ハロー・肉屋
体育とは、僕に言わせると本当に退屈で味気のない食べ物だ。特にバスケが面白くない、あんな網に丸い球体を放って何が面白いのだ。
運動場の周りを走っているクラスメイトを見ながら僕はそう思った。そして僕はポケットに手を突っ込んで歩く。入道雲が浮いている。でもスカスカで美味しそうに見えない。誰しもがそう思うだろう。
「高橋。そんなにダラダラと歩いていたら教員に怒られるぞ」メガネをかけたクラスメイトの矢萩が僕の横で足を止めて言った。
「怒られるって? いいじゃないか? それもまた、教員の仕事だろう? 指導というのはさ」
僕は矢萩に目を向けずに答えた。
「高橋はそれでいいのかもな。けども或るウワサを聞いたんだ」
「ふうん。ウワサ?」
「ああ。あの体育教師さ、他の教員から指導を受けても態度を改めない生徒たちを美術室の隣にある空き部屋で、最後の指導をしているらしい」
「最後の指導だって? つまり、あれか、拳で締め上げる暴力的指導ってやつか?」
僕の言葉に矢萩は軽く首を横に振った。
「いや違うらしい。なんでも、指導を受けた生徒たちは別人のようになるんだ。それは良い事であるかに感じるかもしれないが実際はまるでセミの抜け殻のように空っぽになるんだ。受け答えは完璧のPCが操作している人形だってな」
「体育教師にボコボコに殴られた影響だと思うが」
「いや、顔一つ傷がないんだ」
「ふうん」
「どうだ少しは走る気になったか?」
矢萩はニヤリと微笑む。だが僕は溜め息を吐いて「ちっとも、スーパーの試食くらいちっとも満たされないな」と言った。高橋は口を小さく開いて「あはは」と笑い、僕の先を走る。油が乗っていないそれは美味そうには見えなかった。
雨がポタポタと降る。僕は空を見上げる。曇った様子はないのに雫が落ちて僕の顔を濡らす。僕は庇がある場所に移動した。雨に濡れるのは好きじゃない。庇の下に座り雨が降り終わるのを眺めていると。
「高橋くん。サボっているの?」と声が聞こえた。
横を見ると同じクラスメイトの宮本が体操服姿で立っていた。
「晴れるまでここにいるんだ。宮本こそサボりか? 女子は体育館で授業だろ?」
宮本と呼ばれた女生徒とはニコリと笑い「そうよ。でも今日はバトミントンをする気分じゃなくなったのよ。貴方だってそんな気持ちになる時があるでしょ? そうね。醤油ラーメンを食べに行ったのに注文したのは炒飯と餃子セットだった。そんな感じで」座る僕を見下ろして宮本は言った。
「さあ。宮本の気持ちがそんなふうに変わったりするのはなんとなく分かるけど、僕はラーメンを食べた事はないし、炒飯もないし、餃子もない。だから宮本の例えはこれっぽっちも理解ができない」
僕は宮本を見上げて答えた。
「つまらない人ね」
「そうかな」
「そうよ」宮本はほんの数秒沈黙した後に小さな口を開いて「じゃあ、何を食べるのよ。高橋くんは?」と質問した。
「肉かな?」
「お肉?」
「ああ。そうだ僕は肉屋だからね。肉しか食べないんだ」
「野菜は?」
「野菜は好きだった」
「好きって事は食べるの?」
「いや食べない」
「どうして?」
「肉じゃないから」
「答えになっていないわ」
「そうだね。でも肉じゃないから食べれないんだ」
「身体に悪いわよ」
「そう思うね。でもさ、調子がいいんだ肉屋になってから。僕は意外にも、そんな体質だってことかも」
「そんな体質聞いたことないわよ」
「ネットで調べれば?」
「ネットなんて嘘つきよ。本当のものがあってもそれは隠されているわ」
「それなら見つければいいだろ」
「めんどくさい」
「宮本の怠慢だと思うよ。めんどくさいって思うのは」
「怠慢でもいいでしよ?」
「僕は君が怠慢で、それがとても悪いって知り得たとしても僕はそれは否定しないし、改善もしないな」
「どうして?」
「めんどくさいから」
入道雲が五つ空に膨らんでいる。でも雨は止まない。庇に打ち付ける水の音は鳴り続ける。
「それならさ」
宮本は僕の横に座って言う。
「私を食べてよ」
宮本は白い歯を僕の顔に近づけて言った。
「何故?」
「私も高橋くんからするとお肉でしょ? それに私は高橋くんの一部になれるなら嬉しいし……」
「嫌だよ」
僕はすぐに返答した。
「どうして?」
