Last Drive

その夏、僕は父の元恋人(♂)と旅に出た。

 春の終わりにアキレス腱を切った。
 『ドン・キホーテ』の、バジルのヴァリエーションを練習しているときだった。
 最初のジャンプを着地したときに、音がした。
 学年末のショーで、僕はバジルの代役に選ばれていた。
 それは目一杯に伸ばした布を、突然鋭い刃物で切り裂いたかのような音だった。実際どうだったかはともかく、僕の耳はその音を聞いた。
 床に倒れ、なんとか立ち上がろうとしたができなかった。
 立つな!
 と誰かが叫んだ。
 ファビアン先生だった。
 先生は僕の傍に来ると、僕の床に投げ出された脚を機械工のように触ったり曲げたりした。呻くと、黙れと言いたげな目で僕を睨んできた。
 教室にいるみんなが僕を見ていた。
 なにかこそこそと耳打ちをし合うやつらもいたし、天を仰ぐ者もいれば、腰に手を当てて首を振るやつもいた。
 キールは僕を呆然と見下ろしていた。その赤い唇はちょうどさくらんぼが入るくらいの大きさに開いており、僕は脳内の片隅で食堂のさくらんぼを取って来てその隙間をすっぽりと埋めるところを夢想しはじめた。
「誰か、デルフィーヌ先生を呼んで来なさい」
 ファビアン先生がそう言って、僕は我に返るのと同時に痛みに顔を顰めた。キールが両手で顔を覆った。まるで失態を冒したのは自分だとでもいうような仕草だった。もちろん僕は勝手に飛んで、勝手に脚を傷めたのだ。キールにはなんの責任もなければ、痛みさえない。
「折れてますか?先生」
 と僕は訊ねた。
「黙れ」
 と先生は言った。それから、
「動くな、サニー」
 と厳命した。
 
 僕はここでサニーと呼ばれている。
 パリにあるバレエ学校で、アジア人である僕は長い間使っていなかったイングリッシュ・ネームを掘り返して使うことになった。
 みんなにサニーと呼ばれるのは悪くなかった。
 ハイ、サニー。
 おはよう、サニー。
 It's sunny day,sonny.
 なんて言われるのは。
 僕は新しい人格を得たような気分になった。
 ここでは、誰も僕を「哉藍」と呼ばない。

 やって来たデルフィーヌ先生とファビアン先生に抱えられて、教室を抜け、学校を抜け、デルフィーヌ先生のルノー・トゥインゴの後部座席に詰め込まれた。
 痛いか、サニー?
 とファビアン先生が訊いた。
 痛いです。
 と僕はこたえた。
「治して来い。それが君の新しい課題だ」
 そう言うと、ファビアン先生は外から車のドアを閉めた。僕と世界を隔てるかのように。

 トゥインゴの窓からパリの街並みを眺めた。
 寝転がっているから、建物の尖塔と空ばかりが見えた。なにかの鳥が、一羽だけで青空の中を旋回していた。バジルの見せ場のグラン・フェッテみたいに。
 病院に辿り着くと車椅子に乗せられた。待って、検査をして、また待って、アキレス腱が切れていると宣告された。デルフィーヌ先生は僕の手を握った。たぶん母親の代わりにそうしてくれたのだ。
 手術をします。
 と医師は言った。
 それから入院も、と。
 つまらない冗談を言ったかのように、医師はなぜか肩を竦めた。

 僕はボルヴィックで痛み止めを飲み、デルフィーヌ先生は学校に電話をかけた。僕の症状を伝え、誰かに荷物を持って来てくれるよう指示していた。電話を切ると、僕の隣のベンチに座り、僕の肩に腕を回してきた。
「大丈夫よ」
 世の母親たちの代理をするように、先生は言った。
「ダンサーはみんな怪我をするものよ。痛みに耐えることなく一流になる者はいない」
「僕は治るんですか?」
 先生はちょっと笑う。あなたの不安や心配は大袈裟になっているだけなのだと慰めるみたいに。
「治るわ。ダンサーにはよくある怪我だもの」
「手術は全身麻酔?」
「なに?」
「全身麻酔、」
「局所麻酔じゃないかしら」
「よかった」
「よかったの?」
「ええ」
 なぜ?
 というふうに先生の首が傾いだから、僕はむかし読んだ泉鏡花の小説の話をした。とある伯爵婦人が、麻酔から醒めるときにうっかり秘密を漏らしてしまうのを怖れて、麻酔なしで手術してくれと懇願する話。
「あなたも、うっかり漏らしては困る秘密を抱えているのね?サニー」
「ええ、抱えてます」
「まあ、秘密を持たない人間はいないと思うけど」
「骨折じゃなくてよかったです」
「そのとおりだわ。麻酔の話云々は抜きでもね」
「バジルの代役はどうなります?」
 と僕は訊ねた。
 先生は首を振り、僕の肩から降ろした手を僕の膝の上に重ねてきた。
「いまは治すことに集中しなさい」
 Oui,と僕は返事をした。
「あなたのスマートフォンが届いたら、お母さまにご連絡をしてさしあげて」
「母に、」
「そうよ。怪我をして、手術をして、ちゃんと治すつもりだと話しなさい。パリまで飛んで来ると言うのなら、待っていてあげなさい」
「来ないと思いますけど」
「あなたは母子家庭だったわね?」
「ええ」
「お母さまは、ええと……香港に?」
「いえ、母は日本にいます。母は日本人なので」
「そう」
「ややこしいですよね」
 なにも、と先生は言下に僕の意見を否定をする。
「あなたはお母さまから生まれ、いまもあなたのお母さまでいるんでしょう?なにもややこしくなんかないわ」
 先生はそう言ったけど、きっと僕の思う〝ややこしい〟がちょっと別の場所にあることには気づいていたと思う。ただ先生は、いまは複雑な物事を考えるべきときじゃないと諭したかったのだろう。僕もその意見には賛成だった。惨めな目に合ったときには、人はロクでもないことしか考えない。多くの場合、それはただの時間の浪費にしかならない。僕はまだ17才だったが、そのことはちゃんと知っていた。そうできるかどうかはともかく。
「あなたは治るわ、サニー。リハビリを頑張れば、うんと早くね」
「バジルに間に合う?」
 先生はその手でそっと僕の両瞼を塞いできた。
「脚を治すのよ、サニー」

 僕の荷物はキールが持って来た。学校のジャージを着たままのキールは、やはり怪我をしたのは自分かのような蒼白になった顔で、車椅子の僕を見、首を振った。
「アキレス腱だ。やっちまった」
 と言うと、
「……治るんだろ?」
 涙目で訊く。
「治るわ」
 とこたえたのは先生だった。
「手術を?」
「ええ、もちろん」
 とまた先生がこたえる。
「僕の荷物は?」
 と訊くと、持っていたリュックを差し出してくれた。中には僕の着替えと財布、スマートフォンにニンテンドースイッチまで入っていた。
「退屈だろうと思って、」
 どこか申し訳なさそうに、キールは言った。
「どうぶつの森で会えるな」
 と言うと、キールは少し笑い、
「お見舞いに行くよ」
 と言った。
「森じゃなく病室に、花を持って」
 ステキね、と先生は言い、僕の方を向いてお母さまに電話を、と促した。
 僕が電話をかけはじめると、二人は聞いてはいけないと思ったのか席を立ち、床から天井まである窓辺に行って、モネが生きていたら好んだであろう庭を眺めに行った。実際庭だけを見ていると、病院にいることを忘れそうだった。それが狙いで造った庭なのだろうが。
 母は七コール目で電話に出た。
 母と話すとき、いつも中国語、英語、日本語、どの言語を遣うべきなのか少し迷う。窓辺の二人を見て、僕は日本語を選んだ。選択肢、カーソル、決定ボタン。
 もしもし、と僕が言い出す前に、母が先に口を開いた。彼女はもしもし、も、久しぶりね、もなく、
「怪我をしたんですってね、哉藍」
 およそ1万キロの距離があるとは思えないほどはっきりした母の声が、僕の鼓膜を震わせた。

「学校から電話をもらったのよ」
 だから知ってるの、というふうに母は言った。母はどこか騒がしい場所にいるようだった。背後で、なにか機械音のようなものが響いている。
「アキレス腱を切ったんだ」
「あらららー、それは」
「バジルのヴァリエーションの練習をしてたんだ。最初のジャンプで」
「バジルって誰だったかしら」
「『ドン・キホーテ』の。まあ代役だったんだけどさ」
「手術、するんでしょ」
「うん」
「じゃあ治るのね?」
「そうらしいよ」
「よかったわね」
 無問題じゃない、と母は言う。
 無問題さ、と僕もこたえた。
「痛かったでしょ」
 と母は訊く。
「まあね。音がしたんだ」
「どんな音、」
「鋭い刃物で布を切り裂くような」
「で、引き裂かれた布を繋げるわけね?」
「そうだよ」
「なにか必要なものはある?」
「特にないよ。病室の花は友だちが持って来てくれるし」
「あら、いい子がいるのね」
「いいやつだよ」
 母は笑う。
「母さん、最近どう?」
「忙しいわ。夏が来るしね。そっちはどう?」
 僕は窓辺のキールと先生を見た。二人は庭の植物について何事か話をしているみたいだった。
「パリももう、春は終わりだよ」

 先生方によろしく、必要なものがあればいつでも電話しなさい、あなたが求めるならしっかりと脚を治しなさい、と言って、母は電話を切った。
 Bonne chance!
 と。
 
 僕は手術を受けた。母は来なかったから、デルフィーヌ先生が付き添いをしてくれた。
 呆気ない手術だった。それはおよそ一時間ほどで終わり、医師は手術中ずっとなにかの歌を口ずさんでいた。いやに耳に残るメロディと歌詞で、それは手術が終わったあともいつまでも僕の耳に残りつづけた。

 …だから一緒に幸せになろう…
 君以外の誰かじゃ愛せない…
 
 そんな歌詞の歌だった。

 麻酔が切れてくると、僕は痛み止めを飲んだ。そして引き摺り込まれるように眠ってしまった。夢の中にまで、歌は闖入してきた。目を覚ますと、キールが僕の顔を覗き込んでいた。
 How's it going?
 と彼は訊ねた。
 so so.
 と僕はこたえた。
 キールは微笑み、ゆっくりと顔を近づけてきて、僕の瞼にキスをした。
「Great,」
 と言うと、キールは笑った。よかった、と。
「花を買って来たんだ、約束どおり」
 キールはうしろ手に持っていた花束を僕の顔の前に出してみせた。それはピンクと白の薔薇の花束で、ウサギのピックが一つ付いていた。横向きにジャンプした、首に赤い蝶ネクタイをつけた白いウサギだった。吹き出しのメッセージは「Get well soon!」
「薔薇なんて、ありきたりだと思っただろ?でも他にふさわしい花がなにかわからなかったんだ」
「だからウサギを付けたのか?」
「またジャンプできるように、願いを込めてね」
「ありがとう、嬉しいよ」
「本当に?」
「もちろん。薔薇もウサギも、どっちも嬉しい」
 またキールの顔が降りてきて、僕らは素早くそっとキスを交わした。
「デルフィーヌ先生は?」
 と僕は訊ねた。
「花瓶を取りに行ってくれている。病院て、花瓶が余ってるものなんだって。退院するとき、みんな置いてっちゃうらしい。そして言うんだって、『よかったら次の人のために使ってくれって』」
「助かるな」
「花瓶のことなんて、考えもしなかったよ」
「でも買わずに済んだ」
 と言うと、キールは微笑んだ。そうなんだ、というように。
 それからまもなくデルフィーヌ先生が花瓶を手に戻って来た。硝子製の、細かい花のレリーフの入った花瓶だった。先生は僕に「起きたのね」、キールに「花を」と言うと、バスルームに消えて花を活けて戻って来た。それをベッド横のチェストに置き(何度かくるくると方向を変えては確かめ、納得するとフィンガー・スナップした)、ウサギのピックを僕に渡した。この子に水は必要ないわ、と。僕がそれをとりあえずベッドフレームの隙間に挿すと、そろそろ学校に戻るわ、と先生は言った。お邪魔みたいだしね、と。
 僕は手術に付き添ってくれたことのお礼を言った。先生はなんでもない、というふうに首を振り、あなたが頑張らなくちゃならないのはこれからだと僕に言い、みんなからのメッセージを見せたのか?とキールに訊ねた。まだです、とキールが言うと、動画を撮ったのよ、と先生は言った。見せてもらいなさい、と。
 夕飯をしっかり食べて、よく眠りなさい。
 やはり世の母親たちを代表するように言うと、先生は首のストールを棚引かせながら病室を出て行った。
 先生が去ると、キールは動画を見せてくれた。何人かのクラスメイトがそこには映り、僕に向けてメッセージを投げかけていた。残念だった、気の毒に思っている、早くよくなって、学校に戻って来たらあれをしよう、これをしよう。画面の中で、ララはずっと髪をいじくりまわしていたし、テオは僕がショーを降板することがどこか嬉しそうだった。自分に僕のお鉢が回ってくることをちゃんとわかっているのだ。僕も逆の立場なら嬉しさをうまく隠せなかっただろう。
 最後に映ったのはファビアン先生だった。サニーにメッセージをお願いします、とキールが言うと、先生はカメラを振り返り、ただ一言、「治せ」と言うと、すたすたとどこかへ歩き去ってしまった。ファビアン先生の姿が消えると同時に、動画も終わった。
 つまり、世界は僕の存在だけをきれいに取り零した状態で回りつづけていた。

 僕はみんなへのお礼のメッセージをキールに撮ってもらった。
 僕は元気だ、手術は終わった、病院の居心地は悪くない、退院したらあれをしよう、みんなも頑張って、応援してる、怪我に気をつけて、僕は元気だ……

「手術はどうだった?」
 とキールは訊ねた。
「呆気なかったよ」
 と僕はこたえた。
「痛かった?」
「麻酔してたから」
 キールは気の毒そうな顔で、僕のギプスでがちがちに固められた足を見た。
「触ってみて」
 と僕は言った。
 キールは遠慮がちにそこに掌を降ろすと、まじないでもかけているように指でやさしく撫でた。
「きっとすぐに良くなる」
「もちろんさ」
 と僕は言った。
 バジルを頼む。
 そう言いそうになってやめた。本来のバジル役はキールだから。代役である僕に頼まれることなんて、なにがあるだろう。
「医者が、歌をうたっていたんだ、手術中ずっと」
 代わりに、僕はそう言ってみた。
「なんの歌?」
「知らない歌だよ。でも、耳から離れなくなっちゃった」
「どんな歌?」
 僕はいまも脳内に残るあの歌を口ずさんでみた。
「知らない歌だな」
 とキールも言った。
「きっと古い歌だ」
「調べてみよう」
 そう言うとキールはスマホを取り出して、音声検索のソフトを立ち上げ、僕にもう一度歌うように言った。僕はスマホに向かって覚えているワン・フレーズをうたってみた。結果はすぐに出た。
 僕とキールは同時に、その歌のタイトルを読み上げた。
「『Happy Together』」

 キールがYouTubeを開いて、二人でその曲を聴いてみた。正しく、医師が手術中に口ずさんでいたあの曲だった。The Turtlesというバンドの曲らしい。
「タートルズって誰だ?」
 と僕は言った。
「虫じゃなく亀」
 とキールは言った。
「知らないな」
「1967……おおむかしの歌だ」
 キールと僕はそんなふうに言い合ったけれど、実のところは悪くない曲だと思っていた。古いけれど、悪くない歌だ、と。その証拠に、歌が終わってしまうと僕らはそれをもう一度はじめから聴き直した。
 三回ほど聴くと、僕らはすっかりその曲を覚えてしてしまっていた。

 キールは僕が夕飯を食べ終えるまで傍にいてくれた。
 運ばれて来た夕飯を見て、僕もキールも安堵した。病院の食事なんて酷いものだとばかり思っていたのだ。
 これなら食べられそうだ、と僕は言ったが、食欲はあまりなく、全部は腹に入らなかった。キールは僕の残したマッシュポテトと、フルーツサラダを食べた。悪くない味だ、と言ったが、マッシュポテトに刻んだニンジンが入っていることは「許しがたい」と評した。
 キールは食器を下げに行ってくれた。戻ってくると、そろそろ帰るよ、と申し訳なさそうに言った。
「一人で寝られるか?」
 と僕は訊いた。僕らは寮で、同じ部屋で寝起きしている。お互い、異国からパリに来たときからずっと。
「寝られなかったら、君のカービィと眠るよ」
 カービィは、僕のベッドサイドにいる巨大なぬいぐるみだ。去年のクリスマスに、クレーンゲームで僕が落とした。
「いい思いつきだ」
 僕らはキスをして、互いに「おやすみ」を言った。
 キールは病室を出る前に、名残惜しげに僕を振り返った。
「セイラン、」
 そう名前を呼んだが、あとにつづく言葉を思いつけなかったみたいだった。
「Happy Together」
 それで、僕はそう言った。
 おやすみ、とか、またね、とか、あいしてる、とか言う代わりに。
「Happy Together」
 キールも、笑ってそう返した。
 一人になると、夜はとても長かった。
 僕はベッドの中に潜り、タートルズの曲を聴いた。明日になったら、ワイヤレスイヤホンを探しに行こうと、そう思った。

 キールは毎日見舞いに来てくれた。宿題と、ジュース・スタンドで買った野菜スムージーをおみやげに持って。
 僕らは病院の庭を散歩した。
 松葉杖を使う僕に、キールは歩調を合わせた。
 そして白いルコウソウの生い茂る中にぽつんとある、緑のベンチまで辿り着くと、僕らは必ずそこに腰かけて空を眺めた。
 そこは静かで、風が吹くと植物たちが揺れて音を立てた。
 他には、なんの音も聴こえなかった。
 静寂に飽きると、僕らはキスをして病室に戻り、別れ際には互いに、「Happy Together」と言い合った。
 いつの間にだか、それは僕らだけに通じる合言葉になっていたのだ。

 手術日から五日経って、僕は退院した。またデルフィーヌ先生が迎えに来てくれて、僕は松葉杖をつきながら、先生のルノー・トゥインゴに乗り込んだ。
 学校に戻ると食堂にみんなが集まっていた。たくさんのバルーンがあって、「おかえり」とか「退院おめでとう」とか、キスしたりハグしたりをした。
 I'm back.
 と僕は言った。
 言ったあとで、心の中の僕が首を傾げたのを、僕は感じた。
 僕はどこに戻ってきたんだ?

