来てくれた。ジャルダン・ディリスの店先で、遥香と並んで車を待つ。朝から重い雪が降っていて、雪の積もる道路を歩くのは難儀だろうと、祖父が駅まで送ってくれるそうだ。
一年ぶりの遥香は化粧を薄く施しているからだろうか、積もったばかりの新雪のようなきめ細やかな肌がより白く、火照りを浮かす頬と上品に結ばれた唇が鮮やかな薔薇色を増している。膝下までのロングコートに身を包み、肩を竦めて寒さから身を守る仕草は、可愛らしい雰囲気をそのままに、でも一年分の大人びた空気をどことなく仄めかせている。高校生と大学生、一年しか変わらないはずなのに、数億光年先にある星のようにその差は大きい。幼いころからの、永遠に埋まることのない時間の壁。その壁が嫌で、どうしても超えたくて、亮はいつも遥香の後ろでがむしゃらに足掻き続けている。
「雪がすごいねえ。白くて綺麗だねえ。さすが雪国だ」
 綺麗なのは雪じゃなくて遥香さんだよ、なんて気障な台詞を言えるわけでもなく、
「綺麗なのはいいけど、ダセえ黒の長靴を履いてガッコ行くのはもう勘弁だよ。長靴の中に雪が入った時の冷たさっていったら」と、雪国生活の不満を毒づいた。
「アハハ、大変だね」
 頬を綻ばせながら、真っ直ぐな黒髪を耳へ掛けた。小指には三日月石のついたシルバーリングだ。告白しようとクリスマスイブに贈ったもの。音楽の道へは一緒にいけない、その判断はどうなのだろうと、三日月の小さな欠片が亮の心に小さな棘を刺してくる。
「留学は一年だっけ」
「うん、もう準備始めてるよ。受かるといいけどねえ」
 雪の積もる駐車場の向こう側、ここから見えぬ異国の地へ、遥香は視線を動かした。遥香は今年の九月から、ウィーンへの音楽留学を決めている。試験は四月に東京で開かれるらしく、今は試験準備と語学勉強で超多忙なのだとか。
「遥香さんなら大丈夫。応援してるよ」
「ありがとう。このケーキもね」と、手にした白いケーキ箱を上へ掲げた。お土産として亮が渡したものだ。中には自作したバルカロールのケーキが入っている。
「まだ一人では作れなくてさ、親父にも手伝ってもらったんだけど……」と、ちょい照れてこめかみを掻く。「どうしても舟のケーキを自分で作って渡したかったんだ。遥香さん、夢占いって信じる?」
「え? そうだなあ、占いは好きだよ。雑誌でもよく見たりするし」
「俺さ、変な夢を見たんだよ。大きな虹と影に飲み込まれるような夢。すっげ奇妙なもので、得体が知れなくて、虹に食われる瞬間は死ぬかと思うくらいに怖かった。起きたときも寝汗びっしょりでさ、なんでこんな怖い夢を見たんだろって、ずっと不思議に思ってた」
 車が一台駐車場へ入ってきた。祖父のものかと思ったが、黒のセダンで違う車だ。出てきた男の人は、頭を手で隠しながら駆け足で店先へ来た。遥香が脇へ寄り、亮と肩が少し触れた。店の中へ男性が消えると、空から降る雪だけが動いている。雪はどんどん積もりゆき、駐車場のタイヤ跡も綺麗さっぱり白く塗りつぶしている。
「考えられるとしたら今の状況なんだ。やりたいことはあってもそれが本当に正しいものが分からなくて、漠然としていて、いざやろうと決意しても親父に拒否される。どうしようかな、どうするべきかなって、ずっと悩んでいてさ、それが怖い夢の正体なのかもしれない。俺は多分、パティシエっていう職業に、心のどこかで物凄く恐怖感を覚えている」
「亮くんが? 意外だな……」
 驚く大きな瞳がすぐ目の前にある。その瞳を見つめながら亮は語る。
「友達に教えてもらったんだけど、平安時代の夢は、会いたい人に会わせてくれる異世界の通り道だったんだって。俺が会いたいのは、パティシエになった未来の自分の姿だ。パティシエにはなりたい、だけどその姿がすごくぼんやりしている。なったらなったで目指すべき目標が定まらないんだよ。部活動みたいに三年間の区切りがあるわけでもないし、コンクールには興味があるけど、それが最終目標じゃない気もする。フランスにも行きたいけど、じゃあその先は? お金は? また親父の店で働くのか? 自分の店を出す? 儲けられるのか? そもそも十年後に、俺はパティシエを続けていられるんだろうか?……考え出すとキリがないよ。不安だらけで足も竦む。多分これが悪夢の元凶。毎日店へ出入りして、そんなに簡単な世界じゃないってことぐらい、もう分かっているから。この間も、東京から来た職人さんが一人辞めたんだ。やっぱり地元へ戻るって。腕のいい人で頼りにしていたのに、辞められたときは正直言って辛かった」
「そう……」
「でももう決めた。どうしても叶えたい夢があるから、それを実現させてみる。もう一度、親父を説得してみるよ。この店を一度出て、学校通って世界に行きたいって。世間を知って、しっかりとした実力を身に付けて、いつかは自分の店を持ちたいから」
「わ、すごい」と、遥香の顔に雪の花がぱっと咲き誇った。「お店に行ったら、亮くんの作った美味しいケーキ、たくさん食べさせてもらえるのかなあ」
 ああ、この感じ、いつもの遥香さんだ。雪の花が亮の顔にも咲いてくる。
「うん、毎日でも食べてほしい。遥香さんのために、たくさん作るよ。俺が店を作ったら、遥香さんにはそこでリサイタルしてほしいな。毎月でも、毎日でも、ずっと俺の店でフルートを吹いていてほしい。遥香さんの演奏を、ずっと隣で聴いていたいから。それが今の俺の夢」
 音楽の道には一緒にいけない。でも違う形で遥香を支えることはできるはず。三日月の石がこの決意の証人だ。強い意志に導かれるように、夜空の瞳が亮を捉えた。
「うん。じゃあ私も亮くんのために、フルート上手くならなくちゃね」
夕刻の町は夜へ向かう道を迷うように雪に淡く照らされている。雪に浮かぶ愛しい人を掬うように、亮の手が遥香の頬に触れて唇を寄せた。穢れのない雪の結晶が天から贈られる。白い雪に守られながら、二人の絆は未来への白い道へと繋がれている。

― fin ―

虹の影 ~ Jardin d'iris ~

虹の影 ~ Jardin d'iris ~

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-08-04

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