宮本の顔はちょっとだけ歪んでいた。
「腹壊しそうだし」
「はあっ?」
宮本は大きな声で反応して「意味わかんない! 私が嫌いなの? 嫌いなんでしょ? この前の私の告白もすっポッカスしたままだしッ! それからずっと私のことを避けたままだよね。いったい私の何がイヤなの?」と息を荒げて言った。
「避けてないよ。それからすっポッカしてもいない。僕は宮本の人間性は好きだし一緒にいて面白いとも感じる。でもどんなにお腹が空いて餓死する状況だとしても宮本を食べたいとか思わないんだ。うん。それはとても凄く自然だろう? それに人に向かって『私を食べて』なんてあまり……言わない方がいいと思う。コカコーラとペプシを混ぜて飲むくらいに。つまりね。人によっては唖然とされ距離を取られ、あの人ビョーキとかウワサをされるオチだよ」
僕の発言に宮本は「うるさい。比喩表現よ! それくらい理解できるでしょ!」と言った。僕は宮本に「何それ?」と答えた。
すると社会の教師が僕に人差し指を向けて体育教師に告げ口をしていた。どうやら僕が体育をサボっていることを気に入らなかったらしく、僕はこれから美術室の隣の空き部屋に行くことになった。それから僕の隣で青くなっている宮本は相変わらず美味しそうには見えなかった。
空き部屋の引き戸を閉める。壁には棚があるようだが全てに黒いカーテンが掛けられている。薄暗い電気がボンヤリと部屋を照らし部屋の真ん中でパイプ椅子に座る体育教師が一人座っていた。
「何ですか?」僕は体育教師に言った。
「お前、今日、体育をサボっていただろう?」
「そうですかね? 雨が降っていたから中止していただけです」
「他の生徒たちが走っている中でか?」
「そうです。何か関係ありますか?」
「関係あるだろう?」
「どうしてですか?」
「お前一人だけ休むのは非常に危険だからだ」
「危険ですって?」
「ああ。教師のメンツがなくなるだろ」
「意味がわかりません」
僕の言葉の後、体育教師は沈黙した。それから椅子から立ち上がり部屋の奥にあるロッカーを開けて大きな刃物を取り出した。四尺ほどある。
「何故、教師の規律を聞かない生徒がいるのか? 何故、教師の規律を無視する生徒がいるのか? 何故、教師の規律を破る生徒がいるのか? ここで切断をしないといけないのだよ? わかるかい。ここで永遠の切断をしなければ、未来は壊れてしまう。教師の規律を理解せずともただ、乱さなければいいのだ。それが正解だというものだろう?」
それから体育教師は僕の方に歩いて来て大きな刃物を僕に向けた。
「そんな物騒なものロッカーに戻してもらっていいですか? それに僕はただ雨に濡れるのがいやで庇の下で座っていただけです。それで未来が壊れるんですか? 僕にはこれっぽっちも理解ができませんね」
「そのポッチが非常に迷惑なのだ」
僕は小さく頬を掻いて「まさかそんなポッチが希望だと思っているんですか? やはり僕にとってこの異国はとても、とても住みづらい場所だ。もう、南国でマンゴージュースでも飲んで過ごそうかな?」と言った。
「俺はお前みたいなスカした人間が嫌いなんだ」そう言うと体育教師は僕に大きな刃物を振り下ろす。しかし僕はそれをかわして、棚にかかっている黒いカーテンのようなものを地面に捨てた。棚にはガラスのケースに入った、ネック、ロース、リブロース、バラ、サーロイン、ヒレ、モモ、ランプ、すね、タン、ハツが丁寧に並べられていた。
「部位?」
僕はポツリと言った。
「規律は守るべきだ!」
体育教師はそう叫びながら僕に近づいてくる。
「なるほど、完全にではなくて、大切な部分だけを落とす」
「それだけで、希望はなくなるからな」
体育教師は答えた。
「確かにこれは味をしないとわからない最上級の部位。でも僕にとってはあまり魅力はないかな?」
そう言うと僕は体育教師の持つ大きな刃物をパキンッ、と折った。この光景に体育教師はとても驚き目を見開く。それから顔が徐々に恐怖の表情に変化していく。
「規律、規律、規律、全てが僕にとってはどうでもいい。ただ、一度だけ解体したいんだ。これと、それと、あれと、君たちが作った全部を。それからじっくりコトコト弱火で焼きたい。ハロー。肉を。」
ハロー・肉屋