ゲルハルト・リヒター展
一
写真の構図をそのまま利用して描く場合であっても、そのピントはぼけている。モチーフとなる風景が明瞭でない分、非現実的印象は増すが正解となる風景の方は鑑賞者が想像する他ない。その運動に促されて、表現する側と鑑賞する側のどちらにも属していない「正しさ」を表現することが画家の狙いだったという認識は生まれる(フォトペインティング)。
かかる認識は「オイル・オン・フォト」の作品の方を前にした方がより際立つかもしれない。すなわち撮られたモノクロ写真の一部を絵の具で厚く塗り、抽象性の高い表現を施した記録物の、再現性に優れた機械的かつ化学的な生成過程と共に見つめる異物感はどっち付かずの別次元を求める画家の意図として鑑賞者の目に飛び込んでくるのだから。
他方、灰色のみで描いた「グレイ・ペインティング」の表現作品に物理的に現れた厚みある動静や濃淡で行われていること、また4900色以上の正方形のタイルをランダムに敷き詰め、それに近付き又はそれから遠ざかっていこうとする鑑賞者の立ち位置に応じて姿かたちを変えるカメレオンな色彩表現に認められる強い実験的な意識には、完成した作品がどこに展示されるかという点も十分に考慮されて、表現作品の両端に位置する表現者と鑑賞者の関係性が中性的に見つめ直される。何を描いたか、何を見たかったか。そういう歯車の噛み合わせの疑義が呈示されている。
写実に描いた幼き息子の肖像画を一旦は完成させた後で画面上のあちこちに手を加え、全体として把握できたはずの全容に亀裂を生む改変を画家は行ったりもしているから、鏡をそのまま用いたり又は作品をプラスチックのパネルで覆うことで鑑賞中の自分の姿と対峙する、その結果として自分自身が作品となったような意識に襲われて見る側の意識を大いにもつれさせる仕掛けにもフラットな関係性の構築に向けた意欲が窺える。
要するにそれらの作品はどこまでも「そこにあるのに、そこにない」のだ。
では人に見られる作品を制作する表現者が目指す地点としては矛盾すると思える「それ」を実践する、その動機は何だろう。東京国立近代美術館で開催中の『ゲルハルト・リヒター展』で拝見できる作品の数々を前にしてこの疑問は筆者の心中に深く根を張り、多大な興味を引き起こす大きな要因となった。
二
自作の大きく長細いへらのような道具であるスキージを用いて行うゲルハルト・リヒターの抽象画は矛盾する動きを画面上で行っているのを特徴とする(アブストラクト・ペインティング)。
すなわちモチーフを「描く」動作とモチーフを「削る」動作を一つの行為で可能にするスキージの機能性によって画家は画面上に意図しない偶然の要素を持ち込める。その具体的な効果として筆者が実感した所を記述すれば、どの箇所で物として存在する絵具が計算されずに削り落ちていった結果が生まれたかを鑑賞者の側でも正確に把握できない。だから残った色と残らなかった色で構成されるキャンバスを彷徨う「認識」は表現者も鑑賞者も完全には引き受けられない。そのためにかかる絵画が誰の表現物なのかと考える余地が生まれる。そのアンサーを巡って落ち着くことのない「限りなさ」が起動する。この点が、本展でも中心的な在り方を見せていた「アブストラクト・ペインティング」の肝となるポイントだと筆者は理解する。
ただし前述したスキージを用いる描き方という行為だけをピックアップすれば、そこでは描く行為と絵具を削る行為を同時に可能とする道具の物理作用が正しく働いている。かかる道具の選択を画家が行なっている。それ故に、絵具をどう描けば狙った通りの削り方ができるかという点を経験として身に付け難いのだとしても、アブストラクト・ペインティングが表現者の意図が全く及ばない偶然によって制作されたと主張するのは妥当でない。寧ろ結果として現れる画面上の表現の形は必然である、そう考える。
「なるべくしてなった」アブストラクト・ペインティング。こう捉えてこそ、見えるものがあるのでないか。
三
描かれるべき実像を持たないキャンバス上の色彩に飛び込んで鑑賞する側が好き勝手な解釈を施し、言葉をもって括ろうとするがその試みは成功しない。そう気付いた所から再び始まる、豊かで不安な最前線へと向かう冒険に鑑賞者の意識と認識が誘われる。そうして持ち帰ることができたものは当然に自分勝手な願望なのかも知れず、ひょっとすると人類普遍のイメージへの到達を果たしたのかも知れない。答え知れずのどっち付かず、けれど内心でドン、ドンと拍を打つ興味と好奇心だけが現実を動かしていく。
「何か」が描かれたのだろう確信だけは、はぐらかすことなく鑑賞者に直観させるそれ。
だから抽象表現は鑑賞していてとても面白いのだと筆者は思う。表現作品を構成する要素の全てが捧げられた空白には、しかしその内奥へと一歩でも足を踏み出す決意を固めた人の、その一生をかけても汲み尽くせない虚な意味の無限性が海の如く湛えられた場所がある。あるいは容易く死に又は容易く生まれる理想という名の可能性に満ちた一角があるのだと、少なくともそういう夢を捕らえるのに最も適した場所なのだと言い換えてもいい。『ゲルハルト・リヒター展』のチケットで無料鑑賞できる東京国立近代美術館の常設展のテーマであった『ぽえむの言い分』で言及されていたこと、すなわちある仕組みの元で色や形を掛け合わせてリズムを生み、未知の何かを、誰にも気付かれていないものを解き明かそうとする複雑な機能そのものを「詩」と表現するのが相応しいのでないかという点は、上記する抽象表現の魅力と響き合うと筆者は考える。