 他にすることはなかったから、僕はリハビリに励んだ。僕が理学療法士のエマと足指の運動やら自転車エルゴメーターやらに励んでいる間、みんなはファビアン先生の元で『ドン・キホーテ』をなんとか見るに耐え得る舞台にしようと励んでいた。
 つまり、僕には僕のやるべきことがあり、みんなにはみんなのやるべきことがあった。これまでどおり。ただ僕だけがみんなとは少しズレた場所に行かざるを得ない状況にあった。
 怪我をしたから。
 いまは飛べないし、爪先を使うこともできないから。それどころか足に変な装具をつけないと歩けないから。
 でも、これは永遠じゃない。
 僕は自分にそう言い聞かせた。言い聞かせたが、うまくはいかなかった。

 だんだんと、僕の中でなにかがズレはじめているのを、僕は感じた。

 僕はみんなとうまく話せなくなった。無口になり、キールとさえ口を聞くのが億劫になって、僕はときどき寝たふりをして彼の言葉に返事をしなくなった。キールもキールで大役を演じるプレッシャーに神経を尖らせはじめており、僕らの仲はぎくしゃくしはじめた。
 焦ってはダメよ。
 とエマは言った。
 あなたは必ずまた踊れるようになる。
 とデルフィーヌ先生も言った。
 治せ。
 とファビアン先生は言った。
 リハビリに励んだあと、病院からバスに乗ると、そのままどこかへ行ってしまいたくなった。まだ行ったことのない、誰も僕を知らない人たちの町へ。そう思いながら、僕は躾られた犬みたいにいつものバス停で降り、惨めな足を引き摺って学校へ戻った。

 僕はときどきアキレス腱が切れたときの音を思い出した。
 きっとあのとき、僕の中でなにかが一緒に引き裂かれてしまったんだろう。

 学年末のショーは成功した。
 僕の代理はやはりテオが務め、キールはファビアン先生の思い描くバジルになっていた。僕はそれを舞台袖から見つめた。拍手をしたかったが、なにかが僕の手を動かなくさせた。
 そして、ついに爆発のときがやってきた。
 着火したのはキールの方だった。だが火種を持たせてやったのは僕だったんだろう。なぜなら僕は、舞台から戻って来たキールになにも言葉をかけなかったから。もちろん僕は言うべきだったのだ。
 よかったよ、とか、素晴らしかった、とか。
 言葉はなくとも、ハグや握手を求めるべきだったんだろう。でも僕はそれらをなにもせず、キールから目を逸らして歩き去ろうとした。それは非難と取られても仕方のない態度だった。
「なんにもなしか?」
 キールは僕の背中に向かって叫んだ。
「なにか言えよ、僕のなにが気に入らないんだよ?なんでずっと黙ってるんだよ」
 僕は立ち止まり、キールを振り返ったが、黙って彼を見据えることしかできなかった。
「なにか言えよ、思ってることを」
 とキールは言った。それでも僕が黙っていると、
「嫉妬か?」
 とキールは言った。
「なに?」
 僕がようやく言葉を発すると、キールは怒りに震えながら叫んだ。
「僕に嫉妬してただろ、ずっと。妬んでた、僕がバジルに選ばれたことを。なんで自分が代役なんだって、ずっと不満だったんだろ?」
 僕は自分の頭が怒りでぐらぐらするのを感じた。
「そんなこと、」
 思うはずないだろ、と言おうとした僕にキールは怒りのまま言葉を重ねてきた。
「当然だろ!一度自分の踊りをよく見てみろよ、どこが僕より優れてるんだ?いつもどっか明後日の方に心が向いてるだろ?集中し切ってない、だから」
 だからくだらねぇ怪我なんかするんだ。
 キールがそう言い終わらないうちに、僕は装具という枷のついた足で彼に飛びかかろうとした。でもすぐに誰かが僕の腕を掴んで押さえつけた。キールも同じように取り押さえられていた。僕らは動けないまま相手を罵り合い、引き離されて、別々にデルフィーヌ先生の部屋に呼び出された。

「あなたには治療が必要だと思うわ」
 とデルフィーヌ先生は言った。
 足の方じゃなく、ここのね、と自分の胸を指先でとんとんと叩く。
「あなたは怪我をして不安定になっているし、以前からときどきなにか思い悩んでいるように見えた。だから専門家に一度話を聞いてもらうべきだと思うの」
 それが賢明な判断だということは僕にもわかった。僕は確かにカウンセリングを受けるべきだったんだろう。そうして心を立て直して、怪我も治して、もう一度ここでダンスをつづけるべきなんだろう。
 けれど、僕はもう誰とも自分自身の話なんかしたくはなかった。一言だって他人になにかを打ち明けたくなんかなかった。
「日本に帰ろうと思ってるんです」
 気がつくと、僕はそう口にしていた。
「この夏は、母のところに帰ろうと思っていたんです。もちろん、あっちで足の治療はつづけるつもりです」
 デルフィーヌ先生はしばらく黙って僕を見つめてきた。まるで僕の顔に真意が書いてあって、それを丁寧に読んでいるみたいに。
「わかったわ」
 やがて先生はそう言った。
「あなたが帰って来るのを待ってるわ、サニー」
 デルフィーヌ先生の部屋を出ると、ファビアン先生が立っていて驚いた。僕がなにか言おうとすると、ファビアン先生は黙ってなにか紙の束を僕に突き出してきた。それは僕がこの間提出したレポートだった。〝人はなぜ踊るのか〟というテーマの宿題。
「書き直せ」
 と先生は言った。
「君の書いたものは、死ぬほどつまらない」
「僕、日本に帰るつもりなんです」
「じゃあ日本で書け」
 そう命じると、先生はどこかへ歩き去ってしまった。

 キールは部屋を引っ越して行った。その数分後、テオがマットレスを抱えて僕の部屋にやって来た。
「部屋を交換したんだ。俺が今日から新しい相棒だよ」
 ベッドでうつ伏せに寝そべってスマホを触っている僕に、テオはそう拳を突き出してきた。僕は仕方なくその拳を突いた。
「仲良くしようぜ」
 とテオは言った。
 テオはマットレスを空っぽのベッドに据えると、馴れ馴れしく僕の隣に身体を横たえてきた。
「自分のベッドで寝ろよ、暑苦しい」
「つれないこと言うなよ、サニー。ホントはさみしいんだろ?」
「さみしくなんかない。独りになりたいんだ」
 それにわざわざ君でさみしさを埋めるつもりはない、と僕は思った。
「独りになりたい?キールのアホだって今頃ロビンに慰めてもらってるさ」
 僕は無視した。テオは面白がっているような笑みを見せ、僕の頭を馴れ馴れしく撫でてきた。
「前から思ってたんだ、キールのどこがいいんだ?」
「君に似てないところ」
 冗談と思ったのか、テオは笑った。
「まあな。俺はあいつとちがってズルくない」
「ズルい?」
「あいつ、ふだんは人畜無害で気弱なウサギちゃんみたいに振る舞ってるだろ?すぐ泣くし、『どうしようどうしよう、僕にはこんなことできないよー』みたいな。でも、いざ踊りだしたら、ほとんど真逆の性格になる。この世に俺の敵になるやつなんかいねぇ、みたいな。そうじゃなきゃどうやってあんなバジルが演じられるんだ?かわいいウサギのふりしてズル賢いんだよ」
 だからすごいんだろ?
 と僕は思ったが、わざわざ教えてやったりはしなかった。教えてやったところでわかりゃしないだろうし。
「なあ、さっきからなにしてんだよ?」
 黙っているとテオは僕のスマホを覗き込んできた。
「飛行機の予約をしてんだよ」
「飛行機?」
「帰るんだよ、日本に。もう夏だろ?」
「バカンスに?」
「母のところに帰るんだよ」
「ふーん、ママンのとこにねー。おまえの母ちゃんて、日本でなにやってんだ?」
「田舎で農業してるよ。ワインを作ったり」
「日本製のワイン?」
「そうだよ」
「誰が飲むんだ?そんなもん」
「金持ちの中国人。日本産の食べ物が安全だって信じてるんだ」
「で、おまえも日本のワイナリーになるのか?」
「別にならないよ」
「なあ、俺はシチリアに行くんだ。両親が別荘持っててな」
「へえ」
「よかったらおまえも来いよ、サニー。地中海眺めながらセルツ飲んで、カポナータでも食おうぜ。日本の田舎の葡萄畑よりいいだろ?」
「行かないよ」
「なんでだよ、つれないなあ」
 テオはようやく僕の頭から手を離したかと思うと、今度はお尻を撫ではじめた。
「やめろよ」
 僕はうんざりした声を出したが、テオは笑うだけでやめなかった。払いのけてもみたがブーメランみたいにすぐ尻に手が戻ってくる。
「なあ、おまえとキールってどっちがネコちゃんなの?」
 僕は返事をしなかった。テオは僕の尻を撫で回しながら、俺のときはおまえがネコちゃんになってくれよな、とか、シチリアがどうのこうのとか、キールはアホだとか勝手に喋りつづけていた。僕は飛行機のチケットを予約し、成田から母の住む町への新幹線の時刻表を調べはじめた。ドアがノックもされずに開いたのはそのときだった。僕とテオは同時にドアの方を振り返り、そこに立っているキールと目が合った。最悪なことに、テオの手はまだ僕の尻の上にあった。さっさと切り落としてやるべきだったのに。
「ノックくらいしようぜ、キールちゃん。ここはもうおまえの部屋じゃないんだからよ」
 テオはそう言ったが、キールにはテオの声なんか聞こえていないようだった。その目は黙って僕を見据え、それは怒りというよりはかなしみに満ちて震えていた。
「もう代わりを見つけたんだ」
 とキールは言った。
「代わりなんかじゃない」
 と僕は言った。
「そうさ、誰がおまえの代わりなんかになるか、おまえ以上の代わりだ、俺は」
 とテオは言った。
「黙ってろよ」
 僕はテオを怒鳴りつけたが、テオはこの状況が楽しくて堪らないように声を上げて笑った。
「忘れ物を取りに来たんだ」
 キールはそう言うと、 テオのマットレスが置かれたベッドの下にその長い脚を伸ばし、なにかを引き寄せて取った。ヘッドホンだった。埃まみれになったそれを手に、黙ってドアに向かい、出て行く寸前にこっちを睨んで言った。
「楽しんで」
 そして思い切りドアを閉めた。
「楽しんで」
 テオは小馬鹿にしたように真似をして一人で笑う。またその手が僕の尻に降りてこようとしたので、僕はそれを強く払いのけた。
「自分のベッドに戻れよ」
「そんな怒るなよ」
 テオはおどけた顔をしたが、僕が睨みつづけると、なんだよ、というような顔をしてようやく僕のベッドから降りた。
「どいつもこいつもカリカリしてんなあ、生理なのか?」
「頼むから黙っててくれよ」
「あーはいはい。おおせのままに、プリンス。その代わりこいつを人質にもらって行くぜ」
 テオはそう言うと僕のベッドサイドからカービィのぬいぐるみを拐って行った。そしてカービィで一人二役を演じながら卑猥な会話をはじめた。〝このピンクのでかっ尻野郎めお仕置きだ!〟〝イヤー!助けて、サニー王子!〟
 これが毎晩つづくのかと思うと、急な思いつきだったにせよ日本に帰ることにしてよかったと、心から思った。

 僕は荷造りをした。キャリーケースじゃ歩きにくいから、スポーツバッグに最低限の荷物だけを積めた。必要なものがあれば向こうで買えばいい。
 気が向いたらいつでもシチリアに来いよ。
 とテオは言い、
 待ってるわ、お母さまによろしく。
 とデルフィーヌ先生は言った。
 キールは食堂にいたが、なにも言わず、なにか言いたげな目だけをちらっとこっちに向けてコブサラダのつづきに戻った。
 学校を出た僕は通りに出てタクシーを拾うつもりだった。だが通りに出る前に、一台の車がすうっと近づいて来て、僕の少し先で停止した。クリーム色のフォルクスワーゲン・カルマンギアだった。運転席の窓が開き、車の持ち主の頭が出てきて僕の方を振り返った。
「乗れ」
 とファビアン先生は言った。

