キャンディ
初夏の曇った午後、娘の病気の連絡を受けて迎えに行く僕は気になる夢を見ていた。
夢は現実に何を与えるのか。
気づいた時にはここにいた気がする。
どうやって辿り着いたのかも今が何月何日で何時なのかも一切思い出せない。
時間に関して言えば腕時計もない。
そこは広い砂地で、粒だった灰色の砂利で地面が埋め尽くされている。
空は限りのない重さを持った雲に覆われていて距離感がうまく掴めない。
地平線が広がっていて、まるで世界の終点のような心地がする。
肌に触れる空気は湿っている割に、正面から吹く生ぬるい風に当たると寒気がする。
ここはどこだろう。
左隣には赤いロバの様な遊具が風に沿って前後に揺れている。
それは何かのメタファーのような格好で一定のリズムを刻んでいた。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
一瞬だった気もするし、あるいは数時間を過ごしたような気もした。
時間という概念もうまく思い出せない。
頭上にはいかにも古典的な黄金色の鐘が、ずっとそこにあったような図々しい存在感を保ったまま大きな音を鳴らす。
必死に耳を塞いだがその音が軽減されることはなく、代わりに頭は忘れ去っていた全てを取り戻していった。
現在時刻は午後三時過ぎ、個人用携帯からそのベルは鳴っていた。
相手は千紗の通っている保育園の担任からだった。
「もしもし市川さんですか。」 と担任は言った。
「ええ、千紗に何かありましたか。」 と僕は言う。
「はい、そうなんです。千紗ちゃん熱を出したみたいで、迎えに来てもらえますか。」 と担任は言った。
「いいですよ、二十分ほどかかりますが今から向かいます。」 そう言って電話を切った。
幸いなことに今日は受付役の女の子が残っていたので、その子に鍵の施錠を頼んで会社を出た。
まあ第一にここは僕の会社で盗まれるようなものは何もないのだけれど、とにかくそういった雑事を終わらせてから私用の赤いクーペに乗り込んで会社を後にした。
車の中で僕は先ほど見た夢を思い出していた。
その夢は荒涼な今の生活を表していたのかも知れないなとふと思った。
夢には何かしらの深層心理が現れると聞くし、あんな夢を見るような人間の心理が真っ当であるとは到底思えなかったからだ。
本当に、彩りを削り取ったような夢だった。
ラジオからは丁度廃れはじめた感じのアメリカ音楽が流れている。
保育園に着いたのは会社を出てから丁度15分ほど経った頃だった。
正面の門から中に入ると先ほどの担任が出迎えてくれた。
「熱は三十七度二分ですが本人が辛そうなので。」と担任は言った。
「いえ、知らせてもらえてありがたいです。」 と言いながら僕は言葉を探した。
「他に症状はありますか。」
「いえ、特にはないですが意識が少し朦朧としているみたいで。」
「走っている時に転んだところで気づきました。」 と担任は思い出すように言った。
普段は使わない小部屋に案内されて入ると、そこで千紗は寝ていた。
ぐっすりと寝込んでいるようだったので、静かに背負って車まで運んだ。
園内は妙に静かで、先生たちの気分もいくばか沈んでいるような気がした。
千紗は車に運んでいる間に全く目を覚さなかった。後部座席のチャイルドシートに乗せるときでさえも。
僕は少し迷ったが一度家に帰ることにした。千紗は寝ているし僕の格好も少し堅苦しかったからだ。
家までは十分ほどなのであまり時間もかからない。
通りの街路樹の葉はいつの間にか濃く青みがかっていて、その色合いは夏のはじめを予感させた。
空はあの夢と同じように分厚い雲に覆われていた。
家の駐車場に車を停めてバックミラーで後ろを確認すると、千紗は目を覚ましていた。
いかにも澄んだ目で外を眺めて車が止まったことにも気づいていないみたいだった。
僕は運転席から出て後部座席に向かった。
「千紗、起きていたのかい。」 とゆったりとした問いかけをする。
「保育園はどこへ行ったの。」 と千紗は聞いた。
「君は熱を出して今までずっと寝ていたんだ。」
「もうしばらくしたら病院に行くから。」 と僕は言って彼女の額に触れた。
だが発熱は感じられなかった。家に連れて体温計で測ってみても結果は同じだった。
「千紗は元気だよ。」 そう言いながら不思議そうな目をこちらに向ける。
僕はしばらく悩んだが、結局のところ病院に連れて行くのをやめた。
彼女は本当に元気そうだったし、問題が起きてからでも遅くないような気がしたからだ。
その夜、僕はまた夢を見た。今度ははっきりとした夢だった。
場所は前回と同じ荒涼な砂地で、違うのは左隣のロバの色だけだった。
ロバは黄と赤とピンクが混ざったようなとてもメルヘンな色をしていて、無表情を保ったまま前後に揺れていた。
「君はこのままでいいのかな。」 とロバは話しかけてきた。
「仕方ないさ、なるようになった結果なんだから。」 と僕は答える。
「千紗はどうする、君はこのままなるようになっても問題はないのかも知れないけど。」
「彼女はそうなるべきではないと思う。少なくとも今は。」 とロバは揺れながら言う。
「そうかも知れない。」
「でも他にどうしたらいいか検討がつかないんだ。」 と僕はロバを見ずに言う。
「もちろん千紗に聞いてみるのが一番いいさ、ただ彼女は君の言うことをよく分からないと思う。」
「あるいは理解した上で君に身を任せるのかも知れない。」
「それは彼女の意思ではないと君は思っているんだね。」
「もちろん、だからこそ君には彼女の意思を尊重してほしいんだ。」
「分かった。
「ところで、君の言うことはなぜかくっきりと頭に入ってくる。」
「昔からそうだったと思うけど。」 とロバは言う。
「確かにそうだった。」 と僕は答える。
気づいた時にはもう朝になっていた。
風景は荒涼とは無縁だし、雲も晴れて青空が広がっている。
時計の針は動いている。
キャンディ