ゲルハルト・リヒターによるアブストラクト・ペインティングという技法が表現できるものの底の深さは、ホロコーストというテーマの元で描かれた「ビルケナウ」を鑑賞して実感する。
恐らくは収容所で亡くなられた人達を焼くための作業を遠くから隠し撮りしたものと推測できる写真が展示された会場内において、黒白を基調とする表現の深刻さに加えて画面上に混じる赤や肌色は人間の血や肉のイメージを喚起させる。より強烈だと感じたのは緑色で、ホロコーストというテーマに直接関係しないその色が人間社会の重大事に得体の知れない要素を呼び込み、画面上の凶暴さを増していく。そこに加わるスキージの引っ掻き傷の様な痕跡が取り戻せない痛みも伝える。
真四角な会場の、真向かいに位置する二面に展示された合計八枚の大型の絵画作品が飲み込んでしまう小さな写真たち。それらを鑑賞する人々を綺麗に映す一面張りの鏡が暴くその真実は、虚実の淡いなんて言葉で片付けられない。姿を見せないものによって証明された「現実」は総合的な作品として心胆を寒からしめる表現となっている。
人類社会で起きた重大事をテーマに取り上げてそれを作品として表現する時、表現作品を挟んで画家の欲と鑑賞者の欲が噴き出す。我がものとして事件を表現したい欲、その表現を評価して事件を多面的に転がしてみたい欲が事件の重大性にまで手を伸ばし、フィクショナルに解消してしまう。そうなると思い出したりして感じる痛みなんてどこにもない、事件が極めて平面的な事象に書き換えられてしまう。
それを忌避するのなら表現なんてしなければいいとも考えられるが、ゲルハルト・リヒターはドイツ出身の画家である。その画家が「ビルケナウ」を描いた。そこにある意味を無視することはできない。
作品として完成された表現がどれだけ意味不明であっても、「意味不明」という理解は生まれている。混乱といった言葉に置き換えてもいい表現行為の有意味っぷりは人が用いる言葉=意味認識に由来するから、その網の目で捉えられないものを見つける方が難しい。
スキージという道具の機能性を活用して必然的に達成する状態としての抽象性もそうで、偶然性に由来する絵画の自由ないし独自性を表現しようとしてそのための手段として主体性の放棄を試みようとするとき、それは表現技法そのものに焦点を当て、絵画の可能性を探ろうとする方法としての表現内容の把握の出来なさに帰着せざるを得ないだろう。そうすることで議論可能なパッケージングが果たされる。絵画はどうあるべきかという問題提起の代替物として、その中身が虚ろな作品の形を取るものになったとしても実践すべき切実な理由がここにある。
「ビルケナウ」が表現しようとしたホロコーストの事実を展示会場で引き受けられる者がいるだろうか。それを表現したゲルハルト・リヒターという画家の個人的な感情がその八枚の画面に表れているといえるだろうか。「そこにあるのに、そこにない」という打ち消しの試みが歴史的事実を生(なま)のままに取り扱い、鑑賞者を思い思いのままに佇ませてやいないか。無意識の回路を操る術を持たない私たちがフィクショナルに迫り、「ビルケナウ」という作品の現実に跳ね返される。それがホロコーストという二度と引き起こしてはならない悲劇を悲劇のままに救っている、そう考えることはできないだろうか。
四
導線が用意されず、見るべき作品の順番を来場者が自由に選択できる展示会場を彷徨いて、ゲルハルト・リヒターという画家が肉薄したものを見極めようと無駄な足掻きを試み、頭を悩ませて、いつしか自分自身に還っていく。画家と同じ「人」として、個々の「現実」を生きる者として。
本展においては「頭蓋骨」、「花」、その隣に展示される小さな「アブストラクト・ペインティング」を最初に鑑賞した方が、かの画家の挑戦をよりよく理解できたかも知れないと心から思った。ふくよかに過ぎる花弁の物質感と対比して際立つ、フォト・ペインティングによって描かれた頭蓋骨の静寂と周囲に漂う柔らかな雰囲気。それに呼応するかの如く命が生まれる原初の光陰を思わせる、スキージの痕跡が最も優しい抽象画との並びには画家個人の心情がたっぷりと表れていると感じた。花や頭蓋骨といった古典的なモチーフに憧れを抱き、他の「アブストラクト・ペインティング」の合間を縫って画家はこれらの作品を描いていたとパンフレットにも載っている。
「ビルケナウ」で積年の課題を果たしたと納得した画家はその後の抽象表現にスキージ以外の小ぶりなキッチンナイフなどを使用して豊かな色彩表現を行なっている。決して偶然とはいえない画家自身の動きの痕跡も画面上に残して、画家は描く行為を続けた。そしてある「アブストラクト・ペインティング」の作品を仕上げてから、油絵を描かない宣言をする。
変則的に配置された幾何学模様で緩やかな区切りを画面に生み、脆い炭素の黒煙が背景で踊っている様な擬似景色を楽しませてくれる2021年代に描かれたドローイングを見ていて強く感じるものを、ゲルハルト・リヒターという画家の絵画表現のイメージに落とし込む。そういう想像を行う。きっと、その湖面には何の変化も生じないであろう。その事実を永遠に、真摯に見つめたいと述懐する。そういう感傷に襲われる。
従来通りの絵画表現と絵画鑑賞の営みに挑戦する活動を続けたのだと思えて仕方なかった画家、ゲルハルト・リヒターの足跡。総合的に見てこそ迫れる生きた歴史の真相を是非、充実した常設展と共に展示会場で見て頂きたい。
ゲルハルト・リヒター展