「僕は空港に行くんです」
「知ってる。私もだ」
「先生も」
 どこかへ行かれるんですか?
 と訊こうとして、
「乗れ」
 と先生は手で助手席を示した。
 僕は車のうしろから回って、先生の隣に乗り込んだ。
 先生の運転は乱暴だった。
 空港に着くと僕はチェックインをしに行き、先生はロビーのソファに深く腰かけた。手続きを済ませ、先生のところへ空港まで送ってくれたことのお礼を述べに行った。先生はそれにただ右手を小さく挙げてこたえた。
「先生は、手続きしないのですか?」
「しない。私は別にパリから出て行かないからな」
「じゃあ、なぜ空港へ?」
 先生はそれにはこたえてくれず、黙って自分の隣の席を掌で叩いた。座れ、という意味だ。僕は先生の隣に腰かけた。
 空港は騒がしかった。夏のことだし人が多い。高い天井に反響するアナウンス、別れを惜しむ人、これからの旅立ちに興奮している人、イライラとどこかへ電話をしている人、時間を持て余している不機嫌な子ども。
 緊張している僕にはその騒がしさが有り難かった。先生はなにも喋らない。青い水晶みたいな目で、ただまっすぐ前を見据えている。
「君が初めて飛行機に乗ったのはいつだ?」
 唐突な質問に、僕の頭は二拍ほど遅れてから反応をした。
「覚えてないです」
「それは、覚えてないくらい幼いときだったから?」
「ええ、たぶん」
 ふん、と先生は返事をした。それきり口を噤み、この話は終わったのだろうかと思った頃に、
「私は大人になってからだ」
 と先生は言った。
「それまでは、自分が外国に行くなんて想像もしていなかった。空飛ぶ鉄の塊に乗るなんてことも。乗ってからも、そのことが信じられなかった」
 僕は肯いてみせた。
「だが、私は飛行機に乗った。私にはバレエがあったからだ。バレエが私を世界に連れ出した」
 だからときどき空港に来る。
 と先生は言った。
 自由というものを確かめにね、と。
「先生に憧れていました」
 僕はずっと言えなかった言葉を声にした。
「先生が27のときのバジルを見ました、ロンドン公演のときの。父がテープを持っていたから…。あのときから、先生は僕の憧れだった。僕は」
「どうでもいい」
 先生は僕の言葉を遮った。
「君が誰に憧れようが、誰を尊敬しようがそんなことはどうだっていい。私を敬う必要なんかないし、手本や目標にする必要もない」
「あの…、僕は」
「私は踊れない人間に興味はない。いまの私自身をも含んでね」
 先生は両手を広げた。私を見ろ、と。
「歳を取った。もう踊れない。脚も腰もとっくにぼろぼろだ。ジャンプなんてしようものならアキレス腱の断裂程度じゃ済まされない。そうだ、どんなダンサーにだって終焉というのはやって来る。踊りたくても肉体がそれを拒むときが」
 先生は僕を見た。
「君には誰かに憧れている暇なんかない。君の中に〝ダンス〟がないなら、もう踊る必要なんかどこにもない」
 僕はなにも言えなかった。
「私はデルフィーヌとはちがう。学校の経営者でも、バレエ界のパトロンでもない」
 私は君を待ったりしない。
 私には、もうそんな時間を持つ余裕はない。
 先生はそれだけ言うと立ち上がり、さよならもなにも言わずに、僕の目の前から立ち去った。

 僕は日本に戻った。
 そして一日の大半をベッドの上で過ごすようになった。
 ほとんど山の中にあるような家だったから、蝉が一日中わんわんと啼いてうるさかった。それは窓を閉めきっていても必ずどこかの隙間から侵入してきて僕の耳の中で啼きつづけた。
 僕はベッドの中でニンテンドースイッチをし、スマホゲームをし、さもなくばむかし読んだマンガか小説を引っ張り出してきて読んだ。
 なにをしても退屈だった。
 腹が減ると台所に降りて冷蔵庫を開け、桃か葡萄を取って来て食べた。それらはいつでも大量に冷蔵庫に入っていた。ちょっとした傷や大きさに偏りが出て、出荷できなくなった規格外の果物たち。
 母はむかしから料理というものをしない女だった。だから家には松倉さんという通いの家政婦さんがいて、松倉さんは僕を気遣って食べたいものがあったらなんでも言ってくれと言ったけど、そして夕飯を食べる限り彼女はかなりの料理上手だったのだけれど、僕はいまのところ一度も彼女にリクエストをしていない。それはきっと感じの悪い振る舞いだったのだろう。台所でなにかしている松倉さんの横を黙って通り、冷蔵庫から桃と葡萄を取ってさっさと自室に引き上げてしまうというのは。だが松倉さんはなにも言わなかった。ただいつも心配そうな目を僕に向けて、ときどき当たり障りのない世間話みたいなものを一言二言僕に投げかけてきた。今日も暑くなりそうですね、とか、夕飯は✕✕を作るつもりなんですよ、とか。彼女が僕を心配しているらしいのは痛いほど伝わってきた。おばさんという生き物は、どうして世界中のどこでも同じようなのだろう。いつも誰かの心配ばかりをしていて、それを分かち合いたいと思っているみたいだ。そうすればこっちの心配がいくらか減ると信じているみたいに。要するに善良で世話焼きで無邪気。
 松倉さんは僕のことを「坊っちゃん」と呼ぶ。最初に会ったとき、セイランかサニーと呼んでくれ、と言ったら松倉さんはびっくりしたような奇妙な顔になった。ああ日本人、と僕は思い出した。日本人はこういうことをはっきりさせないんだった、と。そして案の定、松倉さんは僕のことをセイランともサニーとも呼ばず、「坊っちゃん」と呼ぶ。「漱石みたいだね」と僕が言うと、まあ漱石を読んだりするの?となぜか感心された。
 おばさんたちというのは、自分の聞きたい言葉しか聞こえないときがある。
 僕が外に出るのは病院に行くときだけだった。それは家から途徹もなく遠く、母はバス停まで送ってくれるが病院行きのバスには一時間半も揺られていなければならない。
 バスの中で、僕は必ずイヤホンをした。だが聞きたい音楽はなにもなく、ただ耳を塞いでスマホを触るだけだった。そうしていないと第二第三の松倉さんが僕に話しかけてくるからだ。
 病院に着くと、僕は理学療法士の大沼とリハビリを行った。エマとちがって、大沼は無口で無愛想だった。僕も大沼に対しては無口で無愛想だったからお相子だったが、大沼はときどき僕のことがひどく疎ましそうでもあった。何度か担当を変えてもらおうかとも思ったが、その手続きや理由を説明することを想像すると腰が上がらなかった。
 リハビリが終わると僕はだだっ広く殺風景な病院の食堂でジンジャーエールを一杯飲んだ。そこには野菜のスムージーもオーガニックアイスティーもアーモンドミルクもなかった。ジンジャーエールが一番マシな飲み物だったのだ。
 飲み終えると、僕はまたバスに揺られて家に帰った。他には行きたいところも行くところもなかった。

 僕のスマホには毎日誰かしらからのメッセージが届いた。
 元気か?とか日本はどうだ?とか。
 なにかを買って帰ってくれ、と言う女の子もいたし、ララは日本らしい景色や物の写真を撮って送って来いと言ってきた。なんで?と訊くと、自分のインスタグラムに載せたいからだと言う。最近「いいね」不足なの、なんとかしてよサニー、と「help!」と叫ぶクマのスタンプも送って来た。僕は松倉さんの作る料理や病院の食堂、バス停から見える風景を撮影してララに送った。それでララのインスタの「いいね」が増えたのかどうかは確認していない。
 テオからもほぼ毎日メッセージが届いた。どうやら彼は僕のカービィとシチリアに行ったらしく、カービィと並んでデッキチェアに寝そべる自撮りや、どこかのカフェで飲み物を分け合う自撮り、カポナータを掬ってカービィに食べさせようとしている自撮りなどを送ってきた。カービィは頭にティアラを飾られたり、サングラスを乗せたりリボンをつけたりしてかなり可愛がられているようすだった。〝俺のお姫さま〟とか、〝妬けるか?〟とかいうメッセージがいつも添えられていた。今日は半裸のテオとカービィが一つのシーツにくるまっている自撮りだった。〝早く3Pしようぜ〟。
  もちろん僕はテオに返信を打ったりはしなかった。

 キールからはなんのメッセージも届かなかった。
 僕からも打ったりはしなかった。
 僕らは互いに、SNSの類いを一切やっていなかった。だからお互いの近況を覗き見る術もない。
 やっておけばよかった、
 僕は初めてそんなふうに思った。

 僕の毎日は単調で空っぽだった。
 それはルート66みたいな果てしなく長い一本道のように思われた。周りにはなにもなく、終わりは見えない。
 だがもちろん、すべての物事がそうであるように、その日々にも終わりはやって来た。
 それは古ぼけたエンジン音を響かせながら、ある日僕の元へとやって来たのだ。



 降りそそぐ蝉の声に混じって、その聞き慣れないエンジン音は僕の耳に入ってきた。古ぼけた、年寄りの咳みたいなエンジン音だった。いつものようにベッドの上にいた僕はニンテンドースイッチから顔を上げ、降ろしっぱなしのロールスクリーンの隙間から外を見た。真昼の光が容赦なく照りつける中を、一台の車が無遠慮に我が家のポーチへと侵入して来ている。
 水色の、オースチンミニクーパー。
 それが亡くなった父の車であることを、僕は知っていた。
 ベッドから慌てて降り、できるだけ慎重に急いで一階へ行くと、昼食を摂るために戻っていた母がリビングの窓辺に突っ立って外を睨んでいた。
「猟銃を取って来て、哉藍」
 と母は言った。
 それから、前言と矛盾するのも構わずにこうも言った。
「日本になぜ銃刀法があるか知ってる?私がやつをぶち殺して殺人犯にならないためよ」
 母はそう言うとリビングの窓を開け、テラスに出た。僕もあとにつづいた。
 かなりいいかげんな具合に停められたオースチンミニの運転席が乱暴に開き、中から脚が、つづいて上背のある身体が外に飛び出て夏の空に向かって伸びをした。
「ヴィンス!」
 と母が怒鳴った。
「桃!」
 と男は笑顔で叫んだ。それから男の目が不審げに細められて僕を見た。
「哉藍?」
 それが間違いなく僕だと理解すると、男はぱっと笑顔になって両腕を開いた。
「哉藍!哉藍じゃないか!デカくなりやがって、もうアソコの皮は剥けたのか?」
 僕は母を見て言った。
「殺っていい?」
「気持ちはわかるわ。でもあのクソのために殺人犯にならないで」
 僕ら母子の会話も知らずに、久しぶりだなあー、と呑気に言いながら、ヴィンスはこちらに歩み寄って来る。

 ヴィンセント・ウーは父の元恋人だ。
 ヴィンスについて、母はそう説明をしたし、ヴィンスもそれは否定しなかった。
 二人の意見が食い違っているのは、母はヴィンスが父を奪っていったのだと言い、ヴィンスは母が父を奪っていったのだと言っていたこと。どちらが真実なのか、僕にはいまさら知りようはない。知りようはないし、どっちだっていい。
 父はもうこの世にいない。
 
 ヴィンスはマリリン・モンローのTシャツを着ていた。『七年目の浮気』で舞い上がるスカートを押さえる、マリリンのTシャツ。
「いい家を建てたな、桃。山の中の貴族の邸だ」
「なにしに来たの?」
 僕と母はテラスに突っ立ち、ヴィンスは真夏の太陽の下に突っ立っていた。
「旅行さ。あいつでドライブしようと思ってな」
 ヴィンスは首だけで父の車を示す。父が亡くなったとき、ヴィンスが父の形見として受け取ったのはあの車だけだと、母からは聞かされていた。
「わざわざカナダから運んで来たの?」
「まさか。俺はおまえとちがって金持ちじゃない。あいつはずっと香港に置いてたんだ。香港とカナダじゃ距離がちがい過ぎるだろ」
「いずれにせよ、ばかげた金の遣い方だわ」
 ヴィンスは天を仰ぐように笑った。朗々とした声が空に響き渡り、森のどこかで鳥の羽ばたく音がした。
「でも来た甲斐があった。おまえは元気で山の親分をやってるようだし、哉藍も――」
 と言ってヴィンスは僕の脚の怪我に気づいたようだった。こっちがひっくり返りそうな大声で、どうしたその脚は!と叫ぶ。僕も母もうんざりした。
「怪我をしたんだよ」
 仕方なく、僕はそう言った。ヴィンスはなんてこった、とか、治るのかそれは、とか、おまえの命みたいなものだろなにをやってんだ、とか一人で騒ぎはじめる。
「ハーブが台無しだわ」
 ヴィンスを黙らせるために、母はそう言った。
「なんだって?」
「ハーブよ。あんたが車のタイヤで牽いたところに、ハーブを植えてたの」
「そうなのか?それは悪かった。車をどかそうか?」
「もう手遅れよ」
 ヴィンスは車の方を振り返り、母に向き直って言った。
「また植えればいい」
「車が消えればそうするわ」
 ヴィンスはすると颯爽と車に乗り込んで、母の軽トラが停めてある横へと車をバックさせた。そして当たり前のように僕らの前まで戻って来た。
「腹が減ったな、もうすぐ正午だし。二人とももう昼は食ったのか?」

 松倉さんは突然現れた大男と、おっかなびっくりしながらも握手を交わした。母の古い友人だと紹介されたヴィンスを見て、まあこの方、中国のあの俳優さんにそっくりね、名前が出てこないけどとにかくそっくり、と松倉さんは言っていた。たぶんそれは本人だと思う、と僕も母も思ったが黙っていた。
 ヴィンスは俳優をやっている。
 いまはあまりメディアに出ていないが、元々香港の映画を中心に活動をしていた。何年か前には米中合作の、古代戦争映画の大作にも出ていた。ヴィンスはそこで重そうな甲冑を身につけ、あまり賢くもなく思いやりもない主君を庇って槍に突かれて死んでしまう役を演じていた。ヴィンスが敵の槍に倒れて血を吐くシーンを、母は三度も連続で戻して見た。そして最期のセリフ、「我が主…」を三回聞くと、母は堪えていたように吹き出して笑い、映画館まで行かなくて正解だったわね、と僕に言った。
 突然の来訪者に、松倉さんは慌てて追加の昼食を作った。僕は自室に引き上げたかったのだが、母が目でそれを制してきた。かと言って僕はその日のメニューである素麺と鶏と山菜の天ぷらは食べたくなかったので、松倉さんに桃を剥いてもらってそれを食べた。ヴィンスは松倉さんの料理が気に入ったらしく、ハイネケンのビールを飲みながらがつがつと出されたものを食べた。母も昼間なのにビールを飲んだ。一杯くらい水みたいなものよ、と言い、会社勤めでない者の特権だわ、とも言った。
 昼食が終わるとヴィンスは松倉さんに礼を言っていた。うまかった、とか、ありがとう、とか。日本語が話せないからみんな広東語だったが、松倉さんはイエスイエス、とか、オーケーオーケー、とか言って通じているんだか通じていないんだか、ともかくお互いの肩を叩き合ったりしてヴィンスは僕よりも松倉さんの存在に馴染んでいた。そして畑に戻る母の助手席にヴィンスは乗り込んで行ってしまった。
 昼食分働かないとな、と。
 僕は洗い物をする松倉さんを台所に置いて、自室に引き上げた。ロールスクリーンの間に指を差し入れて外を見ると、父の形見であるオースチンミニの水色の屋根が夏の光に輝いていた。

 夕方、ヴィンスは当たり前のように食卓の席にいた。そしてもうずっと以前からそうしていたかのように、うちの風呂に入り、僕の向かいの部屋にベッドを用意してもらっていた。
 夜、ヴィンスは僕の部屋にやって来た。
「ノックしろよ」
 と言うと、
「取り込み中だったのか?」
 とにやにや笑う。俺もおまえくらいの歳には毎朝晩やってたぞ、という発言を無視していたら、
「スマホの充電器貸してくれ」
 と、ようやく用件を言った。僕はそれを投げて寄越した。ヴィンスはキャッチしたが、僕のベッドの傍から動こうとしない。
「なに?」
 と訊くと、
「ルイスに似てきたな」
 と言う。
「そんなこと言われたの初めてだ」
「そりゃそうさ。17才だったルイスを覚えてるのはこの世で俺くらいのもんだからな」
「あっそう」
「なあ、怪我のことでそうくよくよするなよ。桃に聞いたけど、ちゃんと治るそうじゃないか」
「そうみたいだね」
「そうみたいだね?」
 ヴィンスは馴れ馴れしく僕のベッドに腰かけてきた。
「なあ、そんな他人事みたいに言うもんじゃない。おまえ自身の身体のことだろ」
「そうだよ。だから、他人に心配してもらわなくても大丈夫だ。病院にも行ってるし」
「他人って俺のことか?」
「他に誰がいるんだ?」
「まあ、そうだな」
 ヴィンスは曖昧に笑うと、ベッドから腰を上げた。そのままおやすみを言うのかと思ったら、
「くよくよするなよ」
 とまた言った。
「アキレス腱なんて、きっとすぐ治る。ジャッキー・チェンなんてあいつ、頭蓋骨の3分の2がプラスチックだぞ?ジャッキーに比べりゃ、おまえは身体のどこもプラスチックじゃないんだからな」
 僕はいろいろな我慢をして言った。
「慰めてくれてありがとう」
「まあな。俺はその……確かにおまえにとっちゃ他人だが、おまえの父親とは他人じゃなかったからな」
「わかるよ」
 と僕は言った。
「そうか、わかるか」
「僕ももう子どもじゃないからね」
「そうだな。……えっと、本当にわかってるか?」
「うるせぇんだよ」
「そうだな」
 ヴィンスは笑った。悪意はないのだろうが腹の立つ笑い方だった。尻尾を巻いて逃げる犬みたいに、ヴィンスは扉の向こうに行き、暗い廊下からおやすみ!と言葉を投げてきた。
 おやすみヴィンス。
 僕も扉に向かって声を投げ捨てた。
 
 ヴィンスの来訪によって、なにもなく果てしないだけだった道の両サイドに、突如極彩飾の看板がいくつも立ったかのような気分になった。
 騒々しく、そして目障り。
 でも僕にはその看板をどうにかする術も気力もなかった。
 僕はイヤホンで耳を塞ぎ、ベッドの中で目を閉じる。うまくいかなくても、他にできることはなにもない。

 翌朝、僕がベッドから起き上がって桃を取りに行くと、ヴィンスはすでに起きて台所におり、松倉さんが淹れてくれたコーヒーと桃を食べていた。今朝はアンディ・ウォーホルのマリリンのTシャツを着ている。
 おはよう哉藍、とヴィンスは言った。おはよう、と僕も返して、冷蔵庫から桃を二つ取った。そのまま二階に引き上げようとすると、
「どこへ行くんだ?」
 とヴィンスは引き留めた。自分の部屋だよ、とこたえる前に、
「おまえもここでコーヒーくらい飲めよ」
 と言う。いらない、と言う前に、ヴィンスはキッチンに向かって大声を張り上げた。
「ヨーコ!哉藍にもコーヒーを」
 ヨーコ、と呼ばれた松倉さんが戸惑った顔でこっちを見てくる。
「コーヒーはいらないです」
 と僕は松倉さんに言った。
「おい、いまコーヒーを断っただろ、日本語はわからんがいまのはわかったぞ」
「僕はカフェインを摂らないんだ」
「なんだって?」
「カフェイン。デカフェしか飲まないし、デカフェも滅多に飲まない」
「デ・カフェ?なんだ?フランス語か?」
「とにかくコーヒーはいらないんだよ」
 僕はヴィンスと、戸惑ったままの松倉さんを残し二階へ上がって行った。
「おい、ヨーコは飯だけじゃなくコーヒーを淹れるのもうまいんだぞ!」
 と言うヴィンスの声が追いかけて来たが黙殺した。
 部屋に戻って来ると、僕のわずかな食欲はすっかり失せていた。窓辺に桃を二つ並べ、きのうと同じ位置から動いていない、オースチンミニの水色の屋根を見た。
 そしてもう二千回目くらいなるが思った。
 パパはヴィンスのどこが好きだったのだろう?

 僕がパパについて知っていることはわずかしかない。
 ルイス・ワンという名前で、香港の金持ちの家に生まれたこと。背が高くて、端正な顔立ちで、モデルをしていたこと。
 映画にも一本だけ出演したことがある。『楽園追放』という名前の映画で、パパは女装したゲイの娼婦役で主演をしていた。ヴィンスはそのときパパに惚れている娼婦のケツ持ち役で、実際とはちがいほとんどセリフというものがない役だった。
 その映画で監督はなにかの賞を獲った。ヴィンスは助演男優賞だかにノミネートだけされた。パパの演技はうまかったと言う人と、大根だと言う人に未だ二分されている。僕にはどちらの意見が正しいのか判断がつかない。ともかくそれきり、パパは映画に出なかった。
 パパは母と結婚をしたが、母を愛さなかった。
 パパはヴィンスと結婚こそしなかったが、ヴィンスを愛していた。
 パパは僕に哉藍という名前を与え、バレエを与えた。それは自分が親に与えてもらえなかったからでもあり、一才だった僕がパパのピアノ演奏(バッハの、小フーガ ト短調だったらしい)に合わせて踊りだしたからでもあった。
 そして僕が四才のときに、パパは死んだ。事故死だったが、半分はきっと自殺だったのだと思う。
 麻薬中毒だったパパは治療院に長いこといて、退院したその日に麻薬の過剰摂取であの世へ行ったのだ。病院の判断がまちがっていたのか、パパの意思が弱すぎたのかそれとも強すぎたのか、いまとなってはもうなにもわからない。
 パパは焼かれて骨になり、もう二度と僕を抱き上げてくれなくなった。
 僕の傍には母と、ヴィンスが残った。それと愛車だった水色のオースチンミニクーパー。
 僕はパパのことを、ほとんどなにも覚えていない。
 僕はたぶん、ちょっとファザコンなのだろう。でもそのことを誰にも知られたくなくて、父親がルイス・ワンだということも知られたくなくて、僕は誰にもパパのことを話さない。キールにさえも、話したことはない。

 夢であってくれたらいいのにと思いながら昼の食卓に着くと、ヴィンスはやっぱりそこにいて、松倉さんの作ったチャーハンと焼餃子をむしゃむしゃと食べていた。うまいぞ、と言ったが、朝のことから学んだのかもう僕に食えとは言わなかった。
 ヴィンスは今日も母と母の従業員たちと一緒に桃の収穫を手伝ったそうだ。タダ飯食らいでいるわけにはいかないからな、と言い、母は煙草を吸いながら、働かない男が家に二人もいると私の精神衛生が良くないの、と言った。
「僕は怪我人だよ」
 と抗議すると、
「そうね」
 どうでもよさそうに、母は言った。
「煙草、どうしたの?」
 と訊くと、
「こいつのせいで禁煙を台無しにされたのよ。わかるでしょ?」
 と母は煙を吐いた。
「煙草は良くないぞ。俺はもうきっぱり止めた」
「そらよかったわね」
 母はふんぞり返って、ヴィンスに煙を吐きかけた。ヴィンスはチャーハンを食べながら、手で煙を払った。
「今日は病院の日ね、哉藍」
 と母が言ったとき、いやな予感がした。母は機嫌が悪く、そして僕と同じくらい、ヴィンスにどこかへ行ってほしいと思っている。
「今日は、ヴィンスに送ってもらいなさいね。暇人同士、そうするべきだと思うわ」
「僕は別に暇人じゃないよ」
 僕にできる抵抗は精一杯、それだけだった。もちろん母には通じない。
「どこらへんが暇人じゃないの?」
 黙る僕に、ヴィンスがオーケーオーケーと声を被せてきた。
「病院への送迎をすりゃいいんだな?お安いご用だ、ついでにその辺をドライブしてくるよ」
 どうも、と母は言い、満足げに灰皿に煙草を押しつけた。
 母が行ってしまうと、ヴィンスは声を低めて僕に言った。
 桃は広東語がヘタになったな、ときどき壊れたラジオが喋ってるみたいだ。
 ヴィンスは僕を笑わせたかったのかもしれない。でも、もちろん僕は少しも笑えなかった。

 いつもの時間になると僕は病院へ行くための準備をした。ヴィンスは早くからスタンバイしていて、庭で父のオースチンを軽く洗いさえしたらしかった。
「行くか」
 ぴかぴかのオースチンに凭れ、どこか誇らしげに、ヴィンスは僕のために助手席のドアを開いた。

 そこは真夏の光を集めて焚き火でもしているかのような暑さだった。
 年寄りが咳き込むような音を立ててエンジンがかかると、ヴィンスは窓を全開にしろ、と命じた。僕が窓の開閉スイッチを探していると、ヴィンスの腕が伸びて来て、謎のハンドルを掴んで回しはじめた。同時に、窓が開いていく。
「いつの車だと思ってるんだ?手動だ手動」
「知らないよ、そんなこと」
 後部座席にまで身を乗り出して、ヴィンスはすべての窓を開けていく。
「出発するまでにえらく時間がかかるね」
「むかしはみんなこうした。いまは電気で時間の節約こそしているかもしれないが、その節約した時間みんながのんびりしたか?別のなにかで時間を埋めてるだけだろ、お相子だ」
「エアコン入れないの?」
「もう入ってる」
 僕は信じなかった。
「本当だ。ただ効きが悪くてな、ずっと窓を開けていないと、暑くて死ぬ。こいつは桃の最新型アウディとはちがう時代から来たんだ」
 僕は観念してシートベルトを締めた。ヴィンスもシートベルトを締めた。
 走り出して家の敷地を抜け公道に出ると、ヴィンスが当たり前のように道路の右側を走りはじめたので僕は声を上げた。
「日本は左側通行だよ!」
 ああそうか、とヴィンスは冷静に言うと、ウィンカーも出さずにそのまま車を左側に寄せた。
「香港と同じだったな、忘れてたよ。カナダが右側通行なもんで」
 ハハハ、とヴィンスは笑ったが僕は笑えなかった。別にいつ死んだって文句は言えないけど、ヴィンスと一緒にヴィンスのせいで心中はしたくない。
「気をつけて」
 と僕は言った。
「交給我吧!」
 映画のセリフみたいに北京語でそう言うと、ヴィンスはハンドルから手を離し、恭しく腕を組んだ。
「ハンドル!」
 と僕は叫んだ。

 ヴィンスの運転がとりあえず安定して道を走っているのを確信すると、僕はバッグからサングラスを取り出してかけた。
「サングラス?眩しいのか?」
「ちがう。紫外線対策」
「紫外線?」
「目からも紫外線が入るんだよ。そうすると体内のメラニン生成が促進される。だからUVカットのやつをかけるんだ」
「はあ…紫外線なあ」
 ヴィンスはよくわかっていないような返事をする。僕としても別に目からの紫外線のことなんてわかってもらわなくてもかまわない。
「最近の男は大変だな。やれ美容だ化粧だおしゃれだ…。おまけに整形もするんだろ?」
「僕はしない」
「そりゃそうだ、おまえには整形なんて必要ない。なんてったってルイスの息子だからな」
 話題を変えたくて僕は言った。
「ヴィンスはなぜカナダに移住したの?」
 ヴィンスは僕の横顔を振り返り、すぐ前に向き直ってから真顔で言った。
「俺の知ってる香港は消えた」
 言葉のつづきを待ったが、それ以上のつづきはないようだった。すると、
「そんなこと訊くな」
 ヴィンスは僕にやんわりと釘を刺してきた。僕は返事をしなかった。
「結婚でもするのかと思ってたよ」
「結婚?」
「カナダなら同性婚できるだろ?」
 ヴィンスは鼻で笑った。
「俺にそんな相手はいない」
 四つの窓から容赦なく夏の熱風が吹き込んでくる。エアコンは本当についているのか疑わしいけれど、ときどき冷蔵庫を開けたときのような風が気まぐれに僕の胸を冷やしてきた。
「おまえには結婚したい相手がいるのか?」
「いないよ」
 キールのことを考えながら、僕はそうこたえた。

 バス停が近づいてきたとき、僕は一応あそこで降ろしてくれと言ってみた。けれどヴィンスは承知せず、遠慮するなよ、病院まで連れてってやるさ、と言って車を走らせつづけた。
 で、おまえの病院はどこにあるんだ?
 とヴィンスが言うから、僕はナビを触ろうとしてそれがないことに気づき、スマホの経路検索を立ち上げて病院までの道のりを設定した。
 便利だな。
 そんな機能があることを初めて知ったみたいに、ヴィンスは言った。
 なにか音楽が聴きたかったが、その車のオーディオ機能はもちろんデジタルに対応していなかった。ブルートゥースも、車載wi-fiもなし。カセットなら聴けるぞ、と言われ、カセットってなに?と訊くと、やれやれ、とヴィンスは呻き、俺がなにか歌ってやろうか?と言い出すので断った。断ったが、ヴィンスは勝手に歌い出した。広東語の変な歌で、なんだよそれ、と言うと、ジャッキー・チェンの「酔拳」の歌だと言う。歌の半ばの馬鹿げたセリフまで、ヴィンスは完璧に諳じているらしかった。
 ただただやかましかったが、半分くらいは風の音が掻き消してくれた。
 案外いい歌詞だな。
 歌い終えると、しみじみとした顔で、ヴィンスはそう呟いた。

 病院に着くと、リハビリにまでついて来ようとするヴィンスをなんとか食堂に押し込めた。
 なにか飲んで待ってろよ、と言って、僕は食券の販売機の前までヴィンスを促した。
「コーラはあるのか?」
 仕方なく、諦めたようにヴィンスは言った。
「あるよ」
 僕が小銭を入れようとすると手で制し、
「それはコカ・コーラか?ペプシじゃないよな?」
 と訊く。
「そんなこと知らないよ」
「俺はペプシは嫌いなんだ」
「大して変わらないだろ?」
「いや、変わる。コカでも、ダイエット・コークは好きじゃないけど」
「なんだっていいだろ?そんなに拘るなら別のものを飲めよ」
 なにがあるんだ?と訊くヴィンスに、僕はその食堂で飲める飲み物を食券の順番に読み上げた。結局ヴィンスはコカかペプシか定かでないコーラを選んだ。コカだといいけどな、と言いながら。
 僕はコーラの食券を、さっきから興味津々でずっとこっちを見ているおばさんに差し出した。そのおばさんがすぐにグラスにコーラを注ぎはじめたのを確認してから、僕は食堂をあとにした。ヴィンスは疑わしげな目で、じっと厨房のおばさんを見つめていた。

 僕が大沼とのリハビリを終えると、ヴィンスは食堂で大人しく待っていた。僕がいつも座る窓辺のカウンター席にヴィンスも腰かけていて、その背中に「終わったよ」と声をかけると、ヴィンスは僕の方を妙な顔をして振り向いた。
「ペプシだったの?」
 と訊くと、
「いや、コカだった」
 と言う。よかったね、と言おうとすると、
「俺にドーナツを売ってくれなかった」
 ヴィンスは厨房の方を指差しながら言った。
「ドーナツ?」
 聞けば、こういう話だった。
 ヴィンスがコーラを飲んでいると、いくつか離れた席で老夫婦がドーナツとコーヒーを飲んでいた。うまそうなドーナツだったから、厨房まで行って、あのドーナツはまだあるのか?と訊いた。もちろん英語で、とヴィンスは言う。
「通じなかったろ」
「ああ」
 それでスマホの翻訳機を使ったが、それでもドーナツは出て来なかった。あるのかないのかもわからなかった。それで紙ナプキンにドーナツの絵を描いてみると「ノー」と言われた。
「ノー・どーなっつ!って叫ばれたんだ、あのおばさんにな。なんで叫ぶ必要がある?しかもよく見ると、奥にまだ揚げてないドーナツが並んでるのが見えた。俺には売りたくないってことだろ?」
「考えないことだよ」
 と僕は言った。
「なんだって?」
「あのおばさんにはドーナツを揚げる権利がなかったのかもしれないし、あれは明日用のストックなのかもしれない。人にはそれぞれ事情があるんだよ、たぶんね。それを外国人にどう説明したらいいのかわからなかったんだ、きっとね」
「そんなふうに見えなかったぞ」
「日本は村社会なんだよ、ヴィンス」
「なに?」
「村社会。国全体が小さい村で、その中にさらにいくつもの小さい村が犇めきあってる。仲間じゃないと見なされると、中には入れてもらえない」
 ヴィンスは僕をじっと見てきた。なんともいえない目だった。まるで僕の目に一年間だけ通った日本の学校生活の地獄が映っていて、それを見たかのような目だった。
「出ようよ」
 と僕は言った。
「別の場所でドーナツを食べよう」
 ヴィンスは立ち上がった。
「そうだな。車で走ってりゃ、ダンキンか、クリスピー・クリームくらいあるだろ」
「どっちもない」
 と僕は言った。
「この町には、ミスタードーナツしかない」
「ミスター、ドーナツ?」
 ヴィンスはなぜか可笑しそうに笑った。いい名前だな、ミスター、ドーナツ、と。
 食堂を出るとき、厨房から例のおばさんがこっちを見ているのに僕は気づいた。ヴィンスも気づくと、おばさんを指差して「ノー・ドーナツ!」と叫んだ。
 やめろよ、と僕は言ったが、本当のところは少しだけ、愉快だった。

 僕らはミスタードーナツへ行った。ヴィンスは腹立ちまぎれだったのかそれとも本当にドーナツが食べたかったのか、片っ端からドーナツを選んでトレーに乗せた。ミスドのコーラはコカだったからヴィンスはそれを頼み、僕はアイスウーロン茶を頼んだ。そして久々にオールド・ファッションを一個だけ食べた。うまかった。ヴィンスはエンゼルクリームが一番うまいと言って、お代わりしようかどうか迷っているようすだった。
「よく食べるね」
 と僕は言った。ヴィンスが大喰らいしているのを見るのは悪くなかった。僕の代わりに自由に好きなだけ高カロリーなものを食べてくれているような気さえした。
「いまは食べていいんだ」
「いまは?」
「秋になったら、どうせ痩せる。また荒野に行ってクソ重たい甲冑着て一日中馬に乗るからな」
「映画?」
「まあな。どうせまたロクでもない死に方をする冴えない男の役だ。上司に恵まれないくせに愚直な忠誠心だけ持ってるような」
「いいね、乗馬」
「素直に言うことを聞く馬ならな。だが俺に与えられる馬は大抵ハズレだ。だいたいむかしから馬と相性がよくないんだよ、俺は」
「最近は馬ばかり乗ってるイメージあるけど?」
「俺だってたまには輿に乗りたい。そして馬鹿な作戦を立て直して部下の忠誠心に報いてやりたいね」
「秋か」
「そうさ、秋だ」
 この夏が終わって秋になったとき、僕は一体どこにいるだろう。パリに戻っているだろうか?それとも――。
 そんなことを考えていると、僕のスマホにメッセージの着信を知らせる音が鳴った。この音が聞こえると、まだ未練がましくもキールからじゃないかと思ってそわそわしてしまう。いまのところ全部ハズレているけれど。
 吹き出しに受話器のマークがついたアプリを開く。メッセージの送り主はやはりキールではなくまたしてもテオで、その時点でもううんざりだったが、それでも僕はやつからのメッセージを確認せずにはいられなかった。なぜなら、テオがキールの近況についてなにか言ってこないとは限らないからだ。
 今回は動画が一つだけ送られてきており、サムネイルを見ただけでため息が出たが、僕はやっぱり無視できずに再生ボタンを押した。とたんにエリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴ」が流れ出し、画面の中ではどこかのベッドルームでテオがカービィを片腕に抱いて黙々とダンスをはじめた。一分ほど踊りつづけた時点で、「いつまでやるんだ?」と呆れて言う声が入ってきた。ロビンの声だった。サニーが俺に振り向くまで、と踊りつづけながらテオがこたえると、カメラが動いてロビンの顔が映った。画面の端に踊るテオを映しながら、ハイ、サニー、とロビンは言った。
 元気にしてるか?脚の具合はどうだ?シチリアは最高だがテオの傍にいるのは最悪だ。これを撮らされてる俺に同情したらテオに「死ね」とでも電話をかけてやってくれ。あるいはおまえもシチリアに来てテオのママが作ったクソまずいレモネードでも飲もう。俺がテオを殴り殺す前に、どっちかをしてくれ。俺たちは元気だ。それとキールもたぶん元気だ、知らねえけどよ。
 それだけ言うと、テオがダンスをやめて「俺を撮れよ!」とキレはじめた。ロビンがそれに「やんのか?ゴミカス」と応じた時点で、動画はぷつんと切れた。
「なにを見てるんだ?」
 とヴィンスが訊く。
「動画だよ。パリの学校の友だちが送って来たんだ。くだらないやつをね」
 僕はヴィンスにスマホを渡した。ヴィンスは砂糖に汚れた指を紙ナプキンで拭ってから、テオの動画を再生させた。なにをやってんだ、こいつは?と笑いながらテオのダンスを見、ロビンと喧嘩になると、手を叩いて喜んだ。
「つづきが見たいな」
 と言いながら、ヴィンスは僕にスマホを返した。
「僕は見たくない」
「電話をかけなくていいのか?『死ね』と言ってやらないとくるくる前髪のやつがダンサーを殴り殺すかもしれないぞ」
「きっともう殺ってる」
 ヴィンスはちょっと考えるような顔になって言った。
「そうだな」
 それからポン・デ・リングのつづきに戻った。しばらくすると、
「ハンサムだな」
 とヴィンスは言った。
「どっちが?」
「ダンサーの方。おまえのことが好きなんじゃないのか?」
「興味ないんだ」
「くるくる前髪の方は?あいつも可愛い顔してたな」
「どっちも興味ないんだ」
「キールって誰だ?」
「別れたんだ」
 と僕は言った。
 そう言葉にすると、胸が軋んだ。
 ヴィンスはまだ手をつけていない、いちごのポン・デ・リングを一欠片ちぎって僕の皿に乗せた。
「食えよ」
 僕はそれを食べた。

 ヴィンスは飲み物が足りなくなってコーラを追加で頼みに行った。ついでに僕のためにフルーツティーを勝手に買ってきた。アイスティーの中に、刻んだフルーツがいろいろと入っていてきれいだった。僕はそれをカメラで撮り、ララに送信した。
「ヴィンスはなにをしに日本に来たの?」
 僕はスマホを触りながら、そう質問をした。ずっと訊きたかったことを、なぜかいまするりと訊くことができた。
「なにをしにって?」
「母さんに会いに来たの?」
「まさか。桃に会いに行ったのはついでだ」
「母さんから僕が怪我したことを聞かされてたんじゃないの?」
「桃が俺にそんなことを事細かに伝えてくると思うか?」
「思わない」
「そのとおりだ」
 僕はフルーツティーを一口飲んだ。
「じゃあなにを目的に日本に来たの?」
 ヴィンスは口の中のドーナツを嚥下すると、
「海に架かってる橋があるだろ?日本にも」
 と訊く。
「いくつかあるね」
「そのどれかは知らんが、むかし、ルイスがその橋の工事を特集した雑誌を読んでたんだ。香港にだって汀九橋なんかがあったのに、なにに感銘を受けたのかあいつはその特集をえらく真剣に読んでた。そして、『いつかこの橋をドライブしようよ、ヴィンス』って俺に言ったんだ。あの、ルイスの愛車で、外国の海の上を突っ走ろうぜって」
「それいつの話?」
「……あいつが何度目だかの入院をしてたときだな」
「病院から出たらそこへ行くつもりだったの?」
「そんなふうに考えてたのかもしれないな、あいつは。でも、結局は行かなかった」
「パパが死んじゃったから?」
 ヴィンスは僕から目を逸らした。窓の外を見て、道の向こうにあるトヨタディーラーの店舗を見ているみたいだったが、本当はなにも見てはいなかったのだろう。
「一月前にな、俺の親父が死んだ。クズだったが、それでも一応家に戻って葬式をあげた。そのあとで香港に置きっぱなしにしてたあいつのオースチンに乗った。メンテナンスに金はかかったが、あいつはまだ動いてくれた。それで宛もなく香港中をドライブしてたら、ずっと忘れてたその約束をふいに思い出した。いくつか仕事を前倒しにすりゃあ時間はある。秋が来て、荒野で馬に揺られるまではな」
「それで日本に来たの?パパの車で」
「そういうことだ」
「でも、うちにずっといるつもりみたいに見えた」
「それは」
 とヴィンスは笑う。
「おまえが怪我をしてたからだ。落ち込んでるみたいだったし、海の上の橋へ行くことよりも、おまえの方がずっと大事だからな」
 ルイスだってきっとそうした。
 とヴィンスは肯く。
「行かないの?」
 と僕は訊いた。
「橋にか?」
「そう」
「なあ、俺じゃあルイス代わりには」
「行こうよ」
 ヴィンスの言葉を遮って僕は言った。
「僕じゃパパの代わりは務まらないだろうけど、その橋に行こう。海の上を、パパのオースチンで突っ走ろう」


 僕とヴィンスは旅に出た。
 海にかかる橋を目指して。
 母には電話で事情を話し(呆れ果てていた)、大沼と病院からの電話は無視した。
 スマホで検索すると、僕らがいまいる場所から一番近い橋は本州と四国を繋ぐ明石海峡大橋だった。僕らはとりあえずそこを目的地にして、アバウトに関西に向けて車を走らせることにした。
 五、六時間ほど走れば目的地に着くとのことだったが、ハイウェイに乗ってすぐに問題が発覚した。
 パパのオースチンはどれだけアクセルを踏み込んでも70キロ以上の速度が出なかったのだ。僕らは何台もの車にイライラと追い抜かされ、ときに執拗な煽り運転を受けたりしながら左車線をのろのろと走りつづけた。
 降りようよ。
 と僕が言うと、
 そうだな。
 とヴィンスも応じた。
 スローで行こう。
 それで僕らは高速道路を降り、下道から目的地を目指すことにした。スマホのGPSによるとおよそ10時間の距離を走ることになるようだったが、僕はかまわなかったし、ヴィンスもかまわないようだった。
 秋までには着く。
 とヴィンスは言って、
 そのうるせえナビゲーションも切っとけ、と僕に命じた。
 オースチンにナビは似合わねえだろ、と。
 僕らは地図を持たないことにして、道路標識だけを頼りにそこを目指すことにした。

 僕らの行動はきっと無意味で馬鹿げていたのだろう。土地勘のない男が二人、地図もなしにオンボロ車に乗って旅をするだなんて。
 だがいまの僕にはきっといくらかそういう、無意味な時間みたいなものが必要なのだと感じたし、それはヴィンスも同じだったのではないかと思う。
 僕は助手席に乗り、ヴィンスはハンドルを握って、僕らはオースチンで旅をつづけた。

 下道を走り出してすぐに、オースチンには速度以外にも問題のあることが発覚した。それは数時間つづけて走るとエンジンがオーバーヒートしてしまうことで、それが冷却水の問題なのかエンジンそのものに問題があるのかはわからなかったが(たぶんどっちも問題だったのだろう)、そうなると僕らは一旦どこかで車を休ませてやるしかなかった。アイドリング状態でボンネットを開け、中に籠った熱を逃がしてやる。双六でいうところのこの「一回休み」は、最初の日だけで三回も巡って来た。三回目にボンネットを閉めたあとで、泊まるところを探そう、とヴィンスは疲れた声で言った。時刻はもう夜の十時を回っていた。
 スマホを開き、僕はそこがまだ名古屋であることにぞっとしながらも宿を探した。だがその日に限って、ホテルはどこも満室だった。一人のフロントマンが、学会と某アイドルのコンサートがあるせいだろうと教えてくれた。つまり、名古屋中のホテルが満室だろう、と。
 僕らは車中泊を覚悟に再び車に乗り込み、のろのろと通りを走っている最中に、赤いネオンに浮かび上がる「ENPTY」の文字を見つけた。
 モーテルだ!
 とヴィンスは叫び、
 僕はそこが主に〝ご休憩〟を目的とした施設だとわかったが、シャワーを浴びてベッドに身体を横たえられるならもうなんだってよかった。
 やったな!
 ヴィンスは嬉々としてウィンカーを出し、その施設に入って行った。
 僕らは無人のフロントで部屋を選び(初めてだったから少々戸惑った)、エレベーターに乗り込んでその部屋を目指した。ヴィンスはここがラブホテルだとようやく気づいたみたいで、ベッドがデカいといいな、と慰めるみたいに僕に言った。
 チカチカと点滅する部屋番号のドアを開けると、果たしてそこにはクイーンサイズと思しきベッドがあった。僕は倒れるようにそこへダイブし、ヴィンスはすぐに冷蔵庫らしき扉を開けたがそれがアドルト・グッズの販売機だとわかると無言で閉めて隣の扉を開けた。今度こそ冷蔵庫だった。ヴィンスは缶ビールを一つ買ってすぐにプルタブを開けてぐびぐびと飲んだ。それからテーブルの上のリモコンでテレビのスイッチをつけた。
 とたんに聞こえてきたのは女の喘ぎ声だった。セーラー服を着ているが明らかに二十歳を越えている女優が正常位で男に突かれながらきんきん響く声を上げている。僕は画面を見たし、ヴィンスもリモコンを握ったまま画面を凝視していた。ヴィンスはそのまま腰だけをベッドの端っこに落ち着けて、やはりなにも言わずに画面を凝視していた。
 やがて男が唸りながら射精を終えると、ヴィンスは静かにテレビを消した。
 僕はなにも言わなかったし、ヴィンスもなにも言わずにビールを飲んだ。リモコンはまだ握ったままだった。
「ねえヴィンス」
「なんだ?」
「ヴィンスは自分がゲイだってどうやって気づいたの?」
 なにも映っていないテレビを凝視したまま、ヴィンスはこたえた。
「ルイスに出会ったからだ」

 腹が減ったので僕らはそのホテルで食事ができるのかを電話で問い合わせた。食事はできた。しかもそれは実に充実した食事の数々で、どういう仕組みなのかは知らないが無料の会員証を発行するといくつかの食事が無料で提供されるのだった。半信半疑だったが、僕らは和牛のステーキとシーザーサラダ、ビールを三本に、明日の朝食の予約までしておいた。電話の人は丁寧で親切だった。僕の日本語がネイティブじゃないと途中で気づいたのか、それからはゆっくりとわかりやすく話してくれさえした。
 僕らは届いた肉とサラダを食べた。ヴィンスはビールを飲み、僕は冷蔵庫にあったミネラルウォーターを飲んだ。食事はうまかった。これが無料だなんて、どうなっているんだか本当にわからなかい、と二人で言い合った。
 テレビのチャンネルをがちゃがちゃ変えると『ドラゴンボール』をやっていた。日本語だったが、ヴィンスはかまわずそれを見ると言ってリモコンを置いた。『ドラゴンボール』の世界では絶望的に強い宇宙人を相手に荒野で死闘を繰り広げている。
「俺もむかし孫悟空だったんだ」
「孫悟空?」
「小学生のとき、学芸会の出し物で『西遊記』をやった。俺は最初猪八戒の役だったんだが、主役のやつがあまりにヘタクソで交代になった。新聞紙で作った如意棒を振り回して、金角と銀角をやっつけた。まさかそのときは、それが生涯でやれる唯一の主役だとは思ってもみなかった」
「まだわからないよ」
「そうだな」
 信じていないふうに、ヴィンスは笑った。
「僕なんてまだ、舞台で主役をやったことなんてない」
「バジルに選ばれてたって桃から聞いてたぞ。『ドン・キホーテ』じゃ、バジルは男役の主役だろ?」
「僕はアンダースタディだよ。つまり、代役ってこと。主役が怪我したり、他にもいろいろな理由で出られなくなったときのための、予備のダンサー。本物の主役じゃない。主役と同じ振り付けを覚えて、指導も受けるけど、舞台に上がれるチャンスは滅多に来ない。おまけに、怪我をしたのは僕だったし」
「それだって主役をやれる実力がなきゃ選ばれないんだろう?」
「僕はでも負けたんだ、テストで。きっとこれからも、ずっとそいつに負けつづける」
「巧いのか?そいつは」
「巧いよ」
 すごく巧い。
 と僕は言った。胸の奥がひりひりしたけど、それを否定できるほど浅はかにはなれない。
「それなら、まだよかったじゃないか」
「よかった?」
「俺なんてよく、なんで主役に選ばれたんだかわからねえやつの傍で惨めな役をやらされてる。若くて、これから伸び代のありそうなやつならまだいいが、コネだかなんだかで主役に収まって平気で手を抜くやつの方が多い。そういうやつはだいたい、女優を物にしてやるとか名声を得るとか、ギャランティの方を芝居よりずっと大事に思ってる。そういうやつの傍で真剣に芝居する俺の身にもなってみろ」
「最悪だね」
「もしもおまえのライバルがおまえが嫉妬するくらいに巧いなら――、」
 ヴィンスはビールを飲み、テレビの中でかめはめ波を打つ悟空じゃなく僕をはっきりと見て言った。
「それは途徹もなく幸運なことだ、哉藍。人生にはそうそう、嫉妬と尊敬を同時に抱けるライバルには出会えない。そいつがいる限り、おまえにはまだやるべきことがあるってことだ」
 おまえはまだ踊らなくちゃいけない。
 ヴィンスはそう言うと、ビールを飲んで、蟇のように大きなゲップを一つした。
 勘弁してくれよ、
 と言うと、
 ああ悪ぃ、
 と、ヴィンスはげらげら笑った。

 僕らは交代でシャワーを浴びた。ヴィンスが先にバスルームを使い、その間僕はスマホを開いて、これまでのキールとのメッセージのやり取りを読んだりした。
 キールは、いまどこでなにをやっているだろう?
 僕はそのことを思った。
 きっとキールはまだパリにいるだろう。故郷であるストックホルムには帰らず、テオたちのようにどこかへ行くわけでもなく。
 僕は父の元恋人といま名古屋のラブホテルにいるよ。僕らは父の遺した愛車で海に架かる橋を目指しているんだ。
 急にそのことをキールに打ち明けたくなったが、僕はやはりなにもメッセージを打たずに、スマホを閉じた。
 カラスの行水を終えたヴィンスはさっぱりしたようすでバスローブを羽織って出てきた。しかし長躯のせい膝上までしか丈がない。これは女ものか?とヴィンスは苦笑し、僕も笑った。
 今度は僕がバスルームへ行き、頭から熱い湯を浴びた。ジャスミンの香りがするシャンプーで髪を洗うと、生き返ったような気持ちになった。
 バスローブを羽織り、洗面台に売り物のようにきれい並んだ化粧水を顔にはたき込む。そこには乳液や美容マスクもあり、日焼け止めクリームまで揃っていた。ボディクリームのボトルもあったから、僕はそれを持ってベッドルームへと戻った。
 部屋は静かだった。テレビは消され、ヴィンスはベッドの端っこで方頬を枕に埋めてうつ伏せになっている。もう眠っているらしく、その背中は規則的にゆったりと上下していた。
「ヴィンス?」
 そっと声をかけてみたが、やはり起きなかった。
 ヴィンスはもう深い眠りの中にいた。
 僕はボディクリームを全身に塗り込み、ドライヤーで髪を乾かしてから、ベッドの枕元にある電気スイッチで部屋を暗くした。そうしてヴィンスとは反対側のベッドの端に身体を横たえた。
 目を閉じたが、眠りはなかなかやって来そうもなかった。疲れているし、眠りたいのに。
「ねえ、ヴィンス、」
 壁に向かってそう呼びかけてもみたが、ヴィンスはやはりなにも反応しなかった。静かな呼吸と空調の音だけが、僕の耳を塞いでいた。

 暗闇の中で、僕はキールのことを考えはじめた。

 僕とキールが出会ったのは学校の試験会場だった。
 世界中からバレエダンサーになるために集まった十代たち。僕はその中の一人で、キールもその中の一人だった。
 僕らは用意された大部屋の楽屋で、鏡を睨みながら化粧をし、衣裳に着替えた。そこにいる全員がライバルだったし、今日が終わればいまここにいる半分以上の人間ともう二度と会うことがないのもわかっていた。ひょっとしたら半分のさらに半分かもしれないことも。
 誰もが自分自身だけのことに集中していた。
 将来を賭けた大勝負の、最初の入り口。他人にかまっている暇は1ミリもない。そんなことをするのは愚か者だけだと、そこにいる誰もがよく心得ていた。もちろん僕自身も。
 でも僕は、その鉄則を自ら踏み外したのだった。

 トイレに行ったとき、小便をしている背後で音がした。それは明らかに誰かが腹の中のものを吐き戻している音で、苦しそうにえずき、咳込んでいる。
 うげっ!
 僕の隣で同じく用を足していた男子が、そうわざとらしく声を上げた。それから僕の方を向いて、
 ラッキーだな。
 とそいつは言った。
 一人潰れたぞ、と。
 僕はそこまでは思わなかったが、ダメなやつだな、とは少し思った。いまから吐いててどうするんだよ、と。まだなにもはじまってないだろ?と。
 僕がいつもよりゆっくりと手を洗ったのは、吐いてるやつのことがその時点で気になってしまっていたからだ。もちろん僕は気にしたりするべきじゃなかった。そいつがどんな事情を抱えていようと僕には関係ないし、僕は僕自身のことに集中するべきときにあった。ラッキーだな、と言った男子のように、僕はさっさとトイレから立ち去るべきだったのだ。
 でも、僕はそうしなかった。
 のろのろと手を洗っていると、ドアの開く音がして、吐いていたやつが出て来た。そして蒼白の顔でゾンビみたいに歩くその男子と、目が合った。
 深い森の奥で暮らしている男鹿。
 僕がキールに抱いた第一印象はそれだった。
 静かで、澄んだ空気を纏い、間違って人間の世界に迷い込んでしまった男鹿。
 男鹿はそっと微笑みを浮かべた。僕に申し訳ないと思っているような、もうすべてを諦めたような、そんな微笑みだった。
 大丈夫?
 気がつくと、僕はそう声をかけていた。
 男鹿は少し驚いたように僕を見、
 ごめんね、
 と謝った。

「なにが?」
 と僕は訊いた。
「あまり愉快じゃない音を聴かせたから」
「まあ確かに。あまり耳心地いい音楽ではなかった」
 男鹿はそっと笑い、僕の隣で手を洗って口の中を漱ぎはじめた。
「なにか悪いものを食べた?」
 と僕は訊いた。
「いや、食べ物のせいじゃない。極度に緊張すると、いつもこうなんだ。だから、病気じゃない」
「気分はどう?」
「まあまあ」
 と、彼はこたえ、もう一度口を漱いで、顔を洗った。彼はまだ化粧もしていなければ衣裳にも着替えていなかった。ずっとトイレに籠っていたのだろうか。
「着替えないの?」
 と訊くと、
「ないんだ」
 困ったように、彼は言った。
「ない?」
「ここに来るのに、メトロに乗ったんだ。足元に荷物を置いてたんだけど、気がつくと失くなってた。マヌケな話だろ?」
「試験官に話した?」
「仕方ないから、衣裳はこのままでいいって。タイツとシューズは貸してくれるらしい。だから、Tシャツを着たアルブレヒトをやるんだ」
「僕の課題もアルブレヒトだよ」
「本当?他には何人アルブレヒトがいるんだろう?でもTシャツを着たアルブレヒトは僕だけだろうな」
「メイク道具は?」
「それもいま誰かさんが持ってる」
「貸してやるよ」
「えっ?」
 戸惑う男鹿の手首を掴んで、僕は楽屋まで引っ張って行った。そして鏡の前に座らせ、自分のメイクボックスを渡した。
「いいの?」
 と彼は訊いた。
「いいよ。別に大したものじゃないし。メイクした方が、Tシャツを着たアルブレヒトでも少しはマシに見えるだろ?」
 Tack.
 と彼は言った。
 どこの言葉?
 と訊くと、スウェーデン、と彼はこたえ、僕に右手を差し出した。
「僕はキール・クリスティアンソン。君はなんて名前なの?親切な人」
 僕はその手を握ってこたえた。
「ワン・セイラン。香港から来た」
「ワンが名前?」
「いや、セイランの方」
「セイラン、」
 とキールは呟いた。それは〝シーラン〟に聞こえた。
「サニーでいいよ」
 僕は言い直したが、キールは首を振った。
「いや、もう覚えたよ。セイラン」

 キールは素早くメイクをし、髪をセットして、スタッフの人が持って来たタイツとシューズを身に着けた。可哀想なことに硬い新品のシューズだったが、贅沢は言えない、とキールは覚悟したように笑った。何人かはキールのTシャツ姿に失笑し、親しげに話す僕らを見て呆れるような視線を寄越すやつらもいたが、僕らは気にしなかった。
 僕は自分のタンブラーに淹れてきたジャスミンティーをキールに分けた。リラックス効果があるんだ、と言って。キールはそれをうまいと言って飲んだ。
 キールの順番は僕より先だったから、僕らはお互いの健闘を祈り、短く別れの言葉を交わした。
 いいアルブレヒトにしよう。
 また会えるといいね、と。
「君のことを忘れないよ、セイラン」
 とキールは言い、僕らはそっとお互いの肩を抱いた。

 その試験で、僕は思うように踊れなかった。
 原因がなにかは明白だった。
 僕は自分が集中するべきときに他人にかまった。
 そのことに心を乱したままうまく整えることができなかったのだ。
 落ちたな。
 踊り終えて、試験官たちの前でレヴェランスをしながら、僕が真っ先に思ったのはそのことだった。それは暗くて大きな岩のように、僕の心にのしかかった。だがキールのことを怨む気持ちは湧かなかった。不思議なくらい、僕はそんなふうに思わなかった。寧ろ彼のことをいくらか助けられたのだろうか?ということが自分のことの次に気がかりだった。
 キールはうまく踊れましたか?
 僕はそれを試験官たちに訊いてみたいとすら思っていた。

 ダメだったよ。
 ホテルに戻って、僕は母にそう電話をかけた。
 また来年頑張ればいいわ、と母は言った。
 そうだね、と電話を切ったあとで、僕は悔しさのあまりベッドに顔を埋めて泣いた。
 子どもみたいに、声を上げて、一人きりで僕は長い間泣きつづけた。

 だが三週間ほどが経って、僕のところに届いたのは合格を知らせる手紙だった。僕は自分がなぜ合格したのかわからなかった。他の連中が、あの日の僕よりも酷い有り様だったとでもいうのだろうか。
 ともかく僕はそれを握りしめて最終試験に臨み、そこにキールの姿が見えないのを残念に思いながら、今度は自分に持ち得る限りの力を舞台の上で発揮することができた。
 すべてが終わったあと、会場から出ようとした僕を誰かが呼び止めた。そのときは知らなかったが、それはデルフィーヌ先生で、先生は僕の名前を確認すると、あなたは前のテスト会場で人を助けたかしら?と訊いてきた。衣裳を失くした子、覚えてる?と。
 はい、とこたえると、
 来て、と先生は言った。
 そして僕はある個室に連れて行かれ、先生の質問にいくつかこたえることになった。

 どうしてあの子を助けたの?
 と先生は訊いた。僕は自分が責められているのかと思い、びっくりして押し黙った。すると先生は質問を変えた。
 あの会場であの子を助けたのはあなただけだったわ。どうしてそんなことをしたの?あなたは自分のことに集中するべきだったし、ライバルが一人でも減る可能性を歓迎しなかったの?
 僕は言葉に詰まり、それでもゆっくりと考えながら声を出した。
 彼が困っているみたいだったから。緊張していたし、トイレで苦しんでいたから…。
 それで自分のメイク道具を貸して、彼を励まして、仲良く話してリラックスまでさせてあげたわけ?
 はい、とこたえるしかなく、僕はそう肯いた。
 それでなにが起こった?
 と先生は訊いた。僕が目を逸らすと、
 あなたは前の試験で失敗をした、その自覚はある?
 と訊ねる。
 はい、
 と、また僕はこたえた。
 あなたは彼を助けるべきじゃなかった。
 と先生は言った。
 そのせいであなたは集中力を欠いた演技をしたし、それで私たち教員はある一人を除いて全員があなたに不合格の点をつけたわ。それに、あなたが助けた子はここだけの話、余程のことがない限り合格させる予定だったの。それだけの才能があることが明白の子だったから。たとえバズ・ライトイヤーのTシャツを着たアルブレヒトでもね。
 僕がその言葉に呆然としていると、
 あなたは間違えたのよ。
 容赦なく、先生はそう断言をした。
 あなたが間違えたせいで、我々も間違いを冒すところだった。でもファビアンがあなたを残すべきだと主張したの。あなたのような人間性を持った人物に、どんなダンスができるのかもう一度見る価値はあるはずだと。それで、あなたは今日ファビアンの期待にこたえ、私たちの間違いを糺した。
 僕が顔を上げると、
 あなたは運がよかっただけよ。
 ぴしゃりと先生は言った。
 あなたは間違えたし、でもそれは間違いではなかった。
 どっちなんですか?
 と僕は訊ねた。
 それは、あなたがこれから答え合わせをしていくことなんじゃない?
 先生はそう言うと、初めて微笑みらしきものを見せた。
 キールはどうなりましたか?
 と僕は訊ねた。
 パリに来ればわかるわ。
 先生はそうこたえ、僕の頬をちょっとだけ摘まんで、 にっこりと笑ってみせた。

 僕とキールは学校の寮で再会をした。僕らは互いの姿を見つけると全力で走り寄ってハグをした。
 僕の恩人、とキールは言った。
 会いたかったよ、Tシャツのアルブレヒト、と僕は言った。
 僕がここにいるのは君のおかげだ、とキールは言い、
 そんなことない、と僕は首を振った。
 そんなことあるよ、絶対にある。
 キールはその深い森のような緑の目で僕を見て、力強く肯いた。

 僕らは同じ部屋で暮らすことになった。
 最初の日の夜、僕はうまく寝つかれなかったし、それはキールも同じようだった。キールは度々寝返りを打ち、水を飲みに起き、枕元がスマホの灯りでほんのりと明るくなっていた。
「眠れないの?」
 と僕は訊いた。
「ごめん、起こしたかな?」
「いや、僕も起きてた」
「うまく眠れない」
「僕もだ」
「家を出たらよく眠れると思ってたのに」
「………そうなんだ」
「うん。……ねえ、」
「なに?」
「もっと近くで話をしてもいい?」
 僕はベッドに寝たままちょっと身体をずらし、ブランケットを捲った。
「いいよ」
 キールは自分のベッドから降りると、足音を立てずにこっちに来た。僕が空けたスペースに最初は腰をちょっと落ち着けたが、思い直したかのように身体を横たえた。僕は枕の一つをキールに寄越し、捲ったブランケットで自分とキールの身体を包み込んだ。
「ありがとう、セイラン」
「なにが?」
「試験のとき、僕を助けてくれた。見ず知らずの他人だったのに、君だけが僕の心配をしてくれた」
「なんでもないことだ」
「そんなことない。君が助けてくれなきゃ、きっと僕はいまここにいない」
「そんなことないよ」
 僕はちょっと苦笑する。
「北欧の…バルティックだっけ?そのコンクールで優勝してたんだろ?僕がいなくても、あの日思うように踊れなくても、きっと先生たちは君の実力を見抜いたよ」
「僕はでもあの日、本当は逃げ出そうかと思ってたんだ」
「逃げる?」
「ただでさえ緊張してたんだ。大きな大会や試験なんかのときは、いつもああやってトイレに籠るはめになる。おまけにスリに合うし……もうなにもかもが厭になってた。あともう何回こんなふうにトイレで吐くんだろうって、今度こそ絶対に失敗するって、ていうか衣裳は失くすしすでに失敗してるじゃないかって。もうなにもかも厭だと思いながら、トイレから出たんだ。そうしたら、そこに君がいた。君はその……とても綺麗で、手を洗ってて、僕に『大丈夫?』って訊ねた」
 救われたんだ、とても。
 とキールは言う。
「いままで、そんなふうに言ってくれる人に出会ったことなんてなかった。おまけに君は当たり前のように僕の手を取って、僕が少しでもまともに踊れるようにいろいろと手を貸してくれさえした。『踊って』、と言われてるような気になった。だから、あの日僕は逃げ出さすに踊ることができた。君のために、僕は踊ったんだ」
 だからいま僕はここにいる。
 暗闇の中で、キールは微笑んだ。
「どうして泣いてるの?」
 と僕は訊いた。
「なんでだと思う?」
「なんでかな」
「君にもう二度と……、その、僕に手を貸したせいで会えなくなったらどうしようかと思ってた」
「会えたんだから、泣くなよ。これから厭でも毎日顔を見ることになるし」
 キールは泣きながら笑った。
「そうだね。でも、僕は君の顔を見るの、厭になったりしないと思うな」
「そんなのわかんないよ」
「ルノワールの絵を壁にかけて見飽きる人っていないだろ?」
「ルノワール?」
「そう。綺麗なものって、ずっとそこにあっても厭にならないよ」
「褒めてくれてるの?」
 恥ずかしそうに、キールは目を伏せた。
「ねえ、キスってしたことある?」
 と僕は訊いた。
「男の子とはまだない」
 とキールはこたえた。
「僕もだ」
「うん、あの…本当は母親としかしたことがない」
「僕もだ」
「ウソだ」
 僕はキールがまだなにか喋り出す前に、素早くその唇にキスをした。
 信じた?
 と訊くと、
 まだ、
 とキールは言った。
 それで、僕らはもう一度キスをした。


 気がつくと僕は深く眠っていたらしい。朝飯だぞ、とヴィンスに起こされたとき、僕は一瞬ここがどこだか、なぜヴィンスがいるんだかわからなくて混乱した。
 ああそうだ、とすべてを思い出してから、僕は妙に重怠い身体を起き上がらせた。磨りガラスの窓から朝陽が射し込んでいる。
 テーブルの上には二人分の朝食が並んでいた。トーストに卵にサラダにソーセージ、ジャムの乗ったヨーグルトにオレンジジュース。文句のつけようがないメニューだ。
 ヴィンスは冷蔵庫の上にあったというドリップコーヒーを淹れようとしていた。ティファールの湯がまもなく沸騰しようとしている。
「僕にもコーヒーちょうだい」
 と言うと、驚いた顔で振り向く。
「これはデ・カフェとかいうのじゃないと思うぞ。ふつうの、たぶん安物のコーヒーだ」
「うん…、それでも、いいんだ。コーヒー飲みたいんだよ」
「そうか、」
 ヴィンスはそれ以上はなにも言わなかった。もう一つのカップとコーヒーを取ってきて、僕のためにコーヒーを淹れてくれた。
 僕は久々にコーヒーを飲んだ。普段はなるべく小麦粉のものも食べないようにしているけれど、バターが塗られたトーストにさらに蜂蜜を塗ってそれも食べた。食べたり飲んだりしたら頭の中が多少すっきりするかと思っていたのに、少しもすっきりしなかった。
「お風呂に入ってきていい?」
 と僕は訊いた。
「ああ入れ。別に俺たちに急ぐ理由はない」
 朝食を片づけると、僕はバスタブに湯を張りに行った。備え付けのジャスミンの入浴剤を入れて、湯の中にゆっくりと身体を沈める。
 目を閉じると、瞼の裏にさまざまな景色が見えた。
 キールに会いたい。
 僕はそう思った。強く、切実に。

 風呂から出ると、ヴィンスはテーブルの上でなにかを書いていた。なにをしているのか訊ねると、手紙を書いているのだと言う。誰に?と訊くと、ここの従業員にだ、と言う。見ると、メモ用紙に感謝の言葉が綴られていた。ここはいいホテルだ、もてなしに感謝する、飯もうまかった、ベッドの寝心地もよかった、そんなようなことが簡単な英語で書かれている。おまえもなにか書け、と言うので、「ありがとうございました、にくがおいしかったです」と平仮名で書いた。
「おまえはすごいな」
 とヴィンスは唸る。
「一体何ヵ国語が頭の中に入ってるんだ?」
「たぶん四つ。半端に覚えてるだけだけど」
「そんなことない。ちゃんと通じて生活できてるんだから上等さ。俺なんて日本語は『イラッシャイイラッシャイ』と『アリガトー』しか知らないぞ」
「なんで『いらっしゃい』?」
「なあ、知ってるかもしれないが俺は肉屋の息子だったんだ。代々精肉店をやってたが、親父の代のときに開心小厨って食堂もはじめた。それで学校から帰って来た俺には、毎日呼び込みの仕事が待ってた。なんせ兄弟の中で一番声がデカかったんでな。そんで週末になると、日本の観光客がどっと押し寄せて来た。俺が子どもの頃、日本人は金持ちだったからな。そこいらじゅうの店で日本人の取り合いになったよ。なんせ払いはいいし、チップはくれるし…。それで俺も負けじと『イラッシャイイラッシャイ』と『アリガトー』を言いつづけたもんさ」
「なるほど」
 ヴィンスは当時を懐かしむような遠い目をして言った。
「あの日本人たちはいまどこでどうしているんだろうな?」

 僕らは支度をし(着替えがほしいね、と話し合った)、ざっと部屋の中を整えてからホテルを出た。部屋の扉の横に支払いをする機械があったのだが、使い方がよくわからずフロントマンに来てもらった。窓口の支払いだとカードもキャッシュレス決済も使えず現金のみだと言うので、部屋に入れて代わりに精算をしてもらった。それは僕らが受けたサービスに対してびっくりするような安さだった。
「アリガトー」
 ヴィンスが言うと、フロントマンはにっこりと笑った。僕らが手を振ると、フロントマンも手を振ってから、思い出したみたいに頭を下げた。
 僕らはオースチンに乗り込んだ。屋根の下にいたからか、オースチンの中は涼しく、機嫌もよかった。
「行くか、ルイス」
 ヴィンスはそう言ってエンジンをつけた。
 僕らは再び海に架かる橋を目指しはじめた。

 僕らの旅は蝸牛の歩みだった。
 オースチンは相変わらず二時間に一回ほどの休憩を必要としたし、ガソリンも大いに食った。
 僕は身体が気怠いせいでほとんど口を利かなかった。眠っててもいいぞ、とヴィンスは言ったが眠ることはできず、ただときどき目を瞑って、夏の光を瞼の裏に受けた。
 僕はキールのことばかりを考えるようになっていた。
 いままで考えることを避けていたのが、突然堰を切ったようにキールのことで頭がいっぱいになった。
 キールの顔や声や、あの溌剌として伸びやかなグランジュテ、軸ぶれというものを知らないピルエット、力強く優雅なマネージュが何度も僕の頭の中を駆け巡った。
 ――君のために、僕は踊ったんだよ、セイラン。
 普段のひどく自信なさげな顔が、仮面をつけたかのようにぱっと切り替わる瞬間。キールが踊り出すと、いつもそこに世界が立ち上がった。
 キールのダンスが、僕は好きだった。それはいつだって、嫉妬するほどに美しかったから。
 僕は次に、ベッドの中でキールがどんなふうだったかを思い出した。キールはよく僕の胸に横顔を埋めたがった。僕の心臓の音を聴くと安心すると言って、その小さな耳をずっと僕の胸の上にくっつけていた。僕はそんなキールの頭を撫でるのが好きだった。信じられないくらいやわらかな髪を、何度も指で梳いて楽しんだ。それは光に当たると金色の野のように美しかった。
 キールはさみしがり屋だったし、すごく甘えたがりだった。それは誰に対してもそうなのじゃなく、いままで誰にもそんなふうにできなかった〝餓え〟を感じさせるような甘え方だった。そして僕自身も、その〝餓え〟には覚えがあった。
 僕らには互いが必要だった。
 ずっと、そう信じ合ってきたはずだったのに――。
 僕は突然暗い気持ちに胸を塞がられる。
 キールはひょっとするともう僕の代わりを見つけてしまっただろうか?いま僕がこうして日本の見知らぬ街を走っている間に、キールは僕じゃない誰かの心臓の音を聴いているかもしれない。なんせキールは、僕とテオとのことを勘違いしたままだし。
 そんなの厭だ、
 と僕が思ったとき、
「ドンキだ!」
 ヴィンスが大声で叫んで、僕は現実に戻って来た。

 赤いサンタ帽を被ったペンギンのマークがあるディスカウントショップで、僕とヴィンスは買い物をした。
 まず下着を選び、次に着替え用のTシャツを選びに行く。変なTシャツばかりで困ったが僕はできるだけシンプルなものを選び、ヴィンスは白いTシャツにデカイ蛙のキャラクターが付いたやつを見つけると興奮したようすで、
「ピョン吉!」
 と叫んで手に取った。
「えっ、それを買うの?」
「買うに決まってるだろ!ピョン吉だぞ、『ど根性ガエル』だぞ」
「『ど根性ガエル』ってなに、」
「やれやれ、半分日本人のくせに『ど根性ガエル』も知らないのか?」
「知らない」
「まさか『ドラえもん』くらいは知ってるよな?」
「ドラえもんは知ってるよ。あとサザエさんも」
「じゃあ『ど根性ガエル』も勉強しておけ」
 ヴィンスは余程そのカエルのキャラクターが好きなのか、色と表情のちがうものを三枚も買い込む気らしかった。
「ボディクリーム探して来る」
「ああ、いるものがあるなら買っとけ」
 まだTシャツを物色しているヴィンスをそこに残して、僕はボディクリームや日焼け止めを探しに行った。
 一人になり、僕はスマホを開いた。キールからはやはりなんの連絡もなく、テオやロビンからもメッセージは届いていなかった。
 僕はララに連絡をしようか少し迷った。ララはパリジェンヌだからきっとフランスにいるだろう。キールがどうしているか教えてほしいと言ったら、少し面白がるだろうが素直に教えてくれるはずだ。そして、僕が復縁したがっていることを知ったら、自らなにかアクションを起こしてもくれるだろう。任せてよサニー、私がショーでキューピッド役だったのを忘れたの?
 僕がそんなことをうだうだと考えていると、ふいに肩を叩かれて、振り向くとヴィンスが値札がついたままのサングラスをかけて立っていた。
「どっちがいいと思う?」
 手に持ったもう一つのサングラスを、交互につけてそう訊く。
「最初の」
 と僕が言うと、
「だよな」
 とすぐに納得した。
「ボディクリームやらはあったのか?」
「うん」
 僕はそこにあったものをろくに見もせず、適当に取ってヴィンスに渡した。ヴィンスはなにか言いたそうな顔をしていたが、結局なにも言わず、他にいるものはないかを確認してから、レジに行った。
 さっき見たばかりだったのに、僕はまたしてもスマホを見た。キールからのメッセージは、やっぱり届いていない。

 車の中で僕らは買ったTシャツに着替えた。ヴィンスは上機嫌で蛙のTシャツを着込み、サングラスをなぜか頭の上に乗せる。なんで目にかけないの?と訊くと、これが『ど根性ガエル』の正しいスタイルなのだと言う。なんのことかさっぱりだったが、ヴィンスは至極満足そうに妙ちきりんな歌まで歌いはじめた。知らないけれど、きっと『ど根性ガエル』の歌かなにかなのだろう。
 オースチンのエンジンがそれに合わせたようにリズムを刻む。

 僕らは関西を目指して走り、休み、走りを繰り返し、夜遅くになるとラブホテルを探してそこに泊まり込んだ。
 それはどんな辺鄙な場所にも必ず一つはあって、そのサービス内容や料金、部屋の装飾はさまざまではあったのだが、概ねどこも快適に過ごすのに充分過ぎるくらいのサービスを提供してくれた。僕らはチェックアウトする際には、必ずお礼を書いたメモを残してそこを去った。
 僕は最初こそいつもどおりの食生活を心がけていたが、いつからか(たぶんあの朝コーヒーを飲んだときから)どうでもよくなって、ヴィンスと一緒にコンビニのサンドイッチを食べたり、アイスを食べたり、オーガニックでもデカフェでもないコーヒーを飲んだりした。
 挙げ句の果てにマクドナルドまで食べた。フライドポテトは三本摘まんだだけで止めたが、チーズバーガーは丸々一個食べてしまった。罪悪感と背徳感で、僕は大いに興奮した。
 それを買ったドライブスルーの受け取り口にいた男性店員は、現れた僕らの車を見てちょっと驚いたように目を丸くし、
「オースチンミニクーパー、」
 事実を確認するように、そう口にした。それから、
「71年製?それとも72年製?」
 好奇心が丸出しになった顔でそう訊く。僕がヴィンスに通訳すると、
「71年製だ」
 とこたえが返ってきた。
「71年製だって」
 と僕が伝えると、
「いい車ですね。状態も悪くなさそうだ。大切に乗られているんですね」
 感慨深げに言う。僕はまた通訳し、ヴィンスはそれに、
「いや、かなりじゃじゃ馬だ。気まぐれだしな」
 とこたえる。僕が通訳すると、
「いい車だ」
 改めて男はそう言って、僕らに品物とお釣りを渡した。僕らが行こうとすると、
「待って!あの、あんたひょっとしてヴィンセント・ウーじゃないか?」
 興奮ぎみに男が言った。
「ヴィンセント・ウーじゃないかって言ってるよ」
 と僕が言うと、
 ヴィンスは男の方に身を乗りだし、
「ノー・ヴィンセント!」
 と叫んだ。そしてすぐさまアクセルを踏んでドライブスルーから去った。
「なんでちがうって言ったの?」
 と僕が訊くと、
「俺はいま役者のヴィンセントじゃない。ただのヴィンセントだからだ」
 と言う。
「有名人は大変だね」
「俺は有名人じゃない。さっきのやつは変なやつだ。ふつうのやつには71年製のオースチンミニだとかヴィンセント・ウーだとかわかるわけがない。変質者だ。変質者のマクドナルド・クルーだ」
「すごい偏見だね」
「おまえも大人になりゃわかる。変質者はどこにだっていて、気がつくと自分の背後にこそっと立ってケツを撫でてくるんだ」
 なんの話だよ、と僕は笑ったが、ヴィンスは真面目な顔をしたまま、笑わなかった。
「そういえば、パパはどうしてこの車を気に入って乗ってたの?」
「ああルイスな」
「パパなら、もっと高い車にだって乗れただろ?」
「そうだな。ルイスは幸か不幸か、金にだけは見放されない人生だったからな」
「でも、選んだ車はオースチンだった」
「なあ、あいつはさ、世界がこのぐらいの大きさならいいのにって思ってたんだよ。コンパクトで、必要最低限の物だけ乗せられて、好きな音楽流して、いつだって気軽にどこかへ連れてってくれる場所ならいいのにってな」
「隣にはヴィンスがいて?」
「うしろには桃とおまえだな。………ルイスにはこの世界は広すぎたんだ」
 だからあいつはこの世界から出て行った。
 そう言うと、ヴィンスは長いこと黙ってから、ぱっと笑顔になってこう訊いた。
「おまえの人生初のドライブがこの車だったのを覚えてるか?」
「覚えてない。そうだったの?」
「ああ。桃がおまえを産んで、退院する日にこの車で迎えに行ったんだ。行きはルイスが運転したが、帰りはおまえを抱いてうしろに乗ってた。だから俺が運転した。まあ、本当ならチャイルドシートやらに乗せるべきだったんだろうが、あいつはおまえにメロメロのぞっこんで、腕から離そうとしなかった。泣き喚いて、桃のやつが乳をやるから寄越せとキレだすまで、あいつはおまえをずっと抱いて、その自分にそっくりの顔を眺めてた。俺が妬けるくらいににこにこでな」
「覚えてない」
「覚えてないのがふつうだ。おまえはこの世に生まれてきて1週間も経ってなかったんだからな。でも、そういう日が確かにおまえの人生の1日にはあったんだ」
 僕はその日のことを想像してみようとした。この車の中でかつて、いまのようにヴィンスが運転をし、後部座席には母と父がいて、その父の腕の中に赤ん坊の僕がいたことを。窓の外にはなにが見えただろう?空は晴れていただろうか。なにか花は咲いていただろうか。パパは赤ん坊の僕に、どんな言葉をかけたのだろうか。
「パパは僕のこと、愛してたのかな」
「愛してたさ」
 前を向いたまま、ヴィンスは僕の疑問にこたえてくれた。パパの代わりに、パパの元恋人は言った。
「ルイスはおまえを無条件で愛してたよ」

 僕らは散々道に迷い、途中日本海側にまで出てしまってからようやく海にかかる橋の入り口まで辿り着いた。しかしそれはもともと目指していた明石海峡大橋ではなく、岡山県と香川県を結ぶ瀬戸大橋だった。僕らはいつの間にやら行き過ぎてしまっていたのだ。
 僕らがそこに辿り着いたのは夕方だった。近くの記念公園に車を停めて、僕らは夕焼けに染まる瀬戸内海と、美しい造形の橋を見た。
「どうする?」
 と僕は訊いた。
「あれは本当に海か?」
 ヴィンスは海を見つめたまま訊いた。僕がそうだとこたえる前に、
「大陸のやつらが見たら河だと思うだろうな」
 と一人でこたえる。
 僕はヴィンスが無意味にポケットを探っているのに気づいた。どうやら煙草を探しているらしかったが、しばらくしてそれがもうとっくのむかしから手元にはないことを思い出したようだった。
 ヴィンスは、流れてしまった時の流れに呆然していた。それがもう戻っては来ないということにも。
「明日は晴れるか?」
 とヴィンスは訊いた。
「晴れるよ」
 と僕はこたえた。
「じゃあ、明日出直すか。どうせ走るなら、青空の下がいい。ルイスならそう言う」
 それで僕らは最後のラブホテルを探すために、車に乗り込んだ。近くに遊園地でもあるのか、山間に観覧車があって、それはぴかぴかと光りながらゆっくりと回っていた。

 橋の近くにもいくつかのラブホテルがあった。僕らはその中から一番変な名前のホテルを選び、最早手慣れた作業のように部屋まで行き、料理の注文をし、夕飯を食べて交代で風呂に入った。すべてがこれまでどおりだったが、なにかがこれまでとはちがっていた。ヴィンスはなぜだか口が重く、それなのいつものように振る舞おうとして僕らの空気は不自然にぎくしゃくとした。互いに「おやすみ」を言い合って僕らはベッドの端と端で眠りはじめたが、いつも寝つきの早いヴィンスがいつまでも寝つけないでいるらしいのを僕は背中で感じつづけた。

 そして真夜中に、僕はヴィンスの叫び声で目を覚ました。それは何度もパパの名前を呼び、目覚めることでヴィンスはその悪夢から逃れて来たみたいだった。暗闇の中で荒く息をつくヴィンスに、
「大丈夫?」
 と僕は声をかけた。
 ああ、
 闇の中で、声はすぐに返ってきたがそれはまだ半分悪夢の中にいるかのように遠く聞こえた。
「なにか飲んだ方がいいと思う」
 僕は枕元のパネルで部屋を少し明るくした。そうして冷蔵庫から炭酸水を買ってヴィンスに渡した。ヴィンスはいつの間にかベッドの縁に腰かけ、左の掌の中に顔を埋めていた。
「悪い」
 とヴィンスは言った。
「なんにも」
 と僕はこたえ、そっとしておこうと、灯りはそのままに再びベッドの端に横たわった。
 ヴィンスはじっとそのままの姿勢でいた。何度か深く息をつく以外はなにも言わず、少しも動かなかった。
 父が死んだのは十三年前だ。
 僕はそのときほんの幼子だったし、まだ十七年しか生きていないからそれは遥かむかしのようにしか思えない。でもきっとヴィンスにとってはそうじゃないのだろう。ヴィンスにとってそれはまだ、〝たった十三年〟という感覚なのだろう。母を見ているから、僕にもその感覚はなんとなく想像ができた。
 愛する人を自死で喪うってどんな感覚だろうか。
 それは僕にはまるで想像が及ばない世界だ。でももしもキールがそんなことになったら、僕は――。
「俺はルイスを愛してた」
 僕の妄想をきれいに断ち切る声でヴィンスは言った。まださっきの姿勢のままだったが、身体のほとんどはもう現実の世界に戻って来ているようだった。そういう声で、ヴィンスは事実を告げた。
「俺はルイスを愛してたんだ、世界中のなによりもな」
「うん」
「俺はルイスを愛してたし、ルイスも俺を愛してくれていた。でも…俺たちはロミオとジュリエットが愛し合ったみたいに混じりけのない純粋な愛だけで結ばれてたわけじゃない。嫉妬することもあったし、憎いと思っていた時期だって二度や三度じゃない。俺はあいつにぼろぼろにされたし、俺だっていくらかはあいつをぼろぼろにしたんだろう。『殺してやる』とか『やれよ』とか何度も言い合った。おまえはまだ若いからよくわからんかもしれんが、ともかく、俺たちはただ好きって気持ちだけで繋がっていたわけじゃないんだ。だがな、そういう汚れたごちゃごちゃした気持ちもすべて含んで、俺をあいつを愛してたんだ。それは、あいつがいなくなったことで消えたりはしなかった。いまもずっと、俺の中にあるんだ」
「そう」
「愛って、たぶんそういうものなんだ、哉藍。世間で言われているよりもごちゃごちゃしてて、みっともなくて、見苦しくて汚い。嫉妬や憎しみがあって、でもその中に自分だけに降り注ぐ光みたいなものがある。それを手放したくないなら、手を伸ばしつづけるしかない。見苦しい自分も相手も、受け入れていくしか」
「もう寝ろよ」
 と僕は言った。実際のところは、僕の意識はいまやはっきりと覚醒していて眠りにつけそうもなかったのだが、これ以上ヴィンスに喋られると余計なことを言ってしまいそうで怖かったのだ。
「ああそうするよ。俺はなんでこうやかましい人間なんだろうな?ルイスにもよく言われたよ。やかましいくせに、肝心なことはいつも言ってくれないってな」
 僕は言葉のつづきを待った。けれどもうつづきはないらしく、ヴィンスは枕元の灯りを落とし、ベッドに横たわる。
 暗闇と静寂が時間の進みを重くした。そしてそう時が経ってないうちに、ヴィンスは再び言葉を発した。
「本当は別れたくないんだろう?キールとかいう、おまえのパリの友だちと」
 僕は返事をしなかった。返事をしなくてもいいことを知っていたのだ。なぜならヴィンスは、僕の両親でも先生でもないから。そうしても許される特権がヴィンスに対してだけはあった。
「だったら、おまえは相手にそう言うべきだ。受け入れてくれるかどうかはともかく、おまえがそう思ってるってことをそいつにちゃんと伝えた方がいい。おまえ自身のためにも」
 生きているうちにしか、相手に想いは届かないんだから。死んでしまったら、それはもう宛先不明で自分の元に返ってくるだけなんだから。
 ヴィンスはそれだけを言うと黙ってしまった。しんとした重い暗闇の中で、やがてヴィンスが眠りについたらしい気配が伝わってきた。
 僕はいつまでも闇を見つめていた。瞼を閉じると光が見えた。その中にはキールがいて、僕はそこに向かって指先を伸ばした。

 翌日、僕らは正午近くになってからホテルをあとにし、オースチンに乗り込んで橋に向かった。
 ヴィンスはもう普段どおりのやかましいヴィンスに戻っており、僕は昨夜の出来事を夢のように思った。ただ、夢ではない証拠に、僕はきのうまでとは少しちがう場所に自分がいるのを感じた。この春にアキレス腱を切ったときからずっと立ち止まっていた場所から、ちょっとだけ前に進んだか横にズレたか、ともかくそこから少しだけ動いたか動かされたかしたのを、僕は感じた。
 僕らは橋の入り口に辿り着き、ヴィンスは頭にサングラスを乗せた正しい『ど根性ガエル』スタイルで武将のように、
「いざ」
 と言った。
 僕も、
「いざ」
 と言った。
 そして僕らはついに海にかかる橋を渡った。
 僕は黙っていたし、ヴィンスも黙ってハンドルを握っていた。
 窓の外、遥か下には海があった。それは深い青と緑が複雑に入り混じった美しく深い海の色だった。開いた窓から吹き込む潮風。僕らの身体の中にも、これと同じ成分が入っている。僕はそのことを強く感じた。
 そして、急に踊りたくてたまらなくなった。脚と腰が浮き立つように、うずうずとした。
 
 橋は、僕らがそこに辿り着くのにかかった時間に対してあまりにも呆気なく短かった。僕らは橋を渡り切ってしまうともう目的地がなく、それでとりあえず臨海公園の方向を示す看板に向かって車を走らせた。
「渡っちまったな」
 とヴィンスは言った。少し呆然としているような横顔で。
「渡ったね」
 と僕は言った。
「なんというのか、なんでもいざ経験してしまうと、それがあっという間に過去になってしまうと、さみしいもんだな」
「でもきっとパパは喜んでる。ヴィンスがオースチンで橋を渡ってくれたこと」
「そうだといいけどな」
「大丈夫。息子の僕が保証する」
「そりゃあ太鼓判ってやつだな」
 ヴィンスは笑い、いつだったか歌ったジャッキー・チェンの「酔拳」の歌をまた大声で歌いはじめた。悪くない歌詞だ、と僕は思った。
「公園に着いたらお願いがあるんだ」
 と僕は言った。
「なんだ?」
「僕を撮ってほしいんだ」

 臨海公園に着くと、僕は海岸沿いの遊歩道に場所を決めて、ヴィンスのスマホを借りてYouTubeを開き、『Happy Together』が流れるようにセットし、自分のスマホのカメラを起動してヴィンスに渡した。
「いまから踊るから、それで僕を撮ってほしいんだ」
「踊るっておまえ、脚を怪我してるんだろ?」
「脚が片方使えなくても僕は踊れるよ」
「でも、」
「僕はダンサーなんだ、ヴィンス」
 僕にはダンスが必要なんだよ。
 それからたぶん、この世界にも。
「だから僕は踊る」
 そう言うと、ヴィンスは「行け」というふうに手を払った。僕は遊歩道に立ち、ヴィンスの指先が音楽をスタートさせた。

 僕は踊った。
 祈るように。
 僕自身と、世界を結ぶために。
 僕はキールのことを想った。
 父と母のことを想い、ここまで連れて来てくれたヴィンスのことを想った。
 いつも僕の心配ばかりしていた松倉さんのことや、無愛想だが職務を果たしていた大沼のことや、なんだかんだで僕を気にかけてくれているテオやロビンやララのことを想った。僕のことを「待っている」と送り出してくれたデルフィーヌ先生。
 それから、僕をちゃんと見てくれているファビアン先生のことを想いながら、僕は踊った。
 
 音楽が止み、僕はカメラに向かってレヴェランスをした。いつの間にか集まっていた人たちが、僕を拍手で包んでくれた。
 ヴィンスも泣きながら手を叩いていた。
 鬱陶しいな。
 その泣き顔を見て、僕は笑顔でそう思った。
 僕は撮った動画をキールに送信した。メッセージはなにも添えなかったが、キールならきっとわかってくれるだろう。

「パリに戻るよ」
 と僕は言った。
「そうした方がいい」
 とヴィンスは言った。
「おまえはダンサーだ。ダンサーは踊らなくちゃならない。おまえが踊るのを待ってるやつが、きっとこの世界には待ってるはずだ。俺もその一人だが」
「どうも」
「『どうも』、な」
「アリガト」
「どういたしまして。あと、こちらこそ、アリガト」
 ヴィンスが手を差し出して、僕はその手を握った。
「さて、いいかげん桃のところに帰るか」
「いや、空港まで乗せて行ってほしいんだ。荷物は、あとから母さんに送ってもらう」
「そんなに急いで帰るのか?」
「うん、帰りたいんだ。ちょっと予定外に長く日本に居すぎたしね」
「キールが心配か?」
「それもある」
「じゃあ帰るべきだな」
 僕らは歩いてオースチンのところまで行った。真昼の陽射しをたっぷりと浴びたその車内に乗り込んで、ヴィンスは何度もエンジンをかけようとキーを回したが、それはどれだけ試みても、もう二度と息を吹き返してはくれなかった。
 パパのオースチンは息絶えてしまっていた。

 どうする?
 と訊ねた僕に、
 おまえは空港に行け、
 とヴィンスは言った。
 パリに帰って、やることが山ほどあるだろ?
 と。
 ヴィンスはどうするのさ?
 と訊くと、
 俺の心配はいらない。どうにかできる、大人だし、スマホはあるし、こっちに知り合いの弁護士もいる。
 と言う。
 行けよ。
 やさしく、微笑んでヴィンスはもう一度僕にそう言った。
 もうドライブはおしまいだ、と。
「おまえは自分の脚で、……まあいまはまだ万全じゃないかもしれないが、歩いて行けるさ、哉藍」

 僕とヴィンスは手を振って別れた。ヴィンスは動かなくなったオースチンの傍に立ったまま、僕に大きく手を振りつづけていた。

 僕は最寄りのJRの駅に向かって歩きはじめた。僕は海を見て、空を見た。まだ夏はつづいている。そんなことを思ったとき、ポケットの中でスマホが震えていることに気づいた。てっきりヴィンスが困って電話をかけてきたのかと思ったら、画面に映っていたのは思いがけない名前だった。信じられないような気持ちで画面をタップする。
「……もしもし?」
 そう問いかけると、
「セイラン?」
 おそるおそる、深い霧の中からこちらを確かめるように、キールの声が聴こえてきた。

「動画を見たよ」
 とキールは言った。
 僕がその言葉を噛みしめていると、
「素晴らしかった」
 とキールはつづけた。
「君は美しくて、ダンスも……。なにもかもがとても美しかった」
「そんなことない。即興だったし、いろいろ…その…不完全だった。君ならもっと、うまく踊れたよ」
「いや、僕はあんなふうには踊れない。君のダンスは、君だけのものだよ、セイラン。それに僕は、君が踊ってる姿が好きだ」
「キール、泣いてるの?」
「うん、」
「パリはまだ早朝だよね?早くから起こしたみたいで、悪かったよ」
「最高の朝になったよ」
「……そう?」
「ごめんね、セイラン」
「なにが?」
「『くだらない怪我』だなんて言ったこと。他にもいろいろ……あの日、僕は君に酷いことを言ったろ?」
「……それは、お互いさまだよ。僕の方こそ、ごめん。ずっと素直になれなかったけど、あの日の君のバジルは、素晴らしかった。嫉妬するくらいに…。本当は、君が言ったように悔しかったんだ、とても」
「僕も悔しかったんだよ。君が怪我をしたこと。一緒に舞台に立てなくなったこと。でも君の気持ちと一緒に舞台に立っているつもりだった。それなのに……君がなにも言ってくれなかったのがかなしくて、さみしくて……思ってもいないことまで言って君を傷つけた。君がいない間、ずっと後悔していた。もう終わりなのかなって。君は僕をもう許してくれないんじゃないかと思って、怖くてたまらなかった」
「それは僕も同じだよ」
「君の心臓の音が恋しいよ」
 君に会いたい、セイラン。
 とキールは言った。
 約七時間の時差を挟んで、僕はキールを抱きしめた。この夏の空間とともに。
 君が好きなんだ、と。


 僕はそれからJRに乗って大阪へ行き、そこから関西国際空港に移動して、無事にパリ行きのチケットを手に入れた。母に連絡をすると呆れていたが、じゃあ荷物を送ればいいのね?と言った声はやさしかった。ヴィンスはどうしたのかと訊かれ、僕はオースチンがとうとうあの世に逝ったらしいこと、ヴィンス自身はなんとかすると言っていたことを話した。無問題ね、と母は言って電話を切った。
 僕はロビーで再びキールに電話をかけた。これから半日以上かけてパリに戻ると言うと、キールは軽く咆哮し、寮の部屋のテオの荷物を全部外へ放り出しておくと宣言した。
 キレるんじゃないか?
 と訊くと、
 テオもきっと、いまは元どおりロビンと同じ部屋にいたがるだろうから大丈夫だと言う。どういうことか訊くと、テオのインスタグラムを見ればわかるよ、とくすくす笑った。テオのインスタなんか見てるのか?と訊くと、君がいつかシチリアに現れるんじゃないかって心配で見張ってたんだ、と言う。
 それから、テオが先日僕のカービィを送り返して来たことをキールは教えてくれた。だからカービィはいま、僕と眠ってるんだよ、とキールは言う。心なしか、僕はカービィに嫉妬を覚えた。
 僕らは帰ったら『Happy Together』のダンスを完成させることを約束し合って、電話を切った。パリで会おう、と。
 電話を切ると、ちょうどテオからメッセージが届いていた。そこにはテオとロビンがベッドの中で半裸でくっついている写真が添付されていて、
〝なにもかもおまえのせいだぞ!!サニー〟
 というメッセージが添えられていた。
〝お幸せに〟
 と、僕は返信を打った。


 翌朝、僕はパリに帰り着いた。日本から着の身着のまま、手ぶらでゲートを抜けた僕の目の前に、パリから出て行ったその日のようにファビアン先生が座っていた。僕を見つけても立ち上がりもせず、座ったままの先生の前に僕は歩いて行き、ゆっくりとお辞儀をした。
「帰って来ました。踊るために」
 先生は少しも表情を動かさなかった。なにも言わず、瞬きもせず、先生は僕をじっと見つめ、やがてのっそりと立ち上がると僕に背中を見せて歩きはじめた。僕はその背中について行った。
「踊れ」
 前を向いたまま、僕の方は振り返らずに先生はそう言った。
「踊ります」
 空港に満ちる喧騒の中で、僕は僕自身と世界に向かって、そう宣言をした。

Last Drive

Last Drive

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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